シーメンス/ヴィッカース・金剛事件

コラム

海軍の雄・山本権兵衛

明治初期、日本の海軍力は皆無であった。

江戸幕府が海禁政策を取っており、造船や航海の技術は衰退していた。

独立したての日本にとって、四方を海に囲まれた国土を守る海軍の整備は急務であった。

しかし明治初期の軍事は、不平士族の反乱に直面し、国内の内乱を鎮圧する陸軍の整備が何よりも優先された。

軍事費の大半が陸軍に割り振られる中、厳しい財政状況から海軍予算はその半分にも満たない時代が続いた。

陸軍優先・海軍劣後という陸主海従の関係は、海軍の軍令業務が陸軍参謀本部の下にあるという形でも現れていた。

そのような不平等状態が解消されたのが1893年。

海軍は陸軍参謀本部から海軍軍令系統を海軍軍令部として独立させ、対等な立場を得た。

これを立案し主導したのが山本権兵衛である。

山本は鹿児島県出身で、父は薩摩藩主島津家の祐筆であり、武門の家にあった。1

6歳にして島津藩の藩兵として戊辰戦争に参戦し、鳥羽伏見や越後・奥羽を転戦。

戦争終結後は薩摩藩の兵隊の中から選抜され、東京を遊学した。

山本の非凡な才を見出した西郷隆盛は。山本が将来海軍に入って国家に尽くすことを望み、勝海舟を紹介している。

海軍兵学寮に入った頃、征韓問題を巡って西郷が鹿児島に帰国する事件が起きた。

鹿児島から出てきた士族たちが西郷に続く中、山本は直接西郷に会って進退を決めようと決断した。

山本と面会した西郷は、国家の将来的に海軍が必要となることを説き、政治問題に心を奪われるのではなく海軍の修行に励み、国家のために尽くしてほしいと訓戒した。

山本は、国家のために奉公すると西郷に誓い、袂を分かった。

このように山本は豪胆な性格を有しており、海軍兵学校時代に見初めた遊郭の娘を同僚たちと協力して脱出させ娶ったという逸話すらある。

その一方、冷静沈着な一面も持ち合わせる。

ある日、山本の進言に賛同した海軍兵学校長の仁礼景範が、その進言が海軍省に容れられなかったことに激怒して、官職を辞すると騒いだことがあった。

周囲は山本も仁礼とともに進退を共にすべきとの主張したが、山本は以下のように主張した。

海軍で日夜励むのは君国に尽くすためであり、献策を容れるか否かは相当の地位にある者が判断すべきである。

その結果にとやかく言うべきでもないし、下級者が意見を容れられないからといってすぐ辞職すれば人事行政に大きな支障を与える。

ここで辞めれば西郷隆盛の下野に続いた志士たちと同じである。

これを聞いた仁礼は、山本の言うことは至極当然であると納得し、辞意を翻したという。

山本軍政

海軍で台頭した山本は、西郷従道海相の下、人事改革に着手する。

この人事が山本軍政の特徴であった。

明治維新以来、諸藩で随一の海軍力を持っていた薩摩藩出身者が海軍部内で強い力を持ち、海軍の要職は薩摩藩出身者に占められた。

それ故に薩の海軍と呼ばれる。

山本は自身が薩摩出身なのに関わらず、海軍の近代化のために、老朽化した薩摩閥を淘汰する人員整理を断行し、将官8名を始め、大規模な馘首を行った。

山本はたとえ同郷の先輩であろうとも、維新の功労者であろうとも、私的に親しい者であろうとも、大ナタを振るった。

そのリストラ対象には東郷平八郎の名すらあったが、東郷が留学経験者であったことから、対象から外されたという。

こうして、地縁主義を排し、学歴主義を採用した為に、薩摩閥に代わって海軍兵学校出身者が海軍に台頭した。

ただし海軍部内の薩摩閥は完全に消え去ったわけではない。

山本は薩派と呼ばれる海軍外の薩摩出身政治家と密接に連絡を取った。

その為、薩摩という地縁は海軍と政治を結びつけるパイプとして海軍に残り続けた。

海軍要職者も何かしらの薩摩との関係を構築しなければならなかった。

山本軍政のもう一つの特徴は、その政治性にあった。

艦船とは時代の最新鋭技術の結晶であり、それを整備するにも維持するにも莫大な軍事費がかかる。

薩長が保有していた甲鉄艦一隻から始まった日本海軍も、日露戦争においてはロシアのバルチック艦隊を打ち破るまでに海軍力を飛躍させた。

だが、日露戦争の戦費が財政に重くのしかかる中で、軍事費、つまりは海軍予算の確保はより困難となっていた。

世界規模の技術革新についてゆけなければ国防の責任は果たせない。

戦争が遂行できなければ海軍に存在意義はない。

海軍にとって予算確保は至上命令であった。

そんな中、日露戦争を勝利に導いた山本は、陸軍と対等な関係を構築することに成功した。

その上で、予算決定権を握る衆議院において勢力を誇る政友会に接近し、予算確保を確実なものにしようとした。

山本海相時代は1898年から1906年まで8年間、その後継者である斎藤実海相時代は1906年から1914年まで8年間続いた。

この16年間、山県系陸軍官僚も政友会も山本との関係を構築せざるを得ず、海軍は安定して予算を獲得し続けた。

まさに山本時代である。

政局に関与し、政党との癒着的関係をも厭わない。

山本軍政は極めて政治的であったと言えよう。

第一次山本内閣の成立

大正政変を受け第三次桂内閣は総辞職し、山県系の後退の中で山本権兵衛に大命が降下した。

山本は政友会の協力を得るために、政友会幹部の原敬と交渉を持った。

もはや議会に基礎を置く政党の協力なくして内閣は成り立たず、衆議院第一党である政友会の支持を得られるかどうかが、組閣実現の鍵であった。

憲政擁護運動のスローガン、閥族打破の観点から言えば、山本内閣も打破すべき閥族の一人である。

憲政擁護運動に深く関わっていた政友会が、長州という閥族を打破した直後に薩摩という別の閥族を支持することは容易なことではない。

政友会内部では国民党と連携して一挙に政党内閣を実現すべきだとか、山本の外は全閣僚政友会党員で組閣すべきだとか、山本を政友会に入党させるべきだとか、強硬論が噴出した。

その中心には、大正政変において憲政の神様と称された尾崎行雄があった。

しかし山本内閣を不成立に追い込めば、それよりも望ましくない山県系官僚内閣や桂新党内閣が誕生するのは必定であった。

原は党内の強硬論を「内閣既に倒れたるに政府を取らずして何とするか」と説得した。

そして、山本の周りにあって政友会からの入閣を制限しようとする薩派を制し、山本内閣を支持する5条件を山本に提出した。

・政友会から三人入閣させること。

・軍部大臣以外の閣僚は政友会支持者であること。

・軍部大臣以外の閣僚は政友会に入党すること。

・犬養を入閣させること。

・山本が政友会支持を表明すること。

政友会の支持が無ければ内閣は成り立たないのは明白である。

山本は外務大臣候補の牧野伸顕の政友会加入を強制しないことと、犬養を除外することで妥協した。

この結果、政友会から原敬、松田正久、元田肇が入閣し、首・陸・海・外を除く閣僚の高橋是清、山本達雄、奥田義人ら有能な官僚が政友会に入党している。

こうして山本権兵衛・薩派と政友会の情意投合は成立し、山本内閣が誕生した。

絶対安定の山本内閣

政友会の山本内閣支持を不服とした尾崎行雄は、閥族との握手を非難して脱党し、26名からなる政友倶楽部を組織した。

この結果、政友会は衆議院過半数を割る波乱の幕開けとなった。

だが、衆議院に山本内閣と与党政友会を揺るがす勢力は台頭せず、山本内閣は強力な内閣であり続けた。

まず、大正政変を引き起こした憲政擁護運動は、新たな閥族内閣の誕生に際し、山本内閣打倒に向かえなかった。

憲政擁護運動は桂内閣打倒で結びついていただけであり、世論の関心の低下、組織の喪失、運動資金も底を尽きた。

山本内閣誕生の頃にはすっかり沈静化していた。

次に、尾崎が組織した政友倶楽部も反政友の核にはなれなかった。

尾崎は政友会の外にあって政友会を改造すると宣言し、山本内閣には反対であるが政友会代議士との繋がるなど中途半端な姿勢を取っていた。

そもそも政友の名前を使用していること自体、政友会への未練が残っている。

この様子を政界通の三浦梧楼は、以下のように的確に表現している。

「政友倶楽部は無理に夫家を去りたる女房の旧夫家の近傍に居を卜している」

政友倶楽部内では、脱党僅か三日後に復党交渉を始める者すらおり、政友会離党者の復党が進んで、政友会は衆議院過半数を回復した。

野党の足並みもバラバラであった。

山本内閣と与党政友会を揺るがすには選挙権拡張問題で突き上げるという手があった。

だが、尾崎も国民党率いる犬養も当時は選挙権拡張には無関心であった。

同志会(桂新党)を支持した大隈重信はこの姿勢を、このように批判した。

「純然たる政党内閣の出現を望む各政党と、閥族打破、憲政擁護を絶叫する各団体は、何故に根本問題たる選挙権拡張を等閑に歩するのであるか」

尾崎は同志会と提携して政友会を包囲しようと画策したが、犬養は国民党を割った同志会を憎悪しており、提携などあり得なかった。

尾崎は「犬養くんの憲政擁護は、桂公のために自分の国民党の同志の大半を奪われた復讐戦であったのだ」と回想しており、反政友のために野党が一致団結することはなかった。

政友会を脅かす勢力は誕生せず、山本内閣は衆議院運営をスムーズに行った。

指導力を発揮した山本は、軍部大臣現役武官制や文官任用令の改正を断行し、行政整理によって人員整理・経費節約を実現した。

これらの政策は尾崎や犬養の政策と隔たりはなく、野党は攻め手を失った。

最初期こそ閥族内閣であると厳しい目を向けていた国民も、果断に政策を実現する山本内閣を評価した。

山本内閣は衆議院においてはほとんど不安な要素はなくなった。

陸海軍備拡張も第三次桂内閣において一年延期で解決していたので、予算面についても何ら問題はない。

行財政整理の原案も桂内閣の計画を殆ど踏襲した。

なお、第三次桂内閣の行財政整理案が5千万なのに対し、山本内閣が4千万に留まった。

にも関わらず、国民は山本内閣の施政を歓迎した。

この様を徳富蘇峰は「国民は桂の羊羹よりもむしろ山本の大福餅を甘しとした」と、口惜しんでいる。

護憲運動で山県有朋ら元老たちが批判の矢面に立たされ後退する中で、衆議院に確固たる与党を得た山本内閣は非常に強力であった。

このような強力内閣が疑獄で倒れるなど、誰も想像は出来なかった。

シーメンス・アンド・シュッケルト電気株式会社

ドイツのシーメンス・アンド・シュッケルト電気株式会社は、日本海軍に艦艇、陸上設備の電気機器、通信機材、艦艇電気部品などを納入する、海軍御用達の会社であった。

電気機器でいえば英国にアームストロング社やヴィッカース社といった大手企業もあったが、海軍納入関係ではいつもシーメンス社が英国系商社を抑えて落札していた。

この背景には日本人重役の影があった。

当時の外国商社は重要ポストに日本人を採用しなかったが、シーメンス社は吉田収吉を採用した。

吉田は、姪が海軍省艦政本部の鈴木周二の嫁という関係にある。

そこで、鈴木に贈賄をして入札に関する情報を入手し、英国系商社よりも先んじて準備をし、落札していた。

そのような功績から、吉田はシーメンス東京支社の重役となっていた。

1912年頃、吉田が海軍将校と相当派手な遊びをしていると噂になり、それが警視庁捜査課の耳に入った。

警視庁がシーメンス東京支社の内偵しているうちに、東京支社の倉庫係も身分不相応な遊びを重ねていたので、拘引して取り調べを行なった。

すると、その倉庫係は驚くべきことを自供した。

曰く、東京支社長秘書であるカール・リヒテルが支社長の机から重要書類を盗んでいるのを目撃した。

それ以降、リヒテルは口止めとして度々倉庫係を遊びに連れて行くようになった。

いつしか二人の遊興費がなくなると、倉庫係は在庫品を横流しし始めた。

倉庫係はこの横領が発覚するのではないかとリヒテルに相談した。

リヒテルは、もし会社重役にバレたら、シーメンス東京支社が海軍にコミッション(手数料・賄賂)を贈っていることをバラすと言えば見逃してくれるだろう、と助言したという。

リヒテルが盗み出した書類は海軍高官とシーメンス東京支社との贈収賄の証拠であった。

そしてその海軍高官として、藤井光五郎機関少将・沢崎寛猛海軍大佐の実名を挙げてみせた。

事態の重大さに驚いた警視庁は川上親晴警視総監と相談し、大浦兼武内相に指示を仰いだ。

大浦は事件を隠蔽し、極秘扱いにするよう命令した。

こうして、倉庫係は釈放され、警視庁はシーメンス東京支社に倉庫係の横領の事実とリヒテルの犯行を内報した。

機密書類の行方

内報を受けた吉田は事の重大さから、直ちに支社長兼取締役のヴィクトル・ヘルマンと慎重に協議した。

仮にリヒテルを告訴すると、贈収賄の事実が明るみになって日本海軍に迷惑が及ぶ可能性がある。

よって、事を騒ぎ立てずに、時期を見計らって栄転という形で国外に追いやろうとした。

この顛末は在日ドイツ大使やドイツ総領事にも内報され、シーメンス社の信用を失墜させないよう、万全の注意が払われた。

1913年2月、リヒテルは大連支社に転出した。

着任早々、リヒテルは大連のドイツ総領事から、仮にドイツ帝国の名誉を害するようなことをすれば、本国へ強制送還して生命の保証もしないと警告された。

この脅迫で身の危険を感じたリヒテルは、8月に大連支社を罷免されると、そのまま姿を消した。

10月17日、リヒテルはシーメンス東京支社に脅迫状を送りつけた。

曰く、盗み出した重要書類を2万5千円で売るが、もし断るなら新聞に公表するという。

すぐさまリヒテルと交渉を持ち、ドイツ大使館にも援助を求め、善後策を講じる必要のある脅迫である。

しかし折しもヘルマン支社長が不在の為に対応が遅れ、リヒテルは恐喝に失敗したと思い込んだ。

いよいよ身の危険を感じたリヒテルは、盗んだ原盤を全て写真に撮り、原盤は手元に置きつつ、現像した写しを一刻も早く金に換えて国外に逃れようとした。

リヒテルが重要書類の写しを持ち込んだのは、英国の世界的通信社であるロイター通信横浜市局であった。

応対したアンドリュー・プーレー通信員は、リヒテルの話を聞くや、これが金儲けの材料になると即座に判断し、11月4日に750円で買い取った。

最初の脅しに比べれば驚くほど少額だが、リヒテルは現金化を急いでおり、まとまった金を手に入れるやドイツに帰国した。

一方、プーレーは手に入れた重要書類の写しをシーメンス東京支社に売り飛ばそうと画策する。

11月10日、プーレーはシーメンス社に対し25万円で重要書類を買い取るように持ちかけた。

もし応じないならばロイター本社に通報して世界に公表し、尾崎行雄と結託してシーメンス社と日本海軍を攻撃すると脅迫した。

リヒテルよりも手ごわい脅迫者の登場を前に、シーメンス東京支社はついに帝国海軍の援助を依頼した。

11月17日、ヘルマン支社長はドイツ総領事とともに斎藤海相を訪問し、日本海軍将官の汚職の証拠となる書類で恐喝を受けている旨を知らせた。

斎藤は書類の詳細を聞き出すや、以下のように述べて、海軍の関与するところではないと突っぱねた。

「海軍においては、かくの如き曲事のないことを確く信じておる。

それ故に本官は、このことが暴露するのは、もしその事の有無に関わらず、新聞に出ることは面白くないと考えるけれども、しかしながら、かくの如き曲事あれば、それを正すのが本官の職責であるから、いっこうに構わない。新聞に公表されても差し支えない」

更に、海軍と外国商社との間で取り交わされるコミッションについても調査すると、毅然とした態度で応じた。

日本海軍の援助を得られなかったシーメンス東京支社はプーレーと交渉をするしかなく、11月26日に5万円で機密書類を買い戻した。

こうして、シーメンス社と日本海軍の汚職の証拠である秘密文章は無事に焼却され、事件は解決したかに見えた。

シーメンス事件前夜

シーメンス社との会見終了後、斎藤は財部彪海軍次官と善後策を協議した。

その結果、司法省と警視庁に通報して内偵を依頼し、部内の者に外国商社とのやり取りの中でコミッションを貰っている者がいないかの調査を進めた。

この時、斎藤は将校たちの身の潔白を信じていた。

シーメンス社の書類の中に出てきた藤井や沢崎を取り調べ、関係者を直ちに休職にするなどの処置は考えていなかった。

通報を受けた司法省では、すぐさま奥田法相や平沼騏一郎検事総長らが出席して事件の取り扱い方を協議した。

事は海軍部内の調査である。

山本内閣が海軍内閣であるが故に、野党の倒閣の材料に使われては一大事である。

再び大正政変のような暴動が発生すれば、治安上由々しき事態になりかねない。

よって警視庁とともに連携して内偵を進めつつ、将来海軍省から正式に依頼を受ければ、すぐさま活動出来るように待機する方針とした。

警視庁も同様の理由で静観の態度を取った。

一方、国外に逃れていたリヒテルは帰国したドイツにて捕縛され、公判に付され、近く判決が下るという情報が入ってきた。

この事は原内相の耳にも入っていたが、原もまだ事の重大性に気づいておらず、関連記事の記事差止処分などは行われなかった。

シーメンス事件

1914年1月22日、斎藤海相は予算総会にて海軍補充計画を明らかにした。

その計画とは、戦艦4隻、駆逐艦16隻を建造する予定で、その内戦艦3隻は既に建艦に着手準備中であり、今後の設計にかかるのは1隻であること。

19年までに全て建造した後、更に戦艦3隻、巡洋戦艦2隻、巡洋艦8隻などを建艦するというものである。

これは14年から22年まで、7年計総額1億6千万の大軍拡であり、このうち600万を大正二年度予算に計上した。

海軍は1907年に策定された陸海軍戦略の基本である帝国国防方針において、アメリカを仮想敵国に定めた。

その準備として最新鋭の戦艦8隻巡洋艦8隻からなる八八艦隊計画の実現を目指していた。

政友会の支持を得た海軍は、予算問題で妥協を重ねつつも、八八艦隊計画の予算を着実に確保しようとしていた。

ちょうどこの時、ベルリンのドイツ司法裁判所が、リヒテルを重要書類窃盗の罪で懲役2ヶ月の有罪判決を下した。

重要なのはその公判の中でリヒテルが、シーメンス社が日本海軍から受注を受ける際に、日本海軍高官に贈賄した事。

その旨を陳述し、判決文の中でそれが事実として記されたことであった。

そしてこの公判を取材したロイター通信が、ロンドン特電として世界に広く報道した。

請負工事発注の際に、注文者にコミッションを提供する風習のある諸外国では、さしたる反響はなかった。

しかし日本においては衝撃的な事件となった。

日本海軍は日本海海戦で世界に勇名を轟かせ、清廉潔白であると国民の信頼も厚かった。

その日本海軍の将校がリベートを取るなどとは信じがたい。

ましてやこの時、山本内閣は陸軍の二個師団増設要求を抑えて、海軍拡張計画を推し進めており、青天の霹靂であった。

徳富蘇峰はシーメンス事件について、事件が議会会期中でなければ、はたまた山本権兵衛内閣でなければ、そこまで大きな騒ぎになったのだろうと観測する。

「当時の人気は、苟も海軍といえば、山本を連想し、山本といえば私党を連想し、私党といえば権勢利益の壟断を連想し、更に下りてコミッションを連想せしめたる時なれば、鼠の鳴くのも獅子の吼ゆるが如く聞きなされずんばあらず」

つまり海軍の汚職という材料が山本内閣倒閣の武器になったので、大騒動となったのだと観測した。

1月23日、先のロンドン特電が時事新報に掲載された。

そこには、日本海軍の艦政本部の何名かが、シーメンス社の無線電信関係の注文の際に15%のコミッションを受け取るのが慣例であった、と記してあった。

更に、在英駐在武官の井出謙治大佐がコミッション込みで割高になっていたシーメンス社の提示する価格を非難していた事。

それを、シーメンス社が海軍部内に働きかけて井出を免職にするよう取り計った事も記してあった。

井出大佐は当時日本に帰国していたが、海軍は軍の機密を理由に井出への取材を妨害した。

予算審議中だった議会は、一転海軍と山本内閣への追求の場となる。

同日、同志会の島田三郎は予算委員会において、時事新報の記事を取り上げてシーメンス事件に対する緊急質問を行なった。

島田は「日本帝国の威信に関係し、海軍の風紀に関係するものであります」と、事件の重大性を説く。

不正を糾弾する井出大佐を賞賛しつつ、コミッションに関係したとされる岩崎達人予備役少将、藤井少将、沢崎大佐の名前を挙げた。

そして、暗に山本や斎藤が不正の背景にいるのではないかと示唆した。

「私は、海軍を信頼できないと言うのはここである。なんと言うても信用できない。

しかも陸軍が切迫して国防の欠乏を訴えれば、これは緩であると言う。

緩急宜しきを制して、急の急なるものは国防の欠乏である。

それを緩の部に入れて今日の予算を見ると他に新たに支出すべきものが多くある。

ことに海軍に至っては昨日来の回答によって明白である」

これに対し斎藤海相は、昨年のシーメンス社との会見の模様を詳細に報告した。

その後、司法局に連絡して、不正事実があるならば徹底的に調査するよう依頼したが、調査の結果不正の事実はないとの報告を受けている。

もし新聞報道の事が本当ならば改めて調査し、不正を正す決心であると答弁した。

島田は読売新聞社経由でシーメンス事件の資料を手に入れていた。

この後も核心を突く質問を次々と行い、海軍を追い詰めていく。

なお、原は未だ事件を単なる海軍の汚職事件と見て、報道差し止めなどの積極的な措置を講ずる考えはなかった。

シーメンス事件の余波

シーメンス事件を受け、貴族院各会派は海軍補充予算の削減を示唆した。

この為、政府も海軍予算の議会通過の為にシーメンス事件の調査に積極的にならざるをえなくなった。

斎藤は海軍査問委員会を設置して事件の真相究明を行う方針を立てた。

一方で斎藤は奥野法相に対し、事件を告発する意思を見せた。

これを受けて司法省も東京地方裁判所の小原直を主任検事として活動を始めた。

1月29日、機密書類をシーメンス社に売り飛ばしたプーレーが小原検事の部屋に連行された。

司法省に詰めていた記者たちは大騒ぎとなり、シーメンス事件の主犯プーレー検挙の号外が飛び交った。

この取り調べにより小原は事件の全貌を把握した。

小原は続いてシーメンス社の吉田とヘルマンの任意出頭を求め、証拠保全のためにシーメンス社の家宅捜索を行った。

同日、衆議院本会議にてシーメンス事件の政府報告を求める緊急動議が花井卓蔵によって提出され、採択された。

仮に海軍将校のコミッションが常態化しているのであれば、この事件は更に拡大しかねない。

電気・通信施設を扱うシーメンス社よりも遥かに規模の大きい、軍艦建造を巡ってより巨額の収賄が行われているのではないか。

議会の追求もそこに争点が移り始めた。

そのような中、斎藤の下に海軍省からの電報が届いた。

それはシーメンス社から斎藤に宛てられた、今回の一件を陳謝する旨の電報であった。

その中にはドイツ駐在武官がリヒテル公判の判決の要旨を記した電信もあった。

斎藤はこれを議会にて読み上げた。

「犯人は公判廷にて窃取書類の内容として、本社より支店宛、岩崎少将に対し好結果ありし通り藤井少将にもその売り上げの二分五厘贈る事」

ついに日本海軍将校が外国商社から賄賂を受け取っていた事実が海軍大臣の口から発せられた。

1月30日、新聞各紙は斎藤海相の議会報告を大々的に報道し、国民は衝撃を受けた。

こうして、シーメンス事件は政治問題として日本を揺るがすことになる。 ヴィッカース・金剛事件 海軍部内において藤井少将は限りなくクロに近いと噂されていた。

藤井邸は豪勢な日本家屋で、お雇い運転手を抱えて自家用車を利用していた。

当時、自家用車を持てる人は財閥や華族や資産家に限られる。

海軍機関少将の給料ではこのような贅沢は出来ないのは明白であった。

藤井の未分不相応の自家用車は海軍でも有名となっていた。

シーメンス事件の拡大を受け海軍は1月28日に査問委員会を設置し、1月31日に藤井を喚問した。

藤井は委員たちを前にシーメンス社からの賄賂を受け取ったことを認めた。

それだけでなく、シーメンス社以外からの斡旋手数料の収賄も次々と証言した。

あまりに多くの罪状に査問委員たちは唖然としたが、藤井は委員たちの想像を絶する驚くべき新事件の告白を始めた。

ここで発覚したのがヴィッカース・金剛事件である。

1910年、第二次桂内閣当時、斎藤海相は艦艇補充計画にあたり英国の造艦技術導入を目的とし、戦艦金剛を英国造船所で建造することとした。

そして、英国の英国兵器企業ヴィッカース社とアームストロング社に見積もりさせた。

ヴィッカースの代理店は三井物産、アームストロングの代理店は高田商会である。

当時、海軍の受注成績は高田商会が優れていた為、三井は金剛受注のために海軍に働きかけた。

この頃、三井には松尾鶴太郎という技術顧問がいた。

松尾は艦政本部長の松本和中将の部下であった経歴から、松友と昵懇の関係にあった。

そこで三井は松尾を通じて松本に対し、ヴィッカースが発注に成功したら、三井がヴィッカースから受け取る仲介手数料の3分の1を贈賄することを約束した。

こうして金剛はヴィッカース社に発注された。

松本中将は日露戦争で軍功を挙げ、連合艦隊の戦艦富士の艦長として名高い軍人であった。

呉鎮守府司令長官を務め、次期海軍大臣と目される大物であった事から、衝撃的な告白であった。

大物軍人の戦艦絡みの巨額収賄に斎藤も驚き、事の重大さから藤井を即日待命処分とし、軍法会議に送致する手続きを取った。

なお、同じく尋問を受けた岩崎達人予備役少将はシロであった。

確かに岩崎はシーメンス社への多数の発注を行なっていたが、それは同社に優秀な点を認めていたからであって、収賄を受けていたからではないと証言した。

シーメンス社も岩崎にコミッションを送ろうとしたが、岩崎はそれに激怒し、手紙を添えて返品していた。

その手紙の下書きが家宅捜索の結果見つかったために不起訴処分となった。

弩級戦艦金剛

日本海海戦で活躍した三笠は排水量15000トン、速度は18ノット、主砲は12インチ砲4門の最新鋭戦艦であった。

しかし1909年に英国は排水量18000トン、速力21ノット、主砲12インチ砲10門の弩級(ドレッドノート)戦艦を建造した。

更に1910年には速力27ノット、主砲12インチ砲8門の巡洋戦艦も誕生した。

ドレッドノートとは怖いもの無しの意味である。

その名の通り、弩級戦艦は全世界の戦艦を時代遅れの代物にした。

弩級戦艦の登場を受け、ドイツとイタリアは建造中の主力艦を廃棄して弩級戦艦に切り替えた。

米国もこれに続いて弩級戦艦を次々に建艦し、12年には弩級戦艦を超える超弩級戦艦オライオンを建艦する。

ここに世界的な大建艦競争を迎え、日本も欧米列国との熾烈な建艦競争を繰り広げることになる。

日本が日露戦争で使用した主力艦の大半は英国製新鋭艦であった。

日露戦争後、建艦競争についてゆく為に造船技術の向上が急務となり、主力艦国産化の方針を立てた。

しかし一から弩級戦艦を作るには時間がかかるので、英国から一隻購入し、それを参考に改良する事とした。

そこで1910年にヴィッカース社に発注されたのが金剛である。

ヴィッカース社のコミッションルート

ヴィッカースから日本側へのコミッションの提供ルートは3つあったと言われる。

まず1つは三井物産経由で松本に渡ったルートである。

松本は海軍大臣直隷の艦船兵器を統括する艦政本部長であり、金剛発注の責任者であった。

三井物産は松尾技術顧問が中心となり、かつての海軍時代の上司である松本に強力に働きかけた。

その際、ヴィッカースに対するコミッションを通常2.5%から5%に増額し、その手数料11万ポンドの3分の1にあたる38万円を松本に渡したとされる。

38万円は現在の貨幣価値でいえば19億円近い額である。

もう1つがヴィッカースから直接藤井に渡ったルートである。

藤井は造船監督官として英国に渡り、金剛発注におけるアームストロング、ヴィッカースの見積書設計書審査にあたっていた。

コミッションを受け、藤井は松本艦政本部長に対してヴィッカース社案が遥かに優れるとの所見を提出していた。

ヴィッカースは藤井に対して特別支払という名目の賄賂を常々行っており、その総額は3万ポンド、30万円近くの巨額となっていた。

3つ目のルートが日本製鋼所である。

日本製鋼所はアームストロング、ヴィッカースの共同出資会社で、艦砲などの海軍用製品や鋼材を扱っていた。

同社は民間企業ながら海軍用製品を独占的に受注し、海軍から各種支援を受ける特権を有していた。

アームストロング、ヴィッカースからは出資だけでなく技術援助も受け、役員も派遣されている。

両社は競争関係にありながら日本製鋼所を通じて協調関係にあった。

日本製鋼所は受注する製品のうち、国内で製造出来ないものはアームストロング、ヴィッカース社に注文を振り分けた。

その代償として英国両社は日本製鋼所に対し2.5%の手数料を支払うとの取り決めを交わしていた。

日本製鋼所の取締役会長に山内万寿治海軍中将が就任すると、この取り決めを拡大解釈した。

そして、英国両社が日本政府から受注する艦船兵器類全般についてのコミッションを要求するようになる。

山内は熊本出身であるが山本権兵衛に見出され、呉鎮守府司令長官を歴任し、呉海軍工廠の生みの親と称されるほどの大物である。

山内は金剛受注内定直後、ヴィッカースとの交渉に臨み、金剛契約価格の2.5%のコミッションを要求した。

ここで重要なのは、日本製鉄所は金剛発注に直接関与していない点である。

ヴィッカースは当初難色を示したが、アームストロング社との会合においてコミッション支払いに同意した。

これはつまるところ、ヴィッカース、アームストロングに対する日本海軍に関する注文は日本製鋼所を通さない場合も、日本製鋼所へのコミッションを支払うことを、両社が認めたことになる。

仮にコミッション支払いを拒めば、日本海軍の注文は片方の会社に変更されるかもしれないと危惧したからである。

日本製鋼所は両社の競合関係を巧みに利用して手数料をせしめ、ヴィッカース、アームストロング社の総代理店としての地位を確保した。

日本製鋼所と英国両社との緊密な関係構築に成功した山内は、重役会議にて金剛発注を日本製鋼所を通じた発注であると明言した。

それだけでなく海軍当局と交渉して日本製鋼所が特別な恩恵を得れるようにした事。

最大限と努力を払ったために金剛入札がヴィッカース・アームストロングに限定されたことを述べた。

つまり金剛発注をヴィッカースに決定したのは山内による要請だと豪語してみせた。

いくら山内が山本の寵愛を受ける人物だとしても、海軍部外にいる山内にそのような決定権はない。

完全な誇張であるが、このせいで山内個人にも収賄があったのではないかと疑いがかけられた。

山内はそれを不服として自決騒ぎを起こしたが、そのせいで山内を重用した山本への疑いが深まることになる。

ヴィッカース・アームストロングの結託と抜け駆け

ヴィッカース・アームストロングともに英国を代表する総合兵器企業であるが、常に競争を繰り広げていたわけではない。

両社は船体トンあたりの価格や、機関馬力あたりの基準価格をあらかじめ決め、無用な低価格競争を防止していた。

最大の市場である日本においては、両社は共同出資で日本製鋼所を設立し、リスクを分担して利益を分け合った。

英国にはアームストロング・ヴィッカースに比類する企業はない。

両社の競合会社など存在しなかったので、このような結託が可能であった。

金剛入札にの際も両社は、基準価格の設定、作業分割、利益分割の取り決めを交わしていた。

受注企業が主契約者になるのは当然であるが、契約受注企業は製造作業を独占せず、結託関係内の企業にも均等に作業を分割することを事前に取り決めた。

また、製造作業を担当することで発生する利益を非製造企業に分割するという取り決めまで定めていた。

この協定通りならば作業も利潤も分割されるので、どちらが受注しても大差はなくなる。

受注企業は契約者の名前を得るだけである。

では何故ヴィッカースは三井を通じてコミッションを行なってまでも金剛を受注せしめようと考えたのか。

当時の英国の労使規定は、修行を終えなければ熟練労働者になれないという厳格な決まりに縛られていた。

その為、労働市場は常に売り手市場であった。

それに造船企業にはもう一つ悩みがあった。

造船するには多種多様な労働者を必要とするが、一隻の船を作る起工から進水までの全工程を通じて必要な職種は一つもなかった。

よって次々と船を起工しない限り、造船所は労働者を一時的に解雇しなければならなった。

そうなれば解雇された労働者は次の職を求めて他企業に移籍する。

次の船を起工しようとしても肝心の労働力が容易に集まらず、賃上げなどの好条件を提示して遠隔地から労働者を調達しなければならなかった。

ヴィッカースのバロウ造船所は1910年当時、金剛を受注できなければ労働者の一時解雇が発生する状況にあった。

金剛を受注出来ていてもアームストロング社との協定通り作業を分割すれば、労働者の流出という事態を引き起こしかねなかった。

よってヴィッカースは金剛を受注した上でアームストロングとの作業分割を日本海軍に明確に反対してもらう必要があった。

そこで役に立ったのが藤井ルートである。

日本海軍は金剛発注の際、軍艦の全てをヴィッカースによって建造され、同社は契約のいかなる部分も下請けさせない、などという特異な契約を交わした。

これによりヴィッカースは、日本海軍の反対により作業分割が出来ない契約内容になったとアームストロングに説明した。

協定契約で建艦作業の半分は取れるだろうと油断していたアームストロングは完全に出し抜かれた。

大鑑巨砲主義

金剛は他国に先駆けて14インチ砲を装備した、大鑑巨砲主義を先取った新鋭艦であった。

当時、日本海軍部内では金剛の主砲を14インチとするか12インチとするかの議論があった。

海軍先進国の米国は14インチ砲装備を決めていたので、当然日本海軍も14インチ砲を欲した。

だが、主力艦国産化政策の中でようやく12インチ砲国産化に着手したところであり、現実的に14インチ砲の国産は当面無理との判断が支配的であった。

金剛はその図面を基に国産化する予定の新型巡洋戦艦であり、その兵器や装備品も国産化する予定であった。

それを14インチ砲とすると英国からの輸入を続けなければならない。

巨砲は欲しいが国産化も進めたいというジレンマの下、日本海軍は12インチ砲装備に傾いた。

当時、アームストロング社の艦砲技術は、工場の狭さや12インチ砲の大量受注などによりヴィッカースの遅れを取っていた。

英国海軍は新鋭艦の装備を13.5インチ砲としたが、この艦砲はヴィッカースだけが受注し、アームストロングは受注出来なかった。

アームストロングの技術不足に、駐英武官である加藤寛治は「人生の余年を貪る衰残の形勢にある」と観測している。

日本海軍が金剛を発注するにあたり、ヴィッカースとアームストロング両社に12インチ砲装備の設計案を提出した。

この間、海軍部内において多少無理してでも14インチ砲装備の戦艦を手に入れ、国産化に繋げたいとの意見が台頭した。

その為に日本海軍は艦砲技術においては劣るアームストロングを見限り、14インチ砲案追加提出をヴィッカースにだけ指示する等、ヴィッカースに傾斜していった。

これを受け、ヴィッカースは受注を決定づけるために三井を通じて井上中将にコミッションを送った。

また、アームストロングとの作業分担協定を破棄するために藤井少将にコミッションを送った。

これがヴィッカース・金剛事件の全容であった。

憲政擁護運動

海軍汚職問題の拡大を受け、山本内閣に対する攻め手を欠いていた憲政擁護運動が息を吹き返す。

2月2日、憲政擁護会は薩閥打破を決議。

2月4日には同志会や国民党、中正会による演説会が開かれ、2月5日には憲政擁護大会を開いて1万人の民衆を集め、世論を動員していった。

これに火をつけたのが、海軍部内者の告発である。

2月3日、内閣弾劾演説会において太田三郎海軍大佐が海軍腐敗について演説した。

太田はかつて海軍拡張不要を唱え、海軍の腐敗粛正のために軍部大臣文官制や監査の公開をすべきだと主張し、11年に予備役編入となっていた。

シーメンス事件を受け、斎藤海相に対して、海軍粛正の大鉈を振るわなければ自分が粛正運動の急先鋒になると豪語していた。

その太田が演説すると聞いて、会場は満員となった。

太田は壇上に上がるや「皇国の興敗はこの一挙にあり」と唱えた。

続けて、公用費を持ち逃げした将官がいるとか、戦艦の欠陥を認めながら進水させたとか、海軍拡張は造船所や製鉄所の営業拡張であるとか痛罵した。

そしてこれら海軍部内の腐敗は、海軍に籍を置いた者ならば誰もが知っている事実であり、それを誰も指摘しないのは勇気のある人間がいないからであると批判した。

自分は倒れるまでやるつもりだと叫んだ太田に、聴衆は熱狂した。

太田の演説は海軍部内においても大きな問題となり、海軍省は分限令違反のかどで太田を免官処分とした。

東京朝日新聞は太田の演説を「正義の悲哀なり、大佐これより天下御免の平民となって更に一層の尽忠尽誠、陛下の海軍の廓清の為に奮闘努力すべし」と報じた、

なお、世間は太田に同情して全国から義援金が集まったが、太田はそれを固辞して受け取らなかった。

更には2月6日、国技館にて開かれた山本内閣弾劾の全国大会に、海軍の経理に詳しい片桐酉次郎海軍主計大佐が出席した。

そこで、英国で造船した場合1トン82ポンドの予算であるものが、日本にて造船する場合には1トン100ポンドの予算を計上するなどと、軍艦発注のデタラメを暴露した。

これを裏付けるかのように、新聞には某海軍武官の談話として、ヴィッカース社で竣工した巡洋戦艦金剛の竣工費が3割ないし5割以上割高になっている事。

軍艦建造を統括する艦政本部が腐敗の温床であり前艦政本部長で現在某鎮守府司令長官がポケットに金を入れていた、などの暴露記事が踊った。

ちなみに前艦政本部長で現在某鎮守府司令長官である人物に該当するのは松本和しかいない。

2月10日、国民党・同志会・中正会は衆議院に以下の内閣不信任案を上程した。

「帝国海軍をして国民疑惑の府たらしめ、帝国の威信を中外に失墜したるは其の責政府に在り、政府は宜く自ら処決すべし」

同時刻、日比谷公園において野党連合主催の内閣糾弾国民大会が開かれた。

野党は院の内外で政府に揺さぶりをかける作戦に出た。

衆議院で内閣不信任案をが否決されるや、国民大会に参加した5万人もの民衆は同志会院外団に率いられて議会を包囲した。

警視庁は4000名の警官を動員して議会の警備に当たっていたが、群衆が議員の扉を破壊しようとしたので、抜刀して群衆を蹴散らした。

議院前を追われた群衆は、政友会本部や政友会系の新聞社、議会付近の交番が民衆によって襲撃され、各所で投石や放火が行われた。

もはや警察力だけでは鎮圧は難しく、警視庁は東京府知事と協議して、帝都治安維持の為に第一師団の歩兵一個大隊の緊急出動を要請し、ようやく騒動は鎮静化した。

2月12日には予算案が衆議院に上程されると、再び民衆が議会に押し寄せた。

政府は警察を使ってこれを一斉に検挙し、多数の負傷者を出した。

この混乱の中で、同志会の河野広中は警察の責任者として原内相の引責辞任を求める決議案を出したが、再び政友会は反対多数で否決した。

シーメンス・ヴィッカース事件の決着

議会内外が騒然とする中、司法当局はシーメンス事件、ヴィッカース事件の調査を着実に進めていった。

1月30日、検察はロイター通信のプーレーを盗品に関する事件で起訴。

更にシーメンス社の吉田、ヘルマンを検事局に召喚して取り調べを開始し、自供を引き出した。

曰く、吉田の姪の夫である鈴木周二海軍中佐が電気兵器担当であったことから、海軍設備発注の際にはシーメンス社の製品を指定させた。

また、無線電信所の請負契約も落札できるように斡旋を依頼した。

シーメンス社は謝礼として、日本海軍から発注する兵器取引価格の5%をコミッションとして供与し、吉田を通じて関係者に贈賄していた。

更に、鈴木は斡旋の際、上司である沢崎大佐にも働きかけており、シーメンス社は沢崎に1万円を贈与した旨を供述した。

このヘルマンの自供を受け、海軍は沢崎、鈴木を待命処分とし、ヘルマンと吉田を贈収賄の罪で起訴した。

なお鈴木は収賄の事実を自白したが、すでに時効が成立しており、起訴されなかった。

収監された吉田は、海軍に殺されるかもしれないと怯えた。

差し入れの弁当に毒が入っているのではないかと疑い、自宅からの差し入れ以外には手をつけなかったという。

吉田は3月17日、収監中に変死している。

2月16日、政府は、シーメンス事件の贈収賄容疑で、ロイターのプーレー、シーメンスの吉田・ヘルマンを予審に、海軍の沢崎・藤井らを軍法会議にかけるとの新聞発表を行った。

次に検事局はヴィッカース事件の捜査を着手した。

平沼検事総長は斎藤海相に対し、呉鎮守府司令長官官舎、呉海軍工廠官舎、松本中将私邸を家宅捜索したいので、便宜を図るよう依頼した。

2月18日、松本和呉鎮守府司令長官に収賄の容疑があるとして、東京地裁検事たちが鎮守府官邸と松本私邸の家宅捜索を行い、証拠書類を押収した。

事前に斎藤海相の承諾があり、手続き上は何ら問題がなかったとはいえ、鎮守府が司法官に捜査されたなど前代未聞であり、海軍軍人にとって衝撃であった。

3月6日、ヴィッカース社の代理店である三井の重役が任意出頭し、技術顧問の松尾が贈賄の疑いで起訴された。

新聞には三井が金剛建造に絡んで海軍首脳に莫大な謝礼金を払ったと大々的に報道され、世論はいよいよ沸騰する。

松尾の取り調べの中で、松本との贈収賄のやり取りを銀行預金を経由していたことが発覚した。

検事局はその預金を精査したが、その中に使途不明の1万円を発見した。

この金について詰問された松尾は、三井の重役、山本条太郎への謝礼金であると自白した。

山本の義理の兄が松尾の同窓であったことから、山本は何かと松尾を援助しており、ヴィッカースの重役も紹介していた。

このような恩義から謝礼として払ったお金であり、何らやましいものではなく、事件には全く関係なかった。

しかし小原検事はこの説明に納得がいかず、山本を起訴した。

山本は松本への収賄に何ら関与しておらず、全くの無罪であったが、執行猶予付きの実刑を受けている。

一方、松本を召喚して取り調べを行なっていた海軍司法当局は、松本が金剛建艦に絡み40万円(現在の貨幣価値で20億)を動かしていた事実が明らかになった。

海軍は松本の身柄を拘束し、軍法会議にかけた。

松本は事件について、このように告白した。

「自分は周りの者から、次は大臣ともてはやされたので、いい気になってしまい、大臣の機密費が少ないと聞き、その補いにもと思って貰ったが、私利私欲からではなかった」

こうしてシーメンス・ヴィッカース事件の全容が明らかになった。

海軍軍法会議は沢崎に対し懲役1年・追徴1万円、松本に対し懲役3年・追徴49万円、藤井に対し懲役4年・追徴36万円の判決を下した。

海軍予算全面削除

院外の憲政擁護運動も、内閣弾劾案や内相問責決議案が衆議院で封じ込められては手も足も出なかった。

山県有朋や寺内正毅ら陸軍を中心とする山県系官僚閥も、事が海軍の汚職である以上、これに乗じて内閣を倒閣するなど、皇軍を分裂させるような真似は出来なかった。

山県系の倒閣に怯える必要もなく、与党政友会の多数で野党を抑え込むことに成功した。

シーメンス事件の司法による解決も順調であった為、山本首相は2月24日にシーメンス事件によって引責辞職しないことを明言した。

このように一見盤石に見えた山本内閣であったが、一つだけ弱点があった。

それは貴族院に対する影響力を何ら有していなかった点にある。

2月12日、衆議院に大正三年度予算案が上程された。

政府予算案の海軍補充新規計画予算7000万のうち、戦艦一隻分の建造費3000万を後回しにする形で削除して4000万とした。

シーメンス事件を引き起こしておきながら海軍予算を丸呑みできない。

政府批判の世論を鑑みた政友会が、海軍に譲歩を求めた結果である。

この譲歩により海軍予算は総額1億2千万となり、賛成多数で可決された。

予算案は貴族院に送付されたが、貴族院はこれに激しい攻撃を加えた。

3月5日、貴族院予算分科会は海軍の新規予算案要求4000万を全面削除した修正予算案を提出し、これが分科会を通過した。

その理由は、山本内閣の国防計画は陸軍を軽視して海軍のみ偏重しており、国防上の一大欠陥を生じているという意見であった。

貴族院本会議においては西村亮吉議員が痛烈な質問を飛ばした。

「予算を見ますると、師団の増設は提出になって居りませぬ。

海軍の拡張費は要求になって居ります。

総理大臣は国防上海軍を拡張せば師団の増設は必要でないと云う御見込でありましょうか」

村田保議員も陸軍二個師団増設の必要を説き、以下のように非難する。

「総理大臣は之をば刎ねられて、それを容れられぬと云うのは、恐らくは身が海軍大将であるからして、陸軍と云うことは丸で目に置いて居られぬのじゃないかと思う」

こうした意見に呼応し、貴族院における山県系官僚閥の拠点である幸倶楽部の幹部、田健治郎が動き始める。

田は海軍収賄は海軍軍紀の紊乱であり、貴族院はこの粛正を促さなければならないと主張した。

このように海軍予算削除に説得力を持たせ、貴族院各派を奔走した。

貴族院がここまで強気であったのは、世論の支持を背景にしたからであった。

衆議院を傍聴していた田は、混乱する議会から出る際に、守衛に貴族院議員と書いた看板を掲げさせて退出した。

議会を取り囲んだ民衆も貴族院議員と見るや否や道を開けた。

このような民衆の態度に、貴族院は活気づいていた。

だが、国防上の欠陥を口しながら、艦艇補充の新規要求額を全面削除するなど、それこそ国防上の欠陥を生みかねない暴論である。

斎藤海相も艦艇補充の必要性を力説し、貴族院議員たちの間でも補充費全額削除は国防を危険にするとの意見もあった。

だが、3月9日の貴族院予算委員会において修正案は可決された。

政府予算案否決は内閣不信任の意味を有するのは明白である。

田も倒閣の決意を述べている。

「海軍汚職事件の突発するや、政海の風雲俄然激昂を極め、都下の一大騒擾となり、下院の大混乱となり、新聞各社の一大連合となり、人心は惶惑し国論は沸騰して窮る所を知らず。

ただ首をのべ上院の態度いかんを仰望のみ。

今や上院各派の態度定まり、正々堂々将に政府に対し一大斧鉞を下さんとす」

このようにして海軍予算、しいては国防は政局の渦中に巻き込まれた形となった。

憤死演説

3月3日、貴族院にて村田保が激烈な演説が行った。

村田は司法省や内務省に務め、国会開設以来勅選議員として貴族院に議席を有する古参議員であった。

村田は貴族院が海軍予算を削除した理由を単刀直入に述べる。

「貴族院は今の内閣の生存を望まないのである」

その背景として、倒閣を望む国民世論を挙げている。

「この貴族院たるもの、国民の世論を容れ、政府を誅伐しなければ、将来国家はいかなる不詳を来たすか、測れぬと思います」

そして村田の演説は熱を帯び始めた。

「山本大臣閣下よ。

閣下は人間の最も尊ぶところの、名誉、廉恥ということを、ご存じなくはないかと疑います。

何とあれば、人民が閣下に対しまして、公然公衆の前において、閣下を国賊と言っているではありませぬか。

また海軍収賄の発頭人だということを申しております。

また閣下の面貌は、監獄に行けば類似のものはたくさんあると言っております」

ここまで名誉を毀損されておきながら、何故疑惑を晴らさないのかと詰め寄る。 村田の舌鋒は続く。

「山本権兵衛伯よ。

伯は今日小学校の児童となりいえども、閣下を土芥糞汁のごとく悪口を致しているではございませぬか。

いかがでございます。

一国の宰相たる者が、海軍の大将という者が、小学校の生徒にまでかくのごとく侮辱せられるということは、実に我々国民として、慨嘆に耐えぬのでございます」

国の為、海軍の為に身を引くべきだと攻め立てた。

更に大正政変の時に桂に辞職を勧告した話を引用し、以下のように山本に辞職を勧告した。

「人に辞職を勧告しながら、己は辞職せぬというような、不徳義千万なる卑劣漢は、日本国に閣下の他にはないだろうと存じます」

村田は演説の最後に至るまで、山本を徹底的に攻撃した。

「閣下は一に上を擁し奉り、一は海軍の腐敗をかもしたる大悪人なりと思います。

速やかにこの政治社会より、葬り奉らんことを祈ります」

そして自らの演説を「貴族院開設以来未だかつてあらざる、実に不詳不吉なる言語を用いまして、この議場を汚しました」と締めくくった。

演説後、玉座に一礼して議場を後にし、議長に貴族院議員辞任届を提出した。

その理由は、天皇が信任する総理大臣を玉座の前で面罵したからであるとした。

村田は貴族院議員の肩書きも、その歳費をもかなぐり捨てて、山本内閣に突撃した。

それほど海軍の不正を憂いていた。

世の人は村田の憤死演説と語り継いだ。

憤死演説は貴族院にあっては極めて珍しい、型破りで激烈な内閣不信任演説であった。

山本内閣総辞職

憤死演説に見られるように貴族院の政府に対する感情は悪化した。

3月13日、貴族院本会議は海軍補充費の全額を削減した予算を可決し、修正予算案を衆議院に差し戻した。

当然衆議院は貴族院の修正に応じず、両院協議会が開催されることとなった。

この協議会において貴衆院どちらかが譲歩しなければ予算不成立となる。

しかも政府提出の予算案を大幅に修正したのが貴族院である以上、政府は議会解散に訴える事は出来ない。

山本内閣と政友会は窮地に陥った。

貴族院が強気である以上、シナリオは二つしかない。

一つは、政友会が貴族院の修正予算案を丸呑みして予算を成立させて内閣を継続させる。

二つは、衆議院の予算案を貫いて、予算が不成立に終わり、内閣総辞職に至る。

俄かに緊迫化した政局の中で、鍵を握ったのは原敬であった。

衆議院を通過した予算案を貴族院の反対で覆すなど、政党にとってその存在意義に関わる問題である。

一方で政権の座を手放すのも惜しい話である。

政党にとって不名誉であっても、敢えて予算案を丸呑みするのも選択肢ではある。

ただし山本内閣はシーメンス事件で死に体となっており、そのような内閣を継続させても、一年も持たない可能性がある。

これらの思惑が交錯した結果、3月13日、原は政友会幹部たちと対応策を協議し、以下の方針をまとめた。

山本が政友会に政権を円満授受させる意思があるならば、国家のために貴族院予算案を丸呑みして予算を成立させる。

もし確約がないならば、予算不成立から内閣総辞職となってでも、予算審議における衆議院の特権を死守する。

早速、原は山本と会談した。

その場で原は、貴族院予算案丸呑みの責任をとって内閣を退き、党務に専念したいとの希望を述べた。

すると山本は、原に内閣を去られては困ると賛成しなかったものの、政権授受はついに口にしなかった。

結局山本にとって政友会は政権存続のために利用するだけの道具に過ぎないと、原は看破した。

そもそも原は海軍軍拡を快く思っていなかった。

政友会総裁の立場から、党勢拡張のために港湾修繕や鉄道建設などのインフラ整備を推し進めようとしていた。

その為に海軍の拡張計画に強く反対し、閣議において斎藤海相や海軍予算を抑制しようとしない高橋蔵相と対立している。

この経緯から原は薩派を信用せず、山本にも不信感を抱いている。

「薩も長も同じくただ自国の勢力を張らんとするまでの野心にて毫も憲政の為に非ざることは無論なり」

薩派を政友会に引き入れるならまだしも、薩派に利用されるなどは望んでいなかった。

こうして原は内閣継続を諦めた。

3月19日、両院協議会が開かれたが貴衆院の意見は平行線をたどり、衆議院予算案が両院協議案としてそのまま通過した。

3月23日に貴族院本会議にて両院協議案が否決されて予算不成立に陥った。

これを受け、3月24日に山本内閣は総辞職した。

日本の憲政歴史上、貴族院による予算不成立で倒閣された最初にして最後の例である。

シーメンス事件は絶対安定かと思われた山本内閣の総辞職という形で幕を閉じた。

しかしこれで決着というわけではない。

後継内閣は政局に巻き込まれて削除された海軍予算をどう扱うかを求められ、それが更なる政局を引き起こす。

そして、軍事予算削除という国防の危機を前にして、海軍部内からも軍部と政治のあり方を、ひいては山本軍政を見直す動きが出てくるのであった。

参考書籍

史話・軍艦余録 紀脩一郎
艨艟 木村久邇典

man

シーメンス事件の基礎的知識について。

ジーメンス事件再訪 小野塚 知二

man

ヴィッカース・アームストロングと日本海軍のパイプを描いた本格研究。日本史の闇に迫る驚きの内容。

不滅の演説 中正雄

man

村田の憤死演説について。

日本政党史論 升味準之輔
日本議会史録 古屋哲夫 編

man

シーメンス事件政局について。