第一次世界大戦前の国家総力戦論

コラム

総力戦としての第一次世界大戦

1914年6月28日に発生したサラエヴォ事件を受け、7月28日にオーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告した。

セルビアを支援するロシア帝国が動員を開始すると、これに反応したドイツ帝国がロシアに宣戦布告。

8月3日にはドイツはロシアと同盟を結ぶフランスに宣戦布告。

更に8月4日にドイツが中立国であるベルギーに侵攻するに至り、イギリスが対独宣戦布告を行った。

こうして連鎖的に第一次世界大戦が勃発した。

参戦諸国はいずれもこの戦争が短期間のうちに終わると考えていた。

しかし、西部戦線に塹壕が現れるや戦線は膠着し、人類が未だかつて体験したことのない長期持久戦に突入した。

14年末には各国とも深刻な砲弾不足に陥り、経済工業を再構築し国内産業を軍需生産に転換させる必要に迫られる。

ドイツは陸軍が軍需品の生産・配給・消費を管理統制した。

フランスも国内工業に対して軍用品製造を行う旨を布告した。

英国も軍に民間工場の管理権を付与した。

このように各国とも産業統制を行ったが、労働者と兵員の補充を並行した結果、著しい労働力不足が生じた。

この状況に対応すべく、各国は国民に兵役と労役を強制的に課す国民統制を開始する。

大量に生産した軍用品を前線に運ぶために、陸上・海上輸送の統制も進められた。

戦争が長期化すると兵器技術革新が進み、戦車や飛行機、毒ガスなどの新兵器が戦場に姿を現した。

それが大規模に運用される機械戦に移行した。

機械は人をいとも簡単に殺傷し、人類が未だかつて経験したことのない凄惨な戦争となった。

第一次世界大戦は1918年11月まで4年半に及ぶ長期戦となった。

開戦時に有する戦力が前線で衝突し、比較的短期間で終わる戦争は過去のものとなった。

新しい戦争は、銃後の国民が武器弾薬を生産しながら何年も続く長期持久戦、国家の人員・物資の全てが投入される物量消耗戦となった。

その結果、交戦国数、参加兵力数、戦場、戦費、軍需品、戦争被害など、いずれも従来との比較にならない大規模な戦争となった。

動員された兵力はドイツが900万、オーストリアが700万、フランスが500万、イギリスが500万、アメリカは300万である。

これは参戦国の国民の1割から2割に相当する。

戦費も2083億ドルが消費された。

戦死者は900万人、負傷者2000万人に達し、欧州に未曾有の破壊をもたらした。

これは通信交通機関、軍事科学技術の革新によって戦争規模が拡大かつ凄惨化した為であり、資本主義の行き着いた先であると言えよう。

そのような戦場の変化だけが第一次世界大戦の特徴ではない。

特筆すべきは戦争の性質の変化である。

男子労働者が根こそぎ動員され、海上封鎖により日常品が欠乏し、物価高騰によって非戦闘員への戦争の影響が深刻化した。

この事から、銃後の国民の士気が継戦能力の一翼を担うようになり、政治、経済だけでなく国民の戦意を奮い立たせるために文化までもが戦争を支えるようになった。

もはや戦争は陸海軍だけでなく国家の社会全体にわたり、戦場と銃後の区別はなくなった。

まさに国家の総力を挙げての戦争である。

欧州の戦争を注視した日本陸軍は第一次世界大戦の各国の状況を国力戦、または国家総力戦と呼んだ。

そして、参戦諸国に見られた戦時体制の特徴を、国内のあらゆる資源・施設を統制按配して戦争遂行上最有効に使用する状態に移すことと捉えた。

これを国家総動員と名付けた。

田中義一

総力戦といえば第一次世界大戦が想起されるが、日露戦争も規模こそ違えど立派な総力戦であった。

それにいち早く注目し、日本において最初期に総力戦に備えるべきだと説いたのが田中義一である。

田中は長州萩の足軽の家に生まれた長州の寵児である。

陸軍士官学校の成績はそこまで優秀という訳ではないが、愛嬌がよく、陽気で、気配りに長け、能弁であった。

軍人らしからぬその性格と「オラが」と長州訛りを隠さない茫洋とした様から、後に政治家として人気を博する。

その一方、軍人としては極めて優れた洞察力、情報収集能力を有した。

それだけでなく、政治経済教育思想など多方面に深い知識と関心を持ち、政界財界官界に幅広い人脈を作り上げた。

陸軍軍務局長、参謀次長、陸軍大臣、政友会総裁、首相を務めるという極めて珍しい経歴が、田中の多才を物語っている。

田中は1894年の日清戦争に第一師団副官として従軍し、立案した動員計画が高く評価され、陸軍のエリートコースに乗った。

当時の陸軍のエリートといえば軍事大国ドイツへの留学が必須条件であった。

しかし、陸軍は仮想敵国としてのロシアを重視し、田中をロシアに派遣して内情を探らせた。

これが田中の人生を大きく変えることになる。

田中は4年近くロシアで過ごした。

その間、ロシア人の心情を理解するためにギリシア正教に入信したり、社交ダンスを身につけてロシアの貴族社会に入って人脈を作り上げた。

田中のロシアに溶け込む努力は、ギイチ・ノブスケビッチ・タナカの名刺を持ち歩くほど徹底していた。

田中のロシア調査報告は政治家たちに重宝された。

伊藤博文は少佐にしか過ぎなかった田中と夜を徹して対露政策を語り合った。

山県有朋も田中の綿密な研究と、時には激論を戦わせる生一本な調子を好んだ。

田中は元勲達の信頼を勝ち得たのであった。

政戦両略一致論

日露戦争後の1906年、田中はロシアの復讐戦の備えと植民地経営について、戦後経営に関する長大な意見書を記した。

それが1907年の帝国国防方針策定に大きな影響を与えた随感雑録である。

その冒頭において田中は

「戦後の経営は単に陸海軍の兵力を決定するが如き単純なる意義にあらずして我帝国の国是に伴う大方針を詳言するは、海外に保護国との租借地を有しかつ日英攻守同盟の結果、従来の如く単に守勢作戦を以って国防の本領とせず、必ず攻勢作戦を以って国防の主眼となさざるベからざることを基礎として戦後経営の第一要素とする」

と記した。

つまりは国防を従来の守勢から攻勢に転換するために相応しい軍事力を備え、朝鮮から大連・旅順を確保し、大陸国家として発展するという基本戦略である。

この際、政治と軍事の関係についてどうあるべきか。

田中はこのように説いた。

「行政機関たる内閣は時々更迭あるべきも我帝国の国是は終始一貫すべきものにして行政機関の変動と共に変化すべきものにあらざるは論を待たずといえども、我帝国の国是を遂行する為、政府は如何なる政略を採らんとするか。

けだしその政略が我が従来の島国的境遇を脱して大陸的国家となし、以って大に国運の伸張を期するに在るべきも同一の企図を以ってする戦略と相反することなるべきか、これ大に研究を要する所ならん故に政戦両略は平等において堅固に一致するにあらざれば戦時急にこれが一致を呼号するも遂にその功なかるべし」

政略の決定機関としての行政府である政府と、戦略の決定機関として統帥部である陸軍は、根本的に違う存在である。

行政府が政治の動向によっては主体も政策も変動する。

一方で統帥部は政治の変動によって左右されず、超然とした不偏不党の立場を堅持しなければならない。

これが田中、ひいては陸軍の論理である。

その上で、国防というものは、常に挙国一致、政戦両略一致で運営されなければならないとした。

田中がこのような論理に至ったのは、日露戦争の経験に依る所が大きい。

田中は経済を巡る政戦両略について

「政略は進取的にして戦略は攻勢を以って本領とし、而してこれを遂行するに要するに兵備において欠くる処あらんか、その成功の期すべからざる論を待たず」

と述べ、この好例としてロシアの敗因を挙げている。

つまりロシア経済が軍事費の需要に耐えられず、その戦略が大いに拘束され、守勢を余儀なくされた為に終始日本の先制を許した。

ロシアの経済上の政戦両略の不一致がロシアの敗因であると観測したのだ。

田中は経済の政戦両略一致による戦費調達力こそ国家の継戦能力であると早くも見抜いていた。

だが、だからと言って日本の政戦両略は一致していたとは言えない。

日本も戦時中に武器弾薬の不足によって何度も作戦計画が変更を余儀なくさていた。

田中は以下のように政戦両略一致を極めて重視している。

「政戦両略は互いに和合し、その兵力はこれを遂行するに充分ならざるべからず。

これ深く着意を要する所なり」

よって、軍備拡張には経済の調和を図り、経済状況に応じてその国防目的を達成するという柔軟な見解を示した。

「国家経済の如何を顧みずして徒らに兵力を云々するものにならんや、単に政戦両略の遂行に要する兵力を準備せんとするに過ぎさるのみ」

その上に、兵力の充実と商工業の発達は共に中心課題であると強調している。

「戦後経営に関し漫然兵力の増加を計るは国家経済の基礎を撹乱するものにして兵備の充実と共に商工業の発達を計り国力の培養に務むべきは戦後経営の第一要義たり」

だがその一方で政戦両略は慎重に協議すべきであると論じる。

「而して既に決定せられたる作戦方針は国是において変更せざれる限りは決して他の刺激を受けて改変を加うるべきものにあらず」

「国家の兵備は攻略及び戦略に伴うて決定せられ、戦略政略は多少国家経済の程度を斟酌して決定せらるるものなるが故に、単に経済の変調に追随して消長すべきものにあらざるは断じて疑いなき所なり」

つまり田中の政戦両略一致論とは、戦略を政略が全面的に支持する戦略優位の上で成り立つものである。

軍部の政治的要求を政府は実現しなければならないという、陸軍の見解そのものであった。

エリート将校の隊付勤務

1907年、田中義一は参謀本部の中枢から第一師団の第三連隊長に転出した。

当時のエリート将校はそのまま参謀本部の中枢にあるか、外国の駐在武官を歴任するのが常であった。

それが第一線で兵士を直接指揮する隊付将校になるなど、極めて異例な人事である。

この人事は田中が自ら希望したものであった。

田中は実戦指揮をとる参謀将校が現場に出て経験を積む慣例をどうしても作る必要があったのである。

田中はロシア駐在中、アレクセイ・クロパトキン将軍の知遇を得てロシア軍の隊付勤務を行ったことがある。

そこで田中は世界最強と謳われたロシア陸軍の実情が、将校と兵士の意識がバラバラで、精神面における団結の欠如を目撃している。

これはロシアの将校が貴族出身で兵士が平民出身であるという、階級意識が軍全体に横たわっていたからだ。

それだけでなくロシア国内の政情悪化から、国民の不満が鬱積し、軍隊と国民の間の信頼関係が希薄になっていた。

実際に日露戦争におけるロシア軍の士気は低かった。

また前線の軍隊が苦戦しているにも関わらず、国民はそれを後援するでもなく、かえって掣肘すらした。

一方、日本国民は日清戦争以来の臥薪嘗胆で結束が強く、ロシアに対する猛烈な敵愾心を発揮して軍隊を後援した。

だが、それも長続きはせず戦争末期にはロシア同様、国民に厭戦気分が広まっていた。

軍隊も創設以来の封建的な気風に溢れており、上官が下士官を軽蔑し、下士官が上官に反抗する有様であった。

その結果、参謀将校たちは戦場にて粗末な実戦指揮を露呈させていた。

軍隊には階級的な身分差はなく、将校は兵士と一体となって軍隊を指揮するのが理想である。

その為にエリート将校の隊付勤務を慣例としたのだ。

国民の軍隊化

田中は日露戦争の教訓から、軍と国民との間に乖離を抱えたままでは、国防は成り立たないと考えた。

「国民の後援があり、同情のある軍隊が、一朝戦場に臨めば、これ程強い軍隊は無いのである。

即ち軍隊の背後に国民の熱烈なる後援があるということが、新編成に対する頼みであり、確信である」

と語るように、軍民が一体となって初めて精強な軍隊が成り立つのである。

では軍民を一致させる方策はあるのか。

田中は軍隊教育と国民教育の調和一致にその道を見出そうとした。

そもそも軍隊教育の目的は、戦場において最大限の能力を発揮できる兵士の養成にある。

当然軍事教育の対象は兵士に限られていたが、田中はこの教育を国民教育にも適用し、国民の軍隊への理解を深めようとした。

言わば国民の軍隊化である。

これは何も田中独自の考えではない。

政党政治家にして教育家である大隈重信もまた国民の軍隊化を説いている。

1911年、当時在野にあって政治活動を行なっていた大隈が歩兵第三連隊に招かれた。

山県の政敵であった大隈の軍隊参観は大いに話題になったが、これは大隈が

「国民と軍隊とはその関係極めて深きものであるから、国民教育に従事する者は、軍隊の事情に通じて居らなければならぬ」

と考え、かねてから軍事参観を希望していた事から実現したのである。

軍隊参観後、大隈は

「軍事教育と国民教育を結び付け、国民皆兵となって崇高なる主義に依って団結すべき」

と語り、軍事知識を身につけて軍隊に理解を示す国民の上に軍隊を構築する事によって、初めて政戦両略が一致すると主張した。

このように国民の軍隊化は軍人達の独善的な暴走ではなく、政治家もまた求めるところであった。

良兵良民主義

国民の軍隊化は軍民一致以上の効果をもたらす。

1915年、首相となった大隈は軍隊教育が良民を作るものであると主張し、国民教育と軍事教育の結合を説いた。

軍隊の精神は自制心であり、努力と奮闘であり、約束を守る誠実さであり、実行を重んじる精神である。

この精神を国民生活に応用した時こそ

「非常に真摯なる堅実なる、かつ勤倹なる人物として現れる」

大隈は

「平素は我軍隊を以て日本帝国の威貌と為しいると同時に、いざ鎌倉となれば人々皆挺身剣をとって三軍に加わり戦場に馳駆せなければならぬ。

それ故に国民としては常にこの緩急の用に便ずる様に自己の心身を陶鋳して置かねばならぬ。

ここにおいて国民教育と軍事教育との間には水洩らさざる一種の堅き契合が存在せなければならぬのである」

と考え

「国民一般に軍事思想が普及し、軍隊教育上に精神的にも形式的にも一段の進歩を為す」

と論じた。

軍隊教育と国民教育の結合は真摯で堅実で勤倹なる人物、つまりは良民を生み出すものである。

田中は大隈の議論を「軍隊教育の真髄を道破して余蘊なきにちかい」と絶賛し、田中もまた国民の軍隊化に良民養成を期待した。

一方で軍隊教育は服従、献身性、攻撃性、体力や精神力の向上が期待できる。

それは良兵の条件でもある。

田中は以下のように、良民は即ち良兵であると考えるようになった。

「良民であるということが、つまりが良兵であるということであって、良民であるものはいざという時には、いつでも立って君国の為に身を犠牲にして働く、良兵となる事が出来、平時においては農工商や学問のその他色々の事業に対して十分の努力をなし、国家をして繁栄富強ならしめる事が出来るのである」

軍隊教育と国民教育の結合は、戦時における良兵・良民を養成する側面がある。

もう一つ、田中は国民の思想改良にも可能性を見出していた。

田中は軍務局長時代に、このように語っている。

「日本軍隊は陛下の軍隊でありますけれども、我々としてはこの陛下の軍隊を終始、国民という大きな波の上に浮かべて針路を誤らぬようにせねばならぬ」

大きな波とは、社会運動の高揚、反軍・反国家的気運、総じて危険思想を指す。

思想の危機に直面した田中は

「今後の戦争はどれだけ続くか知らぬが、この戦争後には必ず思想上の反動が起こるに違いなく、干戈の戦争が終息すれば続いて国民思想の戦争が必ず始まる。

思想戦に打ち勝つことを今から工夫して置かねばならぬ」

と論じ、国民思想が国防に大きな影響を与えるという思想戦の概念にたどり着いた。

その対策こそが、軍隊教育と国民教育の結合による国民思想の統制、つまるところの良民の養成なのである。

良民の養成は戦時動員可能な良兵足りうる国民という陸軍の観点からも、穏当な思想を有する良民という国家の観点からも重要な課題となった。

さて、実際に良民を養成する上で田中は以下のように軍隊教育を重んじている。

「軍隊は国防学校なると同時に国民を善良に導く修身学校なり」

それは「軍の精神は即ち国民精神」であると同時に

「軍人精神を鍛練し軍紀厳粛にして内務の履行確実なるものは即ち郷に帰りて忠良なる臣民となり得べし」

と考えたからだ。

つまり、軍事教育を受けた良兵が退役後に郷里に戻り、軍人精神を身に付けた良民として国の中堅を為す事を期待した。

「良兵を養うは即ち良民を造る所以」

これが所謂良兵良民主義である。

田中と同じ観点で軍隊教育を見ていた将校が永田鉄山である。

永田は陸幼、陸士、陸大と進み、全てにおいて優秀な成績を残したエリート将校であり「永田の前に永田なく、永田の後に永田なしと」謳われた陸軍きっての天才である。

永田は教育総監部付勤務として、軍隊教育の改革に従事している。

それは軍隊教育をこのように考えていたからである。

「直接に間接に何一つ国家の良民たるに必要でないものはない」

「軍隊教育は立派な兵隊を作り上げると同時に,また立派な国民を作り上げる」

永田は田中同様に軍隊教育に良兵良民主義を見出していた。

そして後の総力戦研究の中で教育の重大性を説くのであった。

在郷軍人

田中の良兵良民主義は郷里に戻った退役軍人、または郷里にあって軍務に服していない現役軍人。

つまりは在郷軍人が担うところが大きかった。

ところが日露戦争後、在郷軍人は地域の共同体秩序を乱す者という認識が広がっていた。

これは軍人生活の中で驕り高ぶる性格となり、除隊後に地域社会に馴染めずに無頼となる例が多数あったからである。

田中は良民となるべき在郷軍人が社会から嫌悪されている事実を憂慮し、その原因を軍隊教育にあると感じ取った。

従来、軍隊教育は精神至上主義の下、暴力は日常茶飯事であった。

軍紀は厳格に定められ、懲罰によって兵士を拘束した。

支配と服従という絶対的権力関係の下で兵営生活を送った軍人が、日常生活に復帰するのは困難であることは想像するに易い。

そこで1908年、田中は長岡外史軍務局長と共に軍隊内務書を改訂した。

その中で軍隊について

「兵営は苦楽を共にし死生を同する軍人の家庭」

「中隊長が父であり兵卒が子であるとする父子の情誼と関係が確立されていかねばならない」

と記し、軍隊内務は軍隊家庭を作り上げることが肝要であるとした。

このような温情的な家族的価値観によって兵隊の共同体意識を涵養すれば、将校と兵士の関係はより親密・強固なものとなる。

そして何より、退役後もその精神を維持すれば地域社会に容易に復帰できるのである。

これは言うなれば軍隊の国民化とも言えよう。

なお家族主義が注入されたからと言って、軍隊内部の暴力は根絶しなかった。

むしろ擬似的家族関係が軍隊内部の暴力性を糊塗し、親子兄弟の支配関係の下でリンチが正当化されるに至る。

田中は国民が軍隊を嫌悪している原因は軍隊内暴力にあると指摘しているが、遂に帝国陸軍の最後まで暴力が無くなることはなかった。

もう一つ、田中が在郷軍人に注目した理由は、予備役を高く評価したからである。

田中は在郷軍人を前にし、以下のように説いている。

「日本の将来戦時には、どうしても多くの軍隊を動かさねばならぬ。

戦時に多くの軍隊を動かすからといって、平時に多くの軍隊を有つということは、如何にも我国財政の状況が許さない。

そこで、これからは日本の軍隊というものは、平素は少ないが、戦時になると多くなるという様にしなければならぬ。

戦時に多くなるというのは何を以て多くするかというと、即ち在郷軍人諸君を以て多くするのである」

将来の戦争は兵力を大量動員する必要があり、もはや常備師団だけでは不十分である。

事実、日露戦争においては常設師団は全て投入され、予備役・後備役まで限度一杯に戦場に兵力を送り込んでいる。

戦時動員される予備役こそが国家の戦闘力である、

平時における潜在的な兵力源として在郷軍人を平時から訓練し、精神的結束を維持する必要があった。

これは、常備師団の増設を求める参謀本部とは大きく異なる発想であり、後に戦力のあり方を巡り対立を引き起こす事になる。

帝国在郷軍人会

良兵良民主義の観点からも予備役兵力の観点からも在郷軍人を重視した田中は、在郷軍人の組織化に奔走する。

そうして1910年、地方に散在していた在郷の軍人組織や尚武組織を統一し、設立されたのが帝国在郷軍人会である。

在郷軍人会は陸軍大臣の所管に編入され、平時から在郷軍人の戦時動員体制を確立を担った。

それ以上に田中が在郷軍人会に期待したものは、軍隊教育と国民教育の一致である。

田中は在郷軍人に対し、国民の模範であるべきだと説いた。

「あなた方は、この勤倹力行ということの規範を郷里に垂れる人でなければならぬ。

また人に対しては極く誠実であり、業務に極く勤勉であり、自分の職業には精励であるという主義の許に教育された人でありますから、郷里に帰りても、人から尊敬を受くべき人であります」

在郷軍人は地方の秩序確立に貢献し、国民の思想道徳の乱れを阻止し、地域社会の発展を牽引し、国民を統合する中堅的存在となるべきなのだ。

更に田中は

「国民教育というものは、軍事思想を注入して置かねばならぬと考える。

軍隊と地方の御方々と終始接着して、地方の青年諸君に軍事思想を注入して置き、またなるべく軍隊教育と国民教育とを一致させるような方法を取るということが必要である」

と、国民教育と軍事教育を結合させる媒介としての役割を在郷軍人に期待した。

さて、在郷軍人が地方において国民の中堅を担うには、軍隊教育を徹底し、軍人精神を以って育成する必要がある。

田中は将校たちに対し、以下のような教育方針を説いている。

「軍隊は国民の学校である。

しかしてその学校は独り国防という事ばかりでなく、軍隊の方から言えば、進んで国民を善良に感化指導して行く抱負が無ければならぬ」

「軍隊の力を以て、国民を終始感化して、国民の性格を終始陶治して行くという考えが無ければならぬ」

そこで1913年、陸軍は軍事教育を改める為に軍隊教育令を制定した。

その綱領は、以下の通りである。

「軍人は国民の精華にして其主要部を占む。

従って之が教育の適否は直に郷党閭里の風尚を左右し、以て国民の精神に偉大の影響を及ぼすものなり」

「軍隊教育の任に当たる者はもとより戦闘を以て本旨となすべしといえども、その良兵を養うは即ち良民を造る所以なるを思い、国民の模範典型を陶治するの覚悟なかるべからず」

このように軍隊教育は良兵良民主義の使命を有しているのである。

世界の青年教育

田中は将来の戦争の主役となる予備役、在郷軍人を中核、軍民一致を図ろうとした。

そこで重要となるのは、将来徴兵され、軍事教育を受け、在郷軍人となる青年である。

1912年、乃木希典大将は田中に対し青年教育の研究に取り組むように指示した。

乃木は英国でボーイスカウトの発達を目の当たりにしている。

それに比して日本の青年教育は放置されており、何ら修養を収めていないと憂いた。

そのような青年が将来軍人となっても良兵となるはずがないのだ。

そこで田中に対し

「良兵は良民だという其の良兵になる要素は、青少年の間に作って置かなければならぬ」

と述べ、これによって良兵良民主義は徹底されるのではないかと説いた。

乃木は田中にボーイスカウトの資料を提示し、田中はこれを参考に青年教育に深い関心を示すようになった。

1914年、田中は列国の軍備視察のために欧米視察に出るが、この中で各国の青年の組織と教育の実態調査を行った。

まず乃木が感銘を受けた英国である。

青年教育を行う前は職にあふれた下層青年たちが無頼となるような不健全な状況にあった。

そのような衰退の気風を打破する為に青年団(ボーイスカウト)が組織された。

青年団は義務教育終了後の青年たちを対象とし、体操や遊戯によって健全な身体を養成し、夏季の野営活動で軍事教練を施した。

また、災害となれば青年団は救助活動に従事し、社会に貢献する青年を育成した。

次に視察したフランスの青年教育は、普仏戦争の雪辱から軍事的側面が強かった。

射撃、体操、読図、測量などの試験に合格すれば軍事適任者と認定され、入営部隊の任意選択や、軍隊内の階級優遇などの恩典が与えられた。

日露戦争の敗北を経験したロシアも、フランスに倣って国防力強化の意味合いで軍事教育を基調とした青年教育を行っている。

列国の青年教育を見聞した田中は、身体訓練の側面を高く評価している。

「国の将来を考えれば体育と云うことに重きを措かなければならぬ。

剛健なる国民たらしむるにはどうしても体力を旺盛ならしめなければならぬ。

剛健なる国民が出来れば国の発展を促進する様になる、亦彼等が兵役に就くに至って初めて良い軍人を得る事が出来る」

ただしフランスやロシアのような、国防力強化を目的とした軍事予備教育の一環としての青年教育には疑問を呈している。

確かに軍事予備教育を施された青年は優良な軍人になるだろう。

だが軍事本位の青年教育には否定的であった。

これは後に第一次世界大戦期の列国の情勢を調査研究した永田も同様であった。

青少年に軍事予備教育を施したロシアは、世界大戦に突入するとその青少年を戦時動員し、兵士として召集した。

これを永田は以下のように批判している。

「国内に居りて教育を受けて将来のために素地を送ると云ふ時代の少年を軍隊に編入すると云うやうなことは決して適材を適所に置く所以ではないと思うのでありまして、寧ろ国家的組織の欠陥を露はしたものと言ふて宜からうと存じます」

田中にとっても永田にとっても青年というのは将来、国を背負って立つ、国の礎である。

それを国防目的で入営前に兵士に仕上げてしまうのは、国家の組織としての破綻である。

ロシアに対する批判は、従来の日本の青年教育が軍事偏重であった事の批判でもある。

田中は青少年に対する軍事教育の欠点を、このように指摘している。

「余りに過度の軍事予備教育を施された壮丁は、入営前に既に軍事の半可通になって居るから、此の第一期間の教育を受ける時に、彼等は真面目ではない、精神的軍事教育の効果を薄弱ならしめる。

技能が半可通である為めに、彼等は此大切な第一期の教育を煩累と看做し、若くは之を不当と考え、之れが為めに不知不識の間に、軍隊に最も重要なる軍紀と云うものを軽んじると云うことが起る。

従て教練と云うものに、真摯にして熱心なる風が乏しくなり、困苦欠乏に耐える所の不撓不屈の剛健なる気象が欠けると云うことになる」

永田も、青少年への軍事教育に中途半端な軍人を生み出す弊害があると考えていた。

「青年に対して過度の要求をする、或は演習の興味を殺ぐとか、又面白半分に軍隊の演習の真似をして、夫が為に却って入営する前に生兵法的の悪習が生じる」

青年たちには将来のために基礎的な教育を受けさせるべきなのである。

それが田中や永田の青年教育の大前提にあった。

さて、田中が一番感銘を受けたのがドイツにおける青年教育の取り組みであった。

田中はドイツの青年教育について、以下のように評している。

「軍隊が強いと云うばかりではない、一般に国の基礎の強固なる事、上下一貫して独逸魂と云うものが、彼等の全身に充満して居って、何人と雖も、国の為めに進んで難に赴かんとする犠牲的精神を抱かざるものなく、自己の智力、能力、財力の総てを傾け盡して之を犠牲に供すると云う、其偉大なる力が今日独逸の強味を発揮した所以である。

其れが即ち多年倦まず撓まず青年教育に努力した賜物である」

ドイツはナポレオン戦争の経験から、将来国を背負う青年の教育こそが国を救う唯一の手段であると考えるようになった。

そのような長期的視野に立ち、青年の思想健全化や体力の涵養に重点を置いた教育を行った。

具体的には、体操、遊戯、遊泳、スケートなどのスポーツの奨励、それに取り組むための運動場の設置を推進した。

この点、軍事的目的を以って体操と射撃に重きを置いたフランスやロシアとは異なる。

その結果、ドイツ国中の青年は規律正しく、公共の信義を重んじ、敬神的で愛国心も旺盛で、健康な体力を持ち、活発で、元気に溢れるようになったのだ。

田中は

「元来此の青年教育の主眼と云うものは、先づ体力を練り精神を健全ならしめて、所謂独逸魂を有って居る所の剛健なる国民を作らなければならぬ。それが第一義である」

と考えるに至った。

そのような青年たちは良兵の素質を持つことは言うまでもないが、ドイツの青年教育に軍事的側面以上の可能性を有している。

「思想の健全なる、且つ体力の旺盛にして、然も勤勉力行を主とする国民が出来さえすれば軍隊も自然に強くなり、商工業も発展する。

農業も盛になる、各方面に向って、発達を促すと云う訳になるのである」

このように田中はドイツの青年教育を評価した。

そして日本の青年教育も「先ず彼等の体力を発達せしめ、意気を剛健ならしめ、活発なる尚武の心を鼓吹する」程度に留め、軍事偏重は改めるべきだと考えた。

青年団の結成

青年教育は国家にしてみれば大切なはずである。

しかし、日本は青年教育を等閑視し、中学校に進学しなかった青年の教育に冷淡な態度を取り続けた。

また、教育も知育に重きが置かれ、体育に取り組む青年団体は数少なかった。

その結果、青年の体力・精神力は衰え、国家にとって非常に憂慮すべき事態に陥った。

欧米視察から帰国した田中は青年教育の改革を主張した。

日本も欧米のように国家が主導して青年団体を設置し、体育を奨励し、青年の教育を振興すべきである。

「青年の体力を旺盛にし、充分なる元気と活動力とを附けて、而して彼等の観念を始終国家的に導いて、彼等をして将来国運の運命を担うに足る丈けの人格と能力とを具えしめる」

と主張し、全国の青年組織の再編統合を働きかけた。

1915年9月、内務省と文部省は共同の訓令として「青年団体の指導発達に関する件」を発した。

訓令は国家に貢献する精神と資質を備えた青年を育成する事を明らかにした上で「青年団体は青年修養の機関たり」とした。

その上で、義務教育終了後に労働者となった青年を対象とする、実業訓練、補習訓練を施す予備教育機関としての青年団を規定した。

この訓令は田中の青年団構想を多分に反映したものである。

田中は青年教育が軍国主義化の誤解を受けないよう、訓令に陸相が署名しないよう慎重に計らった。

青年団の団員は義務教育終了後から徴兵の適齢年齢となる20歳までに定められた。

青年団では体育が奨励された。

それはフランス・ロシアのような軍事教練的なものではなく、楽しみながら体を動かすことが出来る遊戯、娯楽的で競技性を備えたスポーツを主とした。

田中はドイツの青年教育から

「体育に重きを措くと云うことが、軍人としての初歩教育を與えるより遙に必要の条件である」

と考え、体育奨励によって青年を健全発達させ、質実剛健の気風を養成しようとした。

それは軍隊教育の大前提であったのだ。

更に重要なのは青年団は修養団体として在郷軍人会と直結したことである。

青年団で素養を高めた青年が兵営で軍事教育を受けて良兵となる。

退役後は在郷軍人として良民となり、地域社会の中堅を為す。

これが上手く回れば軍隊と国民を結合する連鎖となり、軍民一致、国民統合は完成するのである。

田中は日露戦争後に

「今の戦争は、独り軍隊のみがこれに任ずるのではない。

全国民の総力を以ってするにあらざれば、到底勝利は得られないのである」

という国家総力戦的思考に至り、平時における政戦両略・軍民一致の重要性を認識した。

そして、柔軟な思考と想像力で軍隊教育や兵営生活、在郷軍人の組織化、更に軍隊を飛び出して青年の教育など多岐にわたる軍制改革を行った。

まさに時代の傑物であったと言えよう。

そして第一次世界大戦後、総力戦の出現を目の当たりにし、日本の総力戦体制構築を主導して行くのである。

参考書籍

総力戦体制研究-日本陸軍の国家総動員構想 纐纈厚

man

国家総力戦の基礎的知識について。

田中義一 総力戦国家の先導者 纐纈厚
大戦間期の宮中と政治家 黒沢文貴

man

国家総力戦論者としての田中義一について。

軍部と民衆統合 由井正臣

man

田中義一の国民統合の試みについて。

永田鉄山-平和維持は軍人の最大責務なり 森靖夫
永田鉄山と昭和陸軍 岩井 秀一郎

man

永田鉄山について。

田中義一の青年団体育奨励構想(1908-1916)に関する研究 小野雄大
1910・1920年代の永田鉄山-教育系将校の国家総動員構想 岩本岳

man

田中及び永田の教育論について。