地震博士

コラム

大森房吉と今村明恒

関東大震災は未曾有の大災害となった。

この大地震を予期し、震災への備えを説いていた地震博士がいた。

今村明恒である。

しかし彼の警告は世に届かず、そればかりかホラ吹きという汚名を被らされていた。

日本の地震学は1880年の横浜地震を契機にお雇い外国人によって初められる。

1891年にはマグニチュード8の濃尾地震が発生した。

政府は防災を痛感し、1892年に震災対策の画期となる文部省直轄機関の震災予防調査会を設立した。

委員会は震災予防として耐震構造を研究を開始する。

また、過去の地震や津波の資料を収集し、地震活動、地震予知、地質調査などあらゆる調査研究を行う地震学を開いた。

この中心にいたのが大森房吉であった。

そして大森が帝大で担任講師を務める、地震学教室の助手が今村である。

今村は帝大で物理学を学んでいたが、濃尾地震の調査を依頼されたのをキッカケに、地震学を専攻した。

なお、当時の地震学の助教授は無給であり、陸軍幼年学校の陸軍教授で生計を立てていた。

今村の名を一躍有名にしたのが1896年の三陸大津波である。

この日の三陸の地震は揺れにすら気づかない人もいるほど小さかった。

だが、地震から30分後に5メートル以上の大津波が三陸海岸に押し寄せ、死者行方不明者2万人を超す大惨事となった。

当時の日本の津波学は未熟であった。

三陸大津波の原因について暖流寒流衝突説や海底火山爆発説、日本海溝崖崩れ説など様々な説が飛び交った。

そんな中、今村は1899年に海底地殻変動説を発表した。

今では海底地殻の上下変動こそ津波の原因であるとは広く知れ渡っているが、今村説は大きな反響を、そして批判を呼んだ。

批判の中心には大森教授がいた。

大森は津波の原因として流体振子説を説いた。

各湾の固有の振動が地震による海水の振動と共鳴して大きくなったものが津波であるとする説だ。

その観点から今村説を不自然な仮定であると断じた。

大森説と今村説の論争は10年間続いた。

大森は当時地震学の権威であり、学会は大森説を是とし、地理学の教科書も大森説を採用した。

今村説が裏付けられるのは1903年の濃尾地震における地盤変動が観測されてからである。

今村博士の予言

今村は、地震は自然現象なので防ぎようもない。

だが、震災は人の努力によって軽減出来るし取り除くことも出来ると考えていた。

そこで、震災対策の啓蒙を意識して、1905年に雑誌太陽に震災に関する論文を寄稿した。

その中で、震災予防調査会の研究結果の紹介や、様々な地震対策の活用を提唱した。

まず、東京における震災対策の前提として、江戸を襲う大地震は平均100年周期であり、安政2年の大地震は50年前である。

「今後五十年の間には再びかの如き破壊力が暴を逞くするの時期に到達するものと覚悟せざるべからず」

と説いた。

もし大地震が発生すれば圧死者は3000、全壊家屋は3万となるだろう。

ただし、これは火災が発生しない場合の予測である。

「震災は火災の為に、その惨害の程度を頗る膨大する」

火災が発生すれば全壊半壊家屋を全て焼き払い、死者は3倍になるだろう。

そして僅かでも風が吹けば東京全市が灰塵に帰す。

火災の範囲が広まれば市民は逃げ場を失い、死者は10万となるだろうと予測した。

今村は「推測ここに及ぶ時は、自ら慄然たらざるを得ざるなり」と記した。

このように推測出来れば、震災の軽減方法は地震による火災を防ぐことだとわかる。

火災の防止策の一つは耐震建築である。

今村は非耐震的な建築方法が無批判で輸入されたせいで地震による震災が拡大していると考えていた。

もう一つは地震発生直後の火の始末である。

今村は揺れの激しい時に歩き回れる歩行法を編み出しており、自ら練習するだけでなく、家族にも勧めている。

しかしそれら対策をしても全ての火を消し止めれるとは思っていない。

そこで、石油灯を順次廃止して電灯に切り替えることを提案している。

論文は最後にこのように論じた。

「我邦は地震国なり。

しかして我が帝都は地震の中枢たり。

来るべき惨憺たる災害を未然に防ぐには石油灯を廃しこれに代えて電灯を用いるに若くはなし。

これ局に当たるものの二百万生霊の為、またその財産の為、一日も軽忽に付すべからざる問題たるべし」

丙午地震騒動

今村論文は当初そこまで反響はなかったが、翌1906年になると大きく注目されることになる。

1906年は暦上、丙午であり、丙午の年は火災が多い年であるとの迷信がある。

そんな中、東京二六新聞が「今村博士の説き出せる大地震襲来説、東京大罹災の予言」というセンセーショナルな見出しでゴシップ記事を掲載した。

二六新聞は、1月に大きな地震があったとか、九条道考公も亡くなったなどと読者の不安を煽った。

そして、今村論文を引用して、今村博士が10万人近い死者を出す大地震を予言したと書きたてた。

なお、今村論文の主眼である震災対策については全く触れてなかった。

自らの論文を悪用された今村は、二六新聞に訂正を求める抗議を行った。

だが訂正は間に合わず、今村の下には論文の問い合わせが殺到し、注目を引くようになった。

そんな中、東京で強い揺れが発生して市民が戸外に飛び出す騒ぎとなり、新聞各紙が地震問題を大きく扱うようになった。

東京市民は今すぐにでも大地震が襲来するのではないかと不安を掻き立てられた

。間の悪いことに揺れの強い地震が立て続けに発生した為、不安は頂点に達した。

ついには中央気象台が大地震が来る旨の警報を出したという流言飛語が発生して騒然となった。

この事態を受けて雑誌太陽に寄稿された大森の論文は、今村にとって更なる衝撃であった。

論文の冒頭には以下の文言が記された。

「本年は丙午の年なれば、火事多かるべしとの俗説ありし所に、今後五十年の内に、東京に大地震が起こりて二十万人の死傷者を生ずべしとの浮説、一度現れしより、頗る人心を動揺せしめた」

今村説を根拠のない浮説と完全否定し、それが人心を動揺させたと断じた。

今村説批判はこのように続く。

「不完全な統計による調査から将来の出来事の日時を予知することを、学理上の価値は無きものと知るべきなり」

過去の江戸時代の地震のうち東京が激震地となったのは安政地震の一度きりである。

東京市の大地震は数百年に一度と見てよく、今後50年のうちに東京市が全壊するような大地震が来ると想像することを「根拠なき空説」と批判した。

この論説には大きな穴がある。

確かに元禄地震は小田原が激震地であった。

だが、江戸も大震災を被っているし、数百年に一度というのはあまりにも根拠に乏しい。

この論文の目的は世論を鎮静化にあるのは明らかであった。

いくらメディアに悪用されたとはいえ、自説が社会を混乱させた責任はある。

地震学の権威として騒動を収めたい大森の気持ちも理解出来なくはない。

しかし、誤魔化しに近い論文で学説を浮説と断じるのは学者への最大の侮蔑である。

今村はこの騒動について、このような気持ちを吐露している。

「自分は自分の所説が世間を騒がしたばかりで、何の効果も無かったことを顧みる時、その罪科を悔悟せずに居られない。

ただこういう先生の文を読む度毎に忍び難く感ずるのは、何故に自分の真意を引用されなかったのだろう」

大森が今村説を浮説と断じ、東京の大地震は数百年後であると述べたことで、地震騒動は沈静化した。

しかし、今村には法螺吹きの汚名が残った。

今村は大森に反感を抱き、大森も幾度もなく今村説に批判を交え、二人の関係は冷え切った。

墓前の報告

1915年11月12日、房総沖を震源地とする群発地震が発生した。

大森教授は大正天皇の即位礼のために京都におり、助教授の今村が教室の留守を預かっていた。

地震学教室には記者が殺到し、群発地震は大地震の前触れなのかと問い質した。

先の騒動もあって慎重に言葉を選んだ今村は記者に対し「先ず今のところ九分九厘までは安全と思うが、しかし精々注意を加え、火の元は用心しておくに越したことはない」と述べた。

ところが、この発言が新聞に載るやパニックが発生し、戸外に寝泊まりする人が続出した。

事態を重く見た大森は急遽帰京し、今村に会うや、いたずらに市民を不安に陥れるなと叱責し、大森の今村説批判は熱を帯びた。

結果、今回も今村は人騒がせ、法螺吹きの汚名を被る事になる。

1921年、今村の父が亡くなった。

息子が地震騒動の張本人の非難を受け、それを晴らすことも出来なかった。

よほど後悔に耐えかねたのか、今村は息子に対し、このように語っている。

「もし自分が死んだ後、東京が大地震に襲われて自分の予言した通りになったら、真っ先に鹿児島のお祖父様の墓前に報告せよ」

和解と別れ

大森は今村説を否定する為に度々学問上無理のある説明を行い、そして震災前年には、東京の大地震は当分無いと断言するに至った。

今村はこのような非難の前にただ沈黙することしか出来なかった。

この事から、今村は後に、職を辞してまでも自分の学説を主張して市民に警鐘を鳴らせば、大惨事にはならなかったのではないかと後悔することになる。

そのような状況の中、震災当日を迎えることになる。

激震を観測した今村は、これが自分が予測していた相模湾を震源とする大地震である事を知った。

折しも大森教授はオーストラリア出張中であり、今村が代理として記者たちに安政以来の大地震であると発表した。

この日から今村は多忙な日々を送ることになる。

地震の調査報告、依頼原稿の執筆、新聞雑誌のインタビュー、諸官庁との連絡、海軍や交詢社での講義、摂政宮への進講も務めた。

一方、オーストラリア・シドニーの天文台で大地震を知った大森は急遽帰国した。

だが、この出張の中で体調を悪化させており、日本に到着した頃には相当衰弱していた。

大森は震災予防調査会の会長兼幹事であったが、幹事を辞して今村を新たに任命し、大学に対しても今後の今村の待遇を進言している。

これを受けて今村は53歳にして帝大の教授に任命された。

遅すぎる昇進であったが、大森の配慮に今村は感激し、二人のわだかまりはここに解消された。

今村は、かつての論争をこのように振り返る。

「疑いもなく先生は民心鎮静の犠牲となられたものであって、自分はかく憶測する時、その背後が恨めしくなって来ると同時に、先生を犠牲者になした動機が自分にあることを想像してお気の毒に耐えない」

10月31日、今村は大森の勲功調査を命じられている。

これは大森が間も無く亡くなると思われたからだ。

今村は日記の中で以下のように記した。

「かくの如き学会の偉人を要するに最も切なる時期において、先生の勲功を調査しなければならぬとは、何たる悲しい事であろう」

11月5日には帝大が地震学科の設立を議決した。

この報告を今村から受けた大森は歓喜し、二人で祝杯を上げたという。

この3日後に大森は亡くなった。

今村は精力的に活動し、震災後の半年で100回以上の講演に参加し、論文も何十稿も記した。

その論説の中で今村は、関東大震災から100年後も大地震が起きる可能性を指摘し、東京は帝都には適さないとして遷都を主張している。

もし遷都しない場合は耐震と火災の防止策を講ずる必要がある。

耐震対策としては、建物を地盤の強い山手に集中させることと、建物の基礎工事を自然土が現れるまで掘り下げること。

火災防止策としては消火設備と建築法改正を主張した。

こうして今村は地震・津波学の権威となった。

後に三陸大津波の防災策として集落の高所移転を提案したり、津波防災の教育として国定教科書に稲むらの火を取り入れるよう働きかけている。

参考書籍

関東大震災 中島陽一郎

man

関東大震災の被害について、基礎的一冊。

君主未然に防ぐ 山下文男

man

今村博士の基本的な伝記。

手記で読む関東大震災 武村雅之

man

今村博士の手記についての解説。