満州事変と第二次幣原外交の蹉跌

コラム

満州事変

1931年9月18日午後10時頃、奉天近郊の柳条湖の満鉄線が何者かに爆破され、鉄道守備隊が交戦状態に入った。

11時30分、関東軍はこれを張学良軍の仕業であると断定し、張軍の兵営である北大営と首府・奉天城を攻撃した。

翌19日0時、林久治郎奉天総領事は正式に交戦状態となっていない以上、事態を拡大せずに、外交によって事件を処理するよう関東軍に申し入れた。

これに対し、板垣征四郎関東軍高級参謀は、国軍の威信に関わる問題であるとし、やられた以上は徹底的にやると自衛権を主張し、満鉄付属地外への出撃を企図した。

戦前日本の運命を大きく狂わせた満州事変の発生である。

現在では、柳条湖の満鉄線爆破は関東軍の自作自演であり、満蒙領有の口実のための謀略であると判明している。

日本を揺るがす大事件としては、盧溝橋事件、真珠湾攻撃と並んで語られるが、柳条湖事件はそれらとは一線を画す。

前者が日中関係・日米関係の行き詰まりから必然的な国策であったのに対し、後者はその必然はなく、国策ですらなかった。

確かに31年に幣原外交は「堅実に行き詰まる」方針を固めてはいた。

万宝山事件や中村大尉事件など、日中双方の世論を硬化させるような大事件も多発していた。

だが、31年9月は未だ日中関係は破局を迎えておらず、柳条湖事件のような事件が起こる必然がない。

この必然ではない戦争が日本の外交を破壊し、その後の破滅的な戦争を止める術を失った。

そういう意味では、満州事変というのは日本の近代史最大のターニングポイントと言えよう。

不拡大方針と自衛権

満州事変当時、政府は若槻礼次郎民政党総裁による政党内閣であり、外務大臣は幣原喜重郎、陸軍大臣は南次郎である。

9月19日朝、東京にも満州事変の一報が入り、善後策を講じるために緊急閣議が開催されたが、南陸相の立場は弱かった。

幣原は現地奉天の情報として、中国軍が無抵抗主義を表明しており、事件のきっかけとなった鉄路も既に修復されていることを朗読。

事件があたかも関東軍、軍部の計画的な謀略であることを示唆して、南を牽制した。

若槻首相も関東軍の自衛行動を疑い、南陸相を詰問している。

南陸相は関東軍を援ける為の派兵を提議出来ず、閣議において事変不拡大の方針が固まった。

ところでこの不拡大は関東軍の攻撃中止や、鉄道附属地内への撤退まで踏み込んだものではなかった。

しかも、政府は柳条湖事件を関東軍の主張した通り、中国軍による満鉄爆破に対する自衛措置である断定している。

陸軍は杉山元陸軍次官の名で、以下声明を発している。

「支那側の不法なる鉄道破壊、守備兵に対する攻撃に対して、在奉天の我が陸軍は、正当防衛のために、支那軍に対して応戦した」

若槻首相も新聞に対して、関東軍の自衛権の行使を肯定している。

「まったく我兵の取った態度なるものは、正当防衛の手段に外ならなかったと私は思っている」

政府は中国軍に対する関東軍の自衛行為を認めており、積極的な不拡大とは言い難いものであった。

関東軍の自衛措置という主張は日本の譲れない線となり、外交上の全局面において姿を表すことになる。

不抵抗主義

満州事変の勃発を受け、当時の中国には3つの選択肢があった。

1つの選択肢は徹底抗戦である。

関東軍は張学良を牽制する為に、河北軍指揮官の反乱工作や、反蒋介石派を山西に送り込むなどの謀略を行なってきた。

これにより張学良麾下の東北軍13万は華北に釘付けとなり、張学良自身も満州を離れて反乱鎮圧の指揮を取っていた。

だが満州には、なお20万以上の東北軍があり、これに対する関東軍は1万しかいなかった。

よって、張学良が抗戦を指示すれば、関東軍の謀略は失敗していただろう。

しかし、張は東北軍に対し徹底抗戦ではなく不抵抗を指示した。

事変前、蒋介石は安内攘外方針を固め、日本のあらゆる挑発に対して不抵抗主義を貫くことにした。

その方針は日中懸案である満蒙問題を抱える張学良にも徹底されていた。

張は東北軍と日本軍の実力差を十分理解しており、日本との戦争になれば敗戦は免れないと考えていた。

確かに、満州だけで考えれば東北軍は関東軍を圧倒しているが、いざ戦争となれば朝鮮軍や日本本土の師団が飛んでくる可能性が非常に高い。

そうれれば張は本拠地である奉天、東三省を喪失し、政権基盤を失うことになる。

ならば日本との衝突を極力避け、また衝突したとしても拡大しないよう、日本軍の軍事行動に対しては一切抵抗しない方が良い。

この考えの下、北大営の東北軍は関東軍に抗戦することなく、張学良も関東軍との衝突を避けるように政府を錦州に移転させ、不抵抗を徹底した。

これにより南満州一帯の要衝は次々と陥落し、関東軍は鉄道附属地外へ兵を進めてゆくことになる。

日中直接交渉案

次なる選択肢は日中直接交渉である。

中国の出先においては、事変翌日に早くも日中直接交渉による事変収拾案が練られつつあった。

9月19日、重光葵駐華公使は、提携関係にある宋子文国民政府財政部長と、事変の対応について会談した。

この中で宋は日中共同で処理委員会を設置し、双方が有力委員を出し合って、直接交渉によって事態を収拾する事を提案した。

この考えは幣原と完全に合致していた。

幣原は国際協調主義者ではあるが、多国感枠組みに対しては懐疑的であり、国家間の問題は当時国同士が直接交渉によって解決すべきであると考えている。

これは、国家間の問題は国際法では白黒がつかないものであり、二国間が実利の折り合いをつけて始めて解決出来ると認識していたからだ。

9月21日、幣原は今後同様の事件が起きないよう、再発防止の基礎的綱領を決定することを条件に、日中共同委員会による事件解決に前向きに応じる旨の急電を送った。

しかしこの21日に中国政府は3つ目の選択肢を採る事を決定し、宋は事態拡大を理由に日中共同委員会案を撤回した。

その選択肢こそが連盟提訴である。

連盟提訴

蒋介石は不抵抗主義を徹底させる一方、もし万が一日中が衝突した場合は公理、国際連盟に提訴することを考えていた。

当時、中国と連盟の関係は完全に修復されており、加盟国も中国を信頼し、9月14日には連盟総会において理事国に選出されている。

しかも9月19日は理事会の開催日であり、中国にとって連盟提訴の好条件が整っていた。

また、連盟提訴のメリットを蒋介石は見出している。

それは、内向きには国民に国難を宣伝する事になり、それに立ち向かう蒋自身の政治的立場が強化されることだ。

連盟提訴は、中国国民政府が連盟の代表権を有する唯一の中央政府であることを誇示し得る。

外交の主導権を掌握し、反蒋介石派に対する優位を確保することで、対立する広州政府(後述)との合作も進むだろう。

外向けには国際世論を喚起し、支持を得ることで日本を牽制し、今後の対日交渉が有利に進むものと考えられた。

確かに、日中直接交渉は最も妥結に近いかもしれないが、日本が中国軍の不法行為を断定している以上、円満解決は望みがたい。

しかも、関東軍は南満州全域にわたって軍を出動させつつあり、そのような状態で交渉に臨めば、日本に有利な形で既成事実を強要されかねない。

そんな譲歩をすれば、蒋介石の政治的立場は非常に危うくなる。

蒋も連盟が満州事変を解決出来るとまでは楽観視していないが、解決に至らない場合は国民政府の責任を連盟が肩代わりする事になるだろうと考えた。

責任の回避は蒋介石が政権を維持するにあたり、重大な意義を持つ。

以上の点において、連盟提訴は蒋介石にとって魅力的な選択であった。

9月21日、関東軍が奉天を占領した事を受け、中国政府は事件を連盟及び不戦条約調印国に通告。

エリック・ドラモンド事務総長に対し、理事会を開催し、速やかに有効な措置を講ずるよう要求した。

連盟規約第11条提訴である。

「戦争又は戦争の脅威は、連盟国の何れかに直接の影響あると、否とを問はず、総て連盟全体の利害関係事項たることをここに声明す。

よって連盟は、国際の平和を擁護する為適当且つ有効と認むる措置を執るべきものとす。

此の種の事変発生したる時は、事務総長は、何れかの連盟国の請求に基き直に連盟理事会の会議を招集すべし」

この決定に対し、幣原は日中直接交渉に戻るように説得しようとした。

連盟加盟国は極東の事情を知らない国ばかりであり、雄弁が飛び交う弁論大会の域を出ないだろう。

もし仮に日中双方が第三国に議場で強く糾弾されれば、メンツの問題から歩み寄る事は困難になる。

それよりも日中が相互理解による協調により、現実的に事変を解決すべきなのである。

筋の通った考えであるが、連盟提訴を決めた中国は、幣原の提案に取り合うことはなかった。

こうして満州事変の交渉の舞台は、連盟理事会へと移った。

広州国民政府

連盟理事会に入る前に、当時の中国政情の特異として、広州国民政府を説明しておく。

1930年、中原大戦に勝利した蒋介石は国民会議を招集し、中央集権化を図る目的で約法を制定しようとした。

これに対し、胡漢民立法院長は約法制定に反対し、蒋の独裁化・総統就任を阻止しようとした。

胡漢民は孫文側近の国民党の重鎮であり、国民党の大派閥・広東派の指導者として、蒋と提携して国民政府を支える一人である。

1931年2月8日、蒋は胡を軟禁して反対意見を封じ込め、約法の起草を強行したが、これが悪手であった。

胡は、孫文の唯一の息子にして当時の鉄道部長である孫科に密使を送り、反蒋介石政権を建てるよう求めた。

この動きに呼応して、当時下野していた国民党のもう一人の重鎮、汪兆銘が広東派に合流し、反蒋連盟が結成された。

5月27日、南京政府を離れた広東派と汪兆銘を中心に、広州に国民政府が成立した。

満州事変当時、中国には南京と広州に国民政府があり、それぞれが正統な政府を主張していたのである。

ただし、日本は広州政府との関係を深めなかった。

広州政府には胡漢民から汪兆銘まで、国民党の有力者を網羅しており、南京政府との差をつける為、孫文の遺訓を持ち出して対日宥和を打ち出していた。

日本にとって望ましい交渉相手ではあるが、国際的に見て、中国の正式な政府は南京国民政府である。

広州政府は日本の関心を惹くために、満蒙権益の承認や不可侵条約を持ちかけたが、幣原は条約締結には広州政府が中央政府であることを前提とした。

満州事変当時、中国には南京と広州に二つの政府があった。

蒋は満州事変という禍を転じて広州政府解消という福と為す事を考え、対日宥和の外交方針を転換し、連盟提訴に打って出たのである。

審議の開始

9月22日、日中紛争を審議するための連盟理事会が開催された。

この時、連盟の日本代表として局にあたったのは、芳沢謙吉駐仏大使である。

連盟理事国は日英仏伊独、非常任理事国は中国、スペイン、グアテマラ、アイルランド、ノルウェー、パナマ、ペルー、ポーランド、ユーゴスラヴィアであった。

中国代表は日本軍が奉天から長春、撫順へと占領地を拡大しつつあり、その間にも省政府要人が逮捕されていると指摘。

事態不拡大、賠償、原状回復の決定を理事会に求め、日本軍の撤兵前に対日交渉に応じないと声明した。

一方の日本代表は、事件の背後には日本の満蒙権益を脅かす中国側の悪意があると強調し、居留民保護の為に諸都市を占領する必要があったと主張。

日本はこれ以上事態を悪化させるような意図がないとし、日中直接交渉により平和的に解決出来る旨を保証した。

このような応酬があったが、中国の期待に反して、理事国の関心は高くはなかった。

常任理事国である英は失業問題、仏はヴェルサイユ条約の制限撤廃を訴えるドイツ問題、独は賠償による財政危機を抱えていた。

特に英国は深刻な財政危機に直面しており、9月21日には金本位制停止に追い込まれていた。

各々が国内の問題に忙殺される中、列国にとって居留民も市場も極小な満州の紛争に介入する余裕などなかった。

英国も満州問題解決には中国が日本と直接交渉する必要があり、連盟理事会が取り扱うべきではないと考えていた。

中国が期待したような厳しい決議は出ず、これ以上の現状悪化や平和的解決を害する恐れのある行為を一切行わないよう、日中両国に通告した。

また、日中直接交渉の目的で、日本軍の撤兵を監視するオブザーバーの派遣を提案した。

不拡大声明

関東軍は現地居留民の保護を名目に満鉄付属地外の吉林に兵を進め、政府に対し事後承認を求め続けた。

政府は関東軍が吉林以外に派兵しないことを条件に追認するより外なく、連盟理事会の空気はにわかに緊張した。

そこで9月24日、理事会において日本代表は、以下日本政府の声明を発表している。

日本は満州に領土的野心を有しておらず、事態の拡大も望んでいない。

柳条湖事件については、中国軍の一部が満鉄を爆破し、日本の鉄道守備隊を攻撃したのが事実である。

この際、満州の日本軍の総数が1万に対し、周囲を22万の中国軍に包囲されたために事態が急迫し、居留民が重大な不安に陥った。

その為に、機先を制して危機の原因を取り除く必要があった。

満鉄付属地外の吉林への出兵も軍事占領が目的ではなく、在満邦人の生命財産と日本が正当に有する権益を保護する、自衛措置である。

脅威が除かれ、治安維持の目的を達成次第、直ちに軍隊は満鉄付属地内の長春に帰還するだろう。

こう述べた上で、満州問題の処理に関しては日中直接に委ねられたい、と主張した。

なお、芳沢は不拡大声明だけでは不十分であり、9月22日に連盟が提案したオブザーバー派遣を受け入れるべきだと進言した。

オブザーバー派遣は連盟理事会の立場から見れば、自らの権威を保ちつつ、満州問題を理事会から切り離せる、合理的な手段であった。

既に中国は連盟のオブザーバーに事実の調査を付託する用意があると表明しており、日本がこれに応じれば確実に理事会を打ち切ることが出来る。

むしろ、これに応じない場合、日本の意図に疑念を抱かれ

「遂には本邦もして世界全部の輿論を敵とし孤立無援の立場に陥り、友邦との経済断交を招来するが如き懸念なしとせず」

と、幣原に進言している。

これに幣原は、オブザーバー派遣には実益がなく、日本人の人心を刺激するとして、その必要性を全く認めなかった。

幣原は連盟理事会に対し、日本政府を信頼してオブザーバーなど派遣せずに、事態の推移を静観することを求めたのである。

理事会の閉会

理事会は幣原外交への信頼感もあって、不拡大声明に一安心した。

9月25日の理事会の空気はすっかり緩和され、日本軍の撤兵と中国の治安維持を求める議長声明を発して、終了した。

9月26日、幣原は閣議において、吉林駐兵が続けば外交交渉は困難になるとし、撤兵しなければ辞職すると南陸相に揺さぶりをかけた。

幣原の迫力に押され、南は満蒙問題の解決を条件に、必要最小限の部隊を残して撤兵に応じた。

日本軍が漸次撤兵中であるとの情報は連盟にも伝わり、日本は信用を取り戻し、本件は無事解決に向かうとの観測が流れ始めた。

9月28日には、日本政府は満州出兵の目的を、在満邦人の生命財産及び列国に認められている特殊権益の保護であること。

これは常識と慣例の範囲内、外交的保護権によるものであること。

また、満州の政治勢力が変化したとしても、その新勢力が日本の満蒙権益を責任を以て保護する限りは関与しないし、援助も与えない旨を声明した。

9月29日は連盟総会の最終日であり、中小国の間では、日本に何らかの行動を取るべしとか、平和維持に成功するまで総会を閉会しないという動きもあった。

だが、理事会一任ということで何ら決議が取られることもなく、総会は閉会した。

9月30日、英国はもはや連盟理事会の任務は終わったとし、今後は当事国同士が直接交渉によって問題を解決すべきだとした。

理事会は、在満邦人の生命財産の保護が確保されるに従い、満鉄付属地への撤兵を速やかに行う旨を勧告する決議を全会一致で採択した。

また中国に対しては、日本軍撤兵後に満鉄付属地外の邦人の生命財産の安全に対して責任を負う旨を求めた。

なお、中国は日本軍の撤退と原状回復を確実とするために、中立委員をオブザーバーとして満州に派遣するように求めたが、これは日本の反対によって成立しなかった。

こうして中国側の期待に反し、連盟理事会は対日宥和的に終わり、10月14日に再開予定として2週間の休会に入った。

この間に撤兵が進み、理事会を再開する必要がなくなったと判断されれば、打ち切られることとなった。

幣原は理事会を無事乗り切ったと判断し、連盟日本代表部の尽力に謝意を示している。

自衛権への疑義

日本政府は軍部も首相も外務省も、連盟の外交官も口を揃えて、これは日本軍の自己の義務であり、保護措置であり、自衛行為であると満州事変を正当化した。

当時の国民に事実を知る術はなく、国民は政府の発表を信用し、満州事変を支持した。

帝大の法学者、立作太郎教授も日本の自衛権行使を国際法上合法であると擁護する。

関東軍の行動は事態急迫に対する自衛権の行使であり、国際紛争解決を平和的に行うべき旨を定めた連盟規約12条には違反しない。

紛争解決の目的に行ったものでないならば、当然不戦条約第2条にも違反しない。

帝国臣民への生命財産の危害に対する自衛手段として兵力を使用した以上、当該地域の占領状態を維持し、治安維持にあたることは不戦条約に違反しないと説いた。

一方、早くも日本の自衛権行使に疑義を抱く人物も現れる。

それが帝大の横田喜三郎教授である。

1930年10月5日、横田は帝国大学新聞に「満州事変と国際連盟」と題した評論を寄稿した。

当時、連盟理事会が撤兵の勧告を行なった事に対し、不当な干渉であるとの声が方々から出ていた。

これに横田は連盟の勧告は妥当であるとし、その理由を日本の軍事行動が果たして自衛権の行使であったのかどうか、その解釈にあるとする。

「わずかに数メートル鉄道が破壊されたと伝えられる事件をきっかけとして、ほとんど南満州の要地が日本の軍隊によって占領された。

軍部は、最初から、まったく自衛のためやむをえない行為であると主張した。

しかし、厳正に公平に見て、はたして軍部のいっさいの行動が自衛権として説明されうるであろうか。

鉄道の破壊が事実であるとして、破壊しつつある軍隊に反撃を加えることは、たしかに自衛権の行使であろう。

あるいは、その軍隊を追撃して、北大営を占領したことも、自衛権だといえば、いえぬこともなかろう。

しかし、北大営に対する攻撃とほとんど同時に、奉天城内に対して攻撃を開始したことまで、自衛のためにやむをえなかったといいうるであろうか。

まして、鉄道の破壊に基く衝突から、わずかに六時間内外のうちに、四百キロも北方の寛城子を占領し、二百キロも南方の営口を占領したことまで、はたして自衛のためにやむをえない行為であったといいうるであろうか。

しかも、これらの占領は、ほとんど抵抗なくして行われたことを注意しなければならない」

つまり、中国軍が殆ど不抵抗であったのに、果たして本当にやむを得ない行為であったのか。

自衛権の範疇を超えているのではないかという疑義である。

仮に紛争解決を目的として自衛権を振るっているのであれば、明らかに不戦条約第2条に違反している。

「締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争又は紛議は、其の性質又は起因の如何を問はず、平和的手段に依るの外、之が処理又は解決を求めざることを約す」

日本の軍事行動全てが自衛権によって是認されるか否か、十分問題になる可能性がある。

いくら国際法の解釈を緩やかにしたとしても、北大営占領以降の軍事行動を自衛行為と解釈することは行き過ぎであろう。

そうである以上は連盟が事態不拡大を勧告することは、極めて適当な措置であると結論づけた。

横田の文章はかなり配慮が施されているが、注意深く読めば日本の自衛権行使の正当性を完全に否定している事がわかる。

この横田の評論に右翼は反発し「売国言動」「非日本人的所論」「学府に巣食う国賊」と人格攻撃を加えることになる。

日貨排斥の激化

満州事変当時、中国は長江の大水害により広範囲が被災し、被災地では餓死や疫病が蔓延していた。

日本は、この中国人の苦境に乗じて東三省を攻撃し、中国全体に非常に大きな衝撃を与えた。

国民党は世界の歴史に先例がない野蛮暴虐の行為であると宣伝し、報道機関では関東大震災の時に日本を攻撃するようなものだと報じられた。

中国の世論は対日強硬に急速に傾斜し、中国全土に排日の機運が高まる。

9月18日以降、東北部から避難民が流入してきた北平(北京)では、学生を中心に対日ボイコット運動が高まった。

上海でも学生たちが抗日団体を組織し、南京の学生もこれに触発されて、政府に対日宣戦布告を迫るデモを行った。

デモ隊は「日本帝国主義打倒」のスローガンを掲げ、不抵抗外交の責任者と目された王正廷外交部長の辞職を強く求めた。

ついに9月28日、王正廷は暴徒と化したデモ隊に襲われ、重傷を負い、外交部長の座を退くに至った。

政府は対日強硬な学生運動の対策に苦慮しつつ、愛国的な運動を弾圧するわけにもいかなかった。

彼らが南京政府を見限れば、広州政府や共産党の影響力が増大することが目に見えていたからである。

10月、上海の反日団体は対日経済絶交を決議し、日本製品のボイコット、日本商船の不使用、日本貨幣による商取引禁止等を規定。

その違反者は売国奴として財産没収、市中引き回し、果ては極刑まで、厳罰を与えられた。

このような排日が中国全土で吹き荒れ、対中貿易は31年9月以降前年比8割減まで減退し、日本経済に深刻な悪影響を与えた。

それだけでなく居留民の日常生活にも影響が出始める。

居留民たちは生活に必要な米や炭が購入出来ず、あらゆる電信や郵便などあらゆるサービスの利用も妨害され、身体も危険に晒された。

日貨排斥が国民党、中国政府の直接・間接的な指導の下に行われているのは明白であった。

10月9日、日本は中国に対し、排日ボイコットは武力によらない敵対行為であるとし、国民政府が取り締まりに責任を負うべきであると抗議した。

確かに私的団体が、日貨排斥に応じない個人に対し刑罰を課すなど不法にも程があるし、中国の官憲はそれを黙認していた。

ただし日本は現在進行形で中国の領土を占領し、主権を侵害し、無抵抗な都市に砲撃を加え、私人・公人の財産を没収している。

中国政府は、そのような日本の暴挙に対する中国人民の怒りが、わずかにボイコットに限られていることは驚異的であると反論した。

そして不買運動は個人の権利であり、中国政府としては一切これに干渉できないと突っぱねた。

一併解決

連盟審議は日本側の有利のうちにひと段落ついた。

幣原は陸軍を抑えつつ、連盟の関与を抑え、事変解決の道筋をつけた。

あとは理事会が再開する10月14日までに満鉄付属地内への撤兵を進め、速やかに中国側の行政機関を復帰させれば、問題は無事解決である。

蒋介石も日本軍撤退地域の司令官として張学良を任命し、張に秩序回復の責任を負わせる旨を日本政府に提案している。

この際問題となるのは、撤兵時期である。

10月1日、閣議において、在満邦人の生命財産の安全確保の目処が立ち次第、原状回復を行うとの方針が決定された。

だが、幣原が理事会再開までに撤兵した後に日中直接交渉に入るべきと主張したのに対し、南は満蒙の諸懸案解決前の撤兵に反対し、閣内不一致の様相となった。

関東軍を鉄道附属地外に駐屯させたまま交渉に臨むというのは、国際紛争の平和的解決とは到底言えず、連盟規約、不戦条約に抵触しかねない問題である。

ここで重大なのは、閣内が居留民保護のために出動した関東軍の圧力を満蒙問題解決に転用する、一併解決方針に傾いていた事である。

中国の排日の激化が、軍部の強硬論の正当性を裏付け、閣僚たちを硬論に導いた。

現に、中国各地の租界・居留地からは、日貨排斥の不法を訴える声が続々と届き、メディアもその苦境を連日のように報じた。

閣僚たちは満蒙諸懸案の解決を強く望み、幣原外交を手ぬるいと感じるようになり、幣原は閣内で孤立を深めていった。

そしてこの間も、軍部は在満邦人の安全に目処がつかないとして、撤兵を実施しなかった。

満蒙分離

更に厄介な問題として、交渉相手問題が浮上する。

当初、満州事変の首謀者である石原莞爾ら関東軍参謀は、満蒙領有を主張していた。

だが、これが陸軍中央の支持を得られないと判断するや領有を諦め、妥協案として、満蒙に新政権を樹立させ、これを日本が指導する、満蒙分離策を挙げた。

これが陸軍中央の部長・次長クラスの将校の賛同を得ることに成功した。

陸軍は張学良や南京国民政府は排日運動を扇動する敵対行為を働いていると認識し、それと交渉しても満蒙問題は解決しないと認識していた。

よって、事変を速やかに解決するには、政権工作により満蒙に実力のある新政権を樹立し、それと直接交渉すれば良い。

満州事変直後から関東軍は奉天軍閥内の有力者の抱き込み、買収、威圧を行い、満州各地に地方政権を誕生させていった。

これらをまとめ上げ、清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀を推戴し、満蒙に中国から独立した新国家を誕生させる計画を立てた。

関東軍の構想に共鳴し、陸軍中堅将校が陸軍大臣・参謀総長を満蒙分離で突き上げ始める。

10月4日、関東軍司令部は、張学良軍の残党が集団で不法行為を働いていると指摘した上

「借問す、これらの徒輩を隷下とせる旧東三省政府に対し、同等の位置に立脚して国際正義を論じ得べきや、外交交渉を談じ得べきや。

今や政権樹立の運動各所に発生し、庶民斉しく皇軍の威容を謳歌するも、旧頭首を推戴せんとするの風微塵もなし」

と声明し、張学良政権の否認と、満蒙新政権を歓迎する態度を明らかにした。

10月5日、杉山元陸軍次官と二宮治重参謀次長が会談し、満蒙諸懸案の交渉相手は満蒙新政権とし、蒋介石や張学良とは交渉しない方針を承認した。

10月6日、南陸相は部内の突き上げを受け、満蒙問題は満蒙で解決する満蒙分離策を表明した。

これに幣原は新政権との交渉は細目に止めるべきで、中央政府と直接交渉しなければ外交の成果は上がらないと反論する。

だが、若槻首相や軍部大臣、井上準之助蔵相ら主要閣僚が協議した結果、満蒙新政権に日本人が関与しない事、政権の性質を問わない事、新政権に対し満蒙権益の擁護と治安維持の刷新を求める事で一致。

10月8日には陸軍三長官会議が、時局処理方策として、中国本土から分離した満蒙新政権と交渉し、満蒙懸案を解決する事に決定した。

若槻首相はこの方針を大体了解し、閣僚も裏から政権工作するならばやむを得ないという態度となった。

井上蔵相に至っては、満蒙新政権樹立まで待てないので、速やかに現存の地方政権と交渉すべしと、強硬に主張するようになった。

こうして閣内は張学良の排斥と新政権樹立、軍隊を駐留させたまま諸懸案を一併解決する方針で一致してしまった。

錦州の衝撃

連盟理事会で交渉にあたった芳沢は、もはや連盟の道義的圧力を前にしては日本も無関心であることは出来ないと感じた。

また、中国が今度も事あるごとに連盟を利用するのではないかと懸念し

「今後共あくまで公正の態度を持し、出来得る限り中国側に乗せらるる機会を少からしむる様善処するの要あり」

と、幣原に進言しているが、日本の公正の態度は取られることはなかった。

10月8日、満州で衝撃的な事件が発生し、世界に衝撃が走った。

満州事変のターニングポイントの一つである錦州爆撃である。

張学良は奉天が陥落した後、錦州に行政府を移転させ臨時省政府を設置したが、関東軍は中央に無断で、この拠点を無警告空爆した。

宇垣一成は空爆について

「飛行機上よりする爆撃に対する欧米人の心理状態は余程深刻なるものがある。

それは数年にわたる大戦中の実物教授より体得したるものである。

それらの呼吸は若き将校共には理解されて居らぬ。

無造作の考えで錦州を爆撃し、それが連盟及び世界の空気を一時的たりもと日本に悪しくなりたし如きは、余り賢明のやり方ではない」

と、列国に対する悪影響を憂慮している。

それだけでも大問題であるが、奉天とは違い錦州は満鉄沿線でも何でもない、日本の権利が及ばない、れっきとした中国の領土である。

それまで日本政府は、軍事行動を居留民の生命財産や鉄道権益の保護を目的として自衛行動であると正当化してきた。

この主張は連盟理事会でも受け容れられ、撤兵交渉を行うために2週間の猶予を日本に与えた。

錦州爆撃は、日本政府の主張、正当性、大義名分、国際的信頼に大打撃を与えた。

錦州爆撃を企図した石原莞爾は「外務省の不拡大方針と国際連盟理事会が、吹っ飛べばいい」と語ったが、文字通り全てを吹き飛ばした。

当時、連盟に派遣されていた外交官の伊藤述史は、錦州爆撃の一報に接したジュネーヴの様子をこのように述べている。

「あたかも雷が落ちて来たが如く、殆ど連盟全部が震動した」

もはや居留民の保護では日本の立場を擁護出来ず、日本の外交方針も大転換を迫られることになった。

同日、連盟代表部の芳沢は幣原に対し、以下のように進言する。

「我方論拠を生命財産保護論に加え、事変の真因たる条約尊重論に立脚して論陣を張ること」

つまり、満州事変の遠因は中国の条約違反から始まっており、日本の出兵目的は中国側に条約の権利を尊重させることにあるというのだ。

幣原はこの提案に賛同し、満蒙における日本の条約上の権利や歴史的経緯を語り、満蒙権益に対する脅威は日本国民の生存を脅かすものであり

「事変の由来は遠大にして深刻であり、本件の根本的禍因に触るる所なくこれを偶発的事件として処理するが如きは日本国民の到底承認し難き所なり」

との立場を取るように、芳沢に指示した。

ここに満州事変の正当性は、居留民の保護から満蒙権益の擁護にシフトした。

外交の大転換を受け、対中宥和外交を主導してきた重光公使も、満州事変の責任は中国政府にあると厳しく糾弾した。

つまり、中国政府が国策手段として排日運動を指導し、武力に依らない敵対行為によって関東軍を挑発し、日本は自衛措置を取らざるを得なくなったというのだ。

この論理は、対中外交に苦心してきた出先外交官たちに受け入れられ、外交は一気に強硬論に傾いてゆく。

五大綱目

錦州の衝撃の中、幣原は理事会再開までに日中直接交渉を開始し、事態は解決に向かっていると内外にアピールする必要があった。

それに失敗した場合、満州問題に連盟が、ひいては米国が介入する可能性が浮上するだろう。

ただし、国内では満蒙諸懸案解決の為に、張学良を排除して新政権と交渉すべきという、軍部や閣内の圧力もあった。

そこで幣原は「責任ある中国の代表者」との間で、日中両国の平常関係の基礎となる大綱を協定。

これを以って双方の国民感情を緩和させた後に日本軍が撤兵し、中国側に占領地の引き継ぎを行う旨を提起した。

10月9日、幣原は南京政府との交渉案として、撤兵条件に関する以下の5つの大綱を閣議に提出し、閣内の諒解を得た。

第一項、侵略的政策や行動を取らない事を相互に宣言し、極東の現状を維持する

第二項、扇動・組織的ボイコット・排外的教育等の敵対的運動を禁止する

第三項、日本は満州を含む中国の領土保全を尊重する方針を確言する

第四項、中国は「平和的商務」に従事する在満邦人に有効なる保護(商租権・不当課税の解決)を与えることを約定する

第五項、満州の鉄道に関し、友好的協力・破壊的競争防止の為、満鉄と「東北諸省の関係官庁」との協定を結ぶ

この綱目には、日貨排斥問題、満鉄問題、商租権問題等、日中懸案事項が含まれている。

それを撤兵条件として解決しようなどとは、紛争の平和的解決を規定する連盟規約に違反する危険性があった。

また、満蒙問題について「東北諸省の関係官庁」という婉曲した言葉が見られるが、これは満蒙新政権・地方政権との交渉に含みを持たせている表現である。

幣原は、従来の外交方針に、軍部や井上蔵相の意見を容れざるをえなかったのだ。

ここに、幣原が唱えてきた撤兵を行なった上での交渉は放棄され、大綱先決、懸案の一併解決が外交方針として確定した。

五大綱目は、幣原の閣内における影響力の低下が如実に表れていると言えよう。

ジュネーヴ風雲急

中国は提示された五大綱目に対し、撤兵前の交渉は容認出来ないとして、日中交渉を拒否した。

特に4項、5項の懸案を関東軍の圧力を受けながら交渉するなど、とてもではないが応じられない話であった。

10月10日、中国は錦州爆撃の情報を添え、至急理事会を再開するように連盟に求めた。

中国の要請を受け、レルー理事会議長は14日再開予定を1日繰上げ、10月13日に理事会招集の旨を通告した。

日本は理事会再開前、錦州爆撃について、偵察に赴いた日本軍機が中国軍に狙撃され、それに対抗した自衛的反撃であると主張した。

このような自衛権による正当化も限界に来ており、来るべき理事会は日本にとって今までにない厳しいものになると思われた。

それは、英仏伊が理事会に外務大臣を送り込み、理事会議長もレルーから熟練の外交官であるアリスティード・ブリアン仏代表に交代した事からも伺えた。

10月13日、再開された理事会において日本代表は、日中直接交渉によって事態の収集を求めているのに、中国側が依然として交渉開始の意思を行わない事。

事変の原因は中国側の排日運動にあり、中国側は誠意ある態度に出て、直接交渉に応じるべきだと主張した。

これに対し中国代表は、9月18日の事件以来、中国軍が反撃を控え、一切の解決を連盟に委ねている態度を力説した。

また、日本側が訴え始めた排日運動に対しても、日本が中国領土を占領する限りは沈静化はしないだろうと告げた。

そして、日本軍の撤兵が完了しない限りは、日本との直接交渉に応じるのは不可能であると述べた。

この演説の最中、日本軍が満鉄付属地外の打虎山を爆撃したという同日付の電報を披歴し、日本の立場を追い詰めてゆく。

10月14日、日本は中国に提示した五大綱目を理事会に示した。

ブリアン議長は、五大綱目の第五項のような満蒙問題解決を、撤兵条件に含めたことに難色を示した。

英国も、第五項を撤兵条件とした場合、撤兵がいつ行われるのか不明であり、連盟としてはこれを認められないと注意した。

そもそも9月30日の理事会決議は、居留民の生命財産の保障を条件とした撤兵を勧告しており、日中の懸案問題とは別個なはずである。

日本が受諾した理事会決議に反し、また日本が示してきた方針に齟齬がある五大綱目に、連盟代表部は非常に苦しい立場を強いられた。

連盟代表部の松平恒雄駐英大使は、事変に乗じて諸懸案を精算するような態度は不自然であると批判した。

佐藤尚武駐ベルギー大使も、五大綱目第五項に対しては、以下のように警告している。

「日本は出兵を機とし年来の紛糾せる鉄道問題を解決せんとするものなりやの感想を抱かれる怖れあり」

このような進言に対し、幣原は五大綱目を協定せずに撤兵を実行すれば9月18日以前の危機を再現するのは明白であるとし、大綱先決の姿勢を取るよう示した。

米国オブザーバーと手続き問題

ジュネーヴで理事会が再開された他方、それまで静観を保ってきた米ワシントンでも動きがあった。

ヘンリー・スティムソン国務長官は幣原の駐米大使時代を知り、その手腕を高く評価し、幣原外相が外交のコントロールを取り戻すだろうという期待を抱いていた。

よって、幣原ら穏健派の妨げにならないよう行動を差し控え、幣原への消極的支援を通じて日本国内の強硬派を抑えようと考えた。

ところが、錦州爆撃は武力による紛争の打開であり、明らかに連盟規約や不戦条約の義務とは相容れないものであった。

「世界を国際生活の高い水準に置くという大戦後のこの偉大な努力が危機に晒されている。

これら諸条約の義務は完全に侮蔑されており、まるで存在しなかったかのように取り扱われている」

スティムソンは激怒し、一気に態度を硬化させ、連盟との共同行動や理事会への関与を模索するようになる。

一方で連盟理事会にとっても、日本が決議を遵守しない以上、米国抜きにして解決策を見出すのは難しい状況にあった。

そこで、理事会の審議や関連文章等、議事全てを、不戦条約及び九カ国条約締結国たる米国に通報し、協力を模索していた。

ここに連盟と米国の思惑は一致し、ここに米国をオブザーバーとして連盟理事会に招請する案が急浮上した。

この際、障壁となるのは、米国が連盟加盟国でない事である。

10月14日、日本は米国オブザーバー案の内示を受け、非連盟国の招請は前例がなく連盟規約にも抵触するものであると、強硬に反対した。

その前例がないオブザーバーが満州事変の討議に限り参加するなどは、連盟が米国と共同して日本を威嚇しているのではないかと反論した。

日本の米国オブザーバー案に対する反対意見は筋が通っている。

連盟非加盟国の米国は、連盟に対し何ら責任がないのに、どのような立場で連盟に関連する議論に参加するのか。

理事国同様の義務を負って理事会に出席する権利を得るのか、法的に非常に曖昧な問題であった。

10月15日、理事会非公開会議において、日本以外の理事国はこの難問に対し手続き問題で強引に押し通ろうとした。

連盟規約第5条第2項には総会・理事会の手続きに関して、このように定められている。

「連盟総会又は連盟理事会の会議に於ける手続に関する一切の事項は、特殊事項調査委員の任命と共に、連盟総会又は連盟理事会之を定む。

此の場合に於ては、其の会議に代表せらるる連盟国の過半数に依りて、之を決定することを得」

つまり過半数の評決で手続きを決する事が出来るのだが、果たして非加盟国のオブザーバーは単なる手続き上の問題であるか。

日本は連盟規約上の疑問があり、組織運営に関する重大問題であると位置づけ、法律家委員会を設置し、研究することを提議した。

この原則論に対しブリアン議長は、審議がまとまらないので法律問題を留保し、招請の事実問題について賛否を決することで決した。

こうして日本のみ反対票を投じ、米国のオブザーバー招請が手続き条項として成立した。

不戦条約の発動

日本にとって米国の介入は、最も恐れていた事態の一つである。

仮に連盟が日本が承認しがたい決議や宣言が出した場合、日本はそれに反対投票か棄権し、俄然脱退に突き進むかもしれない。

その場合、日本の脱退で審議が打ち切りになり、日本は連盟問題から解放される。

しかし、米国が連盟と共に行動した場合、問題は脱退だけでは済まされなくなる。

何故ならば満州事変は不戦条約や九ヵ国条約に違反している可能性が高く、次なる交渉の舞台はジュネーヴからワシントンに移るからだ。

日本はもはや、国際的な世論を無視出来ない状況にあった。

米国のオブザーバー参加は、連盟規約が不戦条約、九ヵ国条約とリンクし、日本に強烈な道義的圧力を加えるに至ったのだ。

幣原はなおも米国のオブザーバー参加に反対したが、代表部の佐藤尚武は以下、意見を具申している。

「日本は欧州問題については連盟の擁護者たるも、自己に直接関係ある問題については連盟の排斥者たるべく、右は決して世界の輿論を我に有利ならしむる所以にあらず」

現地の外交官ほど、世界の輿論の圧力を肌で感じていたのだ。

10月16日、米国のジュネーヴ総領事であるプレンティス・ギルバードがオブザーバーとして理事会に出席した。

日本も対米関係まで悪化させたくないので、オブザーバーの法律問題を留保せざるをえなくなった。

10月17日、日中を除く理事国代表と米オブザーバーが協議し、日中両国に対し、不戦条約第2条の注意を喚起する旨を決定した。

満州事変は「事変」という言葉から分かる通り、法的な意味での「戦争」ではない。

日本は「事変」を自衛権の行使であり、不戦条約に照らしても合法的な軍事行動であると主張した。

ただし、実際日本が行っているのは、戦争と何ら変わらない大規模な武力行使である。

そこで米国と理事国は、法的な意味での戦争に至っていない満州事変を、不戦条約第2条の平和的手段に反する違法であると見なした。

10月18日、英仏伊独とスペインは不戦条約署名国として日中両国にこれを通告し、ここに不戦条約が発動した。

不戦条約は警告の形で国際世論を喚起し、連盟理事会はその警告に権威を与え、両者は結合したのだ。

期限付き撤兵案の行方

10月18日、不戦条約の圧力を追い風に、理事会は日本に対する強硬な決議草案を用意した。

その決議案は、決議後、3週間の期限以内に日本軍は撤退すること。

日本が求める大綱協定の交渉は、撤退が完全に済んだ後に開始されること。

また、撤兵地域における在留邦人の安全保障を監視する為に、オブザーバーを派遣すること。

これらは中国の要求に極めて近く、日本にとっては今までにない厳しい決議案であった。

しかも理事会は連盟規約第10条の義務を喚起し、強いトーンとなった。

「連盟国は、連盟各国の領土保全及現在の政治的独立を尊重し、且外部の侵略に対し之を擁護することを約す」

つまるところ、撤兵条件に懸案解決を含めることは、連盟規約第10条違反であると示唆したのだ。

これに対し幣原は、日本の軍事行動は中国軍や匪賊の無法な攻撃に対する自衛であり、満鉄と在満邦人の生命財産保護に必要な措置である。

決して中国との諸懸案を解決する為に戦争に訴えているわけではない。

国民の不法を容認している中国こそが、不戦条約第2条の精神に合致していないではないか。

連盟の態度は日本の死活的利益が危険に晒されているとの実態からかけ離れており、公平さを欠くと激しく反発した。

この決議を日本に呑ませるには、大使引き上げや除名、経済制裁といった対日圧力をかける必要があった。

ところが、連盟理事会が期待した米国の圧力は無かった。

米国政府はオブザーバー派遣にあたり、不戦条約に関する限り理事会に出席するという条件を付していた。

米国の理事会出席は、不戦条約署名国(理事国)が米国の代表を通じて条約に関する討論を望んだ、という論理であったからだ。

米国としても不戦条約以外の、連盟の原理原則に巻き込まれ、その責任を被るまでの覚悟はなかった。

また連盟への協力に対する世論も低調で、米国が加盟したと思われないよう細心の注意を払っていた。

非加盟国の理事会参加はそれだけハードルが高いものであった。

不戦条約の発動後、ギルバードは理事会の議論に深入りせず、オブザーバーに徹し、数日後には退席してしまった。

米国の連盟協力が消極的かつ限定的であった事が判明し、対日圧力は骨抜きになってしまった。

13対1

10月20日、理事会の意見と日本側の要求を汲み、ドラモンド事務総長が3つの案を提示した。

1、理事会は日中双方に撤兵及び居留民の安全保障についての直接交渉を勧告し、理事会を3週間延期し、交渉の結果を確認後に再開する

2、中国側が五大綱目を正式に受諾し、理事会を3週間延期し、交渉の結果を確認後に再開する

3、両案が受け入れられない場合は、紛争当時国を除く理事国全部が賛成する期限付き撤兵案を示し、日中両国の意見を求める

ドラモンドの案は、日本の五大綱目を9月30日理事会決議の範囲内であると認めており、最大限の譲歩であった。

連盟代表部は直ちに第1案の採用を幣原に進言した上で、五大綱目のうち、理事会で問題視されている第5項の再考を求めた。

幣原も第1案を受諾するために、閣内で奔走した。

五大綱目第5項から鉄道問題を除外し、満州における条約の尊重という表現に修正して、閣議の了承を得た。

また日中直接交渉については中国の態度如何であるとし、交渉経緯を随時報告する代わりに理事会の再開期限を設けないという条件で、陸軍を説得した。

こうして10月22日、幣原はドラモンド第1案の受諾を訓令した。

ところが理事会はドラモンド第3案を採用し、直ちに10月18日の決議案を討議することに決した。

実は、ドラモンド三案の背景には、常任理事国の英国の事情があった。

英国では10月27日に総選挙が控えており、代表として理事会に参加しているジョン・サイモン外相は帰国を焦っていた。

英国の意向を受け、理事会はドラモンド三案の回答期限を10月22日10時30分に設定し、しかもこの期限の存在を日本に知らせていなかった。

幣原の訓令がジュネーヴに届いたのは22日15時であり、とっくにこの期限を越えていた。

日本とジュネーヴとの距離(電信に7時間を要する)そして電報の暗号を解読する時間を考えれば、このような期限はどだい無理があった。

ドラモンド第1案受諾で閣内・軍部を調整しながら不首尾に終わり、幣原の立場は窮地に追いやられた。

10月24日、連盟理事会に10月18日草案を基礎とする期限付き撤兵決議案が提出された。

撤兵期限は次回理事会開催日である11月16日までとし、日中両国は速やかに撤兵し、撤兵完了後、直ちに交渉を開始するよう求めた。

また、日本に対し、領土的野心を否定し、連盟規約及び九カ国条約を尊重するよう求めた。

中国は決議案受諾を表明する一方、日本は拒否する構えを見せた。

結局、決議案は賛成13票、反対は日本の1票のみであった。

連盟規約第5条1項は理事会決議の原則全会一致を定めていた為に採択に至らず、11月16日まで休会となった。

期限付き撤兵決議は成立しなかったとはいえ、理事会決議は日本の孤立を浮き彫りにし、幣原外交に大きな痛手を与えた。

広州と南京

連盟決議を否決した以上、残された道は、もはや日中直接交渉による打開しかない。

幣原にとって広州国民政府の存在は、その打開策の唯一の希望ともいえる。

広州政府にとって満州事変は、蒋介石を失脚させ、張学良を排除する、またとない好機であった。

しかも蒋が日本との直接交渉ではなく連盟提訴を選択したために、広州は日本にとって交渉相手に浮上した。

満州事変直後の9月22日、広州国民政府の陳仁友外交部長は幣原に対し、以下の交渉案を申し入れる。

満州については統治委員会を設置し、中国軍については治安維持に関係するもの以外は置かず、主な警備については日本軍に依る。

つまるところ、張学良を満州から排除し、満州に広範な自治政府を建て、日本の要求も汲むことで特殊地域化しようというものである。

幣原は交渉相手を南京・張政権とする意向から、この提案への意見を開示しなかった。

一方、蒋介石にとって広州政府の対日宥和路線は厄介であった。

連盟が何ら有効な満州事変の解決策を出せない中、今更対日直接交渉に応じることが出来ないからである。

それは連盟を通じた抗日外交の誤りを自ら認めるようなものであり、南京政府の外交のイニシアティブを一気に喪失しかねない。

南京政府は対日強硬外交に拘束され、柔軟さを失った。

蒋は10月24日の理事会決議案を高く評価し、日本に対し11月16日までに撤兵するよう批判した。

撤兵前に行われる交渉に関しては、撤兵の手順や占領地の接収事項に限るとし、五大綱目と撤兵を明確に分けるよう、強く求めた。

それだけでなく対華二十一ヶ条要求に言及して、五大綱目を不当性を訴え、日本の特殊権益そのものを否定する動きを見せていった。

英米に対しては日本の撤兵を監視するオブザーバーの派遣を求め、あくまで連盟と連携する方針を崩さなかった。

10月26日、日本政府は第二次声明を発表し、日本の出兵目的は居留民の保護にあり、日中間の紛争を武力的に解決するものではないと宣言。

そして五大綱目を世界に公表し、第5項における要求を満鉄問題から「満州における帝国の条約上の権益尊重に関するもの」に書き換えた。

このような譲歩を見せつつ、中国に対して大綱協定と撤兵の交渉を開始する用意があると表明した。

だが、当然のように蒋はこれに応じる事はなく、連盟規約第13条に則り、日本との紛争問題を仲裁裁判書に付する意向すら示した。

外交を国内の政治闘争に利用し、日本との直接交渉に頑なに応じない蒋の姿勢に、出先外交官は不信感を抱くようになる。

南京政府との交渉の糸口を探していた重光も、蒋介石政権が続く限りは交渉は極めて困難であり、政情の混乱は避けられないだろうと見限った。

南京・広州合作

事変直後、蒋は満州事変を国難と位置付け、中国全土に全国一致を呼びかけ、広州政府には大同団結を申し入れた。

南京・広州の合作により内戦を終息させる為に、9月29日に和平会議の予備交渉がもたれた。

そこで広州は政治の責任を蒋に求め、蒋の下野と同時に広州政府を解消する条件を挙げ、一旦合意に至った。

蒋も宥和姿勢を見せるために、10月14日に胡漢民の軟禁を解き、南京・広州合作の機運は高まった。

ここで中国が一つになれば、対日宥和的な広州派が勢力を拡大し、中国政府は改組され、日中直接交渉の途が開く可能性は高かった。

胡漢民も国難を救う為には日本との直接交渉も不可ではないとし、広州派は日本との交渉に臨む姿勢を見せた。

ところが、合作に向けた和平交渉は難航した。

10月22日、蒋は予備交渉で約束した自身の下野問題について難色を示した。

その上で、政府改革案として行政院長の権限拡大や軍総司令を廃止する等、主席独裁制を解体する構えを見せた。

これに呼応したのが広州政府に合流していた汪兆銘である。

汪は蒋の独裁制さえ阻止できればよく、南京政府復帰後の猟官を視野に、蒋支持を打ち出すようになった。

10月26日、和平会議が開始されるが、汪一派の離反を受けた広州政府の影響力は急速に衰えていた。

11月7日、上海和平会議は南京・広州合作を決議したが、その中には蒋の下野や外交政策の転換も無かった。

和平会議が広州政府にとって不首尾に終わり、日中直接交渉開始の見通しは失われた。

幣原外交の後退

日中直接交渉が暗礁に乗り上げ、連盟における孤立も明白となり、幣原は守勢を強いられることになった。

11月5日、幣原は芳沢代表に対し、五大綱目締結後の撤兵について

「目下満州各地に設立せられ居る治安維持会をして警察力を充実し、帝国臣民の生命財産の安固を確保せしむる様取り計らい」

その目的達成後に行うべきであると伝えた。

幣原は中国の内政状況では、交渉相手となりうる責任者がいないと断定。

撤兵は、満州各地の治安維持機関の充実を待ち、居留民の安全確保の段階に応じて、日本が自発的に行うしかないと考えるようになった。

幣原はこれを、外交と内政が折り合える最後の妥協点であると考えた。

軍部の進める満蒙新国家工作は、中国の主権の否定であり、明白な九カ国条約違反である。

これを絶対に阻止するために、幣原は自ら硬論を打って、外交の主導権を取り戻そうとした。

陸軍に配慮しなければ外交方針も立てられない状況にあっても、幣原は交渉妥結の自信を崩さず、以下のように豪語してみせた。

「私が今日まで築いてきた国際的信用があればこそ、日本はこの難局を何とか切り抜けているのであって、私が辞めたら誰が後をやれますか」

しかし、幣原外交の後退の中で、幣原の支持は急速に失われていた。

11月19日、元老西園寺公望は宇垣一成に対し、幣原外交についてこのような感想を洩らしている。

「定石で間違いなきものとして余も今日まで支持し来りしも、如何に正しき事でも国論が挙げて非なり悪なりとするに至りては、生きた外交をする上には考え直さねばならぬ事である」

西園寺は幣原の後援者の一人であり「近頃なき出来の良い外務大臣」と高く評価していた。

その西園寺ですら、幣原の支持に留保をつけざるを得なくなったのである。

更に、有田八郎在オーストリア公使は、幣原の態度をこのように批判するのである。

「微妙の説明は到底外部を納得せしめ難く、結局世界をして日本のいう生命財産の保護云々は、懸案解決の為にする保障占領並びに自己に都合良き政権の確立を期せんとする口実に過ぎずとの感を抱かしめ、説明すればするほど、その疑念を深むる傾向あるは、誠に遺憾に堪えざる所なり」

恐怖の連盟規約第15条

理事会の再開日である11月16日が迫り、連盟代表部は何らかの解決策を用意せねばならなくなった。

このままでは、中国が規約第11条による解決が困難であると判断し、連盟規約第15条に基づく紛争解決手続きが開始されかねないからである。

「連盟国間に国交断絶に至るの虞ある紛争発生し、第13条に依る仲裁裁判又は司法的解決に付せられざる時は、連盟国は、当該事件を連盟理事会に付託すべきことを約す」

紛争解決手続きは臨時理事会によって審議される。

この臨時理事会が従来の第11条手続き下の理事会と異なるのは、全会一致の原則が適用されない事である。

まず、第15条4項は、理事国の過半数の評決により、韓国を載せた報告書を作成出来る。

「紛争解決に至らざる時は、連盟理事会は、全会一致又は過半数の表決に基き当該紛争の事実を述べ、公正旦適当と認むる勧告を載せたる報告書を作成し之を公表すべし」

この報告書が、紛争当事国を除く理事国全部の同意を得た場合、連盟は報告書の勧告に応ずるよう、紛争当時国に訴える事が出来る。

それが第15条6項である。

「連盟理事会の報告書が紛争当事国の代表者を除き他の連盟理事会員全部の同意を得たるものなる時は、連盟国は、該報告書に勧告に応ずる紛争当事国に対し戦争に訴えざるべきことを約す」

日本は紛争当事国であり、10月24日決議案を常任理事国である日本単独の反対票で葬ったような、拒否権が行使できなくなる。

そして、臨時理事会が紛争解決のために具体的な採決を行い、それに日本が服さない場合、つまり15条違反と認められた場合は、連盟規約第16条に移行する。

「第12条、第13条又は第15条に依る約束を無視して戦争に訴えたる連盟国ハ、当然他の総ての連盟国に対し戦争行為を為したるものと看倣す」

それは日本に対する経済制裁発動を意味する。

連盟代表部にとって、第15条適用による臨時理事会開催は何としてでも阻止したいところであった。

そして、それは実の所、連盟もそうであった。

第15条提訴となれば、連盟が直接紛争処理にあたり、重大な責任を負うことになりかねない。

だが、米国の圧力が期待出来ない以上、第15条を以てしても満州問題を解決することは難しいだろう。

ドラモンド事務総長は、連盟の無力が全世界に暴露され、権威を失墜させる事を非常に懸念していたのだ。

調査団派遣の提案

11月8日、駐伊大使の吉田茂はある打開策を持ち出した。

まず吉田は大前提として、満州は匪賊が跋扈して治安が悪化しており、撤兵には治安維持組織の充実が必要である旨を挙げる。

その上で、連盟に中国の現地調査をさせ、その内政の暴状を知らしめることで日本の立場を理解させ、中国にも反省を求めるべきである。

連盟が今まで求めてきたオブザーバー派遣を受け入れる事が、日本の方針を貫徹する唯一の途であると意見具申した。

これを受け、幣原は11月15日、来るべき理事会の再開に向け、連盟代表部に対しこのような電報を送っている。

今次の紛争の原因について

「支那革命外交の暴状が連盟規約、不戦条約の規定に正面より抵触することを巧みに避けつつ、その精神を蹂躙して組織的に逐次列国権益の侵害、駆逐を計り、結局満州における我が重大権益を根底より覆さむとするまでに及びたるに端を発したるもの」

であり、この現状を理事会に啓蒙する必要がある。

そこで日本から連盟に対し、視察団の派遣を要求することも一策である、と。

打開策を見出せない連盟にとって、調査団派遣は喉から手が出るほど欲しかった提案であった。

連盟は期限付き撤兵に固執しない事を表明し、懸案に関する日中交渉にも出来る限り好意的に応じる姿勢を見せた。

11月16日、理事会は再開されたが、中国代表は日本軍の実態を次々ともたらした。

日本軍は現地で公文書を押収し、土地の所有権や鉱山の採掘権を偽造している。

奉天の税関は襲撃され、正金も塩税収入も差し押さえられた。

更に、公的機関に日本人顧問を派遣し、地方政権の傀儡化を図り、あまつさえ反政府勢力に武器を供与している。

これらの行為は居留民保護とは何ら関係はなく、連盟規約、九カ国条約、不戦条約違反は明白である。

中国代表は第15条及び第16条適用の見解を理事会に求めた。

11月18日には関東軍が北満州のチチハルを占領し、続く19日には宣統帝溥儀が満州に入り、状況は更に悪化してゆく。

もはや五大綱目先決による撤兵では収まらず、このままなら行くところまで行きかねない。

11月19日、幣原は調査団派遣受け入れの了承を若槻首相から得た。

調査団を通じ、満州に匪賊が横行して治安が悪化し、日本軍の保護措置がやむを得ない事。

中国政府が条約履行能力を欠いて無政府状態に陥り、近代国家の体をなしておらず、交渉相手としては満蒙新政権が最も適切であることを理解させようというのだ。

なお、この際、連盟代表部は五大綱目先決による交渉方針を認めさせることは困難であると具申し、幣原も要求取り下げを承諾した

11月21日、日本は理事会に、問題の基本的解決には満州・中国の全体的な理解が必要であるとし、中国現地への調査団派遣を提議した。 ここに、理事会審議は新局面を迎えた。

満州事変の収拾

10月末、関東軍は満州新国家建設に向け北満州進出を狙い始める。

北満州はもはや満鉄とは何ら関係がなく、国境を面するソ連との関係もあり、内閣だけでなく陸軍中央も困惑した。

そこで、金谷範三総長は幣原外相と連携し、外交・統帥双方から関東軍の独断専行を阻止しようと動いた。

11月19日には関東軍はチチハルを占領したが、金谷はチチハルから即時撤退するように厳命し、関東軍の統制に成功する。

北満州進出を阻止された関東軍は、主導権を取り戻すべく、錦州攻撃を画策した。

この情報に接した中国は、11月24日に錦州・山海関に中立地帯を設置する案を列国に求めた。

日本が錦州・張学良政府の現状維持を保証することを引き換えに、中国軍を錦州から撤退させる。

その後、錦州には中立な第三国の軍隊が駐留して治安維持に当たり、列国の監視下に置き、錦州における日中衝突を防止するという案だ。

錦州中立化案に幣原は、原則として中立国の介入には反対するが、中立地帯の設置自体は認める。

中国軍が錦州から撤退後に、在留邦人に危険が及ぶような緊急事態が発生しない限り、錦州に出兵しない旨を声明した。

その上で、張学良と中立地帯に関する交渉を行う用意があるとした。

11月26日、天津の謀略により日中両軍が衝突し、関東軍は天津の救援を名目に錦州方面に独断で軍を進めようとした。

これに金谷参謀総長は天津への増援を断固として拒否し、関東軍に錦州作戦の中止と全部隊の撤収を厳命。

幣原も、連盟理事会の錦州方面の撤退勧告案を条件付けで賛成する旨、天皇から裁可を得た。

11月27日、関東軍は錦州作戦を断念し、満州事変は南満州に局限される事になった。

外交・統帥の連携が功を奏し、若槻内閣は息を吹き返した。

11月29日、当時政界を賑やかしていた協力内閣運動(民政・政友の挙国一致内閣構想)について、元老西園寺は

「若槻も、どうしてもこのままやろう、ということになったらしいし、井上もそれであり、幣原もそれである以上は、とにかく将来何か事が起こったら、その時に考えるとして、まずこれで押し切るということで、見ているよりもやむを得まい」

と述べ、若槻内閣留任の支持を示唆した。

こうして、若槻内閣は満州事変を何とか処理し、幣原外交も国内外が折り合いのつく線で軟着陸したかのように見えた。

スティムソン談話

他方、錦州方面の情勢を注視していたのが米国である。

スティムソン国務長官は、幣原の説明と実際の行動の食い違いから、日本政府が陸軍の行動を制御出来ていない事に気づいていた。

また、首相以下、閣僚の暗殺計画があった(十月事件)事を伝えられ

「日本はもはやコントロール不能の狂犬のもとに権力が渡った」

と述べ、対日宥和外交が挫折したと考えるようになっていた。

そこに日本軍の錦州進撃の情報が舞い込み、このような失望を記している。

「日本軍はほかのどの組織よりハードボイルドである。

世界の意向を無視して突き進むことが可能だと考えている」

11月28日(現地時間27日)スティムソンは錦州作戦を牽制する目的で談話を発表し、その内容が同日の東京朝日新聞夕刊に掲載された。

曰く、米国は満州事変以来の日本軍の行動について、日本政府の完全な統制下に置かれていないという印象を得ているが

「今よりわずか三日前に受けた日本の誓約は、文武両当局の極めて明白なる『確約』を内容とするものである」

去る11月23日、スティムソン国務長官は錦州攻撃の恐れありとの報道を手にするや、日本政府に対し警告を発した。

これに対し11月24日、幣原外相は錦州方面への進撃を行う意思無しと回答した。

「しかして幣原外相は右回答中において、日本政府は満州の日本軍司令官に対し右の趣を既に『発令』せりと言明したのである」

ちなみに『確約』『発令』は記事の中で強調されていた単語である。

まさか、この談話の中に、幣原外交を窮地に追いやる失言が含まれているとは、思いもしなかった。

スティムソン失言

外務省は当初、このスティムソン談話の問題性について気づかなかった。

このスティムソン談話の記事に並記する形で、外務省は「日本政府」や「幣原外相」の違約を口にするのは失言であると抗議している。

その実、外務省は東京朝日新聞に掲載された記事ではなく、別の英文の記事を読んでおり、談話の内容を完全に把握していなかったのだ。

11月29日(現地時間28日)日本の抗議を受け、スティムソンは誤解を解く意味を込めて、二度目の談話を発表した。

まず、日本の外務省の抗議は誤報に基づくものであるとし、より詳細な内容を語り始めた。

11月23日、スティムソンはウィリアム・フォーブス駐日大使を通じ、錦州攻撃に関する報道について、注視している旨を幣原外相に伝えるよう命じた。

11月24日、幣原はフォーブスを通じて

「錦州に対しては軍事行動を起こさないよう外務大臣並びに陸軍大臣、参謀総長の間に意見一致し、その旨出先司令官に命令したとの言明があった」

これが先の談話の整理された事実であった。

つまり「文武両当局」というものが外相・陸相・参謀総長であり、「明白なる確約」である錦州攻撃中止を関東軍司令官に命じた。

そして、その旨を幣原が米国大使を通じ、米国政府に内報していたことが、白日の下に晒されてしまった。

幣原はこの談話に驚愕し、全くの事実誤認であり、何故そのような発言をしたのか理解出来ないと声明を発した。

しかし、この二度目のスティムソン談話は同日の日本の新聞に掲載され、国内で大問題となった。

スティムソン失言は、関東軍に対する統制を回復しかけた陸軍中央に大打撃を与えた。

時系列を追ってゆくと、錦州攻撃中止の命令は、参謀本部が米国政府の圧力に屈する形で行われたように理解されるのは自然であったからだ。

12月1日、参謀本部はスティムソン談話に関する弁明を強いられたが、もはや金谷の権威は地に堕ちた。

他方で、参謀総長から得た統帥事項を、フォーブス駐日大使を通じてスティムソンに洩らした、軍機漏洩の責任が幣原に降りかかった。

幣原はフォーブス大使に、会談の内容は極秘であると強調していたが、フォーブスは機密扱いにすることを失念していた。

スティムソンも自らの落ち度を認め、米国の歴史上稀な「陳謝」を行なったが、そんなものは言い訳にならない。

しかも、軍隊への指揮命令権を持たない幣原が、金谷に錦州攻撃中止を確約させたというならば、それは統帥権独立の干犯である。

幣原と金谷の連携は致命傷を負い、外務省も陸軍中央もこれ以上関東軍を抑えることも出来なくなった。

12月7日、ついに南陸相は関東軍と天津軍に対し、錦州方面の匪賊討伐を許可する電報を発するに至った。

協力内閣運動を主導する安達謙蔵内相は

「あのスティムソンの言った話は、あれは重大な政治問題になるぜ」

と語ったが、スティムソン失言は政局どころか、満州事変の収拾の失敗に繋がり、日本の行く末に暗い影を落としたのである。

最後の外交

幣原はスティムソン失言により政治的に致命傷を負った。

だが、理事会が流れて15条で提訴されるという最悪の事態を避けるべく、調査団派遣案をまとめる最後の外交に臨んだ。

理事会は12月9日に閉会すると決定され、これが幣原に残された時間となった。

12月1日、理事会は日本の要求を容れ、調査団は軍事的措置には干渉せず、最終解決は日中両国に委ねることとした。

一方、中国の要求を容れ、満州の匪賊討伐にオブザーバーを随伴させる事を決議案に盛り込もうとした。

匪賊討伐の名目で出兵が正当化されていたので、オブザーバーにより軍事行動を牽制しようというのだ。

これに対し、日本は匪賊が普通に出没する満州で、日本に匪賊討伐権を認めるのは当然であるとし、決議案から切り離すよう強く求めた。

理事会は妥結を優先して匪賊討伐権については譲歩するより外なかった。

12月7日、日本軍は治安維持の名目で、錦州の匪賊討伐を行う意向を示し、日中軍事衝突の危険性が高まった。

幣原は中立地帯設置が唯一の方法であると張学良を説得し、12月9日に中国軍を錦州から撤兵させる事に成功した。

これにより錦州で破局を迎える危険性は去った。

12月10日、理事会は調査委員会を中国・満州に派遣する旨の決議を全会一致で採択した。

調査委員会の目的は、満州事変のみならず、日中間の平和を脅かすあらゆる面を視野に入れて調査し、半年後を目処に報告書を理事会に提出すること。

調査任務は情報収集にとどめ、軍事活動に対する勧告権限は有さないこと。

調査団の構成員は大国(中国に同情的な中小国の排除)から選ばれること。

日本はこの決議を、居留民保護のための匪賊討伐を妨げるものではないと留保し、受諾した。

理事会は日本軍の撤兵を先決にする方針を放棄し、調査委員会の報告を待った上で紛争解決の判断を下すこととした。

つまり連盟は報告書が完成するまで、日中紛争には一切介入しないことを決定したのだ。

日本に非常に宥和的な決議を受け、中国は動揺した。

調査団の派遣により日本軍の撤兵が引き伸ばされると主張したが、妥結を急ぐ理事会により抑え込まれてしまった。

3ヶ月にわたる連盟外交の失敗により蒋介石の権威は失墜し、間もなく下野を迫られる事になる。

こうして、激動の連盟理事会は、翌年1月25日まで休会となった。

そして幣原外交もその役割を終えた。

さよなら幣原喜重郎

12月11日、第二次若槻内閣は閣内不一致により総辞職を選択。

幣原も若槻内閣と運命を共にして、第二次幣原外交は突如として幕を閉じた。

以降、幣原は政治の表舞台から退き、敗戦後に総理大臣に就任するまで、完全に忘れ去られた人となった。

満州事変発生後の幣原外交を蹉跌を踏んだと表現するのは、様々な留保が必要だろう。

まず、結果だけ見れば、調査団派遣を提議したことで連盟理事会を乗り切り、軍事行動を正当化しうる匪賊討伐権の留保さえ認められている。

しかも、調査団の構成を日本に宥和的な大国を中心とする事にも成功し、撤兵期限についても何ら注文はない。

連盟理事会の態度を考えれば、調査団の報告書は満州の無政府状態を世界に知らしめ、日本に宥和的な解決手段を挙げるだろう。

これは日本外交の完全なる勝利であり、連盟に依拠して満州事変を解決しようとした中国外交の敗北であった。

他方、肝心の満州事変は拡大の一途を辿り、政府は関東軍を御する事に失敗した。

関東軍は満州に新国家を建設する為に錦州政府の駆逐を画策し、中国の主権は堂々と侵害された。

これによって中国は連盟規約第15条提訴の正当性を得て、日本外交は窮地に追い込まれる事になる。

当の幣原が自らの外交のどう評したかわかっていないが、その後の展開を見る限り、厳しい評価をせざるを得ない。

外交評論家の清沢洌も、幣原外交をこのように評している。

「結果において大きな反動を持ち来たした幣原外交の技術に対して、後世の歴史家は決して無条件に裏書きしないであろう」

ただし、その外交観については、全く合理的であった。

事変後から幣原は一貫して日中直接交渉による解決を唱えていた。

それは直接の利害関係を持たない国が議論に参加することで、問題はより複雑化し、空論に陥ると考えていたからだ。

幣原は連盟の存在そのものは否定こそしていないが、国際的な平和維持システムには限界があると見ていた。

理念偏重の連盟規約や不戦条約の枠内よりも、紛争当時国の直接交渉による解決を望む現実主義者であった。

実際の理事会の議論を振り返れば、幣原の考えは一面正しいと言えるだろう。

日本は、米国オブザーバー招聘の手続き問題やドラモンド三案に対する回答期限等の不誠実を目の当たりにし、連盟に不信感を抱くようになる。

中国も、最終的には妥結を望む理事会によって屈服され、紛争を即停止させるような現実的な解決手段を得られなかった。

幣原は連盟には日中問題をまとめようと本気で考える人は少なく、連盟提訴により「万事休せり」という感想を抱いたと語る。

それは偽りない本心であろう。

満州事変は中国が連盟に提訴などせず、即座に重光・宋子文ラインの直接交渉に依れば、ここまで紛糾しなかったと考えられるのだ。

しかし、国際連盟や不戦条約、九カ国条約成立の経緯、規約や条約の精神を考えた時、幣原のような現実主義は果たして正道かと疑問に浮かぶ。

日中直接交渉の結果が果たして、世界が世界大戦後に築き上げてきた崇高なる平和の精神に合致するか、非常に怪しい。

間もなく、日本はこの問題に直面し、連盟脱退に追い込まれてゆくのである。

外交はどこにゆくのか

外交評論家の清沢は、幣原外交の評論の中にこのような言葉を残している。

「国民が激昂し、一つの強力な勢力が決意するところ、外務大臣の手腕などというもののなしうる範囲は極めて限局されて来る事になる」

果たして満州事変以降の外交というのは、どこまで外交と呼べるのであろうか。

幣原や連盟代表部ら外交官が頑張って、何とかなるようなものであったのか。

松岡洋右は幣原外交を難じた「東亜全局の動揺」の校正中に、満州事変勃発の一報を受け、思わず鉛筆を放り出して項垂れた。

「外交は完全に破産した。

威力は全く地に堕ちた。

世界が挙げて我が勢力の存在を認めていたはずの満蒙で、この体たらくはは何事であるか」

このような事を防ぐために自身は筆を取ってきたのだと嘆き、絶叫の如き言葉で校正を締めくくった。

「もう校正をなする勇気もない。

砲火剣光の下に外交はない。

東亜の大局を繋ぐ力もない。

休ぬるかな、噫!」

参考書籍

幣原喜重郎とその時代 岡崎久彦
幣原喜重郎と二十世紀の日本 服部龍二
人物叢書-幣原喜重郎 種稲秀司
幣原喜重郎-国際協調の外政家から占領期の首相へ 熊本史雄

man

幣原喜重郎の基本的な評伝。

近代日本外交と死活的利益 種稲秀司

man

満州事変後の第二次幣原外交に詳しい。

満州事変から日中戦争へ 加藤陽子

man

満州事変について基礎的な一冊。

国際連盟 篠原初枝
国際連盟と日本 海野芳郎

man

国際連盟の基礎的知識について。

国際連盟と日本外交 樋口真魚

man

連盟規約と不戦条約、九カ国条約の関係性について。

国際連盟 国際機構の普遍性と地域性 帶谷俊輔

man

普遍的国際組織としての連盟を再評価する一冊。

近代日本と戦争違法化体制 伊香俊哉

man

不戦条約と日本の関係性について詳しい。

危機のなかの協調外交 井上寿一

man

日本の国際連盟外交について。

満洲事変前後における国民党広東派の対日政策:陳友仁を中心に 尤一唯

man

広州国民政府について。

ヘンリー・スティムソンと「アメリカの世紀」 中沢志保
スティムソンの満州事変観の検討 柴田徳文

man

スティムソン国務長官の外交観について。