1923年11月11日 山崎蒸留所創業。国産ウィスキーの歴史始まる

注釈

寿屋を経営する鳥井信治郎は、国産ウィスキーの時代が来ることを予見していた。

当時国内で販売されるアルコール飲料の半分が輸入洋酒という中、国産ウィスキーを発売すれば輸入赤字を減らせて国益を守れる。

このような国士的発想もあり、日本の風土では不可能だとの周囲の反対論を押し切って、ウィスキー醸造に力を入れた。

そして、赤玉ポートワインの大ヒットで得た儲けの殆どをウイスキー開発に投資し、京都の郊外、山崎にサントリー山崎蒸留所を開設した。 鳥井はウィスキー業にかける決意を以下のように語っている。

「自分の仕事が大きくなるか、小さいままで終わるか、やってみんことにはわかりまへんやろ」

その成果として、1929年に国産ウィスキー白札を世に出した。

「断じて舶来を要せず。吾に国産至高の美酒」

このような大仰しい広告を打ったが、焦げ臭いと不評で、売れ行きはかんばしくなかった。

このような失敗と試行錯誤を重ね、世に出たのが1937年の角瓶である。

ここに寿屋のウィスキーは、スコッチの亜流という低評価を覆し、大絶賛を受けた。

その後、戦時下の奢侈品制限をくぐり抜け、万人渇仰の美し酒と称されたサントリーウイスキーは世界に羽ばたいてゆくのであった。


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