内務省と原敬

コラム

官僚の総本山

戦前の地方行政は知事を中心としたシステムである。

その知事や府県幹部ら地方官の人事権を有するのが内務省であった。

内務省は地方行政の政策・予算・人事を掌握し、内政における総務省的立場にあった。

内務省の管轄は地方行政だけではなく、警察行政、土木、衛生、地理、社寺、出版版権、戸籍に関するあらゆる事務を管理することで、各省行政に影響力を行使した。

近代日本の行政の中枢を占める巨大官庁と言えよう。

何故、内務省は巨大官庁となったのか。

その創設に関わった伊地知正治は以下のように述べる。

「内務省は国の国たる所以の根元なれば、いやしくもその根元に培養厚ければ枝葉長大、花実豊穣、日を数えて待つべきなり」

つまり、日本の発展の基礎となることを期待され、あらゆる権限が集中したのだ。

この事から官僚を志すならば、内務省か大蔵省を登竜門とするのが当たり前となった。

そして官僚といえば内務官僚を指すなどと一般に認識された。

政党知事

農商務省や逓信省が立案した事業は地方長官である知事を通じて実施することが原則である。

知事は内務官僚であり、内相を通じた人事によって統制された。

内務省は中央と地方を一体となって機能させる要であった。

この内務省に目をつけたのが政党であった。

内務省は全国の知事の任命権を持つ。

つまりは全国の官僚機構を手中に出来る重要官庁である。

その影響力は東京の中央官庁から知事を通じ、47道府県、群、町、村にまで及ぶ。

そのような、地方行政に影響を持つ官僚機構を掌握することで、政党は高度な政治集団となることが出来る。

地方にて行われる土木計画に発言権を持つので、支持の見返りに公共事業で応えるという事が出来るのだ。

こうして、内務省の政党化が試みられる。その象徴が政党知事の登場であった。

第二次伊藤内閣に自由党総裁の板垣退助が内相として入閣し、1896年に自由党員が群馬県の知事に起用された。

政党員が直接地方長官に就官するという形で内務省の政党化を図ろうとした端緒である。

日本初の政党内閣である隈板内閣が誕生すると、政党知事は11名に及んだ。

内務次官や警保局長、警視総監などの内務省幹部にも政党員が進出した。

しかし政党の官界進出を憂慮した山県有朋は文官任用令を改正し、知事を含む全ての高等官を原則資格任用とすることで、政党員が知事に就任する道を閉ざした。

また官吏の身分を保障する文官懲戒令と文官分限令が制定され、政党員の就官はより困難となった。

そこで政党は政党員の就官から官僚の系列化に軸足を移す。

これに先鞭をつけたのが原敬である。

原敬

原敬は、岩手県盛岡の南部藩士の次男である。

南部藩といえば明治維新の際に朝敵となった藩であり、朝敵藩出身者の前途は暗かった。

しかし、新聞の通信員を務めた際に井上馨外務卿の知遇を得て、外務省に入省。

陸奥宗光の腹心として外務次官を務めた。

近代日本史において、原ほど思想や哲学に振り回されない醒め切った現実主義者はいない。

政党政治について、原は英国流の政党内閣を理想としたが、日本の政党(民党)を全く評価していない。

それは英国のものとは大きく異なり、主義も綱領も明らかではなく、国益を考慮せずに政府の事は何でも反対する反政府的存在に過ぎない。

このように、政党は十分に発達していないと考えた。

また、政党党首であっても党を統制出来ず、党員におもねってやっと地位を保っている状態であり、政党として機能していないと断じた。

党首を支える参謀格も他の党員に比べて秀でているわけではない。

その人物が官職を得るので、他の党員の官職への要求も際限なく広がるとみた。

このような未熟な政党をなるべく発達させ、真正なる政党内閣を組織出来るようにする事が急務であると考えた。

1900年、伊藤博文に勧誘されて政友会に入党した。

原は藩閥や民党出身ではなく、何ら政治権力を背景としていなかったが、党務に励み、党の財政を取り仕切る立場にあった。

西園寺公望総裁は「原は金が好きな男でね、ケチではない、よく散ずることも知っていた」とし、何かとマメな原に、党の会計のことを一切任せていた。

原は伊藤系官僚のイメージを持たれ、党内では浮いた存在であった。

これに対し、衆議院選挙に出馬して代議士となることで、官僚政治家という批判を打ち消した。

更に原は党内の地盤を確固たるものにしてゆく。

当時、政友会は旧自由党系領袖が幅を利かせていたが、伊藤が独断で桂内閣を支持したことから、党人たちは政友会から脱党していた。

政友会の指導権はこうして空洞化したが、原はこれに乗じて地方派閥を支配し、その勢力を強固にしていった。

内務官僚の系列化

原は官僚機構の変動に注目した。

それまで官界を支配していた藩閥の少数エリートに代わり、帝大出身者ら学士系官僚が台頭した。

彼らが次官や局長、知事などを担うようになり、官界に巨大集団を構成しつつあった。

学士系官僚の特徴としては、藩閥官僚とは世代が違く、40代前半であり、出身地は全国に跨り、多くが平民出身である。

藩閥に忠誠を尽くす義理はなく、むしろ藩閥によって出世を妨げられていた。

原は内務大臣の地位を利用し、これら新進の学士系官僚たちを政友会に依存させようと試みた。

第一次西園寺内閣で内務大臣に就任すると、まず最初に着手したのが警察人事である。

従来、警察は政党に敵対する目的で利用された。

特に警視総監を務めた山県系官僚の大浦兼武を通じ、警察は山県系と密接に繋がっている。

衆議院議員選挙においては、藩閥が警察を用いて政党の選挙活動を妨害することは多々あった。

これに対し、原は警視庁から大浦系を一斉に追放し、警視総監ポストに政友会寄り官僚を任命した。

警視総監は政友会に協力し、政友会が政権から去れば共にポストを去った。

そして将来再び政友会系政権となれば、内務省に舞い戻るというサイクルが誕生した。

このように有能な官僚が特定の政党と結んで進退を共にする形で、官僚は政党系に系列化された。

以降、警視総監は政党系列となり、警察が政党に敵対する時代が終わり、政党との協調時代となる。

次に系列化が進んだのが地方官、特に知事である。

知事は政府資金を地方に撒布する上に決定的な地位を占めていた。

党勢拡張の成否は、地方行政の掌握如何である。

つまり、系列化された有能な官僚を内務省の土木局や地方局の局長に任命し、この局の指示を具体化する知事を系列化することでなし得るのだ。

原は1906年、全国の知事に対し「その府県において緊要と認むべき事業あらば、具体的意見書を提出すべし。なお国家政策に関する希望などあらば、この際併せ上申すべし」と通告した。

知事が内務大臣に諮問書を送るなど先例がない。

これは原による知事たちの能力テストに近かった。

更に原は知事たちに対し「政党政派の樹立あるは自然の勢い」であると説いた。

これは政友会系ないしは中立系の有能な官僚を選抜するという意思表明である。

こうして原は病身、無能、政府の政策に反する者を罷免対象とした。

また、大浦系と結ばれた知事を左遷するなど、内相時代に41名の知事に対して休職を命じた。

一方で進歩的だと見込んだ人物は抜擢した。

原が巧妙であったのは、こうした党勢拡張と結びつく人事政策を、老朽淘汰・新進抜擢と表現した事である。

元老も同様の論理を持っていたので、原の政策に敢えて反対しなかった。

また、官僚自身も原の政策を支持した。

内務官僚の中心は藩閥官僚から高等文官試験をパスした帝大卒業者によって組織されている。

彼ら学士出身の官僚たちは、藩閥ではない出自から来る差別に不満を持っていた。

よって、原の掲げる老朽淘汰によって藩閥と関係の深い官僚が引退させられ、新進抜擢により学士出身官僚が一挙に昇進したことは、歓迎すべき人事であった。

原に抜擢された官僚の多くは政友会形となり、後に政友会に入党する者までいた。

内務官僚達は原の人事を好意的に評価した。

内務官僚の後藤文夫は、この当時の人事について以下のように回想している。

「原さんは藩閥のつるを引いたような人をなるべく辞めさせて、そうして新進の人材を抜擢して、官界、ことに地方官なども感覚の新しい人に変えて、それによって、自分たちの政治上の主張を、自然にそういう方面に実現してゆこうと言った考え方があった」

後に反政友会系の巨頭として知られる内務官僚の伊沢多喜男も、以下のように回想している。

「とにかく役人などの力を借りて政党の拡張をやるというような、そんな卑怯なことはせぬというのが原さんの身上だと思う」

このように政友寄りとは言えない官僚たちの支持も得る事ができたのは、原が内務省関係者の意見をよく聞き、省内に配慮した人事を行ったからだ。

原の人事を支えたのは、内相秘書官を務めた水野錬太郎である。

水野は原の態度について、このように回想する。

「原氏は極めて明朗で、官僚的でなく、人事はもとより内務行政について全て私に相談し、かつよく私の意見を用いてくれた。

私は原氏のこの態度に心服し、誠意をもって原氏を補佐した。

従って原氏と私の関係は単に上官下官の関係でなく、個人としても親密になり、相互に信頼しあった」

原は内務省内の事情に詳しい水野ら内務官僚を介して人事を行ったおかげで、省内で無用な摩擦を起こさずにすんでいた。

こうして内務官僚の系列化は官僚の世代交代に付随して進行した為に成功を収めた。

原の新進と老朽の判断は原個人の主観に依るところが大きい。

しかし、原を支持したのは一般的に新進と見られる官僚であるし、支持しなかった者は老朽で山県系と深い関係にあった官僚であった。

こうして原は客観性を装うことが出来た。

ただし、有能・新進であっても山県系であったり反政友会系であれば容赦無く罷免された。

彼らは政友会以外の政権となった際に知事に返り咲く事になる。

こうして官界は政友会系と非政友会系に系列化されていった。

積極政策

1904年には76万人であった有権者は、1908年には159万人に膨れ上がった。

これは日露戦争が国民所得を倍増させ、かつてない数の成人男子が直接国税10円以上を支払った為である。

突然有権者が倍増したせいで、選挙戦の常套手段であった個人的な繋がりによる票の買収も難しくなった。

そこで政党に成り代わり、地方の実業家が選挙屋として票を買収する選挙違反が横行した。

こうした現象のせいで政党の選挙地盤は極めて不安定なものになり、多くの代議士は解散総選挙を恐れるようになった。

08年から15年にかけて代議士の再選率は50%に満たず、地方の政治基盤は流動的かつ不安定な状態にあった。

原はこの時代にあって、内務省を掌握し、知事を通じて積極的に公共事業を行う形で党勢を拡張し、安定した選挙戦を展開した。

政友会には全国各地に地方団体を組織していた。

そして、地方団体が開催する地方大会において、地域の利害が表明され、それが党の政策に反映される仕組みであった。

よって、党本部の幹部が地方大会に来ると、地方の有力者達はこぞって歓迎した。

幹部達は地方の産業や交通を視察して、地域の経済発展に関心を持っていることをアピールする形で、それに応えた。

これが政友会の地盤が弱い地域だと、大袈裟な口約束をすることもあった。

政友会幹部が地方の敵対地盤に行く際、測量技師を伴って、直ちに鉄道を敷設するかのような態度を取り、その地域の有志に入党を迫ることもあったという。

このように政友会は地方の要望を容れ、それを実現することで地方の支持を確保し、急速に党勢を拡大していった。

それを可能にしたのが知事の系列化であった。

府県政に圧倒的な力を発揮する政友会系知事は、さながら政党の支部長として機能し、政党の地方支部を構成する地元代議士や府県会議員を率いた。

そして、政友会系知事は中央政府の政策を府県政と結びつけた。

あらゆる公共事業の契約は政友会の党利に従って配分され、それに反する者を容赦なく更迭した。

政友会の地盤が弱い地方にあっては、政友会の地盤を培養し、総選挙に動員しようとした。

そのような系列化が進んだ結果、露骨な党派的政策を行う知事もあった。

彼らは、反政友会の地盤がある地域に対しては公共事業を削減する形で攻撃した。

そして、その地域が政友会の支持を表明することで公共事業を再開した。

当然政友会系知事は非政友会の世の中になれば官界から追放される。

だが政友会の世になれば官界に返り咲き、地方にあって政友会の手足となって働くのであった。

このように系列化された知事は政党にとって党勢拡張の中核であった。

我田引鉄

このように政党と官僚機構があらゆる面において密接に結びついた。

党は内務大臣を通じて地方官僚を操縦し、政党の党勢拡張を可能とした。

原は党を代表する交渉者として政策立案に影響力を発揮し、その積極政策によって地方の支持を確保し続けた。

その際たる積極政策は鉄道政策である。

鉄道は機械化された近代輸送手段の中で最重要であり、全国的な経済発展に決定的な影響力を持っていた。

地方にとって鉄道敷設は死活問題であり、鉄道誘致は熾烈を極めた。

あらゆる府県は、鉄道の改善や拡張の陳情を行なっている。

これら鉄道の要求は自然の趨勢であった。

原にとって鉄道政策は積極財政の核心であった。

10年に原は地方大会において、以下のように鉄道政策の重要性を語っている。

「将来の発展を図るのには交通機関の発展即ち鉄道港湾の改良もしくは建設を以って最も休むなりとする次第である」

その考えの下、第一次西園寺内閣において鉄道は国有化された。

4億8000万の巨額が投じられて私鉄各社が買収され、12年には7億円もの鉄道拡張計画が練られた。

原は鉄道国有化だけでなく、鉄道関係の支出を特別会計として独立させ、独立予算を持ち、公債を募集する権限を持つ鉄道院を設置した。

鉄道は政友会の党勢拡張の中核となり、後に党派的な鉄道敷設計画を揶揄して、我田引鉄なる言葉が誕生するほどであった。

なお桂太郎ら陸軍は戦略的見地から鉄道幹線を広軌に変えようとしていた。

もし日本の鉄道が広軌となれば、戦略物資を積載した貨車をそのまま船で運び、満州の広軌鉄道に乗せることが出来るからだ。

しかし、原は全国に鉄道を拡張して政友会の影響力を浸透させる為に、廉価な狭軌のままを全国に延長することを主張した。

もし広軌化になれば、政友会が地方に約束した公約が履行されないからだ。

日本の鉄道が広軌になれなかった事は、後々の鉄道行政において多大な影響を残すことになる。

官僚の政党入りと政党改良

非政友会政権が誕生すると、政友会系と目された官僚は更迭された。

その空いたポストに入るのは、かつて官界を追われた老朽官僚ではなく、別の新進官僚であった。

彼らは政友会系知事の行き過ぎに憤り、反政友会的態度を示した為に出世を妨げられていた。

それ故に反政友会系として自然と党派的になる。

1920年代になると全国の知事や局長は政友系・非政友系で系列化された。

勿論、政治的に中立な知事もおり、政友・非政友の世の中に関わらず、その任にあり続けた知事もいたが、彼らも政府の政策をある程度までは容れなければなかった。

政府に協力しなければ、反政府、無能の烙印を押され、追放の憂き目にあうからである。

こうして政党は知事を党の武器として利用し、党勢を拡張した。

かつては内務省を掌握し、官界に隠然たる影響力を有した山県系官僚閥は解体されていった。

このような状態になると次に起こるのは、官僚の政党入りである。

政党にとって党人・政党の改良は解決せねばならない課題であった。

そもそも政友会自体、伊藤が政党改良を目的に創設した政党であった。

伊藤が目指した政党改良とは、民党時代の反藩閥・反政府一辺倒から転じ、国家的見地に立った政見と充実した政策立案能力を有する、秩序の取れた党運営を行う政党である。

そこで伊藤は民党的な人物を政党から排し、国家の安定を第一と考える人材に入れ替えていった。

原は伊藤の政党改良を継承した。

その方法こそが、政党内閣を実現するための人材獲得、つまりは有能な官僚の政党入りであった。

元老が首相候補を奏薦する制度下において、元老から見て政権を担当しうる経歴を持つ人物を首相候補として擁立することが政党の第一条件となった。

日本の歴史上、官界で次官以上の経験をせずに組閣したのは、わずか犬養毅だけである。

官界にあって国務に従事してきた官僚に対する信頼感は、党人のそれとはまったく異なっていた。

政党内閣を実現するためには元老が信任しうる、官界で活躍した経歴を有する総裁であることが必要不可欠であったといえよう。

更に、官僚出身政治家は、政権を獲得した場合に大臣候補となりえた。

各省庁の事務に疎い大臣が官僚から疎外されることは多く、適任を得るために党外から人を得なければならない事はままあった。

しかし党外から閣僚を得た場合、往々にしてその系統の影響を受けざるをえない。

これに対し、政党が官僚出身者を党内に抱えておくことが出来れば、そのような系統の影響力を全く除外できる。

原は党内に次官・大臣経験者を確保することに意を注いできた。

次官・大臣経験者の入党は政党内閣実現のための人材確保という明確な意図があると言えよう。

その先鞭が第一次山本内閣の組閣時の要求であった。

原は山本内閣への協力を約束する代わりに、首・外・陸・海の4大臣を除く閣僚全員を政友会党員とするか、非政友会であっても入閣後に政友会に入党させるよう要求し、了解させた。

そして法学者で官界に影響のある奥田義人、金融界の大物である高橋是清と山本達雄が政友会に加入した。

こうして政友会と財界・官界の繋がりは一層深まり、将来政友会内閣となった際の大臣候補を得ることとなった。

大臣・次官経験者だけでなく知事などの内務官僚が国政に転じることも積極的に進められた。

内務官僚出身者の豊富な事務能力と実務経験によって、政党改良は前進し、政友会は政権担当に必要な能力と社会的評価を獲得した。

そして政党に引き立てられた官僚出身政治家は、原の側近になった。

政友会党内は地方団体の発言力が大きく、原は東北・関東にしか影響力を有していなかったが、これにより原の党内地盤は相当強化された。

官僚も積極的に政党政治に参加する姿勢を見せていた。

もはや官僚が明治維新の頃のように勲功を立てる機会はなくなっていた。

政党内閣時代の到来により官僚の人事権は政党出身の大臣に掌握され、官僚の身分は不安定となっていた。

もはや政党との特定の関係がなければ出世は難しい時代となっていたといえる。

また、官僚の政党接近は、政党政治から行政を守るという意味合いもあった。

政党は内務省人事を直接操作したわけではなく、内務省出身者を仲介者として間接的に人事介入していた。

政党と内務省の仲介者は、政友会では水野錬太郎と床次竹二郎、憲政会では伊沢多喜男や下岡忠治という、内務官僚出身政治家達である。

官僚政治家は自ら政党に関係しつつも、内務官僚や地方行政が政党政治に過度に左右されることを嫌っていた。

彼らが政党に協力したのは、内務省を政党の影響力から守るためでもあったのだ。

官僚政治家が政党と内務省の間にあって、過度な政党の要求から官界を守る防波堤のような役割を果たしたことで、内務省には政党から一定の独立性や自律性が確保された。

このような官僚の政党入りは二大政党制を促す事になる。

反政友会系に系列化された官僚が政界に打って出た場合、政友会に相対する第二党への入党を促すからだ。

原は知らず知らずのうちに反対勢力の結集、二大政党制への道を切り開いていた。

しかし、官僚の系列化、系列化知事による党勢拡張、官僚の政党入りには当然弊害があった。

二大政党制の深化に伴って地方行政があまりにも党派的になった為に、支持政党による差別が横行した。

また地域格差が広がったり、警察行政がまともに機能しなくなるなどの問題が噴出した。

これが1930年代には党弊として政党批判の有力な根拠になるのであった。

参考書籍

内務省の政治史 黒澤良

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内務省に関する基礎的な一冊。内務省を理解するためには必読。

政党と官僚の近代 清水唯一朗

man

官僚の系列化に関する基礎的な一冊。

原敬―政治技術の巨匠 テツオ・ナジタ
原敬-「平民宰相」の虚像と実像 清水唯一朗

man

原敬の政治手腕を描いた評伝。

日本政党史論 升味準之輔

man

古典にして名著。政党の歴史を知る上では必読。