1924年6月30日 画家の佐伯祐三がモーリス・ド・ヴラマンクに「アカデミック!」と批判される

注釈

佐伯祐三は寺の次男として生まれ、藤島武二の指導を受け、絵画の道に進んでいた。

ある日、武者小路実篤の家でゴッホの向日葵を見て、パリ行きを決意したという。

だが、どことなく既存絵画のスタイルに似た絵を描き続け、佐伯の個性は埋もれていた。

この日、佐伯は里見勝蔵に伴われ、フォーヴィスム(野獣派)の大家モーリス・ド・ヴラマンクを訪問した。

ヴラマンクは自分の才能のみを信じ、あらゆる伝統に束縛されず、独学で画家となった人物である。

そんなヴラマンクに佐伯は自信を持って裸婦像を見せたが、一瞥するや「アカデミック!」と叱責した。

アカデミック、つまりは伝統に縛られた保守的な作品である、という批判である。

この出会いが佐伯の芸術に火をつけ、パリの風景を題材に、自らの絵を求めて描き続けた。

そして翌年、パリの美術公募展サロン・ドートンヌに出品したコルドヌリと煉瓦屋が入選を果たした。

独特の荒々しいタッチと、街角のポスターなどの文字を造形として取り入れた佐伯の才能は、広く認められることとなった。

だが、佐伯の身体は結核に侵されており、制作に没頭するあまり神経を衰弱させていった。

1928年、郵便配達人を書き上げた後に血を吐いて倒れ、僅か30歳で世を去った。


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