文官任用令と枢密院

コラム

文官任用令

明治時代初期、新政府にとって官吏任用制度の整備は急務であった。

当時、官吏の任用は藩閥の人脈に依る所が大きく、藩閥有力者の既得権益意識と地縁・血縁からなる情実的な任用が近代日本の官僚制の発展を妨げていた。

更に縁故者を登用するためにポストを新設するなどの問題も相次ぎ、無用の官職が政府の財政を直撃する事態も発生した。

このような問題に加え、井上毅は、特定地域からのみ官吏が任用される状況が続けば、それ以外の地方の優秀な人材の意欲を削ぐことになると懸念し、実力本位の官吏登用法を早期に制定することを希望していた。

憲法起草の為に洋行した伊藤博文も、任用制度整備は国家の根幹に関わる問題であると認識し、欧州列国の官僚制度を調査した。

伊藤はドイツの法学者、ローレンツ・フォン・シュタインから官吏任用について以下のように論じられた。

「第一国君その欲するところの人を挙げ之に任ずるの権を有する事。第二資格是なり。

資格は必ず其当さに選任せらるべき特殊の職務に必要なる教育を経て考試に登第せらるものたるを要す」

つまり君主によって任命される政治性の強い高官と、試験任用によって専門知識を有する者を登用するという専門官僚に分けた方が良いという話だ。

これを聞いた伊藤は、官吏任用における試験制度を強く意識し、官僚制整備を図る。

1893年10月、伊藤の手によって、各省官制通則と文官任用令が制定された。

各省官制により次官や局長、参議官、書記官、秘書官といった序列が形成され、文官任用令によって局長以下の奉任官(高等官)や判任官(一般官僚)については文官高等試験による任用制度を採用し、官界の門戸開放を行った。

官吏採用に試験任用が導入された事で、藩閥の情実的な起用を原則不可能となり、官僚制は明確となった。

こうして日本の官僚制は独自性を確保したかのように見えた。

しかし政党の力が増大する中で、官僚と政党との関係が問題になり始める。

大隈重信の政務官・事務官構想

官僚を政党との関係を初めて論じたのが、国会早期開設・政党内閣樹立という急進的な意見を提出した大隈重信である。

大隈は政党と官僚の関係性を構築する為に、政務官と事務官という概念を持ち出して、以下のように述べた。

「政党の盛衰より顕官の更迭を生ずるの時に在り、その更迭は全部に及ぶべきや、将た幾分に止まるべきや即ち重要なる疑問なり。

凡そ諸般の事務は最も習熟を要す。

加うるに官衙の事の如き、その細瑣の条件は多く旧法古例を参照するが故に、最小の費額を以って淹滞なく最多の事を弁ぜんと欲するには、属僚下吏の永続勤務を以って最も緊要なりとす。

然るにこれらの官吏をして常に政党と更迭を共にせしめば、その不利不便、けだし言うべからざるものあらん。

かつ幾万の官吏、その進退を政党の盛衰に繋げば各派軋轢の勢いまた暴激を極むるに至らん」

大隈は、内閣は多数党の領袖によって組織され、選挙の結果によって政権交代が行われるべきだとした。

一方、一般管理を行う官吏については政権の交代によって更迭されるべきではないとした。

ここで大隈は米国の例を持ち出す。

ジャクソン大統領政権以降、米国では官吏自由任用が採用され、自派党員をこれに充てる猟官が行われ、政権交代に伴って大半の官吏が更迭されていた。

この米国の例に対し大隈は、行政事務における経験・知識の重要性を挙げ、政権の交代によって更迭される高級官僚を政務官、政権交代の外に置かれる一般官僚を事務官とすべきとの見解を示した。

つまり官僚の専門化と身分保障を論じたわけである。

では政務官・事務官の区別はどのように行われるのか。

大隈は行政の指令を司る者を政務官とし、指令に従事して細務に携わる者を事務官とし、政務官に該当するものを大臣・次官・局長と定義した。

こうした意思決定機関となる政務官については政権と連帯して責任を取り、英国流の責任内閣を構想していた。

これは太政官時代の欠陥として、責任が三大臣にありながら実際の運営は参議が行うという責任の所在が不明瞭となり、各省において指揮命令系統が混乱していた、その教訓を生かしたものである。

大隈の意見のもう一つの特徴は、内閣は国民の輿望を受ける政党が組織する政党内閣を志向したことから、政務官として政権と進退を共にする大臣・次官・局長を民選議員とすべきと想定していた事であった。

このような大隈の議論はあまりに急進的であると退けられ、明治十四年の政変が勃発し、大隈は政府から追放された。

大隈が政府の中にあった時代は政党政治など夢のまた夢であった。

しかし政党が行政に対して影響力を確保してゆく中で、大隈構想による政務・事務の区別、官僚・責任の所在という統治機構論は、近代日本において論じられてゆく。

隈板内閣

1898年、大隈率いる進歩党と板垣退助率いる自由党が合同して憲政党となり、藩閥に対して勢力を誇示した。

これを受け、内閣を組織していた伊藤博文は政権維持を断念し、大隈と板垣、両者に大命が降下した。

日本史上初の政党内閣、隈板内閣である。

これまでの官界と政党の関係は、政党人が大臣や省庁長官となる場合には、不偏不党の立場により党派を離脱することが条件であった。

しかし隈板内閣は政党出身の全閣僚、次官、局長が党籍を保持したまま就官し、立法府と行政府を横断する統治構造を構築して行った。

このように官界の慣例を覆す隈板内閣の誕生に、官僚は猟官が行われるのではないかと懸念した。

文官任用令は局長以下の奉任、判任官については試験任用としたが、勅任官である各省次官や局長、参事官、府県知事や警視総監の任用については規定が無い。

つまりは試験任用対象外であり自由任用である。

第二次松方内閣では、提携した進歩党党員の激しい猟官運動が行われ、自由任用ポストが党員たちに独占され、官僚との軋轢を生んでいた前例がある。

大臣の大半が政党人で占められる内閣が出現すれば、より徹底した際限なき猟官が行われると懸念するのも当然であった。

こうした懸念に対し大隈は以下のように演説して慰撫した。

「政務官と事務官とは明らかに区別を為し、事務官はなるべく更迭せしめざる方針なるを以て、諸君安んじてその職責を尽くして可能なり」

一方で以下のようにも述べている。

「老朽事に堪えざる者、もしくは内閣と意見を異にするものに至っては、止むを得ずこれを更迭せしむる事あるべし」

つまり政務官と事務官を区別し、事務官においては内閣に反対しない限りは更迭しないという身分保障宣言である。

それと並列し、官界上層部に残る藩閥出身の政務官を更迭し、藩閥の影響力を除去するという宣言でもあった。

この段階において官僚の分限(免職・停職などの規定)は明文化されていない。

藩閥内閣においても藩閥内の党派性から内閣更迭に際して相当数の官僚が入れ替えられるなど官僚の身分は不安定であり、省務停滞の原因となっていた。

大隈は長期的な政権運営、政党内閣の実績作りのために、官界への政党員の登用や官僚の罷免を妄りに行うべきではないと議論し、官僚との協調を重んじていた。

大隈の目的は、日本の行政機構の中で政務官という地位を確立させる事にあった。

政務官は内閣ごとに任命され、内閣の政見実現のために行動し、それ故に内閣と進退を共にすべきだと大隈は考えていた。

軍部以外の全ての次官に政党人を配し、次官は政治的に任用される政務官であることを明示し、既成事実を積み重ねていこうとした。

大隈は官僚の大規模な更迭を否定し、政党人の猟官要求を押さえつけた。

この為、党員たちに配分出来る官職は限定的なものとなったが、その結果、限られたポストを巡り猟官運動はより激化する。

党内部で運動を行う者、地方支部を使う者、就官を見込んで衆議院選挙の出馬をしない者など、混乱が見られた。

猟官運動は大隈の目の行き届かない地方に波及し、知事や警察部長などの地方官に政党関係者が就任し、地方の利権を貪ろうとした。

隈板内閣は党の猟官運動を制御できず、政党内閣に期待していた人たちを失望させた。

大隈は政務官・事務官の線引きは明言していなかった為、猟官への懸念は広がり、官僚たちは更迭に怯えるようになる。

政府が猟官を抑制しようとすると、まだ就官出来ていない政党人たちは反発する始末であった。

無秩序な猟官は天皇宮中の不興も買い、隈板内閣は自らの手で議会を運営することもなく、混乱の中でわずか4ヶ月で自壊した。

そして後継首班となった山県有朋は、官界を侵した政党人たちの大半を更迭した。

1899年の文官任用令改正

大隈は、政党と官僚の対立を政務官・事務官という構想で克服しようとしたが、党人たちの猟官を制御しきれずに失敗した。

政党による猟官を目の当たりにした都筑馨六は

「内閣の更迭する毎に、前任者の朋党に代ふるに自己の朋党を以てし、行政部全体の組織を震動せしむるは朋党の政治の常僻なり。

政府の更迭頻繁にして官吏の任免常なきにおいては、終始一貫せる行政の方針を維持する事能わざるは論を待たざる」

と、官界防衛を強化する目的で文官任用令をより強固に改正することを主張した。

後継内閣を組閣した山県有朋は政務官・事務官の区別は不要と考えていた。

しかし再び政党を基礎とする内閣が成立することは容易に予想される。

その場合、政務官の更迭だけでは不十分である。

行政権の独立性を確保し、政党の伸長から行政機構そのものを守る必要がある。

この為、1899年3月、文官任用令を全面改正した。

まず、これまで自由任用であったために猟官の対象にあった勅任官の任用資格を、奉任文官経験者とし、自由任用を一切取りやめた。

また、文官懲戒令、文官分限令を制定して、官吏は刑法懲戒以外では任免されないことを明記し、その身分保障を行なった。

このように行政機構と官僚の独立を確保した。

この任用令改正の意図について、山県は理由書の中で「奉任官たる資格なきものを以て却って勅任官に薦むるは独り現行任用令の精神に反するのみならず遂に行政の秩序を紊乱して官紀を荒廃するに至らんとす」と、勅任官の自由任用を厳しく批判した。

理由書は続けて以下のように指摘する。

「高等行政官以下に至っては時局の変遷もしくは国務大臣の更迭に関してなんらの影響を受くべき者に非ず、政治上の主義もしくは党派に関わるべからざるは勿論、むしろ政党政派に関係ある者は行政官たる資格なきことを法則とせざるべからず」

つまり勅任官の自由任用廃止という改正の最大の眼目は、政党人の登用を不可能とするところ、官僚機構から政党勢力の浸透を防止することにあった。

政党人の官界への侵入はこのようにして阻止された。

同令の制定により政権が恣意的に官僚を更迭することが困難となった。

政権による抜擢も不可能となり、官界の年功序列システムが確立した。

そして最後のまとめとして、山県内閣は官吏に対し政党と特定の関係を持たないよう訓令を出した。

山県は官僚組織の防衛機能を整備し、官僚・行政機構の独立化を達成した。こうして近代日本の官僚制はここに成立した。

この文官任用令改正を強く批判したのが伊藤博文である。

伊藤は、勅任官の自由任用廃止により、各省の事務官に対し国務大臣が政見を実現することが困難になり、大臣の主体性が失われる恐れがあると指摘した。

政府主導を試みる大臣が省内で孤立する事態は藩閥内閣時代においても度々生じていた。

伊藤は、大臣が省内で政見を実行するには、大臣と政見を共有し、その手足となって働きえる自由任用の勅任官が不可欠であると考えていた。

更に伊藤は、現役官僚の能力に疑念を抱いていた。

伊藤は文官高等試験の内容が理論に偏重して実用的ではなく、実際の行政運営に支障が生じていると懸念していた。

その為、ある程度自由任用を許容し、行政機構の活発化を進める必要があると考えていた。

しかし文官分限令によって政治的更迭のみならず、老朽・無能の官吏の罷免が事実上不可能となってしまった。

これは伊藤だけでなく世論も批判していた点である。

伊藤は官僚組織を政党から保護するという前提は理解しつつ、官界の安定の代償として官僚の能力を低迷させるので、それを積極的に改善する必要があると認識していた。

そして政党内閣時代に向け、行政経験の少ない政党出身大臣を補佐する機能を担保する必要があるとも考えた。

これは、大臣補佐機能の充実と、官僚の行政能力向上の観点がある。

そこで伊藤は、政党改良による政権政党を樹立し、行政・立法が円満な関係を結び、近代国家としての発展と安定を遂げようと考えた。

そのような伊藤の思いは、立憲政友会という形で実現するのであった。

枢密院

文官任用令改正により官界は強固に防衛された。

しかし山県は、これだけでは政党から官界を守るには不十分であると考え、枢密院を用いることにした。

枢密院は憲法起草の過程で伊藤が考案した機関である。

伊藤は枢密院の役割を以下のように語る。

「政府議会の間協議不相調時は聖断により大臣の辞職と相成か、または議会の解散と相成るか両途外に不出、この場合において国家の大勢国民の感情を明察し抑揚その宜を得るには善良なる勧告を呈する顧問官なかるべからず。

これを枢密院に不求して他に求むる所なしと断定候」

つまり、将来的に内閣と議会が対立し、天皇が聖断を下す事態に発展する事を想定して「善良なる勧告」を呈する顧問官を必要とした。

その枢密顧問官から成るのが枢密院であり、議会と政府、政党と官僚の対立の調停者としての機能を期待していた。

枢密院は憲法第56条に規定される。

「枢密顧問は枢密院官制の定むる所に依り天皇の諮詢に応へ重要の国務を審議す」

「内閣とともに憲法上至高の輔翼」を担う機関として1888年に出発した。

伊藤自ら「新発明」であると自負した。

枢密院官制第1条には「枢密院は天皇親臨して重要の国務を諮詢する所とす」とあるように、枢密院は天皇の諮詢に応じ、重要国務が審議されることになる。

官制第6条には枢密院に諮詢される事項を以下のように列挙する。

・皇室典範においてその権限に属しめしたる事項

・憲法の条項または憲法に付属する法律勅令に関する草案及び疑義

・憲法第十四条戒厳の布告、第八条及び第七十条の勅令、その他罰則の規定ある勅令

・列国交渉の条約及び約束

・枢密院の官制及び事務規定の改正に関する事項

・臨時に諮詢せられたる事項

伊藤は内閣の基盤強化の目的で枢密院を作った。

だが実際に運用してみると、枢密顧問官たちは天皇と個人的に結びついて度々諮詢を奏請し、政府の条約改正案に反対を唱え、政府の足場を脅かしていた。

そこで1890年10月、山県は枢密院官制改正に取り組み、枢密顧問官の定員制限や、諮詢事項から立法に関する項目を削除。

更に枢密院官制第6条「会議を開き意見を上奏し勅裁を請うべし」を「諮詢を待って会議を開き意見を上奏す」に改正した。

これは、天皇の枢密院に対する諮詢が内閣の奏請に基づいて行われることを、明記するものであった。

これにより、枢密院は能動性を失い、極めて影の薄い組織となった。

枢密顧問官も閣僚辞任後の待機ポストとなり、閣僚と枢密顧問官の往復人事が繰り返され、閑職と化した。

骨抜きされた枢密院に、高田早苗は以下のように論じた。

「責任内閣の実挙がり、政党内閣の世とならば枢密院は遂に鶏肋となるを免れざるなり。

枢密院を必要とする理由の如きは要するに表面上の理由にして実際において必要台に減ずるに至らん」

つまり枢密院はやがて形骸化してゆくだろうと観測したのだ。

行政独立の牙城

山県は自ら有名無実化した枢密院に目をつけた。

枢密院は政党から超越した天皇の諮問機関という高度な位置にある。

これを政治化してしまえば、政党は手も足も出ない。

山県は枢密院官制第6条第6項の「臨時に諮詢せられたる事項」という曖昧な表現に注目した。

1900年4月、山県はこの臨時に諮詢された事項というのを、教育制度・内閣官制・各省官制通則・台湾総督府官制・官吏服務規則・文官懲戒・文官試験・文官任用・文官分限に関する勅令だと明文化し、枢密院にて全会一致で可決した。

これにより文官任用改正に関する勅令は枢密院の諮詢を必要とし、行政は完全に政党から独立した。

そして山県はこの枢密院の権限強化を、明治天皇が御沙汰書によって命じる形で制度化した。

その御沙汰書は「枢密院官制第六条第六により諮詢すべき事項中別記の勅令は最も重要なる物につき自今同院の審議に付せしむ」と記している。

明治天皇は隈板内閣の猟官を非常に憂慮しており、山県の措置を支持していた。

この御沙汰は枢密院官制と同一権限を持つとされ、枢密院は極めて高度な政治組織となった。

山県は、官制・文官試験・文官任用に関する改正事項は全て枢密院に諮詢することを明治天皇の御沙汰という形で制度化し、二重・三重に改正阻止策を施した。

なお、山県は貴族院議員に大臣と枢密顧問官を兼任させ、強力な貴族院を形成して、衆議院と対抗しようとまで考えていた。

だが、御沙汰については山県を支持した天皇も、枢密顧問官が貴族院議員を兼任することは、あまりに政治色を帯びることになると考え、却下した。

憲法学者である美濃部達吉は天皇の御沙汰書について、以下のように論じる。

「官制をそのままにしておいて、秘密の中に実際上官制改正と同一の効果を収めようとするのは、秘密の陰に隠れてて世論の攻撃を避けんとするものと批評せられても弁解の途はない」

枢密院官制に明記されている事項以外は、第6条6項通りに臨時に諮詢されるべきである。

常に諮詢するように奏請するならば、官制違反であると断じた。

しかし明治天皇の発した沙汰書の改正を容易に口にすべきではなく、政治家たちは極めて難しい問題だと認識した。

また、沙汰書の存在が枢密院の諮詢範囲を限定してしまったので、逆に枢密院の臨時諮詢を困難にするなどという状況にも接している。

このような山県の動きに、枢密院の創始者たる伊藤は反発した。

伊藤は枢密院の機能について「内閣更迭と言うが如き大問題の時だけに諮問せらるる事となし、他は院議に付せらること」と語っている。

これは、元老の持つ後継首班奏薦権を枢密院に委譲させ、なおかつ枢密院の諮詢範囲を整理縮小化するものだった。

しかし、山県によって枢密院の諮詢範囲は拡大され、枢密院に元老の機能を吸収させるという伊藤の構想は挫折した。

1909年、伊藤の死により枢密院議長となった山県は、枢密顧問官人事を枢密院議長のコントロール下に置き、自派官僚を次々と枢密顧問官に送り込んだ。

本来、官吏任命大権を輔弼するのは総理大臣である。

それを差し置き、枢密院議長が枢密顧問官の人選を内奏し、首相は任命に関する形式的な手続きだけを行うことが、山県議長時代に慣例化された。

仮に首相が枢密院議長の人事に異議があっても、既に内奏済みなので、それを覆すことが相当困難であった。

原敬は「枢密院は全く山県系のものとなり居るも、国家重要の機関に対して如何にもその私を逞ふするものなりの言うべし」と批判した。

更に山県は、穂積陳重や一木喜徳郎、倉富勇三郎といった山県系法制官・法学者を枢密顧問官に登用した。

政党側は選挙制度を軸とする議会制度や司法制度の改革が迫り、それに対抗するために法律の専門家を欲したからだ。

こうして枢密院は、山県系官僚閥による政党勢力に対する防波堤、行政独立の牙城と化した。

だが、顧問官の中には伊藤系官僚である伊東巳代治や金子堅太郎、更に薩摩派の牧野伸顕の姿もあり、決して一枚岩ではなかった。

第一次山本内閣における文官任用令改正

政友会は官僚と政党の結合という形で誕生したことから、伊藤総裁時代は猟官が厳しく戒められていた。

しかし西園寺総裁時代となると、党勢拡張を目指し、政党による地方制度改正、地方官の更迭がしきりに行われた。

ついには政友会の利益に貢献する政党知事が誕生するに至った。

こうして官僚制の政党化が進んでゆく中、次に政党が目指したのは、官界を藩閥の牙城と為し、政党の官界進出の妨げとなっている文官任用令の改正であった。

憲政擁護運動の中で政友会の尾崎行雄は文官任用令改正を強調し、政友会の議会質問書に盛り込む事を主張した。

これは、官僚組織の反発が予想されたので見送られたが、新聞各紙は尾崎に呼応して文官任用令改正の論陣を張った。

文官任用令改正は新聞も財界も、敵対党である同志会ですら支持した。

そして文官任用令改正は第一次山本内閣で本格的に議論されるに至った。

大正政変の結果、桂内閣は倒れたが、その後継首班は海軍の大物、山本権兵衛であった。

しかし護憲運動が藩閥打破をスローガンに掲げて来たのに、桂の代わりが薩摩閥の山本では国民は納得しない。

提携を持ちかけられた政友会党内も薩派と組んで政権を担当することは批判が上がった。

これに対して山本は、政友会の綱領の全面的採用、陸海外以外の大臣を政友会から選任することを提示し、提携が成立した。

薩派の領袖を首班としたことは、政党政治の後退と目に移り、政友会は国民党から激しく非難される。

ついには尾崎行雄が20数名を引き連れて脱党し、政友会は僅かながら過半数を失い、議会を迎えた。

このような情勢の中、山本内閣にとって最大の課題は、憲政擁護運動が掲げた閥族打破である。

より具体的には文官任用令改正と軍部大臣現役武官制廃止である。

これを達成して初めて国民に信任される。

山本は衆議院において文官任用令改正断行の意向を表明した。

しかし山県が構築した官界防衛策である枢密院の諮詢を突破する必要から、文官任用令改正は困難が予想された。

そこで内閣の参謀的位置にいた奥田義人文相が伊東巳代治枢密顧問官と内談し、枢密院通過の準備工作を行った。

当時、伊東は山県に接近して官界に独自の地位を築き上げ、憲法や官制について一家言ある顧問官であった。

伊東は文官任用令改正問題については終始政府側に協力的であり、山本は伊東が宮相を狙っているのではないかと推測したほどであった。

こうして政府と伊東の交渉に基づき、文官任用令改正原案が成立した。

まず、各省次官・法制局長官・内務省警保局長・警視総監・貴衆院書記官長・参事官に自由任用を拡大した。

また、特別・自由任用によって登用した無資格者に、二年間の勤務を要件に一般の勅任官任用資格を付与した。

そして有資格者の場合は勅任官一年の勤務で可とした。

なお、原が主張していた各省局長も自由任用の範囲にすべきという意見は、折衝の結果、退けられた。

この改正の意図は以下の通りである。

まず法制局長官は法務行政の立場から政府と度々衝突してきたが、これを自由任用とすることで、政府が法務行政を掌握しようとした。
また、次官が出席する会議が閣議の事前調整の機能を有するようになり、各省次官の重要性は高まっていた事から、次官の自由任用により官僚組織を横断的に掌握しようとした。

更に、警察は選挙干渉に度々用いられており、警察上層部の任用を掌握することで選挙を与党有利に運ぼうとした。

参事官は各省の審議立案を司る職であり、これを自由任用とする事で内閣主導をより強化しようとした。

最後に、特別・自由任用で登用した者を勅任官として登用することは、試験を経ずに政党人を官界に送り込む抜け道である。

有資格者にもこの資格を付与することは、官界の年功序列を無視して政府の意のままに抜擢人事を行える事を意味した。

従来の自由任用は内閣書記官長と各省秘書官にすぎなかったが、勅任官の任用資格を拡大して、政党員の進出を容易くしようとした。

枢密院との衝突

伊東との事前交渉により政府は原案通過に自信があった。

だが枢密院は文官任用令改正阻止に動き出し、政府原案に正面から反対を唱えた。

政府は原案通過は困難と判断し、参事官の自由任用を勅任に限定するという妥協ラインを設定し、それ以外は徹底抗戦とした。

特に政府が重視したのは、次官・法制局長官の自由任用と、特別・自由任用により登用した者に勅任官資格を付与するという点であった。

この過程において、原内相は官制改正が何故枢密院の審議を経る必要があるのか、法的根拠を調査した。

枢密院官制の諮詢事項にはそのような事は記されていないから、疑問を抱くのは当然である。

そして諮詢の根拠が明治天皇の御沙汰書にあることを知った。

御沙汰書の存在は枢密顧問官ら一部の者にのみに完全に秘密にされていた。

三度も内務大臣を務めた原も、その存在を知らなかった。

原は勅令違反なりと憤慨しているが、御沙汰書を改めるのは容易では無いと、その存在の困難さを痛感した。

だが、原は御沙汰書が非公開であることを逆手に取る。

文官任用令改正を枢密院に諮詢する事への疑義を呈し、枢密院が越権行為を働いているのではないかとの印象を与え、世論を形成していった。

これに焚きつけられ、新聞各紙は山本内閣は強行採決も辞さない態度で臨むべきだとか、そもそも文官任用令を枢密院に諮詢すべきではない等と政府が批判されるほどであった。

また、当時在野にあった大隈は第二次山県内閣が枢密院官制を改悪したとし「凡ての官制、行政命令は、枢密院の諮詢に付さなければならぬ事になった」と御沙汰書の存在を暗示した。

これにより議会の機能が枢密院において制限されたとし「山県内閣の当時における改革によって内閣は自ら枢密院に対し、その権力を分けたものにして、三権分立の精神を蹂躙したものである」と痛罵した。

新聞で槍玉に挙げられたのは、諮詢範囲の制限する枢密院官制第8条「施政に干与せず」である。

政治責任を負わない枢密院が施政に干与すれば、結果的に天皇に政治責任を帰す恐れがある指摘された。

政府が枢密院の反対にあって政策を曲げれば、その輔弼の責任は枢密院に帰する。

更に言えば、政府案・枢密院案の是非を決定するのは天皇の自由であるので政治上の責任が天皇に帰する危険性も指摘された。

次に、枢密顧問官の構成も問題視された。

大半が長州出身者であり、それ以外の顧問官も軒並み山県系であり、枢密院はさながら長州の要塞であった。

その年齢構成も極端で、枢密顧問官の平均年齢は70歳であり、天保時代の顧問官は28名中15名に及んでいる。

「彼らの経歴は注目に値するが、老いぼれたる頭脳で進歩する時勢を解釈出来るのか」などと、国家の大事を審議するにあたってその時代遅れを指摘された。

そして具体的な顧問官の名前を挙げて更迭が必要であるなどと枢密院を糾弾した。

枢密院正面突破

枢密院が文官任用令改正を議論する事自体が越権行為であり、老いぼれた顧問官たちが時代の趨勢に押しとどめている。

このような世論が形成され、多くの識者が枢密院の諮詢範囲の縮小、顧問官入れ替えを提唱し、枢密院は未だかつてない逆風に晒された。

政府側も枢密院との交渉過程を意図的にリークし、世論攻勢を仕掛けた。

こうした攻撃に晒された枢密院は急速に軟化する。

そこで枢密院は、将来的に事務次官を設置すると山本首相が明言することを条件に、次官自由任用を許容する妥協案を提出した。

しかし、山本はこの妥協案を閣議に諮らずに拒絶した。

この妥協ラインで決着を図ろうとした原は驚いたという。

山本は、行財政整理の名の下に枢密顧問官定員の削減や、枢密顧問官全員の免官手続きを示唆する。

明治天皇の御沙汰書に対しても「枢密院において任用令の如きを議するに至れる根本の御沙汰書は陸軍制度改正の際にこれを改むべし」と強硬な姿勢を見せた。

そして、仮に文官任用令改正が不成立の場合は、御沙汰書の改定を断行すると発言し、山県を枢密院議長から更迭して強行突破を図ろうと決断していた。

山本の強気の背景には、山県の権威の後退があった。

大正政変は山県にとって大きな誤算であり、山県は第二次西園寺内閣倒閣の黒幕であると世論に痛撃された。

山県は数少ない首相候補者であった桂も失っている。

桂内閣の総辞職後、山県系から後継首班を打ち出すわけにいかず、薩摩派の山本の組閣を認めざるをえなかった。

山本の強硬姿勢を受け枢密院は、事務次官設置を首相が明言するのではなく、枢密院側の希望として付言することで妥協しようとした。

しかし山本は、この希望も許さないと強硬姿勢を見せた為に、枢密院は更なる後退を余儀なくされた。

こうして文官任用令改正をめぐる戦いは政府の全面勝利となった。

7月31日に文官任用令改正は公布された。

各省次官が自由任用となり、有資格者なら自由任用で登用すれば勅任官登用資格を与えるという改正は、官界にとって大きな衝撃であった。

省内の頂点にある次官の人事権が政党に掌握されれば、政党政治の伸長の中で、政党と関係がなければ次官になれないことは必至となる。

政党の関係がなければ自らの地位が危うくなると官僚たちは必然的に意識するようになった。

これにより官界に党派性、横断的統治構造が出現することになる。

官僚の政党化-政友会系官僚の場合

山本内閣は文官任用令を改正し、資格任用とされてきた勅任官を自由任用として開放した。

この改正により政党人による猟官が行われると思われた。

だが実際には自由任用ポストに政党人は登用されず、現職の官僚の更迭も殆ど行わえれなかった。

文官任用令改正が引き起こしたのは猟官ではなく現職官僚の政党参加であった。

隈板内閣における猟官には官界だけでなく世論の強い批判もあった。

これは政党に深く刻まれた教訓である。

そして、政府を運営する上で、官僚との協調は政党にとって重視すべきであるとの意識も政党幹部たちに共有されていた。

世論に応えつつ、党内にも一定の配慮を行い、政党と官界の協調関係を維持する。

その答えが、現職官僚の政党参加であった。

山本内閣の閣僚のうち、床次竹二郎鉄道院総裁、水野錬太郎内務次官、岡喜七郎警保局長、橋本圭三郎農商務次官、犬塚勝太郎逓信次官、小山温司法次官、南弘福岡県知事が現職のまま政友会に入党した。

彼らはいずれも政友会寄りと見られていた官僚である。

桂新党の系列にある同志会が誕生し、政友会との対立関係が明らかになった以上、政友会寄り官僚が立場を鮮明にしたのは必然であった。

文官任用令改正が次官入党令と呼ばれていたのは、彼らの状況を端的に示している。

彼らの転機は第一次西園寺内閣誕生であった。

人事大臣の異名を取る内務官僚中の実力者であった水野は原内相の下で活躍した。

また、出世の遅れていた床次は本省勤務を原に直訴して内務省筆頭である地方局長に抜擢されている。

両者は原の主導した老朽地方官の淘汰で中心的な立場で関わった。

しかし西園寺内閣で注目を集めるような働きをし、政党人であった原内相の下で重用されたことで、第二次桂内閣では一転して不遇な扱いを受けた。

平田東助内相ー一木喜徳郎内務次官という山県系が内務省を掌握し、水野は中央から追われ、土木局に左遷された。

床次は鹿児島出身であることから、薩派への配慮のために内務省内の中央局たる地方局長に留まった。

だが、地方官人事に直接触れられない冷遇っぷりで、自ら申し出て欧米巡遊に出ている。

そして、第二次西園寺内閣となると床次は次官、水野は地方局長に抜擢された。

次官や地方局長は政権と進退を共にすべきという政務官的官職とみなされており、この人事によって彼らの政友会系としての立ち位置を鮮明にした。

両者ともに西園寺内閣と進退をともにする事が運命付けられた。

当時、次官級官職にある者が失職した場合には、勅撰の貴族院議員となることが慣例であった。

水野も勅撰され、貴族院における政友会系会派の交友俱楽部に所属した。

貴族院議員への勅撰は、官職を上り詰めた官僚に対し政治家としての身分を保障する手続きであり、俸給も支給されることから多くの官僚が望む地位である。

こうして水野は政治家の道を選んだ。

内務行政に通じ、官界の重鎮であった水野にとって、官僚出身者が多い貴族院は格好の場であった。

水野は政友会が支持する法案について、専門的見地から縦横に活躍する。

他方で床次は薩摩という出自から、第一次山本内閣と政友会の連絡役として、山本個人に重用された。

山本から床次に対し、貴族院議員勅撰の推薦を持ち掛けた。

これを受け、床次は原に相談したところ、原は床次に衆議院に出ることを薦めた。

その薦めに応じ、床次は鹿児島の補選に出馬して当選し、衆議院議員の道を選んだ。

床次は貴族院議員勅撰を謝絶する際、山本に対し以下のように説明した。

政党なくして議会政治はないので、政党の健全なる発達を促して行かねばならない。

その渦中に飛び込んで内部から改善することで、政治も発達し、国家も改まってゆくだろう。

そのように述べた上で、以下のように語っている。

「貴方がたは維新以来相当の経歴もあり、文勲武勲の飾りもある。

それで一本立で行かれて世間も信用し重んじも致しますが私どもはそうは行きませぬ。

これからやって行かねばならぬのであるから、ここに政党に入り、その団結の力でゆく外はないことと思います」

藩閥の庇護の下で栄達を望む明治時代は終わった。

大正時代は政党に参加し、政党政治の中で活動することが有力な選択肢となっていたのだ。

こうして床次は自ら党派化を受け入れた。

官僚の政党化-桂系官僚の場合

第二次桂内閣総辞職後、桂は明治天皇に元老政治の限界を指摘し

「これからは国民全体が陛下を扶翼し奉って、帝国の政治をやって行くようにしなければならんと思います。
それにはどうしても政党を持たないといけないとかねがね考えております。」

と述べて、新党結成を決意した。

このような桂の考えに呼応し、桂とともに外遊して政党政治の調査に当たり、桂新党に参加した大蔵官僚・若槻礼次郎である。

そしてその若槻に引き立てられたのが浜口雄幸であった。

浜口は政党政治について以下のように説いている。

「妥協政治または情意投合政治の弊害は、政党が直接に政治をする場合に比してかえって甚だしきものがあるので、国民はもはやその弊に耐えることが出来ない。

そこで政党は妥協とか情意投合とかという仮面を投げ捨て、その旧殻を破って、直ちに憲政運用の表面に乗り出さんとする意気すこぶる溌剌たるものがあった」

それは時代の要求であり、当然の成り行きである。

桂が新党を組織したのも、その趣旨であるとし、次のように主張した。

「妥協または情意投合政治の別名を有する官僚政治は、ここに終焉を告げて、二大政党対立による責任ある政党政治の発達がこれから始まらなければならぬ」

藩閥と政党の妥協政治は政治的に限界を迎えた。

よって、妥協による政権獲得ではなく、有権者に選ばれる事で正当性を獲得する。

このような意識が、桂系官僚に共有されていたと言えよう。

桂の死後、後藤や仲小路といった旧時代の官僚は脱党した。

彼らは政界を縦断する巨大政党によって事態を打開しようと考えており、政党政治を目指したわけではない。

一方、若槻や浜口は大学において学んだ学士系官僚であり、立憲政治や議会制度を学ぶなど、従来の官僚とは異なる憲政観念を持っていた。

言わば政党政治に対する憧憬があった。

旧来の官僚が去り、学士系官僚が残留したことで、同志会は二大政党対立による責任政治を目指すこととなる。

官僚派の一翼である桂系が政党を組織したことで、官界と政界の距離は縮まった。

官僚から政党政治家に転ずる事が急増し、政党の人材は強化され、政党政治へ漸進していった。

一方、藩閥、特に山県系官僚閥から見れば人材流出であり、大きな痛手である。

山県は才能溢れる水野が政党に流れたことを「政党の人となり党弊に染めるは惜しむべし」と悔やんでいる。

このように官界に一大派閥を構築した山県の影響力は漸減してゆくのであった。

参考書籍

「枢密院の研究」由井正臣 編

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枢密院にスポットを当てた数少ない書籍。

「政党と官僚の近代」清水唯一朗

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官僚と政党の関係性について、基本的な一冊。

「原敬―政治技術の巨匠」テツオ・ナジタ

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官僚の系列化は原敬抜きにして語れない。

「大正政治史の出発」櫻井良樹

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政友会と相対する同志会(後の憲政会・民政党)について。