1917年10月9日 坂田三吉八段が関根金次郎八段に勝利

注釈

坂田三吉は極貧の家に生まれ、就学出来ず、文字の読み書きも出来なかった。

一方で、独学で学んだ将棋に才気を発揮し、将棋大会があれば参加して優勝していた。

実戦の中で鍛え上げた力の将棋で、13年には七段に昇格。

銀に働き場がなく可哀想だと口にしたのが脚色され「銀が泣いている」と名言を残したとの逸話も生まれた。

15年には八段に昇格し、この日同じ八段で関東最強の関根金次郎と対戦。

東西の頂上決戦を制した。

当時の将棋の名人位は実力制ではなく政財界の将棋の後援者の推薦によって決まっていた。

坂田の名人昇格は確実かと思われたが、その後、金次郎の弟子で格下の土井市太郎に敗れ、名人の可能性を失った。

25年、坂田は講演者の推薦で名人を名乗ったが、東京将棋連盟が坂田の名人昇格を認めず、37年まで復帰が許されなかった。

戦後、日本将棋連盟は坂田に名人位と王将位を追贈している。


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