1924年10月12日 荒川放水路完成

注釈

江戸時代、日本堤・荒川堤・熊谷堤などの土手が次々構築され、荒川の洪水から江戸は守られていた。

しかし、堤防によって荒川は隅田川への出口を塞がれた形となり、現在の大宮付近の荒川上流域が度々氾濫した。

1890年、荒川の氾濫により自宅を失った斎藤祐美は、水害から郷里を守るべく政治家に転身し、荒川治水の啓蒙活動を行なった。

1910年には荒川の氾濫により東京の下町が水没する関東大水害が発生。

政府は東京下町と埼玉県の広範囲を洪水から守る為に根本的な対策を迫られ、荒川放水路の建設を決定した。

この計画に参画したのが、日本人で唯一パナマ運河開削に参加した土木技師、青山士である。

青山は荒川の3割が隅田川に、残りを放水路に流すように設計し、ついにこの年、岩淵水門が完成し、放水路への注水が開始された。

この式典には加藤首相が参加し、摂政宮も視察するなど、荒川放水路は国家的事業であった。


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