1918年8月26日 大阪朝日新聞が「白虹日を貫けり」と報道
鳥居素川編集局長、長谷川如是閑社会部長の陣容の下、河上肇、佐々木惣一ら京大教授がデモクラシー論を寄稿し、非立憲的な超然・藩閥政府を糾弾する、気概のある新聞社であった。
特に寺内内閣に対しては妖怪の出現であると断じ、以下のような厳しい批判を浴びせた。
この日、夕刊社会面トップには、前日に開催された関西記者大会の報道においても、このような激烈な筆が踊った。「元帥陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵寺内正毅閣下などと厳しい金モールの光を以て国民を眩惑し得る時代はつとに過ぎ去った」
これだけでも厳しい批判だが、問題は次にあった。「沐猴の冠に誰が尊敬を払い得るか国民は途端に苦しんでいる空倉の雀は飢えに泣いている」
白い虹が太陽を貫くとは中国古典において、臣下が反乱を起こして君主を犯す、内乱の兆しである。「金甌無欠の誇りをもった我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。
白虹日を貫けりと昔の人が呟いた不吉な兆が黙々としてフォークを動かしている人々の頭に雷のように閃く」
大阪府警検閲官は、これが新聞紙法が禁じる皇室冒涜・政体改変に触れると問題視し、安寧秩序紊乱を理由に直ちに発売が禁止した。
大阪朝日の激烈な攻撃に悩まされていた政府は、これを機に大阪朝日を廃刊に持ち込もうとした。
一方、大阪朝日新聞社は発行禁止だけは免れようとし、村山龍平社長始め、鳥居、長谷川、大山郁夫などの幹部級が総辞職し、政府はこれで手打ちとした。
こうしてデモクラシーとリベラルの旗手だった大阪朝日は壊滅し、日本のジャーナリズムの批判機能は後退していったのである。
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