満州国承認とリットン報告書
リットン調査団
1931年12月10、連盟理事会は満州事変の事実関係を調査するために、調査委員会の設置を決議した。
連盟は満州事変の調停に行き詰まっており、この調査団が解決をもたらすとの期待が高まった。
日本としても、中国の排日や匪賊・馬賊横行の実態など、満州事変の正当化に用いてきた事実を裏付けてくれるものだと期待した。
32年1月20日、英国のヴィクター・リットン卿を中心に、米仏独伊委員と日中参与からなる調査委員会が結成された。
俗に言うリットン調査団である。
リットンは父にインド総督を持ち、インド・ベンガル州の知事や総督代理、連盟のインド主席代表を歴任する実務家であり、植民地行政に長けた人物である。
他の委員も皆、植民地の行政・軍事や紛争解決の専門家であり、この点で言えば、日本の期待に沿う人材であった。
2月3日、欧州を出発した調査団は、米国を経由し、2月29日に横浜に到着した。
帝国ホテルで記者会見に臨んだリットンは、調査団の目的を満州事変の事実究明ではなく
であり、将来への展望を目指すものであると語った。「日中両国をして永久的協定の基礎を発見せしむるよう両国に対して連盟の援助を提供せんとするもの」
だが3月1日、満州において中国から分離独立した満州国が誕生し、日中和協の試みに早くも暗雲が漂うようになった。
調査団の極東入り
調査団は日本において、当時の芳沢謙吉外相と何度か会見を重ねている。
芳沢はこの会見の中で、中国は1905年日清条約に基づく満鉄平行線禁止や1915年日中条約を認めないと、中国に対する不信感を表明している。
3月7日、リットンは、中国に満州の治安維持の能力がないとした場合、日本はどのような方法を取る得るのか質問した。
考えられるのはまず満州併合であるが、日本は領土的野心を持たないと既に声明している以上あり得ない話だ。
それでは国際的に管理する方法が考えられるが、日本は受け入れ可能なのかと問い質した。
芳沢はこれに対し、日本は日清・日露戦争で満州に多くの血と国費を投じているので、国際的管理は日本人の感覚には合わないと回答。
リットンはならば、自治政府しかないと述べた。
次に調査団は中国に渡り、南京において汪兆銘行政院長と会談した。
3月30日、リットンは日本の主張する日清条約と日中条約の有効性について質問した。
汪は1915年当時、中国の議会は袁世凱により解散させられており、対華二十一ヶ条要求は議会の承認を経ていないので無効であるとした。
リットンは、ならば袁世凱が結んだあらゆる国際条約は無効であると主張するのかと問い質した。
条約否認の姿勢をリットンは、一国の政権が前政権の負った法的義務を否認するようになれば、国際間の全ての手続きは崩壊すると、厳しく警告した。
これに対し汪は、議会が正式に否認したもの以外の条約は遵守する姿勢を見せた。
また、中国は過去数年混乱の中にあったが、国民政府成立以降は再建に尽くしており、あらゆる点で進歩していることを強調した。
更にリットンは満州問題について、満州の治安維持・領土保全を国際連盟の協力の下で行う構想を披露した。
これに汪は、中国の主権と領土保全が前提であるならば異論はないと回答した。
張軍閥の腐敗
4月9日、リットン調査団は北平に到着し、同地を支配する張学良と対談した。
張は東三省について、人種・政治・経済上、いずれも中国本土と分離出来ない関係にあること。
それを中国の一部ではないと詐称したり、非合法な政府を樹立させて中国と分離させようとする日本の行動を、九カ国条約違反であると非難した。
また、中国の混乱については改革期の経過の中の出来事とし、日本の明治維新になぞらえて、中国は統一された国家ではないという日本の批判を断じた。
そして、今回の事件を、中国統一に対する日本の嫉妬であるとの見解を述べた。
このような説得もあったが、調査団は満州に張作霖・学良親子による個人支配の腐敗があったと認識していた。
満州の特産として有名であったのが大豆だ。
満州の大豆は食糧以外にも、化学技術の革新によりガソリンの原料としても重宝され、日本や欧州に輸出される国際商品となった。
この満州経済を支える大豆に目をつけたのが張作霖である。
一般的に満州の特産品は農家から中国の穀物問屋が買い付け、彼らを介して駅や港に集められた輸出された。
これに対し張は、通貨を増発して配下の商人に大豆を買い占めさせ、それを輸出商に売却して大量の外貨を獲得した。
問題なのは、その外貨は軍閥の武器や軍需品等の軍費に転換された事である。
これにより、外貨が国内で循環されず、増発された通貨が回収されないので、大豆農家が手にした通貨の価値が暴落し、インフレーションが発生した。
貨幣暴落の中、張は強制兌換によってなおも大豆を収奪し、それに応じない商人を逮捕するような暴政を敷いた。
農民は充分な生活用品を購入できなくなり、農村の購買力低下は邦人商人の経済活動にも支障をきたし、満州経済は崩壊寸前となった。
張作霖は満州を関内進出の踏み台程度としか扱っておらず、張の暴力的支配によって打撃を受けた地主層を中心に不満が渦巻いていた。
日本は張軍閥を「秕政」「苛斂誅求」と批判していたが、これは満蒙権益を正当化する言いがかりだけではなかったのだ。
リットンは張学良に関しては開明的であると評しているが、軍閥は腐敗しているとの認識は崩さず、張政権自体には高い評価を与えていなかった。
内田康哉
4月21日、リットン調査団は奉天に入り、ここから44日間にわたる満州視察が開始される。
満州国は調査団を厚遇し、本庄繁関東軍司令官や石原莞爾参謀以下、現地で指揮を取った将校たちと次々会談した。
その中で、内田康哉満鉄総裁との会談が重要であった。
内田は陸奥宗光に見出された外交官で、西園寺・原・高橋・加藤友内閣の外相を歴任した人物である。
ヴェルサイユ講和条約やワシントン条約の締結に尽力し、不戦条約調印の際には日本代表を務めた、外交界の最長老だ。
その見識や豊富な経験を買われ、1931年に病に倒れた仙石貢の後任として満鉄総裁に就任し、日本の満蒙経済政策を遂行した。
ところが満州事変が勃発すると、それまでの国際派外交官のイメージをかなぐり捨て、関東軍の代弁者と化した。
内田は意見を変えやすい事からゴム人形と揶揄されていたが、元々アジア主義的傾向があった事から、積極的に関東軍に協力する姿勢を見せた。
当初は内田に不信感を抱いていた関東軍も、心事を了解してくれると評し、陸軍も内田が満鉄総裁であったことを「天祐」と語ったほどである。
かつて内田を「日本一の外交家」と評した元老西園寺公望は、帰国した内田の話を聞き
と懸念するほどであった。「内田の話には自分は実は頗る失望した。
国際連盟の面目も維持し、アメリカに対しても相当に好意を感じ、日本の面目も立ち、アメリカの行為に報いることも出来るという風に、この際慎重な態度をとらなければいかん、という大局的な見方を力説していた点は、さすがは玄人だけあって、他の素人の総裁よりも外交にかけては頗る安心である。
しかし満州に対しては意外に強い意見なのには、自分は実に失望した。
やっぱり満州の空気を吸って来て、多少陸軍に圧せられてああなったのぢゃないか」
当時の幣原喜重郎外相も内田の強硬意見に呆れ、このように述べた。
なお、内田は関東軍への傾斜について、西園寺の秘書である原田熊雄にこのように自己弁護している。「一体こんなことでやれると思うなら貴下がやったらどうですか。私に替ってやって下さい」
「これはもう若い連中が中心である以上、やはり自分も陸軍の中に入って、彼らを牽制して行くより途がないと思ったから、方法を変えてみた」
内田満鉄総裁・リットン調査団会談
5月26日、大連において内田とリットン調査団が会談した。
内田は中国について、以下のような観念を披瀝している。
自らは中華民国の官吏とは直接交渉した経験はないとしつつ
しかし、清朝時代は西太后という絶対権力者がいたが、現代にはそのような全責任をもって信頼をおくに足る最終的決定を下す者はいない。「新支那との交渉事情と旧支那との交渉事情の間には、大した差異はないものであると信ずるものである」
内田は現在の中国外交を、学生や無頼などが中国官吏を襲撃する危険性から、自由がないと説く。「何時事件が起こって交渉を延期し、或いは破裂せしめるかも判らないし、支那には相談すべき者があまりに多数であり、かつ交渉担当の支那官吏は多くの非難を受けねばならぬので、可及的に秘密を守るのが自己の利益であるから、条約或いは協定が現実に調印されるまでは確実性のないものであるからである」
満州軍閥は形式的に南京政府に権力を移譲したことを口実に、日本との交渉を中国政府に押し付けた。「全国に対して責任と権力を有する統一国家の承認せられたる政府が建設されることは、理論上は支那と列国との交渉を容易にするように見えるが、実際の経験によればそうでない」
中国政府はこれを満州に追い返し、堂々巡りによって交渉は遷延され、双方ともに何ら責任を取らず、紛争の解決は日本の企図が全く不可能になった。
このような不信感を露わにしている。「満州が名義上統一政府の一部になったことは、交渉を容易にするどころか、かえって邪魔したのである」
リットンは日本の満蒙における地位に理解を示しつつ、満州国の存在に疑義を抱いていた。
満州問題は現在のままでは中国の理解を得難く、解決の望みがない。
リットンが重視したのは、満州国は満州人民が自発的に設立したのか、日本に嫌々押し付けられたのかである。「もし支那が承認しなければ、争乱絶えることなく、日本は駐兵に久しきにわたり、幾多意外の事変に遭遇するものと覚悟しなければならない。
これに反し、その兵を減じ、その援助を止めたら、満州国は到底自立し得ないだろう」
調査団が満州滞在中、民間代表と面会し、彼らは一様に満州国は民族自決によって建設されたと説き、張学良軍閥の悪政を批判した。
だが、調査団が本当に会いたかった、日本に批判的なグループとは接触すら出来なかった。
満州国は調査団の一挙手一投足を厳重な監視下に置き、会談を厳しく規制し、手紙すら検閲していたのだ。
ただ、各国の領事や現地で布教活動に従事する宣教師からある程度の情報を仕入れる事には成功していた。
その情報曰く、大多数の満州人は新国家建設や中国からの分離に反対し、これに対して日本軍は言論統制や教育弾圧を行っているという。
自分たちは満州において常に監視され、会いたい人に会えず、聞きたいことも聞けなかった。
と、リットンは暗に満州人の本音を示唆してみせた。「何ら威圧の加えられる虞なからしめて、街頭の満州人に尋ねたならば、心から満州国を謳歌している者は幾らあるか疑問である」
満州国の出発に無理があるのならば、満州問題の平和解決は難しい。
リットンは自分たちは解決案を協議する全権委員でもなく、解決案を日中双方に押し売りするものではないとしつつ「日本がその兵と援助を引き去るときは、民意に依らない満州国は、その存立を失う虞がある」
そこで、調査団は公平に第三者の立場において事実を確認し「終局は時の解決に委ねる外ないであろうが、見方の間違いより生ずる全ての結果は、日本がこれに当たらなければならない」
研究し、それを連盟の考慮に供せんとするものである、と述べた。「何か日本の欲するとするところ総てを確保し、同時に支那の面目を立て、双方に受諾しえらるべき案がないだろうか」
これに対し内田は、満州人は軍閥の悪政に苦しんでいた為に新国家を歓迎し、その樹立に努力したのは当然であると信じる。
と力説し、満州国承認以外の解決策を受け容れない旨を示唆した。「如何なる解決法が案出さるるとしても、これが当事国により実行せられなければ、何らの効がない」
悪夢
リットンは満州滞在中、妹に宛てた書簡を通じ、英国政府に満州の実情を伝えた。
この書簡はジョン・サイモン英外相やヘンリー・スティムソン米国務長官にも回覧されている。
リットンは書簡の中で、満州の人々が腐敗した張学良政権の交代を望んでいるのは事実としつつ、満州国については虚偽であると断じた。
満州国政権に参加している満州人は脅迫や買収により強要されており、彼らは何ら実権を有していない。
日本は満州に100万人の日本人がいると強調するが、3000万もの中国人の土地が強奪されているのが実態である。
確かに中国は混乱状態にあり、無秩序である。
ただ、その混乱の大部分は日本が作り出したものであり、日本は中国の再建を支援しようともせず、むしろ統一による強大化を常に妨害してきた。
日本人は、中国を傷つけることは自分たちを傷つける事だと未だに気づいていない。
このように述べた後、満州の滞在を「悪夢」であると、気持ちを吐露している。
6月3日、リットン調査団は柳条湖の爆破地点を視察した後、満州の悪夢から離れた。
一連の調査から、リットン調査団は満州事変が関東軍の謀略であり、鉄道も関東軍が爆破したと確信するに至った。
ただし、それを糾弾したところで日本の反発を招くだけで、満州問題が解決するわけでもない。
日本に満州の野望を放棄させるのは非常に難しい。
とはいえ、満州の既成事実を丸ごと受け容れては国際秩序は成り立たなくなる。
中国に戻った調査団が報告書の起草に着手する中、6月19日にリットンが汪兆銘と会談した。
リットンは満州を調査した結果、満州人の誰もが31年9月18日以前の原状復帰を望んでいない旨を伝えた。
つまりは張学良軍閥の満州支配を否定し、文民による自治政府の線で妥協を探った。
これに対し汪は、国民政府も東三省政府に関しては原状と異なる構想を持っていると賛同を表した。
そして、満州の非武装化や、満州政府に相当数の外国人顧問を招聘し、広汎な自治権を与えることに合意した。
リットンはこの回答に日中双方が満足する解決策に大きな自信を得た。
だが、この時日本では世界を揺るがす事態が進展しつつあった。
新渡戸稲造の陳謝
満州事変発生後、日本の世論は次第に硬化していった。
メディアは連日のように関東軍の快進撃や中国における排日の実態を報道し、誰もが中国の暴戻を非難し、満州事変の正当性を疑わなかった。
この世情の中で、自衛措置の妥当性に疑問を挟み、日本の非を唱える事は許されなくなった。
32年2月、連盟事務次長を歴任した新渡戸稲造は愛媛県松山において、新聞記者に以下のように語った。
更に、上海事変の軍部当局の声明を「三百代言的」であると断じ、上海事変は正当防衛ではないと批判した。「毎朝起きて新聞を見ると、思わず暗い気持ちになってしまう。
我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。
そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えなければならない。
軍閥が極度に軍国主義を発揮すると、それにつれて共産党はその反動でますます勢いを増すだろう。
共産主義思想はこのままでは漸次広がるであろう」
これが報道されるや四国の在郷軍人は激怒し、新渡戸が入院していた病院まで在郷軍人が押しかけ、糾弾する始末であった。
3月4日、新渡戸は事態を収拾するために在郷軍人海本部の評議会に出席し、陳謝せざるを得なくなった。
このような言論の弾圧は氷山の一角であり、自由主義は後退を余儀なくされた。
石橋湛山は不自由で困難な言論界をこのように表現している。
「ある種の意見または言葉が封じられるので、時にぼんやりしたり、物足らぬ感じるの起こるは致し方ない。
何しろ現今は、言論、思想、行動の伏字時代なのだから」
政友会の穏健派
国内における世論が最も強く反映されるのが、国民を背景とする政党である。
二大政党の一方である政友会は満州事変前から、満蒙権益確保の為に積極的に強硬措置を執るべきだと唱えていた。
その代表格が森恪と松岡洋右であり、二人の論説は政友会の機関紙を飾った。
松岡は1930年に初当選を果たしたばかりの新人代議士であったが、外交官や満鉄副総裁の経歴から政友会を代表して演壇に立った。
議会においては「満蒙は日本の生命線」であるとの歴史的フレーズを打ち、満蒙から日本が退却する日は大和民族の生存権が否認される時であると豪語した。
事変勃発後、政友会内部には森・松岡を中心とし、関東軍の行動を支持して対中懸案を一挙に解決すべきという強硬論が台頭した。
一方、党内には犬養毅総裁を始め、軍部の独断専行に疑念を抱き、慎重な姿勢を保った勢力も強かった。
犬養はそもそも満州を重要視しておらず、あくまで既存条約が遵守され、既得権益が擁護されれば良いと考えていた。
満州事変についても、原因を中国の長年にわたる日本権益に対する「無視の意図の累積」の結果等と非常に回りくどい言い回しで、中国の刺激を避けた。
犬養は満州問題の解決には中国人の協力が不可欠であると考え、対中関係改善を基礎に置いた。
31年10月19日、政友会は満州事変に対する党の態度を明らかにする目的で、緊急代議士会を開催した。
犬養は政府の無力から国内の世論は統制されず、公憤から危険な手段で日本に貢献しようとする者が出てきていると指摘する。
これに対し政友会は国内の強硬論に流されず、静観の姿勢を堅持していると強調し、軍部への支持も明言しなかった。
党顧問の山本条太郎に至っては、日本政府の外交方針が軍部の動きに盲従していると、強く非難した。
犬養ら穏健派は政友会の強硬論を抑え、軍部の行動を是認しなかった。
第18回衆議院議員総選挙
10月24日、連盟理事会における撤兵を巡る決議で、日本のみが反対票を投じるという衝撃の結果が現れた。
国際社会における孤立が明らかになり、連盟に対する反感が醸成される中、満州事変の華々しい戦果が伝わると強硬論は俄然勢いを持った。
対する犬養は政友会内部の派閥争いから暫定的に擁立された総裁に過ぎず、権力基盤は脆弱で、党内の強硬論を御せるほどの力はなかった。
11月10日、政友会は満州問題に対する党の方針を、以下のように宣言した。
まず、満州事変については在満邦人の保護と既得権益の擁護を基調とする自衛権の発動であると位置付ける。
これに対し国際連盟は、何ら保障なく日本軍の撤兵を求めており、正当な認識を欠いている。
連盟が認識不足を反省せず、干渉・圧迫を続けるならば、連盟脱退も辞さない。
これ以降、政友会は各地方支部の大会で同様の宣言が行われ、軍部を支持する態度が鮮明となった。
軍部支持への傾斜は機関紙「政友」にも表れる。
貴族院議員の八田嘉明は「政友」に自らの満蒙視察の見聞録を載せ、以下のように論じた。
まず、関東軍が機敏な行動に出なければ、鉄道守備隊や在留民も全滅する恐れがあったとし、軍事行動を全面的に支持した。
関東軍の吉林出兵も問題の早期解決に繋がると評価し、連盟に諒解を求めている。
更に、外務省の情報は机上の物に過ぎないとし、陸軍が身を挺して手に入れる情報こそ価値があると評した。
1932年1月21日、少数与党であった犬養内閣は衆議院を解散し、総選挙となった。
選挙の争点は経済対策に集まり、緊縮財政維持を主張する民政党に対し、政友会は積極財政による打開を主張し、実質ワンイシュー選挙となった。
そんな中、政友会は外交問題については、民政党時代の幣原「軟弱外交」を攻撃材料とし、強硬論を振るった。
2月5日、政友会は日比谷公会堂で演説会を開催し、幣原「軟弱外交」が連盟理事会における侮辱的な撤兵決議を招いたと糾弾。
また日本軍が錦州を占領しても米英列国から何ら抗議がなかった事を強調し、これを政友会の外交政策の賜物であると自画自賛した。
そして、選挙スローガンとして「自主外交か屈従外交か」「アジアの盟主か欧米の奴隷か」などと掲げ、民政党との違いをアピールした。
2月20日、衆議院議員総選挙が執り行われ、政友会301議席(改選前171)民政党146議席(改選前246)という空前の大勝利を収めた。
昭和恐慌に疲弊した国民は、今までの民政党の経済対策に対する不信任をはっきりと表明した。
ただ、選挙結果はまた、幣原外交への不信任、政友会の対中積極外交の信任を意味することとなった。
政友会代議士も、選挙結果は幣原外交が国民の憤激を買った結果であり、国民は対中積極・自主外交に期待していると認識した。
民政党の強硬化
民政党は日中共存共栄を掲げる浜口雄幸内閣の与党として、日中協調提携を試みる幣原外交を全面的に支持していた。
31年に対中外交が行き詰まりつつある中でも、民政党代議士の永井柳太郎は責任を日中双方に求め、自制を説いている。
永井曰く、満蒙における日中関係は中国は主人であり、日本はあくまで客人である。
主人の利害や感情を無視して、客人が欲望をむき出しにすれば、衝突は必然である。
今日の満蒙の日本の努力に負うところは大きいが、満蒙の経営は日中両国民の共存共栄・相互扶助を主眼に置くべきである。
このような穏健的な意見が党内を支配した。
それは満州事変勃発後も変わらず、政府の不拡大方針を支持し、幣原外交を支え続けた。
ところが10月24日、連盟における日本の孤立が明らかになると、民政党はこれを国難であると認識した。
そして、中国の非を強調して自己弁護に走るようになる。
事変後、関東軍がやむを得ない態度に出たことを
と擁護する一方で、中国の条約否認の態度が満州事変の遠因であると糾弾した。「支那政府が条約を履行せず、更に排日侮日の愚挙を敢えてして我国との修好を破り、好んで我国に対し武力的挑戦を為したればこそ、我国はただその自衛権を行使したのに過ぎない」
民政党は満蒙権益を日本の正当なる条約に基づく権利であると再確認し、その権利擁護のための軍事行動を積極的に支持するようになる。
機関紙「民政」には、以下のような論説が掲載された。
先に自制を説いた永井も、中国の条約違反や排日運動により在満邦人の生命財産が危機に陥った以上、日本は実力抗議に進むより外ないと支持を表明した。「満蒙の権益は、我国の領土的野心を満足せんが為の所産ではなく、国家独立の根本に関する正当なる理由に基づいて獲得したる権益である。
国家の独立は国防の安全保障と民族生存の自由に依って確保される。
故にもし我国が正当に享受する、この権益を侵害する者有りとすれば、我国はその何国たるを問わず、敢然としてこれと争い、以ってその権益を確保すべきは必然」
満州事変については「支那の計画的かつ暴力的侵略に対する日本の自衛的かつ一時的行動」と評価する。
他方で対日強硬を強める連盟を、在満邦人の生命財産の保障無くして無条件撤退を迫っているとし、在満邦人を無政府状態の危険に暴露するものだと非難。
連盟の認識がいかに不足しており、不正確であるかを批判した。
こうして民政党もまた、満州事変の既成事実を追認し、連盟に対する批判を強めていった。
満州国承認決議
32年3月1日、満州国が建国されると国民はこれを歓迎し、政党は満州国を早期承認するよう圧力を強めた。
当時の日本国民にとって満州国は、軍閥の圧政に苦しんだ満州人の民族自決によって誕生した、五族共和の理想郷である。
また、満州国は満蒙の秩序を回復し、日本の権益を尊重する親日国家である。
その承認は満蒙の諸懸案を一挙に解決し、東アジアの平和確立に通じる問題であった。
国民の輿望と一致する国家の出現を歓迎するのは政党としては当然の姿勢であった。
読者の関心を反映し、メディアも満州国の動向を連日のように報道し、満州国を援助すべきと説いた。
3月9日、朝日新聞は社説において、以下のように満州国早期承認を主張している。
満州からも遊説隊が次々と派遣され、早期承認を求める世論は喚起されていった。「日本今日の最大急務は新事態を認識して、それによって速やかに根本方針を確立することである。
それと共に国際的に糊塗してきた遠慮がちの態度を改め、満州国と日本との不可分的な関係を率直に語るべき時期ではなかろうか」
ただ、当時の犬養内閣は満州国承認を九カ国条約違反であると認識しており、承認に慎重な姿勢を崩さなかった。
与党政友会も党大会において満州国即時承認の決議を盛り込まず、犬養に抑えられた形となった。
他方、民政党の若槻礼次郎総裁は満州国承認は当然であるとの見解を披露した。
選挙で大敗した民政党は、満蒙問題を日本の死活問題に位置づけ、満州国に対する関わり方を重大視していた。「満州三千万人の民衆が満州国なる独立国家を形成したることは、中国が国際連盟に向かって自分勝手の宣伝を為しつつある間において発生したる新規の事実にして、満州問題はこの事実を無視して解決すること能わず」
もはや幣原外交を顧みる事なく、満州国承認に向けて突き進む姿勢を固めた。
5月15日、犬養首相が暗殺され、政友会総裁に鈴木喜三郎が就任する。
こうなると政友会も穏健派の抑えも効かなくなり、満州国早期承認の要求を容れざるを得なくなった。
そして6月14日、第62回臨時議会において政友会の久原房之助幹事長ら超党派議員45名が、政府に対し満州国の早期承認を迫る決議案を提出した。
この提案説明に立った政友会の児玉右二は、満州国承認要求を「衆議院一致の外交要義」であるとし
と述べ、満州事変について、以下のような絶賛を披露した。「かかる国民総意の議論をすること、これ自体が即ち民衆的である」
もはや軍閥の支配する中国には将来はなく、満州国という新国家を通じて東洋の文化再建のための国として育てなければならない。「実に満蒙の特殊権益なるものは段々段々と剥ぎ取られ、十万の同胞、百万の朝鮮人、実に汚い言葉でありますけれども、強姦をされる者、虐殺される者、殆ど悲惨の極みに達しておった、その時に柳条湖の爆発が起こった。
天未だ我が日本帝国を棄てざるのであります。
軍部が憤然として起こったのは民衆の声であります。
軍部が身を挺して国家に尽くしたのは天の声であります」
それ故に満州国の早期承認が必要であると訴えた。
この決議案は政民両党の支持を得て、総員起立、全会一致で可決された。
斉藤挙国一致内閣
犬養内閣が斃れた後、元老西園寺公望は究極の選択を強いられた。
憲政の常道に則れば、政権は鈴木喜三郎政友会総裁に移り、政党内閣が継続されるべきである。
だが、度重なる失政により政党内閣は国民の支持を失っており、鈴木個人への信頼もなく、また天皇も敢えて政党内閣の継続を望まない意思を見せた。
ここで西園寺は自ら築き上げた憲政の常道を中断し、組閣大命は斉藤実海軍大将に降下した。
斉藤は山本権兵衛の寵愛を受けた人物ではあったが、この内閣は藩閥内閣にはならなかった。
西園寺が意図するところは、暫定的な中間内閣によって恐慌・満州問題・軍部統制といった内外の危機を収束させる所にあった。
斉藤も非常時における特別性を理解し、政民両党から広く閣僚を求めた。
政友会からは高橋是清蔵相、鳩山一郎文相、三土忠造鉄相、民政党からは山本達夫内相、永井柳太郎拓相を得る事に成功した。
こうして二大政党を包含する超党派の連立内閣、挙国一致内閣が誕生した。
ただ少数党の民政党はまだしも、300議席を擁する政友会の心中は複雑であった。
当然政権が継続されると考えていた政友会は、憲政常道を唱えて入閣を固辞し、はたまた憲政擁護運動によって倒閣する動きすらあった。
結局、鈴木総裁は政権に協力することで円満に政権を授受する方針を固めたが、政友会の300議席は挙国一致内閣に重大な影響を与えた。
そのような中で第62回臨時議会が成立した。
この議会は第60回議会で議会解散により不成立になった予算案・法律案の成立を目的とする。
議会に基礎を置かない斉藤内閣にとって、政民両党の支持がなければ成り立たない議会である。
満州国早期承認を求める政民両党の圧力は政府にのし掛かる。
6月3日、衆議院本会議において政友会の松岡が演壇に立ち、何故満州国を直ちに承認しないのか。
と演説を振るった。「差し当たりこれを出来るだけ早く承認していただきたい、けだしこの希望は、私は全国民の希望であると確信しております」
これに対し斉藤首相は、大局から見る必要があるとしつつ、出来る限り速やかに承認したい考えを持っている旨を答弁した。
6月14日には衆議院全会一致の満州国承認決議案を叩きつけられた。
斉藤は答弁の草案として「考慮を廻らして」等と慎重な姿勢を維持しようとしたが、もはや承認は避けられない流れとなった。
英国の牽制
日本が満州国単独承認に急速に傾斜するのを見て、事態は緊迫化する。
中国は在外公館を通じて、日本の満州国承認は九カ国条約や連盟決議に対する違反行為であると非難。
リットン委員会による調査が進行中に承認に踏み切ろうとしている事に警告を発するよう、各国に強く求めた。
各国もこの件に関して日本に照会を求める見解を表明。
リットン卿もドラモンド連盟事務総長に対し、日本の満州国承認を自制させる措置を取るよう要請した。
このような動きを特に憂慮したのが英国である。
中国の政治的混乱に長年直面してきた英国は、日本と同様に中国の特殊性を強く意識している。
満州については、条約に根拠を有する日本の満蒙権益を打破するために、中国側が度々日本に挑発行為を行なってきたと認識している。
また、軍閥が満州を荒廃させてきた一方、日本は満州の産業発展・教育振興に精力的に取り組み、内戦から同地を遠ざけ、発展に寄与してきた事実も指摘している。
事変以降、英国は一貫して日本の立場を擁護し、満州問題の調停に尽力してきた。
しかし、満州国承認は別次元の話である。
そもそも、満州問題に関する連盟総会決議は、リットン調査団の最終報告が上がるまでは討議を行わない事を理由に、成立しなかった。
これは日本に対し、リットン報告書が連盟に上程されるまでは満州国を承認しないという、自己拘束を求めるものである。
仮に日本政府がリットン報告書前に満州国を承認すれば、連盟における英国の努力は水の泡となり、破局を迎えるだろう。
英国は対日警告が満州国承認を誘発しかねないと連盟を抑えつつ、フランシス・リンドレー駐日英大使を通じて、独自に日本政府と接触を図った。
6月23日、リンドレーは有田八郎外務時間を訪問し、リットン調査団が再来日する前に満州国を承認するのではないかという懸念を伝えた。
その上で英国外務省の訓令として、九カ国条約は満州の独立宣言を禁止してはいないが、署名国にかかる行為を奨励してはいけないという義務を課している。
日本政府は、九カ国条約の義務に反して行動しているという印象を世界に与えることは避けるべきである。
と強い文言を用いて、満州国承認を牽制した。「日本の承認は極めて不幸なるかつ望ましからざる紛争を生ずべき」
これに対し有田は、斉藤首相の演説は直ちに満州国を承認する趣旨ではないこと。
個人的な見解と前置きしつつ、日本政府はリットン調査団は離日するまでに承認を行わない意向であると明らかにした。
だが満州国承認を求める世論の圧力は強かった。
この有田の発言が世間に漏れると、東京朝日新聞は「非常識極まる失言」「重大責任問題起こる」と有田を攻撃する有様であった
内田外相・リットン調査団会談
7月4日、リットン調査団は斉藤内閣との会談に臨むべく、再来日した。
その2日後の7月6日、斎藤たっての希望により内田満鉄総裁が外相に就任した。
内田はこれにより明治・大正・昭和と三代に渡って外相を歴任した、唯一の人物となった。
さて、満州国承認に傾いた以上、リットン調査団をどう処すべきか。
閣議は、調査団が満州国承認問題に触れた場合、承認の意向はあるが時期は明言出来ないなどと応酬する方針で臨むことを決定した。
7月12日及び14日、2日間にわたって内田とリットン調査団が再び会談を行った。
リットンは満州国承認の前提条件として、満州において中国側の日本に対する侵略行為があり、満州国が民族自決によって成立した事実が必要だとした。
もしこの証明がなければ承認はその根拠を失うと警告し、承認以外に解決策はないのかと質した。
これに対し内田は、以下のように断言した。
満州国の存在は現実の事実であり、もはやこの事実を無視する事は出来ないので、承認は自主的に処理すると応じた。「本問題の唯一の解決策は、満州国を承認するに在り」
リットンは満州国承認と九カ国条約との関係を問いただす。
ワシントン会議において、満州は中国と不可分の領土であると認められている。
日本がこのステータスを変更するのであれば、中国の主権に重大な影響を与えるので、関係各国との討議が必要ではないかと指摘した。
内田は満州国は満州人民の自己の発意、民族自決によって創られた国家であり、これに九カ国条約は適用されず、承認は何ら条約違反に当たらない。
満州問題を他国と協議するつもりはなく、満州国の既成事実を否定するいかなる妥協案にも断固して反対すると強調した。
この会談ではリットン以外の委員の発言も目立った。
フランク・マッコイ米委員は、日本は満州を生命線に位置付けるが、それは中国にとってもソ連にとってもそうである。
第三国から満州国承認を客観的に見た場合、連盟規約、九カ国条約、不戦条約に反するのは明白であると指摘した。
内田は、満州国承認は条約違反ではないとの主張を繰り返した。
アンリ・クローデル仏委員は、満州国のあり方として、中国の主権下で、中国人の支持の下、日本の権益を守るのはどうかと提案した。
内田は、満州国と中国との間に、如何なる絆を残すことに反対の姿勢を示した。
ルイージ・アルドロバンディ伊委員は、満州国の住民の大半が中国人であることから、満州問題の解決には日中双方の同意があると指摘した。
内田は、中国人だからと言って中国政府に忠実とは限らず、彼らは満州国に忠実であると応じた。
委員たちは妥協の道を懸命に模索したが、内田は満州国承認以外の解決では同じ事態を招くと、繰り返し強調した。
リットンは、あらゆる国は国際的な機構を通じて負う事になる義務から逃れられないし、他国との協議なく行動しないよう勧告した。
だが内田は、日本の重大な権益や自衛権に関する問題について、他国と協議するつもりはないと、完全に拒否した。
リットンは、内田の極端な非妥協的態度に不満の色を隠せなかった。
リットン調査団を招いた晩餐会に出席した牧野伸顕は、リットンの様子を不思議に感じたほどであった。
一方の内田の様子は、リンドレー駐日英大使曰く「非常に疲れた人間」であった。
外交官も、内田の蒼白な顔面が俄に真っ赤になったり、手が震えて口も動かない様子から、老人に外務大臣は無理と陰口を叩く始末だ。
内田のこのただならぬ様子は何を意味するのか。
内田は満州国を承認することが、しかもリットン報告書が完成前に、それが何を意味するか十分理解していたのではないか。
しかし、内田には国内の満州国承認の要求を跳ね除けるだけの政治力も胆力もなかった。
それ故の焦燥が態度に出てしまったのではなかろうか。
7月14日、内田は天皇に満州国承認の意向を奏上し、日本は単独承認に向けひた走った。
満州国論ー石橋湛山の場合
政党、国民、メディアが満州国承認に傾斜する中、当時の知識人たちは満州問題をどのように見ていたのか。
当時の自由主義者の代表格、東京経済新報主筆の石橋湛山はやはり鋭かった。
まず、石橋は満蒙権益について、中国にとやかく言わせない情勢を作れば、根本的解決だと満足する日本の姿勢を
と述べ、中国政府と中国人民が納得するはずはないと説いた。「彼国人が、彼らの領土と信ずる満蒙に、日本の主権の拡張を嫌うのは理屈でなくして感情である」
日中貿易の観点から、満蒙権益を返還し、日中不平等関係を解消し、経済提携を進めるべきという満蒙放棄論である。
これに対し東京朝日新聞は、満蒙を放棄したら機会均等の下で列国との対中経済の戦いに勝てるのか。
日本が抱える人工問題や食糧危機の解決、経済の近代化の為には満蒙に進出すべきであると説いた。
石橋はこのような主張に対し、満蒙経営に努力を払ってきたが、人口問題は一向に解決していないとし、以下のように反論した。
32年2月、満蒙分離独立運動が進展する中「支那に対する正しき認識と政策」と題して、以下見解を発表している。「敢えて満蒙に我が政治的権力を加うるに及ばず、平和の経済関係、商売関係で、易々目的を達し得る事である。否、かえって、その方がより善く目的を達し得るであろう」
石橋は、満州の軍人が満蒙に理想国家を建設せんと真面目に奔走していると紹介し、これを以下のように断じた。
また、満蒙の治安回復については、日中双方にとって良い仕事であると前置きしつつ「支那人を相手に理想国家の建設などは見当違いも甚だしい。
然るに左様の見当違いの考えを抱く日本人が満州に勢力を占むる所以は、つまり日本人の間に、満蒙乃至支那に対する正しき認識が欠けているからである。
満蒙乃至支那は、結局支那人の住地たる外ないと見定むれば、到底そんな空想は湧き来らぬ筈だからだ」
このような議論を展開していたが、実際に満州国が誕生すると、石橋は現実に即した論説を振るうようになる。「その為にはまた同時に支那人の旺盛に赴きつつある国民意識に満足を与えることも、欠くべからざる用意であることを忘れてはならぬ。
然るにかの満蒙に理想国家を打ち立てんとの空想は、恐らく支那人の国民意識に満足を与える事とは背馳する。
さりとて支那人の国民意識を永久に叩き潰す事の不可能なるは言うまでもないとすれば、右の空想がまた所詮日本の利益とも背馳するや明らかだ」
石橋は満州国を、甚だ不自然であり、軍隊の保護によって生まれた急造国家であると認識していた。
だが、理想と現実が乖離を食い止めるかのように、このように述べるに至った。
「善にせよ、悪にせよ、既にここまで乗りかかった船なれば、今更棄て去るわけには行かぬ」
満州国論ー神川彦松の場合
帝大法学部の神川彦松教授は満州国について委任統治論を提唱している。
神川はまず、満州を列国の利害が錯綜する「国際的中間地域」と定義した。
国際的中間地域は二国以上の国家の中心にあり、大体の場合、国家もしくは民族の争奪の目的物となる。
政治闘争は中間地域を中心として回り、その結果、併合、分割されるか、または永世中立を保証される。
朝鮮及び満州はその典型例であると指摘する。
中間地域は国際紛争の原因になるが、神川は中間地域の秩序を維持し、国際平和を確保する有効な国際政治制度が存在するという。
それが国際連盟下の国際委任統治制度である。
中間地域に国際委任制度の適用を必要とする理由を、以下のように述べた。
また、国際的中間地域は多数民族の雑居地であることが多い。「第一は諸国家もしくは諸民族の闘争の目標たるべき必然の運命を有するかかる地域を、かかる国際闘争の目的物たることより解放することである。
国際中間地域は必然に諸国家の争奪の目的物となるから、従ってかかる地域は常に国際禍乱の源となる。
かかる地域が争奪の目的物として放任せらるる限り、国際平和は常に脅威せられる。
かかる地域を巡って現勢的もしくは消勢的戦争状態が永続に存続せざるを得ない。
かかる戦争の脅威を除き、国際平和を確保せんと欲せば、かかる地域を国際管理の下に置くより他の方法は存在しないのである」
このような地域は国家・民族に争奪される境遇にあり、諸民族の生存闘争の舞台となり、凄惨な戦いが起きやすくなる。
複合民族地域の秩序安寧を維持する為にも、国際主義的方法による国際委任統治は必要なのだ。
神川曰く、国際委任統治には「連盟委任統治」と「国家団体委任統治」の二種類がある。
後者は国際組織を介さずに、関係国が協定を為して統治を一国に委ねるものであり、本質的には帝国主義時代の遺物に過ぎない。
帝国主義的解決は満州問題の真の問題解決に繋がらない。
以上の理由から、満州の紛争を処理するには国際連盟のA式委任統治を適用するのが最善だと論じた。「従来の歴史において満州の地が支・露・日・米四国の勢力闘争の舞台であり、また民族的には満・韓・蒙・鮮・日・露六民族の生存闘争の巷であったとすれば、将来もなお然らざるを得ないだろう。
満州の地は畢竟四大国の何れか一国の支配に帰すが、その間に分割さるるか、もしくは独立国となるかの何れかの運命を見るべきであろう。
しかし満州の地がこれを争奪せんとする諸国家の何れかの支配に帰するも、またその間にこれを分割するも、かかる処分法は何ら永続性を有せず、国際平和を確保するに足らず、満州は依然として極東禍乱の源たること過去におけると異ならざるであろう。
ここに満州問題の困難と重要性が存するのである」
満州国論ー蠟山政道の場合
満州国建国後、帝大法学部の蠟山政道教授は講演を行い、その概要を「満州に於ける国家建設の要諦」の名でまとめた。
蠟山は満州国の事例から、国家建設の条件や形態を考えるに、その要諦は何かと論じてゆく。
まず民族共同の独立国家案はどうであろうか。
従って国家の最大要件たる人民、領土、主権より観るに、その国には人民としてあらゆる民族が認められ、領土としても満州地域は全部包含されるだろう。「従来の満州なる地域を限り、その上に存在する各国の種々なる権益、錯綜せる諸条件の一切を含め、それを一独立国家の中に包含せしむるのである」
だが、国家建設の要諦には「社会的地域的基礎」が必要である。
「満州なる土地を、支那との関係において社会学的に考察するならば、これを如何に区別すれば宜しいかという問題である。
大体満州は支那の辺境的拓殖地域、あるいは植民地域であると見れば良い。
かかる地方に新しく独立国家を作るということは、国際法その他の法律上の要件は暫くおいて、常識から見てもなかなか困難である。
その意味で日本がどうしても始動することが必要になる。
漢民族が独立の国家を作ることは色々の点においてその能力を有っていらぬということが、一般に考えられる所である。
そこに民族の自決なる意思表示の下に独立国家を作るということが、この自決の民意をあくまで尊重し、これを成育せしめて行かねばならぬ」
この観点から考えれば、独立国家案は障害であろう。「我々としては日本国家が何らかの形において、明確にこの国家の指導権を有つことが、内外共に認められ、日本の協力に依って飲み、事態の解決が可能となる、という風に国際的承認が得られて、始めてこの地域の問題は解決されるのではないかと思う」
それならば、満州国は保護国の形にしなければならない。「この独立国家に対して日本の権益を融合せしむることは、日本が従来の権益を保持して行かねばらなぬという当然の理由で、指導的保護を与えて行くこととは矛盾することになる」
蠟山は、保護国ではない民族共同の独立国家を建設しようなどは、どう説明していいかわからないと断じた。「法律上支那の領土であり、その社会的基礎から見て支那本部の植民地であり、我国から見ても植民地なる所に国家が出来ることには、どうしても本国との関係において、何れかの保護関係が出来なければ、忽然として新国家は出来ぬように考えられるのである」
次に、日本が中国との条約において有している権益をそのまま新国家に当てはめ、新たな関係を設定しようという案はどうか。「それは理想と現実との区別、個人と社会との関係において、はたまた国際的環境について、リアリスティックな考察が欠けている案と見なければならぬ」
この案ならば、日本との関係より生じる直接の困難は存在しないだろう。
ただし、中国や連盟、諸外国にも日本と新国家の関係を承伏させることが大前提となる。
先ず考慮すべきは既存関係の現状維持である。
関税問題や治外法権、外国人の権利である海関行政や郵政行政についても、一切を現状維持とすべきである。「既存関係を日本単独に動かすことは、この趣旨に反する。
従って新国家の独立が仮令国家として何らかの法律能力を有つと解されるにせよ、それを濫用することは危険である」
だが、全ての関係を現状維持とするならば、満州国は一体どんな国際法上の地位を得るのかという疑問が浮上する。
そこで蠟山は第三の案を提唱した。
日本は連盟と協力し、中国の反対を排除して、満州国の現実性を国際的に確認する必要があると説いた。「形式的に主権がそのまま残り、その主権に関係ある諸条約がそのまま支那との関係において成立し、存在することになると、実質的にはこの新国家なるものは完全なる主権国家に非ずということになる。
と同時に、事実上支那の主権も排除され、支那政府の実権は存在していない。
もし主権国家に非ざる独立国に何らかの名称を附するとすれば、自治地域、あるいは自治国なる名称を付け得ると思うが、とにかく未だその実を有せざる主権がもし将来自治的に発展すれば主権的独立が具わるという条件付きの国家である」
満州国論ー立作太郎の場合
帝大法学部の第一人者、立作太郎教授は中央公論において、満州国承認をこのように説いている。
分離独立を目的とする政治団体が国家の要素を備えたと承認されるかについては、各場合の判断によるだろう。
立は世界の先例として米国のキューバ・パナマ承認を挙げ「母国政府が未だ分離せんとする地方の新政治団体と現実に戦闘を交ゆる間は、新政治団体に対して交戦団体の承認を行うことを得べきも、国家の承認を行うことを得ないのである。
しかして仮令母国政府が新政治団体と現実に戦闘を交えずとするも、分離地方を旧に依りて自己の領土と成すための現実的努力を待たずして、かつ該努力が成功の見込み猶予すると認めらるる場合においては、他国は未だ国家の承認を行い得ざるものと言うべきである」
と、満州国承認の正当性を擁護した。「満州国の現状は、既に独立の実を挙げたるものと称するも、根拠を欠くと言うべきではない」
更に、満州国に対する九カ国条約違反であるとの指摘については、中国の主張通り、日本が最初から満州国建国の計画を立てて、独立を援助したというならば、条約違反であろう。
しかし、現実はそうではない。
満州国承認は単に満州国成立の事実を確認するに過ぎず、国際法違反や条約違反にあたらない。「支那側より積極的行動を以て不法に我国民の権利を侵害し、我国は権利防衛の緊急なる必要あるが為に強力的自衛行為を行い、しかして満州の不秩序的なる特別の状態により、自ら該地方の治安を維持することが自衛上必要になった」
自衛措置の継続として治安維持を担うにあたり、満州国の誕生は歓迎すべきであると説いた。
以上は法理論的な見解である。
立は、いくら適法であっても、満州国承認は外交上、賢明ではないと続ける。
それは、中国・列国に対する厳しい態度を示すことであり「国際生活において一種の背水の陣を布く」ことになるからだ。
このように日本の立場を擁護しつつ、承認は外交政策上は悪手であるとし、読者に単独承認の再考を促した。「我が国が単独で承認を行い、他の強国がスティムソン主義を採用して永く承認を行わずして、依然満州国を以て支那の一部と認むる場合において、満州国が他強国に対する関係は頗る面倒であって、我国もその飛沫を受けねばならむのである。
しかし是種の困難も、我国民の国際的生活の前途に横はる問題の重大にして、ある場合においてはその国内的反響の社会的構成に及ぼす影響の至重なることあるべきを思うことは、殆ど言うに足らぬのである」
ところで、立は法学教授である一方、牧野内府の信頼を得て、天皇に外交史を進講している。
そこで立は外務省に私見を提出し、中央公論とは違い、直接的に満州国承認をすべきではないと説いている。
まず、満州問題は国際連盟で係属中であり、その間に満州国を承認すれば、国際法違反になる見解を示した。
更に、立は国家の成立条件を、その領域支配に対する永続性であるとし、他国からの承認だけでは成り立たないとする。
そして既存国家の領域の一部に新国家が誕生する場合、母国が異議を唱え、他国と協同して分離独立を阻止する限りは、永続性はないと説いた。
その先例として、先に挙げたパナマ独立問題を紹介している。
米国はパナマ独立の際に、コロンビア兵の上陸を阻止し、パナマ共和国に国家承認している。
これは明白な国際法違反であり、パナマと満州国は似ており、中央公論においては、この例を引用して満州国承認を正当化している。
ただし、私見の中では、パナマと満州国はその環境がまるで違うと説いている。
まず、米国のモンロー主義は当時の列国に広く尊重されており、第三国がコロンビアと共にパナマ独立を阻止することはあり得ない状況であった。
また、パナマ独立承認は20世紀初頭の出来事であり、当然、国際連盟のような国際組織は存在しな満州い。
片や現在の日本は九カ国条約を締結し、中国の主権、領土保全を尊重する義務が課されている。
条約締結国がこれに違反した場合、他の国が違反国に対して強制的措置を取ることが正当化される。
満州問題とパナマ問題は法的環境が大きく違うと指摘した。
九ヵ国条約違反回避の為の承認
日本軍が満州に駐留する中で満州国を承認すれば、中国に対する重大な内政干渉として九カ国条約違反になる。
それは犬養を始め外務省、日本のあらゆる政治家、軍人も当然認識していたところである。
確かに、当時の満州の治安は混沌としており、関東軍の影響が及んでない地域では匪賊が跋扈し、往来に支障が来していた。
鉄道付近も関東軍の活動の進展により沈静化に向かっていたが、そもそもこの治安悪化は満州事変に対する抗日の結果である。
もはや満州における軍事行動は自衛権や治安維持だけで説明がつかない。
そこで逆説的ではあるが、九カ国条約違反を回避する為に、満州国を承認すべきという論が浮上した。
連盟外交官として活躍してきた石井菊次郎枢密顧問官は、枢密院において、満州国を承認した後の展開を、このように語った。
何故、九カ国条約違反の理由は消滅するのか。「日本は満州国が独立したるは支那の分解作用にして、支那の領土保全を破りしものは満州国に外ならずと主張することを得べく、九カ国条約に違反するの理由を消滅せる」
満州国は民族自決により建国された独立国家であり、中国の宗主権は通用せず、九カ国条約は適用されない。
その国と日本が軍事協定を締結すれば、日本軍の駐屯は満州国の要請によるものだと国際法的に合法化しうる。
何人たりとも日本軍の満蒙駐屯に異論を挟むことは出来なくなる。
石井は、そもそも1911年に中国が共和制になった時、満蒙は宣統帝に還付すべきであったとの強論を持ち出し、満州国を正当化してみせた。
満州国承認回避と世論
内田・リットン会談の顛末を見た英国は、何とかして日本に満州国承認を思い止まらせようとした。
7月15日、リンドレー駐日英大使は有田次官と再び会談した。
リンドレーは、日本は中国における分離独立運動を奨励しない義務を有しているが、世間では日本が満州の運動に関与していると信じていると注意した。
これに対し有田は、既に新国家は存在しており、これを承認することは分離独立運動の奨励にあたらないと反論した。
7月21日、リンドレーは今度は内田外相と会談した。
リンドレーは九ヵ国条約第7条を引用した。
そして、九カ国条約適用に問題が発生した場合は、関係国に通告する義務があると提起した。「締結国は其の何れかの一国が本条約規定の適用問題を包含し、且右適用問題の討議を為すを望まんと認むる事態発生したる時は、何時にても関係締結国間に充分にして且隔意なき交渉を為すべきことを約定す」
それに反して日本が満州国承認に踏み切れば、九カ国条約に抵触すると指摘した。
この第7条が発動し、九カ国条約会議が開かれれば、日本は九カ国条約違反を認定されかねない。
満蒙における既成事実を否定する譲歩を迫られるか、さもなくば条約違反に伴う制裁がありうる。
しかし、内田は満州国は九カ国条約違反には当たらないとの説明を繰り返し、議論は平行線に終わった。
一方、連盟代表部は本省の動きを危惧し、長岡春一代表が吉田茂・佐藤尚武らと協議を重ねていた。
そして8月18日、長岡は満州における中国の主権は保有されるべきであり、満州国承認は慎重にすべきであると具申した。
ただし同時に、以下のような問題があると指摘している。
満州国承認が如何に国際的に不利になるか理解していた外交官でさえ、承認を求める世論は無視し得ないほど勢いを持っていた。「ここまで単独承認を高調し来りし帝国が如何にして、その面目を立て、また輿論を収拾し得るやにある」
リットン報告書の難航
リットン調査団は、中国の柔軟な姿勢から、日本との妥協点が見出せたら直ちに報告書の結論を起草する予定であった。
しかし、内田の強硬姿勢を見て妥結困難と判断し、予定を早めて離日した。
リットンは一連の調査により、満州国を民族自決と認めず、日本の傀儡国家であり、全くの「欺瞞」であると認識した。
また、満州視察の中で関東軍の自作自演が判明し、日本の自衛という主張も認められないと考えた。
自然とその報告書の内容は、満州国を何らかの形で批判し、日本が到底受け入れ難いものになると予想された。
報告書作成の中で満州事変に至る歴史的経緯や事実に関する見解はリットン他委員たちの見解はほぼ一致した。
しかし、報告書において日本を告発するか否かについては、委員たちの意見は割れた。
リットンは報告書において満州国を否認し、日本を徹底的に糾弾するつもりであった。
これに対しクローデル仏委員は、日本政府や国民を無用に刺激すべきではないと考え、異議を唱えた。
曰く、満州国は現実に存在する「私生児」であり、これを「摘出子」とするか否かの問題である。
もはや日本が満州国を承認する可能性がある以上は、満州国が連盟の承認を得れるよう努力し、極東に永続的な平和をもたらすべきだと主張した。
だが、調査団は連盟理事会の決議によって組織された委員会であり、連盟規約や不戦条約に反するような勧告を出来るはずがない。
クローデルの意見は、3月11日の総会決議で採用した不承認主義を反故にし、満州国を承認するよう連盟に進言するようなものである。
そこでマッコイ米委員が調整に乗り出し、以下の妥協案でまとめあげた。
まず、調査報告書は連盟の諸原則や中国に関する諸条約の精神を考慮すること。
他方で現実の事態を閑却せずに、満州に現存し、進化の過程にある行政機関も考慮すること。
満州に醸成されつつある「健全な力」を利用し
このような方針の下、リットン報告書は完成へと向かってゆく。「中国の主権と抵触することなくして、しかも今日現存する満州の状勢に適合せんが為、有効かつ実際的なる手段を執ることを可能ならしむる」
焦土演説
8月25日、衆議院本会議において戦前日本外交のエポック的な演説が行われた。
それは政友会の森の演説から始まった。
森は満州事変の進展の中で、在満邦人の生命財産の保護に責任を果たさない中国を、国家として認めなくなった。
と述べ、日本が中国に成り代わって満州の主権に関与し、満蒙の治安維持に当たることは必然の成り行きであると説いた。「満州の主権は支那のみにあるのではない。その主権には日本も参与する権利がある」
更に、満州事変を批判し、満州国承認の阻止を試みる国際社会を批判し、不戦条約、九カ国条約を「精神的に叩き破れ」と唱えた。
もはや国際連盟は日本に何ら利益もなく、脱退すべきであり
と、大アジア主義、東洋モンロー主義を主張するに至った。「亜細亜に帰って、亜細亜78億の人間の生活安定のために努力するのが、日本の天職である」
この日演壇に立った森は、満州国承認問題に焦点を当てて質問した。
まず、満州国承認は単なる法律上、条約上の問題ではなく、承認相手は満州国ではなく日本国民、中国、列国であると論じる。
これは世界に対し日本が自主外交に立ち戻ったことを宣言するものである。
しかし政府は満州国承認を、連盟規約にも九カ国条約にも反していないなどと楽観視しており、森は危険千万であると断じた。
満州国を承認すれば連盟脱退を余儀なくされ、日中・日米関係は悪化し、国際関係は緊張するだろう。
それに備えるために軍備拡充、財政再建は急務であるはずなのに
満州国承認は世界を敵に回す覚悟と準備が必要であり、それが満州国承認の絶対条件である。「国内的にも国外的にも、満州国承認に必然伴わなければならぬ所の重要なる対策というものを講じたるとする所の形跡を、吾々は発見することが出来ないのである」
更に森は亜細亜に帰れと絶叫する。
満州国を承認し、アジアに帰るために十分な準備をすべきである。「60年間盲目的に模範し来った西洋の物質文明と袂を別って、伝統的日本精神に立ち帰り、東洋本来の文明と理想とに基づいて、我亜細亜を守るということが、吾々が亜細亜に帰れということの真意である」
政治評論家の馬場恒吾は、国内が満州国承認に傾斜の中で、その国際的影響と対策を問いただした森の演説を、以下のように評した。
まさに政治家森恪の集大成とも言える演説であったが、この日の主役は森ではなかった。「言外に含蓄が多くして、誰しも襟を正して傾聴するという性質のものだった」
政府側として答弁に立ったのは内田外相であった。
内田は満蒙事変は自衛権の発動によるものであり、自衛権を認めている不戦条約に何ら違反していない。
満州国は同地域住民による分離独立運動であり、その承認は九カ国条約に違反していない。
いつも通りの答弁であるが、この中で内田は驚くべき事を口にした。
この答弁を受けた森は「この問題の為には、所謂挙国一致、国を焦土にしても、この主張を徹す事においては、一歩も譲らないという決心を持って居ると言わなければならぬ」
と述べて演壇を降りた。「焦土にするような決心を有つにあるに非ざれば、その目的を達することが出来ないというような、左様な事態を惹起させない様に、事前において国民に目的とする所の手を講ずる所に、外交上の妙用があるのであります」
内田は「国を焦土にする」覚悟で満州国を承認するなどと日本の未来を暗示し、後に焦土演説として有名になった。
ただ、ここで重要なのは、内田が森の問う覚悟や対策については何ら触れることはなかった点である。
満州国を承認して国際関係はどうなるのか、どのような対策が必要なのか、内田は質問に応じるわけでもなく、ひたすら楽観論を披瀝した。
ここに日本外交は、世論や軍部に迎合する楽な道を選び、ただひたすら時流に身を任せて真剣味を失ったのである。
日満議定書
8月20日、武藤信義陸軍大将が関東軍司令官、特命全権大使、関東長官に就任した。
武藤は満州国と交渉し、日本の承認と引き換えに、満州国は従来の日中間の条約・協定に基づく権益を尊重することを約した。
また、両国が共同して満州国の防衛にあたるとの名目で、満州国に日本軍の満州駐屯を許可させた。
更に32年3月10日の本庄・溥儀書簡を始めとする種々の取り決めが再確認され、引き続き効力を有する旨が諒解された。
これらの協定が日満議定書という形で現れる。
日満の交渉が進む中で、中国は満州国を承認しなければ満州の問題解決を棚上げする譲歩案を出すが、日本はこれを無視した。
8月27日、閣議において、日本独自の立場で満蒙政策を実行する、自主外交を基礎とすることを確認。
元老西園寺も承認問題については匙を投げ、近衛文麿を通じて中国の駐日公使に対し、満州国承認の交渉に余地はないと伝えた。
あとは何時満州国を承認するか、つまり承認がリットン報告書公表の前か後かというタイミングの問題となった。
結果から言えば、それは前となった。
9月10日、政府は枢密院に日満議定書を諮詢し、13日には枢密院本会議で全員一致の可決を得た。
9月15日、日満議定書が調印され、日本は満州国を単独承認した。
議定書は次の二項目からなる。
「満洲国は将来日満両国間に別段の約定を締結せざる限り、満洲国領域内において日本国または日本国臣民が将来の日支間の条約、協定その他の取り決め及び公私の契約に依り有する一切の権利利益を確認尊重すべし」
これにより、日本は日中間で結ばれた条約を満州国と再確認した。「日本国及び満洲国は締約国の一方の領土及び治安に対する一切の脅威は同時に締約国の他方の安寧及び存立に対する脅威たるの事実を確認し、両国共同して国家の防衛に当たるべきことを約す。
これが為、所要の日本国軍は満洲国内に駐屯するものとす」
その中には日中の懸案事項であった満鉄平行線禁止条項の効力や在満邦人の商租権も含まれた。
更に、満州における日本軍の無期限・無制限駐兵まで得て、軍事行動の一切を合法化した。
ポイントオブノーリターン
満州国承認の一報が国内外を駆け巡り、国内は祝賀ムード一色となった。
だが、リットン報告書の公表を待たずして日本が満州国を承認したことに、世界は衝撃を受けた。
連盟が満州問題を直接の審議対象とせず、決議を差し控えてきたのは、リットン調査団の報告を待っていたからである。
しかもリットン調査団は、連盟の満州問題に対する認識不足を是正するために、日本から要請して派遣された委員会である。
その報告が為される前に満州国を承認することは、通常の外交感覚からすれば、あり得ない暴挙である。
この時、日本にはリットン報告を待ってから、日本の満州国に対する態度を表明するという選択肢もあったはずである。
それをせずに承認を急いだのは、リットン報告書が満州国に厳しい姿勢を取ることが予想されていたからだろう。
その報告書が出た後に満州国は承認しづらくなるので、報告前に満州国を承認してしまおう。
報告書公表前に日本が行動すれば、あわよくばリットン報告書の結論を変えさせる事も可能かもしれない。
そこまで甘い考えに支配されていたかは不明だが、ともかく日本はリットン報告前に満州国を承認した。
日本は連盟に満州問題の調停の余地を与えず、既成事実を連盟に承認させる方針をとった。
これは世界に対する重大な挑戦であり、連盟加盟国は日本に対し強い不満を示すようになる。
満州国単独承認は後の連盟脱退、国際社会からの孤立に繋がる、ポイントオブノーリターンであった。
リットン報告書第一章ー中国
9月4日、リットン調査団は全委員の署名入りの報告書を完成させ、7ヶ月にわたる活動を終えた。
報告書はジュネーヴの連盟事務局に手交され、9月30日に日中両国に提示され、10月2日に全世界に公表された。
報告書は英文148ページ、日本語翻訳印刷で289ページに及ぶ長文で詳細なものであった。
なお、リットンは膨大な報告書を全て読まずともいいように、要点を第四章、第六章、第七章にまとめてあると述べている。
報告書第一章は中国の最新事情の概要である。
リットンは、満州事変を理解するために、最近の日中関係を決定づける要素に関する知識が必要だとした。
まず、調査団は、中国は国民生活のあらゆる面において過渡的様相を示しつつ、進展しつつあると説く。
中国の政治的な混乱、内乱、社会経済不安は辛亥革命以来の特徴であり、こうした状態はあらゆる関係国に不利なる影響を及ぼしている。
1927年、南京に中央政府が樹立され、中国は表面的に統一された。「それが克服されるまで中国は、常に世界平和の脅威であり、また世界経済の不況の一原因となるだろう」
しかし、内部の不和や軍閥の割拠、共産主義の脅威の為に、政治的経済的再建は実行に移せなかった。
ついには有力軍閥が連合を組んで南京に進軍し、その統一は外観さえ保つことは出来なくなった。
中国は今なお群雄割拠にあり、政治的社会的混乱を呈しつつある過渡期にある。
これは中国の友人たちを失望させ、不和や怨恨を作り上げている。
だが、あらゆる困難や失敗を重ねつつ、相当の進歩が成し遂げられつつあるのも、また事実である。
満州事変を議論する際、中国は組織ある国家ではないとか、無政府状態にあると言われる。
中国は国際連盟の一員としての資格はないし、連盟規約にある保護要求権も認められないといった議論がある。
これらの問題を論じる際に、我々はワシントン会議を思い出す必要がある。
当時の中国は今以上の混沌の中にあった。
会議開催中に第一次奉直戦争により中央政府が転覆し、新政権に対し張作霖は満州の独立を宣言して、3つの政府が生まれた。
現在、中央政府の権威はなお地方において及ばないが、中央の権力が公然と否認されることはない。
もし中央政府が今のまま維持されれば、地方行政、軍隊、財政は国家的性質を持つだろうと期待できる。
こうした理由から国際連盟総会は中国を理事国として選出したのだ。
現中国政府は健全財政を守る為、税制を統一・簡略化し、中央銀行を設立し、財界有力者が含まれる財政委員会を作った。
絶え間ない内乱のために復興計画は実行出来ず、交通通信の改良にも失敗したが、その復興に対する努力は認められるものである。
他方で、中国の内乱の危機、匪賊の跋扈、交通通信の遅れ、共産党との武力闘争、こうした無法状態によってどの国よりも強く苦しんでいるのが日本である。
中国における居留民の3分の2が日本人であり、満州における朝鮮人は80万にのぼる。
今の状態のままで中国の法律や司法、税制に服従しなければならないとしたら、それによって苦しむ国民が一番多いのは日本である。
中国が日本人の条約上の特権に代わるような保護が出来ない場合、中国側が願望を満足させることは不可能であると感じている。
日本は中国における日本国民の生命財産の保障に対する不安から、中国の内乱や地方的混乱にしばしば干渉してきた。
そうした行動は中国人の反発を呼んだが、本問題は日中間だけの問題ではない。
中国は、他国に例外的な特権を認めることは、中国の主権を侵害するものであると感じている。
よって、これらの特権を直ちに撤廃するように要求する。
しかし諸外国は、中国における状態が諸外国の国民を十分に保護出来なければ、中国側の希望に応じることを躊躇わざるをえない。
外交関係における中国の国民的願望の実現は、内政分野において中国政府が近代的機能を発揮できるか否かにかかっている。「外国人の利益は条約上の特権によってこそ守られていたからである」
そうでない限り
調査団は満州事変を、こうした国際的軋轢の極端な事例であると位置づけた。「国際的軋轢や事件発生の危険性、ボイコットや武力干渉は継続していくであろう」
リットン報告書第二章ー満州
報告書第二章は満州の概要である。
満州、東三省は広大で豊穣な地域であり、現在においても人口が稀薄なので、日中の過剰人口解決に大きな役割を果たしている。
今も、山東省や河北省から数百万単位で農民や労働者が移住している。
日本は満州に対し資本を投下しているが、日本の活動がなければ満州は大規模な人口を収容出来ないだろう。
また、中国人の農民や労働者がいなければ、日本に対して市場や原料食糧を供給出来ないだろう。
つまり日中は満州において相互に依存している。
1916年、張作霖が奉天省督軍に任命され、強大な影響力を発揮し、中央政府から独立して満州を支配した。
国民党は常に地方行政に干渉してきたが、張は満州の軍事行財政外交を掌握し、中央政府はそれを事後承認するだけであった。
しかし、張学良が易幟して国民政府に合流すると、満州において国民党の組織的な宣伝が行われるようになる。
国民党は主権回復、不平等条約撤廃、反帝国主義を強調した。
日本の特殊権益のある満州において、こうした宣伝は住民に強い影響を与えた。
ナショナリズムは高まり、抗日が煽られ、中国人の地主たちは日本人や朝鮮人の家賃引き上げや賃貸契約の更新拒絶を強要されるようになる。
在満邦人・朝鮮人は組織的に迫害され、軋轢の機会が重なり、危険な緊張が増していったと指摘した。
なお、張政権が満州の重要物資を独占し、日本人に対し高額で売りつけている等、悪政の実態も記しており、総じて張政権に否定的な論調となった。
リットン報告書第三章ー日本の特殊地位
第三章は日中両国間の満州に関する諸問題を取り上げる。
まず調査団は、満州は明らかに中国の一部であると強調する。
しかし、日本は満州において中国の主権行使を制限するような特殊権益を獲得し、また主張した。
ポーツマス条約及び北京条約により、中国はロシアが租借していた関東州と、ロシアが管理してきた東清鉄道のうち長春以南を日本に譲渡することを承諾。
追加協定により中国は安東ー奉天間の軍用鉄道を改良し、これを15年間経営する権利を日本に譲渡した。
これらの鉄道を管理するために1906年8月に南満州鉄道株式会社、通称満鉄が設立された。
満鉄は鉄道だけでなく、鉄道附属の撫順・煙台炭鉱を始め、鉱業、電気、輸送などの事業経営の権限を得た。
更に鉄道付属地内の行政を担い、徴税まで行った。
1915年、対華二十一ヶ条要求により、日本は関東州の租借地と鉄道の租借期限を99年に延長し、日本国民が南満州において生活するための商租権を得た。
一連の条約や協定により、日本は関東州租借地を主権を以って統治し、満州における特殊地位を得た。
満鉄を通じて奉天や長春といった大都市を含む警察、徴税、公共事業を管理し、租借地に関東軍を置き、鉄道沿線に守備隊を駐屯させた。
このような特殊性は世界のいずれにも例がない。
満州は常に中国や列国が中国の一部として認めてきた地域である。「隣国の領土内にこのように広範な経済的・行政的特権を持つ国は他にはないはずだ。
もしこうした事態が、双方が自由に希望し受諾した、経済的・政治的領域における緊密な協力に関する熟慮の結果であれば紛争など起こすことはないだろうが、そうでないとしたら、こうした関係は軋轢や衝突を引き起こすだけである」
同地方における中国政府の法律上の権限に異議が唱えられたことはなく、それは日中間の条約や協定、その他の国際条約によっても明らかである。
しかし、満州における日本の権益は、諸外国のそれとは性質も程度も全く違う。
その理由は、日本人の脳裏には日露戦争の記憶が深く刻まれているからだ。
日本人にとって日露戦争とは、国家の命運を賭した自衛戦争であると永遠に記憶された。
この戦いで10万の将兵を失い、20億円もの国費を費やしたという事実は、日本人にこの犠牲は決して無駄にしてはならないとの決心をさせた。
満州はしばしば、日本の生命線と言われるが、同地はロシアに対する戦略的重要な地域でもある。
満州における特殊地位の要求は、条約上の権利、国防上の必要性、日本人の愛国心の全てが合体して形成されている。
日露戦争の遺産としての国民感情や、歴史的な連想が要求を形作っているのだ。
日本は満州における特殊地位を諸外国に承認を得ようとし、その試みは日露秘密協約や石井・ランシング協定で部分的に成功した。
しかし、それら協定や了解は、ワシントン会議における九カ国条約によって、今や消滅した。
同条約は、中国における機会均等を維持する為に中国の主権独立並びに領土的行政的保全を尊重すること。
中国において特権を求めるために中国の情勢を利用することを差し控えること。
中国が有力かつ堅固な政府を維持確立するため、完全かつ障害のない機会を供与することを定めた。
この条項により、満州を含む中国各地方の特殊地位や特別の権益の要求は非となった。
だが、本来満州に効力が及ぶはずの九カ国条約は、日本に配慮して制限的適用が為され、日本は何ら態度を変えることなかった。
日本は満州における既得権益を維持し、在満邦人の生命財産を十分に保護しようとした。
こうした目的のために、満州及び東部内蒙古を中国の他の地域とははっきり区別し、満州における日本の特殊地位を主張した。
これは1905年から今に至るまで、日本のあらゆる内閣が目指したものである。
ここで調査団は石井菊次郎のメモアールを引用する。
満州に関する日本の要求は中国の主権に抵触する。「石井ランシング協定は廃棄されたといえ、日本の特殊利益は何ら変化を受けることなく存在する。
支那において日本の有する特殊利益は、国際協定によって生じたるものではない。
また廃止の目的物となるようなものでもない」
そして、諸外国の特権を回収しようとする国民政府の願望とも両立しない。
以上を考察すれば、満州における日中間の衝突がますます拡大されることは明らかであると断言した。
リットン報告書第三章ー鉄道平行線問題
調査団は日本の満州における政策の根幹を鉄道政策であると指摘する。
鉄道は政治的にも軍事的にも価値があるが、それは国が単独で所有し、運用して初めて発揮されるものである。
満鉄のような外国の管理する鉄道施設は、通常嫌悪される。
中国は満州における日本の鉄道独占を阻止する為に、満鉄を包囲するに諸鉄道を敷いた。
日本はこれを条約上の権利侵害として、武力行使の正当化に用いている。
1905年、北京で開催された会議において、清国政府が以下のような約束を行った。
日本は、この約束を国民政府が履行していないと強調し、度々中国政府に抗議している。「清国は満鉄の利益を保護するため、鉄道を自国に回収する以前は、満鉄付近にこれと並行する幹線、あるいは鉄道の利益を損なうおそれのある枝線を建設しないことを承諾する」
所謂平行線問題は、日中間の紛争の重要な要素である。
調査団も視察の中で度々平行線問題を見聞きし、日本の主張する約束が本当に存在するのか疑問視した。
そして、東京や中国で、あらゆる関係文書を審査した結果、北京会議における清国の約束は、いずれの正式な条約の中にないことが判明した。
問題の約束は1905年12月4日の北京会議の会議録の中にあり、これは日本も同意することであった。
だが、これは日本の言うところの「条約上の権利」とは言い難い。
そもそも会議録は議定書と言えるかどうかわからないし、制限なしに中国側を拘束するような言質になり得るのだろうか。
こうした問題は公正な司法裁判所によって判定されるべきである。
また、会議録の「並行線」の字句は、中国側全権の意図を宣言し、声明したものである。
その意図は、満鉄の競争と認められるあらゆる鉄道建設を許可出来ない旨ではなく、満鉄の価値を不当に侵害するような鉄道を故意に建設しないである。
よって、会議録は日本が南満州において鉄道建設を独占する権利を保障しない。
また、鉄道守備隊の駐屯権にも疑義がある。
鉄道守備隊は日本の正規兵であり、演習による挑発を繰り返し、付属地外に職権を及ぼし、中国の主権や行政的保全を害していた。
駐兵権の法的根拠は1896年の露清鉄道条約にある、東清鉄道の土地に対する絶対的・排他的行政権をロシアに与えるという条項である。
ロシアはこの条項を拡大解釈し、軍隊による鉄道守備が認められたと主張し、中国はこれを否定した。
その後、ポーツマス条約により日本は駐屯権を引き継ぎ、日露両国は鉄道1キロごとに15人以内の鉄道守備隊を配置する権利を有すると定めた。
清はこの条項に同意を与えなかったが、同年日中間で締結された北京条約付属協定第2条において、日本は以下のように約束した。
もしロシアが鉄道守備隊の撤退を承諾するか、もしくは清・露両国間に別の適当なる方法を協定した時は、日本も同様にすることを承諾する。
また満州が平静になり、外国人の生命財産を清国が完全に保護出来るようになった時は、日本もロシアと同様に鉄道守備隊を撤退する。
日本はこの条約を以って、鉄道守備隊の駐屯権の法的根拠とした。
1924年、ロシア帝国が崩壊し、ソ連は鉄道守備隊を撤廃し、駐屯権を放棄した。
しかし日本は満州の平静は確立されておらず、中国政府は外国人を保護する能力も有していないと主張し、条約上の権利を主張した。
だがロシアが撤兵した以上、日本が妨害しない限り、中国の官憲による満鉄の警備は可能だ。
日本は守備隊を撤退させる義務があるのではないかと、報告書は指摘した。
リットン報告書第四章ー満州事変
第四章は1931年9月18日と、その後満州で発生した事件、つまるところ満州事変の概要である。
この章で調査団は満州事変の経過を詳細かつ事実に即して論じた。
調査団は柳条湖事件について、鉄道路線上ないしはその付近で爆発があったことは疑いがないとしつつ、鉄道に対する損傷は極めて軽微であった。
それは関東軍が丁寧に爆破した為であり、通過した列車は脱線するどころか、定刻に到着していた。
つまり、これだけでは日本軍の軍事行動は
このように自衛権を否定しつつ、現地の将校が自衛のためであると信じて行動したなどと、日本側に配慮した書き方をした。「合法なる自衛の措置と認むることを得ず。
もっとも、かく言いたりとて、本委員会ら現地に在りたる将校が自衛のため行動しつつありと思惟したるなるべしとの想定は、これを排除するものにあらず」
この章は満州事変の正当性を完全に否定するもので、日本にとって衝撃的な内容であった。
なお、第五章は上海事変であるが、これも事実に即した詳細な報告であり、今回は省略する。
リットン報告書第六章ー満州国
第六章は満州国の概要である。
調査団は満州国形成に必要不可欠であった二つの要素として「日本軍隊の存在」と「日本文武官吏の活動」を挙げ
政府の実態も、各省の名義上のトップは中国人であるが、主な政治的・行政的権力は日本人顧問が掌握している。「現在の政権は純真かつ自発的なる独立運動によりて出現したるものと思考することを得ず」
しかも日本人顧問は単なる意見を提供するだけでなく、事実上行政を支配・指揮している。
満州国における日本人の権力は、満州国政府が権力維持を日本軍に依存し、諸鉄道の管理も満鉄に委託している為、満州国に対し抵抗不能の圧迫を加える手段を有している。
と厳しく糾弾した。「吾人は満州国政府は地方の支那人により日本側の手先と目される、支那側一般の支持なきものなりとの結論に到達したり」
なお、報告書は満州国政府を鉤括弧付きで記しており、これを承認しないという強いニュアンスが込められた。
調査団が満州に滞在中、現地民間人から1500通もの書簡を受け取っていたが、その内2通以外は、新国家と日本人に敵意を表していた。
満州国は傀儡国家であり、何ら満州人の支持を得ていないのは明らかであった。
この章も第四章同様、日本の主張を全否定するものであり、日本は衝撃を受けた。
リットン報告書第七章ー日貨排斥
第七章は中国における排日ボイコット、日貨排斥の概要である。
なおこの章で言うボイコットとは、単なる不買運動ではなく、脅迫や暴力に及ぶものだと指摘している。
調査団は中国の排日ボイコットを、日中紛争の重要な要素であると位置付ける。
日本は工業化の成功により輸出貿易を拡大し、対中輸出貿易は輸出総額の24.7%を占め、中国への依存を強めた。
他方、中国人は数世紀からボイコットを行ってきたが、それが近代にナショナリズムと結合し、政治的な武器となった。
そのやり方は、排斥対象となる国の商品を買わない、中国の商品を輸出しない、その国の人間に対するあらゆるサービスを拒絶する。
このように拡大し、ついには敵国とのすべての経済関係を完全に遮断するに至った。
1925年以降のボイコットは、国民党が支配した。
国民党は全国に支部を置き、広範な宣伝情報機関を有する組織である。
国民党はボイコット運動を組織化し、運動の背景に党組織の力を与えた結果、一般の民衆や商人に対するボイコットの強制力は増した。
上海においては、日本製品の契約取消し、船積み停止だけでなく、既に市場に出回った日本製品に対しては登記を強制し、その動向を監視した。
また、上海当局は商人や倉庫を手入れし、未登記の日本製品が見つかった場合にはこれを押収した。
商売だけでなく、日本への旅行や日系銀行の利用も厳しく禁じられた。
日貨排斥は愛国的な義務であると宣伝され、もしこれに従わない場合は非難や脅迫を受ける始末であった。
中国の排日ボイコットは防衛手段ではなく侵略行為であり、日本の世論に反響を起こした。
日本の商工業者の間では、満州事変はボイコットに対する報復であると支持する声もあった。
ボイコットは近年の日中関係を悪化させた諸原因の一つであることは疑いはない。
中国人はボイコットを純粋かつ自発的であると主張する。
しかし、現在のボイコットは国民党の支配下にあり、強固に組織化されているのは間違いない。
確かに、ボイコットは強い国民的感情から生まれ、それに支持されているとしつつ
更に、中国の排日ボイコットは中国の法律に照らしても明らかに不法であると断じる。「これを開始または終息せしめうる団体により支配せられ、また指揮せらるるものなること、並びに確かに脅迫に等しき方法により強行せらるるものなることを結論す」
これは、在満邦人の生命財産の保護、通商居住往来行動の自由を保証する条約上の義務にも違反する。
このようなコメントにより、調査団は中国の主張を完全に否定した。「二つの隣邦の貿易上の相互依存と両国の利益のためには、経済的接近が必要である。
だが、両者の政治的関係がこのように険悪で、一方が兵力を、他方がボイコットという経済的武器を用いる間は、そのような接近は不可能だ」
なお、続く第八章で満州における経済上の利益として、門戸開放の原則が必要であり
と、日中共存共栄を説いている。「貿易、投資、財政上の自由競争によって表現される真実の門戸開放の維持は日本と支那双方の利益となるであろう」
リットン報告書第九章ー解決の原則
調査団は以上の調査を踏まえ、満州問題の解決の原則及び条件を提案する。
まず、満州問題に関する懸案を日中双方で取り扱った場合、両国の関係は非常に悪化し、衝突せざるを得ない。
この紛争は、一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽くさずに、他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない。「問題は極度に複雑だから、一切の事実とその歴史的背景について十分な知識を持った者だけが、この問題に関して決定的な意見を表明する資格があるというべきだ」
何故なら満州においては、世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ。「一国の国境が隣接国の軍隊により侵略せられたるが如き簡単な事件にも非ず」
日本は宣戦を布告することなく、中国の領土を軍隊によって占領した。
その結果、満州は中国から分離し、独立を宣言するに至った。
これは事実である。
しかし、日本は、この時用いた手段を連盟規約や不戦条約、九カ国条約の義務に合致すると主張する。
全ての軍事行動は自衛行為であり、その権利は不戦条約や九カ国条約の中に含まれ、連盟理事会のいずれの決議においても認められる。
満州国も地方人民の自発によるものであるので正当視すべきであると論じる。
この紛争を複雑化しているのは、日本の合法性に関する主張である。
よって、単に事実を批評するだけでは解決を期することは出来ず、日中の調停に資する為の実際的な努力が必要である。
調査団は、正義と平和に合致する方法として、満州における日中両国の永遠の利益を確保するために以下のように提議した。
まず解決に関する不満足な提議として、原状回復を挙げる。
単なる原状回復、張政権の復帰は問題の解決にならず、紛糾を繰り返すだけであり、現実の状勢を無視するものだとした。
次に満州国の維持、満州における現政権の維持、承認も不満足である。
それに、中国の利益に反し、満州人民の希望を無視し、日本の永遠の利益となるかどうかも大変疑わしい。「現行の国際義務の根本的原則、もしくは極東平和の基礎であるべき両国間の良好な了解と両立するものとは認められない」
満州は人種、文化、国民的感情において中国化しており、これを実際的に中国から分離すれば、将来において未回収問題を発生させる。
中国の敵愾心は盛んとなり、日本製品のボイコットは永続化し、平和を危険に晒すだろう。
確かに、日本にとって満州が極めて重大な事は認められる。
また、満州の治安を維持し得る、安定した政府を求めることも不合理とは言えない。
しかしそれは、満州人民の願望と合致し、彼らの感情や要望を十分考慮した政権によって、初めて保障されるのだ。
満州国という解決法に永久性がないことは明らかであると断じた。
そこで委員会は満足な解決法の一般原則を列挙した。
・日中双方の利益と両立すること
双方ともに連盟加盟国であり、同一の考慮を払われることを要求する権利がある。
・ソ連の利益に対する考慮があること
第三国の利益を考慮することなく平和を講じるのは公正でも賢明でもない。
・現存の多角的条約との一致
連盟規約、不戦条約、九カ国条約の規定に合致することは絶対必要である。
・満州における日本の利益の承認
日本と満州の歴史的関係を考慮に入れ、満州における日本の権益は無視することは出来ない。
・日中両国間における新条約関係の成立
満州における両国の権利、責任を新条約の中に再び声明し、合意する。
これが将来紛争を避け、相互信頼と協力を回復するために望ましい。
・日中間の経済的接近促進
中国の近代化には、最も近い大国である日本との友好関係を結び、満州における日本の経済協力が最も有効である。
この為に、如何に中国のナショナリズムの要求が合法かつ緊急的であっても、日中関係改善の前には認められない。
以上の原理原則から、将来における紛争解決に対する有効な措置として、満州の自治を挙げた。
満州政府は中国の主権と行政的保全と一致し、東三省の状況や特徴に応じられるよう、広範な自治を確保するよう改めるべきである。
この原則を含む方法により日中両国はその紛争を解決し、両国間の密接な了解と政治的協力の新時代の出発点となると説いた。
リットン報告書第十章ー理事会に対する提案
以上を踏まえ、調査団は連盟理事会に対し、紛争当事国に与えるべき提案の起草を助ける諸提議を挙げた。
中国が東三省に特別行政組織を構成し、満州に自治政府を樹立すると宣言する。
新政府設立にあたり、連盟理事会は日本、中国、日中双方が指定する現地代表からなる諮問委員会を設置すべきである。
諮問委員会は以下の事を考慮する。
まず、中国中央政府は満州において、条約や外交の管理、税の事務管理、執政任命権、自治政府管轄下の事項について国際約定を履行を命じる権利を有する。
この他は全て満州自治政府に帰属させ、広範な自治を与える。
また、満州自治政府の憲兵隊を外国人教官の協力を得て組織し、これを東三省唯一の武装組織とする。
つまるところ満州の非武装化であるが、日本は非武装地帯防衛のためにあらゆる手段を取り得る。
更に、自治政府執政は適当数の外国人顧問を任命するが、そのうち日本人が十分な割合を占めることを必要とするよう配慮する。
最高法院についても、2名の外国人顧問のうち、必ず1名は日本に割り当てるべきである。
次に、東三省における日本の利益に関する日中間の新条約が必要である。
この条約の目的は、満州の経済的開発に対する日本の自由参加である。
なお、これは経済的政治的に支配する権力を伴わないものとする。
つまり、南満州と熱河省に限定されている居住権・商租権を全満州地域へ拡張し、鉄道運行・運賃に関する協定により競争を終息させる。
これによって、現在進行中の満州国の行政機関を抜本的に変えることなく進展させつつ、満足出来る制度を完成しうるのだ。
仮装せる戦争関係
報告書は満州事変を日本の自衛措置と認めず、満州国を日本の傀儡国家であると断じた。
他方で報告書は、満州事変を明確な侵略(連盟規約第10条違反)であると断定せず、簡単な事件ではないと、最大限の配慮を行なっている。
更に、日本の主張する日貨排斥を中国国民党の指導下にあることも認めている。
あらゆる面から見ても日本を糾弾することは容易いが、日本の侵略を断定すれば事態収拾が困難になることは明白である。
また、リットンは日本が満州から退くことはないだろうし、退かせる道理もないと考えていた。
報告書の目的は日本が容れやすい条件で、中国に日本が満州に残り得る条件を承諾させる事である。
リットンは報告書の中で日中関係を「仮装せる戦争関係」と表現し、中途半端な解決では東アジアの平和は維持されないと考えた。
よって、重要な論点で日本の見解を全て否定しつつ、極めて現実的な解決策を示した。
中国は強力な中央政府を作る上で日本の援助を必要としており、日本は経済的に中国の巨大な市場を必要としている。
報告書の原則に則って満州問題を公正に解決すれば、日中協調は実現しえる。
その為に報告書は、日本に最大限の配慮を払うことで、日本を交渉のテーブルに着かせ、国際社会に繋ぎ止めようとした。
こうしてリットン報告書は苦心の大作となった。
認識不足
日本政府がリットン報告書を翻訳して正式に発表したのは、10月2日である。
だがその前日、東京日日新聞がリットン報告書をすっぱ抜き、世紀の大スクープとなった。
国民の関心度は極めて高く、各社一面をリットン報告書が飾り、翻訳された報告書はたちまち売り切れた。
報告書の解決原則が日本側に有利であった事から、元老西園寺の秘書、原田熊雄は以下のように評している。
外交評論家の清沢洌も、報告書の内容が短時間のうちに整備されたことに驚き、全く異論がないと評した。「要するに、日本の全ての権益を充分に認め、ことに二十一ヶ条を認めさせる。
ただ日本が支那の宗主権を認めなかったこと、即ち満州国の独立を承認したことは甚だ遺憾であるというようなことが書いてあって、内容は全体的には日本に対して非常に好意的である」
吉野作造もリットン報告書を、噂されていた以上に日本に不利であるとしつつも、このように評している。
ただし、このような意見は少数派であった。「公平に観てあれ以上日本の肩を持っては偏執のそしりを免れないだろう。
欧州的正義の常識としては殆ど間然する所なしとして可」
日本はリットン報告書を楽観視しており、報告書公表の前日になっても、新聞で満州国の存在が認められると報じられていた。
ところが、蓋を開ければ満州国を否定し、関東軍の軍事行動も自衛権として認めなかった。
両者は日本にとっての核心であり、日本国民はリットン報告書を相当不利であると受け止め、到底容認出来ないものだと憤慨した。
新聞はリットン報告書を「依然たる認識不足」「錯覚」「曲弁」「誇大妄想」であると一斉に批判した。
東京日日新聞は、リットン調査団はユートピアの中にいると批判し、断固とした決意をもって臨むべきだと論じた。
読売新聞に至っては、リットン報告書を認識不足に支えられた不安定な積み木であるなどと皮肉る風刺画を掲載した。
政友会も、報告書内の日本の非を指摘した箇所を強調する。
鈴木総裁は貧弱なる調査を前提としており、その内容は「偏頗の僻見」「東洋国民に対する不信」であり、調査団の解決案を「砂上の楼閣」と非難。
これを実行すれば満州事変以前よりも悪化すると断じた。
民政党も、日本は満州国の事実をありのままに承認したに過ぎず、報告書のような連盟の意見を顧慮する必要がないと演説を振るった。
朝野あげて連日連夜、この調子であったので、国民の間では「認識不足」が一種の流行語となったという。
リットン調査団は日本に滞在中、三井合名の総裁、団琢磨と会見している。
この数日後、団は暗殺され、リットンは中国以上に混迷の中にある日本を目撃した。
しかも、満州国承認を阻止してきた犬養首相も暗殺され、日本はテロリズムにより自由な言論が抑圧されていると感じるようになった。
リットンは日本の実情について
と語っているが、リットン報告書に対する反発は、まさにそれを物語った。「大衆は多く事実の真相を知らずにいる」
世界の道
リットン報告書は解決条件を提示した調書であり、連盟はこの調書に基づき満州問題を議論することになる。
日本政府はこの報告書に対する回答を準備する為に6週間要求し、舞台は再び連盟に戻る。
歴史に残る報告書を記したリットンは、帰国後に報告書に関する講演を行なっている。
その中で、内田外相との会見内容を語っている。
リットンは内田に対し
と述べ、日本の満蒙権益や条約関係、歴史的背景、日本の立場を全て認めた。「満州は日本の生命線であり、この点に関しては日本は非常に敏感であり、何人といえども日本のとれる立場を疑うことは許されないと言われました。
我々はこれを全部認めます」
日本は、満州を守るために多大な犠牲を払ったと記憶し、満州に対して一切の妥協を許さなくなった。
だが、当たり前であるが、日本だけが国家ではない。
よって、その協同機関の理念に反するやり方で、満州の権益を維持することは承認出来ない。「他の国民もまたそれぞれ敏感なるべきものを持ち、誇るべきものを持ち、また日本が満州について感ずると同様に非常に強く感ずる所の在るものを持っていることを申し上げたいと思います。
欧州大戦の際には、ある国々はその国の命の限りまで戦いました。
またある国々は国の全部を挙げて戦いそれを全部失ってしまいました。
貴方は日本が満州において十億円を費やしたと言われました。
欧州大戦の際にはこれらの諸国はそれより遥かに多くを費やし、今後長くその子の孫を苦しめる所の負債を背負いました。
日本は二十万の生霊を失いましたが、これらの諸国は何百万の生命を失いました。
しかもこれらの国々は唯一つの事を除いては大戦の結果何物も得ませんでした。
この大戦争においてこれらの国々が払った全ての犠牲の結果として得た唯一のものは、平和を維持し、この惨禍を再び繰り返さざるための協同の機関であります」
リットンは調査団の役割を、適切な二国間協議が行われるよう原理原則を提示し、両国の承認を得ることにあると言う。
そこで、報告書は日中が平等の立場に立つ為の原理原則を提案した。
これこそが国際協調であり、世界の道である。
日本がそれを受け入れるにはまだ遅くないと説いた。
だが、日本はリットンが示した世界の道から外れ、連盟脱退へと歩みを進めてゆくのである。
参考書籍
リットン報告書全文 渡部昇一
現代においてリットン報告書を平易に読める機会を提供してくれた、渡辺先生最大最高の業績。
満州事変から日中戦争へ 加藤陽子
戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗 加藤陽子
満州事変の基本中の基本。リットン報告書についても詳しい。
満州事変 戦争と外交と 臼井勝美
満洲国と国際連盟 臼井勝美
満州事変――政策の形成過程 緒方貞子
満州事変について基礎的な一冊。
満州事変の衝撃 中村勝範著
政党の強硬化について。
「満洲国」の金融 安冨歩
満州大豆と張政権の悪政について。
内田康哉――焦土外交の軌跡 池井優
内田康哉の基礎的知識。
日本の国際連盟脱退をめぐる新聞論調 野村宗平
外交と世論-連盟脱退をめぐる一考察- 緒方貞子
リットン報告書と世論について。