大正政変

コラム

桂太郎と原敬

1901年当時、政権にあったのは山県系の軍事官僚である桂太郎である。

第一次桂太郎内閣は閣僚の大半が山県系官僚閥であり、小山県内閣、二流内閣だと揶揄され、政党に基盤を置かないことから短命政権になることが予想された。

しかし第一次桂内閣は4年以上の長期政権となった。

それは日露戦争が勃発したからである。

大国ロシアとの戦争により、日本は挙国一致体制を固め、議会も政府に対しては協力姿勢を取った。

日露戦争は近代日本が初めて体験した大戦争であった。

これを支え続けた国民は兵役と非常特別税によって生命財産の負担を強いられた。

国民の不満は、講和条約の中で賠償が得られない事が明らかになると爆発し、その怒りは日比谷焼き討ちという前代未聞の大暴動を引き起こした。

かろうじて国内騒擾を鎮圧した桂だが、内閣の求心力は急速に衰えた。

桂はロシアとの講和条約をまとめるために、衆議院第一党である政友会との交渉を開始する。

その交渉に政友会代表としてあたったのが原敬である。

原は政友会総裁西園寺公望に代わって党を切り盛りする幹部であり、後に大宰相として君臨する政治家である。

桂は国民の不満の矛先を交わす為に、以下のように語り、政友会への政権譲渡を示唆した。

「平和を克復したるならばきっと国民はその条件に満足せざるべし。

故に自分一身は犠牲に供する覚悟なり。自分の退くは戦後経営の案にて退きたし、その際には西園寺を奏薦したき決心なり」

その条件は、講和条約に政友会が協力する事である。

この時、政友会には二つの選択肢があった。

一つは桂との政権譲渡交渉を進めて、政友会と山県系官僚との連立内閣を目指す。

二つは衆議院第二党である憲政本党と提携して、桂内閣を倒閣し、一挙に政党内閣樹立を目指す。

政友会が選んだのは前者であった。

確かに、政友会が憲政本党と連立を組めば、かつてない強力な政党内閣が誕生するだろう。

しかし、あくまで冷静な原は、政界の情勢を、政友会、憲政本党、藩閥の三者が鼎立しているとみた。

そして、政友会・憲政本党はその独力では内閣を維持出来ず、また藩閥も両政党を無視して政治を行うのは困難であると観測していた。

よって「この三分子中二分合わせば天下の事甚だ為し易し」と考え、政友会と桂(山県系)が提携して政権を取ることを選択した。

桂は政友会と山県の間でバランスを取るために、政友会に対しては政党内閣を標榜しないことを求めた。

また元老などの代表者を入閣させないことを申し入れた。

この密約に従い、政友会総裁を首相とする西園寺内閣が誕生する。

この内閣に政友会側から入閣したのは西園寺、原、松田のみであった。

山県閥からは寺内正毅と山県伊三郎が入閣し、政党と官僚の連合内閣の様相であった。

情意投合

西園寺内閣は戦後の好況を背景に積極政策を展開し、鉄道・港湾の整備、河川改修など地方の利益に応えようとした。

しかし間も無く戦後不況が日本に襲いかかる。

西園寺内閣はこの不況に抜本的な対策を打てなかった。

日露戦争で賠償金を全く獲得できなかったことから、戦費の公債償還は深刻な問題となっていた。

日露戦争により日本の外債は12億まで膨れ上がり、その利子だけで毎年6千万に達していた。

しかも輸入超過により毎年相当量の正貨が流出していた状態であった。

間も無く、内外債を財源として計画された積極政策の維持が困難となる。

これに対応するために事業繰り延べを最小限にし、酒税・砂糖消費税の微増や石油消費税新設を強行した。

その為に軍事費、植民地経営費などが急激費膨らみ、外積依存が高まり、財政危機となっていた。

1908年の第10回衆議院議員総選挙では政友会は過半数を獲得する圧勝っぷりを見せていた。

だが桂は、財政行き詰まりを理由に倒閣を元老に説いて回る。

政友会に好意的であった元老井上馨や伊藤博文に対しては、自分が政権を取れば経済不況から脱出できると説き伏せた。

こうして元老と財界が健全財政復帰を求めて西園寺内閣の倒閣に動いたために、政友会は過半数を制しながら一度も議会に臨めずに総辞職に追い込まれた。

西園寺内閣に代わって第二次桂内閣が成立した。

桂は財界の支持を背景とし、一視同仁を掲げて憲政本党と山県系の非政友会系との合同を進め、政友会の一党支配を脅かそうとした。

しかし一視同仁は間も無く打ち切られる。

問題は減税問題であった。

日露戦争の非常特別税に苦しむ地主たちが桂内閣の官吏増俸案に猛反対したが、これに憲政本党も地租軽減を唱えて応えた。

一方、政友会は地租軽減に関心を示さず、桂に対して妥協の余地があることをちらつかせた。

この地租軽減問題が桂の一視同仁方針は大きな打撃を与えた。

地租の減税論を抑えたいなら一視同仁を放棄して政友会との関係を強めるしかない。

地租軽減を唱える憲政本党と桂内閣の政策を支持する山県系との大同団結など不可能になった。

一視同仁というハシゴを外された憲政本党は、憲政本党は小会派を加えて立憲国民党に改組され、犬養毅主導の下、反桂内閣の色を鮮明にしてゆく。

だが、一瞬とは言え桂との提携の可能性がチラついた為に、党内に藩閥政府支持によって党勢を維持しようという改革派が生まれた。

官僚政治の打破を掲げる犬養ら非改革派がこれに相対して、党内分裂状態に陥る。

これが後の大分裂を引き起こす端緒となった。

更に桂内閣には海軍拡張問題が降りかかった。

英国を中心に大艦巨砲主義が台頭し、日本の戦艦を旧式に追いやる超弩級が誕生していた。

海軍は現在の戦力では日本の国防は保障できないとし、総額4億円もの海軍拡張案を政府に提出した。

これに対し桂は総額8000万円の海軍軍拡を認めるという案で海軍を説得した。

しかし8000万もの海軍軍拡について、衆議院第一党である政友会を説得することは困難であった。

原は桂から海軍軍拡を行わないという言質を取っていたからである。

それなのに海軍拡張費の承認を求められた為に「費用を増やさぬやと問いたるに増やさずといいたるに今や増額ありては随分その弁明に困らざるか」と追求している。

もはや議会を乗り切るためには政友会に譲歩するしかない。

その唯一の手段は、西園寺への政権譲渡の約束しかなかった。

なお、この時、国民党の犬養は原に対して、両党を解散して統一新党を結成し、桂に対抗しようなどと呼びかけていた。

しかし原は、以下のように考え、合同を否定した。

「彼らと共に藩閥打破などというが如き単純なる旗幟を立て平地に波を起こすが如きは殆ど世上の同情を得ざるのみならず、遂に永く逆境に甘んぜざるを得ず、目下の政界は彼の想像するが如き単純なるものに非る」

その一方で桂との会見では、もし次期政権が山県系によって組閣されれば国民党と組んで内閣不信任案で弾劾すると示唆して、圧力をかけていた。

桂と原との間で直接交渉が重ねられた結果、政友会が政府の予算案を支持する代償に、政友会への再度の政権譲渡が成立した。

結局、衆議院は政友会の助力がなければ乗り切れるものではなく、桂は政友会に依らざるを得なかった。

原はこれでは飽き足らず、この政権譲渡が単なる妥協以上のものである旨を公表するように主張した。

政友会内部には桂との妥協を反対し、政友会単独内閣を主張する声があったからだ。

1911年1月29日、桂は政友会代議士たちを招待し、その席上でこのように語った。

「貴党の穏健なる政見を以って国家に貢献せらるるは、余輩のつとに認むる所にして、また常にその協力に待つもの多し。

今や朝野その処を異にするも、既に国家の為執るべき施設及び方針においてその揆を一にする所あり。

情意投合し協同一致して以って憲政の美果を収むることは、これ余輩の切望して止まざる所にして、また貴党の意もこれに外ならざることは信じて疑わざる所なり」

これに対し西園寺は、政友会総裁として桂との情意投合を志望する、と答辞を述べた。

ここに山県系の最有力者である桂が憲政実現のために政友会と協力関係を結ぶという情意投合が成立した。

桂園時代

情意投合により桂と政友会の天下が訪れたかに見えた。

陸軍の宇都宮太郎大将は当時の情勢を以下のように記した。

「所謂妥協以上の情意投合ありてより、議会あるも議会無きが如く、政党あれども政党無に等し。

換言すれば天下は全く一統せられて、関ヶ原も大坂役も昔物語と為りたる三代将軍以上の権勢、由井正雪も大塩平八郎も屏息竄匿、手足の出づる所を知らざる有様なり」

後にこの明治後期は、桂と西園寺が互いに政権を譲り渡す政治的安定時代、桂園時代として知られることになる。

桂と西園寺の馴れ合いと理解される桂園時代であるが、情意投合は政権交代の問題を解決するものではない。

共通の利益に基づく短期間の合意に過ぎなかった。

それに情意投合は政友会に一方的に有利であった。

情意投合の経緯通り、桂は政友会に譲歩を余儀なくされ、西園寺内閣の掲げる重要法案の支持を表明し、組閣の全権も引き渡せねばならなかった。

第二次西園寺内閣は桂は事前に相談もなく山県系が排除され、他の閣僚も原と西園寺が選んだ。

これを受け、桂は元老井上や山県に対し、政友会は意のままに利用できるから心配ないなどと、情意投合を釈明しなければならなかった。

一方、この情意投合により政友会内部の原の発言力は益々増大した。

原は情意投合を単なる政権円満授受ではなく、以下のように政党内閣への大前進と見ていた。

「何となれば藩閥もしくは官僚というが如き到底永久に存続すべき性質のものに非ざる事は論を待たざれども、さりとて今日にわかにこれを打破一掃するが如き事は行わるべきものに非ざる事明らかなれば、少なくも桂の如き大体より一致せんとの説あるは幸にて、彼の心中、また周囲の事情如何は何れにせよ、かくして一新生面を開くの外なしと確信したり」

そして情意投合を「憲政史上に一新紀元を与うべしとも思わるる重要事件」と評した。

政治的には藩閥に対する政友会=原の勝利である。

しかし桂はここで終わる男ではなかった。

桂は原が考えていた以上の存在であった。

1907年帝国国防方針と二個師団増設問題

日露戦争終結後、国力を傾けてまで無理やり拡大した国防力をどうするかが問題となった。

普通ならば軍縮であろうが、そうはならなかった。

日露戦争の功績ある将官に対し、軍縮でポストを奪うなどは出来ないという情実もあっただろうが、理由はそれだけではなかった。

元老山県有朋の安全保障構想には、ロシアの軍事力の脅威とロシアとの再戦に備えると言う重要課題があった。

バルカン戦争におけるロシアの行動を見れば、ロシアは日露戦争の失敗に学んで、報復戦争を仕掛けてくる可能性は十分あった。

山県は日露戦争ではロシア陸軍を撃滅できておらず、その軍事力は健在であると見た。

「早晩復讐を実行するに至るべきは智者を待たずしてこれを知るべし」と論じて、ロシアの復讐的南下を警戒した。

これは決して非常識な判断ではない。

次に、ロシアが後退した事で欧州にドイツが台頭すると読み「ドイツの目的は殆ど何らの恐るべき障害に遭遇せずして十の八九を成就するに至るべく」と警戒した。

日清戦争の三国干渉は記憶に真新しく、中国山東省のドイツ権益をめぐり、日独が将来対立するのではと警戒した。

最後に清国がポーツマス講和条約に参加しようとしたことを挙げ、不信感を露わにした。

ロシアの敗戦により清国は相対的に自国の地位を向上させていた。

日本に対し関東州からの撤退を要求するかもしれず、更にロシアに接近して、日本に対し牽制してくるかもしれない。

山県は清国の近代化は不可避と考え、いずれ大陸権益を巡って日清が衝突すると考えていた。

だが山県には清国と同盟を結んで、共に露独に備えるという発想はなかった。

以下のように、山県の基本的な考えは、脱亜入欧である。

「日本が欧州の強国と戦うて勝利を得たるは決して有色人の白色人より強きことを証明するものに非ず。

むしろ欧州文明の勢力偉大にして善くこれを学び得たる有色人が文明の潮流に後れたる白色人に打ち勝ち得ることを証明するものに外ならず」

以上、山県の安全保障をまとめると、中国大陸に向けて勢力を拡大し、ドイツやロシアに備える、とまとめられる。

このような安全保障認識の下、山県は戦後経営意見書を上奏して軍拡を主張した。

山県の主張の下、1906年末には陸海軍の事務当局レベルの国防方針策定が始まり、陸軍は平時25個師団を主張した。

現状は17個師団であり、8個師団の増設である。

しかしこれに海軍は立ちはだかる。

この当時の海に目をやると、極東ロシア艦隊は全滅し、海洋国家の英国とは同盟関係にあり、海上における日本の安全は何ら心配するところではない。

しかし日露戦争の終局を決めたのは、日本海海戦である。

国民の海軍に対する支持は強く、海軍は急速に発言力を強めていた。

海軍は強力なシーパワーこそが国家の安全を保障すると考え、弩級戦艦八隻、弩級巡洋艦八隻からなる八八艦隊計画を立てた。

そして、海洋国家を志向し、太平洋を挟んだアメリカを仮想敵とした。

一方で陸軍は大陸国家を志向し、ロシアを仮想敵としている。

こうして陸海軍は根本方針から対立した。

その為に1907年に策定された帝国国防方針は、両論併記の大軍拡計画案となってしまった。

このような陸海軍の軍拡にいかに対応するかが桂園時代の政治課題であった。

帝国国防方針に対し西園寺は、国力に応じてという留保をつけて適当であると奉答したが、財政を盾に軍拡に抵抗し、国力に応じて緩急をつける方針をとった。

陸軍は第一期計画として4個師団増設を求めたが、第一次西園寺内閣が認めた軍拡は陸軍2個師団に過ぎず、財政事情から残り2個師団を後回しとした。

その一方で海軍の軍拡に関しては好意的であり、基本的に要求を容れる姿勢を見せていた。

1911年、辛亥革命が勃発した。

革命で清国が消滅した事で日本の満蒙権益が流動的になり、山県や山県系陸軍官僚の寺内正毅は日本の国防上における陸軍の重要性を改めて痛感した。

田中義一陸軍省軍務局長も以下のように情勢を非常に憂慮している。

「支那は吾々の生存に至大の関係を有する地域である。支那が各国のために分割されるとか、もしくは各国の勢力範囲に分けられるということにでもなれば、日本はどうして立ち行かれるか。

日本としては是非とも支那が独立していなくては立ち行かぬのである。

従って極東における日本の地位は非常に危うくなってきたのである」

しかし軍拡問題について陸軍は海軍と、海軍を支持する西園寺に妨害され続けていた。

陸軍は韓国併合による国防範囲の拡大、辛亥革命後の中国情勢、ロシアの軍事輸送力強化に対処するため、1907年当時に後回しになっていた2個師団増設を要求した。

その財源には陸軍予算の繰り延べや整理によって浮いたものを一部として当てようとした。

しかし第二次西園寺内閣は行財政整理・緊縮財政の方針の下に予算案を編成し、陸軍の要求を容れようとはしなかった。

増資問題で政財界とやりとりした田中軍務局長は、政府の財政方針に協力して財政負担とならないように配慮しているにも関わらず、政府が重大な国防問題に無関心である理由がわからなかったとの感想を漏らす。

しかも政府は海軍に対しては緊縮財政とは別に増艦費として600万を計上している。

田中は寺内に対し、西園寺内閣の対中政策の無為無策の原動力となった存在を指摘し「自己の畑を拡張することのみを知って国の存立を思わざるの人あり」と暗に海軍を批判している。

こうして陸軍の海軍への対抗意識は強まった。

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桂の宮中入り

第二次西園寺内閣が陸軍との軋轢を深める中、1912年7月7日、桂は側近の若槻礼次郎、後藤新平を伴って欧州旅行に出た。

各国元首と会談し、旧友に会うとの名目だが、欧州の政党について研究することが目的の一部だと信じられていた。

このまま桂に衆議院の支持基盤がなければ政友会へ一方的に譲歩し続けなければならない。

自らの政策を実現するためには、衆議院に自分の支持基盤となる政党を結成するしかないと考えるに至ったのだ。

桂自身も以下のように述べて、政党政治家として歩もうとしている。

「政府はこの際一大政党に依るに非ざれば、到底今夜の国政を料理すること能わざるべきを看取せり」

桂が国民党改革派と桂系御用政党を合同させ、政友会に対する一大政党を結成するのではないか、という噂は欧州旅行の際に最高潮となった。

そして、桂が総理大臣に返り咲いたら、その計画を実行に移すだろうと考えられた。

しかし7月30日、桂の欧州旅行を後押ししていた明治天皇が崩御した。

桂は旅行を打ち切って帰国したが、国内で待っていたのは、内大臣兼侍従長として新帝を支えるための宮中入りのお膳立てであった。

内大臣は天皇の常時補弼が役目だったが、前任者の三条実美は政治力のない元公卿だったこともあり、当時は政治力のない名誉職に近いものだった。

世間は山県が宮中を掌握するために桂を送り込み、新帝に対する影響力を確保しようという陰謀があると見た。

しかし桂は今まさに政党結成に臨もうとしていたのであって、現役の政治生活から引退する気などなかった。

山県の支配から脱し、山県に相談せずに物事を決め、情意投合のような独走を行う桂は、宮中に押し込まれる形で引退に追い込まれたというのは政界の常識であった。

桂の宮中入りは重大な事態を引き起こす。

中国に混乱が起きる前に二個師団を増設することを要求する陸軍、国内経済を重視し財政引き締め政策に乗り出した西園寺内閣。

この両者の調整を行なえる唯一の政治家が桂であった。

しかし桂は政界引退を理由に調停に消極的になり、政局は一挙に不穏な情勢となる。

上原陸相単独辞職

8月29日、西園寺が山県を訪問し、二個師団増設を訴える上原勇作陸相案に対し、このように語った。

「今日陸軍を拡張する時は、米国を始め列強より、日本がまた野心を起こしたりとの嫌疑を受け、外交上甚だ不利益なり」

そして、今このような案を提出されるのは迷惑であると告げた。

これに対し山県は、陸軍当局が承諾するかはわからないと前置きし「財政の状況に顧み、陸軍の要求に応ずるの工夫を為すべし位の程度にてまとまりをつけられては如何」と説いた。

そして、増師に代わる手段として、機関銃隊の増設や砲工兵隊の改良、無線電信や自動車、飛行機の整備などの軍備充実の代替案を出し、このように理解を求めた。

「陸軍は大正四年に至るまでもごうも国庫を塁はさずして、増師を実行せんと言うに非ずや。

思うにこれ苦心惨憺の余りに成りたる計画にして、陸軍に在りては、従前二人にして為したる仕事を一人にて為し、八時間眠りたる所を四時間に減じて、以って国防の欠陥を補うに資せんとする、真に臥薪嘗胆の決心ならん」

このように山県の姿勢は増師一本槍ではなかったが、西園寺は行財政整理の基本原則を曲げず、増師不可の態度を崩さなかった。

11月10日、再び山県を訪問した西園寺は、やや興奮した様子で「例の増師の事につきては、陸軍大臣の言うところ、何分論理に合わざるを以って、いよいよ言い切るつもりなり」と述べた。

二個師団増設の一年延期は上原陸相以外の閣僚によってなされた閣議決定であり、それを覆して増師することは陸軍に特別待遇を与えるものであると批判した。

これに対し山県は前回同様、ある程度の軍拡を認めるよう忠告した。

11月11日、西園寺は政友会幹部の原、松田と相談。前日の山県の会見の内容を伝えた。

そして、上原陸相に対し、この際増師案を提出することは不可であると断り、同時に軍備整理は実行せよと申し渡すと決定した。

いよいよ破局が近づいた中、11月16日に原は桂に対して増師問題について調停を求めた。

だが、桂は宮中の地位にては口を出すのは困難であると断った。

これに対し原は「それは表面の事なり、このままになし置かばお互いに思いもよらざる境遇に立ち至るべし」と警告した。

桂の消極的な姿勢を見て、原は「誠意を以って時局を収拾するの考もなきこと看破せられ、結局桂などはこの問題を以って内閣の倒るることを望むものなり」と陰謀を観測している。

11月30日、ついに西園寺内閣は上原に辞任を求めた。

上原は西園寺と協議することに同意しながら、12月2日には辞表を直接天皇に提出した。

陸海軍の軍部大臣の任用は現役の中・大将に限られるという軍部大臣現役武官制があった。

ここで陸軍は後任陸相を出さなければ、西園寺内閣は成り立たなくなる。

西園寺は山県に後任陸相を出すよう依頼したが、山県は増師問題の再考を行って上原を留任させるほうが先決だとし、後任陸相推薦を拒絶した。

ただし山県はこの問題を以って内閣を倒壊しようなどとは考えていなかった。

二個師団増設が世間で不評なことはよく知っており、陸軍が内閣を倒したと非難されるのを望まなかった。

陸軍高官に対し、この問題は陸軍対国民、藩閥対国民、官僚対国民に発展する恐れがあると警告すらしていた。

山県が西園寺を突き放したのは、ギリギリまで押せば西園寺は増師をある程度は受け入れるだろうと考えていたからだ。

確かに西園寺が政権に固執すれば、その通りになるはずである。

しかし西園寺は「何かをやるには多少の余裕を残す方が良いというのが、私の平生の考え方である」と考える人物であり、政権維持には淡白であった。

西園寺が妥協に応じない一方、山県は桂に対し上原の辞職を止めさせるよう連絡した。

これに対し、桂は西園寺との妥協は到底成就する見込みがないと断り、陸軍の方の調停にも失敗している。

原は、明確な意思表示を避ける山県に倒閣の意思があると見ていた。

一方で西園寺は、山県の陰謀があるとは見てない。

明治の頃であれば天皇の御沙汰を引き出して事態を収拾出来たろうが、もはやそれも不可能となり、しかも腹心であるはずの桂の態度が曖昧である以上、対処に困っていたというのが本当の所であろうと見ていた。

確かに、この問題は天皇の詔勅を得れば解決する問題であり、山県も桂に対して詔勅を奏請している。

しかし詔勅は出されなかった。

ついに後継陸相は出ず、西園寺内閣は総辞職した。

桂の出廬

12月6日、後継首班を選定する元老会議は、財政問題解決の為に元老松方正義を推薦しようとした。

松方は大命を拝受する気に溢れていたが、薩摩出身の松方を支えるはずの薩派の大物にして海軍の重鎮である山本権兵衛は松方の組閣に反対した。

その理由は、陸軍が松方内閣の登場を歓迎していたからだ。

これはつまり後任陸相を出す代償として、海軍補充計画を抑えて陸軍増師に向けようと考えていた事を示している。

これが出来るのは薩摩出身の元老であり、海軍に対して一定の抑制力を有している松方だから為し得る。

天皇の内意を受けて出馬に大きく傾いていた松方に対し山本は以下の様に辞退を勧告している。

「陛下の思召とはいえ、それは先帝の場合とは恐れながら異なるところあり。

自分の所信にてはたとい御沙汰なりとも出廬国家の為に不得策なりと信ずれば御沙汰に随わざる放却て忠誠なりと信ず」

山本の説得もあって松方は自身の出馬を断念し、代わって山本を推薦した。

しかし山本自身も、元老たちの陸軍問題に対する助力の約束を全く信用せず、組閣を拒絶した。

この間、山県系官僚の平田東助や寺内正毅も名前が上がったが、山県は世論の沸騰を見て、彼らを温存することを決めた。

12月12日、ついに候補者を失った山県は、元老会議にて以下の様に演説してみせた。

「然らば最早桂公と自分とのみ。自分は元と一介の武弁にして政事家に非ず。

しかして今や老耄の身なり。頑固にして、時勢には遅れ、かつ現に衆怨の府となれいれり。

この際自分が局に当たるにおいては、この上に紛糾を重ねいるの道理なれども、去り独り現在の如き無政府同然の状態をして更に持続せしむるは、吾々臣子の得て忍ぶ所に非ず。

自分はすでに決心せり。この上は自分と桂公との両人につきて聖断を仰ぐの外なからん」

これは桂の出馬を促す意味がある。

もはや政党・陸軍・海軍を押えて均衡を取れる政治家は桂以外には見出せなかった。

山県の決意を聞いた桂は自ら難局に当たる決意を固めた。

しかし桂は新帝を常侍輔弼する為に内大臣として宮中に入ったばかりである。

それがわずか4ヶ月で政界に戻るのは、宮中府中の別を乱すものだと非難が巻き起こることは自然であった。

これを回避するには一工夫必要である。

つまり内大臣から首相に転じる勅語を桂に賜ることであった。

だが、そのような事など前例がなく、桂は宮中から出て組閣することを躊躇していた。

そこで西園寺は桂に対し、西洋ではそのような事例は多々あると紹介し「時として宮中に入り、時として府中に入る、いずれも時の宜しきに従う」と述べて、憚ったり気兼ねする必要はないと励ました。

桂は大変喜んで、それなら安心だと述べた。

こうして12月17日、桂に対し組閣の大命が降下したと同時に、「卿をして輔国の重任に就かしめんことを惟う」との勅語が下された。

これは天皇自身が桂に対し、宮中から出て国務にあたることを求めるものであった。

第三次桂内閣成立

政権から追われた政友会の代議士たちは、今や藩閥と政権を分け合う必要はないと考え、政党内閣樹立という理想に燃えていた。

全国各地の政友会支部は官僚、軍閥の非難と、憲政擁護を決議している。

他方で原は、藩閥と政治的妥協を重ねて漸進的に政党内閣樹立に向かう方が良いと考えていた。

よって、政友会の名分が立つような妥協案を桂が持ち出せば、増師案に妥協して情意投合を維持することを画策していた。

しかし、世論は藩閥に厳しい目を向けていた。

増師問題は新聞に漏れ、増師反対運動が起こり始めた。

世間は、桂こそが西園寺内閣を倒した黒幕であり、自分に詔勅を出させて三度目の組閣を行なったとの負のイメージを抱いていた。

このような国民の不満が憤激となり、民衆運動に発展しようとしていた。

原は世論に迎合する人間ではないが、世論の動向には敏感な人物であった。

12月17日、原は西園寺に対し、以下の様に述べて、世論の動向から桂との安易な妥協を行わないよう注意した。

「目下政友会に対する全国の人気旺盛なり。

他日衰うる事もあらん。

去りながら今うかうかと妥協等によりて人気を落とさば正反対の結果を見るべし」

一方の桂は政友会との妥協をどう考えていたのか。

12月18日、西園寺を訪れた桂は、大浦兼武を内務大臣にする事述べている。

大浦は山県系官僚閥の重鎮であり、内務官僚を操作して選挙干渉を行う悪名高い人物である。

西園寺は「それは吾々を斬るの意味か」と反問すると、桂は苦笑し「政友会に対しては好意は望むも、別段此事を希望すと言うことなし」と述べたという。

以上のように、桂からは情意投合を継続する積極性は失われていた。

桂が組閣するにあたって、最大の障壁は軍拡問題であった。

海軍の山本は、以下の様に語り、桂内閣に対して海軍軍備問題に注文を付ける姿勢であった。

「軍備充実を為すや否や、増師を延期するや否やという如きは、元来憲法上国務大臣の責任に属すべきものにして、断じて元老らのクチバシを容るべからざるものなるものみならず。

陛下といえどもこれにかれこれ仰出さるべきものと信ぜざるを以って、この辺りはよくよく勘考し置き」

桂は陸海軍の拡張案をともに一年延期することで事態を収拾しようと考えた。

しかし西園寺内閣で軍拡の確約されていた海軍から、事前に同意を取り付けて組閣する事は困難であり、海軍は斎藤実海相の留任拒否の姿勢を見せていた。

そこで桂は元老会議を要請し、斎藤海相に詔勅を下して留任させるという強硬手段に出た。

幸い、斎藤の態度は協調的であった。

海軍もまた優諚を蹴ってまで海相を出さずに内閣流産させるよりも、翌年度の海軍軍拡をどれだけ桂に認めさせるかの条件闘争に移行してゆく。

最終的に戦艦三隻の建艦着手と、次年度以降の継続費は陸海軍間の調整という形で、海軍と桂の間で妥協は成立した。

一方、陸軍もまた増師問題の延期に応じた。

田中は寺内に対し「意志の弱き小策士遂に国を誤る。陸軍は彼らに利用せられたるが如き感ありて、実に憤慨に耐えず」と不快感を吐露してる。

ただし、桂内閣が一度成立した以上、その行動は倒閣ではなく、海軍同様に組織的利益の最大限の獲得に転換してゆく。

こうして12月21日、第三次桂内閣は成立した。

一旦成立した内閣はどれだけ不評であろうが、そう簡単には倒れない。

陸海軍ともにそのような判断から、軍備問題については桂内閣と妥協した。

こうして桂は軍拡問題を収め、政局に臨もうとした。

憲政擁護運動

交詢社は東京京橋に本部を置く社交クラブである。

福沢諭吉が創設し、会員は慶應の卒業生である実業家や新聞記事、代議士が多く、三井財閥や政友会と繋がりを持っていた。

彼らの多くは国民の代表者たる議会政党からなる内閣を志しており、今回の増師問題を巡る陸軍の横暴に憤激していた。

12月14日、桂内閣の誕生を前に、交詢社は憲政擁護と閥族打破をスローガンとした憲政擁護運動(護憲運動)を開始する。

このスローガンは憲政初期から使用された伝統的用語である。

藩閥政府に対して広く抱かれてきた憤りの気持ちに直接訴える情緒的な言葉であった。

この運動の指導者が政友会所属代議士の尾崎行雄と国民党患部の犬養毅である。

二人は護憲運動の先頭に立った為に憲政の神様と呼ばれる事になる。

共に福沢諭吉に学び、交詢社に属し、政党政治家として歩んでいた。

ただしその性格は全く異なっていた。

12月19日、歌舞伎座にて第一回憲政擁護大会が開かれ、演説会が行われた。

この集会には政友会の原や国民党改革派は欠席したが、尾崎や犬養をはじめとする両党党員、メディア、更に会場に入りきれない数千人の聴衆が集まり、あまりの混雑に市電が止まったという。

政治家、実業家、新聞記者、学生、果ては車夫から露天商まで、様々な人々が会した演説会の興奮は凄まじく、特に犬養と尾崎が登壇すると、脱帽、憲政の神との声が飛び交い、興奮は最高潮となった。

尾崎は雄弁で身振り手振りも芝居掛かった演説を行った。

尾崎は政党政治を「輿論民意の帰向を察知し以って君意民心の一致を図る」ものであり、日本にとって最善の政体であると考えていた。

よって、桂や山県のような憲法の枠外にいる元老・閥族を天皇と国民を疎隔する存在と敵視していた。

尾崎は護憲運動を藩閥への反発だと捉え、藩閥打破の好機と考えた。

「今回両党はここに一堂に会するに至れり。

これ閥族を滅亡せしむべき好機なり。

ただここに注意すべきは彼ら閥族は制度に拠らざればその位置を維持する能わず」

と語り、元老の廃止や文官任用令の改正、政党内閣樹立など、藩閥政府を支えている政治機構の改革を主張した。

ただし、これらは特に目新しいものではなく、官僚の任用を定める文官任用令の改正は民党伝統の主張であった。

一方、犬養は尾崎の文官任用令改正の主張を枝葉の問題であると断じている。

今まで閥族打破が達成出来なかった理由を

「政党の領袖が権勢に憧れ、早く大臣たらんとする虚栄心」

と指摘している。

原もこの運動で文官任用令を持ち出すことは、時局に対する大問題ではないと断じている。

尾崎に対する犬養は荘厳な印象を与え、丁寧に演説した。

犬養は護憲運動を単なる藩閥政府に対する反発ではないと理解していた一人である。

護憲運動に参加した新聞記者、既成政党少壮代議士、院外団、中小商工業者、青年学生らは、大正という新時代に対してある種の期待を抱いていた。

彼らは明治時代に多種多様の変革の期待を抱き、それを藩閥に抑えつけられていた。

その期待が護憲運動によって解き放たれようとした。

犬養は藩閥政治を因習的情実的なる社会制度と定義し、これに対する革新の機運が護憲運動という形で勃発していると理解していた。

閥族打破の意義は社会制度の現状打破であると呼びかけた。

更に犬養は、護憲運動の成功が自らの政治的将来を決すると即座に認識した。

第二次西園寺内閣総辞職からの流れを、大規模な政界再編が進行しつつあるとし、護憲運動を戦略的に利用しようと考えた。

これにより、桂と連合しようとしている国民党内改革派に打撃を与え、党内の主導権を握ろうとした。

犬養は党内抗争について、必勝の見込みがあると述べている。

犬養は、桂が政友会との妥協を図らず、国民党改革派の支持を背景に政友会の切り崩しに出て、政友会は自分に助けを求めてくるだろうと考えた。

その時こそ政友会と国民党が連合を組む機会である。

一度連合さえ組めば、西園寺や原など相手にならないという自信もあった。

犬養は交詢社の計画に加わっている側近の古島一雄に対し「政友会には官僚派の為に同会及びその他を両分するの機会を造らんとするものあるには非ざるか。もし然らばかえって妙なり。かえつて吾徒に都合よし」と述べ、護憲運動の綱領に桂との妥協を禁ずる文字を入れさせ、これを決議させた。

犬養にとって護憲運動は。桂に対して圧力をかけ、国民党と政友会の合同を促す政治的武器であった。

なので尾崎が政治機構の改革を訴えたのに対し、以下の様に民党合同を主張している。

「閥族の打破、憲政の擁護ということは多くの議論を用いるまでもない。

総ての党派間の境界を去れ、総ての私情的拘束を解けと言うのである」

護憲運動から距離を置いていた原は、この運動が桂との交渉に有利になると考えていた。

駆け引き上の立場を守る為に直接運動には関わらなかったが、側近を交詢社の計画に参加させ、護憲運動にも側近を送り込み、運動の戦略的価値を見出していた。

政友会代議士が集会を開いて桂内閣批判の演説を行うことを黙認した。

12月27日、政友会・国民党の代議士たち、両党の院外団、新聞記者たち240名が集まり、憲政擁護会を開催した。

その主要決議は、衆議院解散の場合において憲政擁護運動に加盟した代議士の再選を期すというものであった。

憲政擁護会の当初の目的は、議会解散に際して政友会・国民党に属する憲政擁護派の再選を目指すものであった。

このように護憲運動は組織化されてゆき、東京・大阪を中心に全国的に広まってゆくのであった。

桂新党と後藤新平

1913年1月16日、桂が妥協を申し出てこないのを見て、原は西園寺と会見し、議場において質問を発した後に内閣不信任案を決議する方針とした。

解散総選挙を見越して、政友会の綱領から尖った条項を取り去ることも決めていた。

この情報を掴んだ桂は、宮中から出て自身に組閣するように薦めたのは西園寺であり、桂内閣の当事者とも言える。

その西園寺に不信任案提出の根拠がないし、むしろ政友会を止めるべきだと指摘した。

これに対し西園寺は桂奏薦は最終的な決定は元老が行ったことなとで、桂については元老が責任を取るべきと苦しい弁明をしたが、道義的に追い詰められていった。

このように政友会は妥協と対決の柔軟性を以って政局に臨んだ。

一方、桂は正面突破を図ってきた。

1月17日、桂新党結成の報道がなされた。

桂は当時の政治状況をこのように理解していた。

まず、政友会が拡大した結果、藩閥の基盤は侵食され、多党制がありえなくなった。

多数の党が均衡状態を作り、その上に政府を支持する御用政党がキャスティングボートを握る山県の第三党構想はもはや破綻していると考えていた。

もはや、政党が衆議院で多数を占めなければ、衆議院を操作することは不可能である。

それでは政友会との情意投合を組み直すつもりはあるのかと言えば、そうでもなかった。

「余は従来内閣に立ち、常に政党を使用し来りしが、これが為め余の抱懐する政策の十中八九を行い、二三を譲歩するのやむなきに終われり」

政友会との情意投合の結果、桂の政策の2、3割は政友会に譲歩せざるを得ず、それに桂は不満を抱いていた。

また、政友会は政党を第一とし、国家を第二においており、そのような政党の拡大によって党弊が広まったとも考えていた。

「今自ら政党を作り、これを左右することを得ば、抱懐する所のもの一として行われざるなく、充分に邦家の為め理想を実現することを得ん」

このように政党結成を決心し、山県に対しても自分が直接政党組織に当たると宣言している。

さて、その新党結成の時期であるが、今期議会を乗り切ってからじっくりと行うつもりであった。

しかし護憲運動が予想以上に盛り上がりを見せ、議会開会前に政友会と国民党が内閣不信任案提出の不穏な動きを見せていた中で、桂は楽観視を捨てた。

議会を乗り切るには、新政党を作って、それを基礎にするしかない。

桂の新党構想を支えたのは後藤新平であった。

後藤は以下のような独特の政党観を持っている。

「もしそれ内閣組織者の意見が、自党の意見に背反するものあらんか、これに反対するも可、もし同一ならんか、これに賛成するもまた不可ならず。

ただその去就は一に政見の異同如何によりて決すべきのみ。

しかも単に内閣員が自党員たると否とに依りて、その去就を決せんとし、威嚇脅迫、至らざるなきに至りては、これ全く自党の利害を以て、去就を定むるの本位となすものにして、政党の本義全く湮滅す」

つまり、政党は主義主張や政見によって結合する集団であり、内閣が超然内閣であっても政見が同じであれば支持するべきである。

閣僚が政党員でないことを理由に、内閣と対するのは政権争奪の弊害であると考えた。

また、政党外の人材を網羅することが出来ないので、政党内閣制にも反対している。

後藤にとっての理想の政党とは、衆議院・貴族院・官界の政界を横断し、政権運用を円滑にし、財界、官僚、華族、政党政治家の全てを勢力を抱合して、広く人材を求める事が出来る巨大政党であった。

それは政友会と対する二大政党ではなく、超然内閣を支える強力な一大政党である。

この巨大政党をまとめる強力なリーダーシップを発揮する人物として、以下のように桂に期待していた。

「彼は欽定憲法論者であって、多数党が内閣を組織することを、不動の原則とする英国的政治思想に反対であった。

伯にとっては、政党とは議会政治の運用を円滑にする一方法に過ぎなかった」

後藤は自らの構想を反映してか、桂新党に立憲統一党と名付けている。

桂に近しいジャーナリストである徳富蘇峰は、桂新党を以下のように語る。

「内において皇室中心主義、外に向て帝国主義の、所謂国民的政党を建立せんことを以って、その目的としたる也。

されば両党並立の如きは、決して彼の立党の本旨にあらず。

もし彼の理想を露骨に語らば、一政党を以って天下を一統するにありしならむ」

まさに日本を統一する壮大な党である。

突拍子もない大構想をぶち上げ、大風呂敷と評された後藤に相応しい計画であった。

1月18日には大阪朝日新聞が「立憲統一党は、直に国民に接触し国民をして政治を知らしめ真に政党を組織する精神なれば、今の代議士に求めずして代議士を選出すべき国民に求むべく、従って既成政党とは全く交渉する所なかるべし」と報じた。

統一党構想は既成政党の外にある新たな勢力として期待された。

1月19日には国民党大会において改革派が、藩閥政府の打破には触れず、政友会を非難する綱領を作成した、

これは桂新党への合流を狙ってのことである。

これに対し犬養は護憲運動を支持する綱領を作成し、過半数を制して改革派の綱領を否決した。

桂新党運動を巡って国民党はいよいよ分裂の時を迎える。

1月20日、桂は後藤立会いの下、新党組織を発表した。

政友会との妥協を排して、新政党を組織し「憲政完美の功を全うせんこと」を謳われた。

1月21日には再開したばかりの議会を予算書の印刷が間に合わないなどの理由で15日の停会とした。

この二週間の間に政党を切り崩して、自分に有利な立場を築こうと考えた。

同日、国民党改革派の5人の領袖、大石正巳、片岡直温、箕浦勝人、武富時敏、島田三郎が脱党した。

国民党代議士たちがこれに続き、政界再編の大きなうねりとなった。

立憲同志会の出発

桂新党はあまりにも突貫であった。

政友会・国民党を新党によって揺さぶるつもりであったが、これはあまりにも不用意であった。

新党組織を公に公言したことで、政友会との縁は戻せなくなった。

以降、政友会は護憲運動に接近し、1月24日の第二回憲政擁護大会には最高幹部の松田が出席し、桂内閣と一戦を交える構えを取る。

後藤も政友会の姿勢を「政友会に依頼するにあらざれば何事も成就せずと放言して、誘惑の手を各方面に伸べたる如きは、実に憲政の賊として憎むべきにあらずや」と、政友会への敵対心を露わにしている。

新党結成後の政友会との提携なども望めるはずがなかった。

国民党も5領袖始め40名近い脱党者を生んでおり、桂新党に対しては敵意をあらわにした。

こうして打倒桂新党で利害が一致した政友会と国民党は攻守同盟を結ぶに至った。

大正政変において桂新党の結成は、一種のポイントオブノーリターンと言えよう。

桂にとって誤算であったのは、頼みとした貴族院が動かなかったことだ。

桂は貴族院議員の新党合流を見込んでいたが、貴族院議員たちは貴族院の神聖さを尊んでいた。

貴族院の官僚閥は桂新党に対し好意的中立を発表するものも、公平の立場から桂新党に馳せ参じようという議員はいなかった。

桂は貴族院における自己の影響力を過大評価していた。

それに加え、政権にある者が新党を組織するという事自体、問題視されていた。

山県系官僚の平田東助は桂が新党を作ると聞いて「政党組織は時勢の止むを得ざる所ならん。然れども首相の位にありてこれを為すは、果たして当を得たるものなりや否」と忠告していた。

平田の指摘通り、まず政党を組織してから政権に入るのが立憲的であり、その逆を行った桂の非立憲的行為に貴族院議員たちは心象を害していた。

政友会の切り崩しにも失敗した。

桂は政友会切り崩しのために政友会総務の伊藤大八に、政友会員の買収の手附金として5万円を渡した。

伊藤は赤坂の芸妓を妾にしており、その関係で桂とも親しかった。

そこで伊藤は買収は自分が一手に引き受けるので、方々に手を出さないほうが良いと述べた。

しかし政友会の切り崩しは行われなかった。

伊藤が積極的に申し出たのは買収防止策であったのだ。

伊藤は5万円を一銭も使わず、後に桂に返している。

原も党員たちを団結させるために、連日のように地方団体の幹部と会い、激励を与え、彼らの支持を繋ぎ止めた。

また政友会代議士を地方に遊説させ、護憲運動を盛り上げた。

特に東京と大阪の集会には幹部クラスの代議士や犬養・尾崎を登壇させ、大盛況であった。

集会の演出も巧みで、聴衆の中をかき分けて進んだり、会場外でも集会を開いたり、煽動的な演説を打ったり、警官隊との小競り合いを指導すらしていた。

このような集会が繰り返されることで政友会代議士は団結し、議会において桂と対決する決心を固めた。

以上、政友会の防衛体制は強固であり、除名者は僅か3名に留まった。

一方で、国民党脱党組はすぐに桂新党に参加しようとはせず、大隈を担いで別組織を作る動きを見せていた。

そこで桂は脱党組領袖と会見し、国民党改革派の主張を容れ、1月31日にようやく新党に合流させた。

この交渉の中で桂は国民党改革派側の文官任用令改正、陸海軍大臣資格改正、財政整理の点で譲歩しなくてはならなかった。

なによりも後藤が思い描いた政権横断・超然主義の理想は大きく後退した。

国民党脱党組の影響力が増大すると、新党党名に注文を入れられ、脱党組領袖の片岡の命名で党名は立憲同志会となった。

2月3日、立憲同志会が出発する。

同志会参加者の内訳は旧立憲国民党43、旧中央クラブ33、無所属3、院内同志会1、立憲政友会1、院外2、貴族院議員1であった。

衆議院においては旧国民党、官界からは外交官の加藤高明、大蔵官僚の若槻礼次郎、浜口雄幸ら桂系官僚が参加した。

加藤の背後には三菱財閥がおり、資金面においても強力であった。

立憲同志会の成立は桂という元老クラスの藩閥政治家と民党が政界を縦断して結合したものであり、政友会に続くもう一つの政界縦断政党が誕生を意味する。

ただし桂新党内部は個人的対立が激しく、後藤は加藤を「日本近来の進歩を知らず、老衰英国的所見を持つ」と批判しているなど、党内をまとめ上げるには、まだ時間が必要であった。

玉座をもって胸壁となし

2月5日、停会が明け議会が再開した。

反桂の勢力は日増しに拡大した。

桂は「あたかも明治十八年満州における海城籠城の形勢を現出仕る」と述べ、自信を失いつつあった。

片や政友会は最大限の勢力を発揮し、原をして「我党員は伊藤要蔵病気にて欠席せし外は214名悉く出席、長谷場、菅原の如き病人も着席せり、壮快なりき」と言わしめている。

この日の議会で争点となったのは詔勅問題であった。

桂が宮中を出る際に受けた詔勅と、斎藤海相の留任を求めた詔勅は、誰が奏請したのかという問題である。

そもそも詔勅というのは憲法第55条に以下のように規定されている。

「国務各大臣は天皇を輔弼しその責に任ず。

凡て法律勅令その為、国務に関わる詔勅は国務大臣の副署を要す」

更に皇室令には、国務大臣が副署しない事柄の詔書については、内大臣が常侍輔弼の責任において事に当たると記されている。

政友会の元田肇は「故に内大臣にあらあらざれば国務大臣、総理大臣が必ず副署し、詔書勅書の出たものに付ては其大臣が真に任じなければならぬ」と追求する。

詔書の奏請者が誰なのかハッキリさせる必要があると迫った。

これに対し桂は「畏れながら、陛下の御直きに仰聞かされましたものでございます」「勅語でございます」と答弁した。

桂は詔書と勅語を区別し、勅語ならば副署や奏請者の問題は起こらないと解釈した。

これは勅語の責任を全て天皇に帰する解釈である。

この答弁を不服とした政友会は直ちに内閣不信任案を提出した。

その内容は「大命を拝するに当り屡々聖勅を煩し宮中府中の別を紊り、官権を私して党与を募り又帝国議会の開会に際し濫りに停会を行う」

こういう行為が立憲の本義に背き、皇室の尊厳を傷つけたと断じた。

この不信任案の趣旨を演説したのが尾崎行雄である。

尾崎は勅語も詔勅の一つであるとし、このように批判を加えた。

「我帝国憲法は総手の詔勅一国務に関するところの詔勅は必ずや国務大臣の副署を要せざるべからざることを特筆大書してあって、勅語と云おうとも、勅諭と云わずとも、何と云おうとも、其間に於て区別はないのであります。

若し然らずと云うならば、国務に関するところの勅語に若し過ちあったならば、其責任は何人が之を負うのであるか。

畏多くも天皇陛下直接の御責任に当たらせられなければならぬことになるではないか」

「勅語であろうとも、何であろうとも、凡そ人間の為すところのものに過ちのないと云うことは言えないのである」

これは君主無答責、天皇機関説に通ずる重大な演説である。

更に尾崎は日本の歴史に残る激烈な弾劾を行った。

「常に口を開けば直ちに忠愛を唱え、あたかも忠君愛国は自分の一手販売の如く唱えておりまするが、その為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。

彼らは、詔勅をもって弾丸に代えて、政敵を倒さんとするものではないか」

これを聞いた桂は顔面蒼白となった。

その様子を見た人は死人のような色、殺人犯が死刑宣告を受けたかのような顔と表現した。

なお、尾崎自身は予定と違った演説で、桂が椅子から転げ落ちなかったことから、あまり満足した内容ではなかったと回想する。

桂首相は尾崎の演説に対して、一連の勅語について

「憲法第五十五条に依り副署を要するものにあらざることを云うのであります。

又必しも奏請を待つものでないと云うことを言うのであります。

大命を奉ずる者が其責に任ずるは勿論のことであると云うことを言うのであります」

などと責任回避の答弁をし、不信任案可決前に再び5日間の停会とした。

西園寺毒殺

新党構想が軌道に乗らなかった以上、不信任決議案が可決されるのは確実であった。

原の完全勝利である。

もしこの時、桂が原との妥協に乗り出せば、桂新党の解散とか政権譲渡などの相当な譲歩を強いられつつ、議会は乗り切れただろう。

もし妥協しないならば、政友会とその背後にある世論を敵に回して戦わねばならない。

ここに桂は完全に追い詰められた。

2月7日夜、原が諜報役として使っていた福井三郎代議士に、桂が面会したい旨を伝えてきた。

福井はすぐさま原に連絡し、原は面会を許可した。

福井が桂と面会したところ、政友会の肚のうちに探りを入れてきた。

原はニヤリと笑い、面白くなってきたわいと繰り返し、以下のように述べた。

「我輩の国でね、鰻を食いすぎて腹を壊した男がある。

何としても治らない。

色々やった挙句、鰻の黒焼きを食ったら初めて治ったという話がある。

桂の今度の立場、世間の騒動というものは、丁度鰻の食い過ぎみたいなものだ」

この話を桂に伝えるよう指示した。

この例え話の言わんとすることは、桂が詔勅を濫用しすぎたということだ。

そしてそれを救うには、桂が黒焼きの鰻を食するしかない。

原はそれを明言しなかったが、つまり情意投合に戻ることを意味する。

思えばこれが最後の妥協のタイミングであった。

しかし桂は原に譲歩しようとはしなかった。

原との交渉が不調に終わると、桂は西園寺を直接口説こうとした。

西園寺は桂と年齢的に近く、妾を同伴して会食する仲にあり、意思が弱いところもあって、政友会の搦め手でもあった。

2月8日、かつて西園寺内閣の閣僚であった加藤高明が西園寺を訪問し、午後に首相官邸で桂と会見することを求めた。

西園寺は原や松田を同伴して会うことを望んだが、一人で来ることを押し通された。

これを聞いた原は、桂と単独で会見すれば世間に疑惑を生じ、党の結束にも良くないとし、会見を9日に延期させ、西園寺を政友会の茶話会に連行した。

しかし加藤は政友会本部に乗り込み、一服していた西園寺を発見した。

加藤の顔を見た西園寺は、実に恐れ入るとか、会見は困ると繰り返したが、結局官邸に連れて行かれた。

桂は西園寺に対しては強気であった。

西園寺は桂の組閣を勧めたことを新聞上で認めているし、政局に大きな道義的責任がある。

桂のために動かざるを得ない状況であったからだ。

桂は西園寺に対し、政友会総裁として党員に政府を批判するのを辞めさせるよう求めた。

これに対し西園寺は自分の一存で政党が自由自在に動くわけではないとしつつ

「自分も貴君と主義を同うして居って、無用なる紛争、ことに政党が為にする政争は、是非避けたいと想うが故に、何か事に適当の道が開けた場合において自分がこれをするという事には、何ら異存がない」と述べた。

桂は、その道を開く手段を講ずる手続きを取るようにしてあげようと、勅語の渙発を示唆した。

西園寺は、その相談は御免であるし、勅命問題について評判が宜しくないではないかと釘を刺した。

西園寺は政友会本部に戻ると原・松田と協議し、不信任案撤回は不可とし、桂に対しその旨を伝えた。

2月9日、西園寺は宮中に召され、天皇より「諒闇中、政局紛糾の状あるは、朕の軫念に堪えざる所」との勅語を賜った。

これは政友会に内閣不信任案を撤回させる旨の勅語である。

勅語を拝した西園寺は桂に対し、勅語が果たせなければ政友会総裁を引退するし、昔ならば切腹なので、何としても勅語に沿う旨を述べた。

この勅語を提案したのは加藤である。

英国通の加藤は、英国のエドワード7世崩御の際にアスキス首相が諒闇中を理由に政争の中止を図った例を引用し、日本も明治天皇の喪に服している最中なので、同様の方法が可能であると主張した。

なお加藤は、アスキス首相の工作は一時的な効果しか生まず、最終的に失敗していることまでは口にしなかった

ともあれ桂は3度目の勅語で苦境を脱しようとした。

山県には間も無く不信任案は撤回されるだろうと伝えている。

なお、山県はこのような勅語を煥発する戦術を不謹慎で危険な策であると批判的であった。

「既に宣戦を布告して馬を陣頭に進めているときではない」と述べて、解散総選挙によって政友会を打ち破るよう説いていた。

政友会執行部は同夜、西園寺邸で会議を開き、西園寺が拝受した勅語を検討した。

政友会としては、この勅語によって内閣不信任案を撤回すれば、護憲運動を裏切ることになり、運動に参加していた党員の大半や国民の支持を失うことを覚悟しなければならない。

しかし他方で勅語を無視して不信任案を決議すれば、西園寺の違勅となり、首相候補を失って、当分政権は回ってこなくなる恐れがある。

会議に参加した幹部は桂の策略を不当であると憤ったが、勅語に従い、やむなく不信任案を撤回する大勢となった。

勅語を拝受したとしても、政友会の権利を妨げられてはならないと主張したのは尾崎と犬養だけであった。

尾崎は「かかる場合は直諫を要す」と憤ったが、西園寺は聖旨を奉ずるしかないとし、原もそれに同意し、翌日の議会から10日の自主休会する事で決定した。

これを受けて尾崎は総務の辞表を提出した。

この頃、党本部において幹部会の話が漏れており、政友会党員たちは桂が聖旨を仰いで西園寺を毒殺するものだと激昂していた。

党員たちは不信任案撤回に反対で、総裁の命令とはいえ、これに服さないという者が多かった。

尾崎が翌朝党本部に赴くと、党員たちの興奮は未だ冷めやらず、夜を徹していたのか血眼になっていたり、中には涙を流していた議員もいた。

これを見た尾崎は再び闘志を燃やし、総務の辞意を撤回した。

そしてこの朝、政友会党員たちの闘志の炎に油が注がれることになる。

トリックスター山本権兵衛

2月10日朝、山本権兵衛が突如として桂邸に姿を現した。

そして桂と出会い頭に「世間では君が新帝を挟んで威福をほしいままにすると言う事を言って居るぞ。君甚だ面白くない事だから辞めたらどうだ」と怒鳴りつけた。

これに対し桂は、以下のように応酬した。

「吾輩は敢えて今の地位に恋々たるものではない。

代わってやる人があるならば、何時でも譲る。君一つやってみたらどうだ」

この時の桂は冷静ではなく、山本を怪しからん奴、忠臣蔵に出てくる盗賊・定九郎のようだと憤慨していたが、辞意を山本に口走ったのは致命的であった。

西園寺でも山本でも後任を引き受けてくれるならば何時でも辞職する。

この言質を得た山本は、政友会本部の西園寺を訪問し、後継首相について話し合った。

しかし優諚を得ている以上、西園寺は山本の奮起を促した。

山本が再び桂邸を訪問すると、桂は今度は冷静になって「君が突然入ることは、何となく君の立場において面白くないではないか。恰も火事場に入って、漁夫の利を占めんとするが如き形になりはしないか」と述べた。

山本はその通りであると述べ、西園寺に話したことを取り消そうとし、桂の秘書官に対し政友会へ「前言撤回」と伝えるよう言い残して姿を消した。

しかしこの前言が何なのか、誰にも理解出来なかった。

色々と謎の残る山本の言動ではあるが、この日の山本の行動を整理すると、桂から辞意を引き出し、それを政友会本部に運んだということだ。

山本が桂から引き出した言質は、瞬く間に政友会党員たちに伝わり、消えかけていた闘志を復活させた。

山本が去ってから一時間後、党本部の協議会にて、議会を数日間延期し、その間に桂との妥協工作を行おうとした原の提案が否決された。

協議会は、予定通りに議会を進行し、議場にて内閣不信任案を可決するよう原を突き上げた。

代議士たちは意気高揚であり、ついに代議士総会にて勅語の是非が問われる事態になる。

総会にて西園寺は勅語を伝え、政友会は不信任案を撤回し、秩序を回復せねばならないとし

「私は臣民の分として、既に陛下のお言葉を御請を致した以上、如何なることがあっても、陛下のお言葉に従わねばなりませぬ。

諸君は国民の代表者であらるるから、十分にその意見を主張せらるるのは当然のことでありますが、現下の時局に対しては、一時の感情に駆らるることなく、党の為、国家の為、十分に慎重に考慮せられんことを希望致すのであります」

このように述べて早々に退場した。

この時の西園寺の様子は、顔が青ざめており、震えながら、ほとんど聞き取れない声で演説していたという。

しかし討議は行われなかった。代議士の戸水寛人が「我党は依然予定の行動をとって突進しすべし」と動議を提出すると「賛成!」の大歓声が沸き起こり、動議は採択された。

こうして大正天皇の勅語は無視された。

この時ばかりは原も驚いたという。

徳富蘇峰は山本の言動をこのように評する。

「山本権兵衛の政友会本部訪問は、政友会の非恭順派に向かって、百万の援兵をたりし也。

これ山本一個が政友会に味方するが為に非ず。

彼が桂辞職の吉報をもたらし来たりられば也」

桂が辞職の意を漏らしたということは解散はないということを意味する。

「かかる場合に臆病次郎の、一変して剛気太郎となるは、電流の銅線を伝わるよりも速やかなり。

この上は総裁もなく、勅諚もなし。もとより左右前後の分別は更になし。

ただ一気呵成に桂の死首を斬るの一快事に向かって、これ急なるものなり」

これが自然の勢いであると評した。

政友会代議士たちは西園寺への勅語に激昂したが、その一方で解散を恐れていた。

選挙干渉をお手の物とする大浦が内務大臣であったことも、充分な威嚇であった。

桂は内閣不信任案撤回でなければ解散であると威嚇し、政友会幹部たちは休会して解散回避の妥協に持って行こうと苦心していた。

総選挙を恐れていたのは政友会だけでなく犬養もであった。

犬養は桂新党を「権力と金力を加うるに閲歴声望を以ってせる有力なる連合軍」と評しており、総選挙となれば桂新党の有利だと考えていた。

10日午前までは政友会内部も休会を希望する者は多かったが、山本がその臆病心を一掃した。

桂と政友会が演出しようとしたシナリオは、山本のトリックスター的大劇場によって全てご破算となった。

この後、山本が組閣することから、山本や薩摩派に野心があったと観測する研究者も多い。

しかし山本という人間を考える上で、そのような小芝居が打てる人間であるのかとの疑問も浮かぶ。

海軍は優諚で海相留任を強要させられており、勅語渙発に不満があった上に、桂が内閣不信任案を握り潰すような勅語を引き出したことに怒りが爆発したのではないか。

山本はこの訪問で桂が辞職を口にしなければ、伏見宮貞愛内大臣に会って、勅命取り消しを求める覚悟すら固めていたという。

まさに猪突猛進である。

山本はこの日の行動を「何ら野心があった訳ではなく、ただ国家の為に、無謀の挙を敢えてすることを防ごうというだけの単純な考えでありました」と述べている。

山本自身、自分の行動がこれほどまでに効果を発揮するとは、思いもしなかったのではないだろうか。

ともかく、ここに桂の詔勅戦略は破綻した。

政友会代議士たちは天皇も西園寺も桂に騙されたと理解し、世論は桂に強烈な非難を浴びせた。

大正新時代には、権勢をほしいままにしてきた藩閥政府が天皇大権を利用して政党を抑え込むことは出来ないという事実がここに刻まれた。

第三次桂内閣総辞職

政友会代議士会の噂は政府にまで達した。

閣僚たちは勅を賜ったはずなのに、政友会の軽挙不謹慎に驚いていたが、なおも桂は西園寺は誠意をもって対処するだろうと楽観視していた。

しかし政友会代議士たちは護憲運動支持を表す白薔薇の徽章をつけて議院にやって来た。

その中には原の姿もあった。

原は党の結束が損なわれないように、党員と行動を共にし、行進を率いた。

もはや桂との妥協はあり得ない。

原は桂に対し「吾々と政府とは没交渉なり。解散するにせよ停会するにせよ何も吾々に相談づくにて決行すべき筋合いにあらざるべし」と伝え、交渉を打ち切った。

また、桂の敗北を見届けようと大群衆が議会を取り囲んだ。

政友会代議士たちには拍手と歓声で迎え、解散総選挙と絶叫した。

政府は騒擾に備え、3000名の警官や憲兵を配備し、緊張感が高まった。

閣僚たちは解散だと息巻いていた。

しかし勅語を無視された桂の政治的立場は破壊され、山県に頼ることも天皇や西園寺に頼ることも出来なかった。

桂の政治的イメージは決定的に傷つき、選挙に勝つ自信もなくなった。

それに桂新党に入った代議士の中には、この議会で解散しないという条件で入った者もあり、解散は困ると桂を突き上げていた。

そこに最後の一押しがあった。

政友会代議士の突撃を見た大岡育造衆議院議長が桂を訪ね、このように総辞職を進言した。

「今この議院の周囲は、激昂した民衆に取り巻かれているのです。

政府がここで解散するという事になれば、この民衆は決して血を見ざれば止むものではありません。

場合によれば、これが端緒になって、内乱になるかも判らん」

黙って聞いていた桂は暫くして「宜しい」と述べて、大臣たちを集めて総辞職を決意した。

突然の出来事であった。

この日、議会は開会されず、桂は議会を三たび停会とした。

群衆は興奮し、夜にかけて政府系新聞社や交番を襲撃し、市内を焼き討ちした。

翌2月11日、桂内閣は総辞職した。

この政変は大正政変と語り継がれるようになる。

原は「もしなお辞職せずんば、殆ど革命的騒動を起こしたる事ならんと思わる」と述べた。

山県も桂が国家の基礎を破壊したと激しく非難し

「天皇を擁護し国家の綱紀を張り秩序を回復する実に容易ならざる時勢なるを知りながら、一身の進止を諸元老にも図らず、自分一己の考慮を以って断然辞表を奉呈せしは国家に不忠実にして一身の偸安を為したると判断せざるべからず。

これ近来すこぶる驕慢心より生じたる国情判断を為したる結果なり」

と、その不手際を断じている。

こうして振り返ると桂は組閣してから政友会との妥協のチャンスを度々不意にし、新党結成によって反対党を結束させた。

そして西園寺への勅語で政友会や国民を激怒させ、自ら死地に追いこまれていった。

政党政治を企図しながら詔勅を以って責任を曖昧するに至っては非立憲の誹りを受けるのは当然であり、騒擾が起こる前に下野するという選択もしなかった。

日露戦争を指導した首相としては、考えられない失敗であった。

桂が遺したもの

野に下った桂は新党を基盤に捲土重来を図ろうとしたが、4月8日に腹痛で倒れた。

この時、末期の胃癌であった。

桂を知る人たちは、大正政変の失敗は癌が脳髄まで犯していたからと観測する者すらいた。

10月7日、原は見舞いとして、初めて私的に桂を訪問した。

普段、和服を着ていた原はフロックコートでやってきたという。

この時にはもはや桂は物を言えなくなっていた。

原は桂の耳元でこのようにささやいた。

「閣下の政治上のご意志は全部はっきりと了解致しました。

この日本の危機を救う為、閣下の御精神に基づいて共に手を握り力を尽くしたいと決心致しました」

すると桂は原を抱きしめ、二人は感涙した。

原は閣議に戻ったが、感極まっていたので席には戻れず、一人別室で涙を流したという。

桂は病床の中で政党について以下のように語っている。

「政党は随分面倒臭きもまた可憐の処もあり」

桂が種を蒔き、芽を出した可憐な政党は、桂の意志を引き継ぎ、後に政友会と相対する二大政党という大木に成長するのであった。

参考書籍

大正政変-1900年体制の崩壞 坂野潤治
大正政変 ― 国家経営構想の分裂 小林道彦

man

大正政変に関する基礎的な研究。

桂太郎 外に帝国主義、内に立憲主義 千葉功
原敬-「平民宰相」の虚像と実像 清水唯一朗

man

大正政変の主要人物、桂と原の評伝。

日本政党史論 升味準之輔
日本議会史録 古屋哲夫 編

man

近代政党史の基礎。

大正政治史の出発 櫻井良樹

man

桂新党(立憲同志会)について。

不滅の演説 中正雄

man

尾崎演説について。