天譴論

コラム

渋沢栄一の天譴論

関東大震災から間も無く、言論人の間から震災は頽廃を歩んでいた日本に対する天罰であるという、天譴論が唱えられるようになった。

その先鞭をつけたのは、日本資本主義の第一人者である渋沢栄一である。

渋沢は震災の義援金募集や被災者救済の先頭に立ちつつ、震災は天意に背いた日本社会に対する罰であると唱えた。

震災から半月も経たない9月13日、渋沢は万朝報にて「禍を転ぜよ」と題した談話を発表する。

「今回の震災は、未曾有の天災たると同時に天譴である。

維新以来、東京は政治経済その他全国の中心となって、我国は発達して来たが、近来政治界は犬猫の争闘場と化し、経済界また商道地に委し、風教の頽廃は有島事件の如きを賛美するに至ったから、この天才は決して偶然ではない。

しかしこの天災が全国民の警鐘となって、一大覚醒を与え、一時萎縮せる東京市民が捲土重来、禍を転じて福とする方法を講ずると共に、積極的に大東京再建に努力するならば、不幸中の幸いである」

天譴とは中国故事にある。

中国では人間の行為と自然現象との間に相互関係があると考えられた。

そこで、天変地異は君主の失政に対する天の警告、天罰の意味を持つとの解釈されるようになる。

それが天譴である。

なお談話の中にある有島事件とは、当時著名であった作家の有島武郎が、夫のいる女性記者と心中を遂げた事件を指す。

この事件が社会に衝撃を与え、有島の本が爆発的に売れ、有島ファンが後追い自殺するなどの社会現象を巻き起こした。

渋沢は有島事件を性秩序の乱れ、風教の頽廃と捉えていた。

そのような頽廃に対する天罰こそが関東大震災であると説いたのだ。

震災を天罰となぞらえる天譴論は、現代の世であれば炎上することは免れない。

しかし渋沢はこの後も臆することなく、以下のように天譴論を唱え続けた。

「私は近頃我が国民の態度が余り泰平に狎れ過ぎはしないかと思う。

順調に進み平穏に終始すれば、勢い精神の弛緩するのは已むを得ない処かも知れないが、我が国民が大戦以来所謂お調子づいて鼓腹撃壌に陥りはしなかったか、これは私の偏見であれば幸いであるが兎に角、今回の大震災は到底人為的なものではなく、何か神業のように考えられてならない。即ち天譴というような自責の悔を感じない訳には行かない」

「新春を迎えると共に、自然の空気、一般の気合が緊張して欲しいものである。

己を中心として、人の揚足取りのみを得意とする様では、夫の恐ろしい天譴を余り早く忘れ過ぎたと見ねばなるまい。吾々国民は厚始一新する事が必要である」

天譴論批判

言論界は天譴論に盲従したわけではなく、古臭く非科学的であると断じる言論人もいた。

その代表格は大正時代を代表する小説家、芥川龍之介である。

芥川は天譴の不公平さを指摘した。

人間誰しもが後ろめたいことがあろう。

だが、ある者は家族や家を失い、ある者は全くの無傷に終わったのはおかしいではないか。

銀座をたむろする金持ちの不良が無傷で、下町の貧民の子が焼け死ぬ道理は一体なんであろうか。

天譴が真っ先に下されるべき人物、つまり渋沢栄一が生き残っているのもおかしいと、痛烈な皮肉を放った。

地震は自然の暴力であり、そこに神の意志などはない。

「自然は人間に冷淡なり。

大震はブウルジョアとプロレタリアとを分たず。猛火は仁人と溌皮とを分たず。

自然の眼には人間も蚤も選ぶところなしと云へるトゥルゲネフの散文詩は真実なり」

「同胞よ。

冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。

否定的精神の奴隷となること勿れ」

このように天譴論を否定している。

作家の菊池寛も芥川と同じ立場に立ち「自然の前には、悪人も善人もない。ただ滅茶苦茶だ」と論じた。

民俗学者として名を馳せた柳田国男も天譴論批判の立場にあった。

震災当時、柳田は連盟の委任統治委員としてスイスにいた。

そこで、万国議員会議に参加した某議員が天譴論を口にしたことに対し、以下のように詰問した。

「本所・深川あたりの狭苦しい町裏に住んで、被服廠に遁げ込んで一命を助かろうとした者の大部分は、むしろ平生から放縦な生活をなし得なかった人々ではないか。

彼等が他のろくでもない市民に代って、この惨酷なる制裁を受けなければならぬ理由はどこにあるのか」

柳田は天譴論を論理を討究するに値しないと断じる。

「往々にしてこの方法をもってなんらかの教訓とあきらめを罹災民に与えようとするのが、ごく古代からの東洋風であるためか、帰朝して後に人から聞いてみると、東京においてもより多くの尊敬を受けている老人たちの中に、やはり熱烈に右の天譴説を唱えた人があったそうである。

まことに苦々しいことだと思う」

ここで挙がった多くの尊敬を受けている老人とは、渋沢の事を指す。

他にも、社会学者の清水幾太郎が天譴論に批判を加えている。

震災当時、清水はまだ子供であったが、修身の授業で、地震は私たちの贅沢三昧を戒めるための天罰である云々と教わった。

それに対し、以下のように教師に反論したという。

「貧しい、汚い、臭い場末の人々、天物暴殄に最も縁の遠い人々、その人々の上に最も厳しい天罰が下されたことになるのではないか」

危機感の中の天譴論

芥川や柳田の批判は現代の感覚からすれば最もである。

しかし、当時の言論界は天譴論が主流となった。

当時は、第一次世界大戦の好景気の結果として経済が急拡大し、都市は大衆化し、それに伴い人々は急速に奢侈や華美に傾斜した。

百貨店はその象徴であった。

渋沢は三越の華やかな宣伝に対し

「昔は贅沢な品物を売る店はひっそりとして居たものだった。

申さば隠して売るという様にして、決して賑々しいようにはしなかった。

処が今日になると、立派な店、大きな店になればなる程、誇張した広告をし店飾りをしてお客を吸引するようにして居る」

と述べて、寒心に堪えないと感想を述べている。

これは渋沢特有の考えではない。

当時の政治家や財界人は、大正時代の日本は没落の中にあると考え、これを放置すれば世界の二流国家に転落すると危機感を抱いていた。

大正日本に危機感を抱く知識人たちからすれば、関東大震災は帝都には蔓延った特権と我利を焼き払い、国民を覚醒させ、日本を復活させる天譴であった。

もっと言えば、天譴でなければならなかった。

よって、天譴によって焼け野原となった帝都の復興事業は、日本全体を建て直す国策であった。

帝都復興院で建築局長を務めた佐野利器は、その考えを端的に語っている。

「今回のこの災害によって帝都に真の商工業の模範的基礎を置くことが出来、独り帝都のみならず、復興という事業に対して国民的緊張を得ることが出来たならば、没落の兆しに向かいつつあった国民を覚醒せしめて、国勢の隆興を真の基礎に置くことが出来ると思う」

天譴論を唱えた言論人の中で急先鋒に立ったのが、ニーチェ全集の翻訳者である生田長江である。

生田も政治家や学者たちの危機感を共有していた。

大正時代の日本人を虫がよく、浅薄で不真面目で、国民的成金根性に染まっていると批判していた。

そんな中訪れた関東大震災を受け「神はついにその懲らしめの手を挙げたまうた」と歓喜した。

更に、焦土と化した東京を見て「どうだ、少しは思い知ったか?これでもまだ覚めないというのか」と社会に語りかけ、笑い声を上げたと。

筋金入りの天譴論者である。

また、長江は芥川や菊池の天譴論批判に対し、以下のように反論した。

「懲戒としての所謂天譴は各個人の道徳的責任を問い、その反省を促そうとする場合もあり得るだろうし、団体その他の道徳的責任を問い、その反省を促そうとする場合もあり得るだろう」

団体にも個人と同様に生活と意志がある。

個々人の罪はなくとも、日本人全体の不心得な団体生活の道徳的責任を問われ、天譴という形で反省を要求されるだろう。

この論理を、盗みを働いた人の足を鞭で打っていた時に、盗みを働いた手を打たないのは不公平だというのはおかしいだろうと例えている。

論語主義としての天譴論

そもそも中国における天譴とは失政を行なった君主や諸侯に向けられるもので、庶民に対し何かを求めるものではない。

にも関わらず、渋沢はその天譴を全国民に対する警句とみなした。

それを理解するには、渋沢の論語主義に触れる必要がある。

渋沢は、仁義道徳で行う経済活動によって得られた私利は公益となり、公益が私利となると考え、それこそ真の商業であると説いている。

逆説的に、私利私欲の追求が国家や社会を破壊し、ついには自分自身をも破滅すると考えた。

渋沢の哲学からすれば、大正時代の資本主義とは破滅的でしかなかった。

また渋沢は、現代は国民が国事に責任を持って参与する時代だと考えた。

そこから、議会に基礎を置かない超然内閣を批判し、政党内閣を説いている。

もはや政治は一方的に上から降ってくるのではない。

国民が一方的に国家に隷属する時代は終わり、新たな政治的主体として登場する。

全国民に政治教育を行う為に、普通選挙実施を希望すらしていた。

渋沢は大正デモクラシーを肯定するが為に、その中で国民が採るべき態度を念頭に置いた。

国民が政治に参画するということは、国民もまた政治に対する責任がある。

悪政があった場合は自らの行いも反省しなければならない。

しかし、大正時代の国民の間には利己主義が蔓延っていた。

その極め付けが成金として登場していた。

そのような国民が政治に参加すれば、国家や社会を破滅させ、ついには国民自身をも破滅させるだろう。

このような私利私欲を天譴を説くことで超克し、仁義道徳、つまりは公共精神を呼び起こそうとした。

つまるところは天譴とは論語主義の教化の一面があった。

天譴から頽廃へ

大正時代は資本主義・自由主義・恋愛主義・社会主義・女性の地位向上などの隆盛を迎えた一方で、旧来の保守的観念が乱れた。

天譴はそれを矯正し、社会を根本から作り変えるという言説であった。

1923年11月10日に発せられた国民精神作興に関する詔書は、そのような社会を矯正する意味合いがあった。

「国家興隆の本は国民精神の剛健に在り、之を涵養し、之を振作して以て国本を固くさせるべからず」

「綱紀を肅正し風俗を匡励し浮華放縱を斥けて質実剛健に赴き輕佻詭激を矯めて醇厚中正に帰し人倫を明にして親和を致し公徳を守りて秩序を保ち責任を重じ節制を尚ひ忠孝義勇の美を掲げ」

証書に記されたモノは、まさしく天譴によって取り戻そうとした、旧来の価値観である。

天譴論には鋭い視点もあり、傾聴に値する点も多い。

ただし庶民から見れば、芥川や柳田の天譴論批判は最もであり、特権階級にある財界人の高圧的な説教にしか過ぎなかった。

大正日本のダイナミズムを支えたのは、自由となった個人のエネルギーであった。

それは解放された女性であり、帝劇や三越を楽しむ庶民であり、自由な恋愛に生きる文筆家であり、それら全てを包含する都市文化であった。

それを浮華放埒と断じ、天譴を下し、質実剛健の美風で押さえつけようとした。

そのような傲慢さがあった為か、天譴論は観念を深掘りされることなく、間も無く人々の記憶から消え去った。

代わりに台頭したのは、より自由で開放的なモガ・モボであり、より頽廃的で狂乱的なエログロナンセンスであった。

参考書籍

大正大震災 尾原宏之
関東大震災とリスボン大地震 半澤健市

man

天譴論について。

帝都復興の時代 筒井清忠

man

震災復興後の人心について。