国際連盟との訣別

コラム

リットン報告書の衝撃

32年9月15日、日本は満州国を承認した。

東京は祝賀ムードに包まれ、国民は宮城前広場で祝賀の集いを開き、旗行列や提灯行列を繰り広げた。

東京朝日新聞は、このような楽観論を掲載している。

「冷ややかな理窟や観念論をもって満州問題を律しようとした国際間の偏見は解消して、同国を認めざるをえなくなるだろう」

ところが10月2日に公表されたリットン報告書は衝撃的であった。

報告書は満州国の民族自決や満州事変の自衛権といった、日本が第三国の干渉を免れる為の方便を全て否定した。

それだけでなく日本の満蒙権益に関しても極めて低い評価を与えた。

曰く、列国の承認は部分的に成功したに留まり、その承認による国際協定や了解も、正式に廃棄されるか他の方法によって消滅した。

こうした時勢の変化に関わらず、日本は満蒙に特殊権益があるとの態度を崩さない。

ついには条約に包含されない満鉄平行線敷設禁止を歴史的事実であると改変したと評した。

とはいえ、客観的に見れば、報告書は予想以上に日本に配慮した内容である。

日本の主張する中国の排日ボイコットの実態を詳細に丹念に調べ上げ、日中関係の妨げになるので抑えるべきであると進言している。

また、張軍閥の悪政を暴き、日本が如何に中国の混乱に苦しんできたか同情し、原状復帰を否定した。

これは、日本の手段は擁護出来ないが、正当性は日本にあるという印象を強く与えた。

報告書は満州問題の解決策として、満州に中国の主権下で広範な権限を持つ自治政府を設置するという構想を打ち出した。

現存する満州国については「醸成せられつつある一切の健全なる力」と評し、これを利用、拡張して、自治政府へと改編すべきだと提言した。

この報告書を読んだ誰もが日中和解の可能性を信じたが、日本はこれを拒絶した。

中国への不信

日本は何故リットン報告書を拒絶したのか。

先ず挙げられるのが、日本人の対中不信であろう。

外交官たちは中国の過激な外交姿勢を、民族性、国民性に求め、国際社会に対し、それを理解するように求めた。

内田外相も、満州国承認によって日中関係が調節不可能と解釈するリットン調査団を、以下のように断じた。

「未だ事態の真相を把握し得ざると同時に、支那人の国民性を解するに至らざるが為にして、右は承認を以て満州問題解決の関鍵とする我方の立場と根本的に相容れざるもの」

中国人の国民性に照らせば、もはや満州国という現実を中国に受け容れさせるしか解決策はない。

これは、中国との外交交渉を極端に嫌う姿勢の表れである。

外務省顧問を務めていた斉藤良衛は、中国との交渉について以下の意見を披瀝する。

満蒙権益に対する中国側の主張が、単純に条約の解釈の見解の相違であれば妥協の途はあるかもしれないが

「支那の執拗極まりなき排日観念がここに至らしめたるものなるを見れば、日支直接交渉は到底円満なる解決をもたらすこと能わずと断定せざるを得ず」

仮に交渉しても遷延され、中国政府は日貨排斥を扇動し、第三国の干渉を招き、日中関係はこれにより益々紛糾するだろう。

「一歩を譲りて支那政府が我主張を容認すと仮定するも、支那はその約諾を忠実に履行するものにあらず。

一旦有効に成立したる約束も、支那の内政上の事情または対外懸引等の為、一片の反故となりたるもの、過去においてその例極めて多い」

もはや中国に条約無視の態度を改めさせることは不可能であると断じた。

斉藤の意見は、当時の日本人の対中不信を反映したものである。

なお、斉藤は満州国を解消出来ないもう一つの理由を挙げている。

満州国政府には、反張親日の官民実力者が日本の活動に呼応して多く参加している。

「もし満州国にして解消し、満蒙が支那の統治の下に立つべしとせば、彼らは地位と財産は勿論、生命をすら一切を喪失し、親日家は一掃せられ、我満蒙経営は将来において事変前よりも更に幾段の困難を見ざるを得ず」

幻想

リットン報告書は、満州自治政府案を補完する為には、強固な中央政府による実行が必要であると説いた。

それ故に連盟による中国再建への援助、国際協力が必要であるとした。

これに対し、重光葵駐華公使は中国再建案について、今まで連盟は技術方面において中国を支援してきたが

「支那政局の不安定、責任ある政府の存在せざること等の為、何れも何ら成績を挙げておらず、これらの機関は全て単に支那のある種の対外宣伝に使用せられ来れるに過ぎず。

思うに支那の如き根強き民族を擁し、長き歴史及び習慣を有する国家が崩壊の過程にあるに当たりては、単に支那政府の統制の下にある外国人顧問の力くらいにては、何とも為し得ざるは当然のことなり」

等、非現実的であると苦言を呈している。

この点に関しては英国も、中国に安定した中央政府が無い以上、連盟が中国に大規模な財政支援を行うことは無意味であると考えていた。

中国に共和制が成立した後、内戦は20年以上続き、軍閥が中国を食い物にしてきた。

これは中国人のメンタリティが3000年もの間、ほとんど変わらず、民主主義に適した状態から程遠い状態にあることを指す。

中国の変化は外から急激にもたらすのではなく、内から自発的かつ漸進的に進むのを待つしかない。

連盟や外部の支援によって中国の再建を図るというリットン案を、現実に即していない「幻想」であり「無知」とまで断じている。

一方で中国もリットン報告書に厳しい評価を与えた。

リットン調査団は汪兆銘との、ある程度の合意に基づき報告書を作成したが、日本が積み重ねた既成事実を重視し過ぎている感がある。

満州を自治政府にするのは良いが、日本人顧問が大半を占め、しかも定住権や商租権を認めるなど、今までにない苛烈な要求である。

蒋介石はリットン報告書の解決策が満州における日本の力を重視する提言であるとし、国民は納得しないので修正を求めるべきだとした。

以上のように、リットン報告書の提案は実行性に疑義がもたれており、日中双方にとって丸呑みは厳しいものであった。

松岡洋右

10月11日、日本政府はリットン報告書を審議する連盟理事会に向け、連盟代表部全権に松岡洋右を抜擢した。

松岡は英語が堪能かつ雄弁で、外務省の広報を務めたことがあり、特使として上海事変の停戦交渉の活躍した事も評価されていた。

連盟における日本の立場が今までにない程悪化した中で、日本政府は松岡の異才に賭けた。

ただ、松岡はその豪放な性格から放言癖があり、上海においても、満州問題は既決しただの、九カ国条約は空文に帰しただの、日本の軍事行動は膺懲を目的とするなどと述べている。

対連盟外交に機微が求められる中、松岡という人選がどのような影響を与えるのか、未知数であった。

さて、松岡はジュネーヴへ出発するに先立ち、連盟における見通しを記者から質問され、以下のように述べた。

「私は見通しはつかないが、少くとも斯う云ふことは云へる。

私自身は連盟を脱退するとか、脱退しないとか云ふやうな事は、まだ私の頭に浮べていない。

何故かと云へば、私は満州国問題に付ての日本人なり、日本国の関係なりは正しいと信じて居り、之を非難する人があらばそれはする人の方が間違って居ると思つて居る。

其処には、誤解があるのではあるまいか。

誤解がありとすれば、之を解くに、最善の力を用いなければならぬと思ふだけだ」

松岡はこの時点では連盟脱退など考えておらず、元老西園寺公望に対しても、必ずまとめて帰ってくると約束した。

それは日本政府も同様であった。

10月21日、内田康哉外相は松岡に対し、対連盟外交の訓令を手交した。

満州問題の解決は日満議定書の精神により解決を図ることが国論の一致したところであり、この方針を以て臨むべきである。

もしこの方針に連盟が追従しない場合、この方針を強いるのではなく

「連盟側をしてある程度にその面目を立てつつ事実上本件より手を引かしむる様誘導すること」

しかし、連盟が日本を連盟規約違反国であると断定したり、日満議定書を否定する場合には争い、連盟側を翻意させるように努力すること。

それにも関わらず目的が達成出来ない場合は、改めて請訓するように指示した。

対日感情の悪化

ジュネーヴの連盟代表部は、連盟本部が満州問題から適当な理由をつけて引き上げたいという空気を観測していた。

しかし満州国単独承認が、この気分を一変させた。

リットン報告書は満州問題を日本と妥協しつつ解決に向かわせる提案であるが、それを知りながら日本が満州国を承認したのは露骨な挑発である。

日本は中小国の中で比較的穏健なチェコ代表の理解を得ようと試みたが、チェコはこの問題で日本を支持する欧州の国はないと断じた。

欧州の中小国は自国の安全保障を国際連盟に委ねている。

その連盟の原理原則を破壊しかねない日本の行動を支持する国はない。

チェコ代表は欧州中小国と日本の立場の違いを、正面衝突ではなく「行違い」であると表現した。

国際連盟の多数派である欧州の中小国の反発が予想される中、連盟代表部の長岡春一駐仏大使は、このように意見した。

連盟の空気はリットン報告書の骨子である満州自治政府案を日本に受諾させることであり、中小国は満州国承認の取り消しを勧告をするだろう。

もし交渉が行き詰まるならば連盟を脱退するしかないが、日本の将来の大局から考えれば、脱退は容易に行ってはいけない。

「よって我が方抗争の結果、連盟側において当方の主張に耳を傾くるか如き形勢に立ち至らんが我方既定の方針はこれを堅持しつつ、他方連盟の面目を立て、時日の経過により事件の最終的決定を遷延せしむる様努力し、以って当面の時局を打開する事然るべし」

このように遷延策を取って、連盟の面目を立てつつ、連盟の空気を緩和すべきだと進言した。

一方、日本からジュネーヴの道中にある松岡は、ソ連、ポーランド、ドイツを通過する際、当局に満州国承認を勧めて回っていた。

だがいずれの国も、口々にリットン報告書に基づく解決以外の方法は無いとし、日本の立場は苦しいものであった。

11月18日、ジュネーヴに到着した松岡は、直ちにエリック・ドラモンド連盟事務総長を訪問。

日本が満州国に与えた承認と相反するような如何なる考察に賛成する余地がないこと。

日本国民は満州問題に全てを賭けており、連盟が満州国の存在と相容れない決議をした場合には、脱退もありうると明言した。

ここに連盟は、日本が妥協するかもしれないという楽観論を破棄せねばならなくなった。

こうした情勢下において、運命の連盟理事会が開催された。

連盟理事会ー松岡の論戦

11月21日、日中双方がリットン報告書への意見を持ち寄り、理事会が再開された。

理事会の議長はアイルランドのデ・バレラが務めた。

なお、日本代表部には松岡、長岡、佐藤尚武駐ベルギー大使、松平恒雄駐英大使、吉田茂駐伊大使ら外交官だけでなく、ジュネーヴ軍縮会議随員の建川美次陸軍中将、永野修身海軍中将、石原莞爾大佐も参加している。

松岡はリットン報告書の結論を不十分かつ不適当であると断じる。

リットン報告書は中国の混乱についてかなり詳細に記しているが、全体としては楽観に行き過ぎており、現状はワシントン会議より悪化している。

中国は無秩序であるばかりか共産主義の脅威に晒され、組織ある国家ではなく、崩壊状態にある。

31年9月18日の柳条湖事件はその破裂点に達したものである。

外国人の生命財産は危機に瀕しており、諸外国が有する中国に対する特権の行使は、これを継続せざるを得ない。

満州は歴史的・地理的に特殊地域であり、日本の満州における権益は世界に類例ない重要かつ莫大なものである。

日本の権益が軍事的攻撃を受けた場合、日本には自己防衛する権利、自衛権を行使する権利がある。

権利の行使は国家が自己判断出来るものであり、その自衛手段は危機に晒された権益の重要性によって変わる。

また、満州国は張政権の圧迫に対する満州人の自発的な分離運動の結果であり、満州国に承認を与え、発達に協力する事こそ唯一の解決策である。

「今になって、これ以外の解決策に考えをめぐらすだけでも極東の時局は重大な動揺を余儀なくされるであろう」

と述べ、この点に関しては日本は何ら考慮の余地がないと言明。

満州の国際管理案に至っては、現実の事態に適合しておらず、現状復帰よりも酷い検討の価値が無い案だと断じた。

以上を踏まえ、理事会は報告書を研究するにあたり極東の事態を考慮すべきと訴え、リットン報告書の解決原則を受諾しなかった。

連盟理事会ー顧維鈞の論戦

一方、中国代表はパリ講和会議やワシントン会議の代表を歴任した顧維鈞を立てて反論した。

顧は中国の実情が日本の言う通りだとしても、軍事占領を奉天に留めずに全満州に及ぼした日本の武力侵略は理由づけられるのかと問う。

そして、中国統一の最大の難関は日本の妨害であると指摘した。

日本の伝統的な大陸政策は中国から始まり、満蒙から東洋に広がり、これこそが世界の真の脅威である。

排日ボイコットは中国の自衛措置であり、上海におけるボイコットは日本の戦争行為に対する報復措置だ。

柳条湖において中国軍が鉄道を爆破したとする日本側の主張は侵略の口実に過ぎない。

満州については、歴史的に中国の一部である。

中華民国誕生以前から、満州は他の省と同じように統治されているし、中華民国は満州族や蒙古族の領土から構成されている。

九カ国条約も全中国の領土的統一を維持することを基礎としている。

満州を含む中国は一つの国として承認され、国際社会に組み込まれている。

そこで生まれた満州国は、日本が勝手に作った傀儡国家に過ぎない。

満州国の独立運動には日本軍の存在と官憲の活動が不可欠であり、自発的な運動ではないのだ。

連盟は迅速に有効な措置を取るべきであり、もし遅延すれば東北部の中国人に悲劇が訪れるだけでなく、連盟に対する信頼を失わせると力説した。

なお、中国はリットン報告書に関しては前向きに応じる姿勢を見せたが、安全保障を考慮すべきだと即時承認を与えなかった。

日中は非難の応酬を繰り返し、もはや理事会においてリットン報告書を審議するのは不可能となった。

11月28日、バレラ議長は満州問題に連盟規約第15条を適用し、総会の審議に付託することを提案。

日本は棄権したが、全会一致で採択され、舞台は連盟総会に移った。

臨時総会ー日中論戦

12月6日、連盟臨時総会が開催された。

その中で日本は中国を始めとする中小国の猛烈な批判に晒された。

会議劈頭、中国代表は3月11日の総会決議後、事態は何ら改善されず、日本は撤兵や事態不拡大の義務を果たさずに満州問題を処理したと指摘する。

リットン報告書は公平な情報であり、この報告が満洲国の解消、日本軍の撤退を要求した以上、その実現は総会が行うべきである。

総会は日本を連盟規約違反、九カ国条約侵犯であると宣言すべきだ。

日本軍を鉄道附属地内に撤兵させ、満州国とは何らの関係を結ばず、その上で早急に規約第15条4項に基づき、紛争の最終的解決の報告書を作成・公表するよう要求した。

更に中国代表は、日本は満州を生命線と呼ぶが、先の対戦で苦痛を受けた国にとって「連盟は近代文明の生命線」であると強調。

連盟規約の精神に則って解決することを訴えた。

対する松岡はリットン報告書が中国の将来に楽観的であることを指摘する。

何故、日本が満州問題を連盟に持ち込まなかったのか。

それは満州が変則的な性質を持つ故に、連盟の保護が期待出来なかった為である。

連盟が前提とする国際社会の枠組みは、必ずしも東アジアの現実世界に、そのまま当てはまらない。

中国における列国の地位は世界に類例がないほどに例外的であり、連盟の権威は満州に及んでいない。

連盟が今の組織のままでは、危機が切迫する満州において有効な保護は期待出来ないし、中国の紛争を解決することは不可能である。

その上で、日本は中国のボイコットに自衛措置を取ったまでであり、満州国の独立に関しては何ら責任がない。

極東の事情を考慮すれば、即時承認が解決策であると主張した。

最後に、総会の提案は極東の平和を維持出来るものでなければならず、その実行の責任を連盟が負うべきだと訴えた。

臨時総会ー中小国と大国

両国の演説後、連盟各国が演説を始めたが、討論をリードしたのは中小国であった。

チェコ代表は、満州に連盟規約が適用出来ないとの主張を承認すれば、連盟規約の2つの本質的な原則である第10条と第12条は意味を奪われると強調した。

また、松岡の理論に基づく行動は不戦条約侵犯であり、連盟規約の大部分を全て否定するものであり、これを認めれば連盟は崩壊すると批判した。

満州国については連盟規約第10条違反であると断言し、既成事実は世界平和の為に最も危険なるものであると非難した。

スペイン代表は日本の行動を例外的と認めれば今後一切の出来事は例外的事件となると述べ、法と秩序の維持を説いた。

他の大部分の国も連盟の根本原則に妥協はないとし、日本を糾弾した。

そんな中、12月7日、演壇に立ったジョン・サイモン英外相の演説が世界の注目を集めた。

サイモンはリットン報告書の公正さを讃えつつ、本文を引用し、満州が世界に類のない多くの特性を持つ複雑な地域である旨、注意を喚起した。

また、中国の排外的傾向が中国の進歩を阻害したという報告にも注目すべきと指摘する。

その上で、批判ではなく妥協に向けて実際的な努力が為されるべきだとし、日中直接交渉を支持した。

この演説を聞いた松岡は「自分がここ3週間言いたいと思っていたことを見事な英語で言ってくれた」と絶賛した。

その後、英連邦のカナダ、オーストラリアが立て続けに日本を擁護し、中小国は英国が連盟の原理原則を無視するのではないかと衝撃を受けた。

独仏伊ら大国も、満州問題は複雑かつ特殊であると強調し、双方の責任を不問として、実際的な立場から妥協が図られるべきだと主張した。

十字架上の日本

12月8日、各国の演説があらかた終わり、最後に再び日中代表が演壇に立った。

極めて日本に不利な状況下、相当厳しい決議が出るやも知れず、開会前から異様な緊張に包まれていた。

この日、松岡は草稿を持たずに登壇し、簡易的なメモを片手に大演説を振るった。

松岡は、先の演説で中国代表が日本は軍閥の支配下にあると言及した事に対し

「日本には今日、軍閥だとか、軍権階級だとかいうものは絶対に存在しないのである」

と断言し、荒木貞夫陸相は軍閥の支配者ではなく、天皇を頂点とし、総理大臣がいて、国務大臣の一人に過ぎないと説いた。

更に満州事変に対しては、以下のように擁護した。

「或る者の愚挙と敵意ある行動とが重大な結果となったにも拘らず、その或る者を保護してやろうとするのは、果たして一人隣邦の権益のためのみならず、世界の平和のために、為すべき連盟の義務であろうか」

松岡は、極東の安定は日本が担保してきたのであって、日本は「極東を救うために腕一本で闘っているのだ」と熱弁を振るう。

連盟に米ソが加入せず、連盟が万全な状態で極東に臨めない現実を鑑み

「日本が連盟規約に何ら伸縮性を帯ばしめずして、これに裁かれることは絶対に不可である」

これは常識的で分かりきった話であると断じた。

松岡はリットン報告書の解決策を容れ、連盟の理想を厳格に適用した場合、極東は更なる大混乱に陥るであろうと説く。

そして最後に、このような文言で演説を締めくくった。

「たとえ世界の輿論が、或る人々の断言するように、日本に絶対反対であったとしても、その世界の輿論たるや、永久に固執されて変化しないものであると諸君は確信できようか。

人類はかつて二千年前、ナザレのイエスを十字架にかけた。

しかも今日如何であるか。

諸君は所謂世の輿論とせらるるものが誤っていないとは、果たして保証出来ようか。

我々日本人は現に試練に遭遇しつつあるのを覚悟している。

ヨーロッパやアメリカの人々は今、二十世紀における日本を十字架にかけようと欲しているのではないか。

諸君、日本はまさに十字架にかけられんとしているのだ。

しかし、我々は信ずる。

確く確く信ずる。

わずかに数年ならずして、世界の輿論は変わるであろう。

しかしてナザレのイエスが遂に世界に理解された如く、我々もまた世界によって理解されるであろうと」

松岡のあまりの迫力に場内は拍手に包まれ、サイモン外相ら英仏代表は松岡に握手を求めたという。

随員の石原も興奮気味に「もうこれでいいのだ、よくやってくれた」と感慨した。

日本をキリストになぞらえて日本の孤立を宣言した演説は日本国内で持て囃され、松岡は一躍国民的英雄となった。

ただし、この演説が翌日の連盟決議にどこまで影響を与えたか不明である。

ペルー四原則

日本は連盟において、満州事変を法的な意味での戦争であると主張していない。

満州に対する領土的野心も否定し、日中開戦の危険性はないと説明し続けた。

これは国際法上の戦争となれば、日本が中国に有する領事裁判権等の権益や、国内法による契約に基づく利権関係が消滅するからである。

また、連盟規約や不戦条約は条文に「戦争」の用語を用いて明確に制限・禁止しており、正面から諸条約に抵触する恐れがあった。

戦争状態が存在しないのであれば、日本は如何なる根拠で満州で武力を行使しているのか。

その根拠が自衛権であった。

ある時は中国軍の先制攻撃に対する反撃として、ある時は中国の排日運動から居留民の生命財産や条約上の正当な権益を保護すると称して。

日本政府は柳条湖事件、吉林出兵、錦州爆撃、北満州進出、上海事変といった一連の軍事行動を全て自衛権で説明している。

自国民が他国の国際法違反により損害を受け、その国から救済を得られない場合、国家は自国を保護する権利を有するというのは、国際法の大原則である。

自衛権はその大原則の下、主権国家固有の権利として、全ての条約に暗黙的に包含されている。

不戦条約締結の中においても、自衛権の行使は領土外にある特殊利害地域に及び、国家は自衛権行使を判断する権利があるとされた。

当初、連盟理事会は日本の主張を全面的に容れ、日本の自衛権を了承していた。

一方、安全保障を連盟に依存する中小国にとって、大国の意志を強要し、軍事行動を正当化しうる自衛権は危険極まりないものであった。

日本を始めとする大国は満州における戦争状態の存在を否定しているが、実質的に戦争と何ら変わりない状況が発生している。

この矛盾に直面した連盟は、連盟規約や不戦条約と自衛権の関係性に鋭く切り込んでいった。

31年12月10日、連盟理事会においてペルー代表は、弱国の生存と権利保全の為の四原則を提案した。

・自国民の生命財産の保護を確保する為に国が有する権利は、他国の主権を尊重した上で行使されるべきで、如何なる国も保護を行う為の警察行為を目的として、他国の領土に軍隊を派遣する権利を有さない

・条約履行を確保するために他国の領土を占領する権利はない

・領土侵入後、二国間に存在する条約に関して直接交渉を他国に強要する権利はない

・他国に対する権益を有する場合においても、その国の領土を占領し、財産を差し押さえる権利はない

つまり、自国民の生命財産の保護の為に他国領土内で自衛権を行使することは出来ないとの解釈である。

ペルー四原則は連盟における満州事変をめぐる議論で度々引用され、中小国の支持を集めた。

自衛権の違法性

32年3月11日、連盟総会において連盟規約又は不戦条約に反する手段によってもたらされたいかなる状態、条約、協定を承認しないことは連盟国の義務である旨が決議された。

所謂、不承認主義である。

この総会の討議の中で、デンマーク代表が以下のように演説を振るっている。

もはや、国家が単に宣戦しないというだけで連盟規約及び不戦条約に違反していないと解釈することは不可能である。

連盟規約及び不戦条約は法的な戦争を禁止したのみならず、全ての侵略行為、そして国家政策の手段として平和的手段以外のいかなる手段に訴えることも禁止した。

連盟規約第12条は紛争の平和的解決を以下のように規定している。

「連盟国は、連盟国間に国交断絶に至るの虞ある紛争発生する時は、当該事件を仲裁裁判若は司法的解決又は連盟理事会の審査に付すべく、且仲裁裁判官の判決若は司法裁判の判決後又は連盟理事会の報告後三月を経過する迄、如何なる場合に於ても、戦争に訴えざることを約す」

また、不戦条約第2条は国際紛争解決の方法を以下のように規定している。

「締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争又は紛議は其の性質又は起因の如何を問はず平和的手段に依るの外之が処理又は解決を求めざることを約す」

デンマークの主張は、日本の自衛権行使が不戦条約の言うところの「平和的手段」ではないと暗示している。

スウェーデン代表も、武力行使を禁止する連盟規約や不戦条約は、紛争当事国が戦争と称すると否とを問わず有効であると主張。

自衛権の観念が拡張すれば国際秩序の維持は困難になるだろうとし、他国の領土において軍事行動を行うことは連盟規約・不戦条約違反であると認めるべきだとした。

エストニア代表は、連盟規約・不戦条約締結後は他国領土の占領による紛争解決を許さず、これを正当化する自衛権の広義解釈は承認できないと論じた。

メキシコ代表は、主権の尊重と領土不可侵、武力による現状変更に承認を与えない事は国家の最低限の要求であり、国際法に基づいて国際秩序を維持すべきだと主張。

スペイン代表も、軍事力や、連盟規約・不戦条約違反により変更された主権の事実は承認出来ないと続いた。

チェコ代表は、他国の領土主権を尊重し、武力を紛争解決の手段として用いないという連盟規約10条、第12条に日本は従う義務がある。

中国におけるボイコットの事実を認めつつ、善後処理は連盟に任せるべきだとした。

以上のように、満州における軍事行動は合法的な自衛措置ではないと見做された。

日本は現実の政治に沿うように自衛権を無限に拡大解釈し、自衛の名の下で際限なく帝国主義的政策を遂行してる。

これが許されるのであれば、世界から戦争が無くなるわけがない。

自衛行為にも限度があるはずなのだ。

こうして、連盟規約及び不戦条約によって国家主権を制約し、戦争を明確に制限・禁止されるべきとの論調が世界の大勢を占めた。

二つの総会決議

松岡が如何に大立ち回りしたとしても、自衛権に対する疑義は覆らなかった。

今総会においてもスウェーデン代表は、他国の混乱は戦争や領土併合を正当化し得ないと断じた。

ギリシャ代表は、自衛権の定義は不可能としつつ、その解釈は連盟総会や理事会の中で練られ、連盟規約により規定されたと指摘する。

つまり、一国の主張する自衛権が他国の弁駁を受ければ、総会または理事会に付せられ、連盟国に議論・検討されることを回避出来ない。

そして、連盟加盟国である以上、理事会・総会の評価には服する義務があるのだ。

また、自衛権は必ずしも戦争に訴える事が出来る権利ではなく、即時排撃の明白な危機がある場合のみ行使し得る。

自衛行為に関しても攻撃の程度と均衡が取れる手段であるべきで、危機の程度に比例する範囲内のみ認められるのだと主張した。

なお、ここで重要なのは、日本の自衛権は行使の是非ではなく、その範囲の逸脱を問題視されているという点である。

いずれの国も、リットン報告書を参考に、中国の一方的な条約破棄や、政府が排外思想を扇動して組織的ボイコットを行なっている事実を認めた。

つまり、日本の自衛権発動の根拠となる中国の違法行為の事実は承認され、中国の主張する条約の不当性や日本の侵略主義は議論から排除された。

中小国は、その敵対行為に急迫性を認めず、日本の自衛措置は均衡性を欠いているという論理で批判を繰り返した。

12月7日、連盟総会において二つの決議案が提出された。

まず、スペイン・スウェーデン、アイルランド・チェコ4ヶ国共同の決議案である。

その内容は、31年9月18日以降の日本の軍事行動は自衛措置としては認められない。

また、満州国政権は日本の介入により成立した傀儡国家であり、それを承認することは国際条約の義務と相容れない。

連盟総会は紛争を解決する為に米ソの協力を要請し、十九人委員会への参加を要求するという強硬案であった。

4ヶ国は連盟規約の原理原則を重視し、連盟の権威が揺らがないように紛争を処理しなければならないという共通意識を有していた。

極東問題を欧州問題と同様の規範で処理しなければ、極東の危機は欧州の危機に結びつく。

このような危機感を、連盟の、特に欧州の中小国は抱いていたのである。

一方、12月9日、チェコとスイスが共同し、以下決議案を提出した。

リットン報告書と総会の討議を踏まえ、十九人委員会に審議を付託し、速やかに満州問題解決に関する提案を起草するよう求める。

総会においては、満州事変や満州国の是非に関しては判断せず、十九人委員会の決議案を待つという穏当案である。

総会は二つの決議案の内、より穏健な後者を採択し、前者に含まれた対日非難は封じられて、終了した。

楽観

日本にとって絶体絶命と思われた連盟総会であったが、蓋を開ければ何ら厳しい決議は採択されず、十九人委員会付託に落ち着いた。

中国は4ヶ国決議案が採択されなかったことに失望し、大国が中国を圧迫していると不満を漏らした。

内田外相も連盟総会は比較的日本に有利に経過したと認識し、連盟代表部に日本の立場を極めて適切に表明したと感謝の電報を送っている。

12月10日、サイモン英外相が松平恒雄駐英大使に対し和協委員会案を提示した。

これは十九人委員会に紛争当事国である日中両国と連盟非加盟の米ソを招請し、一挙に満州問題を調停しようという案である。

宥和的な列国や中立的なソ連との外交関係を重視し、連盟規約の原理原則に固執する中小国を抑え込み、満州問題の妥協案を作り上げる。

これこそ当時の日本が取り得る唯一の打開策であった。

連盟代表部の外交官だけでなく、随員の建川も和協委員会案に賛同し、松岡は英国の提案を受け容れるよう本国に具申した。

ところが内田は和協委員会案を拒絶した。

その理由は、米国が会議に参加することで中国内の親米派が勢いを持ち、直接交渉に応じなくなるのではないかと危惧したからである。

内田は米ソ招請によって中国の他力本願を刺激され、満州問題はより複雑になるとし、これを愚策であると断じた。

そのような危険を冒さずとも、十九人委員会で英国が満州問題を調停してくれるだろうと楽観視していたのかもしれない。

総会における英国の態度を見れば、そのような楽観を抱くのもやむを得ないだろう。

だが、英国は対日宥和を改めつつあった。

サイモンは連盟決議に失望した中国に対し、以下のような所信を述べている。

実際的な解決に向け、英国はまず和解の途を試みるが、それに失敗した場合は如何なる強硬な決議にも同意する用意がある。

和協手続き

十九人委員会は上海事変を巡る臨時総会で設置された委員会である。

構成国は紛争当事国である日中を除く連盟理事国代表と総会議長、秘密投票で選出された6ヶ国からなる。

その役目は、上海事変の停戦の確定以外にも、連盟規約第15条3項の和協手続きを担った。

「連盟理事会は、紛争の解決に力むべく、其の努力効を奏したる時は、其の適当と認むる所に依り、当該紛争に関する事実及説明並其の解決条件を記載せる調書を公表すべし」

つまりリットン報告書と日中の意見書及び連盟総会の討議を併せて審議し、紛争を平和的に解決することが可能な和協の条件と手続きを定める事を負った。

12月12日、十九人委員会は総会に提出する報告書を起草する為に、英・仏・スペイン・チェコ・ベルギー代表を委員として選出した。

スペインとチェコは総会において度々日本を非難し、先の4ヶ国決議案を共同提出した国である。

サイモン英外相は十九人委員会の見通しについて、中小国の委員たちは皆、過去の事実を重んじる傾向にある事。

英国は中小国を抑える努力をするが、この為には中小国が求める米ソ招請を日本が妥協して容れる必要があると説いた。

だが、日本はサイモンの提案に応じる事なく、12月15日に決議案の草案が完成し、日中両代表に通告された。

草案は第一、第二決議案と理由書からなる。

まず、問題解決の基礎を原則としてリットン報告書に置く。

満州事変の事実問題は第一章から八章までを基礎とし、また解決方針は第九章を基礎とし、第十章の提議を参考とする。

更に、本案処理の基準を32年3月11日の総会決議案とし、連盟規約・不戦条約・九ヶ国条約を尊重する。

紛争を解決するために、十九人委員会から委員を選出して和協委員会を設置し、日中両当事国と協力して紛争を解決する。

また、和協委員会は米ソを招請する交渉も同時に担う。

そして、この決議の理由書第9項の中でリットン報告書を引用し、31年9月18日以前への原状復帰も、満州における現制度の維持・承認も解決方法と認めないと断言した。

日本を直接的に非難するような表現こそ抑えられたものの、満州国不承認は日本の主張を真っ向から否定するものであった。

宥和の終わり

英国も参加していた起草委員会において、何故日本が受け入れ難い決議案が作られたのだろうか。

英国にとって東アジアの大国である日本との協調関係は重要であるが、連盟もまた重要な機関であった。

連盟創設当初、英国は連盟を米国と提携する媒体程度としか見ておらず、しかも米国の不参加によって連盟の価値を見失った。

だが、ロカルノ条約が連盟と結びつくと、英国の連盟観は一変する。

英仏独は連盟理事会を半ば定例化されたロカルノ条約会議場として関係調整の場に活用し、独仏緊張は解消されていった。

また、連盟総会には欧州各国の首相・外相が参加する事から、欧州外交の中心に位置づけられた。

更に連盟は、英国が直接利害関係を有さない地域の紛争調停や政策介入にも有効に働いた。

英国は連盟に常設の国際会議場としての価値を見出し、外交の重要な柱とし、国際機関としての連盟の権威を擁護した。

そんな英国にとって、連盟を構成する中小国の動向は無視し得ないものであった。

十九人委員会の中小国は、諸条約を無視する日本に対する非難を決議案で表明しようと考えていた。

英国は日本に配慮してこの強硬意見を抑えようとしたが、英国の調停力を以てしても、中小国が満足しない決議はもはや成り立たない情勢であった。

ここに英国の対日宥和は終焉を迎えたのである。

決議案の修正

十九人委員会で起草された決議案は、連盟の原則を擁護しつつ対日非難を避けるという、大国と中小国の妥協の産物であった。

だが、満州国を明確に否定した決議案を日本が呑めるはずもなかった。

12月17日、内田外相は決議案に対し以下の修正を要求した。

新設される和協委員会は日中交渉に関与すべきではなく、その任務は日中直接交渉の開始を促す努力に留めるべきである。

和協委員会への米ソ招請は事態を紛糾させるだけであり、連盟に何ら義務を負わない非加盟国の参加は、連盟規約上疑義がある。

紛争解決にあたってはリットン報告書第九章の原則を基礎とせず、第七章・八章を除く事実関係を考慮する。

また、満州国の存在を否認するような決議は一切認められないので、理由書第9項は全面的に削除すること。

このように、日本は核心的な部分で決議原案と真っ向から対立した。

この核心は連盟の根本原則に関わる問題であり、十九人委員会は日本が何ら連盟の精神を尊重していない事実に直面した。

イーマンス議長は日本のあまりに非協力的な姿勢に、妥協の余地は見出すことは不可能であると遺憾の意を表明。

全世界の平和に対し責任を有する大国の取るべき態度であるのかと、日本に反省を促した。

日本と中小国との間に立って調停の役割を果たしてきた英仏ら大国は、対日譲歩か連盟原則擁護かの究極の選択を迫られることになる。

そして、大国は確実に後者に軸足を移し、日本は急速に不利な立場に追い込まれていった。

12月20日、十九人委員会は日本の修正案を審議したが、妥結の望みはないと判断した。

そこで翌1月16日まで休会し、その間、イーマンス議長とドラモンド事務総長に当事国との折衝を委任して、解散した。

この時点で日本はまだ、連盟から譲歩を引き出せると考えていたが、もはや連盟の対日譲歩は限界に達していた。

そこを日本は見誤った。

連盟規約第16条1項

十九人委員会の和協手続きは、日本の非妥協と英国の態度硬化により失敗する可能性が高まった。

その場合、十九人委員会は連盟規約第15条4項に基づいて勧告書の作成に入る事になっていた。

「紛争解決に至らざる時は、連盟理事会は、全会一致又は過半数の表決に基き当該紛争の事実を述べ、公正旦適当と認むる勧告を載せたる報告書を作成し之を公表すべし」

勧告書は連盟自身が紛争解決の便宜を図るものであり、この勧告応諾時の義務は連盟規約第15条6項にある。

「連盟理事会の報告書が紛争当事国の代表者を除き他の連盟理事会員全部の同意を得たるものなる時は、連盟国は、該報告書の勧告に応ずる紛争当事国に対し戦争に訴へざるべきことを約す」

そして、この勧告を無視して戦争に訴えた場合、規約第16条1項の経済制裁が発動する。

「第12条、第13条又は第15条に依る約束を無視して戦争に訴えたる連盟国は、当然他の総ての連盟国に対し戦争行為を為士たるものと看倣す。

他の総ての連盟国は、之に対し直に一切の通商と又は金融上の関係を断絶し、自国民と違約国国民との一切の交通を禁止し、且連盟国たると否とを問はず他の総ての国の国民と違約国国民との間の一切の金融上、通商上又は個人的交通を防遇すべきことを約す」

ここに日本は連盟の集団安全保障に直面する事になった。

規約第16条は軍事的抑止力を有さない連盟の唯一の対抗措置であり、伝家の宝刀である。

戦略物資や輸出産業の原料、市場ともに海外に依存する日本にとって、経済制裁は死活問題である。

しかも当時の日本は未だ恐慌の痛手から回復しておらず、制裁となれば致命的なダメージを負うことが容易に想像された。

制裁の可能性

日本にとって連盟の経済制裁発動は最悪の事態である。

ただし、当時の国際情勢を鑑みるに、経済制裁が本当に現実的であったのかというのは、非常に怪しいものであった。

日本のような大国に強制手段たる経済制裁を発動すれば、強烈な反発を招き、戦争を誘発しかねないのは常識であった。

よって、経済制裁の可否は日本との戦争を覚悟出来るのかという問いでもある。

まず、英国の事情を見よう。

1929年、英国に世界恐慌が直撃し、金が海外に流出し、ボンド通貨は危機に瀕した。

時のラムゼイ・マクドナルド内閣は金融支援の為に緊縮財政を採用したが、公共事業の維持は困難になり、国内に270万もの失業者が生まれた。

更に失業手当も1割カットせざるを得なくなった。

マクドナルド内閣は財政の失敗により一度は総辞職するものの、国王の要望により労働党・自由党・保守党の大連立内閣として復活。

31年には金本位制から離脱し、国内の恐慌対策を最優先の政策とし、国民の関心も不況対策に置かれた。

そんな折に発生した満州事変は、英国にとって地方の小規模な武力衝突であった。

また、中国のボイコットの被害を被った立場から、日本に対しては常に宥和的であり、同情的ですらあった。

その後、錦州爆撃、上海事変と日本は軍事行動を拡大し、連盟規約や九カ国条約違反が鮮明となり、対日感情も悪化の一途を辿った。

しかし、その段階にあっても、英国は経済制裁に踏み切る覚悟はなかった。

それは、日本が当時世界有数の海軍国家であったからだ。

仮に戦争となれば、太平洋で日本海軍と対峙するのは英米である。

確かに英米の海軍力は日本を圧倒しており、ワシントン海軍軍縮条約によっても優位な戦力比は定められている。

ただ、日本海軍の戦力が極東・太平洋地域に限定されているのに対し、英国海軍は地中海を中心に全世界に展開されていた。

もし戦争となれば、英国艦隊の進路は地中海からスエズ運河、シンガポールを経由する必要がある。

この間に日本は、英国の東アジアの重要拠点である上海・天津を攻略し、長江の英海軍も日本海軍の攻撃に晒されるだろう。

そうなれば香港・シンガポールも危機に陥り、英国艦隊が東アジアに出ることが難しくなる。

以上のように考えれば対日戦争は得策とは言えず、日本との衝突は可能な限り避けるべきなのである。

ましてや英国の死活的利益のない満州を理由とする戦争など国内の支持を得れるはずもない。

戦争の覚悟がない以上は経済外交断行など出来るはずがないというのが、英国外国の基本的姿勢であった。

米国もまた似たような状況にあった。

ヘンリー・スティムソン米国務長官は日本の行動に憤り、錦州や上海に事が及ぶと、政権内では対日ボイコットが主張された事もあった。

だが、米国政府はあくまで消極的姿勢を貫き、不承認主義による道義的圧力をかけるのが限界であった。

米国海軍は世界恐慌の財政状況にあっては急拡張も出来ず、日本海軍の保有兵力との比率は条約比にすら達していなかった。

また、米国海軍の戦略拠点はハワイ島、グアム島、フィリピンと太平洋に点在しており、いずれも米本土から距離が遠かった。

しかも、米国議会は西太平洋の戦力拠点防衛に必要な財政支出を拒否しており、日本海軍に対抗するだけの防備は皆無であった。

もし戦争となれば米国はフィリピンを防衛することは不可能であり、他の拠点防衛もままならない。

更に32年は米国大統領選挙の年であり、米国は思い切った制裁に踏み切れなくなった。

米国世論は政府が国内の経済対策をおざなりにし、直接利害の少ない満州問題に干渉しすぎていると反発していた。

ハーバート・フーヴァー大統領も国際主義者と批判され、不戦条約を巡って武力行使することはないと公言せざるを得なくなった。

11月8日、フーヴァーはフランクリン・ルーズベルトを前に歴史的大敗北を喫した。

ここに米国はモンロー主義に立ち返り、対日強硬政策は緩和されるのではないかとの観測が生まれた。

そして12月、米国務省は対日経済制裁について、日米通商航海条約がある限りは制裁措置は条約違反である旨見解を出し、満州事変への介入から離脱した。

最後に満州に利害関係があるソ連に関しては、厳正中立を維持していた。

五カ年計画の中で極東軍の軍備は著しく劣っており、農民にも大量の餓死者が生まれ、国内の移動を制限すらしていた。

とてもではないが対日制裁に参加するだけの余裕も理由もなかった。

以上のように日本は東アジア・太平洋地域において軍事的に優位に立っており、経済制裁は非現実的であった。

連盟脱退論

連盟総会、十九人委員会が対日姿勢が厳しくなる中で、国内においては連盟脱退の覚悟を示して、連盟と対決すべしとの強硬論が台頭した。

ジャーナリストの徳富蘇峰はリットン報告書を読んで、東アジアの事情は欧米人では到底理解出来ないと批判した。

日本の主張が連盟で認められない事が明らかになりつつあると指摘し

「好んで脱退するではない。

されど国際連盟が、我等の主張と相容れず、然も其の相容れざる物指もて、我等を律せんとするに於ては、潔く脱退するの外、他に工面も、工夫も、方便も、手段も無い」

と述べ、日本の要求貫徹の為の連盟脱退を説いた。

12月19日、全国の新聞各社132社が共同宣言として、以下の意見を紙面に公表した。

「満州の政治的安定は、極東の平和を維持する絶対の条件である。

而して満州国の独立と、その健全なる発達とは、同地域を安定せしむる唯一最善の途である。

東洋平和の保全を自己の崇高なる使命と信じ、且つそこに最大の利害を有する日本が、国民を挙げて満洲国を支援するの決意を為したことは、まことに理の当然と言わねばならない。

否、ひとり日本のみならず、真に世界の平和を希求する文明諸国は、ひとしく満州国を承認し、且つ其成長に協力するの義務ありと言うも過言ではないのである。

然るに国際連盟の諸国中には、今尚満州の現実に関する研究を欠き、従って東洋平和の随一の方途を認識しない者がある。

我らは、かかる国々の理解を全からしめんことを、我が当局者に要望すると共に、いやくも満州国の厳然たる存立を危うするが如き解決案は、例え如何なる事情、如何なる背景に於て提起さるるを問はず、断じて受諾するべきものに非ざることを、日本言論機関の名に於てここに明確に声明するものである」

全国の新聞社連名の満州国独立・承認支持表明は世論の重圧となり、日本政府には満州国を見捨てるというオプションが無くなった。

そんな中、高橋是清蔵相は、連盟脱退の世論を扇動しているのは陸軍なのではないかと訝った。

荒木陸相は、連盟にいる以上、全ての点で拘束されており、連盟さえ出れば何処に出兵しようが何ら拘束されることはないとの考えを披露し

「だからこの際思い切って連盟を出てこそ、自由な立場になって自由の天地を開拓し得る」

などと、連盟脱退によって軍事・外交のフリーハンドを得られるなどとメリットを主張していた。

更に、元老西園寺の秘書、原田熊雄に対しては、このような放言すらしている。

「国際政局を云々されるけれども、今日の日本の立場では何をやったところで良く言われる気遣いはないのだから、良い子になろうなんかと考えたら大間違いだ」

高橋は閣議において荒木の連盟脱退論を追求すると、荒木は世論・国論などと口にするので、高橋はこのように応酬した。

「世論も国論も今日は全くありはしないじゃないか。

何とか一つ軍部に不利益な事を言えば、すぐ憲兵が来て剣をガチャガチャやったり、拳銃を向けたりして威嚇する。

世論も国論も今日絶対にないじゃないか。

言論の圧迫、今日より酷いことはない」

別の日も、高橋は陸軍が外交について声明する状況を詰問し、これに荒木が新聞社が勝手に書くのでやむを得ないと弁解するや、このように叱責した。

「新聞社が書くのなら、何故止めないか。

今日の陸軍の力を以てすれば訳なく止め得る。

要するに止めない事がけしからん」

頬被り論

日本の世論が連盟脱退に傾きつつある中、連盟脱退をせずとも日本の要求は押し通すことが出来ると主張する人々がいた。

その代表的な論客が芦田均である。

芦田は外交官出身で、欧州勤務を主とし、駐ベルギー大使館付き参事官として佐藤尚武駐ベルギー大使の連盟外交を支えてきた。

満州事変が勃発すると、芦田は日本の連盟外交は立て続けに失敗し、世界から孤立する様を目撃した。

32年2月、芦田は突如として外務省を退官し、政友会代議士の父親の地盤を引き継いで、日本外交を建て直す決意で出馬した。

外務省退官からわずか10日後に初当選を果たし、政友会の代議士となった。

芦田は国際派外交官出身代議士として連盟脱退は何ら利益がないと説き、頬被り論を論拠に連盟脱退を阻止しようとした。

芦田は機関紙「政友」の中で、連盟外交の見通しを以下のように語っている。

連盟の状況は、大国が連盟の権威を維持しつつ、日本の面目を立てるような妥協案を出すことに苦心している。

だが、日本が満州国を承認した以上、満州国の存在を基礎としない妥協案は日本は承諾しないだろうし、連盟がそのような妥協案を採用することは極めて困難になった。

仮に大国の仲介が失敗し、連盟がリットン報告書を採択した場合、どうなるのか。

「連盟規約の解釈としては、連盟の勧告を承諾しないということが、直ちに規約違反とはならないのである。

従って国際連盟が吾々の承諾できない案を勧告として押し付けた場合には、我国は敢然としてその勧告に応じないというだけの態度を維持すれば足りるのである。

それが為に、少なくとも規約違反の問題を生ぜず、また制裁の問題をも生ずる惧れがないのである。

即ち我国が勧告に応じないということに従って、連盟における満州問題は一段落を告げるものと想像されるのであって、従って我国が連盟を脱退するが如き問題も生じない」

つまり、連盟の決議は単なる意思表示に過ぎず、その勧告は法的に連盟加盟国を拘束するものではない。

勧告に応じるか否かは当事国の裁量であり、応じる義務はないし、連盟は勧告を強制させる手段もない。

勧告に応じなければ第16条発動の危険もないので脱退する必要もない。

これが、勧告を頬被り論して、そのまま連盟に居座れば良いという非脱退論、頬被り論である。

政友会は芦田の論理を容れ、連盟脱退の可能性を否定する立場を鮮明にした。

法的解釈と道義

帝大法学部の立作太郎教授は、連盟規約第15条3項の和協手続きと4項の勧告について、以下のように論じている。

「紛争当事国の代表者を除き、他の連盟理事会員全部の同意を得たる報告書中の勧告たりとも、元来調停の手続きに属するに過ぎざるを以て、勧告そのものは法律上の拘束力なく、これに従わざるも法律上の義務違反となることは無いのである。

もとより世界の世論は、多くの場合には、上述の如き報告書中の勧告に応ぜざることを非難すべきであるが、法律上の拘束力に至ってが、全く存在せぬのである」

勧告を無視したら国際世論の批判を受けるだろうが、これに応諾義務はなく、連盟規約違反には当たらないと論じる。

連盟脱退は第15条の手続き審議を妨害するする目的で行われるだろう。

それは第15条手続きが進めば第16条制裁に繋がると考えられているからだが、第16条の発動は

「紛争当事国を除き、理事会の全員が一致を以て決定したる勧告に対手国が服する際において、我より戦争を起こす場合に始めて存する」

つまり、勧告を無視したからといって、日本から戦争を起こさない限り、第16条の問題は起こり得ない。

第16条制裁は第15条手続きの当然の帰結ではない以上、連盟脱退の必要はないと論じた。

芦田や立の頬被り論は、連盟に残りたいと願う知識人たちに共有されていった。

なるほど確かに第15条は調停手続きであり、連盟の勧告は規約解釈的に勧告に法的拘束力も応諾義務もない勧告に過ぎないかもしれない。

日本は敢然と勧告を受け容れない旨を宣言して、そのまま連盟に居座れば、時が事態を収拾するだろう。

だが、頬被り論は大国である日本が堂々と連盟規約の精神を毀損し、国際社会に掲げた理念を全く尊重しないことを宣言するようなものである。

頬被り論は法的には正しいかもしれないが、道義的には無責任極まりない。

知識人たちは日本の非を認め、リットン報告書で妥協すべきと主張する事が出来ず、無責任な頬被り論に依拠せざるを得なかった。

その理由も、何らかの制裁の可能性や国際的孤立を危惧してのものであり、連盟の主旨を遵守するものではなかった。

ここに日本は世界の平和維持に責任ある五大国では無くなったのである。

熱河作戦

英国の対日姿勢は32年12月15日の十九人委員会決議案以降、急速に硬化していった。

にも関わらず、日本はなおも英国が調停してくれると信じ込み、譲歩せずに事態を楽観していた節がある。

だが、その楽観を打ち砕く事態が中国・熱河省(現在の河北省東北部・遼寧省西部)で進展しつつあった。

熱河省は歴史的にも地理的にも満州に属さないが、政治行政的には東北部に属するという微妙な存在であった。

また、領域が第三次日露協定で定めた日本の勢力圏である東経106.27以東の東部内蒙古に属しており、日本は熱河省にも権益が及ぶと認識していた。

関東軍は熱河省を手中に収める為、満州国に熱河地方を国土の一部であると表明させ、日本政府もこの見解を承認するに至った。

ここに、満州国領土内の一地方の匪賊を討伐する名分で、熱河地方を平定しようという熱河作戦が立てられた。

ところで、この熱河省は外蒙古と繋がる土地であり、ソ連との軍事的緩衝地帯であったが、それ以外の用途に乏しかった。

土地は痩せ衰え、軍事資源も貧弱で、人口も工業力も無く、殆ど魅力のない辺境であると認識されていた。

関東軍は東三省の抗日鎮圧にかかりきりであった為、熱河作戦は後回しにされていた。

一方、連盟総会や十九人委員会の対日不信が明らかになると、熱河作戦に対する懸念が強まっていった。

熱河は満州と華北の回廊部分であり、作戦の展開次第では日本軍が長城を越えて張学良と衝突する恐れがある。

そうなれば華北で大規模な軍事衝突を引き起こし、華北に権益を有する列国、特に特に英仏の心象を悪化しかねない。

32年12月、関東軍は熱河作戦を発動すべきだと陸軍中央に意見したが、参謀本部は国際関係に配慮して実行を容認しなかった。

これを不服に感じた小磯国昭関東軍参謀長が上京し、天皇の了承を得た作戦であると主張する出来事があった。

政府は関東軍が再び独断専行して、熱河作戦を強行するのではないかと憂慮した。

そんな折、33年1月3日、長城・山海関で日中両軍が衝突した。

同地には日本軍守備隊と満州国の国境警察隊が駐留していたが、1日夜、山海関付近で爆発事件が発生した。

現地軍はこれを中国人の仕業であると断定し、治安維持のために山海関南門を日本管理下に置くように、中国側に要求した。

そして南門を接収しようとしたところに中国側の攻撃を受け、現地軍がこれに応戦し、日中両軍が衝突した。

英米の嫌疑を招くことを嫌った政府は不拡大方針を掲げ、陸軍も局地解決の為に現地を抑え、山海関事件は収束した。

熱河作戦の了承

山海関事件を受け、高橋蔵相は以下のような憂慮を述べている。

「統帥事項である以上、その時その時の模様次第でどこまで広がるか予測しがたいのだから、もし天津地方にまで兵火が及ぶ場合には列国の感情を刺激する結果となり、満州問題だけでもなかなか難しいところへもってきて、ますます厄介な事態を惹起するだろう。

せっかくあれまでにいっている満州問題に対する連盟の空気をまた根底から覆すことにもなろう」

そして、熱河作戦を日本の国際的孤立を招き、経済を破壊する「自滅」であると表現した。

1月4日、外務省は熱河作戦が対英米関係に及ぼす影響について、連盟代表部や在外公館に対し、このような悲観を披瀝している。

曰く、熱河作戦は熱河地方だけでなく欧米の権益が集中する北平・天津方面まで波及する。

そうなれば日本側がいくら自衛措置と主張しても、連盟や列国は対中侵略と非難攻撃し、日本は難局に立つだろう。

閣僚や外務省だけでなく、天皇すらも熱河作戦を憂慮していた。

天皇は満州を「田舎」と認識しており、列国の権益もない事から、満州だけなら列国も黙認するだろうと楽観視していた。

だが、熱河作戦によって日本軍が天津や北平に進出するような事態になれば、英米の干渉が強くなるだろうと懸念した。

そこで1月9日、牧野伸顕内府に御前会議を提案し、政府と軍部の方針を一致させ、出先を統制しようとした。

御前会議案は元老西園寺の反対もあって立ち消えたが、天皇は今までにない強い調子で軍部を抑制しようとした。

荒木陸相は熱河作戦の遂行を主張する関東軍と、閣内・宮中の熱河作戦反対の空気に板挟みにあった。

そこで1月13日、荒木は熱河作戦の範囲は熱河地方に局限し、長城以南には絶対に兵を出さないことを閣議で約束した。

これを受け政府は熱河作戦を了承したが、他方で荒木の口約束だけでは天皇の心配は消えなかった。

侍従は天皇の様子について、室内をぐるぐる周り、ノックしても気づかないくらい考え込んでいたようで、すっかり焦燥していたと証言する。

1月14日には満州への兵力増派の裁可を仰ぎにきた閑院宮載仁参謀総長に対し、天皇は熱河侵入には慎重な態度を取るよう注意した。

それほどまでに天皇は熱河作戦を対英米関係上、危険視していた。

和協手続きの失敗

十九人委員会の再開に向け日本は打開策を模索したが、満州国の存在を前提とする姿勢は、連盟の認識とはかけ離れていた。

1月12日、日本と十九人委員会の妥協点を見出す為、杉村陽太郎事務局長とドラモンド事務総長が私的に交渉を重ね、事務局試案を作り出した。

それは、十九人委員会内部に日中問題解決を担う小委員会を設置し、これに非連盟国の招請権限を与える。

満州問題の解決はリットン報告書第9章を有益な基礎としつつ、その適用は極東の事態に応じるように按配する。

リットン報告書10章には触れず、理由書を決議を要しない議長宣言案に改めて満洲国否認には触れない、といった妥協案であった。

事務局試案を内示された十九人委員会の空気は悪く、中国始め中小国から強硬論が噴出したが、妥結に向けイーマンスやドラモンドは反発を抑えた。

ところが、本省は事務局試案を丸呑みせず、あと一押しを連盟代表部に訓令した。

1月17日、再開された十九人委員会に対し日本は事務局試案への修正として、米ソ招請の反対を主張した。

1月18日、日本の修正提案を受け、十九人委員会は日本の唯一の反対は非連盟国の招請ではないかと認識した。

そこで十九人委員会は、もし米ソ招請を撤回するならば32年12月15日案を受諾する用意があるのかと、日本側に打診した。

この際、イーマンス議長は松岡に対し、議長宣言案(旧理由書)9項について、日本が望むならば留保しても差し支えないと述べた。

松岡はこの妥協案を受諾するよう本省に申し入れたが、内田の態度は何ら変わらなかった。

それどころか決議案の改善の兆しが見えたとし、天皇に以下のような奏上を行なっている。

「最早峠は越したり、脱退などの事はなかるべし」

1月21日、日本は十九人委員会に対し、議長宣言案9項を、諸条約や総会決議に「合致しない行動」を取らないという、漠然とした文言にあらためるよう修正案を提出した。

これは満州国を否認した9項の骨抜きである。

十九人委員会は日本の修正案は到底受諾出来ないと判断し、もはや日本との妥結には至らないと認めた。

これは連盟規約第15条3項の和協手続きの終了であり、十九人委員会は第15条4項に移行し、勧告案の起草を始めた。

芦田演説

対連盟外交がにわかに緊張し、政府の外交政策の失敗が露わになった。

通常であれば内田外相が更迭されるか、さもなくば内閣が総辞職に追い込まれるだろう。

そうなれば政府は外交政策の転換を余儀なくされ、対連盟外交は再構築されるはずであった。

だが、議会に基礎を置かない斉藤内閣は不思議と磐石であった。

1月23日、衆議院の演壇に立った政友会の芦田は、満州問題を巡る軍部の関与を批判した。

満州問題は日本の重要な国策の一部を為すものであり、挙国一致内閣の存在意義は対満国策の統一にあるはずだ。

「今なお満州指導の責任は、専ら軍部において好んでこれを引き受けておられると印象を与えております」

満州の指導が軍部専門家に委ねられていると揶揄した上で、荒木陸相に対しては、このように厳しく問いただした。

「言うまでもなく満州問題は我国に取って死活の問題であります。

その善後措置の為には、国内の全知全能を挙げてなおその力の足らないことを憂いているのである。

陸軍大臣は暫く軍部万能の思想を棄てて、我が国民の挙国一致の力を満州問題の為に利用する心持ちはないか」

更に矛先は軍部から外交へと向いた。

「日本には軍部の外交があり、外務省の外交があるけれども、国民の総意の上に立つ外交なしという印象を有っておる」

「日本の外交政策が今尚軍部に引きづられているような印象を諸外国に与えていることは、我国立憲政治の恥辱であります」

最後には内田首相の責任を、このように追求した。

「我国が国際連盟を脱退する時は、内田外務大臣の昨年来の楽観論が崩れる時であります。

その責任をとることはもはやお忘れになりますまい」

芦田の痛烈な質問演説は大きな波紋を呼び、特に米国メディアでは「日本を真に救う愛国の士」「軍部独裁に対する最初の反動」と評価された。

しかし、連盟代表部が不必要に強硬姿勢を有しているとの報道に松岡は怒り、交渉に悪影響があるとして、外務省や政友会に抗議を寄せた。

1月25日、再び演壇に登った芦田は殆ど前言を撤回するような弁明を強いられ、除名騒ぎにまで発展した。

何故政友会はこの問題で政府を突き上げなかったのか。

それは、当時の政界において、政府が政友会に対し円満授受工作を行なっていたからであった。

衆議院において300議席を有する政友会は、政府に対し絶対的な影響力を有していた。

これに対し斉藤は、議会終了後の政権の円満授受を示唆し、議会運営への協力を求めていた。

政友会がもし政府と対立すれば、まず間違いなく政府は解散総選挙を選択し、民政党を準与党として挑んでくるだろう。

戦前の選挙制度は政府与党が圧倒的に有利であり、政友会は300議席は到底維持出来ないだろうし、過半数割れする可能性もある。

何ら痛手を追う事なく円満に政権を譲渡されれば、それに越したことはない。

このような政治的駆け引きから、政友会は政府との摩擦を恐れ、外交を政治問題化しなかった。

こうして内田の対連盟外交は議会で批判される事なく、破局に進んでいった。

八分目

連盟代表部は議長宣言案9項の折り合いがつかなければ和協手続きによる交渉の余地は無いと悟った。

そして、十九人委員会が第15条4項に基づいて勧告案を総会に提出すれば、日本は連盟脱退に追い込まれると認識した。

1月30日、松岡は本省に対し議長宣言案9項承諾による妥協を求め、このように述べた。

「かかる事くらいにて連盟脱退を賭するの果たして賢明なるや、この際帝国全局利害より打算し甚だ惑いなき能わず」

松岡は、自分がジュネーヴに出発する際の訓令に鑑み、政府の意図をこのように観測している。

「時をして解決せしむに在り、連盟の顔は出来る限りこれを立て、しかも満州国の関する限り、我行わんとする所に大体故障を生ぜざらしむる様、落ちつかしむれば可なり」

今日まで得た妥協案は、ほぼこの訓令の趣旨に沿っており、今こそ譲歩して連盟に残るべきなのだ。

「申上ぐるまでもなく物は八分目にてこらゆるがよし。

いささかのひきかかりを残さず、綺麗さっぱり連盟をして手を引かしむると言うが如き望み得ざることは、我政府部内におかれても最初よりご承知のはずなり。

日本人の通弊は潔癖にあり。

日本精神の徹底と満州問題の解決という如き大問題が、一曲折、もしくは十九人委員会議長宣言の内容くらいに強くこだわる如きことにて遂行し得るものに非ず」

以上の意見具申の最後には、松岡の悲痛な言葉があった。

「一曲折に引きかかりて遂に脱退のやむなきに至るが如きは、遺憾ながらこれを取らず、国家の前途を思い、この際率直に卑見具申す」

大譲歩

2月1日、内田外相は連盟代表部に対し「大譲歩」と自称する案を提示した。

議長宣言案9項に関しては、日本の対満政策を否定せず、国民の自尊心を傷つけない範囲で字句を修正し、漫然とした記載とするべきだ。

これ以上の交渉の余地はなく、敢えて第15条4項の適用は阻止しない。

ただし連盟脱退については、勧告案の内容を検討した上で、脱退の措置に出るかを判断する等と曖昧な返事をした。

一方の十九人委員会も妥結案として、非連盟国招請削除に応じ、また議長宣言書に対する紛争当事国の留保提出も受諾する構えを見せた。

2月4日、連盟代表部は連盟脱退を回避すべく、最後の譲歩に打って出た。

それが決議書内に、リットン報告書の原則・結論を「その後進展し来れる各個の事件に調和しつつ」和協を確保する、という字句の挿入である。

内田はこの字句の挿入を最も重要視し、議長宣言案9項の意義を全く別個の物にした。

つまり、和協委員会の役割はリットン報告書第9章の原則を基礎とするが、これは今後展開した事件に適用する。

よって、満州国の否認についてはリットン報告書内の記載に留め、これを連盟の意見としない。

内田は訓令の中で、リットン報告書内は「将来における満足すべき制度は現在のものに格段なる変更を加うる事なくして発展せしめらるべき」旨述べていることに注目すべし述べた。

これを最後の妥協案として、和協手続きとして承諾する覚悟を固めた。

だが、ドラモンド事務総長の反応は鈍く、日本側の妥協案を十九人委員会に提出するのを躊躇った。

この妥協案は十九人委員会決議案の根本思想となおも大きな隔たりがあり、日本がこれを最後の譲歩と位置付けた為、和協の可能性は大きく遠のいた。

熱河作戦の発動

連盟において破局の時が近づく中、国内でも熱河作戦問題が再燃した。

2月4日、閑院宮参謀総長が熱河作戦実施に伴う関東軍の部隊配備変更の裁可を求めた。

天皇は長城を越えないことを条件に許可したが、十九人委員会は熱河作戦の発動を懸念し、ドラモンド事務総長が連盟代表部に問い合わせてきた。

最後の譲歩案による和協成立か勧告移行かの瀬戸際の中で、熱河作戦発動はあまりにもナイーブな問題であった。

2月8日、斉藤首相は天皇に対し、熱河作戦は連盟関係上、実行は難しく、内閣としては不同意であると奏上した。

首相の報告に驚いた天皇は、奈良武次侍従武官長に対し、熱河作戦の諒解取り消しを閑院宮に伝えるよう述べた。

2月11日になると、斉藤は作戦を強行すれば日本は連盟から除名される恐れがあるが、軍部は天皇の裁可を楯に応じる姿勢にないと訴えた。

天皇はやや興奮した様子で、統帥最高令で熱河作戦を中止出来ないかと下問した。

この重大な御下問に対し、奈良は

「国策上害あることなれば閣議において熱河作戦を中止せしめ得ざる道理なし。

国策の決定は内閣の仕事にして閣外にてかれこれ指導することは不可能のことなれば、熱河作戦の中止も内閣にてなさざるべからず。

陛下の御命令にてこれを中止せしめんとすれば大なる紛擾を惹起し、政変の因とならざるを保ち難し」

このように考え、慎重に熟慮するように天皇を諫めた。

この奈良の諫言は天皇の意思を抑え込んだものと解されるが、至極真っ当な意見であった。

そもそも熱河省を満州国の一部であると承認したのも、熱河作戦を決定したのも内閣である。

その決定が間違っていると判断したならば、天皇に頼るではなく閣議決定を修正すれば良い。

奈良は斉藤首相が自ら責任を取らず、天皇に責任を丸投げしたと判断し、統帥最高令の発動を阻止したのである。

2月12日、天皇は熱河作戦について、長城を超えることは慎み、これに反すれば直ちに作戦を中止させると閑院宮に伝えるよう命じた。

天皇の決意は参謀本部から関東軍に伝わり、ここに熱河作戦の発動は決定された。

勧告手続き

日本側の最終妥協案を審議した十九人委員会は、その結果をドラモンド事務総長の書簡の形で日本に示した。

曰く、十九人委員会は日本の新提案に対し、次の重要なる一点の情報を求める。

「日本政府は調査委員会報告書第九章に記載せる諸原則及び結論を和協の基礎として欣然受諾する旨声明せられ居れり」

この第9章の原則には、満州における政府は中国の主権・行政的保全との一致の下に広範な自治を確保するとある。

「委員会においては日本政府は右原則を受諾することに依りて、その独立国として承認したる満州国の存立の継続が、今次の紛争の解決方法を供するものに非ずと認むる」

日本政府は和協委員会の中で、満州国の継続でも原状復帰でもなく、中国の主権・行政的保全と両立して、日本の合法なる権益の保護を確保する方法を発見することに同意した。

十九人委員会はこのように推定したので、この解釈が正確か否かをなるべく早く通告してほしい。

この書簡を読んだ連盟代表部は、次の感想を本省に送った。

「我方に和協失敗の責任を転嫁せんとするの低意有るものと認めらるる」

満州国承認については日本は一歩たりとも譲歩しない旨を幾度も声明しているにも関わらず、十九人委員会は日本が受諾不可能な提案をした。

これはもはや連盟が日本に対する非難に踏み切ったものであり、連盟代表部は第15条3項の和協手続きの失敗を悟った。

2月14日、日本は満州国承認が唯一の解決策であると回答した。

2月15日、十九人委員会は日本の提案は和協の基礎とはならないと判断し、第15条4項に基づく勧告案を日中双方に提示した。

勧告案は事実関係をリットン報告書第8章に求め、事変前の日中関係の緊張は紛争当事国双方に責任があるとする。

だが31年9月18日以降の諸事件に関しては中国側に責任があるとは考え難い。

紛争の原因は、日本が満鉄沿線に作り出した権力が満州における中国の主権行使に影響を与えた為であり、日本にのみ責任があると断定した。

また、満州における日本の軍事行動は自衛措置とは認められず、他方で日本が強く批判してきた中国のボイコットに関しては国際的な対抗手段の範疇であると認めた。

そして満州問題の解決方法として、満鉄付属地外の日本軍の撤兵を期限を設けて優先的に行うべきとし、満州の権力の帰属に関しては中国政府に一任すると論じた。

総じてリットン報告書をベースとした和協案より厳しく、日本にとって最悪の事態が訪れた。

この勧告案は2月24日の連盟総会に提出され、採択にかけられることになった。

政府と国論

連盟脱退へと日本が追い詰められて行く中で、政府首脳は何を考えていたのか。

斉藤首相は連盟脱退について、日本はこれまで築き上げてきた世界に対する立場を失うと考え、このような不満を表明している。

「内閣の運命とか個人の生命とか、そんな小さな話と混同してはいけない。

遠く国家の前途を慮るべきであり、脱退するのはよくない」

だが、外交を所管する当の内田外相は、連盟脱退へと傾斜する世論を鑑み

「国論というものはいつでも少数の強硬論に引っ張られて行きやすい。

知識階級の議論などは、いかに合理的であろうとも実行力に乏しいのだから、多少極端でも実行力の伴った強硬論を以って国力を固めたほうが実現の可能性が多い」

などと述べ、この状況ならば連盟脱退も止むを得ないと考えていた。

1月31日には元老西園寺を訪問後、新聞記者に対し、さも西園寺が連盟脱退に同意したかのように振る舞い、西園寺は苦言を呈した。

「人間は田舎に行って来ると、どうしてああ馬鹿になってくるんだろうね」

あまりにも世論に引きづられる内田に対し、高橋蔵相も以下のように注意している。

「一体君はいつまで陸軍に縛られているのか、それじゃあ困るじゃないか」

十九人委員会の空気は悪化するにつれ、国論は内田が述べたように連盟脱退の強硬論に引っ張られていった。

2月7日、その象徴的な出来事として、日比谷公会堂において各政党有志合同の対連盟緊急国民大会が開催された。

国民大会は連盟の態度を誠意がないと断じ、連盟代表の即時帰朝、即時脱退の宣言を決議し、政府及び連盟代表部に通達した。

この様子はラジオで全国中継され、国論は連盟脱退へ統一されていった。

同夜、牧野内府はリンドレー駐日英大使達と会食し、その中で連盟外交の状況について

「問題は外交と同程度に内政にある」

との認識を述べた。

そして、連盟の立役者達は世界の世論を、戦争を否定し紛争を平和的に解決するよう教育すべきだが、日本はそれに失敗したと嘆息し、このように語った。

「日本は戦争が西欧諸国にもたらした苦痛を耐える経験がなかった。

それが西欧諸国に平和への願いを根付かせ連盟の創立を導いたものであった。

日本の近代の歴史は非常に短く、この短い歴史と真の戦争の経験を欠いていることが日本の世論をして実際上例えばイギリスのように進歩させていないことを記憶しておかなければならない」

脱退か頬被りか

東京日日新聞は連日のように連盟脱退のキャンペーンを打ち、連盟の態度を以下のように断じた。

「国家の盛衰、国民死活に関する問題において、認識不足の小国を大多数とする十九カ国国連盟委員会の審議は、小児の火遊びの如き不安を覚える」

別の日には、満州国承認問題を国民の死活に位置づけ、連盟がこれを退けるようであれば、国家の体面上脱退しかない。

連盟脱退は何ら恐るるに足らず、居座りの頬被り主義などありえない。

勧告案は一種の宣戦布告であり、最後には国民の決意、我れ行かんの気魄である。

「我が国は何を目的として、孤立の不利と屈辱とを忍んでなお連盟に踏みとどまる理由があるか。

我が国は敢然として、無援孤立の境地の中に自己確立の道を打開する以外、取るべき方途がない」

などと、勇ましい言葉で連盟脱退を説いた。

このような東京日日新聞の記事を、帝大の大森義太郎教授は子供騙しであると断じ、以下のように論じた。

「少し日本に有利なことをいう者があると無暗とのぼせあがり、少し日本に不利な言を吐く者があればヒステリーのようにわめき立てる」

2月16日、十九人委員会の勧告案が号外によって発表されると、連盟脱退の空気は一層増した。

一方、時事新報は一貫して連盟脱退に反対の社説を掲げた。

「脱退は最も雑作なき行動で書生にも出来る外交結末である」

と述べ、脱退しないのが外交であり、外交を尽くして困難な道を行けと論じた。

別の社説では連盟脱退を

「連盟を創造した日本は五大国の一つとして無形の大財産を置き去りにして、裸のまま家出するに等しい」

と例え、このように主張した。

「連盟が日本を出て行けがしに罵ったとしても、頑として端坐して動かず、澄心瞑黙徐々に彼が教導を後日に期して安心立命する境地こそ、大日本当面の意気地なれ」

そもそも日本の国策は人類の平和幸福の維持、世界平和への貢献であり、それが連盟加盟の理由であるはずだ。

「これ日本対連盟を結ぶ一本の親綱である以上、余程の理由なくしては之を自分から断ち切ることは許されない。

世界平和に献ぜんとする日本の根本国策が連盟加入の理由である限り、しかして日本の平和に対する誠意の不変なる以上、自分から連盟を脱退する理由は容易に想像し得ないのである」

ならば、敢えて連盟に留まって、満洲国承認の活動を続けることが国策に一致すると論じた。

十九人委員会が勧告案を提示した後も、勧告はあくまで「一片の勧告」であり、何ら強制力も制裁の意思もなく

「聞き飽きた勧告はそのまま懐に温め、あくまでも冷静に、少しも騒がずにまた怖れず、しかして日本の平和信念と国策信念と国策心情とを天下に公表し、諄々と世に説いて、今日の敵を明日は味方とするの大度量あって然るべきものである」

このように、連盟を脱退するの必要はないとの頬被り論を展開した。

また、大阪朝日新聞は連盟において孤立する情勢を、以下のように警告した。

「今回は世界中の大小国ことごとくが日本の味方ではなく、日本は文字通り孤立状態に陥るおそれがある。

日本が今日の如き国際的危機に直面せるは開闢以来ない」

制裁逃れの脱退論

ところで、勧告が決定的になりつつある中、新聞では連盟脱退が熱河作戦とリンクされて論じられるようになっていた。

2月14日、大阪朝日新聞はこのように報じている。

「熱河方面の戦線拡大が制裁の発動の可能性を産み、孤立状態に陥る虞れがある。

最悪の場合についての考究を怠らず、これに処する方途を十分に講じて置かなかれぱならない」

これは、満洲国承認を撤回する勧告案が採択されれば、満洲国の国内措置であるという熱河作戦の主張が成り立たなくなる。

熱河作戦は、勧告の「約束を無視して戦争に訴えた」と断定される恐れがある。

そうなれば連盟規約第16条1項が適用され、経済制裁に至るのではないかという懸念である。

ここから日本が連盟を脱退した理由は、第16条の経済制裁を逃れるためではないかという論理で説明される事が多い。

この文脈の中で日本の外交はあまりにも場当たり的であると非難される。

確かに第16条は連盟加盟国に対する制裁条項であり、連盟を脱退すれば第16条は日本に適用されなくなる。

ただし続く第17条1項及び3項には、連盟非加盟国に関する紛争として、このような規定が記されている。

「連盟国と非連盟国との間又は非連盟国相互の間に紛争を生じたる時は、此の種紛争解決の為連盟国の負うべき義務を該非連盟国が連盟理事会の正当と認むる条件を以て受諾する事を之に勧誘すべし。

勧誘の受諾ありたる場合に於ては、第12条乃至第16条の規定は、連盟理事会に於て必要と認むる修止を加えて、之を適用す」

「勧誘を受けたる国が此の種紛争解決の為連盟国の負うべき義務の受諾を拒み、連盟国に対し戦争に訴うる場合に於ては、第16条の規定は、該行動を執る国に之を適用す」

この条項は非連盟国に対し、連盟国の負うべき義務を受諾することを勧誘し、それが受諾されれば連盟規約が紛争に適用される。

もし勧誘を拒否し、連盟国に対して戦争に訴えた場合には、非連盟国に対し16条制裁を課すことを規定したものである。

つまり、連盟を脱退したとしても、日本が紛争当事国である以上は第16条制裁の危険性から免れない。

事実、日中戦争が勃発すると、中国は非連盟国・日本の侵略を第17条で提訴し、連盟は日本の第10条、11条違反を認定している。

だが、連盟は第17条を適用しつつ、ナチス・ドイツ問題で手一杯になり、日本に対し第16条を適用しなかった。

第16条制裁は相手が連盟国か非連盟国かなど関係がなく、ただ戦争への覚悟が必要なのである。

付け加えれば、第17条以前に連盟脱退を規定した第1条3項の存在がある。

「連盟国は、二年の予告を以て連盟を脱退することを得。

但し脱退の時に其の一切の国際上及本規約上の義務は履行せられたることを要す」

立教授は連盟脱退論を評する際、この第1条3項を引用し

「脱退の予告を為して後2年間は、脱退せんとする国も、依然連盟国としての一切の権利と義務を有するのである」

と述べ、脱退したとしても満州問題を連盟の審議外に置けないと指摘した。

第1条3項は新聞にも引用されており、当然外交官達も認識していただろう。

よって、例え熱河作戦が勧告と重なったからと言って、脱退してしまえば第16条から逃れられるという論理は成り立たない。

日本は制裁逃れなどという安直な考えではなく、別の考えで脱退に舵を切るのである。

そして連盟脱退へ

2月17日、ジュネーヴにて交渉にあたっていた連盟代表部は交渉を断念し、本省に対し連盟脱退を打診した。

「事ここに至りたる以上、何ら遅疑する処無く断然脱退の処置を執るに非ずんば徒に外間の嘲笑を招くに過ぎずと確信す」

そして、総会において勧告案が採択された場合、恣意的行動を取るべきだと主張した。

「総会において右報告案採択せられんとする場合、我が方として単に代表部引き揚げの如き姑息の手段はこの際断じて執るべきに非ずと確信す」

これは、脱退の決意を明らかにし、満州問題への連盟の関与を強く否定する意思表示である。

何故日本は頬被りではなく連盟脱退すべきなのか、松岡はその理由を以下のように記している。

「かかる場合、頰かぶりして通らんとする如きは、これを我国民性に鑑み、到底、長く堪え得る処に非ざるのみならず。

実に日本精神の根本と相容れざるものとして忍ぶ能わず。

もし我国において、この際、その取るべき進路につき、逡巡する如き者あらば、なおの事、断固として脱退し、以って我国民精神の真の作興を期すべきなり」

満州国を取り消すよう要求するような勧告案が出た以上、これが採択されれば、日本は国家の威信上、連盟を脱退するより外ない。

頬被りして居座ることも出来るだろうが、連盟にここまで非難されては体面的に残る意義は見出せない。

日本はそこまで面の皮が厚い国ではなかった。

2月20日、閣議は勧告案が連盟総会で採択された場合、連盟を脱退する方針を定め、憲法下の手続きを取る旨を決定した。

また、連盟脱退の手順としては、まず勧告案採択には反対投票を行い、連盟代表部を引き揚げさせる。

これが総会閉会に伴う単純な引き上げと同一視されないよう、連盟との協力が限度に達した旨の声明を出すよう訓令した。

連盟よさらば、我が代表堂々退場す

2月21日、連盟総会が開催された。

松岡はドラモンド事務総長に対し、日本は何らカードを持たないので、連盟側が折れなければ日本の脱退を防ぐ道はないと忠告した。

これに対しドラモンドは最早その余地はないと応じた。

2月24日、この日のジュネーヴは季節外れの小春日和であった。

対日勧告案が採択される中で日本がどのような対応を取るのか、世界の注目が集まり、ドイツの連盟加盟審議以来の満場となった。

演壇に上がった中国代表は、日本が連盟や世界の世論を無視して全く孤立化したと演説。

中国は十九人委員会の報告書に賛成し、勧告は留保なしに受け入れると主張し、万雷の拍手を浴びた。

続いて演壇に上がった松岡は何ら新鮮味のない中国批判を繰り返し、会場はざわついた。

ついに総会において勧告案が採択される。

賛成は42票、反対は日本の1票、棄権はシャム(タイ)の1票。

イーマンス議長はシャムの棄権を欠席扱いとし、紛争当事国を除く全ての国が賛成したとして満場一致の可決を宣言した。

議長宣言後、発言を求めた松岡が再び演壇に登った。

松岡は総会採択を遺憾とし、報告書は受諾出来ない旨を表明し

「ここに日本政府は、日本と他の加盟国とは極東平和達成の様式についてはその意見を異にするものであるとの結論に到達せざるを得ない。

かつ日本政府は、日支問題に関して国際連盟と提携せんとの努力は、今やこれ以上成し得ざるに到ったと思惟せざるを得ないのである」

このように述べた後、日本語で「さようなら」と結び、代表を引き連れて議場を後にした。

2月25日、東京朝日新聞は連盟脱退を報じる朝刊の見出しを以下のように掲げた。

「連盟よさらば!遂に協力の方途尽く」

「総会勧告書を採択し、我が代表堂々退場す」

連盟脱退の通告

ところで、連盟代表が引き揚げたからといって即連盟脱退に繋がったわけではなく、枢密院への諮詢が待っていた。

外務省は当初、連盟脱退の手続きに関して、枢密院への諮詢は不要であるとの認識を有していた。

ところが、この認識は天皇により覆され、一転、枢密院へ諮詢されることになった。

1月26日、内田の上奏内容に不安を覚えた天皇は、連盟脱退の場合、委任統治問題はどうなるのかと御下問した。

これに内田が未だ調べていないと言上した為に、牧野と西園寺に委任統治問題調査を依頼した上、脱退は重大なので枢密院に諮詢するよう意向を示した。

天皇は内田に不信感を抱いていたようで、牧野は西園寺にこのように伝えている。

「内田外相が常に楽観的の態度にて奏上し、或はこうなっては乗り切るの外なし云々等と言上せる為め、御信任薄きは誠に困りたることにて内田の真意はあーでもないのだらうが等と御察の御言葉すらあり。

一週間を出ずして前後矛盾の奏上をなし、しかも其の影響を自ら知らざるが如き様子は、あたかもも田中総理の末期の如き感あり、心配し居れり」

3月11日、閣議は連盟脱退に関する措置案を決定し、天皇に上奏した。

天皇は直ちに枢密院に諮詢し、ここに連盟脱退を食い止める最後の機会が訪れた。

枢密院において連盟脱退に最も反対していたのが伊東巳代治枢密顧問官である。

伊東は脱退によって南洋の委任統治が不可能になると考え、他の顧問官や軍部、政党に至るまで連盟に留まる必要性を説いて回った。

顧問官の間では、留まるだけ留まって除名されれば良いとか、除名は不名誉なので脱退すべきとか、百家争鳴の様相となった。

だが大勢は連盟脱退に傾き、3月27日の枢密院本会議は伊東が欠席する中で連盟脱退に関する措置案を全会一致で可決した。

これを受け、日本政府は即日、国際連盟に対し脱退を通告した。

国際協調の残光

連盟脱退の翌日、ジュネーヴの新聞は、日本が如何に連盟に貢献し、尊敬や支持を集めてきたか説いた上で、このように報じた。

「日本は世界に孤立し、いったいどのような見通しを未来に持っているのか。

前世紀ならいざしらず、もはや国際社会に孤立して生きる事はできない。

日本はそのことに気づいていない」

国際連盟脱退は国際的孤立の象徴と強調され、日独伊枢軸への過程に捉えられるが、日本はすぐさま世界から孤立した訳ではなかった。

3月10日、天皇は連盟脱退とともに煥発する詔書に関して、牧野内府に対しこのような御沙汰を下した。

「連盟に対して脱退を通告する詔勅の中には、日本が連盟を脱退することはすこぶる遺憾である、連盟の精神とする世界平和へのあらゆる努力には日本もまた全く同様の精神をもって協力する、以上の2点は必ず含ませるように」

3月11日にも天皇は内田外相に、詔勅の主旨に誤りなきよう為すべしと述べ、このように念を押して内田を驚懼させている。

「また閣議で変更するようなことのないようにせよとのことだ」

こうして3月27日、国際連盟脱退の詔書が発せられた。

「今次満洲国の新興に当り帝国は其の独立を尊重し健全なる発達を促すを以て東亜の禍根を除き、世界の平和を保つの基なりと為す。

然るに、不幸にして連盟の所見之を背馳するものあり朕乃ち政府をして慎重審議遂に連盟を離脱するの措置を採らしむるに至れり。

然りといえども国際平和の確立は朕常に之を希求して止まず。

是を以て平和各般の企図は向後亦協力して改めるなし。

今や連盟と手を分ち帝国の所信に是れ従うといえども、固ヨリ東亜に偏して友邦の誼を疎かにするものにあらず。

いよいよ信を国際に厚くし大義を宇内に顕揚するは夙夜朕が念とする所なり」

外交評論家の清沢洌はこの詔書が強調する意図を、以下のように指摘している。

「国際連盟と訣を分ったのは、偏へに満州国についてであって、他の平和機構については寧ろこれと協力して大義を宇内に顕揚する」

そして今後の日本外交の課題を国際協調回復にあるとし、連盟代表を務めた松岡に対してこのように訴えた。

「あなたもその一部の責任に坐して破れた国際関係は、敢えて国際連盟関係とはいわず、あなたの手によって新らしく再建さるべき機会を待っている」

日本は連盟脱退を世界からの孤立と考えず、連盟の枠外から国際協調を回復し、平和への道を模索しようと図っていた。

政府も東アジアに利害関係を有する英米ら主要国とは協調を維持し、脱退が日本の国際的地位を急変させないよう配慮した。

また、脱退後の国際社会との繋がりも、平和的人道的機関との協力を通じて継続した。

アヘンや社会問題、国際労働機関、国際司法裁判所、技術・学芸に関して参与し、軍縮会議についても引き続き協力する旨を宣言した。

一方、紛争当事国である日本が脱退してしまった連盟は、紛争解決の手がかりを失ってしまった。

この間にも熱河作戦は継続され、日本軍は熱河から中国軍を追撃して河北省に進撃し、軍事的勝利を決定づけた。

5月31日、大敗北を喫した中国は満州問題の一切を棚上げし、日本の主張を全面受容する形で塘沽停戦協定を結んで、ここに満州事変は終わった。

6月12日、連盟は加盟国と満州国との間に、郵便、衛星、通貨、為替、領事、税関などの事業に関する一切の交流を禁止すると決定した。

だが、これ以降、満州問題に関与する事なく、欧州の危機の進展とともに対日批判は収縮していった。

そして、日本が最も恐れた第16条制裁も発動することもなかった。

外務省は世界恐慌や欧州の政情悪化から、満州に利害関係のない連盟諸国が犠牲を払ってまで制裁しないだろうと観測していたが、これは的確であった。

こうして、連盟脱退という衝撃の大きさに比べて、日本の対外関係への影響は最小限に抑えられた。

この事から、連盟脱退は最善手とは言わないが、満州問題を国際社会から切り離す点では下策とも言えないという評価も与えらる。

失敗と熱狂

総会会場に出た松岡は、朝日新聞の特派員に対し「完全に失敗した」と洩らした。

連盟との交渉に失敗した上に連盟脱退に追い込まれ、国民からどんな叱責を受けるか恐れ、ほとぼりが覚めてから帰国するつもりであった。

4月27日、松岡は帰国したが、日本で待っていたのは万歳三唱の大群衆であった。

国内が連盟脱退を外交の失敗と認識しなかったわけではないが、あくまで連盟脱退の責任を連盟の認識不足に求めた。

そして新聞は、連盟で大立ち回りを演じて堂々と脱退した松岡ら連盟代表を、まるで英雄かのように報じ、松岡個人の人気は異様に高まっていた。

世界的な孤立を意味する投票結果も、陸軍省新聞班は「賛成の42票は死にゆく、日本の1を興る」などと持て囃す始末だった。

松岡は行く先々で凱旋将軍のように扱われ、行く道では人並みが出来た。

あまりの熱狂に、帰国の歓迎会席上で、このように洩らしている。

「口で非常時と言いながら、私をこんなに歓迎するとは、皆の頭がどうかしていやしないか」

このようなお祭り騒ぎの中、時事新報は「大地を踏みしめつつ行く従容たる大国民の態度」を以下のように説いたのは流石であった。

「明治大帝がいくたびか天下に宣揚遊ばされたる、帝国の平和主義と人類愛の大国策は、今回満州問題の為に連盟を脱退するの一事によって寸分も歩趨をまげるものではない。

およそ現実に世界の平和に献じ、人類の至福に役立つべき事業に対しては、日本は常に大国と協力戮力するの良心を堅持してかわらざることを、この際、特に天下に宣示するの適切なるを信ずるものである」

謝罪

5月1日、松岡はラジオの中で帰国報告を行った。

まず、松岡はジュネーヴに立つ際に、以下のような決心と考えを持っていた。

「満蒙問題については、我国の満蒙政策遂行上実質的に故障の起こらぬ限りは大概のことは我慢するという考えであって、出来ることならば連盟に踏みとどまりまして、過去13年間世界も認めておる通り、我が国が最も連盟に忠誠なる国の一つであった、この歴史を継続して、よってもって、なお世界の平和のために尽くすようにしたい」

だが、その結果は完全に失敗して帰ってきた。

「一面我が国の立場を明らかにし、主張を通しておきながら、他面連盟に残っておりたい、そういうようにしたいということは、ご承知の通り失敗したんです」

この点は自分の不徳であり、国民に申し訳ないと謝罪した。

松岡は連盟外交が失敗した原因を1月20日以降の英国の態度硬化に求め、その理由を以下列挙した。

・中国が英国商品をボイコットすると脅した

・和協委員会への米国招請を日本政府が拒絶した

・十九人委員会報告書をめぐる英国の妥協申し入れを日本政府が拒絶した

・欧州情勢の緊迫化により、連盟中小国がいかなる武力行使にも脅威を抱き、欧州問題を重視する英国が中小国の声を無視できなくなった

・熱河問題が英国の華北権益に不安をもたらした

今まで振り返ってきたように、日本の連盟脱退の原因はまさに英国の態度硬化にあり、松岡の認識はかなり正確であった。

松岡は世論に迎合せず、和協への努力に奔走し、連盟脱退の責任を認め、責務を果たせなかったことを率直に詫びた。

この事から、とかく厳しい外交評論を行う清沢烈も、松岡には同情を以て評した。

清沢は満州事変時の外相が松岡で、連盟代表が幣原喜重郎であれば、日本はどんなに適所に適材を得たかと想像する。

清沢は幣原が連盟に切った啖呵を「余りにその声が細きに過ぎた」と評する。

満州問題で日本は異常な決心を持っていた以上、強い声で世界に見栄を張るべきであった。

対して松岡の地声は「日本の誰の声よりも適当であった」

だが、これが連盟の場に適当なのか。

連盟の場は、外交で切った啖呵をまとめる場所であり、善後策には常に妥協と譲歩を必至とするのだ。

このミスマッチを清沢は惜しんだ。

更に清沢は、松岡がジュネーヴの散歩中に語ったとされる言葉を紹介している。

曰く、自分の手元には国民から激励の手紙が舞い込んでいるが、それを整理したところ、1通だけ

「会議をまとめて来てくれ」

との無名の手紙があった。

「君、俺はこの一人をほんとに愛国者だと思うね」

と松岡は語ったという。

清沢はこの言葉に、松岡の心境を見出した。

ゴムの化石化

松岡は連盟脱退を防ごうと奮闘したが、連盟代表部の外交官が一人頑張っても、如何ともし難い。

本気で連盟に残りたいのであれば、外務省、政府の強力な指導が必要である。

斉藤首相自身は、連盟脱退について以下のような自己評価を下している。

「その時々の当座の切り抜けに類することのみに精力を費やしおり、政府として、更にもう少し永遠の方針に関する政務に振るるところなきは遺憾なり」

まさに、その場を凌ぐだけの外交が随所で展開され、日本は連盟脱退の死地へと追い込まれていった。

斉藤内閣は政友会との政治的駆け引きによって長期政権となっていたが、国論を導くだけの政治力は何も有していなかった。

宇垣一成は連盟脱退を外交の失敗であると断じる一人であるが、失敗の理由を以下のように語っている。

「軍部一部の短見者流の横車に引きずられて青年将校でも述べそうな事をお先棒となりて高唱し、何らの策も術もなく押しの一手一天張り無策外交の極地を発揮した」

だが、内外の危機を前にして下手に国論をかき乱すではなく、ただひたすら流れに身を委ねる外交は、時代にマッチしていたのかもしれない。

高橋財政により経済の危機も収束し、満州問題も塘沽停戦によって収束し、軍部の統制も一旦は回復された。

これを何もせずに行き着くところまで行った無策の結果と見るか、斉藤のスローモーションの手腕と見るかは、非常に評価が難しいところである。

松岡には同情的であった清沢も、対連盟外交については厳しい目を向け、ポーツマス条約外交を比較する形で批判した。

日露戦争当時、桂太郎首相と小村寿太郎外相が一体となって世論の圧力に立ち向かい、決死の覚悟で講和会議をまとめようとした。

「我らは民衆の声を土台とする議会政治に異議はありません。

しかしながら国家の絶大なる難局に面した場合には、暫く輿論を無視し、国家のために一身を犠牲にするのも国民、ことに指導者の任務ではないでしょうか」

一方、斎藤首相と内田外相は世論に迎合し「輿論の趨向」「国民の総意」という言葉で、世論に責任を転嫁した。

「彼らは群衆の前に平伏し、恐怖して、ただそのご機嫌を失わざらんことにつとめているではないか」

小村は全ての人を満足させなかったが、内田は全ての人を満足させた。

ポーツマス条約は日本の国際的孤立を避けるために行ったが、連盟外交は自ら進んで孤立に進んでいった。

もはや日本には国士的な矜持を持った指導者はおらず、世論を恐れ矜持を失った政治家しかいなくなったと嘆いた。

清沢の内田批判は強烈であったが、中にはこのような皮肉めいた評論もあった。

ジュネーヴにおいて松岡は必死に妥協案をまとめようとしたが、日本には不幸にも内田という石のような長官がいた。

「二十世紀において日本が面した最も大きな悲劇は、重大な場合にゴムが化石したことであります」

国際潮流

日本は連盟を利用して、満州問題の解決を国際的に承認させようと考えていた。

その試みはある程度のところまで成功したが、満洲国を単独承認したことによって、九カ国条約違反は免れなくなった。

アイルランドの批評家、バーナード・ショーは満州国について

「日本はとても自分で食えないものをとった」

と皮肉を込めて評したが、日本はまさに自分で食えないものを取って自滅した。

日本の立場を擁護し、連盟において対日宥和を図ってきた英国も、九カ国条約を真っ向から否定する日本を支持することはあり得ない選択肢となった。

本来、英国にとって満州などどうでもいい辺境であり、むしろソ連の抑えになるので、満州が日本の手で強固になるのは望ましくすらあった。

だが、日本が満州で行っている事は、西欧列国が19世紀に行ってきた典型的な旧外交の真似事である。

現実主義の英国やモンロー主義の米国が大国間の密室政治で調停してくれる時代は終わったのだ。

ウッドロウ・ウィルソン米大統領が示した新外交理念は着実に発展し、その結実である国際連盟は国際社会に影響を発揮していた。

一方、日本は連盟の理念や精神には無関心で、大勢順応の下に参加しているに過ぎなかった。

しかも、日本は米国が主導した不戦条約を単なる道徳的な効力のない条約と見做し、その意義を殆ど顧みなかった。

それ故、日本は不戦条約を無視し、条約内で認められた自衛権の名目で中国の一部を切り取ろうとした。

だが、戦争違法化の趣旨は既に世界に広く受け容れられ、日本の行動は明白な条約違反であると断じられるに至った。

33年2月24日、連盟総会において採択された勧告案は、日本が完全に見誤った新しい国際潮流を物語る。

曰く、紛争解決には連盟規約、九カ国条約、不戦条約の規定を遵守する事。

諸条約に反する手段によってもたらされた条約、協定を承認すべきではないとする連盟総会決議を遵守すること。

ここに普遍的な国際機関である連盟が、不戦条約の定める戦争違法化と、地域秩序である九カ国条約を取り込み、国際秩序の代表者となった。

今後の国際社会は、連盟規約・不戦条約を規範とし、地域秩序を重んじ、意思が形成される仕組みとなったのだ。

集団安全保障の成功と失敗

国際連盟は満州問題の解決に失敗し、常任理事国である日本を失った後、急速に権威を失墜させた。

日本の連盟脱退から間も無くジュネーヴ軍縮会議が失敗し、33年10月にはドイツが連盟を脱退した。

35年になるとイタリアのエチオピア侵略に対し初めて第16条制裁を発動するが、肝心の石油禁輸までは踏み込めず、エチオピア併合を止められなかった。

日中戦争に関しても日本の無差別爆撃を非難し、第10条、11条、17条違反を認めつつ、非難以上の措置に出れなかった。

国際連盟は勢力均衡の旧外交に代わる集団安全保障を掲げたが、集団安全保障は機能不全に陥り、世界は無秩序に陥った。

この結果だけ見れば連盟の弱点は明白である。

連盟最大の機能である集団安全保障は、大国の協力があって初めて成り立つのだ。

そして、大国自らが連盟の原則に違反した場合、連盟は有効な措置を取ることが容易ではなくなる。

日本とドイツが連盟から離脱し、イタリアが連盟規約を侵犯した以上、もはや連盟が取り得る手段は限られていた。

だからと言ってその試みが全て無意味だとは考えられない。

連盟が日本に対して集団安全保障を発動したことは、歴史的に大変意義のある出来事であった。

中国は連盟加盟国と共同して日本に対抗し、主権の回復と平和の確保しようとした。

大多数の中小国も連盟規約の普遍性を擁護し、中国側に立って日本の国家主権の行使に条件を課して制限しようとした。

日本は紛争当事国として迎えた連盟外交の中で、常に第16条制裁の危険性を念頭に置き、理事会や総会において自己援護を余儀なくされた。

日本の主義主張は連盟規約や諸条約と何ら合致するところなく、外交官の沢田節蔵曰く「五面六面楚歌」に追い詰められた。

その中で連盟は満州国不承認の集団的意思を形成し、大国である日本は自ら連盟脱退を選択せざるを得なくなった。

満州事変は強国が弱小国を虐げる、歴史上何度も繰り返されてきた光景である。

だがその結末は、大国間の密室政治が国際世論により打ち破られるという、歴史的にも稀な結果となった。

連盟の成功と失敗を踏まえ、1945年10月24日、後継たる国際連合が設立された。

侵略戦争

日本は満州事変を中国の不法行為に対する自衛権で正当化しており、不戦条約に照らして合法化していた。

この事から、満州事変は侵略戦争か否かという議論が盛んに行われている。

確かに「侵略」という用語にはイデオロギーな意味合いが付き、その使用には慎重を要するだろう。

そこで最後に、国際法学者の信夫淳平が記した「交戦権拘束の諸条約」から、この点について考察しようと思う。

この論文は戦後に書かれたもので、信夫は太平洋戦争における日本の戦争犯罪を、国際法の観点から論理立てて説いている。

そもそも侵略戦争とは如何なる行動を意味するのか。

侵略という言葉は第一次世界大戦後に流行語になったが、確たる意義は不明瞭のままであった。

まず、考えられるのは先制攻撃を侵略と断定する事だが、これはその実、難しい。

相手を挑発して手を出させ、それを口実に侵略を行うのはプロイセン・ビスマルクの常套手段であるからだ。

本当の侵略者は、自ら先に手を出して、侵略国という不名誉を負うような稚拙なことはしない。

どっちが先に手を出したかで侵略国を決める事は出来ない。

ラムゼイ・マクドナルドは、侵略について、このように語る。

「侵略の責任の帰着を判定するの能のある者は戦後五十年を経て筆を執る歴史家であって、開戦の際における政治家にあらず」

相互援助条約は侵略国を規定したが、何を以て侵略行為と為すかは、満足な定義は立っていない。

連盟軍縮諮問会の決議は、以下の見解を示している。

「真の侵略は何ら有形的の行動には存在しないで、一国の他国に対する政治的政策の上にこれを求むるの外ない」

世界の国々は種々議論を重ね、国際義務、条約義務に違反して武力に訴えることを侵略の要件とした。

しかし条約の解釈権は当事国にあり、一方が条約違反を論じたところで、他方が違反ではないと反芻するのは自由である。

また第三国の見解が一致するとは限らない。

つまり、ある国が国際義務違反であるかどうかは議論の余地があり、侵略国を的確に判断するのは実際において難しい。

一体誰が何の権限で侵略行為を認定するのか。

各国の利害が一致しない限り、このような重大な問題を多数決で決めることに、各国が同意するとは限らない。

そこに他国に対する交戦権を制限する不戦条約が誕生した。

この条約について、当初フランスは放棄すべき戦争を「国家の政策の具としての戦争」と定義した。

これを後に「侵略戦争」と修正しようとしたが、米国は同意しなかった。

米国は、侵略の定義に何一つ満足するものがないと認識していた。

侵略国の定義や、開戦を正当化しうる条件・例外を一つ一つ挙げても、何処かしらに抜け道がある。

その抜け道は侵略者の道しるべになってしまうのだ。

不戦条約と自衛権

信夫は次に自衛権について説く。

国家の自衛権と称する権利の性質はなにか。

権利は義務に対応するのが普通であり、義務に対応しない権利は本能である。

その点から考えれば、自衛権は自衛の本能である。

国家がこれを行使する場合、相手国はこれに服従するような義務はなく、相手国もまた本能的に自衛権で反撃する権限がある。

自衛は国家の本能であると言えよう。

不戦条約は制限すべき戦争の適用範囲から自衛戦争を除外した。

自衛権は国家の当然の権利であり、自衛権が何たるかを決定するのも国家主権の権利に属するとの見解は列国に共有されていた。

何れの国も自衛権を利用するのに躊躇しない中で、不戦条約上の義務は無いに等しい。

自衛権は他国の権利を尊重すべきという根本原則に対する一つの除外例である。

その適用は狭義かつ厳かに解釈しなければならないはずだ。

だが、互いが自衛権を主張し、互いに自衛を正当化するならば、もはや何人も真の自衛がいずれの方にあるのか判断がつかなくなる。

国家の自衛権の濫用は国際平和を破る原因である。

これを厳重に抑止するような有効な方法が確立されない限り、不戦条約は何ら役に立たない。

ドイツの宰相は第一次世界大戦開戦時に「必要は法を知らず」と述べたというが、必要を前に破られるような条約ならば初めから結ばない方がよいのだ。

神聖なる条約の精神

信夫は不戦条約を、事実に置いて不戦が不戦ではないと断じる。

戦争放棄などは出来ない相談であり、自衛権の広義解釈を許す限りは、大概の戦争は自衛権の名によって行われるだろう。

しかし、いくら条約に問題があるとは言っても、日本が不戦条約に違反したことは明白である。

不戦条約は国家の政策手段としての戦争を禁止している。

これは相手国の挑発を受けたのではなく、また自衛の必要もなく、自国の対外拡張政策に要求にそって行われる戦争を意味する。

これこそが侵略戦争である。

たしかに不戦条約には侵略戦争の文言はないが、侵略戦争を禁止しないという意味ではないことは誰が見ても明らかである。

日本は国際法上の戦争ではではなく、事変なら何ら条約に抵触しないだろうと強弁した。

外交の技術的にはそうなのかもしれないが、条約を締結した以上は条約の精神は守らなければならない。

信夫は条約に抜け道があると言っても、それを利用するのは締結国としては無責任であると説いた。

まさにこの点が、日本の外交に欠落していた決定的な要素であった。

日本は連盟外交の中で、規約解釈は法理論といった官僚的な外交技術を度々用いて、自らの有利になるように図った。

だが、それは本当に守らなければならない連盟規約や不戦条約、九カ国条約の精神を歪める事であった。

日本の主義主張は一面では正しかったが、その全てが一蹴されるに至った。

戦前日本外交は条約の条文条項一字一句を尊重した一方、その条約の理念や精神には無関心であった。

これが戦前日本の反省すべき一点であり、現代の日本が重視しなければならない一点である。

参考書籍

危機のなかの協調外交 井上寿一

man

対連盟外交の中の協調外交について。

満洲国と国際連盟 臼井勝美
満州事変から日中戦争へ 加藤陽子

man

満州事変と対連盟外交について。

国際連盟と日本外交:集団安全保障の「再発見」 樋口真魚

man

国際連盟における集団安全保障機能について。

国際連盟 篠原初枝
国際連盟: 国際機構の普遍性と地域性 帶谷俊輔

man

国際連盟と地域秩序について。

英米世界秩序と東アジアにおける日本―中国をめぐる協調と相克 一九〇六~一九三六 宮田昌明

man

英国の連盟認識と満州事変認識について。

自衛権の系譜―戦間期の多様化と軌跡 西嶋美智子
近代日本と戦争違法化体制―第一次世界大戦から日中戦争へ 伊香俊哉

man

自衛権と戦争違法化に詳しい。

芦田均と日本外交 矢嶋光

man

芦田均の本格評伝。

華北事変の研究―塘沽停戦協定と華北危機下の日中関係一九三二~一九三五年 内田尚孝

man

熱河作戦について。

「満洲」という遺産:その経験と教訓 劉建輝編

man

満州事変に関する論文集であり、示唆に富む。

国際連盟脱退の諮詢をめぐる相克 竹内桂

man

連盟脱退が枢密院に諮詢された経緯に詳しい。

外交と世論-連盟脱退をめぐる一考察- 緒方貞子
『大阪朝日新聞』の論調,1931-1935年 軍縮・普選をかかげた「メディアの寵児」の変貌 益子酵三

man

対連盟世論と外交との関係に詳しい。

国際法における侵略と自衛 : 信夫淳平「交戦権拘束の諸条約」を読む 日暮吉延

man

信夫淳平「交戦権拘束の諸条約」の解説と全文掲載。