平沼内閣擁立運動

コラム

三つの選択肢

34年、帝人株を巡る汚職疑惑は閣僚に及び、斎藤挙国一致内閣は総辞職に追い込まれた。

この時、後継内閣の選択肢は3つほどあった。

一つは憲政の常道復活に舵を切り、政友会の鈴木喜三郎総裁に大命を降下することである。

政友会は当時300議席を有する大政党であり、これが最も順当ではあった。

二つは穏健路線を継続するために斎藤内閣の延長を図ることである。

政党の自省が足りないとの認識が強く、未だ時局穏やかならぬ事から、この選択肢も多いにあった。

実際に後継首相奏薦の実権を握る元老西園寺公望は、斎藤と同じく海軍出身の岡田啓介に白羽の矢を立て、斎藤内閣の延長を図ったのである。

そして、三つ目の選択肢は、陸海軍の輿望を集める平沼騏一郎への大命降下である。

陸海軍の統制が一つの重要課題となっていた当時、海軍だけでなく陸軍にも顔が広い平沼の選択肢は重きを為していた。

陸海軍や政界には平沼内閣を擁立する運動が活発となり、元老・宮中を突き上げていた。

平沼騏一郎という存在

藩閥政治が終わりを迎えた明治末以降の日本において、首相の条件というのは大別すれば2つに分けられる。

1つは軍部出身である事。

軍部は薩長藩閥の支持母体であり、大物軍人となれば官界にも広い影響力を有する。

統帥権の下に内閣から半ば独立している軍部を統制するためには、軍部出身者を首相に迎えるのが一番手っ取り早い。

軍部出身の首相を挙げれば、桂、山本、寺内、加藤友、田中、斎藤、岡田、林、阿部、米内、東條、小磯、鈴木など、かなりの数に上る。

2つは政党を背景にする事。

予算議決権を持つ議会を掌握する政党出身の首相となれば、予算を巡って政局が混乱することもない。

政党は国民の支持を背景とすることから、憲政の観点からも、その正当性は高い。

政党を背景とする首相は、西園寺、大隈、原、高橋、加藤高、若槻、浜口、犬養である。

ここに名前の上がらない首相は以下である。

まず、選挙管理の意味合いを持つ清浦は、山県系官僚として貴族院に影響を有していた。

近衛は五摂家出身の華族で、政党・軍備・官界とあらゆる勢力から支持されていた。

外交官出身の広田は、226事件直後という非常時の中で組閣したので、特例と言えるだろう。

最後に名前が挙がるのは平沼である。

平沼は軍部出身でもなく、政党との関係も希薄であり、貴族院議員であった期間も僅かである。

その経歴も、内務官僚や大蔵官僚、外務官僚ではなく司法官僚一筋であり、官界を去った後は枢密院にあり、政治的に言えばかなり弱い立場にあった。

にも関わらず、平沼はある一時期、軍部や政党の支持を集める有力な首相候補の一人であった。

何故、司法出身の平沼が、軍部や政党の支持を集め、首相候補として擁立されたのか。

平沼内閣擁立運動から、昭和史のもう一つの側面が見えてくるのである。

司法官僚平沼騏一郎

平沼は1867年に岡山県津山藩士の子として生まれる。

津山藩は教育が盛んであり、平沼も学ぶ機会に恵まれ、後に帝大で法学を学ぶようになる。

帝大ではフランス革命を研究し、このような革命が日本で発生することを懸念し、革命や急進主義を嫌悪した。

また、最先端の西洋学問を身につける一方で、その学問自体に疑問を持ち、鎌倉の禅寺に弟子入りをするなど、日本の伝統的価値観を重んじる傾向にあった。

1888年に帝大法学部を首席で卒業した。

平沼は内務省に入ることを望んでいたが、司法省の給費生であったことから司法省に入省せざるを得なかった。

これは相当不本意であったろう。

司法省は弱小省庁であり、有能であれば内務官僚になり、出来損ないが判事や検事になる時代である。

平沼は当時の司法省が弱小であったのは、藩閥や政党に対抗できる大物官僚がいなかったからだと回想する。

それ故に司法官僚は藩閥・政党に迎合し、実業家や政治家、官僚の犯罪取り締まりに対し極めて無力であった。

司法は一段低い地位にあった。

それは欧米と比較して低位に抑えられていた司法官の俸給にも表れる。

その不満が爆発したのは1900年、司法省増俸運動である。

司法官の待遇が悪いままでは人材が得られないと、司法官たちが早急な増俸を要求した。

一度は法相の同意を得た増俸案であるが、衆議院で政友会の反対を受けて削除された。

これに反発した司法官たちの増俸要求運動は過激化し、全国の判・検事が一斉に辞表を提出する、大規模なボイコット運動に発展した。

このボイコットに対し、当時東京控訴院の次席判事であった平沼は断固とした態度を取り、各地の裁判所の秩序を回復した。

増俸は正当な要求であった。

だが、それを急進的手段で強要し、司法の秩序を乱すような行為には、平沼は批判的な立場にあった。

この増俸運動は平沼の転機となった。

増俸運動に関わった多くのエリート司法官僚が失脚し、平沼の出世の道が拓けたからである。

政友会との関係が築かれたことも大きい。

政友会はこの増俸運動を政党攻撃と見なし、この黒幕には山県系司法官僚の清浦奎吾がいると観測した。

その運動を収拾した平沼は、非山県系で政治的に透明な有力司法官僚であると見なされた。

司法における平沼の存在は、政友会からも一目置かれるようになる。

司法権の強化

飛躍のきっかけを得た平沼は、1912年に検事総長に就任する。

検事総長は免職される事がなく、あらゆる政治勢力から自立して司法権を自由に活用できる立場にある。

そこで平沼は、政党や藩閥、財閥と対抗するために政治事件の捜査に積極的に乗り出し、司法権を強化しようとした。

検事総長時代に取り扱った事件で特に大きいのはシーメンス事件と大浦事件である。

シーメンス事件は海軍を巻き込んだ一大汚職事件であり、検察は呉鎮守府に捜査のメスを入れるなど、海軍の圧力に屈しない姿勢を見せた。

大浦事件は第二次大隈内閣の大浦兼武内相が、選挙戦の最中に政友会代議士を買収した事件である。

大浦は山県系官僚の重鎮であり、山県有朋は大浦事件を穏便に済まそうと平沼に掛け合おうとした。

また、大浦は子飼いの内務官僚と連携して検察の捜査を妨害し、平沼の免職すら画策した。

このような元老や内務省の圧力に検察は屈する事なく、捜査の手は大浦の側近に及んだ。

事ここに至っては大浦も観念し、政界引退を余儀なくされた。

平沼は政党・藩閥双方から距離を置き、公平中立な操作を行うことで、司法の権威を示した。

一方で、社会的に影響のある政治疑獄には、司法処分ありきではなく、政界引退や栄爵辞退などの政治的処分に任せた。

大浦事件では、平沼は現職の国務大臣を起訴することは国家の体面に関わると考え、大浦の引退を引き換えに、起訴猶予とする柔軟な方針を示している。

この考えを端的に表している逸話がある。

平沼は法の運用について、江戸幕府の役人の話を引用した。

江戸時代の役人は世襲であり、役人としての要諦を十分を心得ている。

特に箱根の関所の役人は法の手心についてよく心得ていた。

ある日三島宿から駕籠に乗った女が関所に駆けつけた。

女は小田原にいる母親が病気と聞いて急いでいた為、関所通行手形の発行を待つ余裕がなかった。

手形がない者を通行させることは出来ず、役人は帰れと一喝する。

泣く泣く女が三島に帰ろうとすると、役人はそちらでは無いと呼び止め、小田原の方に向かわせたという。

これこそが検事総長としての心掛けであると、平沼は説いた。

つまり、法を厳格に運用しただけでは犯罪は防止できない。

法による秩序を維持する為には、時に法に手心を加える必要があるのだ。

平沼の思想形成

司法官僚として犯罪と向き合う中で、平沼の思想は極めて保守的になっていった。

平沼は司法制度の近代化に努めた、新進の官僚である。

だが、いくら刑法や司法制度を西洋から取り入れても、犯罪は減らず、社会秩序は動揺し続けていた。

平沼はこれを、日本が単に外国の制度を模範することに終始しているからだと考えた。

もはや犯罪を防止するには、法の厳罰化だけでは不十分なのである。

そこで平沼が持ち出したのは、国学や漢学、儒学といった伝統的価値観に依拠する道徳である。

平沼は、犯罪の原因を道徳心の麻痺にあると考え、その防止策を道徳の涵養に求めた。

実際に国学者や儒学者を援助したり、道徳の実践を行う修養団の総長も務めている。

以上のように、日本人は伝統的価値観に立ち返る必要があると考えるに至った。

世界大戦の過程で外来思想が日本に流入すると、社会主義運動や労働争議が続発して社会秩序が動揺した。

更には無政府主義や共産主義といった体制転覆を招きかねない危険思想の影も見え始めた。

平沼は外来思想について以下のように考えている。

古来、日本は外来思想に対しては、日本精神に抵触しないように咀嚼して取り入れてきた。

中国から伝来した仏教や儒教もそのまま取り入れることなく、咀嚼して「皇道の輔翼」として教育の根幹を成した。

「人に取って以って善をなす」

これが日本古来の政治の要諦である。

ところが、西洋思想は無批判に取り入れられ、あまりに急激に広まった為に、咀嚼消化出来ない状態に陥った。

これにより「物質偏重の文明の弊害」が社会に蔓延した。

平沼はこれを明治維新以来の危機であると憂慮し、愛国・忠孝といった儒教的観念を打ち出して対抗しようとした。

伝統的価値観への傾斜

18年、平沼は検事総長訓示の中で、このような発言を行った。

社会の道徳が退廃し、罪を犯す者がおり、それに対する社会的制裁も手ぬるい。

司法の権威によってこれを厳正に正さねば、人心は「敗壊」するだろう。

そこで必要なのは敬神である。

国体と神社は密接であり、国家に奉ずる者は敬神を民心に広めねばならない。

故に「神威を穢し或いは信仰を害する」者は厳格に糾弾すべきである。

まるで宗教政治家のようである。

同年には臨時教育会議委員として「人心の帰向統一に関する建議案」を提出した。

平沼は委員会において、社会運動・労働争議といった階級間対立の激化の解決方法について、このように説いた。

「思うに階級間の反目蔑視を避くるの方策種々あるべしといえども正旦要なるは道徳の教えを振起して貧富貴賤を問わずよく義理を解しその本文を明らかにして慎んでこれを守り、その範囲の外に逸出せしめざるの風を養成するに在るべし」

つまりは道徳教育による教化である。

これを行うにあたっては教育勅語の趣旨を遵守する必要がある。

もはや文部当局、教職員者の責任に留まるものではなく、国を挙げて行う必要があるとした。

そして、その実行方策を以下のように列挙する。

・敬神崇祖の念の普及

・日本の風俗に沿わない法律の改正

・官紀振粛

・国家に貢献する宗教の刷新

・奢侈の禁止

・階級間の融和

・言論の自由に限りがある旨を世間に明らかにする事

・良書の刊行奨励

・出版物取り締まりに注意を払う事

言論・表現の自由の制限を提議する建議案は、明らかに教育制度の範疇を超えている。

委員からも異論が相次いだが、結局建議案は「教育の効果を全たからしむる一般施設に関する建議案」と改称し、一部修正が加えられて決議された。

国体と祭政一致に見る憲法観

平沼は外来思想の流入が人心を荒廃させ、社会秩序は崩壊の危機にあると考え、復古的思想に傾いていった。

その中で平沼が最も重視したのは天皇・皇室である。

天皇こそが日本人の精神の基軸であり、人心を統一しうる存在であった。

それ故に、平沼の憲法観は自然と神がかり的な天皇主権説となってゆく。

それは平沼が1940年に記した「国体と祭政一致」の中に見られる。

同書の中で平沼は、日本の成り立ちを「天地開闢の延長にして大自然の発露」とし、以下のように論じた。

「天神天祖の元冑たる天皇を中心として成立し、天皇の天職が顕れて国家の統治と成しものである。

故に国家の統治が祖神の創め給ひし神業の延長であることは明白にして,我が肇国が自然に出で人為に非ざることは疑を容るるの余地を存するものでない」

つまり、天皇による統治は人為的ではなく自然に発生したのだ。

これに対して海外の国家は全て人為的なものであり、その中心も人為の中にある。

「帝といい王と称し、名を天命に託し、口を神権に借りるも、皆これ人為であって、一も自然に出たものはない。

人為を以て成立したるものは人為を以てこれを転覆することが出来る」

欧米のように社会契約が国家の中心にあれば、その契約が破棄されれば国家は分散する。

中国やロシアのように力や徳を以て国を建てれば、その力や徳が衰えれば取って代わられる。

「外国の歴史は総て興亡の歴史である。易姓革命の歴史である」

そのような外国の歴史と日本の歴史を同列に語られるものではない。

「我が国家の悠久なる所以は,国家の中心たる天津日嗣の無窮なるが為であつて,其の無窮なる所以は,人為を以て変更すべからざる大自然の道である」

このような基盤の上に成り立つ日本においては,治者と被治者との間の対立関係,緊張関係などというものは存在しない。

「万民は皆国家の中心たる天皇に帰一すべきもので、君民一体の義は真に明瞭なりと言はねばならぬ」

「天皇の統治と万民の輔翼とは決して対立の関係ではない。

天皇の統治は絶対にして万民の輔翼はこれに帰一すべきものである」

よって君主独裁や立憲君主という制度も日本においては存在しない。

「独裁といい、立憲という、その語は総て治者と被治者との対立関係を認むるものである」

英国の立憲君主制は独裁君主に対抗し、君主と人民が闘争を重ねた結果、国王に竹槍を突きつけて勝ち得たものである。

君権を制限する憲法は、以上のように対立意識を基本とする。

一方、日本においても憲法は制定されたが、そこには対立意識は無い。

「我が国の憲法は欽定憲法で、一君万民,上下一体を基礎としている。

一君上に在つて統治し給ひ,万民下に在つて輔翼し奉るのが肇国の本義である。

この本義は憲法の基礎であるが決して憲法に依って定まりたるものではない。

憲法はこれを基礎として統治の形式と輔翼の形式とを定められたものである。

換言すれば天皇の統治権は肇国と同時に確立し、千万世にわたって動かざるもので、憲法はこれを行使せらるるに当たり、如何なる形式を採るべきやを定められたものである。

また万民輔翼も肇国と共に厳存するもので憲法はその形式を定めたものである」

反・天皇機関説

平沼の憲法観は、国家の主権は天皇にあり、その主権を行使する国家機関が分立するという、穂積八束の天皇主権説に近しい。

その観点から、憲法が定める天皇の統治権を制限しようという美濃部達吉博士の天皇機関説を「肇国の大義に反するもの」と批判し、以下のように断じた。

「彼は大権の体と用とを誤あり、権利などの言を使用すべきものにあらず」

この体と用という用語は憲法4条

「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」

に対する憲法義解の解釈に出てくるものである。

憲法義解は「統治権を総覧するは主権の体」であり「憲法の条規によりこれを行うは主権の用」とし、このように説いた。

「体ありて用なければこれを専制に失う。用ありて体なければこれ散漫に失う」

つまるところは天皇主権説である。

ここで重要なのは、分立する国家機関の職権は輔弼の範囲を示し、天皇の統治大権を侵すものではない事だ。

「我国においては如何なる政治機関を置かるるも皆天工を亮くるものにして輔翼の機関たることを忘れてはならぬ」

仮に一機関が輔弼の範囲を超越しようとするならば、それは天皇の統治大権を侵犯するものである。

「人臣にして輔翼の範囲を超越する者は皆乱臣賊子である」

「臣僚は皆憲法の条章に従い各々その分を守って輔翼の職責を尽くしつつある。

臣僚にしてその領域を守らざる者は不忠の臣であり、輔翼の範囲を超越して自ら恣にする者は乱臣である」

このように、大権干犯を強い言葉で断じている。

以上の事から、憲法が定める輔弼の範囲を超え、立法・行政権だけでなく軍政をも掌握して、分立する諸機関をまとめ上げようとした政党内閣には一貫して批判的であった。

ただし、平沼は他の皇室中心主義者のように天皇親裁を望んでいるわけではない。

これが端的に示されたのは、満州某重大事件の際である。

29年、昭和天皇は田中義一首相の上奏に矛盾があると指摘し、それ以上の説明を聞く事を拒否して、内閣が総辞職した。

これについて平沼は、天皇が実際に権利を行使すれば、その政治責任を問われないわけがないと認識した。

そして、そのような政局を起こすような天皇の言動は、余程慎まねばならないと考えた。

天皇主権説を支持するような言説を繰り広げながら、実際の天皇の政治関与には批判的であったのである。

反動主義と権威主義

平沼の思想形成と憲法観を振り返ると、平沼像が見えてくる。

まず、平沼は秩序を乱しかねない外来思想を非常に危険視している。

外来思想は、人心を荒廃させて犯罪を誘発するだけでない。

無政府主義や共産主義といった、体制秩序を動揺させる危険思想に繋がりかねないからである。

これに対し、平沼は儒教に依拠した道徳や、敬神・忠孝といった復古的な思想を打ち出した。

だが、いくら急速な西洋化を戒めて、古き良き日本に帰れと説いても、結局は理想論に過ぎない。

そこで、現実には天皇・皇室といった権威を以って秩序を維持しようとした。

それ故に、天皇は無限の権力を持つ絶対君主でなければならないし、天皇の権威の前では国民が政治の主体となることも許されない。

平沼は日本は「皇室中心の一大家族として極めて自然に発展した」とし、以下のように述べた。

「我国に在りては治者対被治者の葛藤なく、支配者対被支配者の葛藤なく、いわんや君君たらずんば臣臣たらずというが如き冷ややかなる関係の起こりくるはずはない」

このような家族国家観を披瀝し、国体の真髄を以下のように説いた。

「臣民各々其業を勤しんで皇猷を翼賛し奉るということは、あたかも一家の内において子孫父祖を奉戴すること」

国民は生まれながらにして子であり、臣である故に、天皇の権威に従属すべきなのである。

平沼はその考えを、国民各々が「分」を尽くして皇室を輔翼する「万民扶翼」という観念的な言葉で表した。

当然、国民がその分を変更することは許されるはずがない。

だが、実際の政治はそう簡単には行かない。

大正時代はデモクラシーが興隆する時代である。

国民を背景とする議会政党が藩閥を抑え、天皇主権説の建前は明らかに後退していった。

そのような状況下で平沼は、デモクラシーやインターナショナルといった大正時代の時流に真っ向から異論を唱えた。

この反動的言動から、迷信家、頑迷と批判された。

また、天皇を一機関として扱う天皇機関説を否定し、天皇や皇族の絶対的な権威に依ろうとした。

以上の事から、平沼は反動主義で権威主義と言い表すことが出来るだろう。

ただし、平沼が非常に面白いのは、そのような単純な枠内に収まらないことである。

平沼は実際の政治を行う上では、時代に対立して衝突するではなく、現実的な解決を求めてコミットする努力を見せた。

復古的で観念的な言説は棚に上げられ、天皇親裁も否定的で、より現実的で穏健的な発想に至った。

このような複雑な思考を持つ為に、平沼は保守派でありながら革新派と見なされるようになる。

平沼閥の形成

1911年、平沼は第二次西園寺内閣の司法次官に就任する。

政府は日露戦争後の厳しい財政の中、行財政整理を打ち出したが、司法省はこれに積極的に応じ、平沼は次官として整理案作成に着手した。

整理案が完成する前に内閣が倒れたため棚上げとなったが、1913年に第一次山本内閣が誕生すると、再び行財政整理の方針が定まった。

ここに司法省整理が断行された。

当時の司法省には基本的な法知識を有していない老朽司法官が多数いた。

しかも、それを罷免・降格出来ずにに、人事が停滞していた。

それが、今回の整理により200名近い判・検事が一斉に休職に追い込まれた。

特に、旧司法試験合格者や自由任用で採用された無資格者からなる50代以降の司法官の大半が退職した。

それに入れ替わる形で、近代的な法知識を有する新進の司法官が平沼によって次々と抜擢された。

ここに一種の平沼閥が形成されるに至った。

21年には裁判所構成法改正により司法官の定年制が導入された。

平沼に対抗しうる老年官僚が退職に追い込まれ、これにより平沼閥は更に磐石となった。

平沼を盟友として支えたのが、腕の喜三郎、司法省三羽烏と称された鈴木喜三郎である。

鈴木と平沼の関係は、遣外法官として共に欧州の司法制度を視察した時に築かれ、二人の関係は極めて良好であった。

14年に鈴木が司法次官に就任し、尾崎法相を半ば傀儡化して、平沼は鈴木と共に司法部の実権を掌握した。

21年には平沼が大審院長、鈴木が後任の検事総長に昇格する。

これに連なる司法次官、控訴院長、検事正などの司法高官を平沼閥が占める時代が訪れた。

このようにして平沼は幕下の官僚を通じて司法部に絶大な影響を発揮し、時の法相をしのぐ権力を有した。

原敬と平沼騏一郎

シーメンス事件では山本海軍内閣が崩壊し、大浦事件では山県系官僚が大打撃を受けた。

政党や藩閥、軍部にすら忖度しない捜査の手並みから、政友会総裁の原敬は平沼を職務に忠実で公平な司法官だと評価した。

そして実際に原は、18年に組閣した際、平沼に法相就任を打診した。

だが、平沼はこれを固辞している。

平沼は当時、帝室制度審議会の委員を務めており、梨本宮方子と大韓帝国最後の皇太子との婚姻を巡る問題を審議していた。

皇室典範は皇族か華族への婚姻しか規定しておらず、王公族との婚姻をどう扱うかで揺れていた。

平沼は王公族を皇室に準ずるものとし、方子女王の婚姻をそのまま推進すべきとの立場にあった。

このような皇族問題を扱っている最中、原内閣に入閣すれば、閣内が紛糾する恐れがあると説明した。

これが表向きの理由である。

原内閣は純然たる政友会内閣であり、それに入閣することは政友会系列に属することを意味する。

それまで培ってきた公平なイメージが崩れる事を懸念し、入閣を謝絶したのが実際の所であろう。

平沼は入閣こそしなかったものの、原内閣には基本的に協調姿勢を示し、閣外から原内閣の司法を支えた。

まず問題になったのは、1918年11月の京都豚箱事件である。

1916年、京都府知事が府会議員の買収を行ったという疑獄が発生した。

検察はこの取り調べの過程で、被疑者を板製の囲いの中に長時間にわたって監禁し、精神的に追い詰めて自白を強要した。

裁判になるや被告たちが一転して無罪を主張し、1920年に全員無罪の判決となった。

被告の一人が、この囲いを豚箱と呼んだことから、京都豚箱事件と称された人権侵害事件である。

新聞や議会は検事局の人権侵害を強く非難した。

原もまた、拷問や自白強要のような強引な捜査が引き起こす人権侵害を問題視した。

これは司法部の長年の積弊であり、政党政治の発展を阻害するものであると憤っている。

そして司法部内にある平沼も、人権侵害を深刻な問題と捉えた。

特に自白の強要については

「証拠の信用力を滅却して延いて司法機関の全体の信用を失する」

と語り、国民の信頼を損なう事態であると憂慮している。

司法の人権侵害に対する問題意識を共有した原と平沼は一致協力し、担当検事を譴責処分とし、大阪控訴院検事長を依願退職させた。

更に司法の弊害を改めるために、原は裁判の公明を目的とした陪審制を構想した。

平沼も海外で陪審制を見聞しており、これに協力して陪審制成立に大きな役割を果たしている。

次に発生したのが司法官化石事件である。

1920年7月、就任したての大木遠吉法相が、このように放言した。

「司法官は化石の如し、多年の悪慣性に依りかかる事を徒らに立身出世の途なりと考えている」

これを報道で知った司法官が反発し、新聞記事の取り消しだけでなく、司法の秩序を乱したとして記者を起訴すべきという強硬な姿勢を示した。

平沼と鈴木はこの一件について原に相談した。

原は検事局が記者を起訴すれば事態の紛糾は免れないと考えた。

そこで記者を起訴せずに新聞記事を取り消し、代わりに大木法相の談話を掲載する事を提案した。

平沼もこの方針に従って穏便な形での事態収拾を図った。

思想問題への協調

このような原と平沼の協調が成立したのは、思想問題についての認識がある程度一致していたからである。

原は元々、思想問題、特に社会主義者への強硬な取り締まりには批判的であった。

山県が社会主義の流入を憂慮し、ロシアの社会主義者との通信を取り締まるよう述べた事に対しても、そこまで切迫した問題であるとは了解し難いとの感想を抱いている。

だが、首相就任前後に過激な思想問題に直面し、考えを改めた。

寺内内閣末期に発生した米騒動については、扇動者に対しては相当の処罰を行い、社会主義者の暴挙を未然に防ぐ方針を山県に示している。

就任後には、激化する普選運動に対し、漸進的に選挙権を拡張する事で沈静化を図った。

社会主義運動に対しては、社会主義者を直接弾圧するではなく、メディアや教育者の扇動に対して起訴を含めた厳しい姿勢で臨み、間接的に弾圧した。

その象徴的出来事が、20年の森戸事件である。

帝大経済学部の森戸辰男助教授が、ロシアの無政府主義ピョートル・クロポトキンを論文の中で好意的に紹介した。

これが国体・皇室を害する無政府主義を宣伝する内容であると問題化した。

平沼はこの件に関して森戸起訴の方針を示すと、原は直ちに同意を与えた。

これを受け、検察は森戸及び、論文を掲載した雑誌編集者の大内兵衛を思想朝憲紊乱で起訴した。

原は社会秩序を重んじ、外来思想の流入に危機感を抱いた。

そして、そのような外来思想を無批判に取り入れようとする知識人に厳しい目を向けた。

この思想問題の捉え方は、平沼とはある程度親和性があった。

原は思想問題について、以下のような穏健的な解決策を掲げていた。

・食糧問題の解決による国民生活の安定

・教育機関拡充による教育の高度化

・既存宗教の活用による思想善導

この方針の下、普選尚早を掲げた総選挙に与党政友会が勝利した事で、普選運動は一時的に沈静化したかに見えた。

しかし、20年以降に戦後恐慌が訪れると、普選運動や労働争議、社会主義運動は急進化していった。

原はこれら思想問題に有効な手立てを見つけられなかった。

そんな中、21年4月に近藤事件が発生する。

社会主義団体に所属する近藤栄蔵が、上海でコミンテルンから日本共産党設立の準備資金を受けて帰国したところを検挙された。

当時の法律(治安警察法)では資金援助に対する規定がないために近藤は釈放された。

だが、事件はその後、近藤らが暁民共産党を結成して反軍ビラをばら撒いて逮捕されるまでに発展した。

原は、日本における共産主義団体の成立という深刻な事態に衝撃を受け、山県に対して無政府主義や共産主義を取り締まる法律の不備を語った。

そして、司法省が主導し、治安維持法の前身である過激社会主義運動取締法案作成を決定するに至った。

原と平沼は、一致協力して司法改革や思想問題に取り組んでいった。

原は平沼を公平な司法官であると評価し、平沼は原を思想問題を解決しうる指導力を有する政治家であると評価しあった。

だが、この協調は原の暗殺により、唐突に終焉を迎えた。

「困難なる政局に処し、得がたき人を失ふたるは実に国家の一大損失だ。

今最も寒心に堪えぬことは思想動揺の際、政局の混沌に依つて、益民心の安定を害せんことである」

平沼は原の死を嘆き、原亡き後の思想問題の悪化、民心の動揺を憂慮せざるをえなかった。

虎ノ門の衝撃

平沼は大戦後の思想問題の悪化の中で、宮中に入って皇太子の軸導に関わることを望んでいた。

平沼の希望を聞いた原は、天皇の側近に公平な人を置いた方が良いと考え、将来的に宮相か内大臣府に平沼を入れたいと好意的に応じた。

ところが、これが宮中に伝わると平沼の中傷が始まり

「肺病病みでガブガブ血を吐いている」

そんな者を宮中に入れてはならないなどと宣伝された。

確かに平沼は若い頃に肺結核を患っていたが、当時は既に完治しており、謂れもない中傷であった。

この中傷を伝え聞いた山県は、実際に子飼いの医者を平沼に遣わして、肺病の完治を確かめている。

なお、原が平沼の宮中入りをどこまで真剣に考えていたかは留保する所である。

事実、原は宮中入りの前に皇族会議に列する大審院長を務めることを薦め、平沼に承諾させている。

1923年、山本権兵衛に大命が降下すると、平沼は法相として初入閣した。

今まで入閣を固辞し続けた平沼であったが、宮中入りするには一度は大臣を経験した方が良い。

また、山本内閣は山県系でも政友会系でもない中間内閣であった為に、自身の公平なイメージを維持するにはうってつけの内閣であった。

この内閣で平沼は犬養毅逓相とともに普通選挙法成立に積極的に取り組んだ。

平沼はデモクラシーに対しては反動的な立場にあったが、現実的には普通選挙の成立はもはや免れないと認識していた。

ならばその成立を政府が主導し、普選運動を完全に沈静化する方が治安維持上望ましいのだ。

なお、以下のように、普通選挙実施の際には、治安維持の方策はセットであると考えていた。

「選挙権を拡張することは実際不安あるを免れず。

故にこれより生ずる弊害を防止する手段は十分にこれを講ぜざるべからず」

そこで平沼は議会において、関東大震災の流言を取り締まった治安維持令(緊急勅令)のような、過激な社会運動を取り締まる法律が平時においても必要であると答弁。

その立法化に意欲的になった。

だが、政友会の反対に直面した山本首相が普選時期尚早に傾き、選挙権に制限を設けることを主張し、閣内不一致が鮮明となった。

そんな折に発生したのが虎ノ門事件である。

11月27日、議会開院式に臨席するために移動していた摂政宮が、虎ノ門付近で狙撃される大逆事件が発生した。

幸い摂政宮は無事であったが、閣内では事件の責任をとって総辞職すべきとの意見が噴出する。

閣内不一致が明らかであったために山本にこれを抑える力はなく、山本内閣は総辞職に至った。

国本社の成立

平沼は虎ノ門事件に衝撃を受けた。

関東大震災の混乱の中で思想問題は現実的な脅威として浮上し、ついに大逆事件を引き起こすまでに至ったのだ。

この事態を受けて平沼は、外来思想に対抗するために自ら教化団体、国本社を組織することになる。

国本社を説明する前に、その成立の経緯を少し整理する必要がある。

19年頃、平沼は同郷岡山県出身の弁護士、竹内賀久治と交流を始めた。

竹内は当時、帝大内において国家主義的な学生グループの興国同志会を結成していた。

帝大内にはデモクラシーと自由主義を標榜する吉野作造の新人会が勢力を増しており、竹内はこれに興国同志会を率いて対抗した。

この同志会には、帝大内の保守的な教授や、後に国体明徴運動で名を馳せる蓑田胸喜、中野正剛の支援もあった。

平沼は検事総長という立場上、直接関与することは出来なかったが、竹内を通じて同志会を後援した。

帝大で森戸事件が発生すると、同志会は学生を動員し、森戸の罷免を求めて文部省や司法省に訴える活動した。

しかし、帝大内には森戸擁護の声が強く、同志会の専断的な活動が帝大生の反発を招き、組織は内部分裂を引き起こして解散した。

この同志会の後継として21年に竹内が組織したのが第一次国本社である。

同志会は活動範囲が学内に限定される学生団体であったが、国本社は広く社会に働きかける思想団体であった。

その主義主張は国体保護、国家主義復興など明白な政治色を帯びており、その名の通り、吉野作造の民本への対抗を強く意識していた。

主な活動としては月刊誌・国本の出版である。

この国本には、国家主義者、弁護士、民間の知識人、帝大関係者がよく筆を振るっていた。

反共反ソ、反軍縮、反排日移民、議会制度改革、国家主義擁護、満蒙問題解決といった政治評論が数多く掲載された。

なお、平沼は第一次国本社についても後援という立場に終始し、そこまで深い関係にはなかった。

一方で平沼は、辛酉会というサロンを組織していた。

辛酉会は平沼を中心に、陸海軍将校、各省庁の官僚、財界人といった名士を擁した。

その会員は陸軍からは東條英機、宇垣一成、荒木貞夫、永田鉄山、古荘幹郎、二宮治重。

海軍からは加藤寛治、野村吉三郎、米内光政。

官界からは河田烈、小原直、塩野季彦、後藤文夫、広田弘毅といった大正・昭和期に活躍する錚々たる顔ぶれである。

陸軍軍人が多数参加しているのは、辛酉会の幹事を務めた竹内が陸士中退であり、その伝手である。

虎ノ門事件が発生すると、平沼は辛酉会会員を自邸に招き、どのような再発防止策を講じるべきか連日のように議論した。

そこで固まったのが、第一次国本社を改組して教化団体とし、外来思想に対して思想的な啓蒙活動を推進する方針であった。

こうして24年5月26日、平沼自らが会長を務める第二次国本社(以降、国本社と統一)が成立した。

国本社の拡大

国本社は組織活動の目的を、国民精神作興に関する詔書の精神に依拠して国民に道徳観念を広めることとした。

国民精神作興に関する詔書とは関東大震災後に第二次山本内閣期に発せられ詔書である。

大正時代の国民の「浮華放縱の習」「輕佻詭激の風」をたしなめ、国民が享楽主義に傾くことを批判し

「今に及びて時弊を革めすむは、或いは前緒を失墜せむことを恐る」

と、国民の思想的退廃による国家の崩壊をも懸念した。

その上で、今後の国力振興を進める中で教育勅語と戊辰詔書の精神に立ち返り「国民精神を涵養振作」することを説いたものである。

これに依拠するということは、国民の思想の乱れを教育の振興によって改めるということである。

国本社創立趣意書には、以下のように記された。

「国民精神を涵養振作し、国本を固くし、智徳の並進に努め、国体の精華を顕揚するに非ずんば、国家及民族の前途また終に知るべからず。

謹みて先帝の遺訓を誦じ、恭しく今上の聖論を拝し、洵に戦競の至りに勝てず」

この趣意書のように、国本社は具体的な政治目標を打ち出さず、純粋な教化団体であることを強調した。

活動内容は月刊誌国本の発行を引き継ぎ、他には国家・国民生活に関する事項の研究、徳行励行、そして地方講演を行った。

国本社が第一次国本社と大きく異なるのは、その人的構成である。

辛酉会から引き継いだ人脈から、国本社の役員には陸海軍、法曹界、官界から政財界の大物が集まった。

その顧問として、山川健次郎枢密顧問官・元帝大総長、井上良馨海軍元帥、斎藤実朝鮮総督を迎えた。

また、財界からは三井の池田成彬、安田の結城豊太郎の名が連なり、財閥から多額の運営資金を受け取っていた。

なお、池田は国本社の幹事に名があるが、幹事を頼まれた覚えはなく、本人の承諾があって名前を使用しているか疑わしいと回想している。

このような人的ネットワークを形成した国本社は、急拡大を遂げる事になる。

24年11月に千葉県で地方支部設立の動きがあったのを皮切りに、以降、28道府県66支部が設立された。

その会員は最盛期には10万とも20万とも言われる。

この機動力となったのは地方裁判所の所長や判・検事、地方師団の師団長や地方出身の将校、地方官である道府県知事や市長である。

彼らは地方の社会を担う名士であり、それを役員として結集する事で、勢力拡大に成功した。

これを可能としたのは、国本社が中道的に国民を教化する、公益性のある事業と受け止められた為である。

国本社の支部が県庁や市役所、学校や図書館といった公共の施設内に設置されたことからも、その公益性がわかる。

読売新聞も国本社を「右傾、左傾の両思想の中間をとって国民善導を標榜」している組織だと紹介している。

政党も国本社を特定の党派色を有していない教化団体と見なし、政党政治を否定するような矯激な右翼団体とも見ていない。

政友会・憲政会・政友本党から満遍なく代議士が国本社に参加した。

当時の憲政会内閣からも、若槻礼次郎、岡田良平、安達謙蔵ら閣僚が役員に名を連ねた。

このように、国本社は公平で政治色もない教化団体であると広く認識された。

国本社は平沼のイメージさえも変えた。

それまで一貫して司法部にあり、国民から遠いところにいた平沼は、冷たく暗いイメージを持たれた。

新聞はそのイメージを「峻厳」「非社交的」「法理的な冷たさ」と表現している。

そんな中で、平沼は国本社の講演活動として自ら積極的に全国各地を飛び回り、国民の前で雄弁に語った。

平沼は初めて国民と触れ合い、そのイメージを好転させていったのである。

政界入りの野望

平沼は無政府主義者が摂政を狙撃した大逆事件に衝撃を受け、国の現状を非常に憂慮した。

そこで、政治に強い関心を示し、政権獲得の運動に乗り出すことになる。

折しも、山本内閣の司法大臣としての経験に、政治家としての自信を得た。

これを平沼は以下のように回想している。

「司法大臣となるより、むしろ大審院長で司法部をよくし、停年で引きたいと思っていた。

それが入閣するようになった。

これにより私の境涯が変わってきた。時勢も変わってきたので、元のようなことは段々なくなってきた」

平沼は政界に打って出るために、国本社の人脈を重要な政治資源とし、様々な政治勢力との接触を図り始めた。

まず、政友会である。

26年、平沼の盟友である鈴木が政友会に入党したことで、政友会との関係が強まった。

鈴木は政友会の若きホープである鳩山一郎の姉と結婚し、鳩山とは義兄弟の仲にあった。

その面倒見の良さから、政友会に一大派閥を作り上げるに至った。

また、政友会総裁となった田中義一は、平沼と第二次山本内閣の同僚の仲にあり、その関係も良好であった。

次に枢密院である。

平沼は法相を辞して間も無い24年に枢密顧問官に就任している。

その枢密院において伊東巳代治や金子堅太郎といった古参顧問官や、法曹仲間である倉富勇三郎と関係を築いている。

この中で特に田健治郎枢密顧問官との関係は大きかった。

田は文官としては初めて台湾総督を務め、中間内閣を組閣しうる首相候補として度々名前が挙がる山県系大物官僚である。

二人は第二次山本内閣の同僚であり、田は平沼の法相としての手腕を「最適任」であると高く評している。

田は国本社の評議員を務め、その講演活動にも参加した。

平沼も田の枢密顧問官就任に尽力し、親しい関係を持った。

最後に薩派である。

薩派は鹿児島及び九州出身者からなる官僚閥で、海軍や官界、宮中に至るまで幅広いネットワークを有していた。

その構成は重臣山本権兵衛を筆頭に、海軍に財部彪、陸軍に上原勇作、貴族院に樺山資英、宮中に牧野伸顕、政界に床次竹次郎を擁している。

長州閥に比べ一段低く位置付けられていたが、山県死後の長州閥分裂に乗じて勢力回復を図り、活発に政治運動を展開していた。

平沼と薩派の関係は、国本社の理事に就任した樺山を介して築かれた。

樺山は薩派と諸勢力との連絡役を務める官僚であり、平沼とは大東文化学院事業を通じて交流を深めていた。

このように平沼の政治基盤は盤石になりつつあった。

実際に政権を運営するにあたっては、首相候補の一人である田を政治パートナーとする。

閣僚候補を多数擁立する薩派の協力を得て、議会方面においては政友会を与党的立場に迎えられる。

平沼は非政党の中間内閣を組閣しうる政治家になりつつあった。

元老西園寺公望

平沼は諸政治勢力と結びつき、政治的人脈を得て、有力な首相候補として存在感を示すようになった。

この時代、首相となるには首相奏薦権を有する元老・西園寺公望の信任を得る必要があり、言わば最後の関門であった。

当時、西園寺は平沼をどう思っていたのか。

二人の関係は第二次西園寺内閣時代、西園寺は首相として、平沼は司法次官として築かれた。

平沼は当時のことについて「私は西園寺さんのお気に入っとったんです」と回顧するなど、好印象を抱いていたようである。

内閣倒壊後は特に面会することも無かったが、これといったわだかまりも、悪感情もなかったと思われる。

26年4月に倉富が枢密院議長に昇格した際、倉富は副議長に平沼を推薦したが、この人事に対し西園寺を始め、特に異論は出ていない。

むしろ枢密院の非政治化の一環として歓迎されていた。

平沼の中立的で公平な法の専門家というイメージは未だ保たれ、政治的な人物だとは見られていなかった為である。

このような状況下で平沼は西園寺に接近を試みた。

26年3月25日、平沼は西園寺の私設秘書を務める松本剛吉と会談した。

松本は、政党内閣が終わった時に備え、中間内閣を組閣しうる首相候補を探していた。

松本が目をつけていた岡野敬次郎、大木遠吉が相次いで亡くなり、非政党勢力の首相候補は払底していた。

首相候補として度々名前の挙がっていた後藤新平も、震災復興を巡る政局の失敗から、政界への影響を失っていた。

この会談で松本は、平沼を有数の政治家であり「政治家に要する全ての資質を具備」している首相の器であると評価した。

当時、平沼は慎重で無口なことから「舌をピストルで打ち抜かれて穴が空き、口が利けぬ」などの悪評が立っていた。

ところが、この会談ではまるで旧来の知己に会ったかのように松本に接し、政治や宮中に関することを雄弁に語ったという。

松本はこれに非常に好感を抱き、中間内閣となれば平沼が適任であると確信した。

こうして26年5月、西園寺との平沼の会談がセッティングされる。

平沼は西園寺を前にして宮中問題について語り、西園寺もそれに対し、以下のように好意的に返した。

「平沼と田と心を合わせ宮中府中の問題を料理することは誠に善いと思う」

西園寺との会談は成功裏に終わり、ここに平沼は首相候補として浮上した。

西園寺の忌避

だが間も無く、西園寺は平沼を警戒し始める。

その端緒は26年9月26日に発生した井上哲次郎事件である。

大東文化学院長である井上は、その著書の中で三種の神器の一つはすでに失われていると記述した。

これが国家主義者の中で不敬であると大騒ぎになり、著書は発禁処分となり、井上は辞職に追い込まれるに至った。

平沼は民間右翼の大物、頭山満にこの件を伝えられ、非常に憤慨し、若槻首相や岡田文相に井上問題を警告した。

更に松本を通じ、西園寺にも事の重大性を伝えた。

これに対し、西園寺は井上の記述はそれほどの内容ではないと見ていた。

また、そもそも国体観念のような問題を政争にしてはいけないと考えていた。

よって、右翼に担がれて井上問題を殊更に騒ぐ平沼の態度を「甚だ迂闊千万」と批判した。

平沼が国体観念問題から政権獲得運動を起こすという噂を掴むと、松本に対し、以下のように苦言を呈している。

「平沼が悪いというには非ざるも、未だ少し早きことはなきや」

平沼と田の提携についても二人の政治上における識見の違いを指摘し、平沼の語る国策も「未だ若い」と断じた。

それでも松本が平沼を推すので

「君はイタリアのムッソリーニなどのことを思うだろうが、日本は未だそこまでは行かない」

と、平沼を首相候補と見なしていないと釘を刺すに至った。

このように西園寺は平沼に悪感情を抱き、忌避するようになった。

だが、西園寺自身はそれを表明するわけでもなく、巧妙に政治的中立を装い、老獪に振る舞った。

その西園寺の演技を平沼が見抜く術はなかった。

平沼を始め、当時の人々は、西園寺を政治的に淡白で、神輿になる人物だと誤解していた。

実際は、強い政治的意思を持っており、自らの政見を首相奏薦権や宮中人事権を以って実現する政治家であったのだ。

26年12月14日、平沼は大正天皇崩御後の政局を、松本を介して西園寺に伝えている。

平沼曰く、この際は西園寺が出馬すべきであり、それを自分と田が支え、閣僚も二人で相談して決めよう。

もし組閣するつもりであるならば、若槻に辞職を勧告する。

他から首相を得る場合は田中義一ならば援助しても良いが、山本権兵衛や伊東巳代治では賛成できない。

これは事実上の平沼・田内閣構想であるが、西園寺は何ら返答はしなかった。

平沼は国本社を背景に、政友会・枢密院・薩派、そして西園寺の秘書松本との政治人脈を築くことには成功した。

だが肝心の西園寺の信任獲得には失敗し、これが平沼の政権獲得運動に暗い影を落とす事となった。

政治的中立の終わり

平沼は巧妙に政治的中立のイメージを作り上げてきた。

だが、民間の国家主義者と交流を深めた事で、中立性を維持することが困難になってきた。

21年、日比谷大神宮で開催された皇太子洋行の安全祈願の集会に参加し、そこで民間右翼の大物、頭山満、杉浦重剛らに接触した。

頭山ら民間右翼の暴力性については度々問題となっている。

後に浜口内閣は、右傾の「皇室中心主義の暴力団」取り締まりを強化すると表明したほどである。

他方、平沼は彼らと連携する事を厭わなかった。

それは国家主義を共産主義・社会主義といった左傾思想と相対するものと位置づけたからである。

浜口内閣の右翼団体取り締まりの方針についても

「左傾派は勢いを得ることになる」

という観点から批判している。

平沼は実行力のある民間右翼団体と提携する事で、皇室中心の秩序を維持し、危険思想の拡大を防ごうと考えた。

よって、右傾勢力といえども秩序の破壊や独裁を志す革新右翼については批判的であり、北一輝らとは距離を置いている。

平沼は民間右翼に接近し、国家主義的言説を繰り返した為に、いつしか観念右翼の総帥と見なされるようになった。

そうなると、国本社もまたその性格が変わっていった。

平沼は国本社の講演の中で、西洋化の批判、儒教的道徳への依拠といった抽象的な国体論を説いていた。

その一方で、政治的な内容に踏み込んで発言することが多くなってきた。

まず、平沼が批判したのは政党の弊害である。

「政党の健全な発展に依つて、憲政はよく運用されるのであるが、日本の現状は党利第一の弊に陥らんとしている。

このことがやがて国政に現れて、国家に一定不動の大策というものが立たない」

政党が相争うために内閣の更迭が頻発し、一国の国是、国策を樹立することが出来ない。

それは日本の一大不幸であると断じる。

よって、国家本位に立って国策を遂行する強力な内閣を組織し、安定した行政を行う必要がある。

これに政党も進んで協力すべきである。

「予は政党、政派に関係する所なく、極めて冷静に政局の推移を観察しつつある。

しかも近時政界の動揺常なくその動くところ動機の不純なるを思わしむるものあるに想到して深甚の憂なきを得ない」

また、国際協調外交についても、列国間の利害衝突により戦争はいつ起きてもおかしくないと指摘。

そのような状況下では連盟を通じた国際紛争の解決は不可能であるとし、軍縮の世にあって武力の必要性を説いてみせた。

このように政党政治、国際協調という現状を、挙国一致による強力内閣、国家主義で否定してみせた。

平沼の反動的な主張は、現状に不満がある政治勢力から幅広く支持を得た。

その中で特に平沼の支持者となったのが陸軍である。

陸軍は国本社と平沼の活動を高く評価し、陸軍大学校の成績優秀な将校を、国本社の夏合宿に参加させたほどであった。

陸軍中堅将校にあった鈴木貞一は、軍の機密費が国本社に流れていたと回想した。

荒木貞夫は国本社の使命が「国体の明示」である以上は軍人が会員になっても差し支えないと考え、憲兵司令官時代に全憲兵を国本社に入会させたと述懐している。

枢密院の陰謀 – 台湾銀行救済緊急勅令案否決

平沼のイメージを決定的に悪化させたのが、台湾銀行救済緊急勅令案否決と治安維持法緊急勅令化である。

台湾銀行緊急救済勅令案とは第一次若槻内閣が枢密院に諮詢した緊急勅令案である。

これは、関東大震災後の不況の中で経営が悪化していた台湾銀行を、緊急勅令で救済しようというものであった。

具体的には憲法8条の法律的緊急勅令により日銀が台湾銀行に対し無担保で融通する。

憲法第70条の財政的緊急勅令により日銀が台湾銀行に融通した結果生じた損害は2億円を限度に補填するという内容である。

ところが、枢密顧問官からは臨時議会を招集して議論すべきとの疑問が投げかけられた。

この指摘に対し若槻首相は、臨時議会開催で財界が不安を抱いたら困る、と答弁した。

あまりに議会軽視も甚だしい党略的答弁に、枢密院は一気に態度を硬化させた。

ただし、この救済案がそのまま否決となれば、内閣総辞職に至る重大な政局を引き起こしかねない。

そこで、倉富枢密院議長は折衷案を提示する。

まずは、支払猶予令を緊急勅令として発して財界の不安を抑える。

その後に、臨時議会を招集して救済法案を通過させる。

この提案に対し、若槻はあくまで強硬姿勢を崩さず、ついに政府の緊急勅令案は否決され、若槻内閣は総辞職した。

簡単にまとめれば以上のような顛末であるが、結果的に枢密院が若槻内閣を倒閣した形となった。

これにより、枢密顧問官の伊東巳代治や松本剛吉の陰謀論が囁かれる事になる。

27年5月7日、憲政会の中野正剛が衆議院において、枢密院の陰謀の証拠を暴露した。

その中で、枢密院副議長である平沼が弟分である政友会の鈴木に送った電報の存在が明らかになった。

平沼は鈴木に対し、枢密院本会議にて緊急勅令案が否決されので内閣が倒れる可能性がある旨を伝えていた。

中野は、これが平沼による倒閣の陰謀であると糾弾した。

確かに平沼の若槻内閣に対する感情は良いとは言えなかった。

それは若槻内閣が枢密院への諮詢を避け続けた事、政界において党利党略的な切り崩しが行われていた事。

また、江木翼法相が平沼閥の解体に着手していたからでもある。

だが、平沼が政友会と結んで台湾銀行救済緊急勅令案を潰したというのは飛躍しすぎな話である。

鈴木に送った電報にしても、枢密院で緊急勅令が否決されれば内閣が倒れる可能性は高く、陰謀の証拠とは言いづらい。

とはいえ、状況証拠的に平沼の陰謀論はかなりの信憑性を持って受け入れられた。

枢密院の陰謀 – 治安維持法緊急勅令案

平沼の陰謀を決定づけたのが、治安維持法緊急勅令案である。

若槻内閣総辞職後、政権は反対党である政友会総裁、田中義一に移った。

田中は組閣の際に、平沼を重要なパートナーと位置づけ、相談を持ちかけている。

ただでさえ陰謀論が囁かれる中、政友会内閣に入閣すれば、自らその陰謀論を裏付けてしまうことになる。

そこで平沼は自身の入閣を事前に断り、その代わりに鈴木を重用する事。

法相には国本社と関係がある原嘉道を就けるように注文し、田中はこれに応じた。

このように平沼は中立を装いつつ、閣外から影響力を発揮しつつあった。

そんな中、28年3月15日に共産主義者が治安維持法違反容疑で一斉に検挙される、315事件が発生する。

これを受け、原法相は4月27日に治安維持法改正案を議会に提出した。

その要点は以下2点であり、総じて厳罰化にある。

・国体の変革を目的として結社を組織・指導した者を、最高で死刑と処す

・目的遂行罪を設けて、共産党に入っておらずとも、宣伝などにより共産党に寄与する事も罰則対象とする

しかし、議会においては民政党ら野党が反対に回り、会期末であったことからも審議未了で廃案となった。

仮に治安維持法改正をどうしても行う必要があれば、会期延長や臨時議会招集が正規手段である。

ところが、政府は議会を回避して、憲法8条を根拠に緊急勅令で成立させようと試みた。

野党の反対で審議未了という形で議会の意思が表された法案を、緊急勅令で成立させようなどは前代未聞である。

議会軽視も甚だしく、新聞や野党だけでなく与党政友会からも異論が噴出した。

若槻内閣の台湾銀行救済緊急勅令案に対して、臨時議会を開くべきだと説いたのは枢密院自身である。

この観点から、当然政府の態度を糾弾するのが筋が通っている。

だが、平沼は原法相の内諾を受けて、治安維持法改正に前向きであった。

審議未了の法案が枢密院に諮詢された事に対しては、これを違憲とした前例がない事に注目。

審議未了は議会の意思が反映されたとは言えないなどと、政府に有利な解釈で諮詢を正当化してみせた。

枢密院本会議もこの緊急勅令案を巡って大紛糾したが、平沼は賛成票をまとめ上げて可決させた。

平沼は緊急勅令の必要性を疑わず、これにより共産党の取り締まりに大きな効果を挙げたと評価した。

一方、世間はそうは見なかった。

一連の枢密院の報道により、平沼は政友会系の陰謀家であり「政府と通牒したる巨魁」と認識されるようになった。

平沼が築き上げてきた中立で公平な法律の専門家というイメージはここに崩壊した。

そして漠然とした策士、黒幕、陰謀家という印象が一人歩きし始める事になる。

国家主義者の研究者である橋川文三をして、平沼を以下のように表現するのである、

「どこか暗い影を持ち、怪奇な思案を巡らせている不気味な老人」

皇室機関としての枢密院

平沼は枢密院副議長に就任する際、国本社の活動継続を条件とし、倉富枢密院議長や若槻首相に許可を得ている。

それが許されたのは、国本社が公益的な教化団体であるからだ。

だが、枢密院における一連の党派的な行動が原因で、国本社から憲政会関係者が一斉に離れた。

これにより国本社は、政友会関係者と官僚を中心とする組織となった。

党派的イメージは定着し、国本社が地方で講演をひらけば政友会支持者は歓迎し、憲政会支持者は敵視した。

国本社の中立性は、政党政派の偏りがないことで担保されてきた。

それが失われた事で、国本社は公益団体から政治団体に様変わりした。

国本社を主宰する平沼は、政友会と繋がって政治活動を行なっていると認識されるようになる。

ここで問題となるのは、平沼は枢密院副議長の座にある事だ。

そもそも枢密院の性格上、顧問官が政治活動を行うことは非常に望ましくない。

枢密院は憲法第56条にこのように定義される。

「枢密顧問は枢密院官制の定むる所に依り天皇の諮詢に応え重要の国務を審議す」

天皇の最高諮問機関として、憲法付属の法律改正案や緊急勅令、国際条約の批准などの国務を直接助言する立場にある。

更に、皇室のあり方を定める皇室典範には、以下皇室問題に関して枢密院に諮詢すると記された。

・皇位継承の順番

・摂政設置

・皇室典範改正

・臣籍降下

・元号制定

枢密院は国家の機関でありながら皇室の機関でもあると言えよう。

それ故に憲法義解は憲法第56条について、以下のように解した。

「枢密顧問の設、実に内閣とともに憲法上至高の輔翼たらざることを得ず」

「枢密顧問にして聖聴を啓沃し偏せず党せず、しかしてまたよく問疑を剖解する」

つまり枢密顧問官は、その職責上、政治的偏見を有してはいけないし、政治活動もしてはならない。

ましてや枢密院議長・副議長となれば天皇に近く、塁を皇室に及ぼすような軽率な態度はとってはならないのだ。

枢密院における政治活動

国本社にあって政治活動を行う平沼の態度は、枢密院副議長の地位に全く不適切であった。

ましてや、平沼は国本社の講演活動で全国を飛び回っており、その疲労から体調を崩して枢密院を欠席することも多かった。

このような枢密院副議長の重責にあるまじき態度に、平沼に好意的であった顧問官たちの間でも反発が起きるようになる。

28年10月、伊東は平沼の国本社の活動について、以下のような苦言を呈した。

「只今の如き国本社のことに関係するは宜しからず。

自分は枢密院にいる間は一切政治に関する意見を発表せざるつもりなり。

平沼もこれを止むる方宜し」

これに対し倉富は、伊東同様に国本社の政治性を指摘している。

「平沼が国本社に力を尽く居ることも目的ありてのことなる」

国本社は単なる教化団体ではなく、特定の目的を有する政治団体であると広く認識されるようになっていた。

そして、枢密院副議長である平沼が国本社で活動をするのは、極めて不適切であると批判されるようになっていた。

枢密院の職掌を定めた枢密院官制には明確に「施政不関与」と定められている。

実際に明治時代には、顧問官にあった鳥尾小弥太が政党を結成するにあたり、その職を辞している。

これが正しい筋道である。

では何故、平沼は枢密院副議長を辞することは無かったのか。

平沼はその理由を語ってはいないが、宮中入りを目指す上で、枢密院副議長という地位は好都合であると考えていたのではないだろうか。

もしくは、自らの国本社の活動を政治活動だと認識していなかった可能性すらある。

都新聞は、平沼のどっちつかずの態度を、このように批判している。

「今後を戒慎するか、否ずんば公然政界に打って出るを可とする」

政権獲得の為に政治活動を行うのであれば、枢密院副議長を辞して、国本社を通じて大々的に行えば良い。

逆に宮中入りを目指すのであれば、政治団体と化してしまった国本社との関係を一切清算して、宮中の信頼を得れば良い。

平沼は宮中入りと政権獲得の「二股をかけた」為に、枢密院副議長でありながら政治活動を行うなど、筋違いの事を行なった。

これがどのような危険性を孕んでいたかという事を、平沼はまだ知る由もなかった。

統帥権干犯問題

1930年、浜口内閣下においてロンドン海軍軍縮条約批准が大きな問題となった。

この条約は加盟国の主力艦以外の補助艦(駆逐艦・潜水艦等)に一定の比率を設置するというものだ。

加藤寛治に代表される海軍軍令部は、補助艦の対米比率を譲らず、会議決裂を覚悟して政府に抵抗していた。

これに対し浜口内閣は、条約批准を第一と考え、軍令部の意見を抑える立場にあった。

他方で平沼は、自国の利益のために強硬な主張をするのは当たり前であると考え、最後まで踏み止まるよう加藤を激励している。

そんな中、衆議院において政友会は、軍令部の主張を抑え込むのは、政府が統帥権を干犯しているのではないかと指摘。

浜口首相は統帥権の解釈について不答弁を貫き、統帥権干犯問題は大きな政治問題となった。

平沼も統帥権干犯問題を重大視し

「将来のことは必ずこれを確定し置必要あり」

と述べ、海軍と政府の意見が不一致の場合は、条約を枢密院で葬り去る構えを取った。

ところで、平沼が統帥権干犯問題に注目したのは、浜口内閣を攻撃する為ではない。

確かに政党内閣にも浜口内閣にも批判的な立場にあったが、それよりも重要なのは、統帥権干犯問題とは憲法体制への挑戦を意味することである。

平沼は統帥権の解釈について、加藤高明内閣の塚本清治法制局長官の答弁を最も明瞭であると評している。

塚本は憲法11条の統帥権は、憲法55条の各大臣輔弼の責任の範囲外であるとした。

だが、実際には統帥に関する事項は各大臣の輔弼の責任にあたる事項と密接な関係を有している。

それについては、各大臣が参画して輔弼の責に任ずるべきである。

一方、兵力量を決定する編成権は統帥権に含まれていないが、両者共に密接な関係にあり、一部統帥権の影響を受けるものがある。

その場合、政府と統帥部双方の合意が必要であると解釈した。

なお、憲法学者の美濃部達吉は、軍の編成権の輔弼は内閣に属し、政府と統帥部の共同任務ではないと解釈している。

政府の統帥権解釈は美濃部説を採用しており、内閣が編成権を以って海軍の兵力量を定め、国防計画を決定した。

これは内閣に権限・権力を集中する形で、憲法の分立的制度を克服する試みである。

対して平沼は、兵力量の決定権は全面的に政府にあるのではなく、あくまで軍部との同意の下に行われるべきであると解釈した。

これは憲法の分立的権力体制の変更の否定であり、憲法に定義された天皇大権を遵守する、極めて保守的な考えである。

政界の黒幕

政府は軍令部の反対を抑え込み、条約は枢密院に諮詢された。

平沼は海軍と政府の意見相違を示す為に、条約に対する海軍軍事参議院の奉答文を政府に要求した。

仮に意見の相違が確認された場合は、条約批准を否決する、強硬な姿勢を表した。

ところが浜口首相は、奉答文は手元にないとし、これを拒絶した。

一方、平沼は奉答文の写しを手に入れたが、補充が行われれば国防上支障はないという穏当な内容であった。

内閣と軍部の対立を示すようなものではない事から

「この如き奉答を為すくらいならば何も先日来の如く喧しく騒ぐ必要なし」

と述べて、参議院の奉答文に基づいて条約批准をするのが相当だと判断した。

問題は奉答文を政府に提出させることに移行するが、浜口は最後まで資料提出に応じず、政府原案を押し通して幕は閉じた。

以上のようにロンドン条約を巡る平沼の論理は、倒閣ありきではなく、統帥権干犯問題を重視したものであった。

だが、世間はそうは見なかった。

特に元老西園寺の周辺では、平沼陰謀論がかなりの説得力を有するようになる。

西園寺は私設秘書を通じて政界の情報に接し、そこから情勢判断を行うのを常にしていた。

松本の後、その役目は原田熊雄に継がれている。

原田は政界の情報を見聞きする中で、国本社と国家主義者の関係を疑い、それを率いる平沼を非常に危険視した。

国本社については

「国体論を中心として、社会的思想的に動いて、いつでも政治的に活動し得るように準備しつつある」

と見て、平沼の宮中入りの野心を西園寺や牧野内府に伝えている。

西園寺もこれを受けて

「平沼の希望は内大臣府を有力にし、君主独裁の実をあげることにある」

と、平沼を警戒するようになる。

浜口首相が狙撃されると、平沼の黒幕イメージに拍車がかかる。

狙撃犯の佐郷屋留雄は、その動機を国本社の宣言書を読んで刺激を受けたと供述した。

更に佐郷屋は右翼団体に所属しており、国本社の有力者の家に寄宿していることも明らかになった。

これを受けて新聞は、佐郷屋の背景には平沼と懇意の国家主義者がいると報じた。

原田はこの事件を以下のように観測した。

まず、佐郷屋の背景には平沼と懇意の国家主義者がおり、平沼は彼ら民間右翼を庇護している。

これを徹底的に調査すれば、佐郷屋を動かした黒幕の存在が明らかになるだろうが、それを阻止せんとする勢力が司法省の中にある。

平沼は司法省に圧力をかけて右翼団体の取り締まりを緩めようとしており、司法省においても大物右翼を逃そうという空気が蔓延している。

「元来平沼枢密院副議長の統制下にある国本社の人間は、軍人でなければ裁判官か司法省の役人である。

政党政治を呪う空気がかくのごとき団体に実在していることは争われないことであるから、そういう空気の中にいる裁判官あるいは司法官がかくのごとき場合に、どういう感覚を持つかということもわかる」

原田はこのように、国本社を危険な団体と認識し、平沼と司法の関係に悪印象を抱いた。

そして、この観測は西園寺に伝わり、ますます西園寺の平沼に対する感情も悪化するのである。

枢密院重臣会議化論

ロンドン条約を巡る紛糾の中で、平沼は枢密院改革の必要性を認識した。

それは浜口内閣が枢密院の権限を抑止したからではなく、枢密院がその本分を十分に満たせていないからである。

平沼は浜口内閣期の政党の疑獄事件多発を見て、秩序の乱れを憂慮した。

特に、五私鉄疑獄事件は二大政党が復讐と防御に躍起になった結果、民政党だけでなく前内閣の小川にも飛び火した。

もはや政党は国家国民全体の利益のためにあるのではなく、党利党略を追求するだけである。

平沼は政党を日本社会に害悪を及ぼしていると考え、日本固有の政治風土には合わないと断じるようになる。

そして、民政党内閣は綱紀紊乱で崩壊するだろうが、同じく綱紀の乱れで倒れた政友会に再び政権が移る道理はない。

「超然内閣の成立は困難なるも、時勢をその方に進展せしむる必要がある」

と、平沼は倉富に主張している。

ところで、平沼は政党政治を完全に否定したわけではなく、天皇親政と議会政治が両立する現状の体制を「建国の精神の発露」と評している。

では、何故政党政治は失敗しているのか。

それは、牧野伸顕内府ら宮中側近の輔翼の仕方に問題がある。

「宮内省辺にては時勢を何と見居るへきや。

牧野は鎌倉にて棋を囲んでいる」

と、平沼は批判の矛先を宮中に向けている。

もはや、従来のような元老西園寺と牧野内府による首相奏薦方式は正当性が失われつつある。

「これまでの奉答は常にこれを誤りたるものと言わざるべからず。

然ればこの次には奉答の形式のこれまでの如く簡短にせず、西園寺にも侍従次長を使いとして意見を御下問になる様のことにせず、上京を命ぜられて御下問になる位のことになる必要あるべし」

そこで平沼が挙げたのが枢密院改革論である。

31年7月3日、平沼は薩派の樺山を通じて牧野内府に対し、枢密院改革論を説いた。

これは、枢密院の本来の職分を全うするため、諮詢事項を改め、顧問人事を厳選する改革案である。

具体的には山本権兵衛、清浦奎吾、高橋是清、山本達雄ら準元老級の重臣を入府させる。

その上で、伊東巳代治ら古参枢密顧問官に国務大臣級の待遇を与えて、権威化する。

国家の重臣たちを迎えた枢密院は、元老や内府を補佐し、首相奏薦・宮中問題を含めた国家の重要事項の諮詢に応える。

そして、西園寺死後に枢密院が首相奏薦の任を引き継ぎ、元老の権威と相対化させる。

言わば枢密院重臣会議化と言えよう。

牧野は、枢密院が自ら更生するする態度を示したと判断し、平沼の改革案を高く評価した。

だが、原田は平沼の改革案を、西園寺亡き後に山本や清浦が元老の後継者のような地位に立つための宣伝と見た。

西園寺も枢密院の力を削ぎたいと考えており、重臣たちの枢密院入りには反対であった。

こうして枢密院改革論は最大の関門である元老を通過することはなかった。

軍部統制の乱れ

ロンドン条約問題後、軍部の統制は大いに乱れた。

青年将校たちは堂々と政治を談義し、政党内閣を批判し、軍部内において政治結社を作るようになった。

更には陸相を歴任してきた宇垣大将がクーデターを画策した三月事件が発覚し、軍紀の乱れは深刻なレベルに陥った。

天皇はこれを非常に憂慮し、9月10日には安保海相に対して、以下のように御下問した。

「近頃青年将校団結などの噂あり、軍紀の維持確実なりや」

9月11日には南陸相に対し、このように注意した。

「陸軍の軍紀問題並びに陸軍が首唱となり国策を引きずるが如き傾向なきや」

一方、平沼も国内の治安維持を重視する姿勢から、陸海軍の統制が崩壊する事態を非常に憂慮していた。

「軍人の硬化はこれを放任し置きては不可」

ただし、この解決策として、内閣を強化して統帥権を抑えるのは、平沼にとって許されざることである。

軍部を抑え込まず、その勢力も弱めず、軍部の暴発を回避しつつ、下克上の危険性を取り除く。

この対策として平沼は、軍部に宥和的な態度を取り、その要求にある程度応じ、将校たちの不満を緩和する必要があると認識し始めた。

そこで枢密院改革論に見られたように、陸海軍内部に人的力量を構築して、その権威で軍部を統制しようとした。

まず平沼は、ロンドン条約問題で連絡を持つようになった、海軍の加藤寛治との交流を深めた。

一方で、陸軍にあっては当時非主流にあり、少壮幕僚の期待を集めていた荒木貞夫・真崎甚三郎と提携を模索した。

31年4月には、平沼は荒木・真崎を交えて、陸軍青年将校の統制問題について話し合っている。

そこで平沼らは、対ソ危機を提唱して将校たちの不満を外に逸らし、暴発を回避して、陸海軍を結束させること。

これが成功した後に山本、東郷を動かして宮中を刷新することを申し合わせた。

こうして、平沼は軍部の領袖たちと関係を持ち、彼らを通じて軍部の意見を調節し、軍部を包括して統制する事を模索するようになった。

満州事変と十月事件

少壮将校たちの間では下克上の機運が高まり、軍の統制は乱れ、ついに満州事変が勃発した。

平沼は満州事変について、国本誌上でこのように論じている。

満蒙は日露戦争の払った犠牲に比べたら小さい権益であるが、その投資は「東洋永遠の平和、ひいては世界人類全体の幸福の為」である。

よってこれを擁護することは「帝国の使命を遂行する所以」であり、日本の使命を明らかにすべきである。

このような対外強硬的な言説を振るう一方で、平沼は満州事変に危機感を募らせていた。

関東軍は満蒙権益として認められる満鉄附属地の外に出撃し、事変は平沼の想定した範囲を超えていった。

更に錦州爆撃が国際世論の悪化を招き、連盟理事会において提出された撤兵勧告案に、日本を除く理事国全てが賛成に回った。

平沼は満蒙権益は擁護されて然るべきと考えたが、国際関係に対して挑戦するつもりはなかった。

そんな中、橋本欣五郎ら陸軍将校たちによるクーデター未遂事件、十月事件が発覚する。

軍部の中に政治結社があり、その目的も国家社会主義による政治革新であり、クーデターによる軍部政権を打ち立てようとしていた。

深刻な軍部統制の乱れに直面した枢密院では、十月事件について首相だけでなく、陸相の報告を要求すべしとの声が上がった。

平沼はこの動きに対し、枢密院において軍部の不祥事を追求することを適当ではないとした。

だが、平沼は事件を軽視しておらず、以下のように憂慮した。

「軍部内の規律弛緩し佐官以下にて上官を牽制する様のことになりおり、今後如何なる事件を惹き起こすや計られず、満州事件にしてもその最初は下級にあり上官もこれを抑制することを得ざることになりおり、実権は佐官以下に握りおるとのことにて司令官師団長旅団長らは下級者より強制せられおり、下級者の満足することを為す間は事無きを得るも、一朝下級者の意に満たざる事あれば如何なる事件になるも計られず。

しかして少壮士官の中には必ずしも忠誠心に充ちたる者のみとも限らず、また兵士には勿論世論の浸潤を受けたる者も少なからず、軍人が正道に進む間は仮令幾分常規を逸する事ありても、その害少さけれども、一度その方向を誤れば実に由々しきこととなるべし」

国家の根幹であるはずの皇軍が、下剋上によって危険な状態に陥り、兵士の忠誠心もあてにはならなくなった。

危険思想が将校たちに影響力を有している可能性すらある。

この事態を、課長クラス以上の中堅将校もまた憂慮していた。

これを抑えるには下級将校を満足させる人物を擁立し、彼の内閣と提携して統制を回復させるしかない。

その人物とは、国本社を通じて多数の軍人と関係を有し、軍部の主張に理解を示し、政界に顔が利く平沼しかいないのだ。

閑院宮参謀総長擁立

満州事変発生後、少壮将校たちの中で下克上の機運が高まり、軍の統制は乱れた。

宇垣系の金谷参謀総長もこの事態を収拾できなかった。

そこで軍部統制の回復の試みとして、陸軍元帥であった閑院宮の待望論が浮上した。

9月19日、満州事変勃発を受け、木戸内大臣秘書官は一木宮相、鈴木侍従長、原田らと対策を協議。

その席上、軍部統制の良策として「閑院宮の努力をわずらわすも一法」との意見が出た。

これを受け、元老西園寺の意見を伺った原田は、閑院宮をお召しになる場合は、十分打ち合わせるよう木戸に伝えた。

一方、9月23日、平沼は荒木・加藤と会談し、その場で「閑院、伏見両宮にお縋り」することを申し合わせた。

伏見とは海軍大将の伏見宮である。

平沼は閑院宮を参謀総長に、伏見宮を軍令部長に擁立し、皇族長老の権威を利用して軍部統制を回復させようと考えた。

9月24日、加藤は東郷元帥の秘書・小笠原を訪問し、この件を伏見宮に請願するように依頼している。

9月29日、閑院宮・伏見宮の了解を得て、東郷元帥列席の下、陸海軍合同軍事参議官会議が開催された。

武藤教育総監は、管見の限りは陸海軍合同会議などは初めてのことであると語るが、皇族総長擁立の為の異例の会議であった。

更に十月事件が発生すると、その主だった関係者が参謀本部員であったことから、金谷参謀総長の責任問題に発展した。

金谷は辞意を固め、12月7日には閑院宮は元老・宮相の同意を条件に参謀総長就任を受諾する旨を示した。

12月16日、閑院宮の参謀総長就任について、元老西園寺は決して悪いことではなく、閑院宮の決心如何による。

ただし、天皇と閑院宮の意見が一致し、一部の策動に担がれないようにしなければならない。

よって、皇族に責任が及ばないよう事実上の参謀総長として指揮を執る、参謀次長の人選には特に注意すべきである。

この意見が原田・木戸を通じて牧野内府に伝わり、承認を得て、着実に段取りが進められた。

こうして12月23日、閑院宮が参謀総長に就任した。

皇族参謀総長の復活は、1898年の小松宮彰仁以来である。

以上、閑院宮の参謀総長就任は満州事変・十月事件の中で、陸軍や平沼、宮中元老の意向が絡み合って実現した。

並立する諸機関の統合主体としての政党は、その正当性を失いつつあった。

軍事や外交は無統制を極め、深刻な事態に陥りつつあった。

その中で、皇族という権威・人的力量は、諸機関を再び統合しうる有力な手段であると、広く認識されていた。

軍部領袖との連携や枢密院強化といった平沼の権威主義的発想は、決して時代に沿わない矯激なものでは無かったと言えよう。

皇道派との提携

国家の危機を前に、平沼は首相候補として再浮上した。

提携する軍人を通じた軍部統制回復を構想する平沼にとって、状況は好転しつつあった。

31年12月、第二次若槻内閣が崩壊すると、政権は政友会に回り、犬養毅内閣が誕生した。

この組閣段階で平沼は荒木を陸相とするよう働きかけ、荒木陸相が誕生した。

荒木は陸軍の人事を刷新し、宇垣系官僚を一掃し、自らの息のかかった将校たちを次々に抜擢した。

更には32年1月、真崎が参謀次長に就任し、荒木一派は陸軍省・参謀本部で優位を占めるようになった。

これが所謂、皇道派である。

皇道派と提携する平沼は、陸軍にその支持基盤を得ることに成功した。

特に真崎とは、反共反ソ、反政党、満蒙問題解決の認識で意見をすり合わせており、その連携は強化されていた。

陸軍に皇道派というパートナーを得た平沼は、今や政界の中心にあった。

中央公論は、その様子を以下のように記している。

「隠然として保守派の中心にやう見られている。

議会と政党の現状に憚らぬもの、世相に憤慨して国事を憂ふる所のある人々は、大部分、平沼に期待している」

原田は西園寺に対し、平沼ならば軍部・政友会鈴木派・民政党党人派も挙国一致で同意する可能性があると報告している。

実際に、政友会鈴木派の領袖である森恪は、平沼擁立による挙国一致内閣を画策していた。

森はその理由を、民政党系内務官僚の伊沢多喜男に以下のように語っている。

「日本は今激動期にある。

挙手傍観しておればどんな不祥事が起こらぬとも限らない。

それを防衛するには挙国一致的政治勢力による政権を打ち建てなければならぬ」

つまり、平沼・挙国一致内閣を作ることで、クーデターを未然に防ごうという考えだ。

平沼ならば、軍部の輿望を集める強力な内閣を組織出来るという期待が高まっていた。

ただし、平沼は軍部の専横に全く無批判であったわけではない。

海軍の独走である上海事変に対しては

「海軍の致し方は穏当ならず、国際関係を今少し考慮して行動する必要あり」

と、国際関係の悪化を懸念している。

また、軍事以外のことに乗り出そうとする軍人を以下のように批判している。

「戦争は軍人にても宜しき、その他のことは軍人に任せては不可なり」

艦隊派との提携

平沼は皇族総長を擁立し、皇族軍人の権威で軍部を統制しようと考えていた。

そこで閑院宮参謀総長誕生後、海軍に対して伏見宮を軍令部長に就けるように勧告した。

一方、海軍側としても皇族総長擁立は切迫した問題であった。

それは軍部統制という問題以上に、ロンドン条約を巡る紛糾から、海軍部内は内部分裂状態にあったからである。

この状況を非常に憂慮していたのが加藤寛治である。

「海軍に党派あるを慨す」

と記したように、海軍は条約に積極的にコミットした海軍省系の条約派と、それに抵抗した加藤ら軍令部系の艦隊派の対立の様相であった。

部内には条約の兵力差を受け入れた海軍首脳部に対する不満が広がっており、少壮軍人が政治活動を行い始めていた。

加藤は伏見宮の軍令部長就任が、海軍部内の不満を和らげ、海軍の党派を解消するのに有効であると考えた。

平沼も海軍部内の混乱を「無政府状態」と表現している。

軍部統制と海軍部内の統一という問題意識が、皇族総長擁立するという形で連動し、平沼と加藤の提携はより深まった。

こうして32年2月2日に伏見宮軍令部長が誕生した。

そして、皇族総長の代わりに軍令部の指揮をとる軍令部次長には、艦隊派の高橋三吉が就任した。

平沼は海軍においても、皇族の権威という後ろ盾を得た艦隊派をパートナーとする事に成功したのだ。

革新陣営の星

犬養内閣は犬養首相・高橋蔵相が一丸となり、軍部を必死に押さえつけようとしていた。

高橋は閣議において財政問題を持ち出し、荒木陸相にこれ以上事変を拡大させないよう注意した。

犬養に至っては軍部統制の回復のために、閑院宮の権威を以って30名近い青年将校の免官を画策していた。

この状況に陸軍少壮は相当不満を抱いていた。

現状に不満を抱く勢力の中には、既成政党に見切りをつけ、革命を起こそうと企む者もいた。

このような危機の中で平沼は、軍部内で青年将校の輿望を集める軍人との関係構築に成功した。

陸海軍の中堅将校たちは、挙国一致内閣を組織しうる首相候補として、平沼の名前に挙げるようになった。

32年2月19日には、小畑参謀本部作戦課長が強力内閣の首班として平沼の名前を挙げた。

荒木陸相も軍部の暴発を憂慮し

「この際どうしても平沼でなければ収まらん。

今日のような内閣の状況では、閣議なんかの様子を見ても話にならん。

むろん自分が陸相である限りは陸軍に乱暴なことはさせない。

しかし今そういう事を画策して真に国家のために憂いている若い士官たちは、実に純真な気持ちであって、自分としてもみすみすこれを見殺しにするわけにはいかん」

と、平沼待望論を語っている。

このような国家の危機の中で、危機の震源である軍部から平沼の名前が出れば、当然平沼がその黒幕のように思われる。

平沼は国本社を通じて民間の国家主義者や陸海軍青年将校と連携し、国家改造運動に関与しているのではないか。

浜口首相狙撃事件や十月事件といった、テロやクーデターの黒幕は平沼なのではないか。

何ら証拠のない根も葉もない噂が宮中・政界に流布された。

平沼の可能性が高まるのと比例し、平沼の印象は更に悪化していった。

そしてついには、典型的な保守・守旧・反動の平沼が、まるで革新陣営の星であると認識されるようになったのだ。

ファッショの総本山

順風満帆に見えた平沼の活動であるが、まさかの出来事が発生する。

32年3月23日、イギリスの大手新聞紙タイムズが、国本社を日本におけるファッショ団体の代表として報道した。

これを受けて東京朝日新聞は以下のように報じた。

「国本社は世間一般からファッショの総本山かの如く見られている」

これは平沼にとって大きな痛手となった。

ファッショとはファシズムの事を指す。

平沼が散々振りかざした、国家主義・反政党・反国際主義はアドルフ・ヒトラーのようであるかもしれない。

ただし、ファッショとは日本においては非常に曖昧な言葉であった。

国家主義、国民主義、反議会政治・反政党主義、反共産主義、これらが一括りにファッショと呼ばれた。

民政党はファッショを個人の権利を蹂躙する独裁政治だと考えた。

よって、ソ連やイタリア、江戸幕府、藩閥政治は一括りに「根本思想においてはファッショの政治」なのである。

政治評論家の馬場恒吾は、軍部の支持を背景とする事をファッショであると評している。

また、西園寺はファッショを、単純に現状の政治を変革しようとする者の意味で多用している。

このように本来のファシズムとは程遠い認識であるが、総じて非常に悪印象を与える用語である。

国本を紐解くと、確かにファシズムは好意的に紹介されている。

20年代にはムッソリーニを、王室と家族主義を守る伝統・復古主義者として、評価している。

ヒトラー台頭後には、ファシズムの出現は歴史的必然であると賞賛されるようになった。

そして、連盟や九カ国条約といった国際的枠組みや、議会政治・政党、資本主義の否定が論じられるようになった。

しかし、国本の記事が全て平沼の政見というわけではない。

国本には平沼に思想が近しい観念右翼だけでなく、極右や革新右翼など幅広い思想の論文が、しばしば掲載されている。

彼らの過激で革新的な言論が、国本社をファッショ団体としてのイメージを作り出していった。

また、平沼はムッソリーニを評価しているが、それは尚武の精神を評価したものであり、独裁政治については以下のように批判している。

「我建国の精神とは全く相入れぬ事である」

「人臣にして独裁者たることは輔翼の範囲を超越するものにして大義名分を没却するもの」

そもそも平沼は危険思想の台頭を憂慮し、社会の革新を抑える為に国本社を創設したのである。

当然その危険思想の中には、国家改造やファシズムなど、国体に変革をもたらす思想も含まれる。

平沼は革新右翼を「西洋思想の焼き直し」と批判し、ファシズムとは敵対する立場にあった。

ヒトラーに対しても、このような批判を加えている。

「ヒトラーは大体国家社会主義である。

西洋には皇室がないからそれで秩序は維持してゆけるであろうが、ソ連の共産主義と大した違いはない」

だが、世間一般から見れば、平沼はそのようなイメージとは程遠いところにあった。

国本社を通じて軍部と連携する平沼の活動は、ファッショにしか見えなかったのだ。

平沼は32年4月20日、新聞に談話を発表した。

国本社の活動は伝統的な道徳の復活を目指すもので、ファッショとは無関係である。

そして、次のように、国体は不変であると主張した。

「天皇を中心として万民これを輔翼する政治は我道徳国家の要素にして永遠に変更すべからざるものである」

だが、以下のように、その文章は極めて抽象的で難解であり、ファッショのイメージを覆すことは出来なかった。

「我が国における革新運動は常に国家の最高目的を基礎として行われたのである」

こうして、平沼は極めて保守・守旧派でありながら、ファッショで革新派と見なされるようになった。

こうなればもはや国本社は足枷でしかなく、国本社の活動は停滞していった。

平沼も32年11月を最後に国本社の講演活動を停止して距離を置き、36年には国本社との関係を清算し、解散した。

なお、東京裁判において国本社は、玄洋社、黒龍会と並ぶ超国家主義団体と位置付けられた。

平沼も国本社の政治的役割、その会長としての立場を追及された。

だが、国本社の活動を理由に起訴された者は、誰一人としていなかった。

ファッショに近きものは不可

32年5月15日、犬養首相が決起将校に暗殺される515事件が発生した。

軍部の暴発を受け、陸軍は政党内閣では青年将校を抑える自信はないとし、政友会単独内閣継続に反発した。

また小畑敏四郎ら陸軍中堅将校が近衛文麿に対し、青年将校を抑えるには平沼しかいないと示唆した。

原田も平沼擁立の動きは止められないと認識し、宮中では平沼内閣が検討されるようになる。

平沼も大命降下を期待し、家に電話機を設置し、一室を新聞記者の控え室として貸し与えた。

一方で西園寺も、平沼を利用して危機を収束させることを一手段だと考えるようになっていた。

若槻内閣が総辞職した際は

「平沼を持ってきたり、宇垣を持ってきたりすることも出来なくはない」

と、名前を挙げているし、平沼・荒木の中間内閣についても

「そこまで行くも一策かも知れざりしも、あまり狼狽は為すまじきものと思ひ、まだそれ程のことにも非ざるべしと考え」

などと、その可能性を含ませている。

また、平沼の名前が政界に上がる状況については、このように語っている。

「平沼を宮中に入れることだけは絶対にしたくないが、やはり平沼を使ってなんとかするんだな。

結局まあ一時逃れのようなことだけれども、なんとかそのところを疎通させておく事を考えないといけない」

ところが5月19日、拝謁した元老西園寺に対し、昭和天皇は次期首相の注文として以下のように伝えた。

「ファッショに近きものは絶対に不可なり」

この当時、首相候補の中で、ファッショに近しい者と認識されていたのは、平沼くらいしか見当たらない。

ここに平沼説は急速に収束した。

天皇の注文を差し引いても、平沼擁立はまだ熟しているとは言えなかった。

西園寺は首相奏薦の前に東郷元帥、荒木陸相、上原元帥ら陸海軍上層部と面談したが、平沼を推薦したのは東郷のみであった。

平沼支持者と目された荒木は、政党内閣は困ると言うに留まり、平沼の名前を挙げなかった。

これは平沼と軍部の付き合いは上層・中堅官僚に限られており、少壮軍人は平沼をよく知らず、むしろ反対する声すらあった為である。

軍部の圧力を背景に、西園寺に平沼奏薦を迫るだけの環境は整っていなかった。

こうして西園寺は平沼の可能性を排除し、穏健派の斎藤実海軍大将を奏薦したのである。

東郷平八郎擁立論

政権を獲得出来なかったとはいえ、平沼にとって515事件は深刻な事態であった。

この問題をこのまま放置すれば大規模な暴動が続発し、治安上一大問題に発展しかねない。

5月19日、政友会単独内閣に対し、少壮軍人が憤慨して反対しているとの報道に接し

「この如き事になりては軍人、しかも下級軍人が政治に左右する事になり、一時はともかく後々に大なる禍根を残す事になり、寒心に堪えず」

と述べ、倉富に時局収拾の工夫をすべきだと語った。

それは、内大臣、侍従長、宮内大臣を更迭し、軍部に対して権威を有する皇族や軍人を宮中に入れるという構想である。

その際、宮中に入れるべき軍人は誰か。

平沼は、山本権兵衛や上原勇作は今や信望がないと切り捨てる。

ましてや宇垣に至っては三月事件で全く信用が失われた。

「今日にては陸海軍人中志を繋ぐに足るものは僅かに東郷平八郎一人のみ。

人格の信望は実に大いなるものにて東郷に対しては陸海軍を通じて誰一人これを非難するものなし」

このように平沼は、東郷を陸海軍に人望のある軍人であると非常に高く評価した。

過去には牧野内府に対して

「軍人跋扈の端を改めずば何とも致し方なし。

この際は天皇陛下が真実大元帥として軍を統率遊ばざる様にあり度陛下より東郷に対してご依頼遊ばされても宜しきことと思う」

と意見し、大元帥天皇の権威を背景に東郷が軍をまとめ上げる構想を披露している。

倉富は平沼の宮中郭清論に同調し、5月20日に西園寺に会見した。

今回の事件は軍部の不穏な空気が爆発したもので、軍人の弊風を制することが急務である。

しかし、処置を誤れば収拾がつかなくなるので、まずは軍人を安心させる必要がある。

軍人たちはロンドン条約以降、宮中側近に不満を抱いている。

そこで、宮中人事を刷新し、内大臣には伏見宮か東郷を迎えるべきである、と意見した。

平沼の東郷擁立論は、個人の権威・人的力量によって軍部統制を図るという考えを端的に表している。

だが、宮中にとって東郷擁立論は危険であった。

軍部に人望のある人物を内大臣に起用するという発想自体、非常に軍部に宥和的であるからだ。

また、東郷自身はいいかも知れないが、その取り巻きが宮中に入り込む事は、西園寺にとって最も避けたいところであった。

結局、東郷擁立論は具体的な検討段階まで行かずに退けられた。

平沼内閣擁立運動

斎藤内閣は暫定処置であり、政党が体勢を立て直して国民の信用を回復したならば、再び政党政治に戻ることが既定路線であった。

ただし、内外(昭和恐慌・満州事変)の危機が沈静化する前に斎藤内閣が倒れるような事態になれば、西園寺も平沼を選ばざるをえないだろう。

そのような可能性を尻目に、斎藤内閣は300議席を擁する政友会と対立と妥協を繰り返し、32年、33年の議会を乗り切っていった。

斎藤内閣は外交政策においては満州国を承認し、陸軍も敢えて政変を望む事もなく、むしろ存続を望んでいた。

このように斎藤内閣の初期段階では平沼内閣の芽は殆ど無かった。

だが、33年、陸軍においてソ連に対して予防戦争を仕掛ける、対ソ一撃論が台頭した。

平沼は反共反ソの立場にあり、ソ連との断交を主張しているが、それは軍人の不満を外に向ける為であり、ソ連と戦争するまでは考えていなかった。

平沼は、陸軍の対外強硬姿勢を危険な状態にあると考えた。

そこで陸軍における提携相手を、荒木から真崎に乗り換えた。

真崎は比較的穏健な対ソ・対中観を有しており、英米にも配慮を見せる姿勢を見せ、平沼の意向に近しい人物であった。

荒木は平沼擁立運動の中心人物ではなくなった。

一方で海軍においても極端な対米強硬論が台頭し、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約の破棄を訴えていた。

平沼は英米主導の下で締結された軍縮条約には否定的である。

「ヴェルサイユ条約は最早反古となりたり、元来無理なること多く、いづれ今一度やり直さざるべからざるべし」

と語っているが、それは英米と戦うことを意味せず、日英米で新たな関係を結びなおそうという考えであった。

陸海軍の相反する対外方針により、日本の外交はそれに引きずられ、連盟外交は悲惨な結果となった。

このまま行けば対ソ北進と対米南進が並行して行われ、日本は無謀な戦争に突入しかねない。

平沼は軍部統制の必要性を再認識した。

軍部上層部との提携関係を利用し、陸海軍の利害の調停者として、内外国策を統一しなければならない。

軍部の暴走を抑えられない斎藤内閣に代わる為、政権獲得に乗り出そうと動き出した。

平沼内閣擁立運動の開始

平沼が政権獲得に乗り出す上で、陸軍の不信を買った政友会ら既成政党は、もはやパートナーたり得なかった。

だが、実際に政権を運営する上では、与党となる議会政党は必要である。

そこで、平沼と新たな関係を持ったのが、国民同盟である。

国民同盟は、第二次若槻内閣総辞職後に民政党を離党した安達謙蔵ら党人派により結成された政党である。

党の中心には、かつて議会において平沼を糾弾した中野正剛があった。

中野は合法的独裁政治を主張しており、党の制服を黒で統一したほど、ナチスに影響を受けていた。

党の性格は革新的であり、積極的に軍部や右翼との接触を試み、平沼擁立こそが政権獲得の具体策であると考えていた。

33年1月、平沼は国民同盟の中野正剛の斡旋で近衛と会食し、政権への強い意欲を語った。

平沼は、このまま軍部に政治を委ねれば国家は何処に行くかもわからない。

自分には、陸軍に真崎参謀次長・秦真次憲兵司令官、海軍に加藤寛治軍事参議官・末次信正連合艦隊司令長官の人脈がある。

彼らを政権に参画させることで陸海軍を調停し、国防政策を統一出来る自信がある。

このように、軍部を統制しうる文官であることをアピールした。

そして、ファッショによる変革を否定し、議会政治を標榜しつつ、既成政党に対しては解散を含む強硬姿勢を披露した。

また、対外政策としては中国の面子を立て、満州国を承認させるよう努力すべきであるとし、穏健姿勢を示している。

10月には中野を通じて、陸軍中堅将校の鈴木貞一とも接触し、陸軍の要望を認める代わりに、陸軍中堅が平沼を支持することを申し合わせた。

更に平沼は薩派の樺山を通じて、牧野内府にも接近している。

牧野は政党観について平沼と近しく、軍部を調停出来る穏健政治家として平沼を評価しつつあった。

この様を西園寺は

「平沼内閣実現については、牧野内府によほど注意しておいてもらわないと困る。

平沼一派は牧野内府を味方にしようとすこぶる努力しているようであるから、木戸あたりに相当注意をしておく必要がある」

と語り、牧野が平沼に取り込まれているのではないかと度々危惧している。

平沼は陸海軍上層部、中堅将校、宮中、国民同盟、薩派といった幅広い政治勢力からの支持を得ようとした。

このような政治活動から、平沼は首相候補として名前が度々挙がり、政界の惑星と呼ばれるようになる。

33年、東京日日新聞の政治部長である阿部真之介は、平沼を首相候補の一人として以下のように評した。

「彼の強みは軍部との諒解が、満点であるに存する。

軍部の首脳部は、大多数国本運動の帰依者であって、彼の政界進出に反対しないのみか、寧ろ大に歓迎しているのだ」

ただし阿部は以下のようにも指摘する。

「彼の口癖にする国体精神は、道徳談義の範疇にあって、未だ政治理論のカテゴリーに入らない。

政治は方策であり、方策の実行だ。

平沼にどんな方策があるか、誰も聞かない。

彼も語らない」

平沼は観念的な国家主義的な発言を繰り返しており、現実の政治においては何をなすのか、その政見は曖昧なままであった。

ただ、曖昧であった分、現状打破を狙う勢力から幅広い支持を集めるに成功していた側面もあった。

平沼内閣擁立運動の最盛

33年秋、海軍は建艦競争を想定して巨額予算を要求したが、高橋蔵相はその4割程度しか認めず、海軍内部の不満が高まっていた

陸軍も荒木の対ソ一撃論や危機の提唱が五相会議において尽く退けられ、後退を余儀なくされていた。

11月21日、鈴木貞一は荒木に対し、内閣との対決を覚悟してでも陸軍案を貫徹すべきである。

農村救済予算で政府と対立する農林省と緊密な連絡を取って、この機会に倒閣に進むべきだと進言した。

平沼も政変が近いと見て、政友会の長老・小泉策太郎に対し出馬の意思を表明し、床次派を引き抜く意向を語っている。

鈴木も「内外の認識を同しうする者なれば何とも協力す」と、平沼支持を示唆した。

だが、荒木の政治的地位を守るために、軍事予算から1000万円を農林省に融通して、予算問題での倒閣を回避した。

荒木は政治保身と引き換えに部内の支持を完全に失い、皇道派においては平沼と親しい真崎が台頭した。

34年、平沼内閣擁立運動は最も迫力を有するようになる。

内外の危機が沈静化する中で、政界においては2年目に突入した斎藤内閣の後任を模索し始めた。

そこで33年末から斎藤内閣の後を見据え、政党内閣復活に向けて政党の大同団結、政民連携運動が盛り上がった。

ところが、政友会の内紛から連携運動は政策協定に後退し、政党内閣復活の可能性はいよいよ低くなった。

斎藤内閣の後継は斎藤留任か穏健派海軍軍人による継続内閣か、はたまた平沼内閣かに絞られた。

34年1月、荒木に代わって林銑十郎が陸相に就任した。

林は厳密に言えば皇道派ではないが、林は早々に平沼支持を表明し、陸軍は平沼擁立で固まった。

これは、斎藤の後継を狙って宇垣が出馬する噂があった為である。

皇道派も、皇道派の党派的人事を好ましく思っていない将校たちも、宇垣内閣だけは絶対反対の姿勢であった。

海軍も艦隊派の加藤が一貫して平沼を支持している。

この状況下で34年1月17日、時事新報において帝人株を巡る贈収賄疑惑が掲載され、政財界を揺るがせた。

これに連動して中島久万吉商相、鳩山一郎文相が相次いで辞職し、政局は大きく動いた。

いよいよ平沼内閣の可能性が浮上した。

原田は、平沼も大したことは出来ないだろうが、一度政権を渡すのも手であると考え始めた。

そして、近衛や木戸と会談し「急変の場合次期政権は一応平沼を出すの外なからん」と、結論に至った。

このように宮中も平沼擁立で固まりつつあった。

あとは、首相奏薦に絶対的な決定権を持つ西園寺の意向を待つばかりとなった。

枢密院議長人事問題

平沼の政権獲得に障壁はないと思われたが、ここで思わぬ事件が発生する。

それが枢密院議長人事問題である。

枢密院議長であった倉富は、不十分な審議でロンドン条約の批准を奏薦した事を、後悔していた。

「単に国務大臣の言責に信頼して条約の御批准を奏請する決定を為したるは御諮詢の聖旨を恪遵する所以に非ず」

眼病(老齢を意味する)を理由に、34年4月25日に辞意を表明し、枢密院議長人事が騒がしくなった。

枢密院議長のポストは、22年の清浦以降、浜尾新、穂積陳重、倉富と、副議長がそのまま昇格となるのが通例であった。

後任問題について、牧野内府は清浦の再登板を、斎藤首相は国本社との関係を清算する事を条件に平沼の名前を挙げた。

ところが、斎藤は枢密院議長の後任について、西園寺に御下問を願うなどと、筋違いの事を言い始めた。

元来、枢密院議長の任命は総理大臣の責任で行われてきた。

この人事を元老に御下問するなどは、前代未聞である。

斎藤は、それほどまでに枢密院議長後任問題を政治性があると認識していた。

そこで西園寺は枢密院議長の後任として、一木喜徳郎の名前を挙げ、一木が出ない場合は清浦あたりでまとまれば良いとした。

一木は憲法学者として明るく、自分も確信を以って推挙出来る。

世の中では副議長の昇格が慣例と言われているが、それは偶然の結果であり、捉われる必要もない。

「平沼が議長になれば、或いは軍人の一部が喜ぶかもしれないけれども、弊害が残って殆ど益はない」

と、平沼昇格案を断じている。

西園寺の意図を、原田は斎藤首相に対して、このように説明している。

「公爵は、単に平沼を議長とすることについて良いとか悪いとかいうのではなくて、枢密院議長の地位というものが非常に重大であるし、のみならず平沼の如き者がその地位にいて、色んな運動が携ったりするような、要するに右傾の運動だのなんかをますます盛んにするようになると困る。

即ちああいう類の人に勢力を張られるということは、非常に重大な結果を持つ」

これを伝えられた斎藤は、西園寺の言うことは尤もだと納得した。

昭和宮中某重大事件

この際、問題であったのは、一木が宮内大臣を辞職した経緯である。

33年、維新の志士であった田中光顕が宮中に出入りし、それが新聞で騒がれたことがあった。

この時、田中は一木宮相に対し、高松宮の婚儀について抗議をしたという。

事の顛末は以下の通りである。

明治時代、宮相にあった田中は天皇に、有栖川宮の王子を内親王に配したらと申し上げた事があった。

これに対し天皇は、あんな血統の所にはやれないと仰せられたという。

これは有栖川宮熾仁の妹の利子女王に精神疾患があった為である。

田中は一木に対しこの件を注意しておいたが、高松宮は有栖川宮の血統から妃を迎えてしまった。

これに激怒した田中は、不祥事の責任を取って辞職せよ、さもなくばこの事実を天下に暴露すると、一木に迫った。

そして、空いた宮相に平沼を入れるつもりであった。

だが、田中の言い分には相当な誤りがある。

そもそも高松宮の婚儀が決まったのは1913年であり、当時の宮相は渡辺千秋である。

一木が宮相になるのは、渡辺から波多野敬直・中村雄二郎・牧野と三代経った後である。

だいたい天皇からそのような御沙汰があったならば、何故後任の岩倉具定に引き継がないのか。

そもそも天皇が本当にそのような御沙汰を下したか、甚だ怪しい。

ともかく、皇室内の私事を振りかざす不敬極まる行為であるが、一木は持病もあったために辞職してしまった。

枢密院議長昇格阻止

牧野内府や湯浅宮相は、このような行きがかりから、一木が枢密院議長を受け入れるか不安であった。

一木も、もうこれ以上の栄転も望んでいないし、静かに余生を送りたいという気持ちであった。

だが、一木と会見した西園寺は「一つ国家に殉する決心をもって、この際受けたらいいじゃないか」と強く推して、枢密院議長就任を了承させた。

ここに大正時代から続く、枢密院副議長の昇格という慣例は覆された。

西園寺は何故そこまで平沼の枢密院議長昇格を忌避していたのか。

西園寺が枢密院議長をどのように考えていたのか、原田はこのように語る。

「単に枢密院の議長という、枢密院の内部関係ばかりの事ならば、この人事にそれほど重きを置くことは無かろうけれども、とにかく枢密院議長という地位は、政治の全面的の問題に非常に影響のある地位であるし、大局から見てよほど重大性を帯びている」

これは、元老が西園寺ただ一人となった以上、将来的に後継首相に関する御下問が枢密院議長にされる可能性が高い事を指す。

牧野内府もこの観点から、枢密院議長の人事はそれに鑑みて行われるべきだと考えていた。

ただそれ以上に、西園寺が恐れたのは平沼の宮中入りである。

枢密院議長は天皇の側近となる事を意味する。

その地位に政治的な人物が着けば、宮中に政治的責任が及びかねない。

ましてや平沼の取り巻きには、国本社の右翼や軍部といったファッショが控えている。

「右傾というものは大体ファナティックである。

そういう者を宮中あるいは宮内省に入れることは絶対に困る。

自分はこれから長く生きる者でもないが、近衛や木戸や貴下なんかには、絶対ファナティックな空気を宮中や宮内省に入れるようなことはしないでもらいたい」

西園寺はこのように語るほど、右傾勢力が天皇皇室に接近するのを警戒していた。

平沼内閣擁立運動の断念

5月3日、一木が枢密院議長に就任した。

この間の宮中の動きは全く世間に洩れておらず、平沼の昇格が当然と思われていた中で、思わぬ人事であった。

原田はこの人事により「一種の不安な空気を離散」させ「世の中を非常に朗らかにした」と記している。

一方、平沼にとっては衝撃的な人事であった。

枢密院議長は政権を狙う上で決して有利となる地位ではない。

だが、慣例が覆されて枢密院議長昇格を阻止された事で、西園寺が平沼を忌避している事が白日の下に晒された。

東京朝日新聞は、これを端的に記している。

「政府、元老、重臣等の平沼男に対する露骨なる不信任の意思表示」

国民同盟も、西園寺の不信任が明らかになった以上、平沼擁立から距離を置き、挙国一致内閣の準与党化に舵を切った。

この時、平沼には枢密院副議長を辞して、堂々と政権獲得に乗り出すという道があった。

西園寺には斎藤内閣の後継となりうる適当な首相候補が見当たらなかった。

切り札の一つである宇垣に関しても、軍部の反対運動が根強く、とても出せる状況にない。

宮中側近からは海軍穏健派の岡田啓介の名前も挙がったが、西園寺は岡田を「手足のない人」と評し、その力量に不安を抱いていた。

手足とは、岡田には政党の支持もなく、政治的野心にも乏しいという意味である。

それに、西園寺は平沼の枢密院議長就任は認めがたいが、政権獲得自体には絶対反対ではない。

枢密院議長人事について、牧野が「平沼を圧迫されるから困る」と苦言を呈すると、西園寺は以下のように語った。

「枢密院議長にならなかったからといって、総理大臣になれないわけでもないぢゃないか。

平沼に限らず、それこそいかなる人と雖も、適当な人があったら総理大臣にしてもいいぢゃないか」

この意図を汲んだ原田は、木戸を通じて牧野に注意した。

「平沼自身が総理になることは敢えて差し支えはないかもしれんけれども、しかし、今日平沼を担ぐ連中、或いは担いでいる連中の間に、平沼が総理になったからといって、その総理の地位を利用していろんな空気を作る機会を与えることは、或いは国家のために思いがけない有害な状態を生ずる虞のあることだ。

ことに、宮中方面に対して手を入れるとか、或いは、宮中と政府の関係をますます疎遠にし、間隙を生じさせて面白くないようにするというようなことが起こり易いことは明瞭である。

で、今日、とにかく漸次に落ち着いて行って、でき得べくんば所謂ノーマルな状態にして、その基礎を固めておき、そうして新たな時代の要求する、或いは時代をリードして行く政治を実現して行かなければならないのに、根底を覆すような望ましからぬ空気の醸成されることは、元老としてもよほど考えておかなければならんという所にある」

このように西園寺は宮中に平沼一派が潜り込む事を最大限に警戒していたが、平沼が政権を獲得する事は、絶対に不可という訳でもなかった。

平沼には西園寺の言う「手足」があったからである。

だが、そのような西園寺の意図など平沼や世間が知る由も無い。

平沼は精神的に大打撃を受け、真崎に対し、その苦悩を語っている。

「清浦、宇垣の輩と同一視せられ政権亡者のごとく見なされ、如何なる発言を為しても権威なく、予としては殆ど堪え難い」

こうして平沼は政権獲得を断念し、平沼内閣擁立運動を自ら打ち切った。

加藤寛治擁立

陸海軍を包含する平沼内閣擁立運動は強力であったが、平沼には枢密院副議長を辞して打って出るような胆力はなかった。

西園寺が生きている間は自分は首相になれないと落胆し、早々に政権獲得を断念してしまった。

だからと言って危機は去る訳でもない。

「現状においてもこのままにて進まば争乱に陥るを免れず、元老重臣は時局を認識せず旧勢力を以って支配せんとするも到底成功を期しがたい」

このような危機感の下、決心を語り、次なる政治運動に乗り出した。

「危機より国家を救うは予等の義務と信じあり」

5月22日、平沼は真崎に対し、後継首班について以下のように語った。

「加藤海軍大将を最も適当と信ず、予は自ら首班たるの地位を棄て全力を以って隠然これを補佐せんと欲す」

平沼が加藤を推したのは、自分が政権を取れない以上は、軍人に軍部の統制を行わせるしかないと考えたからである。

そして、陸軍内閣ではない理由は、直近の政治日程に第二次ロンドン海軍軍縮会議があったからである。

平沼は加藤擁立に向け、陸海軍の結束を求めた。

ところが、あまりに突然の方針転換に軍首脳部は困惑した。

5月23日、加藤擁立を聞いた林陸相は、加藤を推す事には反対こそしなかったが

「加藤大将が海軍のことのみを考え満州を軽んずれば成立せず」

と、海軍内閣において陸軍の主張が軽視される事を懸念し、結局は平沼でなければ時局を収拾できないとした。

一方で海軍も加藤擁立には消極的であった。

陸海軍の共同戦線を持ちかけられた大角岑生海相は、海軍が政治的主導の位置に立つ事を恐れ

「この事失敗せば将来海軍に重大なる結果を来する」

と述べて、擁立運動から距離を取った。

平沼を支えてきた薩派の樺山も、加藤擁立には反対を示した。

海軍や薩派の姿勢を見て、真崎も態度を翻し、以下のように平沼に加藤擁立の再考を迫った。

「全般の形勢は未だ軍部内閣組成に迫りあるもの認むるを得ず」

このように平沼周辺は分裂の様相となり、加藤擁立運動は完全に停滞した。

平沼が出ないとなれば宮中元老への圧力もなく、宮中が主導して海軍穏健派の岡田が擁立され、すんなりと斎藤内閣は継続された。

なお、平沼は意見書まで認めて、西園寺に加藤擁立を働きかけたが

「余程、枢密院副議長としてどんなものかと彼の態度に尽きて話をしてやろうと思ったが」

と不快感を露わにされて、加藤擁立を一蹴された。

この言葉通り、やはり平沼は枢密院副議長の地位で政治活動を行うという事が何を意味するか、理解出来ていなかったのだろうか。

平沼内閣擁立運動のその後

平沼を支持してきた諸勢力はこの時期を境に急速に勢力を衰えさせていった。

まず、官界における支持基盤であった薩派である。

薩派は33年に山本権兵衛が亡くなり、首相・元老候補を喪失して、政界を引っかき回す単なる撹乱装置に転落した。

そんな中で薩派は平沼擁立に一途の希望を抱き、平沼も海軍に勢力を持つ薩派を抱く事で、軍部の統制を図ろうとした。

だが、艦隊派の東郷・加藤は、あまりにも政治的な薩派を嫌悪し、感情的に対立していた。

彼らの頭の中には、山本・薩派が政治に突っ込みすぎたせいで、海軍予算が不成立に追い込まれた、シーメンス事件の悪夢があったのだろう。

平沼は加藤に対し財部と手を結ぶよう勧告していたが、結局、艦隊派と薩派の和解は成立しなかった。

薩派は海軍においては孤立し、政界においては大立者を失い、平沼擁立にも失敗し、完全に影響力を喪失した。

次に海軍における支持基盤であった艦隊派である。

加藤の大きな後ろ盾であった東郷が34年5月に亡くなり、艦隊派は権威の片翼を失った。

そして艦隊派の権威のもう一片であった伏見宮も、加藤・末次らの政治的な言動に不信感を抱くようになっていた。

34年8月、艦隊派は軍縮反対で大角海相を突き上げる為に、連合艦隊全艦長連署の上申書をまとめ上げた。

これを末次連合艦隊司令長官が大角に取り次ぎ、その写しを伏見宮に渡した。

これを読んだ伏見宮は、末次の筋違いを叱責した。

「いやしくも連合艦隊司令長官ともあろう者が、かくの如き上申書を部下から受け取った場合に、唯々としてこれを大臣に取り次ぐことは甚だ不当である。

かくのごとき場合はむしろ部下を戒めて、自己の本分をもっと忠実にやれと言って、上申書は自分の手元に留めておいて、上に取り次ぐことを断るなり、取り次がないのが当然であるのに、これを取り次いだとはけしからん」

しかもこの上申書は加藤の指示によって作られたものであり、連合艦隊艦長の預かり知らぬ所にあった。

伏見宮はこれに激怒し、加藤の政治的策動を二度も叱責し、末次に対しては海相が訓戒を与えた。

伏見宮は艦隊派の後ろ盾として条約派将校追放にお墨付きを与えていたが、その人事の非すら認めていた。

「自分は片耳であったから今まで言ったことは全部取り消す」

伏見宮の信任を失った艦隊派は、10月に加藤が予備役に編入される形で、海軍中枢から追われた。

最後に陸軍における支持基盤であった皇道派である。

加藤擁立以降、皇道派将校たちの平沼に対する信頼感は、極めて低くなっていた。

平沼は陸軍統制のために次期陸相として建川美次を推し、これをどう扱うか真崎は荒木と話し合った。

これに対し荒木は

「平沼に政権の来る事断じて無からん、かくして失敗したる時、何人が責任の衝にあたるや。

この際、青年将校より責め立てらるれば進退に窮するに至るべし」

と反対を示した上で、平沼は加藤擁立問題の後始末もしていないと批判した。

そんな中で、皇道派の党派的人事に反発した将校が、陸軍主流派を形成し、派閥抗争が激化した。

35年7月には真崎が教育総監を更迭され、平沼を支持していた林も相沢事件の責任を取って辞職した。

平沼は、陸軍における支持基盤を完全に喪失した。

以上を振り返ると、平沼内閣擁立運動の性格が表れている。

平沼の支持基盤は軍部・官界に広く渡っており、その人的力量は西園寺ですら無視し得ない存在であった。

ただし、彼らを結びつけるのは、軍部統制という課題だけである。

その他は、陸軍、海軍、薩派が異なる思惑で平沼擁立に相乗りして、緩やかに連帯しているだけであった。

彼らの政策や政治思想はバラバラで、艦隊派と薩派に至っては感情的に対立している等、危ういバランスの上に立つ呉越同舟的集団であったのだ。

そのバランスは平沼への期待の上で成り立っていたが、平沼が政権獲得を断念し、加藤を擁立した時点で脆くも崩壊した。

自身の政治的意欲の低下、支持基盤の没落により、平沼内閣擁立運動を支えた諸勢力は完全に消滅した。

平沼騏一郎のその後

平沼はすべての政治運動に失敗し、あらゆる政治運動を避けるようになった。

岡田内閣で発生した国体明徴運動にも距離を置き、憲法解釈が枢密院に諮詢されないように注意を払っている。

政界においても平沼を擁立する声はなく「政界低気圧の発生地」と称された平沼の周りは、驚くほど静かになった。

この事がかえって平沼を首相候補たらしめた。

226事件を経て軍部や官界に、国家総力戦を志向し、強力な挙国一致内閣を望む革新勢力が台頭していった。

時勢がファナティックとなる中で、独裁やファッショを否定し、天皇皇室を奉ずる権威主義者・平沼は相対的に穏健化したように見えたのだ。

こうして、平沼は革新派ではなく現状維持派の陣営として数えられるようになる。

36年3月には一木が枢密院議長を辞職するにあたり、平沼は順調に枢密院議長に昇格した。

もはや西園寺さえも平沼の昇格を阻止を止めなかった。

そして39年、近衛内閣が倒れる際に、いよいよ平沼に政権が回ってきた。

平沼内閣擁立運動から既に5年、その時に多大なエネルギーが消費された事から、平沼は「既に冷却した鉄」と評された。

後世平沼は、自らの政治活動を回顧して、自虐的にこのように述べた。

「この時代終始嫌われてきたのが私の今日までの歴史である」

平沼内閣擁立運動の意義とその問題点

憲法が定める分立的統治構造の弊害を克服し、どのように軍部を統制するか。

大正・昭和時代の政治家であれば、誰もがその政策課題に直面する。

これに平沼は、陸海軍の有力者を自派に取り込み、人的力量と権威を以って軍部を統制しようと試みた。

その中で自分を陸海軍双方の利益の代表者、調停者と位置付け、対外強硬に傾きがちな陸海軍を抑えようとした。

そして、内政・外交国策を統一し、挙国一致内閣を組織して日本を導こうとした。

このように書けば平沼内閣擁立運動は非常に強力であり、政権獲得の可能性も十分あったろう。

だが、実際に政権を運営出来るかは非常に怪しい。

まず、議会工作であるが、平沼が頼みにした国民同盟は僅か30議席の弱小政党である。

しかも、平沼が提携相手とした中野は、その国民同盟の多数派ですらない。

政友会は政党内閣復活、民政党は穏健派中間内閣支持の中で、平沼は議会の支持を得られるのか、非常に怪しい。

次に、平沼は国家主義的言説を繰り返す一方、具体的な政策・政見の多くを語らない。

この為に、現状に不満のある勢力を広く平沼内閣擁立運動に取り込むことに成功する。

だが、過激な言説とは裏腹に、実際の政治行動は至って穏健であり、ギャップが生じる政治家であった。

これを西園寺は「エラステック(柔軟)」昭和天皇は「ズルい」と評するのである。

果たして平沼は、政権を掌握した時に、呉越同舟の支持者全てを満足させるだけの政策を提示出来たのであろうか。

荒木は平沼批判に対し「平沼の周囲が悪くても、平沼自身はそう悪くない」と擁護した事がある。

その「悪い」取り巻きを平沼が御せるのか、甚だ疑わしい。

もう一つ、陸海軍内部に協力者を得て、人的力量を背景に軍部を統制するやり方も問題であった。

この平沼の発想は何も珍しいものではなく、過去の内閣において度々採用されている。

その最たるものは、原敬首相が田中義一陸相と加藤友三郎海相を通じて行った統制であろう。

これを可能としたのは、田中や加藤といった優秀な軍部大臣を中心に、軍部が統制された組織であったからだ。

だが、昭和以降の軍部は下克上が蔓延し、軍部大臣もそれを御せず、軍部の統制は大いに乱れた。

たとえ陸海軍に真崎や加藤のような協力者を得ても、彼らが軍部を統制出来るとは限らない。

しかも、皇族を擁立してしまった以上、彼らが皇族総長から信任を失えば、一気に平沼の構想が崩れる危険性もあった。

平沼構想はあまりにも属人的であった為に、現実の政治状況の変化に柔軟に対応出来ない脆さがあった。

ただし、帝国憲法の枠内で分立的構造の統合を為そうとするならば、どうしても属人的にならざるを得ないというのは考慮すべきである。

最後に、平沼の政治ビジョンにも問題がある。

平沼は一貫して司法部にあり、政治家を志したのも思想問題の悪化が理由である。

それ故に、政治家に必要不可欠な外交や経済に関する政見を何ら有していなかった。

それは平沼も自覚しており、自分に足りない政見を補う為に、国本社の官僚や軍人達から意見をよく聞いている。

だが、彼らはそもそも平沼と政治観が近い人物であり、政治家としての視野は極めて狭いものとなった。

平沼と懇意であった池田成彬は、平沼は司法官僚だけあって法律問題に詳しい一方、外交や経済は全く詳しくなかったと振り返る。

その内、外交と教育については熱心に研究をされたが、経済については最後まで理解出来ず、全部池田に聞いてくる始末であった。

ちなみに池田は、平沼と同じように外交・経済に詳しくない政治家として、近衛文麿の名前を挙げている。

以上を振り返れば、平沼が34年に組閣したとしても、果たして軍部の暴発を止められたか、定かではない。

ただ、ここで考えねばならないのは、平沼内閣擁立運動を元老西園寺が強引にねじ伏せてしまったという事である。

いくら枢密院議長と総理大臣の地位が全く違うとはいえ、枢密院議長昇格を阻止すれば平沼内閣擁立運動に大打撃を与えることは、西園寺も理解していただろう。

それを承知で、平沼とその取り巻きの宮中入りを警戒するあまり、半ば慣例と化した副議長の昇格人事を捻じ曲げた。

その人事の結果として、政界に台頭してきた政治運動が潰された。

しかも、平沼を退けてまで誕生した岡田内閣は、西園寺の危惧した通り手足がなく、組閣早々、政友会と対決を余儀なくされた。

岡田内閣は高橋是清の入閣がなければ頓死する可能性は高く、そうなれば政局は未曾有の大混乱に陥る恐れがあった。

西園寺は皇室の事を第一に考えており、その行動に私心がない事は疑いようがない。

しかし、元老の持つ首相奏薦と宮中人事の機能が強大であるが故に、西園寺一人の振る舞いによって政界が左右される属人主義が展開された。

それが全てが全て良いように転べば問題はないだろうが、西園寺の判断が常に正しいとは限らない。

ましてや、それが政界の流れを歪めるような不自然な決定であれば、そこに多大な責任が生じるだろう。

だが、西園寺は自分が奏薦した内閣の不始末の責任を負うこともない。

ここに戦前の属人主義の問題点が見えてくるのである。

参考書籍

平沼騏一郎-検事総長、首相からA級戦犯へ 萩原淳
平沼騏一郎と近代日本 萩原淳

man

平沼騏一郎の本格評伝にして、基本の一冊。

日本政治史の中のリーダーたち 伊藤 之雄・中西 寛編

man

平沼内閣擁立運動について。

平沼騏一郎と一五年戦争 滝口剛

man

平沼の反動・権威主義について詳しい。

西園寺公と政局 原田熊雄述

man

西園寺とその周辺が平沼をどのように見ていたか、ありのままに描かれる。

枢密院 近代日本の「奥の院」 望月雅士
枢密院の研究 由井正臣編

man

枢密院と平沼騏一郎について。

1920年代の日本の政治 日本現代史研究会/編
20世紀日本の天皇と君主制 伊藤之雄編
昭和維新試論 橋川文三

man

国本社と、その性格について。

挙国一致内閣期の枢密院–平沼騏一郎と斎藤内閣 佐々木隆
平沼内閣運動と斎藤内閣期の政治 堀田慎一郎

man

斎藤内閣における平沼騏一郎について。
従来の平沼陰謀論を覆す内容で、平沼研究の画期である。

ロンドン海軍軍縮問題と平沼騏一郎 手嶋泰伸
平沼騏一郎内閣運動と海軍-一九三〇年代における政治的統合の模索と統帥権の強化 手嶋泰伸

man

海軍と平沼の関係性及び、平沼の軍部統制の試みについて。

皇族参謀総長の復活–昭和6年閑院宮載仁親王就任の経緯 柴田紳一

man

皇族参謀総長復活の経緯に詳しい。