昭和農業恐慌

コラム

小作制度と貧農

明治時代となり江戸時代の封建的な制度が次々と改廃されていった。

そんな中、農村においては江戸時代以前から続く小作制度が継続し、半封建的な支配関係が続いていた。

小作制度とは、農民が土地の所有者である地主から農地を借りて耕作する代わりに、年貢として小作料を収めたり、小作料の代わりに農奴のように働いたりする制度である。

小作制度が継続されただけでなく、明治政府は地租改正によって農民の負担を重くした。

その為、土地を手放して小作人に零落する農民が続出し、全耕地の約4割が小作地となり、地主制が確立された。

小作制度の問題点はその小作人の地主への従属関係を築いたところにある。

小作農はあくまで地主と小作人の契約であり、法律上は両者は対等な関係にある。

しかし、労働者であれば条件が合わなければ職場も住む場所すら変えられるが、小作人はその労働が土地に縛られる為に、どうしても特定の地主との従属関係を半永久的に結ばねばならなかった。

小作制度の更なる問題は貧農を作り出す点にある。

小作料の率は収穫高の5割から6割の高い率で、小作人たちは常に極貧を強いられる貧農であった。

小作人と地主が争議を繰り広げた歴史がある穀倉地帯では、農民運動の結果、農民組合が力を得て、小作料を収穫の4割から2割5分あたりまで引き下げることに成功していた。

よって、組合の強い地域の小作農家は自分たちが食べる飯米を確保し、食うに困らないのが実状で、小作人たちの生活は他の地方に比べて安定していた。

しかし農民組合のない地域の小作人は悲惨であった。

組合がなければ、収穫量の5割以上を小作料として取られるのが当たり前であった。

税金や小作料の滞納が常態化し、自分たちの食事を切り詰める農家が続出した。

肥料も満足に買えず、自分たちの食べる米すら切り詰めた先には、青田を売るしかない。

青田ならまだしも田んぼを耕した段階で将来の農作物を売る黒田売り、果てには田んぼに雪が積もっていたうちから収穫物を売る白田売りすらあったという。

農村借金地獄

小作人や零細自作農家は、豊作となれば米が安く買い叩かれて肥料や日用品が手に入らず、凶作となれば自分たちの食べる飯米を買わねばならない。

かと言って小作料を滞納すれば翌年以降の小作料は高くなるなど、常に現金不足に悩んでいた。

売る青田さえなくなれば、最後の手段は借金である。

借金しなければ肥料も飯米も買えず、小作料や税金すらも払えない。

貧農は借金をして食いつなぐという状況にあった。

しかし、少しだけのつもりで借りた借金は、利息が積もりに積もって、返すあてのない借金返済地獄に陥ってゆく。

最後にはなけなしの飯米を売って現金に換えてまでも借金を返済せねばならず、常に飢餓の危険性がつきまとった。

担保になる資本も信用もない貧農(小作人や零細自作農家)を銀行は相手にしない。

その代わりに金貸しや酒造業者、米の仲買人のような個人が金を貸したが、彼らは担保の代わりに多額の手数料を要求した。

酷い例では、借りる金の1割がいきなり天引きされたというのもある。

これらの金貸しは総じて高利貸しであった。

60円に対し月1円の利子を取って年利2割となるような高い利子である。

これが3年で元金の二倍、5年で三倍と膨れ上がり、百姓相手に金を貸せばいい生活が出来るというのが金貸しの世界では常識となった。

こうなると利息だけ納めて元金返済は待ってもらわなければならず、ついには利子のみの返済も出来なくなる、利子分を元金に繰り入れる始末で、いつまで経っても借金は減らなかった。

1932年頃の農家1戸ごとの借金の平均は7、800円であった。

1戸単位で見れば少額に見える借金も、全国の農民の負債を合わせれば50億という膨大な額となっていた。

仮に自作農家が貸した金を滞納し続ければ、金貸しは田畑を差し押さえて地主となった。

しかし自分たちで農業は出来ないので、引き続き田畑を耕させて小作農を行った。

金貸し地主は自分たちで何もしてなくても小作料という安定した収入が得られるとわかると、積極的に土地を集め、次々と小作地を増やしていった。

小作地が投資の対象になると理解されると、華族が小作地を取得して不在地主となるような例もあったという。

こうして不況や凶作の度に農民が借金を返済出来ずに小作人に転落し、金貸し地主だけが肥え太るという歪な社会が農村に生まれた。

昭和農業恐慌の発生

第一次世界大戦後の繭の価格、生糸市場は非常な高値をつけ養蚕熱が過熱し、半ば投機に近い情況となった。

農家は養蚕で生活にゆとりが生まれるようになり、年々養蚕規模を拡大させ、農民の4割が養蚕を兼業した。

こうして生糸は日本の主要輸出品となり、農村経済を支える重要産業となった。

しかし、その輸出先の9割が米国に依存していたのが問題であった。

1929年の米国株式市場大暴落の影響が直撃し、生糸バブルが一気に弾け、価格が暴落した。

1925年には10円台であった繭は1927年には4円まで下落し、1930年には2円以下まで暴落した。

1930年以降には米国における不景気と失業者増大により生糸需要は激減した。

しかも絹に代わる化学繊維が開発されるに至って、生糸市場は恐慌状態に陥った。

生糸の価格は6割の大暴落となり、米国への輸出額も4割減、輸出総額も3割減の壊滅状態となった。

しかし、養蚕農家は繭の値段が下落してからも、今年こそは値段が回復するだろうと楽観視して桑を作り、蚕を育てて繭を作った。

繭はより一層、供給過多となって価格が一段と下落するを繰り返した。

増産と暴落を繰り返すうちに、大体の農家は借金をしなければ次のシーズンへの養蚕が続けられなくなった。

一度借金をすれば際限はなく、借金の利息が膨れ上がる。

それを返済しようと繭の価格回復に唯一の希望を抱くが、いっそう繭値は安くなる。

そうなれば借金ばかりが増えてゆく。

こうして養蚕農家の借金は雪だるま式に増えていった。

養蚕が盛んであったのは長野県であった。

全国の農家は養蚕を副業にしていたが、長野県の農家は養蚕を本業のように行い、桑を果樹園のように育てた。

生糸価格の暴落を受け、米を育てる余裕がある農家はまだ良かったが、悲惨なのは自分の食べるだけの米すら作れない小作農家であった。

彼らは繭を売った金で米を買う小作人であったが、借金で首が回らない状態にあり、繭の暴落が飢餓に直結する有様であった。

ついに肥料を買えずに桑畑が荒廃し、養蚕を続けられなくなる貧窮農家が出た。

ここにようやく繭の収穫量が減少し、自然に調整されるようになった。

繭の暴落が導火線となり、他の農作物や海産物にも下落が波及した。

米価はある程度の高値を維持していた。

だが、30年に町田忠治農相が収穫前に豊作であるとの作柄予想をした為に、一石30円前後を推移していた米価が20円以下まで下落し、米穀取引所が立会休止に追い込まれた。

これに朝鮮米、台湾米の大量流入が重なり、下落に歯止めがかからなくなった。

米価の下落による被害を蒙ったのは、米を売って、その金で生活する自作農家であった。

米の価格は下がっているのに土地にかかる税金の負担は減らなかった。

更に好景気の際に銀行から金を借りて事業を拡大した自作農家が多く、今になってその借金が重荷となっていた。

農村に追い打ちをかけたのが、都市部の大量失業であった。

都市部は工業化の中で農村の過剰人口を吸収しており、農村で働き口のない農家の次男・三男が労働者として大量に都市部に出ていた。

しかし、不景気の煽りを受けて都市部に大量に失業者が出ると、彼らに残された道は乞食になるか故郷に戻るしかない。

ギリギリの生活をしていた労働者には帰りの旅費がなく、線路や旧街道を歩いて故郷を目指す者は少なくなかった。

東海道筋では失業者の群れが問題となり、物乞いしたり野宿しながら帰る親子連れもおり、見兼ねた沿道の人たちが粥の接待を行うほどであった。

そして命懸けで故郷に戻っても農村に働き口はなく、親戚縁者、親兄弟にすら歓迎されなかった。

また都市部に失業者が溢れたことにより、農閑期の出稼ぎという農村の重要な収入源が断たれることになった。

本業の農漁業だけでなく副業の支柱であった養蚕、出稼ぎの収入源が断たれ、農村の借金は膨れ上がった。

自作農から小作農に転落する者や、夜逃げ、乞食など、貧困層が現れた。

自殺者も多く、1万3千名に及んでいる。

こうして農村内部の経済困窮と帰農者の圧迫により、農村は一挙に農業恐慌の様相となる。

救農政策の破綻

勿論、政府は農村経済の破綻を座視していたわけではない。

大蔵省預金部は農家の経営困難を緩和するために低利資金の供給を行う方針を固め、1927年に農村短期応急資金として養蚕や米作に応急資金の融資を決定した。

だが、低利資金融通は回収の見込みがある者に制限された為に、生産者の返済能力の信用調査が厳格に行われた。

その結果、融資は一定の資力を持つ安定した農家にのみ限定され、小作貧農に及ぶものではなかった。

また、厳格な信用調査のために多くの時間が割かれたので、緊急を要する救済資金としてはその対応力に欠いた。

更に返済期限を一年に定めた為、経営が不安定で資力のない農家にとって、手の出しづらい制度であった。

低利資金融通は、資金融通を待つゆとりのある富農層救済の役割しか果たさなかったと言えよう。

それでも27年の貸付は順調であった。

だが、浜口内閣以降は低利資金は中々出回らず、金解禁の緊縮財政によって農林関係予算は削減されることになる。

30年の農業恐慌に際しては、町田農相は農村に低利資金を融通する方針を固め、大蔵省預金部は7000万を融通し、耕地改良や山林開発、蚕桑改良事業が起された。

これに対し、極端に国庫負担を嫌う井上蔵相は、低利資金供給を国庫に依らず全て地方債で賄われることとした。

そうなれば地方自治体は当然、返済の見込みのある者に限って融通せざるをえない。

また、返済不能者が出て地方自治体の負債が増えれば財政破綻に陥る自治体も出かねない。

農村関係団体は政府に対し低利資金の融通ではなく補助金を支出すべきだと主張した。

農村の困窮は借金が多いからであり、大都市を除く地方自治体の負担能力は低いので、国家が直接救済を行うべきであるという主張である。

しかし、緊縮財政と金本位制に固執する井上財政では救農政策の余地は極端に狭まっていた。

浜口・若槻内閣期を通して行われた救農政策は、米穀法に基づく米価安定対策や糸価安定対策、失業対策など極めて消極的なものに終始した。

若槻内閣末期には井上蔵相もようやく2億円近い財政融資を実行したが、いずれも十分な成果を挙げるに至らず、農業恐慌は深刻化していった。

政府のおざなりな救農政策は、農村の実態からかけ離れていた。

浜口内閣は失業対策にも乗り出しているが、これもやはり不徹底であった。

政府は緊縮財政の中で地方債の新規発行を原則禁止ととしていたが、失業救済事業を例外とした。

そして、新規事業だけでなく、財源難で新規着工が困難となっていた地方公共事業についても、実施可能とした。

恐慌が深刻化する中で失業公債法を新たに制定し、河川、港湾、道路などの失業救済目的の土木事業を行う計画を立てた。

これは後の救農土木の走りである。

一連の失業救済事業に対し政友会は、一方では緊縮財政のため新規事業を認めずに継続費も削減をしながら、一方では失業者救済の予算を別途編成するという矛盾を指摘する。

本来、長期的かつ計画的に行われるはずの公共の土木事業が、このような矛盾極まる政策の上で行われる事自体が不経済なのである。

この様に厳しく批判し、犬養・政友会内閣誕生を持って見直されるに至った。

浜口・若槻内閣の救農政策、失業対策はいずれも井上財政との矛盾を来すものであった。

井上財政の転換しない限りは抜本的な解決もあり得なかった。

土地飢餓争議

井上財政は昭和農業凶行に対して何ら有効な手段は打てず、農村経済は更に悪化し、今までにない現象を引き起こしていた。

それが小作争議に現れる。

それまで小作争議は小作人が地主に対して小作料引き下げを訴えて引き起こされるものであった。

しかし、昭和期の小作争議は、地主が小作人から小作地を取り上げようとし、小作人が生活を続けるために小作契約の継続を訴える形で引き起こされた。

地主が小作地を取り上げようとしたのは、農業の機械化により農業生産効率が上がった為である。

これにより一戸あたりの耕作面積が不足し、農村に余剰労力(農家の次男、三男)を作り出した。

その余剰労力が都会に出て働き口を見つけられればよいが、不景気がそれを許さなかった。

そこで地主たちは、その余剰労力に耕作地を増やそうと考えた。

つまり次男や三男に耕作地を与えて分家するなどである。

機械化がそれを可能にしたのだ。

そして新たな耕作地は、今まで小作人に耕させてた小作地を取り上げて確保するのであった。

小作地を所有する地主や富農は、やれ神社に寄進するだの、やれ小作人が地主の言う通りに投票しなかっただの、難癖をつけて小作地を取り上げようとした。

小作人が耕作地を取り上げられては即生活の破綻をもたらす死活問題であるので、小作人は死に物狂いで対抗した。

こうして小作争議は、農村における土地をめぐる小作人と地主の生活闘争に発展した。

小作人が小作農からの解放ではなく、小作農の継続を訴えるなどそれまでに無かった事例である。

このような土地飢餓が発生した以上、小作料の滞納は小作人にとって致命的になる。

滞納すれば小作地取り上げの口実となりかねないからだ。

よって小作料だけは滞納しないよう、商人や親類縁者を頼ってでも小作料を納めようとした。

それでも小作料が収められなければ、返すあてのない高利息の借金を背負った。

ある小作人が小作料を滞納した場合、その滞納分を肩代わりするので小作農を任せてくれと直訴する小作人すらいた。

残された小作地を巡って小作人同士が奪い合いを始めたのだ。

そしてこの地主絶対優位の土地飢餓の中において、地主の小作料引き上げに抗うすべは、小作人に残されていなかった。

このように昭和農業恐慌は農村の矛盾をあぶり出し、小作農から自作農、地主に及ぶ全農民の対立関係を著しく激化させたのであった。

農村危機から国家の危機へ

農村の窮状に直面した各府県の農業関連団体は強い危機感を抱いていた。

このまま対策が講じられなければ農村の破滅だけでなく国家に非常に憂慮する事態になりかねないと考えていた。

政府は、農村の危機を見てみぬふりするかの如く低利資金供給にのみ頼るのをやめ、根本的な救済策を講じなければ、将来に大きな禍根を残すだろう。

昭和農業恐慌は農村の既成秩序が崩壊するだけでなく、国家そのものの基盤の崩壊しかねない。

この動揺を何とか鎮静化しなければならないと非常に憂慮した。

弱者を救済しない政治に対する革新の声は高まりつつあった。

30年には浜口首相が狙撃された。

犯人の佐郷屋は政友会院外団の演説を聞き、失業や倒産の原因を浜口内閣の金解禁問題にありと理解して凶行に及んだ。

32年には井上準之助、更には三井財閥の団琢磨がテロ組織血盟団によって暗殺された。

血盟団の実行部隊が農村の子弟であったことは、農村の窮乏が農民をテロに導くものであると理解され、マスコミが一斉に農村の惨状を伝え始めた。

そのような中で32年5月15日、海軍将校たちが犬養首相を暗殺するという前代未聞のテロ事件が発生した。

農村の疲弊や都市労働者の困窮という危機意識が、このような国家革新的なテロに一定の説得力を与え、蹶起に及んだ将校や窮乏する農民に同情の声が集まった。

こうして、農村や農民の動向が政局に大きな影響を及ぼすに至り、立ち遅れていた国家の救農対策が本格的な審議過程に入ってゆく。

農村救済請願運動

農村の危機に際して、まず立ち上がったのが農本主義者による農村救済請願運動である。

32年4月9日、自治農民協議会の長野朗を中心に、愛郷塾の橘孝三郎、日本農民協会の和合恒男、全農新潟県連の稲村隆一ら農本主義の農業諸団体が結集。

次期議会に向けて農村救済を求める陳情請願運動を起こした。

彼らは農家負債の三カ年据え置き、肥料資金反当一円補助、満蒙移住費補助の三か条の具体な請願項目を挙げ、4月末には実際に署名運動が始まった。

この請願運動に、515事件に関わった橘孝三郎が参加していたことから、かえって請願運動への注目が集まり、運動は拡大した。

長野たちは農家の負債こそ農村の癌であると訴え、その抜本的解決を主張した。

その最たるものが負債三カ年据え置きという農家負債のモラトリアムである。

借金に苦しむ農民たちは我先に署名し、中には100歳を超える老人もいたという。

結果、1932年6月2日、自治農民協議会は16県32,000名の署名を議会に提出した。

僅か1ヶ月余りでこれほどの署名を集めたのは前例が余りなく、農村救済請願運動がいかに大衆的な運動になっていたかがわかる。

その背景には、農村経済が行き詰まり、従来の小作争議中心の農民運動では対応出来なくなっていた現実があった。

第62回臨時議会

犬養首相の暗殺という大事件後に急ぎ組閣を終えた斎藤実挙国一致内閣は、当然のように農村問題に対する基本政策を有していなかった。

犬養内閣が予算再編成の為に召集を決めていた第62回臨時議会は予定通り開かれることになった。

5月26日組閣、6月1日議会開院と慌ただしい日程となり、政策の準備なしに議会に臨まざるを得なかった。

この議会には、先の農村救済請願運動の波が押し寄せた。

議会に次々と持ち込まれる請願書の山に対し、マスコミは「惨苦から救へと農民血涙の叫び」と書き立て、大きな反響を呼ぶことになった。

請願運動の主張するモラトリアムが議場に上がることはなかった。

だからといってこれを完全に無視する雰囲気にはなく、斎藤首相も議会において以下の認識を発表する。

「農村の困憊と都市の沈痛とは共に益々甚だしからむとするの状況である」

その上で、時局匡救を掲げた。

政民両党も政府に対し、早急に救農政策を立てて、新たに臨時議会を開催させるという意見が起こった。

特に地方農村を地盤とする政友会では、思い切った救農案を打つべきという声が支配的になっていた。

久原房之助や森恪、山崎達之輔、大口喜六、東武ら幹部級議員たちは、農作物の価格を5倍にする為に平価を5分の1に切り下げるという、貨幣理論を無視した暴論まで出ていた。

これには高橋蔵相や三土鉄相ら財政通は閉口し、強硬に反対した。

なお、突拍子もない平価切り下げ以外は基本的な農村対策が挙げられた。

農村負債を整理する為の組合創設、低利かつ長期貸付、農民負担軽減、開墾事業促進、米穀や肥料・蚕糸行の統制、飢餓農民に対する国有米の配布の諸政策である。

これを実現する為に2ケ月以内に臨時議会を召集すべしと求めた。

鈴木喜三郎政友会総裁はこの件について政府に掛け合った。

結果的に平価切下げを要求は削除され、臨時議会召集を速やかに行うとのことで妥協した。

こうして政友会は「時局匡救の為臨時議会召集奏請に関する件」の動議を提出し、以下のように決議した。

「政府は現内閣成立に使命に鑑み時局匡救に適切なる経済施設と人心安定の対策を遂行する為成るべく速に更めて臨時議会を開き通過流通の円満、農村其の他の負債の整理、公共事業の徹底的実施、農産物其の他重要産業統制に関し必要なる各般の法律案及予算を提出すべし右決議す」

この決議は満場一致で可決され、2ヶ月後に再び臨時議会を召集し、農村救済を中心とする時局匡救政策について議論することとなった。

衆議院の決議によって臨時議会が開かれるというのは、 史上初の出来事である。

農会の動向

第62臨時議会は農村救済請願運動が国会と政府を動かす形となった。

農民運動の大衆化を前に、農本主義団体だけでなく既成の農村秩序を担っていた農会も動き始めた。

農会とは明治時代に農商務省管轄下に設立された農業団体である。

帝国農会を中心に各道府県各市町村に農会があり、その地区全ての地主と農民によって構成され、地方農村の生産や流通の指導監督の役割を果たしてきた。

農会は第62臨時議会の最中に道府県農会の協議会を開き、農業恐慌への対応策を検討した。

そして農家の負債整理、農作物価格引き上げ、農家の負担軽減からなる財政援助を政府に要求した。

本来、農会は地主を中心とする組織であることから、穏健中正で、農民運動の過激化を抑える組織であった。

しかし、疲弊する農村の声を背景に、もはや農会は穏健の態度を取るべきではないし、穏健だけで農村が救えないとの意見が見られるようになっていた。

協議会内の救農政策の議論においても、単なる資金融通や負債整理では収まらない。

強力かつ抜本的な解決を図らねば農村の人心は回復しないととし、農村負債のモラトリアムさえ議論された。

もはや農会にあっても穏健な意見は少数派になりつつあった。

この背景には、農村の疲弊を放置すれば恐慌を放置すれば小作人の暴動が起こるという危機感があった。

どこかで火の手が上がれば、あっという間に全国に暴動が広がりかねない。

そのような直接行動に対する危機感が恐慌によって醸成されていた。

地主や富農にとって小作人の蜂起は革命である。

小作人の暴徒化を抑止する為に救農政策が一刻も早く必要である。

それほどまでに農村は追い詰められていた。

第63回臨時議会 – 救農議会

第63回議会に向けて、自治農民協議会は前回の請願は実現性に乏しかったとし、以下の具体的な五箇条を掲げて請願活動を行なった。

・政府低利資金三カ年据え置きと利子の補填

・農民の生活権確保の為の強制執行法改正

・3億円の開墾事業を起こして、開墾助成の範囲を広める

・移民教育をして海外移住の補助金を一人当たり百円出し、帰農者にも助成金を出す

・俸給を物価に平行させ、上下の経済格差を緩和するよう俸給令を改正する

前回の三か条の請願と比べると、農家負債のモラトリアムの範囲が政府低利資金に限定され、条件が緩和されている。

また農民の生活を確保するために、生活や農業生産に必要な物に対する差し押さえの禁止を訴えている。

更に政府に対して開墾事業の助成を要請している。

これは政府が打ち出そうとしている救農土木事業(後述)の対案の性格を持っている。

総じてより現実的な請願に落ち着いていると言えよう。

なお、前回の請願との共通点は、満蒙移民政策の推進である。

前回同様請願運動は加熱し、42000名もの署名を集めた。

自治農民協議会は請願事項実質のための法改正草案まで議会に提出している。

農民救済請願運動以外でも、各農村自治体の陳情や救農決議のような運動がなされ、無産政党や農民組合ら左派の動きも活発的になってきた。

成立したての社会大衆党は、農村問題について農村モラトリアムや無担保融通、肥料や農具の国家無償配給、農家損失の国家補償、土地取上げ禁止、農民減税を掲げて署名運動を行い、2万名の署名を集めた。

このような社会情勢を背景とし、召集された第63回臨時議会は主に農村救済問題を討議する場となった。

それ故に救農議会と呼ばれる。

議会において議論の的となったのは、今まで単なる低利資金供給に終わっていた救農政策である。

低利資金供給は比較的安定した中規模自作農家以上を対象とし、生活基盤を破壊された小作人を救済するものではなかった。

そこで内務・農林省による一大公共事業を起こし、農民たちに直接的に就労の機会を与え、その賃金収入で農村経済を潤す救農土木事業を中心とする時局匡救事業が救農政策として浮上した。

斎藤内閣は救農土木によって直接的に農村に金をばらまく一方で、農民の精神作興運動によって農村経済を回復しようとした。

それが自力更生運動である。

自力更生運動の端緒

自力更生という言葉は1932年5月、兵庫県農会の長島貞幹事が提唱した言葉で、農村の恐慌対策として農民に自力更生を求めるというものである。

難局打開のために農民自らが自力更生を行うという主張はたちまち全国の農会に広まった。

32年7月には農民の勤労による生産量・品質向上、副産業奨励、倹約、農業生産統制、共同販売推進など農村自らの更生によって不況を打開することを決議し、恐慌に対する活動の基礎としていた。

この自力更生は農村の抜本的改革(小作制度改革)に抵触しない農村の地主の利益に沿うものであったが、何も農会だけが唱えたわけではない。

農村救済請願運動の中心にあった自治農民協議会も、農民の生活が確保されて初めて農民自身の力による更生が出来るという文脈で自力更生を主張していた。

他人に頼らず勤労精励するのが美徳である教育されてきた日本国民、ことに農民にとって、自力更生は比較的、受け入れ易い考えであった。

そして農村側の自力更生の動きに注目したのが高橋是清蔵相であった。

高橋是清の自力更生論

農商務大臣を歴任したことのある高橋は、農村窮乏の原因を農民自身の精神的教養や知識の停滞にあると考えていた。

「彼等の生産力を拡大するに必要なる知識の進歩せざるに帰着すべきなり」

「兎角物質的発達が進んで、精神的教養がそれに伴わない。是れが今日農相困窮の一大病根である」

それ故に救農政策の基本を以下の様に考えた。

「農村に限らず、失業者の間題でも無意味な救済はしてはならぬ。

それは相手に間違った安心を与えるからである。

何事にも必要なのは親切気である。

皆が親切気を以て助け合ってゆくことである」

こうして、政府の援助に頼らない自力更生を強く訴えていた。

このような高橋の農政思想に決定的な影響を与えたのが、興業意見を記した前田正名である。

興業意見は1884年に編集された書物である。

農工商業の現状を詳細に記した上で、国民生活の窮乏の原因を明らかにし、下からの地方産業の振興策を具体的に立案したものであった。

高橋は当時農商務省に在り、同省の先輩である前田に協力して興業意見を作り上げた経験から、同書には並々ならに思い入れがあった。

高橋は前田に心服しており、前田との出会いによって

「国家というものは自己を離れて別にあるものではない。

自己と国家とは一つのものである。

観音様と信者とは一体となってこそ真正の信仰である。

国家もこれと同じだ」

と考えるようになったと回想している。

高橋と前田は公私ともに親しく、前田が高橋に与えた影響は絶大であった。

高橋は興業意見から学んだ思想から

「何か一つ計画を立てるのでも、根本はどうかということを私はいつも考える」

ようになったので、何か問題が起こり、処置を求められた場合に

「一時的のことは考えない。起れば起った原因から調べて行かねばならぬ」

と考えるようになったと回想する。

高橋は普段から口癖のように根本という言葉を用いていたようである。

しかし、興業意見の農業政策は小作農の抜本的改革ではなく自作農維持の為の振興策にすぎない。

しかも、以下のように精神主義に偏重していた。

農村の窮乏は様々な理由がある。

だが、中央政府がいきなり地方に対し農業政策を行うと、農村は自らの力で苦境を克服する能力を失い、中央に依存する体質となってしまう。

これでは農村が立ち直る事は出来ない。

まずは農民が自力更生の気持ちを持った上で、政府は農村の事情に沿った援助を行うべきである。

このように、近代工業・資本主義の発展を前にして農民に対しては一層の倹約、勤労を説くに終わっていた。

高橋の農政観はこの興業意見で止まってしまった。

高橋は農村窮乏の原因を、農村が冠婚葬祭費をかけ過ぎていること、教育費が高すぎること、肥料の費用が高すぎることと考えた。

この”根本”問題への対応策として農民に倹約を促している。

高橋が農商務大臣であった頃、農村問題について訪ねてきた説く農家に対し、一方的に説教を行い、憤慨させたというエピソードもある。

この時に高橋農政の危険性は垣間みえていた。

高橋は決して農村問題を軽視していたわけではない。

むしろに常に農村経済に関心を抱いていた。

だが、封建的な見方から脱せず、農村に対してはどこまでも自力更生を求める。

どこか突き放すような冷酷な態度に終始してしまった。

農業恐慌を議論する内政会議(後述)において、財政支出を求める意見に対し

「興業意見書に盛られた自力更生についての中心観念は、今なほその生命を持っている」

と述べて、自力更生=農民の倹約が農村救済の基本であると説いて譲らなかった。

しかし、昭和はもはや興業意見が書かれた時代でもなく、農村の現実は高橋が考えていた以上にもっと悲観的であった。

安上がりな経済更生運動

高橋が自力更生に注目したのは、興業意見の影響もあるが、自力更生運動が安上がりである事も大きい。

農村に直接金をばらまくために公共事業を起こす時局匡救事業とは違い、自力更生運動は農民自らの更生を求めるものである。

精神作興的な意味合いが強く、その予算は桁違いに低い。

第62回臨時議会の閉会直後の7月6日、斎藤首相は「重大なる時局に際して国民に告ぐ」と題してラジオ放送を行った。

その放送の中で、斎藤は農村漁村から救済の声が上がっていることを指摘しつつ

「その反面におきましては国民の心の奥底から所謂自力更生の声が湧き起こりつつあるのであります。

即ち国民諸君が、現下の難局をはっきり認識し、この非常時に際し、いたずらに国家の救済にのみ頼らず、自分自身の力に依ってこの不況を克服せんとする雄々しき声が起こりつつあるのであります」

と、農民、ひいては国民に対し自力更生によって不況を克服して難局を打開することを望むと締めた。

7月18日には地方長官会議において高橋蔵相は、以下のように自力更生を強調した。

「近来著しきは国庫の負担を前提として自己または或る団体の救済更生を求めんとする気風が漸く各方面に瀰漫せんとすることでありまして、常に国家全体の利害に専念するを要する政府として到底広くこの種の要望に応ずることを許さざるは言うまでも無いところであるのみならず、いやしくも国家社会に及ぼす損失と犠牲とを意とせずして自己救済のみ要望するの思想が一世を風靡するにおいては国家は遂に破産するに陥るの外ないのであります」

斎藤首相もこのように続けた。

「国民が克く内外の情勢と国難の実相とを理解し徒らに他力の救援にのみまつことなく相率いて自奮自励、全能力を傾倒して勤倹業に励み窮迫の悲境を離脱するの勇気と発奮甦生の決心とを以って難局の打開を期し更に進んで公共奉仕の精神を発揮し応分の犠牲をも敢えて辞せざる愛国的熱情を以って事に当たる事が肝要であると信ずる」

このようにして、内閣を挙げて自力更生運動を前面に打ち出した。

これは裏を返せば、農村救済の為の財政支出に消極的であったと言える。

高橋蔵相は昭和大恐慌の財政危機の下で、歳入減少と恐慌対策の矛盾をどのように調整すべきなのかに追われていた。

とりわけ満州事変を機に軍事費の増加に歯止めが効かなくなっていた。

これに時局匡救事業の予算が加わり、大規模な赤字国債の発行を余儀なくされた。

にわかに発言力を持った軍部の圧力の下で国防の充実を是認する限り、財政支出を抑えるには軍事費以外の予算に求めるしかない。

このような理論の下、膨大な予算を伴った時局匡救事業の規模を漸次縮小しつつ、より財政負担の少ない自力更生運動で農村問題を解決しようとした。

閣議は農村自力更生の精神作興運動を行うことに意見が一致した。

この方針を受けて農林省も7月10日に、農村自力更生の根本指導精神として、農村の共助・自力の精神養成や、農村が自力更生策を自ら計画する為に各種助成することを決定した。

こうして政府は自力更生運動を経済更生運動と名を変え、時局匡救事業に並ぶ農村救済政策の柱とした。

救農議会においては、農会が主張する自力更生運動を組織化して農村救済策として採用した。

経済更生に関する施策を提出し、予算として300万が認められた。

この300万という数字を見る限り、自力更生策がいかに安上がりであったかがわかる。

負債整理組合法案と農村救済請願運動の帰結

約50億もの農村負債の処理をめぐり、政府は救農議会に負債整理組合法案を提出した。

これは負債整理のために負債整理組合を組織させ、この組織に整理資金の一部を低利かつ長期的に貸し出すというものである。

しかし政友会は政府原案には資金の裏付けがないと指摘する。

そこで、政府が3カ年3000万円を出資して中央金庫を設立し、負債整理組合の貸し出しを負担し、更に宝くじ発行権を与えて資金調達をさせるべきであると主張した。

更に負債整理組合の設立を農村だけでなく商工業にも適用すべきと修正案を提出し、衆議院を通過させた。

これに政府は、貴族院に対しておいて衆議院の修正案では巨額債券を発行しなければならず、財政的に同意しがたいので政府原案に協賛することを要望した。

貴族院も政友会案の中央金庫構想を非現実的であると問題視し、政府原案を可決した。

両院協議会が開かるも法案はまとまらず、負債整理組合法案は不成立に終わってしまった。

負債整理組合法案は翌年の第64回議会でようやく成立する。

だが、農村救済の中心課題と考えられてきた50億の農村負債整理を抜本的に解決するものではなかった。

モラトリアムまで議論されたにしては「大山鳴動して鼠一匹」と評される結末に終わった。

農村救済請願運動の骨格であったモラトリアム議論は終息し、農民救済請願運動はその基本的要求を何ら受け入れられずに終わった。

戦前においてモラトリアムは23年の関東大震災と27年の昭和金融恐慌において二度行われた。

しかし、モラトリアムはそう易々と切られるカードではなかった。

ましてや農村負債のモラトリアムには様々な障壁があった。

まず農村負債の債権者は農村の地主であることが多かった。

当時の国会議員の支持基盤が地主層であったことから、モラトリアムには根強い反対があった。

そして農村でモラトリアムが実施されれば、次は失業者の溢れる都市部でのモラトリアムに議論が移るのは必然であった。

そうなれば日本全国でモラトリアムが実施されることになる。

このような背景から農村負債解決のためのモラトリアムは負債整理組合へと骨抜きされてしまった。

農村救済請願運動の中心にあった長野朗は「斎藤官僚内閣と、政権欲の外何物もなき既成政党のため空しく葬られ去った」と憤る。

その一方で、請願運動が政府や政党、国民の目を農村へ向けさせ、労働運動中心であった社会問題の重点が農村問題に移ったと評価している。

また、長野は政府に陳情する請願に頼ることで農民が乞食根性に陥らないか危惧していたが

「大体に農民の意識が高まり、農民が自ら自己の境地を切り開こうとする考えが生まれ、かつ農民が団結すれば、その力は強いもので、何事でもやれるという自信がおぼろげながら湧いてきた」

と述べて、請願運動の成果を評価している。

長野自身がこのように評価した通り、農村救済請願運動はモラトリアム実現にこそ至らなかったが、農民の団結を前に借金の取り立てが緩和されるという効果もあった。

一方で日本農民協会の和合恒男は請願運動の失敗を痛感した。

「我等の請願は、お互いに骨を削るほどの苦労として血の出るやうな叫びをあげたのに、官僚政府と資本家政党の最もずるい手によって、無残にも握りつぶされた」

もはや直接行動に移るしかないのかと失望した。

請願運動の評価の分かれる両者であるが、農民の生活権確保の為に政府や政党を頼るのは無意味であるとの認識は共有された。

そして、農民自らの力によって更生するしかないと、自力更生に行き着くのであった。

米穀法改正を巡る政局

政友会は斎藤内閣に3閣僚を送って協力姿勢を示していた。

だが、衆議院300議席という絶対多数を背景に、政友会単独内閣復活に向けて動き出していた。

救農議会に対しては、斎藤内閣が掲げる自力更生を中心とした救農政策を不十分で不徹底で無気力であると糾弾した。

これを倒閣してより強力な内閣を組織すべきという一派の動きが表面化してきた。

一方、政友会幹部たちは挙国一致を掲げる斎藤内閣との対決を望まなかった。

そこで、議会への協力の代わりに政友会への政権の禅譲を望み、数多の策動を行なっていた。

政友会少壮議員はこうした幹部たちの及び腰を突き上げ、政府は国民の輿望する政策を提出すべしと主張した。

政友会議員総会において山口義一幹事長が

「自力更生なる標語は国民自らの間において用いらるる時は正当であるが、国政総理の大任にある人より聞くときそれは責任の回避であり無為無能の弁解に過ぎない」

と糾弾するに至り、予算案作り直しや内閣不信任案やむなしとの声が上がるなど、政友会内部の紛糾は頂点に達した。

これに対し鈴木総裁は政府を批判するでもなく、議会にて十分審議すべきという是々非々の態度を示し、イニシアティブを発揮出来なかった。

鈴木総裁がこのような立場を取った為、救農議会にて内閣不信任案が提出される可能性は低くなった。

だが、それでも政友会は政府の救農政策を手ぬるいと考えており、法案審議の相当な紛糾が予想された。

先に負債整理組合法案が紛糾の上に廃案になった事を挙げたが、米穀法改正に関しても同様に議論が紛糾した。

政府は米穀法改正について運用資金の増額を主張したが、政友会は米穀法による余剰米買い上げの基準値である率勢米価の問題を突いた。

米穀法は浜口内閣時代において一度改正されている。

同法改正により、政府はあらかじめ本年度の米価の基準値を定め、その基準値の上下2割を最高・最低価格とし、米価がその枠外になった場合にのみ米穀市場に介入するとした。

率勢米価はその、政府が米買い入れ・売り渡しを行う場合の規準値であった。

この基準値は米価物価指数により算出される。

問題は率勢米価が今年の米の生産量によって決まるのではなく、昨年の米市場の米価によって定められる点にあった。

簡単に予想出来る事ではあるが、前年度豊作で本年度凶作であれば、率勢米価などというものは農家経済安定の為に全く役立たなくなる。

そして実際に30年大豊作、31年大凶作を迎え、大豊作の年の米相場を基に率勢米価を算出した為に、政府は米価安定の為に米穀市場に介入出来ず、米穀法は機能不全に陥った。

この問題が起きた為、政友会は米穀法の率勢米価規定を削除し、米穀法運用を政府一任とすべきと主張した。

これに対し後藤農相は率勢米価規定削除に反対し、政府と政友会の妥協はならず、会期は延長された。

結果、政友会は率勢米価規定を削除した上で米穀法改正案を衆議院において可決した。

負債整理組合法案を否決した貴族院ではあったが、政友会が可決した米穀法改正案については一理あると考えた。

率勢米価規定を残しつつ、最低価格は本年度の米生産量を基礎として諮問委員会にて決定するという妥協案が成立する。

会期最終日に両院協議会案にて米穀法は改正された。

こうして斎藤内閣は救農議会を乗り切ったが、総じて政友会の300議席の数の力が発揮された議会であった。

東京朝日新聞はこの議会を以下のように評する。

「所謂挙国一致内閣でありながら寄合世帯の悲しさ、政府部内の不統一は遺憾なく暴露されたと同時に、議会政治の運用は政党内閣にあらざれば円滑に行い難い点を深く印象づけた」

政友会と斎藤内閣の関係は近いうちに清算されるだろうとの観測を行った。

31年東北・北海道凶作

救農政策が議論されている中、東北・北海道の農村恐慌は凄惨を極めた。

そもそも東北・北海道は稲作が出来るギリギリの気候にあった。

冷害による凶作が度々発生し、生産力も関東・西日本地域に比べて著しく遅れていた。

江戸時代の南部藩(現在の岩手県中部)の惨状が特に有名であろう。

南部藩は江戸時代通じて94回の凶作が発生し、その内17回飢餓に発展し、天明時代には数十万人の餓死者を出した。

単純計算すれば4年おきに凶作になり、16年に一度は飢饉に陥るという凄まじさである。

その稲作不適合は近代になっても変わらず、明治時代には24回の凶作を記録している。

31年、農業恐慌に苦しむ東北・北海道に追い討ちのように凶作が襲いかかった。

農作物の価格は前年に引き続き下落した上に、凶作により農作物の総生産高が落ち込んだ為、多くの農家は農業収入だけで生活が成り立たなくなった。

その穴を埋めていた出稼ぎも全国的な不況で頼ることが出来ない。

それでも自作農家は借金返済のために土地を手放すことも出来た。

だが、小作人は手放す土地がなく、凶作のために飯米もなく、野山のもので飢えをしのぐなどギリギリまで生活が切り詰められた。

この凶作で特に悲惨であったのは北海道であった。

北海道は元々貧しい小作人が多く、平年ですら細々と生活を維持していたが、そこに恐慌と凶作が重なった。

水田は枯れ、大豆や小豆、じゃがいも、トウモロコシ、オーツ麦は例年の半分以下の大凶作であった。

不良の米、トウモロコシ、かぼちゃ、蕎麦などが食べれればむしろ良い方である。

ワラビの根、フキ、大根の雑炊で辛うじて飢えをしのぐ飢餓地獄に陥った。

飢えのあまり食生活は凄惨を極めた。

実のない籾を臼で挽いて団子にするとか、デンプンの搾りかす、豚に食べさせていた醤油粕、腐った馬鈴薯をデンプンにして蕎麦粉や麦粉と混ぜたもの。

生の馬鈴薯をすったものを残飯に混ぜたり、カブラと稗糠を混ぜたものをドロドロにしたものまで口にした。

調査に来た役場の人間が一度それを食べてみると、喉に火がついたようになったという。

粗食のあまり胃潰瘍や伝染病が頻発するが、医療にかかる金がないので放置された。

教員の俸給の支払いは当然のように滞る。

税の滞納で差し押さえたタンスや馬を競売にかけても、買える者がいない。

そのような地獄のような光景が広がった。

このような状況は青森、岩手、秋田でも見られた。

大宅壮一は東北の凶作地を視察し、翌32年に以下のような所見を述べている。

飢餓は天候不良による収穫減の為に起こるが、東北の農民たちの窮乏は今年に限ったことでは無い。

現に豊作であった30年でも大部分の貧農は困窮していた。

凶作の今年の方が困窮に程度が幾分酷いだけで、大して変わりがない。

困窮の本当の原因は豊作とか凶作とか、そういうものではなくもっと深いところにある。

「彼らの窮迫は、昨年の天候不良による急性的なものではなく、ずうっと古い、慢性的なものなのである」

欠食児童問題

東北・北海道の昭和農業恐慌の悲惨さは他の地域より群を抜いていた。

大手新聞社は度々特派員を農村に派遣して、その惨状を伝えていた。

特に問題になったのが、欠食児童と娘の身売りである。

東北の小作人や零細自作農家は貧しさのあまり両親が家を空けがちで、子供は学校に行けずに家で小さい子の面倒を見なければならなかった。

学校に行けても持参する弁当はなく、家でもろくなご飯を食えず、栄養不良となった子供は100人に5名の割合まで増加した。

雪国であるのに子供の顔色は栄養失調から黄色く変色していた。

見かねた学校が握り飯を1人につき2つずつ渡すが、中には握り飯の半分を家で腹を空かせて泣いている妹のために持って帰る児童もいた。

そのような子供の家には当然のように風呂はなく、頭にシラミがわいていた。

栄養失調と不衛生が重なり、児童は病気になりがちになった。

寒村ともなると医者は峠をいくつも越えてやってくるので、農民は米を炊いてもてなし、借金をしてでも往診料を包む。

保険などない時代、この医療費は農家の重い負担であった。

だが、医者にかかれるならまだいい方である…

新聞はこれを欠食児童と名付けて大々的に取り上げた。

空腹のために朝礼で倒れる子、空腹で集中力を欠いて授業についていけなくなる子。

腹が減るから体操や唱歌の授業を廃止した学校、握り飯をめぐり喧嘩をする子、家にいる幼い子のために給食を盗む子。

乞食を行う子や、奉公に出されて小学校を卒業出来ない子など、東北・北海道の子供の惨状をありのままに伝えた。

なお新聞は、飢えのために地面から掘り出した大根をそのまま齧る子供というセンセーショナルな写真を載せた。

だが、いくら飢えていても大根をそのまま齧る子はおらず、大体は粥にして食べるので、過剰な演出であったという。

新聞の報道を受け、ようやく文部省も調査を開始した。

斎藤内閣は農山漁村には主食となる米はなくても、それ以外の食料は豊富にあり、村の間で助け合っているだろうと楽観視していた。

ところが実態調査の結果、欠食児童は東北・北海道だけで2万人に上るという衝撃的な数字が発覚した。

これを受けて32年9月7日、文部省は道府県に対し、学校給食の趣旨徹底に関する訓令を発し、欠食児童を対象とした学校給食が開始された。

経費は2年間で88万円、これを道府県を通じて市町村に分配した。

児童一人当たりの給食は一回4銭、これを現金で公布することは一切禁じると定められた。

早速、現場の教師たちは予算をやりくりして献立を作り、欠食児童たちに昼食を食べさせた。

4銭では少ないので、義援金や地元篤志家の寄付により不足を補う学校も多かった。

給食の対象となった欠食児童が負い目を感じないよう、別の部屋で給食を取らせたという涙ぐましい話も残っている

娘の身売り問題

娘の身売りは欠食児童と並ぶ深刻な社会問題であった。

新聞は東北の農民が借金に苦しむあまり、手っ取り早く現金を手に入れる為に娘を身売りするのが横行したと書きたてた。

この衝撃的な報道が全国を駆け巡り、東北・北海道の凶作地に対する同情の声が多く寄せられることになる。

なお、身売りと書くと一般的に遊郭に売り飛ばされると想像する。

実際には農家の娘は職業紹介所の斡旋により、紡績女工や都市中流家庭の女中奉公、子守奉公の正業として他県に出稼ぎにゆくのが大半であった。

身売りとは身代金をとって務め奉公するのが本来の意味である。

出稼ぎのために離村するのとは意味合いがまるで違く、しかも身売りされた全員が全員遊郭に飛ばされるわけでもない。

しかし、新聞は農業恐慌の悲劇を強調するあまり、出稼ぎ女性まで身売りされたと過剰に表現した。

その売られた娘たちの大半が芸妓や娼妓のような売春婦であるとの印象を与えた。

そして、報道は過熱してゆき、東北の農家は娘を私物化しており、身売りを何とも思わないのか、などと糾弾した。

当時、新聞紙面で実名を挙げられた町村の不名誉は消えない。

また、そもそも東北農村における出稼ぎや身売りは凶作特有の現象ではなく、伝統的な風習であった。

東京の遊郭で働く女性たちの出身県は圧倒的に東北出身者が多いという記録がある。

このような過剰報道もあったが、それでも農家の娘たちを取り巻く環境は悪かった。

重労働のために病に倒れる例は枚挙にいとまがない。

それだけでなく恐慌特有の問題として、農村の苦境に漬け込む悪徳業者が出てた。

女工名目で村を出たのに、いつの間にか売春婦にされたという例もあった。

報道が反響を呼び、婦人会や赤十字が救済活動に乗り出した。

自治体も紡績工場などに協力を要請して農村の子女を正規の仕事を紹介しようとし、義援金が日本中から集まった。

しかし、農民たちはそのような救助を待つ余裕さえなく、中々悪徳業者への人身売買は止まらなかった。

また。人身売買についての調査を行おうにも、農民たちは外聞を恥じて内密にしており、一向に捗らなかった。

こうして一家が離散していく例は後を絶たなかった。

娘の身売り問題の中で、山形県最上郡の例は最も悲惨なものであった。

最上群の総面積の8割は国有地で、農民たちはその国有地を実質自分の農地として耕作し、国はこれを黙認していた。

しかし29年、時に浜口内閣は財政整理のために国有地の整理を打ち出し、最上郡の国有地も払い下げを決定した。

最上郡の農民との話し合いはなく、期限内に代金を納めなければ、開墾してきた土地であっても競売にかけると一方的に告知した。

ただでさえ不況と凶作で疲弊してきた最上郡の農民にとって、払い下げのまとまった代金など手元にあるはずがない。

だが、至急工面しなければ土地を取り上げられて農業が続けられなくなる。

最上郡の農民たちは娘の身売りを選ばざるを得なくなった。

最上郡人口9万4千人のうち2千人の娘が娼妓として売られ、村々から若い娘の姿が消えてしまった。

これに対し自治体は、財政難を理由に身売り代にまで課税しようとし、ついに娘を全員身売りしても払い下げ資金が足りない農民が続出した。

事ここに至り、ついに村民が直接県当局に対して訴えたことで、ようやく問題が表面化した。

この最上郡の例は、政府が農村の実情について驚くほど無知無関心であったことを示すものである。

救農土木事業の出発

農村の窮乏に対し、斎藤内閣は第53臨時議会において時局匡救事業と経済更生運動の二本柱の救農政策を立てた。

そして時局匡救事業として三カ年計画で総費用国庫負担が6億、地方負担が2億の計8億円の大予算をつけた。

その大半が救農土木事業にあてられた。

当時の国家予算が20億であると考えると、救農土木事業の規模の大きさが知れる。

内務省と農林省には道路改修、河川治水、港湾改修などの農村振興と、用排水路、耕地改良、林道開発などの農村土木の予算がつけられた。

この予算のうち、内務省は5割、農林省は8割近くが労賃・人件費であったのを見れば、この救農土木事業の性格がはっきりとわかる。

つまり、公共事業それ自体が目的ではなく、全国の農村に資金を散布する事で、窮乏にあった農山漁村を救済することが目的である。

斎藤首相は議会において「窮乏せる農山漁民に直接就労の機会を与え,あまねく賃金収入の途を開く」と答弁している。

出稼ぎによる現金収入の道が絶たれた農民や、都市部で失業して帰農した元労働者に、土木事業によって就労の機会が与えるのに主眼があった。

山本達雄内相は省内の土木部会議において

「全国的に土木事業を起興し、之に依りて窮之せる地方民に普く労働の機会を与へ、其の勤労に依りて収入の増加を図り、以て自力更生の資を得しむると共に、将来地方産業の進展に資せしめんとすることに在るのであります」

と、農村土木事業の意義について端的に語っている。

さて、実際の土木事業であるが、農林省は開墾や用排水路改良、暗渠排水改良などの小規模な事業を計画し、内務省は道路設置や河川改修など大規模な事業を計画した。

よって内務省の予算のうち、セメントや鉄、木材などの材料費が2割を占め、恐慌期にあってセメント業や鉄鋼業は大きな刺激を受けることになる。

この事から、救農土木事業はセメント業や鉄鋼業しか助けなかったと批判されることもある。

ただし、救農土木が農村を中心として短期的な労働力需要を創出し,追加的所得をもたらし,そして,消費財市場の拡大に寄与した効果は,かなり大きかった。

救農土木の事業費を単純計算すれば農家一戸あたり20円程度の労賃である。

これが40億近い負債を抱える農村救済に効果があるとは考えられない。

しかし、短期的とはいえ農村を中心として労働力や工業製品の需要を創出し、ある程度の追加所得をもたらしたことは、景気の下支えという点でかなり重要な役割を演じた。

労賃・農業所得が極度に減少していた当時の農家経済のもとでは、救農土木事業は一定の効果をもったと言ってもよい。

そして、多額の資金が農村救済に撒布された上に、それを政府が大々的に宣伝された為に、社会不安を鎮静化する効果があった。

救農土木事業の実態

ただし、救農土木事業は手放しで評価出来るようなものではなく、多大な問題を抱えていた。

当初、救農土木事業は三ヶ年で国庫負担6億円、地方負担2億円の支出計画であった。

だが、実際に支出されたのは国庫5億円、地方3億円と、地方財政への負担が増えている。

ここで問題になるのは、救農土木事業費の大部分は、地方自治体がおこなう土木事業の補助費であることだ。

救農土木として何をやるのかは、地方自治体で決定する。

その事業が認可されると工事総額の6割を国が直接助成し、残りは地方自治体が支弁するという形が取られた。

この地方負担は政府の低利資金融資で賄われるとされたが、返済すべき負債であることには間違いない。

救農土木事業を行えば地方財政の負担が増すことから「農救工事が却つて農殺」と題した新聞報道すらあった。

ただでさえ恐慌で苦しんでいるのに、そのような支出を負担出来るような村は少ない。

事業費を全額支弁しない村や、全く払わなかった村もあった。

もっと悪質なものになると、補助金しか使わずに表面は計画通りに工事したかのように見せかけたり、村の権力者が請負業者と結託して中抜きを行なったなどの不正が行われた。

こうした事業費カットや不正のしわ寄せにより、農民に支払われた労賃は計画よりもずっと低かった。

勿論、政府もこのような不正が起こることを見越して、救農土木事業を民間請負ではなく自治体が直営することを原則としていた。

民間の土木請負業者は強く反発したが、救農土木事業が農山漁村の地元民雇用を優先し、公正に賃金を行き渡らせることを目的とした為、ある程度の効率性は犠牲にしてもよかった。

全国の6割の町村が直営で土木事業を運営し、そのような自治体では労賃がしっかりと払われた。

しかし、不正を監視する農民組合との争議を嫌い、事業を請負とする例もあった。

一度事業が請負業者に任されると、請負業者による中間搾取、賃金不払い問題が噴出する。

村役場の役人や村議の長が、これら悪徳業者と結託して、利権を漁ったり、工事監督者と称して高い日当をせしめた。

一日の労賃65銭のうち飯場料として40銭天引きするという事例も数多く挙げられた。

また、事業計画の段階で一人当たりの労賃を高めに見積もり、実際にはそれ以下の労賃を支払い、その差額で地方財政を潤そうという影人夫方式が横行した。

県当局も救農土木事業における地方負担の過大さ故に、そのような不正を黙認せざるを得なかった。

更に請負業者が能率の低い農家を嫌い、本職の職工か賃金の低い朝鮮人労働者を雇うという、本末転倒な事態も起きている。

このように救農土木事業の労賃取得効果は、記録に残らない不正が横行した為、実際の数字よりは低く評価せざるをえない。

また、労賃を受け取ったとしても、地主たちや商人への借金返済に右から左へ消えてしまう。

救済を要する貧農に対する労賃取得効果が現実には著しく低いものであったとの批判もある。

救農土木事業の後退

救農土木事業による就労機会の絶対量は、必ずしも十分でなかった。

しかし、政府は農村土木事業を推し進めるわけではなく、むしろ縮小しようとした。

その傾向は早くも救農議会会期中の高橋蔵相の演説に見られている。

高橋蔵相は膨大な時局匡救予算の説明を行う際に

「今日の時局に善処するには、国民が単に政府の施設のみに依頼するが如きことがあっては、到底所期の効果を収むることが出来ないのでありまして、国民自身自力更生の意気を以て、難局打開に遭進するの用意がなくてはならぬのであります」

と、救農土木の財政支出はあくまで応急的処置であることを強調し、自力更生こそが農村対策の主軸であるとしている。

議会終了後には、斎藤内閣は農村の事態が好転しつつあるとの観測を発表し、時局匡救事業の削減に向かい始めた。

斎藤首相も救農政策について

「ただ金さえ貰えばよいというのではいけない。金はなるべく少なくして実績を挙げて行きたいと思う」

と述べ、地方を回った人から、世間で騒ぐほど農村は困っていないと聞いたとしている。

岩手県出身の斎藤が何故そのような農村認識に至ったのかは謎ではある。

高橋蔵相も繭価や米価の好転によって農村の窮状が多少緩和されたと観測し、既定計画に捉われずに来年度予算を縮小するとの態度を示した。

この背景には増大する軍事費の圧力がある。

事業継続の必要性が訴えられたにも関わらず三カ年計画は変更されず、34年を最後に農村土木事業は打ち切られた

農山漁村経済更生運動

救農議会にて高橋蔵相は自力 更生を強調している。

「国民がいたずらに政府の力のみにすがろうとする、さもしい心を起こさないようにしてもらいたいことである。

国民が天から札が降ってくるのを待つような気持ちになっては亡国の外はない。

更生を図るには自ら努力して更生の途を見いだすことが大切で、この精神が最も重要である」

度々述べたように、高橋蔵相は自力更生こそ農村救済の決め手であると確信していた。

また、後藤農相も経済更生運動によって、農村の欠陥である無計画・無秩序・無統制を、農村自らが改め,農村経済の再建を図るべきだと主張した。

農村救済を農民の努力に求める政府の姿勢に対し、志賀和多利逓信政務次官は、農村に自力更生の力があると考えるのは非常な認識不足であるとし、抗議の辞任をした。

しかし、政府を再考させるには至らず、自力更生を基調とする経済更生運動が救農政策の主役となった。

自力更生の手本として薪を背負って本を手にした二宮金次郎像が学校の校庭に登場するようになったのもこの頃である。

9月27日には経済更生実行の中央機関として、農林省に経済更生部が設置される。

更生部は経済更生運動の具体策とて、以下の3点を挙げた。

・経済更生計画の樹立と実行

・農村負債整理

・産業組合の強化

経済更生計画とは、県下町村のうち精神・経済・生活改善に努めて自力更生に取り組むことが出来る村を経済更生指定村として認可する。

指定を受けた町村は更生計画を樹立し、それに対し100万円の補助金を交付するというものであった。

計画書の出来が良ければ、農林省は優良農村計画事例に採用し、全国的に宣伝された。

こうして40年までには全国の8割にあたる9000町村が経済更生指定村となった。

しかしここで問題なのは、経済更生計画に履行の義務がないことである。

計画を立て、スローガンの書かれたビラを配るだけ配って、計画が早々に放棄される例が続発した。

これは更生計画を指導できる中堅人物が農村にいなかったからだ。

そこで34年、救農土木が打ち切られる代わりに、農林省は農民道場の予算を獲得した。

農民道場とは、町村にあって経済更生計画を担うことの出来る中堅人物を養成する修錬農場である。

農務省にあって長年農政に携わり、経済更生運動を推進した農政官僚の石黒忠篤は、以下のように人材育成の重要性を説いている。

「私は永年農林省で農業政策や施設に関係して居たが、何をするにしても結局は人の問題になってしまう事を痛感した。

つまり広義の農業教育である」

指導者に恵まれた町村は経済更生計画を大いに活用した。

特に東北は官民あげて経済更生計画に熱心で、肥料のやり方を改善して収穫が倍増した成功例もあった。

ただし多くの農家は借金のせいで経済更生計画を行う余裕はなく、また計画を指導する人物も得られなかったのが実情であった。

農村の人材不足は農村負債整理組合においても現れる。

33年3月に成立した農村負債整理組合法により、負債に苦しむ農家に地域ごとに負債整理組合を作らせた。

組合は負債整理計画を立て、これに対し県が低利の資金を貸し付ける制度を開始した。

債権者との衝突を恐れて組合を敬遠する農民も多数いた。

ただ、組合は資金を背景に債権者と粘り強く交渉して、利息値切りや借金棒引き交渉を行い、農家の負債を着実に整理していった。

また、組合ごとにも経済更生計画を立てさせ、計画に対する補助金も出た。

禿山を購入し、そこに植林して、木材費を組合員で分け合うと経済更生計画を立て、戦後にかなりまとまった金になったという事例もある。

無論、この負債整理組合も指導者を得れるかどうかで成功が左右され、大多数の貧農の負債を根本的に解決するものではなかった。

産業組合の実態

経済更生運動の柱は産業組合の強化であった。

産業組合とは産業組合法を基に設立され、以下の4種を兼営する組合であり、現代の農業協同組合の前身である。

・組合員の預貯金や貸し付けを行う信用組合

・組合員の生産した農作物を共同販売する販売組合

・組合員の農業生産に必要な物資を共同購入する購買組合

・組合員が利用できる生産施設を設置する利用組合

農村は従来産業組合を活用してきたとは言えなかった。

経済更生運動の中心組織として位置づけられ、多くの農民が組合員となり、急速に組織を拡大した。

共存同栄の名の下に産業組合は全町村に設置され、農業生産や販売拡大、農業合理化、生活改善、節約運動など広範囲にわたる経済更生運動を担った。

後藤農相は農村の窮乏の原因を、農民が農村の外の者に対して大きな負担を背負っている為だと考えていた。

農村において商品経済が浸透した為、農作物や肥料を扱う商人や悪徳金貸しの影響力が大きくなり、彼らが農村を収奪して農業市場を劣悪なものとしていた。

この観点に立てば、商品の流通・生産や信用金融を産業組合の下で組織化し、商人や金貸しを農村から排除し、農業市場を安定化するのが望ましいこととなる。

また、後藤は零細農家の経営が無統制に置かれていることも原因に挙げた。

しかし、小作制度の枠内で零細農家を大規模農家とすることは困難である。

そこで、零細をやむを得ない状態として、産業組合を中心とする生産・販売共同化で零細農家を統制しようと考えた。

このような構想の下、政府の助成により、農作物販売や農業用品購買における産業組合の比重は高まった。

販売流通事業では米穀、麦、生糸、絹糸、蜜柑の組合の取り扱いが増加し、米穀商人は農村市場から追われた。

政府は米穀統制法を運用するにあたり、産業組合との取引を集中する形で販売事業を助成している。

購買事業では、三池窒素や満州科学のような急速に発展した化学肥料業社と組合が結託して肥料市場を独占した為、肥料商人が農村市場から排除された。

米穀・肥料商人は市場追放に反発して、反産業組合運動を起こしてすらいる。

信用の部分においては、農林省が農村負債整理のために産業組合金融の利用を促進する形で拡大した。

組合金融に農村資金を留めさせたことで、悪徳金貸しや地主、地方銀行の役割は低下した。

他方では農民に対しては備蓄節約を推奨し、負債拡大を抑えようとした。

政府はこれを実行するために農村金融関係法を整備している。

農業合理化においては土地改良、機械化、多角経営、副業、生産方法改善を組合が主導した。

養蚕が縮小して桑に代わって果樹や小麦の作付けが増大したり、二毛作が拡大していった。

電動機や脱穀機、精米機、乾燥機などの機械の普及台数が伸び、稲作や茶業の生産力が格段に向上した。

このように経済更生運動を担う形で産業組合は拡大し、37年には全国で7割の農家が産業組合に加入した。

産業組合の拡大は恐慌に苦しむ農家を救済する役割を果たしたといえよう。

ただし、産業組合加入には出資が必要であった為、組合に出資する能力すらない零細農家は参加出来なかった。

それが残りの3割の農民であった。

それに貧農は組合を利用しづらかった。

購買組合が拡大することで肥料商人が農業市場から追いやられていく。

それでも大半の貧農たちは組合ではなく肥料商人から直接購入した。

組合を利用する場合、頭金が要求されるが、貧農たちはそれすら払いたくなかった。

また、商人であれば支払期日の融通も利く。

そして、大体の貧農たちは肥料商人にツケがあるので、その関係を清算しようとすればツケを催促されるのは目に見えていた。

販売事業についても組合にツケがあれば代金を貰えないので、組合のマークを拝借して、個人出荷を行う始末であった。

産業組合を活用できるのは生活に余裕のある農民に限られた。

貧農は組合と縁がないし、利用したくても利用できない、そのような現実があった。

多角化経営の実態

産業組合は農業多角化を次の農業恐慌に備える保険であると喧伝して推進した。

種類の違う農作物を作れば恐慌が来ても、ある物は他の物ほどには下落しない。

繭にのみ頼って恐慌が直撃する農家よりも、野菜や果物を作っておけば損害は少ないという理屈だ。

それはいたって正論ではあるが、農民感情としては、今一番売れる物のみを作りたい。

農家にとって農業は趣味や道楽の家庭菜園ではなく生業である。

金儲けをするならば最も利益を出すものを多く生産し、生産力をこれに向けるのは当然の考えであった。

養蚕や米はそうやって専業化された歴史がある。

いざ多角化に切り替え、順調に回り始めたとしても、次に待っていたのは激しい市場争いであった。

奈良と高知のスイカ、京都と千葉の芋、大阪と淡路島の玉ねぎ、山梨と大阪の葡萄、これらが全国で市場争奪戦が起こした。

このような事態に対し自治体は、自県の農業を守る為に他県の野菜が入ってこないよう自給自足主義を採り、他方で他県には自県の農作物の売り込みを図るという、資本主義に移行する。

そうなれば、自分たちの農作物が何時他県の農作物に駆逐されるか、また何時生産過剰となって暴落が発生するか、誰にも予測がつかなくなる。

多角化したとしても安定はあり得なかった。

このような市場争奪戦が起こるならば、専業化によって技術を向上させ、それによって生産効率を高める。

また、品質を改良して、中途半端に市場に参加してきた者たちを駆逐するという市場原理が働く。

こうして多角化で作った中途半端な農作物が市場から駆逐されて、専業に戻る農家が続出した。

多角化の成功例は多い。

しかしそれは誰もが簡単に真似出来るものではない。

根気よく農業を研究し、不断の努力を続けた農家のみが成功するものであった。

そして、それが出来るのは資金も知識もある中農・富農層だけであった。

多くの貧農たちは販路も技術もなく、ただ闇雲に多角化に手を出して失敗した。

貧農たちに家畜や農作物が現金化出来るまで、多角化が軌道に乗るまでの時間を待つ余裕がない。

家畜の肥料を買う金が尽きて育ち盛りの家畜を安く手放したり、出稼ぎで長く家を空けた結果、畑や果樹園を枯らしてしまった。

仮に多角化を続けれたとしても、自家菜園レベルに留まり、貧農から抜け出せるような規模ではない。

現金収入の増加によって更生を図ろうとする多角化経営とはまるで意味合いが違った。

農村工場の実態

経済更生運動は農村の工業化も推し進めた。

資本家の大河内正敏は工業の地方分散を主張している。

「今日の工業が主として都会に集中されているのが、かえって工業そのものの為に小利である。

生産費を切り下げる上から見て、農村の工業が遥に有利であると自分は確信している」

この露骨な発言通り、農村に工場を建てれば都市工場の労賃の3分の1以下に抑えられる。

一方で農村側は働き場を得て貴重な収入を手にすることが出来る。

資本家は人件費を抑えられて、農村は安定した収入を得る、ウィンウィンの関係であるという主張だ。

これを可能としたのは工業の分業体制が確立し、農村の未熟な労働者をすぐに活用できるほど発達した工業生産力にある。

軍部も有事の際の軍需工業動員を考え、平時から地方中小工場の技術水準を高めようとした。

34年、高知県が呉海軍工廠に対し、中小鉄鋼業救済の為に軍需の発注を要請した。

これが成功したことで軍部と商工省は農村工場を推進した。

こうして金属・機械・科学などの都市部重化学工業の外郭として、農村に自動車部品や軍需品の下請け工場や人絹工場が建てられた。

農村工場は周辺の農村から働き手を集め、農家の子女の多くが工場に通うようになった。

その収入は農家の大きな支えとなり、農村工場への依存度が高まった。

しかし、農村に労働団体などなく、労使関係は圧倒的に資本家に優位であった。

資本家が少しでも損だと感じれば、時短操業や休業、賃下げ、給料不払い、解雇、工場閉鎖は平気で行われた。

農民たちにそれに抗う力はなかった。

一方、経済更生運動の主管である農林省は、農村工場を養蚕・製糸・製炭に代わる農家副業の工業化だと考えた。

その規模は、地元の農作物・水産物を原料とする食料品加工工場や、雑工業、繊維、機械の簡易部品など、共同作業場に近い小規模なものである。

そしてその小規模工場の経営主体は産業組合が担うべきだと考えていた。

小規模工場は自給自足的な性格が強く、農家の支出削減や副業として若干の現金収入をもたらした。

ただし、農業工場も副業的な小規模工場を経営できるのは原料を入手できる中農以上に限られた。

原料を入手する余力のない貧農には全く寄与しなかった。

排除される貧農

以上、経済更生運動を振り返ってきた。

その問題点を端的に言い表すのであれば、貧農を救済対象としなかったということである。

経済更生運動は農業の合理化と工業化の二本柱からなる農村経済再編であった。

この運動を担ったのは中農・富農からなる産業組合であり、様々な助成によって中農農家は農村の中核を形成してゆく。

しかし、貧農を貧農たらめている小作制度を回避しつつの農村経済再編には限界がある。

大多数の貧農は経済更生運動の枠外に追いやられた。

この結果、少数の中農・富農が育成される一方で、貧農は耕作地を奪われて離村が促進された。

折しも都市部は不況が回復し、労働者の需要が高まっていた為に、彼らの受け皿は整っていた。

経済更生運動を推し進める農村にとって、貧農は過剰人口に他ならなかったと言えよう。

しかし、農村経済更生の本来の対象とは、農業恐慌にあって一番苦しんでいた貧農達ではなかったのであろうか。

農村救済と荒木貞夫 斎藤内閣の救農政策は貧農を積極的に救うようなものではなかった。

ところが、政府は経済更生運動を救農政策の主軸とし、救農土木については漸次削減の方針を採った。

この背景にあったのは満州事件に端を発した対外進出による軍事費の増大である。

32年末、陸軍は来年度予算の新規要求として3億8000万を、海軍は3億4千万を提出した。

これは新規要求総額13億円の5割を占める巨額である。

高橋蔵相は国防の充実は必要であるとし、軍部の新規要求を極力認めた。

そのしわ寄せを繭・米価の安定による農村窮状緩和を名目に時局匡救費に向けた。

だが、高橋が楽観視した繭・米価の安定は一時的なもので、農村窮状は全く回復していなかった。

世論は時局匡救事業縮小、軍事費拡大を偏武予算であると批判した。

これに対して軍部は12月27日、今まで不十分な兵備に甘んじてきたが、非常時局にあって国家財政に要求せざるをえないと、自らの軍事費要求を正当化した。

33年末、高橋蔵相は公債漸減のために来年度予算の経費節約、新規経費は緊急やむを得ないものに限るという方針を固めた。

その方針に反し、陸海軍の要求は前年度以上のものとなった。

新規要求額は陸軍が2億7千万、海軍が4億3千万、またしても新規要求額13億の5割を占めた。

この巨額軍事費を計上した荒木陸相は五相会議において、予算編成の前提となる情勢判断を披露した。

日本の満州国承認を始めとする極東政策遂行に伴う国際危機、連盟脱退による南洋委任統治領返還問題を巡る国際危機、ワシントン・ロンドン条約満期後の国際危機。

所謂35年36年の危機を挙げ、これに対処する為には国家総動員への努力に傾注すべきとし、陸海軍の軍備充実をあげた。

これに対し高橋蔵相は、外交の先決を説いて外交の基本方針に国防を位置づけ、その展開に沿った軍備を考えるべきだと主張。

軍備充実か外交に基礎を置いた軍備か、鋭く対立した結局、国防軍備は外交の基本方針の枠組みに収めるという方針に落ち着いた。

これに不満を持つ荒木は、以下のような露骨な談話を新聞紙上に発表した。

「来年度予算でも多いというなら軍事予算を全部返してもよい。

そうすればたちまち経済界は大恐慌を来たし財政も何も滅茶滅茶になってしまうだろう。

余りに近視眼的に、余りに姑息的な安きにのみ使うというやり方では断じていけない」

このように軍事費を譲らなかった荒木であったが、五相会議においては農村問題については積極的な解決を主張している。

国力の疲弊による社会不安が増大すれば国家は危機に陥る。

国策の基本は国内の社会不安除去に置き、農村問題、思想問題の徹底的解決が先決である。

このように主張し、政府の農村救済は不十分であると批判した。

片や軍事費増額を要求し、片や農村救済を訴える、一件矛盾するような荒木の態度には、農村の窮乏が軍部に与える悪影響があった。

東北の農村出身の青年は足腰が強い良兵であると考えられ、彼らの多くが兵隊として中国大陸に渡っていた。

その兵士たちが、弟たちが欠食児童となっているとか、妹が身売りされたとか、夜逃げや一家心中、盗みが横行する農村の荒廃を将校たちに訴えていた。

ある兵士は、家族から届いた手紙を涙ながらに中隊長に見せている。

「お前は必ず死んで帰れ。生きて帰っては承知しない」

「俺はお前の死んだ後の国から下がる金が欲しいのだ」

実際に、外地で戦死者が出ると、送還された遺骨を巡って遺族が争奪戦を繰り広げるなど、農村の人心は荒れ果てていた。

良兵を送り出す農村の崩壊は国軍の崩壊に繋がる。

農村問題は軍部にとっても無視できない問題であった。

内政会議と高橋是清

国防と農村問題の矛盾は、33年11月7日から始まる内政会議にて浮き彫りとなった。

内政会議は農政施策と昭和9年度予算編成の調整の為に開かれ、首・蔵・内・農・陸・鉄・拓・商、各大臣が出席した。

この議会において荒木陸相は農村救済予算復活を目指す後藤農相と組んで、農村救済の国策樹立を要求した。

これに激しく対立したのが高橋蔵相であった。

12月7日、内政会議の席上、後藤農相は農村への積極的な政府施設の必要性を説いた。

これに対し、高橋蔵相は「農村は各地おのおの条件が違う故、一概に一律な農村対策を樹てて押しつけるも意味がない」と反論した。

高橋蔵相の主張に対して三土鉄相も「政府の農村対策中には、やらずもがなのもある。1から10まで政府の力で救済すべきではない」と賛同した。

高橋は元老西園寺公望の秘書、原田熊雄に対しても自力更生を強く主張している。

「元来、金をかけないでも、むしろ負担の軽減とか、浪費を防ぐ、即ち支出を慎むというようなところから教えて行ってやれば、やる方法がある。

農村に交付金を渡すくらい悪いことはない」

これに対し後藤農相は自力更生の精神によって農村を改善する必要性を認めつつ、農村が疲弊している今こそ

「自力更生をさせるについてはその障害となるべきものを先ず以って除去することが必要である」

と反論した。

荒木陸相も後藤農相を援護するように、農村救済に対する以下の意見書を提出した。

農村対策の究極は農民生活の安定にある。

まずは負債整理や負担軽減を行うべきであり、農作物の価格安定や農村購買力の維持も必要である。

農村対策は国防と重大なる関係があるので、農村対策の樹立は国防方針と関連して考慮する必要があると論じた。

また、自力更生についてはこのように強く批判している。

「農村問題を予算の伴わない精神作興くらいで、お茶を濁そうとするような事は絶対許さぬ。

今日の農村は為政者が一時を糊塗彌縫する為、お茶を濁すなどということで解決できるものではない」

内政会議にて、農村救済に予算をつけよと主張する荒木陸相・後藤農相と、精神作興・自力更生で行くべきという高橋蔵相の対立が顕在化した。

だが、予算編成権を掌握する高橋蔵相は最後まで自説を曲げなかった。

他の閣僚も農村救済の必要性を認めつつも国家財政上どうにもならないとの意見に押された。

こうして農林予算は前年度1億2千万から8千万まで削られ、、時局匡救費は大幅に削減された。

大蔵省が農林予算を大幅に削減しようとした為に、見かねた荒木が陸軍予算を融通したほどであった。

農会と地方自治体の陳情

時局匡救予算縮小の中で、農村団体は徹底した農家負担軽減を主張した。

負担軽減とは税制改革、義務教育国庫負担、町村自治体に対する交付金増額などを要望するものである。

農家の租税負担は商工業者の2倍から4倍となっており、この不平等に是正を訴えた。

農家の負担が重いのは地方税が重税であるのに原因がある。

しかし、地方自治体は農業恐慌の影響による税収減、財政難のために減税に必要な財源を捻出出来なかった。

そこで、農会や地方自治体は交付金制度確立を目指すようになった。

34年度予算は農山漁村関連の予算が大幅に削減された。

地方財政調整国家交付金、肥料対策、技術員国家補助、救農土木含めて9000万が削減されてしまった。

帝国農会や蚕糸業界、全国町村長会は農村は復興途上にあるとし、予算復活を求める声明を発表し、活発な陳情を行なった。

活発な陳情活動の中心にあったのは、兵庫県の農会長であった山脇延吉である。

山脇は自力更生運動を提唱し、積極的に農会を牽引していた。

山脇は演説会において農村の持つ力を以下のように論じている。

都市部が有権者を一人選ぶのに対し、農村は有権者を三人選べる。

農村を代表する代議士をもっと利用すべきである。

また、兵員の七割が農村の子弟であり、皇軍の基礎は農村にある。

「選挙権と兵役の二つは農村において絶対権を把握している」

このように力説した山脇は、軍部や在郷軍人会、また農村問題に関心を示す平沼騏一郎枢密院副議長に対して陳情を行った。

その一方で、政党と代議士を利用して、議会を通じて政策実現を図ることを重視した。

政党はこうした農会の陳状に反応し、33年末から始まった第65回議会において、政民両党ともに政府の農村対策の不十分さを批判した。

そして、米価対策法案が不徹底であるので、法案の不備を修正する臨時議会を開催するよう附帯決議を可決した。

地方財源となる交付金制度も各党から出され、一本化したものを貴族院に送付している。

法案は審議未了で廃案になったが、各政党は農業団体の政策を推進する立場にあった。

34年東北・北海道大凶作

33年は記録的大豊作となった。

米価が安くで豊作飢餓とも呼ばれたが、ともかく豊作であれば飯米に困ることはない。

ところが、年が明けた34年は明治時代以来の大凶作となった。

3月から4月にかけて気温が上がらないだけでなく長雨が続き、5月には季節外れの雪が降り、田植えは例年より遅れた。

海水温が一向に上がらず、房総半島の犬吠埼にオットセイが現れたというニュースも流れた。

例年なら獲れるはずのシラスが取れず、代わりに二束三文の価値しかく処分に困るスケトウダラが大量にとれた。

7月には東北の農民を恐れさせるやませが吹き荒れ、やませが冷たい雨を呼んだ。

日照時間は例年よりも3時間近く少なく、平均気温も50年来最低になった。

稲の天敵である稲熱病が大流行し、稲の生育は絶望的になった。

そして9月21日、駄目押しの室戸台風が上陸した。

室戸台風は一度は日本海に抜けるも、秋田県から東北地方に上陸し、強風と強雨が襲来した。

東北では冷害が、西日本では旱魃と室戸台風による風水害の為、平年に比べ2割から3割に近い著しい減収となった。

全国3割の世帯が5割減収という、1905年以来の未曾有の大凶作となった。

特に東北の被害は大きく、農民の主食である麦・大豆・小豆・稗・粟といった雑穀も軒並み5割減近い不作であった。

この凶作によりかつてない窮乏が東北を襲う。

新聞は再び東北に特派員を送り、飢餓線上にいる農民の惨状を報道した。

前年の大豊作にも関わらず小作人たちの飯米不足は顕著となっていた。

従来、新米が出回る頃に米価は不当に下げられ、季節が外れると釣り上げられるなど、生産者にとって米価の変動は不利益であった。

これを是正する為に33年に米穀統制法が定められた。

米価の最高・最低価格を公定とし、米価をその範囲内に維持するために最低価格内で無制限に米を買い入れ、最高価格ならばいくらでも民間に払い下げられた。

この法律により米価の変動はこれにより一定の範囲内に収められるはずであった。

実際には米の価格は変動した。

高値をつけるまで米を抱える余裕のある地主や米穀商に有利であり、借金返済に追われて換金を急ぐ貧農には不利という、同法の欠陥が暴露された。

春先から既に凶作飢餓の予測が高まった。

だが、米の急騰は止まらず、貧農たちは米を買って飯米を備蓄することすら出来ない。

秋には大凶作が確定するに至り、米価は29年来の高値をつけ、小売米は貧農の手の出る値段ではなくなった。

飯米不足に悩む農民は廉価な払い下げ米を要望したが、昨年度の払い下げ米の代金を滞納している農民が大半であった

第66回臨時議会召集の経緯

全国的な大凶作を受け、政友会は農村の窮状は陳情によって明らかであるとした。

そして、農村対策のために前議会で決議した臨時議会召集を岡田内閣に求めた。

34年に成立した岡田内閣に対しては政友会は野党の立場を強めており、臨時議会を開催して政府に圧力をかける姿勢であった。

これに対し、岡田内閣は臨時議会召集には消極的であった。

第65回議会における決議については、当時の斎藤首相は直ちに臨時議会を召集すると約束したものではないという態度でいなしていた。

岡田首相も基本的にはその立場を継承し、農村問題については研究中であり、成案を得るまでは臨時議会の問題は考慮する述べるに留まっていた。

そして岡田内閣は、300万の応急的繭価対策を打って、これにより臨時議会を召集する必要はないとの姿勢をあらわにした。

この中で、9月21日の室戸台風が大阪を直撃し、関西地方は甚大な被害を受けた。

9月28日に岡田内閣もようやく農村対策と災害対策を取り上げて、11月下旬に臨時議会を召集することに決定した。

この経緯から、養蚕団体を背景にする政友会の加藤知正は

「一般農民、或いは養蚕業者から貴方の態度を見ると、七月頃から臨時議会の開催を要求しておったにも関わらず、更にお開きにならない。

ところが阪神地方の風水害があるというと、直ちにこれを開く所の手続きをお取りになる」

と述べて、大都市の風水害が無ければ臨時議会を開かなかったのではないかと指摘した。

新聞は臨時議会において、政友会が政府の救農予算不足を突き上げて巨額支出を要求するのではないかと観測した。

もし農業問題が議題に上がれば民政党も必ずしも政府支持に回るとは言えない。

そして、その矛先は予算の大半を占める軍事費に向かうだろう。

議会において政府、政党、軍部が緊張の場面を迎えるかもしれぬと、波乱を予想した。

藤井財政

斎藤・岡田両内閣期は後期高橋財政として知られるが、岡田内閣初期は藤井真信蔵相が局にあたっていた。

藤井財政を端的に言えば、健全財政路線、徹底した公債漸減主義である。

34年、各省から提出された新規要求の総額は12億円に達し、その半分近い5億4千万が陸海軍からの要求であった。

この新規要求に際し、藤井蔵相は赤字公債は限界に達しており、公債漸減方針を採らなければ財政は行き詰まると考えた。

大蔵省は災害予算を計上しつつ赤字公債を抑えるため、例年になく厳しい概算要求査定を行い、新規要求を4割に抑えつけようとした。

そしてここが高橋財政とは異なるところであるが、赤字公債に頼らず、新たに増税を行って歳入を増加させようとした。

大蔵省は軍事予算によって潤った軍需産業を狙い撃つ臨時利得税によって3,4000万近い税を徴収しようとした。

藤井時代では成立しなかったが、後に臨時利得税は成立している。

このように公債漸減主義を掲げた藤井財政であったが、それが成功するか否かは陸海軍の新規要求をどれほど抑えつけられるかに掛かっていた。

11月5日、予算閣議において藤井蔵相は、陸軍新規要求2億4千万円を1億6千万円に、海軍新規要求2億千万円を9千万円に削減した。

今までにない厳しい査定を前に陸海軍は反発し、陸軍は極東ソ連軍増強への対応を唱えて8千万円を、海軍は軍縮条約切れを強調し9千万円の予算復活を要求した。

藤井蔵相は財政の危機を閣内で説いた。

これに対し林銑十郎陸相は

「財源がないというけれども公債を増発すれば何んでもない」

などと財政への無理解を口にする始末であった。

他の閣僚が調停役に乗り出すも、藤井蔵相は赤字公債を7億円に抑える方針を堅持した。

陸海軍の予算復活要求も2千万程度しか認めないと突っぱね、予算編成は難航した。

閣僚の中では、藤井蔵相は頼りないと憤る者すらおり、閣内不一致の様相すらあった。

臨時議会が迫る中、ついに岡田首相が調停を買って出て、5千万円を陸海軍で折半する形で解決した。

こうして藤井蔵相は、赤字公債を前年より数千万円低い7億5千万円まで減らすことに成功した。

何より軍部の熾烈な予算要求を抑えたことは、特筆すべき事であった。

藤井蔵相が軍部に強硬に抵抗することが出来たのは、藤井が久方ぶりの大蔵官僚出身の大臣であるからだ。

賀屋興宣ら大蔵官僚は大蔵省出身大臣を全力で支えた。

藤井も「下の者が承諾しない」などと涙ながらに岡田首相に訴え、予算案を死守しようとした。

藤井蔵相が健全財宝路線に大きく舵を切った為、地方交付金や農村関連の新規要求のほとんどが削減された。

これに対し農会は全国農会長の協議会において、臨時議会における救農政策の実施と農政問題の解決、具体的には地租減税や地方交付金制度の樹立を強く要求すると決議した。

そして、救農予算復活のために、各政党に向け陳情を行なった。

この際、岡田内閣の与党色を強めていた民政党は、農村の実情に善処したいと述べるに留まった。

一方、野党色を強めた政友会は、政府の政策では農村を救済できないとし、大なる決心をもって政府にあたるとした。

この政友会の姿勢に陳情団も勇気づけられている。

農村を地盤にする政友会党員たちからは、農村問題で政府と一戦交えて国民に信を問うべきだとの強硬意見も見られた。

臨時議会を前に政友会の若宮幹事長は政友会議員総会にて以下のように述べている。

「国民の多数は官僚内閣恃むに足らず、国民の救済は政党の活動に頼る他ないと認識しておる。

ことに国民が我が党にかける信頼は大なるものがある」

民意を代表する政党政治こそが国民を救済出来ると強調した。

こうして政友会は農村団体の支持を背景に、農村救済問題を掲げて藤井財政を狙い撃ちにしようとした。

政友会の被災地方や農村選出議員たちも協議会を開き、政府の災害予算は過小であるとし、予算増額と交付金制度実現を決議して幹部を突き上げ、対決姿勢を整えた。

しかし、臨時議会を前にして、藤井蔵相は熾烈な予算編成の中で藤井は体を壊して倒れた。

そして高橋是清が再び大蔵大臣として戻ってきた。

第66回臨時議会

政友会にとって高橋是清が岡田内閣に入閣したのは衝撃的であった。

高橋は政友会総裁として党を率い、大蔵大臣としては政友会内閣を支え、総理大臣を歴任した大人物である。

政友会は高橋に入閣しないよう要請したが、高橋は国家の重臣としての立場を強めていた。

政友会は党総裁まで歴任した人物を除名するわけにもいかず、高橋に対し別離を宣言した。

高橋の入閣により、死に体だった岡田内閣は復活した。

このまま臨時議会に突入すれば予算問題で政友会との一戦が予想された中、高橋という大きな味方を得た。

新聞も高橋入閣を大きく取り扱った。

内閣において岡田首相に対して高橋蔵相の影響力が強いことから、高橋首相と揶揄する言葉すらあった。

こうして開かれた臨時議会において11月30日、高橋は衆議院本会議にて災害復旧費として三カ年2億円を追加する予定であると演説した。

これに対し政友会の岡田忠彦は、政府の農村関連予算は農村の実情を省みていないとし、以下の陳情の声を紹介した。

「もう政府は頼るに足らず。偏に政党の力に依って救済を求める」

政友会の大口喜六は21億もの巨額予算のうち、10億円以上が軍事費に取られ、内務省・農林省の予算は前年比半額であると指摘する。

「軍備の費用ばかり膨張させて、その反対に産業が発達すべき農林を経費を甚だしく削り、自治体の強固を図らなければならぬ内務省の予算を削って、それで予算の辻褄だけを毎年毎年合わせて、これで宜しい、議会が通れば宜しいと言うておったのでは、どうした所で我が日本の力は強くなりませぬ。

こんな事を毎年毎年続けておったら日本は危ういです」

このように、岡田内閣の姿勢を批判した。

衆議院において政友会は厳しく政府を追及し、審議は停滞した。

しかし、災害復旧予算は1日も早く成立が望まれる。

閉会間際の12月5日には政友会は質問を終了し、何らかの決議を付して予算案を通させることになるであろうと観測された。

爆弾動議

12月5日、衆議院予算委員会において政友会の東武は突如として以下動議を提出した。

災害復旧、時局匡救、自治体窮乏打撃などの対策として、昭和九年度追加予算と昭和十年度予算案に対して1億8千万の歳出を追加計上する。

これを次回議会の冒頭に提案する事を政府が言明するまでは、審議を休憩する。

民政党はこの動議に反対したが、政友会は多数によって可決し、政局は急展開した。

1億8千万円という途方もない支出を求めたことから爆弾動議と呼ばれることになる。

この緊急動議に対し、政府の反応は冷淡であった。

岡田首相は

「後々まで、その馬鹿らしさで語り草になっている追加予算要求」

と非難した。

高橋蔵相も

「政府はどこまでも強硬な態度を取らなければいかん。

解散の四度や五度やっても、政党を浄化しなければいかん」

と怒りすら滲ませていた。

民政党も爆弾動議を「名を緊急に借りて審議の進行を妨げんとするもの」と反対を表明した。

会期も残り一週間に差し迫った中、このような動議を出したことは、政友会の予算案否決を意味している。

政府は爆弾動議を、政友会が岡田内閣を倒して政友会単独内閣を画策していると見た。

岡田たちは爆弾動議を単なる倒閣運動と見たが、これは政友会のスタンドプレーではなかった。

農会をはじめとする農村各団体は、臨時議会に提出された政府予算案は論外であると批判した。

一方、政友会の態度は全面的に賛同するところがあるとし、爆弾動議は恐慌の回復から遅れていた農村の声を代弁したものであると歓迎した。

爆弾動議によって政友会は農村関連団体の期待を一気に背負うところになった。

農村団体はそれまで政治的に中立で、党派問わず陳情していた。

だが、この爆弾動議によって農村問題は政治化し、農村団体の系列化の可能性すらあった。

11月6日、岡田内閣は政友会が動議を強要する場合は直ちに解散すると決定した。

政府の強硬姿勢を受け、政友会は動揺した。

政府に融和的な旧政友会や床次系が解散回避に向けて動き出した。

他方で、議会が解散となって災害予算が不成立になるのを惜しむ山本条太郎が、解散回避に向けて政府と政友会の妥協点を探り始めた。

これに対し、被災地方や農村選出議員たちは動議貫徹を求め、党内は二分された。

結局、最終的な決定は総裁一任となった。

鈴木総裁は災害対策予算通過を理由に、政府の誠意が認められるのであれば、動議を強要しないことを決めた。

11月7日、予算委員会にて政友会は岡田首相の答弁に誠意が認められたとし、政府予算案に爆弾動議と同内容の予算追加を望むという附帯決議をつけて通過した。

こうしてこの臨時議会における解散は回避され、舞台は年末の第67回議会に持ち越された。

岡田内閣の救農政策

岡田内閣は東北大凶作を受け、勅令をもって東北地方振興に関する調査を行う東北振興調査会を設置した。

しかし、東北の凶作地に政府米を支給する案にしても法案作成に手こずり、議会の審議もズルズルと遅れた。

東北の飢餓が近づいているのに政府や官庁の対応は緩慢であった。

業を煮やした石黒英彦岩手県知事は自身の責任において、緊急に米二万俵を配給し、味噌やイワシ、昆布などの食料品や、寒い冬を越すための衣料品を支給した。

政府もこれに続き、政府所有の米50万石の交付を決定した。

この所有米は今年度は特に貧しい者には無料で支給し、翌年以降は市町村の責任において交付した量と同じ米を整え、備蓄せよとした。

そして、備蓄のための倉庫は皇室から御下賜金が出て、各地に恩賜郷倉が建てられた。

ところが、政府米の交付は手続きが煩雑で、なかなか農民の下に届かない。

それ故に、室戸台風で水没した米も払い下げ米として東北救援のために送られたが、実際に町村に届いた頃には日数が経ちすぎて腐っていた始末であった。

また、払い下げ米の取り立ては厳しく、支払いが滞ると補助金から天引きされるので、払い下げ米に頼ろうとしない村が多かった。

台風で水に浸かった不良米も無償で配られたわけではなかったのだ。

義援金の行方

全国各紙共に大凶作に襲われた東北の救援を訴え、総額500万の募金に成功し、直ちに自治体に送られた。

当然募金に応じた人たちは東北農民の救援のために直ちに使われると思っていた。

だが、政府は募金の使途について、恩賜郷倉建築費の不足分に使えとか、救農土木の事業費に使えなど議論し、中々農村に渡らなかった。

12月4日、東北の代表9名が急遽上京し、岡田首相らに義援金は即刻、直接農民の手に分配すべきで、倉の建築は国庫で行うべきだと陳情した。

陳情に参加した青森県の農民は、政府がもたもたしているので村の娘たちが売り飛ばされてゆく現状を訴えた。

倉を建てるとか土木事業を起こすとか、そういうのは請負業者を潤すだけである。

農民が寒さと飢えを凌ぐものにはならないことは農民たちは知り過ぎるほど知っている、と新聞で語った。

ようやく義援金は各県に配分されたが、農民たちの訴えは虚しく、幾分かは恩賜郷倉に回された。

また、農村救済のために三井財閥が300万、三菱財閥が100万円を政府に寄付した。

政府はこの寄付金のうち140万を困窮者救助費として配分し、残りの260万円は本来は政府から支出すべき災害防止施設費に取り込んだ。

国が支出すべき凶作農民に出すべき救済費を切り詰め、民間の義援金によって賄おうとした。

その姿勢に中野正剛は憤り、議会において予言じみた警告をしている。

「その内、大塩平八郎が出るぞ」

軍部批判の噴出

陸軍は、危機を喧伝して軍備増強を図る一方で農村救済を説くダブルスタンダードを展開した。

日増しに陸軍に対する不満の声が強まっていた。

これを受け、軍部は軍民離間に関する声明を発する。

曰く、軍事予算のために農村問題が犠牲になっているというような軍民離間の運動は、国防の根本をなす人心の結合を破壊する企図がある。

軍部はこれを断じて黙視出来ない。

「農村問題の如き、一般的国政問題としての外国防と離るべからざる関係にあるの事実に鑑み、軍当局においてももっとも重大なる関心を有しめるは周知の事柄である」

このように論じて、国防国策のために軍事予算の妥当性を主張した。

そして、軍部批判を封じ込めつつ、独自の救農政策を打ち出して、農村救済の主役に立とうとした。

実際に軍部は、獲得した軍事費の中から、時局匡救に資する事業費の報告を行うようになる。

例えば、資材を中小商工業者から積極的に購入し、機密に分類された軍の装備や予算の詳細を新聞紙面で明らかにした。

また、農業恐慌に苦しむ東北地方に軍工廠の担当者を派遣し、募集に当たらせた。

更に、農村地域にある東北の師団が独自に救農計画を立て、救農対策として被服や食料品を積極的に東北から購入している。

このように軍需工業に関する経費のいくらかを民間に回し、それによって吸収される労働力の見積もりを発表してアピールを行った。

しかし、このような糊塗をしても、軍部が救農政策費を圧迫しているのは誰の目で見ても明らかであった。

この当時、提出された災害予算に関して、軍部予算と比較して論じることは慎むように圧力があった。

よって新聞は爆弾動議については政友会に厳しい目を向けた。

そのような中で東京朝日新聞は遠回しに軍部批判を行っている。

「果たして政友会のみが理不尽か、その理不尽を内臓したものは、時局に対して均衡を保たぬ予算案ではなかったか」

もはや軍部の矛盾は隠しきれなくなっていた。

軍部に対する批判が噴出したのは、東北大凶作が発生し、爆弾動議が議論された第67回議会である。

35年1月28日には政友会の大口喜六が、海軍予算の多くが継続費であるにも関わらず、来年度予算以降の見通しがないと指摘。

日本の財政の将来を見通して、計画を立てることは出来ない」と追求した。

これに対し岡田首相は「それはその次の財政の状況によって考えるより仕方がない」と、いい加減な答弁を行った。

大角海相も「条約が不幸にして破れた場合にどうなるかという事を仮想に余り議論することは如何かと考える」と述べて、軍拡計画を議会から隠した。

陸軍も同様に満州事件費なるものを設け、多額の機密費とともに2億円近くまで膨れ上がっていた。

大口は「独りこの陸軍省の満州事件費に限って、俸給となって一括しておりまして、勅任、奉任、判任の区別がつけてない」と指摘。

通常の予算は俸給の明細までわかるのに、陸軍の予算は透明度が低いと批判した。

更に林陸相は昭和11年度に終わると説明してきた作戦資材整備費なるものが、実はまだ2億円近くかかると言い出した。

これには政友会も、毎議会ごとに説明が変わっていると追求した。

林陸相は「統帥部と陸軍省との間の当時の話であって、内閣の問題にまでなって居らない」と苦し紛れの訂正した。

このような陸海軍部大臣の答弁に、民政党の小川郷太郎は以下のように軍部のご都合主義を批判した。

「今日までお話になった事を顧みると、決定しておられない事を決定したとし、以前こういう事を言っておるではないかと言われる、そういう出方がいかぬ」

小川は1月31日にも政府批判の演説を行っている。

「昭和十年度の予算は、軍事費に偏傾している。

財政との調和が取れていないばかりでなく、経済力の充実はどうかというと、軽んぜられている嫌なきにあらずということに、結論がなって来た」

これに対し高橋蔵相は、軍事費は国民の生活や経済力の進展を阻害していないと答弁した。

林陸相も「国防が欠陥を生じても構わぬ、減らす、そういうことは容易に申し上げられることではないのであります」と突っぱねた。

この答弁を受け小川はこのように反論した。

「国防の充実をしようと言って出発して、国力に応ぜざる仕事をやって行けば、遂に国防の充実が出来ないということに帰着するのではないか」

林陸相は国民生活を無視して国防は成り立たないと述べた一方で、農村対策費などは当局者である内務や農林が考えるのが至当などと矛盾した答弁を行った。

これに対し政友会の武田徳三郎は

「以降陸軍の諸君は、陸軍以外の事に向かっては喙を出さない方が宜しい」

と痛撃した。

軍事費の際限ない拡大に歯止めをかけ、農村救済費を増やそうとする議員の質問は続く。

2月7日には政友会の河野一郎は

「農村の現状を見ております我々から考えるとまだ軍の方の予算を減らして、農村へ廻しても宜しいじゃないか」

と、直接的に切り込んだ上で

「海軍の方はアメリカを対手に取らなければ予算が出来ず、陸軍の方はロシアを対手に取らなければどうしても予算が出来ぬ」

と、軍拡の本質を突いた。

貴族院においても小畑大太郎が以下批判を加えている。

「昨年は国民一同非常時、真の非常時に際会しているのであります。

仮想的のこの三十五年、六年の非常時というものに、どうして急がなくてはならぬのであるか。

軍備の充実というものを急がなくてはならぬのか」

3月25日には政友会の加藤知正が

「日ソの関係といい、日支の関係といい、日米の関係といい、冷静にこれを考えて見ますると、戦争などの心配はない。

外国の方から見ますると、如何にも日本の方が戦争を仕掛けるようにさえ見える。

もし日本の方で自重致して何ら左様の考えのない事を明らかに致しますならば、アメリカの方から戦争を仕掛けるようなことも、ロシアの方から戦争を仕掛けるようなことも断じて無いのである。

この意味において、我々は1935、6年というものが、何故に特に非常時であるかということを大いに疑わなければならない。

私は断じて左様な非常時と認めることが出来ないのであって、もしこれを非常時と言う者があるならば、それよりもこれよりもむしろ蚕糸業そのものが非常時に直面しているではないか」

と論じ、もはや今日において巨額の国防費は不要になったのではないかと問いただすまでに至った。

戦前の、しかも515事件後の政党凋落の中で、ここまで軍部を痛撃した議会もあったであろうか。

救農問題は、まさに軍部の搦め手と言うべき問題であった。

爆弾動議の不発

こうした軍事費と農村対策をめぐる問題から、軍事費削減議論を可能としたのは、爆弾動議があったからだ。

第66回臨時議会において、岡田内閣は議会の要求を考慮すると述べていた。

よって、第67議会において何らかの形で追加予算を出さなければ、政友会との正面衝突、解散総選挙は避けられない状況であった。

もし爆弾動議によって解散総選挙となれば、イシューは農村救済、その裏にある軍事費となる可能性があった。

よって議会においても巨額の軍事費が争点となり、軍部批判が噴出する形となった。

しかし、こうした議会の熱弁も岡田内閣を動かせなかった。

爆弾動議に対し高橋蔵相は

「政党の強要によって予算を提出することは、事務当局の意見の如く政府の予算提出権を自ら放棄し、議会の協賛権の拡張を図る結果となる」

と述べ、爆弾動議に応じない姿勢を見せた。

高橋と大蔵省は、政友会が農村関連団体の主張を背景に爆弾動議によって予算編成過程に介入することが、議会協賛権の拡張に繋がると懸念していた。

2月9日には岡田首相は追加予算ではなく、将来必要な場合の用意としての予備金1500万円の追加を言明した。

爆弾動議の中心である交付金制度は無視され、爆弾動議は全否定された。

これを受けて政友会は、鳩山一郎や岡田忠彦、安藤正純を中心とする強硬派が、政府提出予算案は返上すべきだと主張し、議会解散も辞さない姿勢を示した。

一方で旧政友会に列する山本条太郎や前田米蔵、床次系党員は、政府との妥協・協調を主張した。

山本は前議会同様に、内外情勢上、議会を解散して予算を不成立に終わらすべきではないと論じ、非常時の今日にあっては政党は自重すべきだと主張した。

結局、鈴木派内部から政府との妥協に傾く議員も出て、党の大勢は妥協となった。

鈴木総裁も予算案賛成止む無しとし、2月13日、予算委員会において政友会は政府予算案を認め、解散は回避された。

政友会の島田俊雄は、軍部大臣が農村救済について自分の経費を犠牲にしてでも出来るだけやると明言していたにも関わらず

「軍部両大臣の協力努力の結果が、この千五百万の言明であるということについて、また我々は国民として甚だ不満ならざるを得ないのであります」

と論難したが、文字通りの後の祭りであった。

満州棄民

救農政策に対して議会は機能せず、政府も真摯に向き合わなかった。

経済更生運動から取り残され、過剰扱いを受けた貧農の将来は暗かった。

そこで浮上するのが満州移住であった。

これを推し進めたのが農林官僚の石黒忠篤である。

石黒は日本農業貧困の原因を零細農業にあると考え、零細農業は過剰人口が根底にあると考えた。

そして、この過剰人口を国内産業で吸収できない以上は、海外移民という方法で調整するしかないと思い立った。

農村の過剰人口が解決されれば土地飢餓も解消され。農村の安定が図られる。

小作人たちも移住先で自作農を行えば、安定を得られる。

まさに一挙両得である。

折しも昭和農業恐慌吹き荒れる中、満州事変が進行し、満州への移民、満州開拓農業移民が国策に浮上した。

満州農業移民政策は救農請願運動にも現れ、当時一般の農業恐慌解決の一手段となった。

満州農業移民政策は経済更生運動に組み入れられた。

36年頃には拓務省が主導し、土地と人口の調整のために耕地の少ない地方の移民を募集した。

38年頃には移民政策は分村計画として具体化する。

分村計画とは、各町村別に黒字を出している適正規模の農家を確定し、安定的な農家の平均耕地面積で町村の耕地面積を割って適正規模農家数を割り出す。

この戸数をオーバーした数を過剰農家として満州に送出するというものである。

経済更生運動は、適正規模農家の創出と育成に帰着し、それは過剰農家の満州移住で初めて実現した。

しかし、分村計画だの適正規模農家だの開拓移民だの言っても、この移民政策は農村困窮の根源にあった小作貧農を満州に追い出す、棄民政策にすぎなかった。

こうして大量の小作人・貧農・農家の次男三男が満州の広大な沃野を求め、富農を夢見て海を渡った。

満州に移住した彼らに土地を用意するために、満州国の1割に相当する広大な土地を在満中国人から強権的に収奪した。

その中で既に耕作されていたのは351万ヘクタールで、これは日本国内の耕地面積の5割に相当するから、やはり満州は広かった。

だが、実際に日本の移民が耕作したのは、その既存耕地のわずか1割に満たなかった。

その他の土地は中国人・朝鮮人の農民に小作地として貸付け、小作料を徴収した。

満州に渡った移民たちは、その殆どが零細経営しか経験しておらず、20町歩もの広大な耕地を渡されても経営することは出来なかった。

よって渡された耕地の半分を中国人・朝鮮人農民に貸し付けて、小作料を取る地主となった。

彼らから5割相当の小作料を徴収し、多数の農業労働者を雇用する地主、富農となった。

国内で地主に搾取されてきた小作人たちは、満州に渡ると地主になって、在満中国人・朝鮮人を小作人として支配するようになったとは、何という皮肉であろうか。

満州の移民政策が行われた1932年10月から敗戦まで、10万戸、22万人が満州へ移民として渡った。

そして敗戦に伴う混乱の中で、7万人が亡くなった。

そのうち1万人は戦死・自決で命を落としている。

全てを失って命からがら日本に戻ってきた彼らを待っていた運命は、さらに厳しいものであった。

憲政の常道

分村計画は土地と農家の数を単純に比較して、土地不足と過剰農家数を割り出すというものだ。

この計画は、何故農村に過剰農家が現出しているか、その土地不足の根本的原因がどこにあるのかを意図的に無視している。

農村困窮の原因は明らかに半封建的な小作人と地主の関係にある。

不当に高い小作料と農奴の如き低賃金の上に構築された日本農政の矛盾にある。

それを見て見ぬ振りをし、地主の存続を前提とした上で土地不足を解決する唯一の方法は、貧農を過剰人口として満州に棄民するしかなかったろう。

地主・小作農制度が存続する限り、小作貧農、農村雑業層、半農半労働者は日本国内で適正規模農家として更生する道がない。

これは、いくら官僚や政治家が自力更生を唱えようと、東京の官庁にあってはたどり着けない圧倒的な現実であった。

この農村の矛盾を最終的に解決したのは、戦後、GHQによって指導されて小作制度を解体した農地改革によってであった。

しかし、日本の政体が変わり、国体まで危機に陥れるほどの敗戦を経験しなければ、農村問題は解決しなかったのだろうか。

もしくは救農土木など行われず、農村の不満が爆発して全国的な暴動が発生し、全国の地主と政治家を血祭りにあげるような革命でも起きなければ、農村問題は解決しなかったのだろうか。

私は昭和戦間期の歴史を考える上で、常に第三の道を考える。

それは議会政治の可能性である。

その上で爆弾動議というのは一つの可能性であった。

予算案を返上することで解散総選挙に打って出て、救農政策とその裏にある軍事費問題をイシューに信を国民に訴える。

これこそ日本の農村の悲劇を、その後の太平洋戦争の悲劇を回避する可能性の一つではなかったか。

しかし、政友会は自らが持つ議会政治の可能性を握り潰した。

確かに政友会の党内情勢からすれば、解散総選挙となれば党が割れる可能性もある。

300議席という数字を失い、衆議院第二党に転落する可能性もあったろう。

そうであっても政友会は爆弾動議で解散総選挙に打って出るべきであった。

社大党の杉山元治郎は政友会の出した爆弾動議について、政府の農村予算では救済出来ないという意味で提出したのだろうと理解し

「もしそれを政府が容れられないというならば、或いは政府と一戦交えて解散をして、そうして果たして民衆がそれを要求するか、要求しないかという事を尋ねてみても、私は宜しかったではないかと考えるのであります」

と述べた。

爆弾動議の強硬派であった岡田忠彦も以下のように回想する。

「我々は政府の出方によれば解散まで導くものたるは、万々承知の上で賛成したものだ。

解散辞する所でない、否解散を甘受して天下に政党の主張の当否を問うは方に今日に在りと信じたのである」

しかし解散総選挙は回避された。

岡田は以下のように続ける。

「我々は党内の各種の事情を諒とせぬものではないが、しかし自分は今日も爆弾動議の取り扱い方に対し痛恨を覚ゆ、戦は勢いである。

攻守の時を得ると否との差は、そのあと歴然たるものがあって、将来においても深く省察すべきと思う」

第66回議会及び第67回議会は憲政の常道復活の数少ないチャンスであった。

憲政の常道は元老西園寺公望が首相奏薦のルールとして用いたことで有名な単語となった。

それが指し示す本来の意味は、民意を代表する政党が政治の中心となる事であると思う。

そういう意味では挙国一致内閣の中で、憲政の常道は失われていた。

犬養首相の暗殺という一大事を受けて挙国一致内閣を組閣するならまだしも、そもそも34年に挙国一致内閣を再生産する意味はなんであったのか。

岡田内閣を推進した原田熊雄や木戸幸一らが、第二次ロンドン海軍軍縮会議を念頭に置いていたのは明らかである。

だが、岡田内閣は最終的に軍縮会議から脱退し、その組閣の意味を為さなかった。

首相を奏薦する立場にあった西園寺公望や、その周辺にいる牧野伸顕内府、原田熊雄、近衛文麿、木戸幸一、斎藤実、彼らの口から農村の窮状が語られたことはあったのだろうか。

東京や興津の狭い空間にあって、貧農の声など届かなかったのではないか。

民意などない挙国一致内閣が、農村の声を等閑視したのは当然のことであった。

農村を救うには、農村の声を代表する政党が政権の中心に舞い戻るしかなかった。

爆弾動議は、政党の主張を国民に問い、農村救済を訴える政友会が民意を代表することを証明する絶好の機会でもあったのだ。

しかし膨張する軍事費の中で圧迫される救農政策について民意を問う機会は去った。

農会ら農業団体の支持を失い、攻め手を失った政友会はなりふり構わなくなり、天皇機関説という憲法解釈問題に手を出す。

それが民意を掴める訳もなく、間も無く衆議院第一党から転落する。

それは単なる政友会の敗北ではなく、憲政の常道を、議会政治の可能性を永遠に摘むものであった。

参考書籍

窮乏の農村 猪俣津南雄

man

昭和農業恐慌の基礎的な研究。
生々しい実地調査から昭和農業恐慌の凄まじさが伝わってくる。

昭和東北大凶作 山下文男

man

実際に昭和農業恐慌を体験した作者の描く迫真の東北大凶作。

昭和恐慌期救農政策史論 安富邦雄

man

昭和農業恐慌に政府がどのような救済策を講じたのか。
管見の限り救農政策を論じる本は少なく、基礎的にして稀有な一冊。

近現代日本における政党支持基盤の形成と変容 手塚雄太

man

農業恐慌と政局について。
一般的に政友会の失策と見られた爆弾動議について新しい知見を与えてくれる一冊。

近代日本と植民地3 大江志乃夫

man

満州移住政策について。

高橋財政経済思想研究序説 藤田安一

man

高橋是清の自力更生論について。

農村救済請願運動から農村経済更生運動ヘ 藤田安一
昭和前期の公共事業政策–時局匡救事業を中心に 松浦茂樹
経済更生運動と農村経済の再編 岡田知弘
大恐慌期における救農土木事業の意義と限界 小島庸平
昭和恐慌期の農村対策 暉峻衆三
農村経済更生と石黒忠篤 並松信久
昭和恐慌期における農業問題の激化と経済更生運動 池上彰英

man

救農政策の中核を占めた救農土木事業と経済厚生運動について。

日本議会史録 古屋哲夫 編

man

農村問題をめぐる議会政局について。