第二次幣原外交と満蒙の危機

コラム

幣原外交の理念

1929年7月2日、民政党を与党とする浜口雄幸内閣が成立し、外務大臣に幣原喜重郎が就任した。

1927年の第一次若槻礼次郎・憲政会内閣以来、二度目の外相であり、ここから始まる外交を第二次幣原外交と呼ぶ。

改めて幣原外交の特徴を述べる。

まず、幣原は利害関係国同士の二カ国協議を重視する。

日本の外交懸案は中国問題に集中していたため、幣原は中国に利益を持つ英米との協調を重んじた。

これにより日英米関係は劇的に改善された。

次に、幣原は対中外交について、利害関係の少ない第三者の介入を極端に嫌った。

特に国際連盟については「至極迷惑」な存在であると敬遠していた。

これは幣原が日中問題は地域的な理解が必要であると認識しており、普遍的な原則を掲げる連盟では問題がこじれると考えた為である。

幣原はしばしば国際協力を説いているが、これは連盟のような普遍的な国際機関ではなく、利害関係国による多国間協定を通じてという事であった。

この理念の下、幣原外交は九カ国条約を始めとするワシントン条約体制を東アジアの基礎とし、日本の利益を増進しようとした。

第二次幣原外交前史

幣原外交はワシントン体制を基礎としたが、体制は堅固ではなかった。

その最たる要因は中国の混乱である。

ワシントン体制確立後、中国は内乱が長期化し、北京政府の基盤は著しく弱体化した。

これに対し、日英米は何ら建設的な対応を打てず、その隙を縫ってソ連の進出を許すことになる。

それが1924年、中国南部、広東国民政府とソ連の協力、国共合作である。

これを機に中国では反帝国主義のナショナリズムが過熱し、ストライキを武器に不平等条約改正を列国に迫るようになる。

日英米は中国の新たな情勢に対し、政策を再調整も出来ず、ここにワシントン体制は崩壊した。

以降、日英米は協調を探りつつも、各々で新たな中国との関係を模索するようになる。

1927年、政友会を与党とする田中義一内閣が誕生し、憲政会寄りであった幣原が外相の座を降りた。

ここから始まる外交を、田中外交と呼ぶ。

一般的に田中外交は、東方会議や山東出兵などを例に、対外強硬的と解されがちだが、基本的には日英米協調の姿勢を堅持した。

ところが1928年、山東出兵の最中、日本軍と北伐軍が衝突する済南事件を引き起こしてしまった。

更に奉天軍閥の張作霖を通じて満州を特殊化しようとした満蒙分離政策も、河本大作が張作霖を爆殺して失敗した。

この結果、日中関係は著しく悪化し、日本は中国のナショナリズムの矢面に立たされるのであった。

伝統的外交政策

ところで幣原も田中も外見では全く違う外交に見えるが、その根本では一本の太い線で繋がっていた。

それが、満蒙権益の維持・擁護である。

満蒙権益は満州(中国東北部、東三省の総称)南部と、東部内蒙古に跨る日本の条約上の権利、それを行使することで得られる利益の総称である。

具体的には日露戦争の講和条約であるポーツマス条約によってロシアから譲渡される形で獲得し、日清善後条約によって権利の移動を中国(清国)が承認。

1915年の対華二十一か条要求によって、この権利を拡大した。

権益を列挙すれば、先ずは遼東半島の要港、旅順・大連を含む関東州租借地。

長春以南の東清鉄道と安奉鉄道(併せて南満州鉄道、満鉄)の経営権及び、鉄道附属地の行政権。

この行政権には、鉄道附属の炭鉱や鉱山の採掘権、森林伐採権、農業、商業、警察等も含まれた。

更に、鉄道を守備するために、鉄道1キロあたり15名、総計16000名以下という制限の下、駐兵権も得ている。

また、満蒙権益は日露戦争の下、20億円の国費と10万の英霊の犠牲を払って勝ち取ったものだと解され、日本人として守るべき国家的遺産と謳われた。

こうした国民感情や歴史的背景が絡み、満蒙権益は単なる条約上の権利ではなく「特殊」権益と呼ばれるようになる。

これは、国家の存立に死活的な、戦争に訴えても守るべき利益という意味であり、日中間の重大懸案となった。

密約や既成事実によって権益を拡大しようとする日本と、これに反発する中国、更には米国という構図が、日本外交史の中で度々繰り返された。

幣原と満蒙政策

幣原も日本の伝統的外交政策に則り、満蒙権益の維持・拡大に努めてきた。

外相就任後、幣原は満蒙権益を合理的手段を尽くして擁護すると表明し、日本の生存権としての満蒙権益は決して放棄できないと述べた。

幣原は満蒙権益の正当性について、以下のような認識を披瀝している。

「権益の大部分は全て条約に根拠を有しているのみならず、何れも多年の意義深き歴史の所産ならざるものはない」

所産とは、ロシア帝国の南下政策に対する安全保障上の見地であったり、ポーツマス条約後の日本企業の投資という実体である。

幣原は満蒙権益が条約上だけでなく、歴史的・地理的においても特殊であるとの認識を示している。

このような日本の満州における生存権と、中国の満州における主権を両立しつつ、ワシントン体制の下で対中経済活動を拡大させ、日中共存共栄を図る。

これが幣原の基本的な満蒙政策である。

つまり、田中外交同様、日露戦争で確保した満蒙特殊権益の擁護は大前提にある。

この手段として、国際社会と協調しつつ、これを牽制し、日本の満蒙における既成事実を積み重ねてゆく点に特徴があった。

幣原外交はあくまで日本の伝統的外交政策の延長線上にあるのだ。

それは、幣原外交も満蒙が絡む問題では妥協を許さず、外交が硬直するという特徴を孕んでいるという事を指す。

浜口雄幸の外交観

第二次幣原外交を始める前に、幣原を起用し、最大の後援者となった浜口雄幸=民政党の外交観を知る必要がある。

浜口は民政党総裁として、しばしば田中政友会外交の批判の先頭に立っている。

浜口は満蒙権益を、日本の生存または繁栄に欠くことの出来ない重要な意味を持ち、これを維持するのは政府の当然の責務であり、自衛する覚悟を持つべきだと説く。

その決意があれば、誰が満州の政権を掌握しても、何ら恐れることはない。

まして、張作霖を通じた満蒙を特殊化、分離・半独立させるなど、領土保全を定める九カ国条約の下、絶対にあってはならない。

日本が中国に対して取るべき態度は内政干渉ではなく、中国が進める建設的な事業に対しては、可能な限り協力する。

それは、困難と思われた中国の国家統一もそうである。

中国の革命は中国人民の国民的宿望であり、意思がある限りは統一の可能性は高い。

「我々は堅き信念のもとに一切の小策を排し、支那の和平統一に向かって充分の機会を与うるの用意がなければなりません」

このように、中国の統一を受け入れる立場を取った上で

「善意と寛容とをもってこれに臨み、その合理的要求に対しては、事情の許す限り漸をもってこれを認容するの態度を取るべきである」

友好的協力の姿勢で従来の日中関係を刷新し、日中の経済上の相互協調関係を積極的に発展させる。

これは何も、満蒙権益の増進に留まらない。

「単に満蒙における特殊地位の確保のみを以て満足すべきに非ず。

支那全体、特にその豊穣の中心地たる長江流域に対する貿易の伸長に力を尽くし、もって両国共通の利益を増進せねばならぬと思うのであります」

経済的に見て、日中は相互依存関係にある。

日本は東アジア最大の工業国である一方、国土は狭小で市場も狭く、原料となる資源も少ない。

片や中国は豊富な資源と巨大な市場を要する大国であるが、工業力に乏しく、自国で生産を賄えない。

日本は中国の資源と市場を必要とし、中国は原料と市場の供給者として日本を必要とする。

このように日中の経済的な利害の一致点は容易に見いだせる。

よって、日本は中国の統一に協力すべきなのだ。

そして、秩序の回復した中国を重要な市場と重んじ、大陸全土の通商・投資を拡大し、日中双方の繁栄に繋げよう。

浜口民政党の外交の根本は、端的に言えば日中共存共栄である。

共存共栄を基礎とし、この上に日中の親交を確立し、両国の繁栄と極東の平和を保証する。

この外交観の下では、満蒙の死活性はそこまで強調されない。

満蒙権益の擁護は、あくまで日中共存共栄関係の下で合理的手段で行われるべきなのだ。

以上のように、浜口と幣原の外交観は非常に近しく、浜口は幣原外交の最大の後援者となるのであった。

民政党の論調

浜口は日中共存共栄の見地に立ち、日中提携、親善外交を説いた。

これを反映し、民政党の対外論調も極めて穏健であった。

民政党内において満蒙問題を積極的に取り上げた一宮房治郎は、機関紙民政誌上において、以下のように説いている。

日本の満蒙権益は日露戦争によってロシアから譲渡されたものであり、経済的のみならず、政治・国防の関係からも、擁護されるべきである。

ただし、満蒙は中国の主権が行われている一部として研究しなければならない。

また、日本が満蒙で取り得る行動範囲は、列国との取り決めによって規律されるものである。

「我国は国際生活の一員として、国際生活の埒外に逸出して、列強の指弾攻撃を受くるが如き行動は大いにこれを慎まねばならぬ」

これを鑑みれば、満蒙権益は国際的な慣例や条約を尊重し、ことに英米の対満政策を参考とし、国際信義を重んじる態度で維持・増進すべきである。

政友会が行ってきたような、内外を挑発する恫喝外交は慎むべきであると主張した。

外務政務次官を務めた永井柳太郎は、直接的に田中前内閣の対中外交を暗黒時代であると批判した。

その結果、日中関係は悪化したが、幣原外交によって修正されつつある。

「力を以て脅威とする事によって他国を征服せしむる時代は既に過ぎた。

道理に訴えて良心の扉を開く事が今後における外交の真精神でなくてはならぬ」

このように述べて、慎重外交を説いた。

いや、むしろ、中国における日本の利益を擁護する点においては、積極外交の最良なるものであると、自画自賛した。

以上、民政党は幣原外交によって日中関係は良好になったと評し、日中諸懸案についても、楽観的な考えを披瀝している。

森恪の視線

暗黒時代と非難された政友会であったが、それでは政友会の外交観の実際はどうであったのか。

ここでは田中内閣時代に外務政務次官として対中外交を牽引した、森恪を取り上げたい。

森は三井物産社員として長らく中国にあり、中国に関しては一過言ある政治家であった。

森は15年間、中国で生活してきたが、その実体験を通じて、中国を極めて低く評価している。

曰く、中国人は勤勉ではなく、商店、工場から運輸・交通、官憲に至るまで、全てにおいて腐敗している。

税関制度も外国人が運用して初めて成立しており、外国人が参与していない汽船や鉄道を利用することは危険である。

「この大陸を無能なる支那人に一任し置くべきにあらず。

進んで智を用い力を加えてこれを料理し、安定を保ちて支那大陸天与の生産力を利用し、以って人類を益する事に努むる」

だが、だからといって日本が中国の富を簒奪していいわけではない。

「支那の改造の目的は支那を喰らい、支那を殺さんが為に非ずして、支那を活かす為である」

これは日本が中国に経済的に依存しているからである。

日本は中国から離れて経済的に独立出来ないし、中国も日本から離れれば政治的に独立出来ない。

森もまた、日中共存共栄を説く人物であった。

幣原軟弱外交

共存共栄を考えるならば、中国の統一は不可欠である。

「支那に政治行われ、支那に文明現れれば、第一に益するものは支那人なり、第二に益するものは日本なり」

ただ、森が浜口や幣原と決定的に異なるのは、その方法論であった。

「日本は自国の平和、独立のために、自ら主人公となって支那問題を解決せなばならぬ」

このように日本は中国に積極的に干渉すべきであると説いている。

そんな森から見れば、第一次幣原外交は軟弱以外何者でもなかった。

幣原は内政不干渉方針の下に、中国の情勢から距離を置いた。

それ故に、勢力を伸ばす南方の革命派、国民党には、日本人が誰一人参与しない。

これは孫文の辛亥革命の際に、多くの日本人が馳せ参じたのに比べれば、致命的である。

この空白にソ連が乗じ、支援の形で影響力を拡大している。

そして、ソ連・共産党の影響下にある国民党は、日本人への門戸開放・機会均等を遵守しなくなった。

これは明白な九カ国条約違反であり、直ちに中国との利害関係を有する英米との協調を図る必要がある。

日本は英米協調の下、軍事力を背景とした瀬戸際外交を展開し、中国の門戸を再び解放しなければならない。

しかし、中国、ひいては満蒙は急迫した情勢でありながら、幣原は対中内政不干渉を貫き、英米協調を拒否している。

これが軟弱外交でなくて、何であろうか。

このように政友会は幣原外交に「軟弱」のレッテルを貼り、議会において度々攻撃するようになる。

革命外交

確かに政友会が懸念している通り、対中外交の基礎は大きく揺らいでいた。

20年代の中国はナショナリズムの目覚めの時代であった。

中国人民の自由と平等を求める声は、帝国主義打倒、不平等条約撤廃の理念となり、革命の機運を高めた。

25年5月30日、上海で530運動が勃発し、ナショナリズムが急進化した。

南部・広州に誕生した国民政府も独立、平等、自由のために第一に不平等条約撤廃を掲げた。

ソ連共産党の協力の下、民衆は組織化され、労働者のストライキやボイコットが猛威を振るった。

民衆運動を背景とした過激な外交を、外交部長代理に就任した陳友仁は「革命外交」と表現した。

緊迫化する中国情勢を前に、英国は度々日本に対して共同出兵を持ちかけているが、幣原は対中関係を重んじ、内政不干渉を盾に応じなかった。

経済的攻撃に晒された英国は為す術もなく守勢を強いられ、1927年には北伐の過程で、漢口・九江の租界を廃止せざるを得なかった。

王道と覇道

革命外交は確かに租界の回収という劇的な効果を生んだ。

だが、27年3月に南京事件を引き起こすに至り、革命外交は列国の干渉を招きかねない危険性があると認識するようになる。

そこで登場したのが、南京国民政府の外交部長に就任した王正廷である。

王はパリ講和会議や山東問題の交渉、北京関税特別会議にも列席した、中国屈指の外交官である。

彼の日本観・外交観は、1923年に朝日新聞に掲載された「王道と覇道」と題するコラムから読み取れる。

王は先ず、以下のように定義する。

「東洋の主義は王道であり、西洋の主義は覇道である」

西洋は覇道の下、侵略主義を採り、弱者を虐げ消滅させ、武力に訴えて戦争を引き起こし、国際平和を乱したと断じる。

一方で東洋は王道の下、平和主義を採り、互いが礼を以て助け合い、いかに発展するかを考え、世界人類の幸せを増進してきたと説く。

確かに覇道をとった欧州の国々は一時的には強大となるだろう。

だが、戦争の結果、国費と人命を失い、国力は疲弊し、国家の運命は危機に陥るのは、歴史が証明した通りである。

「王道を行ふものは衰へず、覇道を行ふものは衰滅に陥る」

第一次世界大戦は覇道の自滅の歴史であり、世界の趨勢が王道に向いていることを示す。

そこで日本に対し、以下のように提言する。

「今日漸く人類平和に目醒めつつある時、西洋諸国の過去の迷夢を追はないやうに注意しなければならぬ」

日本は「永遠の発展」の為に王道を施し、その上で、中国と協力し、親善を図るべきであると説いた。

鉄拳の上のゴム

王は自らの外交観を以下のように語っている。

「外交と戦争とは、実質的に区別があまりない。

外交は平和的な戦争で、戦争は平和ではない外交である」

「夫れ外交とは、兵力の先声にして、兵力なるものは、外交の後盾なり。

兵力を有せずして、而して外交を言ふは、猶跛犬を駆りて狡兎を追はしめ、瞽猫を放ちて黠鼠を捕へしむるが如し」

外交を戦争になぞらえ、国家は実力=国力に見合った「上手な外交」を行うべきであると説く。

翻って中国を見れば、国力は充実しておらず、不平等条約即時撤廃を掲げた革命外交は、明らかに国力に見合っていない。

不平等条約撤廃は、中国が一つ声明を出せば済むのではない。

列国と渡り合うだけの国力を背景としなければ、その外交目標は容易に達成できない。

よって革命外交を継承しつつ、不平等条約撤廃は国内の条件に従い、慎重かつ柔軟に、漸進的に対処すべきである。

その国内の条件とは政治体制を確立し、中国を統一し、国家を建設することである。

王は、外交のためには先ず内政を優先すべきであると説く。

「凡そ事の成敗利鈍は皆その環境と密接な関係を持つのである。

外交の勝利を求めようとすれば、まず内政を整理するのは肝心である。

『物腐りて虫生ず』との古来の名訓があり、これは至言と言うべきである」

また、王は条約の全てが不平等ではなく、撤廃すべきは一部分であるとも主張する。

その一部とは、関税自主権の喪失、治外法権、外国軍の駐留権、租界・租借地、鉄道利権、沿岸貿易権などである。

王は不平等条約撤廃を主張しながら、実際には関税自主権の回復から段階的に解決を図ろうとした。

関税自主権を最重要視したのは、国の財政に関わる重大な権利であり、国家が経済的に自立するのに必須だからである。

その後は治外法権を撤廃し、租界・租借地を回収し、最終的には鉄道や港湾権益も全て回収する。

この方針の下、南京国民政府は連ソ容共路線を放棄し、排外姿勢を改め、不平等条約撤廃は合法的に行うとした。

こうして中国の外交は、不平等条約即時撤廃を強硬的に求める革命外交から、漸進的に解決を図る王正定外交に大転換した。

王は自らは、この外交姿勢を「鉄拳の上にゴムを被せる」と表現している。

不平等条約撤廃宣言

28年6月、南京国民政府は北伐を完了し、中国本土を統一した。

王は革命外交を実行に移す機会であると見て、各国に対して、正当な手続きで不平等条約を改正し、新たな条約を締結すると表明。

1928年7月7日には、一切の不平等条約を撤廃することを宣言した。

宣言はまず、中国との条約で満期となったものは、これを更新せずに廃棄して、新しい条約を締結するとした。

満期に至らない条約は、正当な手続きを経て解除し、新たな条約を結び直す。

そして、満期となった条約で新条約が締結されていないものに対しては、暫定的な臨時弁法を適用して、処理するとした。

臨時弁法は外国人に対し、中国の法律の支配を適用し、納税義務を負わせるというものであった。

この宣言は、直ちに不平等条約を撤廃するという矯激なものではない。

満期となった不平等条約を失効させ、継続中の不平等条約も改正されるべきという、中国外交の大原則を示したものであった。

この原則に則り、日本に対しては1869年の日清通商航海条約と、1904年の追加条約の無効が通告された。

日清通商航海条約は日清戦争の講和条約であり、清国に対する領事裁判権や協定関税などの特権が定められた不平等条約である。

この条約は、1925年10月10日に満期を迎える予定であった。

日本は条約の代替として、北京特別関税会議において中国の関税自主権を原則的に承認する一方、競合製品に対しては七種差等税を導入することで合意に至った。

ところが、この合意は北京・段祺瑞政権の崩壊に伴う関税会議の中断により宙に浮き、そのまま満期を迎えていた。

日本と北京政府は引き続き条約の改定について協議していたが、国民政府は条約の自動延期を認めず、廃棄を宣言した。

田中内閣はこの通告を一方的であると強く非難し、英米と協調してこれに対抗しようとした。

だが、日本の思惑は見事に外れた。

王は中国を取り巻く情勢を、列国が中国における権益を拡大する為に優位を争っていると見た。

もはやワシントン会議で見られたような国際協調は失われて久しい。

そこで王は外交戦略として、交渉しやすい国から個別に外交を開始し、互いに条約改正を競わせることで、列国を離反させようとした。

中国にとって交渉しやすい相手とは、米国であった。

これが見事に的中し、7月25日には米中関税条約が締結され、米国は列国に先駆けて中国の関税自主権を承認した。

米中関税条約は中国外交にとっては画期であり、世界にとっては大きな衝撃を以って迎えられた。

王はこの成功に乗じ、28年末にかけて列国と次々交渉し、英仏ら9カ国が中国との新しい関税条約・通商条約を結んだ。

そして、この動きの中で、日本は最も立ち遅れた。

田中内閣は対中政策の転換を余儀なくされ、南京事件や済南事件の解決を図り、29年6月3日に国民政府を正統政府として承認した。

だが外交は軌道に乗らず、内閣総辞職の際には日本は世界で唯一、中国の関税自主権を認めない国となった。

こうした状況下で第二次幣原外交はスタートするのである。

佐分利貞男とアグレマン

日中関係は田中前内閣時代に発生した済南事件や満州某重大事件により、大きく後退した。

田中内閣末期より関税協定を進めていたが、それもまとまらず、日本は唯一中国と条約改定に応じていない国になった。

中国革命外交の目標は日本に集中し、中国全土に反日機運が高まった。

浜口内閣にとって、交渉の前提として日中国交調整は喫緊であった。

浜口首相は帝国議会において、対中政策の具体策について、正当な満蒙権益を保持することは当たり前だとしつつ

「支那が健全なる進歩的政策に依りまして、庶政の改善と国際的地位の向上とを求むる真面目なる努力に対しては、深き同情を以ってその成功を祈るのみならず、更に進んでは、及ぶ限りこれに対して友好的協力を与ふるの用意があるのであります」

と、演説している。

幣原も、日中関係の調整に最善を尽くす決心を以下のように示した。

「日支両国は結局、政治上においても経済上においても互いに提携し、協調して進むの外ない」

首相、外相ともに日中対等外交の方針を示し、親善の姿勢をアピールした。

更に幣原は、中国の対日不信を解消する為に、ソ連大使に内定していた佐分利貞男を駐華公使に起用する、異例の降格人事を行った。

佐分利は幣原の腹心といえる存在である。

外交官の石井猪太郎曰く幣原の機構の総てであり、その関係を劉備玄徳と諸葛亮孔明であると評している。

佐分利自身、かつて北京特別関税会議や山東権益交渉に従事し、中国の信頼を得ている外交官であった。

大使と公使ではキャリアに雲泥の差があるが、佐分利は幣原の期待に応える為、この難局を買って出た。

しかも異例な事に、幣原は公使のアグレマンを中国側に求めた。

アグレマンは公使任命に先立ち派遣先国家の承認を得る国際礼譲(儀礼的な外交慣行)であり、相手国を尊重するために行われる手続きである。

中国は今まで列国からアグレマンを求められることはなかった。

無論、日本が公使就任前に、中国に対してアグレマンを求めるのも初めての出来事である。

日本のアグレマンは政治的に重大な意味を持った。

アグレマンにより公正な態度を示し、日本は中国を対等に扱うと宣言したのだ。

この対等関係を基礎とし、条約改定を始めとする諸懸案を解決するのが、第二次幣原外交であった。

幣原は佐分利の起用と、アグレマンの要請により、対中宥和姿勢を強く打ち出した。

中国も佐分利の公使就任に歓迎の意を示し、日中親善外交の復活の期待から、反日運動が下火となった。

小幡アグレマン問題

佐分利は着任早々、蒋介石や王正廷ら要人と会談し、友好的空気を醸成した。

その上で、本省と通商条約改定の協議の為に29年11月に一時帰国した。

ところが帰任前の11月29日、佐分利は滞在中の箱根富士屋ホテルで拳銃自殺してしまった。

幣原は突然の自殺に衝撃を受け、佐分利が右翼によって暗殺されたのではないかと考えた。

後に松本清張も、現場の不審な点を指摘し、佐分利の変死をミステリアスに取り上げている。

なお外交官の重光葵は、佐分利が妻に先立たれて孤独感を深めた上に、本省がロンドン会議に忙殺され、日中問題が真剣に検討されない状況が続いた為、思い悩んだ上での自殺であろうと推測している。

事件の真相は未だ闇の中ではあるが、問題となるのは後任の駐華公使であった。

日中間の懸案は山積しており、幣原は早急に後任を選ぶ必要があった。

そこで幣原は、小幡酉吉を起用した。

小幡は駐華公使を歴任し、山東問題解決に貢献したとして当時の中国から勲章まで授与された、中国通外交官の重鎮である。

外交観は幣原と近しく対中宥和的で、佐分利亡き後、これほどまでに適任の公使もいなかった。

幣原は小幡を駐華公使に内定させ、先例に則り、中国側にアグレマンを求めた。

ところが、極秘であるはずのアグレマンが外部に漏れ、日中の新聞紙面に踊った。

その内容が問題であった。

12月5日、福岡日日新聞は、小幡の駐華公使任命を歓迎したが、その理由を以下のように述べた。

「小幡公使がかつて二十一か条問題に関し、袁世凱と直接交渉するにあたり、右手に高く条約原文を掲げ、左手を持って卓を叩き、袁をしてたちまち失色せしめたる」

つまり、小幡が対中強硬派外交官であるので、駐華公使として適任であると論じたのだ。

これが中国紙に転載されると、中国世論は、小幡は対華二十一か条や西原借款に関係した侵略主義の代表者であると糾弾した。

これを煽るかのように、日本の通信社が中国がアグレマンを承認したと誤報し、反対運動は一挙に盛り上がった。

ペルソナ・ノン・グラータ

世論の突き上げを受け、王正廷は小幡のアグレマンに対し拒否する姿勢を見せた。

幣原にとって、中国側の強硬な態度は全くの予想外であった。

アグレマンは国際関係を円滑に進めるための儀礼に属する事柄である。

その拒否は違法ではないが、一国が最適任と認める代表者に異議を申し立てるのは、余程の理由が必要である。

では対華二十一か条は、その余程の理由になるのか。

幣原は、対華二十一か条は国際条約としては正当性があり、何ら拒否出来るだけの理由にはならないと考えた。

しかも小幡は対華二十一か条当時、一公使館員に過ぎず、事務に従事していただけであるから、誤解も甚だしい。

よって、幣原はアグレマンの拒否が日中関係に重大な影響を与える事、将来日本も中国代表を拒否しかねない事を指摘し、積極的に王正廷を説得しようとした。

しかし、アグレマン問題は国民政府内の政治問題に発展した。

外務省は、反蒋介石派の陰謀を観測し、アグレマン問題が王正廷外交と蒋介石を窮地に追い込む為に利用されていると認識した。

王正廷は反蒋介石派と世論に挟まれながら、何とかアグレマン問題をまとめようと、公使館の大使館昇格を条件とすることを提示した。

公使館昇格問題はアグレマンとは何ら関係はないし、幣原自身、昇格問題には漸進的な態度を取っており、この提案に取り合わなかった。

交渉は完全に行き詰まり、中国は小幡をペルソナ・ノン・グラータ(外交上好ましくない人)として、アグレマンを拒否するに至った。

日本側からすれば、この問題で中国を突き上げる事は容易い。

他方、交渉にあたっていた重光葵上海総領事は、幣原に対し、日本側にある程度の妥協が必要だと進言した。

仮に日本が強硬姿勢を取れば、中国のナショナリズムを刺激し、日貨排斥、反日宣伝が燃え上がるだろう。

そうなれば、諸懸案の交渉だけでなく、対中貿易全般に重大な影響を及ぼしかねない。

また、国民政府内の穏健派に所属する蒋介石に政治的ダメージを与えることは、日本にとってはマイナスである。

幣原も条約問題を先に解決すべきだと決心し、対中妥協に踏み切った。

つまり、アグレマン問題を一先ず棚上げし、その代わりに重光を代理駐華公使として全権を与え、対中交渉に当たらしめる事とした。

中国も日本側の譲歩を評価し、重光を歓迎する姿勢を見せた。

小幡に関しては駐独大使に転任させる事が決定し、こうして30年1月にアグレマン問題に決着がついた。

だが、日本の世論はアグレマンの拒否を侮辱と受け取り、政府に対し強硬姿勢を望むとの声が新聞紙面に踊った。

枢密院や議会においても、中国に宥和的な姿勢を示す幣原外交は「軟弱」であると攻撃に晒された。

政友会の松岡洋右に至ってはアグレマン拒否を、強い言葉で非難している。

「帝国の眉間を支那から割られた」

こうして幣原は妥協によって中国の信頼を得る一方、国内においては政治的に打撃を受けたのであった。

日中関税協定

対中交渉を担った重光は、日清通商航海条約のうち関税問題と治外法権問題と切り離し、前者をいち早くまとめようとした。

そこで交渉相手として、外交部長の王正廷ではなく、財政部長の宋子文を迎えることにした。

重光は王正廷の革命外交を、以下のようにラディカルであると忌避している。

「常に輿論の潮流に副い、最急進的政策に出つる」

一方で宋子文は、国民政府内部で最も強力な勢力である蒋介石に近しいと認識していた。

よって、宋と提携することで外交部を牽制し、懸案を日本に有利になるように漸進的に解決していくというのが、重光の戦略であった。

宋にとっても日中関税問題の解決は喫緊の課題であった。

中国国民政府は慢性的な財政難にあり、安定的な財源である関税収入の増徴を必要としていた。

その為には財政から一歩踏み出し、関税自主権回復という外交に進出すべきだと考えていた。

両者の思惑は一致し、30年1月6日には重光と宋の間で、関税問題の交渉が始まった。

この際、日本が重視したのは輸入税率の互恵協定であった。

日中共に経済界から圧力がかかっており、輸入税率の交渉は難航すると思われたが、宋は互恵協定を認め、交渉はスムーズに進んだ。

3月12日、日中は関税協定に仮調印し、枢密院諮詢後、5月6日に正式に調印された。

この協約により、日本は中国の関税自主権を承認し、中国は釐金(内地通過税)廃止と対日債務の整理を約束した。

その上で、日中相互が最恵国待遇を約し、輸出品の5割程度(主要輸出品の綿・水産物等)を対象とする、3年間の期限付き協定税率(雑品は1年間)が設定された。

つまり33年5月3日を迎え、日中の協定税率が満期に至れば、中国は完全な関税自主権を獲得するということである。

日本の商工業者は協定税率の期限について20年以上の長期を求めていたが、中国の国民感情に配慮し、3年に短縮された。

この点、枢密院では「国権の縮少」の指摘を受け、アグレマン問題と絡んで、幣原に警告を発した。

また、新聞においても中小工業への打撃や、債務整理への保障が得られない事から、日本経済への打撃を憂慮する報道がなされた。

そのような問題があったものも、日中双方ともに国内の強硬論を抑えて譲歩し、関税協定が成立したのは大きな前進であった。

関税協定を突破口に、日中親善の時代を迎えるのではないかという期待が膨らむのは当然であった。

だが、肝心の次の一手は中々打たれず、日中関係は暗雲を迎えるのであった。

「支那共和国」呼称

関税協定の締結により日中関係は好転したかに見えたが、中国は日本の中国呼称を問題視し、更なる譲歩を求めた。

そもそも「中華民国」の国号は孫文が提唱し、1912年1月1日に臨時大統領に就任した際に、南京政府の正式名称となった。

その後、宣統帝が退位して清国が滅び、袁世凱が大統領に就任するにあたり、中華民国は正式な統一政府の名前となった。

一方、伊集院彦吉駐清公使は、中国が立憲君主制ではなく共和制を採用したことに不満を抱き、公使として新政府を承認しないと、強硬な姿勢を示した。

更に1913年5月19日には牧野伸顕外相に対し、日本国内においては「中華民国」の国号を用いないように進言した。

その代わりに中国を指し示す言葉となったのが「支那」である。

「支那」は中国最初の統一王朝である秦に由来し、それが西欧では「チャイナ」となり、インドでは「シナ」と呼ばれ、それが日本に伝わった。

そのような地理的名称に近いが、近代日本において「支那」という用語が用いられる時は、アヘン戦争後の脆弱した中国を揶揄するような軽蔑の意味を有するようになった。

また「中国」「中華」の呼称は、四方に対する中心を意味し、この中心から見て日本は東の未開人、東夷に属するとされた。

近代日本は「中華」を中国の尊大を示す言葉として理解し、強い反発を示していた。

それが国号に採用されたことで日本人の間で不信感と蔑視感が強まっていたのだ。

伊集院の具申に閣議も賛同し、政府は国内や第三国との公文上は「支那」を用いることに決定し、天皇に上奏した。

こうして日本は「中華民国」の正式国号を「支那共和国」としてしまった。

国号改称問題

日本が「支那」呼称するのは、英米が「チャイナ」呼称するのとはまるで意味合いが違う。

それは英米は漢字を用いないのに対し、日本は漢字を用いる国だからだ。

中国は日本に対し正式国号「中華民国」を使うよう再三申し出たが、日本は地域を示す「支那」を用いる事に固執した。

中国は日本の正式国号「大日本帝国」を用いているにも関わらずである。

この問題は中国人の間では日中関係の不平等を象徴するものと認識され、ナショナリズムの対象となり、日中懸案の一つとなっていた。

革命外交の中で「支那」呼称への中国世論の反発は高まり、ついには「支那」を使用した公文章は受諾すべきではないとの強硬論まで打たれるようになった。

これに対し日本の新聞紙面は賛否両論で真っ二つとなる。

「中華」呼称反対派は、チャイナは何故良いのかとか、「中華」は列国を夷狄扱いする無礼な用語であるとか、「中華」と呼べば支那を世界の中心と認めると主張した。

一方で「中華」呼称賛成派は、正しい国号を用いることが正しい礼儀であると説いた。

言うまでもなく、日中が対等な関係を築く上で、日本が中国に対し正式国号を使うのは当たり前である。

中国側の感情を無視して「支那」呼称を用いる意味も、何らない。

幣原も中国の意思を尊重し、対日不満を緩和する為に国号呼称改正へ動き出した。

30年10月31日、閣議に国号呼称問題が諮られ、政府部内や第三国との公文書内に「中華民国」の名称を使用する事が了承された。

政府は直ちに外務省を始めとする各省、枢密院、貴衆両院、陸海軍に対し、「中華民国」の呼称を用いるよう通牒を発した。

11月1日、幣原は中国各地の領事館宛に、正式国号を用いるよう訓令し、これが中国以外の公館にも波及した。

こうして、中国人が嫌悪感を抱く「支那」は公的には用いられなくなった。

日本の新聞にも「中華民国」の言葉が多用され、略式国名「中国」も用いられるようになった。

幣原はアグレマン問題に続き、国号呼称問題でも柔軟な姿勢を示し、日中関係の改善に努めた。

だが、国号呼称問題における宥和的な姿勢も、幣原「軟弱」外交であると攻撃を受ける事となる。

後に議会において、松岡洋右はこのように幣原を糾弾したのであった。

「従来帝国は支那共和国と呼んでおったのであります。

それを最近にはわざわざ誰の講義か、誰に頼まれたのか私は知りませぬが、わざわざ中華民国とこれから呼称する。

この呼称の如きは何れでも宜しいようなものではありますけれども、支那なり支那共和国ということは日本語であります。

日本国には中国だの中華民国だのということはない。

これは第一革命後におきまして、我が政府では慎重に協議を致しまして、支那共和国と呼ぶということに決定されたのであります。

それを20年も後にわざわざ支那語である、日本語を捨て、中華民国と呼びませうという、その態度、その心掛けが、これが幣原外交なるものをよく説明していると思うのであります。

支那人でも気の利いた人間は、舌を出してせせら笑っている」

債務一括整理案

3月12日に仮調印に至った関税協定の批准が1ヶ月以上遅れたのは、条約を審査する枢密院が紛糾した為である。

枢密院は国民政府に不信感を抱いており、批准の条件として中国の債務整理と、10月1日までの債務者会議の開催を義務づけた。

問題は、この中国の対日債務にある。

当時、日本の対中債権の大半は寺内正毅内閣時代に北京・段祺瑞政府と結ばれた西原借款である。

この借款は無担保かつ不確実債権であり、しかもその一部は北京政府の兵器借款であった。

国民政府にとって、北京政府の負の遺産を、北京政府が自分たちに向けていた兵器の債務を公に認めるわけにはいかず、王は西原借款不承認を声明した。

一方、日本にとって中国の債務整理は喫緊の問題である。

30年の日本は大恐慌に巻き込まれた上に、銀貨暴落に伴う中国市場の縮小により、空前の大不況に見舞われた。

よって、巨額の対中債権の償還が経済のカンフル剤になると広く信じられていた。

大蔵省や債権者は、中国の関税収入を債務整理に充てるよう外務省を突き上げ、政財官界の圧力は強まっていた。

他方で西原借款を認めない中国にとっても、債務整理は対外信用回復のために解決すべき問題であった。

中国・国民政府は債務を召喚する能力と責任を有する統一政府である。

対外信用が回復して初めて中国に外貨が投じられ、慢性的な財政難は解消されると宋は考えていた。

重光は宋が債務整理に誠実な姿勢を見せたことから、日中関係の障壁である西原借款の承認を強く求めず、債務を一括で整理する方針を立てた。

つまり債務の性質には触れず、西原借款を表面化させずに、国民政府が債務整理に支出できる最大限度まで交渉で近づけようというのだ。

これを受け、宋は関税収入のうち毎年整理基金を積み立て、各国の債務に分配し、1960年を目処に全てを償還する債務整理案を立てた。

宋の整理案を誠意の表れであると評した重光は、整理された金額の一部を中国への経済援助として再投資することすら提唱した。

このように重光と宋の間で練られた債務一括整理案は、日中宥和の象徴であった。

債権者会議

中国現地で債務整理案が進む中、外務本省は中国案に難色を示した。

本省の対中不信は根強く、中国が西原借款を踏み倒した上で、支出額を出してくるのではないかと懸念した。

そこで重光に対し、協議に入る前に具体的な数字を問いただす必要があると訓令した。

重光は、宋の誠意を無下にするかのような本省の態度を、以下のように批判している。

「支那側当局の誠意に対する不信任の意思表示の如く、折角有利に進捗しつつある支那側計画の出鼻を挫くこととなり、本件進捗の全局より見て面白からず」

結果、本省は重光の方針を追認する形となったが、秋頃にはもう一つの問題が浮上した。

それが債権者会議であった。

外務省は関税協定を批准するにあたり、10月1日までの債権者会議開催を約束しており、その期限が近づきつつあった。

これが開催出来ないとなれば、外務省と枢密院の関係は悪化しかねない。

これについて、重光は債務整理交渉を続ける一方で、債権者会議に関しては債務整理の大枠が決まるまでは交換公文により延期すべきだと考えていた。

だが、幣原は枢密院の対立を招きかねない債権者会議の延期を好まず、交換公文を取りやめさせた。

そして9月29日の重光・宋会談を第一回債務者会議とすることで、国内向けの体裁を整えようとした。

これに対し重光は、債権者会議延期の交換公文が交わされない場合、中国に対し債務整理遷延の口実を与えかねないと懸念した。

それは、宋自体の誠意は認める一方、国民政府内には債務整理自体に反対の空気が根強いと認識していたからである。

よって、債権者会議延期の公文を交換しなければ、中国の債務整理に対する義務は軽減し、交渉は遷延されるだろうと考えた。

結局、幣原たっての注文に押し切られ、交換公文は中止され、形式上の第一回債権者会議は開催された。

国際連盟と中国

重光は債務整理資金を中国に再投資することで、日中関係を好転させようと考えていた。

しかしこの再投資案は大蔵省の承諾を得られず、対日宥和的な宋子文の債務整理案も国内外の支持を得られなかった。

そんな中、中国の債務整理のリードしたのは英国であった。

英国は対中鉄道債権の償還を優先させるために、義和団事件賠償金の債権全てを中国に再投資する宥和姿勢を見せていた。

その一方で、日本の無担保・不確実債権(西原借款)整理案については、担保を有する確実な債権を優先すべきであると反対した。

更に日本を憂慮させたのが連盟の動きであった。

中国と連盟の関係は、従来良好とは言えなかった。

国際社会は中国のアヘン問題を注視し、その解決を期待していたが、国民政府はその能力を満たさないと低く評価されていた。

また28年には連盟理事会の非常任理事国にも落選し、中国国内では連盟脱退論が騒がれるまでに至っていた。

しかし、国民政府は連盟を重要な外交的枠組みと位置づけ、アヘン問題解決に積極的になり、関係改善を模索し続けた。

連盟も東アジアの重要な加盟国である中国脱退を阻止すべく、29年に連盟事務副総長や衛生部長が相次いで訪中した。

これにより連盟と蜜月な関係を築くことに成功した中国は、31年1月7日に連盟の経済財政部長と交通部長の招請に成功する。

宋子文は連盟に対し財政再建の援助を要請し、これを受けて連盟は対中援助の事業を次々と起こしていった。

このような英・連盟の積極的な債務整理・対中支援の動きの中、日中債務整理交渉は次第に緩慢になる。

中国は日本に対しても義和団事件賠償金の返還、再投資を求めた。

ところが義和団事件賠償金は既に別事業に振られており、これを変更するには議会の承認を得る必要があった。

ただでさえ軟弱と攻撃されていた幣原外交が、そのような中国への譲歩を議会に認めさせることは困難であった。

また、31年になると後述の満蒙問題を始めとする懸案が続出し、ついには債務整理交渉自体が中断されてしまった。

こうなると、中国も日本の協力をそれほど必要としなくなり、債務整理の熱意も失われていった。

満蒙問題の棚上げ

日中関係は事あるごとに満蒙問題を巡って対立してきた。

幣原も、諸問題では宥和的姿勢を示しつつ、満蒙権益に話が及ぶと強硬姿勢を固辞した。

それでは当事者である王正廷外交部長は、満蒙問題についてどのように考えていたのだろうか。

そもそも中国は、対華二十一ヶ条要求によって結ばれた1915年の日中条約を否認する立場をとっていた。

それは対華二十一ヶ条要求が日本の脅迫により強要されたものであり、条約の根本的効力に疑義を持っていたからである。

よって、この条約で拡張された権益、関東州(大連・旅順)の租借期限や、土地商租権についても、否定的であった。

王も原則として関東州の租借期限は1923年(本来の期限)に満期に達しており、大連・旅順も速やかに回収されるべきだと認識していた。

ただ、不平等条約改正を交渉するにあたり、満蒙権益問題は非常にナイーブな問題であった。

幣原は議会において度々満蒙権益擁護を明言しているが、29年9月5日に中国高官と会談した際も、このように発言している。

「もし関東州租借地の返還とか、あるいは満鉄の回収とかを意味すとせば、我国は絶対に之を問題とすることを得ず、独り現内閣のみならず如何なる政府に於 ても、かかる要求を考慮するの余地なき」

対中宥和を押し出す幣原でさえこのような態度であるのだから、王は満蒙問題の解決が困難であることを改めて思い知らされた。

そこで王は佐分利公使に対し、このように提案した。

「満州問題には一切触れざるを緊要とすべく、商租権の問題は所謂二十一ヶ条に起源し、之に触るること極めて危険なり」

つまり、現実的には満蒙権益の回収は不可能なので、当面は満蒙問題を棚上げし、日中関係を緩和しつつ不平等条約改正を進めようというのだ。

王は満蒙問題を「荊」「蜂の巣」に例えており、交渉を紛糾されるような問題には軽々しく手を出さず、慎重に対処すべきであると考えた。

また、この問題で日本を屈服させるほど、中国の国力もないと認識していた。

佐分利公使もこの方針を諒解し、日中双方は満蒙問題の解決には触れずに、まずは不平等条約改正を進めるという暗黙の了解が成立した。

治外法権撤廃問題

関税自主権を回復した中国は、不平等条約撤廃の第二段階である治外法権撤廃に動き出す。

中国において治外法権撤廃は20世紀初頭から、パリ講和会議、ワシントン会議を通じ、度々要求されてきては否認されてきた。

関税自主権回復に並ぶ、中国人民の基本的要求の一つである。

28年末、王は条約が満期に達したイタリア、ベルギーら5ヵ国と交渉し、中国内地開放と引き換えに、それぞれ条件付きながら治外法権撤廃の合意に至った。

続く29年4月、条約が満期に達していない英米仏ら6ヵ国に対し、30年1月1日を期に治外法権全面撤廃を求める通牒を発し、各個交渉により列国の分断を図ろうとした。

ただ、関税自主権交渉では足並みの乱れた列国も、治外法権撤廃交渉では協調して対処しようとした。

各国は中国の法律や監獄といった司法制度が完備されていないと指摘。

治外法権は地域別に、または商法、民法、刑法など法規別に段階的に撤廃されるべきであり、治外法権全面撤廃は時期尚早であると一致。

中国が司法制度を改善し、外国人居留民の司法権を委ね得る状態になることを条件に、漸次交渉に応じ得るとした。

30年1月1日、通牒した期限を迎え、中国は領事裁判権を有する外国人は一律中国の法令規則を遵守すべきであると声明した。

この声明は治外法権即時撤廃を意味せず、中国は治外法権を認めないという原則を改めて示したものである。

これ以降も、王は各国と粘り強く協議を重ねたが、治外法権をめぐる交渉は難航した。

ついに31年5月4日、王は治外法権撤廃交渉が行き詰まった旨を英米らに通告し、32年1月1日から以下新規則を適用すると発表した。

それは天津や上海などの特殊地域・都市に外国人被告を対象とする特別法廷を設置し、その法廷には外国人の法律顧問を招くという、事実上の譲歩案であった。

英国は6月に上海・天津の期限付き留保を確保した上で、治外法権撤廃に合意した。

これに米国が続き、中国の治外法権は漸次撤廃される運びとなりつつあった。

治外法権交渉と満蒙権益

遡って29年、日本は中国との不平等条約が満期に達した国の一つであった。

だが当時日本とは関税条約すら結んでおらず、段階を重んじる王は、日本との治外法権撤廃交渉を後回しとした。

30年3月、日中関税問題が解決されるや、王は重光代理公使に対し速やかに治外法権撤廃の交渉を開始するよう申し入れた。

これに対し重光は原則異論はないとしつつ、十分な準備を行なった上に開始したいと交渉を遷延する態度を見せた。

この時、日本には英米と協調し、治外法権問題に臨むという道があったはずである。

だが、日本は英米列国とは異なり、中国に他に類例がないほどの重大かつ複雑な利害関係があると考えていた。

そのような認識が、対中問題を巡る日本と英米の協調を困難としていた。

つまり、中国の関税自主権が回復した今、英米にとって次なる関心事は治外法権問題であったが、日本にとっての最大の関心事は中国の債務整理であったのだ。

英米が日本を抜きに治外法権問題で協議を重ねる中、日本は治外法権交渉を回避し、先の債務整理問題を進めた。

結局、日本が中国との治外法権撤廃交渉に臨んだのは、31年3月12日になってからであった。

重光は交渉にあたり、以下の条件を提示している。

まず、治外法権撤廃が漸進的に行われ、居留民の生命財産が保障されること。

そして、内地解放として東三省の日本人の土地商租権及び内地雑居権を認めること。

特に内地開放に関しては、日本は中国において重大なる利益があるとし、最重要視する姿勢を見せた。

3月27日、内地解放に対する王の回答は日本にとって衝撃的であった。

王は内地解放は二国間の関係が平等となって初めて実行されるものだと考えた。

つまり租界・租借地の類が全て還付され、不平等関係が解消されて、ようやく内地開放の交渉に至れるのである。

このような内地開放の条件は、重光ら日本の外交官にとって受け入れ難いものであった。

日本が還付すべき租界・租借地とは旅順・大連を指すからだ。

堅実に行き詰まる

王はあくまで内地開放の条件を示しただけで、旅順・大連の即時返還を求めたわけではない。

両国に不平等関係、その際たる租界・租借地がある限り、内地への雑居の権利は認められない。

それは租界・租借地が外国人の居住を特別に認め、国家主権を侵害するもので、内地開放と両立しないからである。

この主張は筋が通っているが、重光は王の表明を単なる前提条件提示とは受け止めなかった。

治外法権撤廃交渉が満蒙権益の回収に発展しかねないと強い危機感を抱き、本省に以下のように具申した。

中国の国権回収運動はナショナリズムに基づくものであり、これを人為的に阻止することは不可能である。

これを放置すれば、問題は中国全土の日本権益に波及し、日中関係は重大な危機を迎えるだろう。

よって、比較的軽微な蘇州・杭州居留地を還付して友好姿勢を示し、日中の緊張状態を緩和すべきである。

だが、いくら蘇州・杭州居留地が重要ではないとはいえ、日本の譲歩も限界に来ていた。

30年11月14日、国内において幣原外交を支えてきた浜口首相がテロの銃弾に倒れ、療養に入った。

宮中席次から幣原が臨時首相代理を務めたが、政党内閣を標榜しながら党外から首相を起用したことに、与党民政党は動揺した。

しかも31年2月3日、幣原がロンドン条約批准を巡る答弁で失言し、議会が空転して、政権は大きく揺らいだ。

居留地の返還は条約の変更であるので枢密院に諮詢する必要があるが、枢密院を突破する政治力はもはや失われた。

このように、幣原外交は政治的に弱体化し、求心力を急速に低下させていた。

外務省は、国内の政治上、居留地の返還は現実的ではないと悲観的になっていた。

重光は、軽量級の居留地返還すら実現できないならば、日中政策を運用するのは不可能であり、形勢の悪化は防ぎようはない。

このままならば外交は行き詰まり、日中の衝突は免れないと結論づけた。

その場合、日本の国際的立場が有利になるよう、今からでも対策を講じるより外ない。

具体的には日本の満蒙権益の歴史的背景や特殊性、それを排除せんとする中国の排日・抗日の不当行為について、連盟や英米に十分理解させる。

そのような宣伝を行なえば、仮に日中が衝突したとしても、日本の正当性を支持する国は多数を占めるだろう。

重光は以上のような方針を、このように述べた。

「今後の日支関係はわが国際関係の全局上、堅実に行き詰るということでなければならない」

この方針を幣原外相、谷正之アジア局長とも承認した。

幣原外交はもはや日中関係を打開するだけの余裕を失い、ただ堅実に行き詰まる外交へと推移していった。

中原大戦

一旦は棚上げされた満蒙権益問題であったが、満州の情勢は悪化し、幣原外交を政治的に追い詰めていった。

その要因として、まずは中原大戦を取り上げる。

28年に北伐を完遂し、中国統一は一応の完成を見たが、それは表面上に過ぎなかった。

中国の混乱の要因であった地方軍閥が、国民党に帰順する形で、そのまま残存してしまったからだ。

この矛盾に対処すべく、29年になると蒋介石は軍縮、軍備再編、中央集権化を図ろうとした。

これに反発した軍閥は、蒋介石の反対勢力として一致しつつあった。

その面々は山西軍閥の閻錫山、広西軍閥の李宗仁、西北軍閥の馮玉祥であり、これに国民党左派の汪兆銘が合流。

北京に国民政府を樹立し、反蒋同盟を結成した。

30年4月1日、閻錫山が陸海空総司令官となり、蒋介石打倒の軍を起こした。

これに蒋介石が応戦し、南京政府軍と反蒋同盟が徐州において衝突し、中原(中国中心部)を中心に100万以上もの兵力が参戦する、大きな内乱となった。

これが中原大戦である。

ここで重要になるのが、中国東北部、満州に居を構える奉天軍閥・張学良の動向である。

仮に張学良が南京政府軍につけば、北京は挟み撃ちに形となるだろう。

そこで南京・北京両政府は熾烈な張学良取り込みを図った。

つまり、張学良は中原大戦のキャスティングボートを握ったといえよう。

張も洞ヶ峠を決め込み、日和見的に戦局の推移を見守りつつ、日々政治的影響力を増大させていった。

そして9月18日、張は和平解決と称し、南京政府支持を表明して、長城を超えて中原に進撃した。

張が最終的に南京政府についたのは、その参戦条件として提示した巨額軍費と華北の地盤提供を、蒋が承諾したからであった。

奉天軍閥の参戦が決め手となって反蒋同盟は総崩れとなり、10月には蒋介石の完全勝利に終わった。

東三省と中央

この内乱の結果、最大の功労者である張学良の政治的地位は著しく高まった。

一人勝ちとなった奉天軍閥は華北に勢力を伸ばし、国民政府内における影響力を不動のものとした。

また、張も南京政府の陸海軍副総司令官に任命され、国民党全体会議に出席するほど、政府の要人となった。

ただし、これは一面であり、それ以上に重要なのは東三省と中央の関係である。

日本は満蒙権益を擁護するために、満州・東三省の特殊化を図ってきた。

元来、東三省は清朝発祥の地として、また中国東北部の辺境として、歴史的・地理的に特殊な性格を帯びていた。

また、日本は奉天の馬賊に過ぎなかった張作霖を支援し、満州を支配させ、張を通じて満蒙権益を守ろうとした。

ところが、特殊化の鍵であった張作霖は関東軍により退けられた。

後を継いだ息子の張学良は、中国ナショナリズムの高まりの中で政権を維持するために、易幟して中央政府に合流した。

そのような中で、張学良はついに中央に進出し、東三省と中央の関係はより緊密になった。

蒋介石も張学良に対し、東三省の外交・交通・財政の三権を完全に国民政府に移管させた。

これは地方政権に過ぎなかった奉天軍閥が、名実ともに南京国民政府に合流したことを意味する。

つまり、満蒙を特殊化して、中央から独立した軍閥を通じて権益を維持してきた日本の努力が水泡に帰した。

それまで奉天軍閥の頭目との直接交渉で済んだ問題が、中央政府と行わざるを得なくなったのである。

これは満蒙権益問題が、特殊化された一辺境の問題ではなく、中国全体の問題となったことを示すのだ。

満鉄平行線

満蒙権益を見るに、満鉄はその根幹であると言えよう。

日本の満州経営は満鉄を中心としており、満州の特産品を大連港に集中させることで莫大な利益を叩き出していた。

当時の対中投資の3分の2以上が満鉄を通じて満州に投下されている事から、その重要性がわかる。

よって満鉄の経営を悪化させかねない競合線は、満蒙権益の危機に直結するものであった。

日本は奉天軍閥の張作霖を支援し、満鉄の競合線が現れないよう、張を通じて満州の鉄道政策に圧力を加えていた。

ところが軍閥の基礎が固まると、典型的な権力主義者であり機会主義者でもあった張は、満州の平行線建設に乗り出した。

まず27年10月、京奉線(北京ー奉天)の支線として、打虎山から通遼に至る打通鉄道が開業した。

この鉄道沿線には八道壕炭鉱があり、奉天軍閥の重工業を支えた。

次に29年5月、奉天を起点とし、東の海龍に至る奉海鉄道と、海龍から吉林に至る海吉鉄道が開業した。

これにより、東三省の主要都市である吉林は奉天、更には関内へと結ばれた。

日本側はこれら3つの鉄道が満鉄を東西から圧迫する平行線であると抗議したが、張作霖はこれを無視した。

これら3つの平行線は張作霖の中央進出の野心の現れと言える。

いずれの鉄道も経済上・国防上重要であり、張が北京政府の実権を握る足掛かりであったからだ。

よって、満鉄を圧迫する意図はそこまでなく、日本との協議により一部鉄道利権を日本と交換している。

満鉄包囲網

1928年12月、奉天軍閥を継承した張学良は東北交通委員会を組織し、同委員会で三大幹線計画を立案した。

問題であったのは、この鉄道網計画が満鉄の利益を侵害し、満蒙権益に打撃を与える可能性を孕んでいたことである。

満鉄の要は満州最大の貿易港である大連である。

これに対し委員会は京奉鉄道の間にあり、勃海湾に面する葫蘆島の築港計画を立て、大連、満鉄、ひいては満蒙権益を脅かした。

三大幹線はいずれも、この将来の貿易港たる葫蘆島を起点とするが、ここで問題となるのは東西幹線である。

西大幹線は打通鉄道終点の通遼から洮安までの洮通線、洮安からは洮昂鉄道で北満州チチハルに接続し、チチハルからソ連国境付近の黒河まで延伸する。

東大幹線は奉天ー海龍ー吉林から北へ五常、依蘭、同江、ソ連国境綏遠まで延伸する。

この過程で、満鉄の培養線として枝状に敷かれた中国の鉄道が東西幹線に結ばれ、ちょうど満鉄を包囲する形となる。

29年には培養線の連絡が始まり、東西幹線もドイツ資本との借款契約が順調に進み、30年7月には葫蘆島の築港工事が始まった。

これが完成すれば、満州のあらゆる物産は中国の鉄道によって葫蘆島港に運ばれ、満鉄経営に深刻な悪影響を与えることが想定された。

満蒙は日本の生命線

世界恐慌は満鉄にとって大逆風となった。

30年、中国の貨幣である銀価が暴落し、中国鉄道の銀建運賃が満鉄の金建運賃より割安となった為である。

追い討ちをかけるように、満州の主力製品である大豆の需要が日本・欧州を中心に落ち込み、満鉄の減収に拍車をかけた。

これにより満鉄の経営は非常に困難なものとなった。

30年上半期は前年比1千万円の減収であり、株主の配当は前年1割1分から8分まで落ち込んだ。

これが31年には株価が額面割れを起こし、配当は6分まで低落し、創業以来初となる営業不振を引き起こした。

30年12月1日、大阪朝日新聞は「わが満蒙政策、破綻の危機に直面」と題し、満蒙権益の動揺を報じた。

この中で、満鉄の経営不振は、中国が包囲網によって圧迫するからであると論じられ、このままでは満蒙権益は収拾つかないまま破綻してしまうと、危機を煽った。

この日から新聞は連日のように満蒙の危機を喧伝した。

その中には、蒋介石と張学良が包囲網によって満鉄を圧迫する排日方針で一致したなどと真偽不明の情報もあり、国内世論は沸騰した。

これを背景とし、政府の政策に不満を抱く右翼、軍部、野党政友会も、いよいよ幣原軟弱外交への攻勢を強めた。

1931年1月23日には、衆議院本会議において、ある有名な演説が行われた。

「満蒙問題は、私はこれは我国の存亡に係る問題である、我が国民の、我が国民の生命線であると考えている。

国防上にもまた経済的にも左様に考えているのであります。

私らの観る所では、満蒙問題というものは、唯20万の日本人がいるからとか、鉄道を持っているからというようなことが満蒙問題の全てではないと考えている。

これは実に我国の生命線であると、斯様に承知している」

この演説を行ったのは、後に国際連盟や日独伊三国同盟の局にあった松岡洋右である。

「満蒙は日本の生命線」というフレーズは、満蒙の危機を前にして一種の流行語のように国民に受け入れられた。

秘密議定書

ところで、葫蘆島港を起点とする三大幹線は中国人の手によって中国の領土に敷設されるわけだから、何の問題もあるはずがない。

しかし、日本は満鉄の競走線の開発は条約違反であると度々反発している。

その条約上の根拠とは、1905年12月4日、日清善後条約の前交渉として北京で開かれた会議の議事録である。

そこには以下のように記されていた。

「清国政府は南満洲鉄道の利益を保護するの目的を以て、該鉄道を未だ同収せざる以前に於ては、該鉄道附近に之と併行する幹線又は該鉄道の利益を害すべき枝線を敷設せざることを承諾す」

日本は、この議事録内の約束を抜き出し「満洲に関する日清条約付属取極」という名の秘密議定書とした。

そして、秘密議定書を満鉄平行線禁止の法的根拠として、1906年に英米に向けて内報している。

ただ、問題なのは、平行線禁止の約束は日清条約や付属議定書に一切記されていないことである。

件の秘密議定書についても、署名も日付もなく、外交文書としての体裁もなかった。

にも関わらず、日本は満鉄平行線禁止の合意は形成されたと認識し、中国に対してありもしない条約の遵守を迫るのである。

この問題は、満州事変の後にリットン報告書の中で鋭く追及されることになる。

満州鉄道交渉前史

中国にとって鉄道問題は突如として降って湧いてきた問題であった。

中国政府は一連の日本の報道は誤解に基づくものであり、排日方針を固めた等は事実無根であると釈明している。

中国はちょうど中原大戦を終えた状態であり、ようやく国内建設に向けて動き出した段階で、日本と事を構えるような政策を取る必然がない。

三大幹線も満鉄の包囲・駆逐を企図した訳ではなく、満州が発展すれば満鉄と中国鉄道は競合しないはずである。

中国の鉄道政策には排日の意図はなく、不平等条約撤廃要求とは別個のものであり、中国は日本との親善を望んでいる。

このような説明を幣原や林久治郎奉天総領事に繰り返している。

確かに筋の通る説明ではあるが、満鉄問題は単なるビジネスの問題ではなく、満蒙危機の重大化として政治問題に発展していた。

幣原としても満蒙問題をこれ以上放置出来ず、早急に折衝の端緒を開き、満鉄包囲網問題への何らかの成果を出す必要に迫られていた。

そこで以下の交渉方針を示した。

まず、満鉄の経営不振について、これは満鉄包囲網の圧迫ではなく、世界恐慌が原因であると冷静に分析している。

次に満鉄競合線の開発については一切認められないとしつつ、日中両国鉄道の共存共栄の見地から、問題を調整する意思を見せた。

また、実際の交渉に当たっては、中国政府ではなく満州当局と地方的に行い、何ら強要や一方的な要求も行わない方針を示した。

ところで、中国にとっても満鉄問題は頭痛の種であった。

王正廷は不平等条約撤廃交渉の中で満鉄含む問題を複雑かつ重大として棚上げし、漸進的解決を図ろうとした。

しかし、不平等条約解消の順序を踏む王外交は、国民党内部からは妥協外交との誹りを受け、強硬論に突き上げられていた。

特に鉄道問題については、日本帝国主義の侵略の現れであるとの批判が強かった。

そこで王は、東北部の鉄道計画は東北部が単独で行い、日本との交渉も東北当局が直接行うべきだと主張した。

これは満鉄問題を中央とは直接利害のない地方的な問題であるとし、対日外交を張学良に丸投げするということである。

王は満鉄、ひいては満蒙権益問題の政治的複雑さを嫌い、外交部の責任を張学良に帰することで、離脱した。

張学良の譲歩

林奉天総領事は張学良に対し、鉄道問題に関しては新しい要求を提出せず、協議して解決するという幣原の方針を示した。

それを踏まえ、31年1月22日、張学良と木村鋭市満鉄理事との間で、鉄道交渉が開始された。

木村は利害関係を持つ鉄道当事者同士で実務的な妥協案を作成し、それを両国政府が承認する形で、同問題の政治性を消滅させようと提案した。

木村の堅実かつ平和的な提議に対し、張は鉄道問題について可能な限り譲歩し、事態の悪化を防ぐ方針を固めた。

張がこのような宥和姿勢を打ち出したのは、日本との衝突を避けたからったからだ。

華北進出を伺う張にとって、背後の満州で日本との関係を悪化させるのは下策であった。

山東出兵や済南事件、張作霖爆殺は記憶に新しく、日本と衝突すれば満州がどうなるかは目に見えて明らかである。

よって、日本の感情を緩和する為に、鉄道問題を譲歩しなければならないのだ。

この方針の下、以降の交渉は東北交通委員会の高官が出席し、木村と実務当事者間の商議の形式をとった。

満鉄交渉は利害関係者同士が政治の世界から離れ、実務的に可能な範囲で解決を図る姿勢で進んでいった。

内田満鉄総裁

満鉄諸懸案のうち、鉄道運賃や借款契約の改訂などの実務的な話については妥結の可能性があった。

ただ、満鉄平行線禁止問題に関しては、あまりに政治的であり、地方的に処理できる問題ではなかった。

中国政府は平行線や条約に関連する鉄道敷設については、国民政府と折衝すべきであると重光に示している。

満鉄問題が政治的重大化する中で、仙石貢満鉄総裁は体調を崩し、2ヶ月以上病気で職務から離れていた。

31年6月11日、幣原はこの難局に対し、内田康哉を満鉄総裁に起用することを決めた。

内田は第二次西園寺内閣、原内閣、高橋内閣、加藤友内閣の外務大臣を歴任した、大ベテランの外交官であった。

老練な外交官である内田の満鉄総裁就任に満鉄問題の解決に期待が高まり、官界、財界、政界から歓迎の声が上がった。

内田は東北部との交渉では何ら解決出来ないとし、中央政府との直接交渉で解決を図る方針を立てた。

中国もこれに応じ、9月には宋子文財政部長との会見の段取りをつけ交渉に着かんとした。

まさにその時、満州事変が勃発し、満鉄問題は未解決なまま破局を迎えるのである。

満州青年連盟

満蒙の危機は何も鉄道だけではなく、満州に住まう居留民、在満邦人からも発せられた。

在満邦人の多くは満鉄や関連会社の従業員、満鉄と取引する中小業者であり、満鉄と運命共同体にあった。

1928年11月、満鉄職員を中心に満州での生活安定を目的とする民間組織、満州青年連盟が結成された。

当初、青年連盟の活動は前向きかつ穏健であった。

彼らの多くは満鉄創成期に移住した家族の子弟であり、ルーツを満州に求め、土着化、満州人化を目指していた。

その為に満州先住民との相互理解や共存共栄、日華和合を提唱し、積極的に中国語を習得してコミュニケーションを図ろうとした。

ところが29年頃になると、外国の特殊権益を否定する中国のナショナリズムが燃え盛った。

満蒙権益はその特殊権益の最たるものであり、満州に排日運動が波及し、組織的な経済ボイコットが生活を脅かした。

そこにちょうど世界恐慌が重なり、日本の満鉄経営は大不振に陥った。

在満邦人の生活基盤は満鉄にあり、彼らの生活は一挙に困窮した。

このような窮状を在満邦人が訴えても、その声は中央政界には届かなかった。

それは20万の在満邦人を背景とする代議士が生まれなかった為である。

そして、いざ内地に引き揚げようとも、郷里の財産は他の兄弟に分けられており、帰る家がないのが実情であった。

在満邦人の生命財産が危ぶまれる状況下、青年連盟はもはや共存共栄を唱える余裕もなくなった。

31年になると青年連盟は在満邦人の生存権確保を満蒙権益維持と結びつけ、日本の生命線であると喧伝するようになる。

内地遊説

31年7月13日、満州青年連盟は大連新聞社とともに、内地に遊説隊を派遣した。

講演会や陳情により満蒙の窮状を直接訴え、世論を喚起する為であった。

ところが内地の雰囲気はまるで熱がなく、満州は海外のことであると言うようなものであった。

更に遊説隊が衝撃的であったのは、幣原外相の対応であった。

7月20日、満州代表と会見した幣原は、彼らに満蒙における条約上の既得権益擁護を表明した。

その一方で、日本人の満蒙問題に対する観念が日露戦争前の考えであるのに対し、中国人の観念は世界大戦後の新しい観念であり、その根本的思想の開きが外交交渉上の支障になっているとし

「支那人の多くはウィルソン大統領の十四ヶ条約の如き全部知っている。

日本人中にはかかる事を知り居る者は幾人あるか。

諸君もただ徒らに新聞の報道や一部の悪宣伝に迷わされぬよう」

と注文した。

在満邦人にとって、このような幣原の発言は満蒙の現状をまるで認識していないと言うより外なかった。

内地にとって満蒙の危機はあくまで局地的な問題であり、どこまでも冷淡で、差別的ですらあった。

在満邦人は内地に見捨てられるかの危機感を抱き、鬱積した不満から独立を志向する傾向すら表れるようになる。

そして在満邦人の鬱憤の受け皿となったのだ、関東軍であった。

報道の過激化

1931年は幣原外交の岐路であった。

日中外交は債務整理問題や治外法権問題が暗礁に乗り上げ、中国の求める不平等条約改正が進まず、日中関係に暗い影を落としてきた。

また、棚上げしてきた満蒙問題が満鉄の経営不信によって急浮上し、重大な政治問題に発展した。

現地満州では在満邦人の不満が高まり、彼らの期待を背景に、関東軍は満蒙領有の機会を窺っていた。

このような微妙な時期にあって、中国に対する強硬論を打ち続け、世論を煽動したのが新聞メディアであった。

31年1月22日、幣原は議会において国民政府の努力を祝福し、不平等条約の撤廃に前向きな姿勢を示した。

日本の外務大臣がここまで中国を高く評価したことはなく、中国の反応は概ね良好であった。

ところが東京朝日新聞は、この幣原演説を「誤れる対支認識」として、以下のように批判した。

「民国側の企画しつつある計略が、満鉄を死地に陥れる真意と感情から着々なされつつあることは目を覆わざる限り、余りにも顕著な真実である。

今や、対満交渉の開始されんとする好機会に、外相は何か故に、この事実を率直に指摘し、日本国民の名において、民国側の反省を促すとともに、外相の所謂適当にこれを調整するの態度決意を示さなかったのであるか」

この報道からも読み取れるように、メディアは中国と、中国に宥和姿勢を見せる幣原外交を攻撃した。

これは当時の日本を覆っていた漠然とした閉塞感や危機感の捌け口を、メディアが中国に求めたと考えられる。

そして、その格好の材料が対日ボイコットであった。

日貨排斥運動

1920年代後半、ナショナリズム吹き荒れる中国では、武力を用いない抵抗手段としてボイコットが用いられた。

その標的は最初は英国へ、済南事件発生後は日本へと向けられた。

特にボイコットが激しかったのは中国最大の貿易港上海であった。

上海の反日団体は日本の貨幣を所有する商人から資金を徴収し、それを元手に排日運動を繰り広げた。

また、日本人との契約が一方的に反故にされたり、所有物が没収されたり、日本人と取引する中国人業者が制裁を受ける(脅迫や暴行、私刑)ことも日常茶飯事であった。

更に問題なのが、この対日ボイコット、日貨排斥運動の最大の特徴は、運動が組織的であった事である。

この組織を統制、指導したのが、国民政府の基盤である国民党であった。

よって、中国政府は不法とも言えるべき排日経済暴力を黙認し、あまつさえ日貨排斥を直接・間接的に支援する始末であった。

中国のボイコット運動は極めて政治的であり、国民政府は経済断行を交渉の材料に、列国に不平等条約改正を迫ったのだ。

ただし、これが31年を迎えると、日貨排斥運動は下火になりつつあった。

まず、実際に日本人と商取引する商人が、経済活動を阻害するボイコットを嫌い、反日団体と対立するようになった。

また、31年7月に長江で発生した大水害により中国有数の経済都市、漢口が大きな被害を受け、日貨排斥どころではなくなった。

更に、蒋介石や張学良は日本側を刺激しないという方針で一致していた。

王正廷も反日宣伝を「空虚」であり、列国との間に悪感情を生む「有害無益」であるとし、反日運動を取り締まるよう蒋に進言している。

商人や政府、外交部の思惑は一致し、ボイコット運動は政治的には治外法権撤廃運動へ、経済的には国産奨励運動へと穏健的に転化されていった。

31年には後述の万宝山事件により上海で日貨排斥が再燃したが、国民政府は報復的なボイコットを取り締まり、これを沈静化した。

8月には上海の反日団体が抑留していた日貨が全て返還され、9月になると排日運動の終息が予想された。

ところが9月4日、東京朝日新聞は事実に反し、対日ボイコットはなおも緩和されていないと報じた。

対日ボイコットを対日宣戦布告に位置付け、以下のように論じた。

「満蒙問題の解決の如き、遺憾ながらこれが解決は平和裡には期待かれぬかもしれない」

連合通信事件

外交の対中宥和方針に反し、メディアは過激な報道を行い、内地の日本人は強調された中国の反日姿勢に触れることになった。

これは政府、ひいては外務省がメディアの対中報道を統制出来なかったことの証左である。

30年まで外務省は中国で起きた事件の情報を管理し、メディアはその管理された情報をもとに報道を行なっていた。

よって事実が誇張されることもなく、事実に即した比較的冷静な報道が行われてきた。

ところが31年3月2日、ハルビンの連合通信が胡漢民監禁事件の記事を電送しようとし、中国当局に拒否される事件が発生した。

上海の日本人記者団は、国民政府が日本の言論を圧迫したと反発し、幣原に対し外交的解決を申し入れた。

他方で穏便な解決を目指す重光は、連合通信の特派員を更迭する線で沈静化を図ろうとした。

連合通信はこの対処に激昂し、国内の大手新聞社を巻き込んで問題の徹底的解決を迫った。

この問題は9月に連合通信が円満解決を中国当局に申し入れて解決した。

だが、報道機関が言論・報道の自由を掲げたために、中国の情報が外務省の管理の下から逃れ、報道が自立化していった。

秘密外交

31年8月18日、中国青島にて日本の右翼団体の国粋会と中国人が衝突し、双方に負傷者を出した事件が発生した。

これは国粋会が私立の警備団を称し、中国人労働者を威圧したことが原因であった。

このような事件はありきたりと言えるだろうが、問題は外務省の発表より早く東京日日新聞が号外を出したことである。

日日新聞は事件の背景を意図的に無視し、国粋会が中国人に襲撃されたとセンセーショナルに伝えた。

そして、中国人に日本に対する軽蔑の念がある限り、今後青島事件のような事件は繰り返されるだろうとし、以下のように断じた。

「一国に対する重大な侮辱、しかも悪意を以ってその行為を継続することが重大なる国際事件を将来する動因となることは言うまでもない」

このようなメディアに対中強硬論を煽動され、対中宥和を掲げる幣原外交は攻撃に晒され、ますます政治的に後退する。

日本国内の過激な報道は中国側の悪感情を呼び起こし、出先で交渉にあたる重光の立場さえ弱体化させてしまった。

それまで外務省は情報を管理し、対中交渉が国内の強硬論に容喙されないように秘密外交を推し進めていた。

だが、もはやそのような霞ヶ関の秘密外交は許されない。

内閣が衆議院に基盤を置く政党を中心としている以上、世論の支持を得なければ外交は成り立たなくなったと言えよう。

外交は世論に誘導され、逆に世論を誘導する必要があるのだ。

この点、幣原外交は全くの無力であった、というよりは、その必要性を感じていなかった。

それは、幣原が駐米大使館参事官の経験から来ている。

幣原は当時英国の駐米大使であったジェームズ・ブライスに心酔し、その外交観に薫陶を受けている。

ブライスは外交が専門的であり、かつ特殊的であるために、完全な民主化は困難であると説く。

外交問題を判断するには、機密事項を含めた全てを国民に公開する必要がある。

それを公開したとしても、国民の多くは外交知識に必要な歴史や地理も理解出来ず、知識があったとしても国家の利害を大局から判断することは難しいだろう。

よって、外交の信を国民に問うのは不可能なのである。

幣原はこの英国式外交に感化され、外交は専門家たる外交官が担うべきだと考えるようになった。

国民外交

第二次幣原外交は、このような官僚的な外交の最たるものであり、その弱点を露呈させた。

国民の支持を得る努力を怠り、政治基盤を弱体化させ、それが為に外交に支障が生じる悪循環を生んでいた。

外交官の河村茂久は外務省の世論誘導の必要性を実感し、このように国民外交を説いている。

「国民の声を聴け、国民と共に生きよ」

外交評論家の清沢洌も幣原外交には厳しい目を向ける一人であった。

清沢は「激動期に生く」において、現代の外交を以下のように論ずる。

「外交は国民性の線に添わねばならぬと考えている。

即ち外交の任務はその国の国民性と、国際政治の間に横たわるギャップを埋めるにある」

その上で外交を行うには、国民性がどこにあるかを見極める必要がある。

清沢曰く、日本人の国民性は「実益よりもまず抽象的な面目を重んずる」点に特徴があり、これは利害に敏感な英国の国民性とは大きく異なる。

これを踏まえて幣原外交はどうであろうか。

清沢は幣原外交を大局的には全くの正道であり、幣原を政策と主張を固守する勇気もあると高く評価する。

しかし実際の政治家としては、厳しい評価を下さざるをえまい。

「彼はこの日本人の国民性に無頓着すぎた。

彼は国民精神を置き去りにして、一人で進んだ。

日本人の国民性の現状が国家百年の将来のために、どれだけ望ましくないにしたところが、その是正は教育の仕事で、外交としてはこれを土台とせねばならぬ。

常に後ろを振り返りながら、国民に追いつくのを待つべきであった。

それがためには時々、この国民のプライドと不満を満たす手段をも取るべきである」

東亜全局の動揺

幣原外交攻撃の最前線にあり続けた松岡洋右は「東亜全局の動揺」の中で、その外交の問題点を指摘している。

松岡は現代の外交について、一般の人は良く判らないと考え、外交官が外交を専売品であるかの如く扱っているが

「外交といえども奇術でもなければ軽業でもない。

普通の人の判らない、真似の出来ないと言うような、そんな特別なものではない。

常識を超越した外交などと言うものは有り得ない」

また、現代の外交は、かつての帝国時代のような領土欲を満たす政治的側面は薄れ、国民の経済生活を基調とするようになった。

外交が求めるのは国民の生活の道であり「大和民族の生存権」である。

ところが幣原外相は議会で経済問題を問われた際、自分の知ったことではないと答弁した。

そして、外交の目的を、海外における日本人の活動の自由と機会均等を確保するにあると述べた。

「中学の教科書にでも書いてありそうな、そんな抽象的な漠然とした頭で外交をやっておられるから、現在我が国の外交は殆ど国民生活と没交渉であり、また国利国権が一向に伸長されない、否日々縮まりつつあるのである」

今や経済活動は日本国内で完結するものではない。

米ニューヨークの株式市場が日本の株式市場に響くように、グローバルなのである。

「孤立出来ぬ以上は、外交はあたかも空気の様のようなものであって、嫌でも応でも毎日これを戦わねばならない」

にも関わらず、幣原外交は「ただその日々の国際的事務を処理しているに過ぎない」のだ。

このように外交を論じた上で、幣原外交の秘密性を攻撃する。

今日の外交は少数の官僚が秘密裏にある方針の下、国民を引き回すようなものではないし、そのような外交は通用もしない。

「国民と共に外交を行う、換言せば、国民外交を行うというよりも外に致し方ないのである」

ところが外務省は中国との交渉がどこまで進んでいるか何ら発表をしないし、幣原外相も議会で具体的な説明を避け続ける。

松岡はこれを「秘密官僚外交の伝統」であると喝破する。

「独り国民と没交渉で有り、国民の意向など一切お構いないのみならず、既に行った交渉の内容すら殆ど国民に知らしめようともしないのである」

正確な情報がなくて、どうして物事を批評できるのか。

「我々は自分の国の政府が相手国に向かって言うていることすら、これを自分の国の政府から、知らしてもらうことが出来ないで、相手国政府から教えてもらわねばならぬということは、余りにも情けない、否馬鹿馬鹿しいではないか。

国際事情なり、事件の真相なりを国民に知らさずして国民と共に外交を行うといっても、それは到底出来ない相談である」

松岡にとって、外交を国民に向かって公開することは、奇術でもなんでもなく、常識であった。

間島問題

外務省は報道の統制に失敗し、新聞は際限なく中国の排日を報じ、対中強硬世論は醸成されていった。

そのような中で万宝山事件と中村大尉事件という2つの事件が国内世論を激昂させ、日中関係を緊迫化させた事はよく知られる。

先ず、万宝山事件を説明する前に、その前提である間島問題を取り上げる。

間島とは中国・吉林省東南部にあり、朝鮮東北部と接する地域である為に、国境を超えて、朝鮮人の流入が激しかった。

1909年、中国・朝鮮の国境を定めるために、間島に関する日清協約、通称間島協約が結ばれた。

この協約により、間島の雑居地に住まう朝鮮人に居住権や土地所有権が認められた。

その一方で国籍如何に問わず、清国の法律に従い、徴税などの行政上の管理を受けることとなった。

問題が複雑になるのは、1910年に日本の韓国併合である。

日本は朝鮮人を形式上に日本国の臣民(選挙権を有さない半島籍)とし、朝鮮人の国籍を強制的に変更した。

その結果、間島に住む朝鮮人も日本人となり、日本の法に従うこととなった。

つまり、中国にとって間島の朝鮮人は治外法権の対象となったのだ。

更に1915年、南満州及び東部内蒙古に関する条約が締結される。

この条約により、日本は間島協約が適用される朝鮮人はいないと解釈し、間島協約の無効を主張した。

これに対し中国は、間島は特殊地域であり、そこに住む朝鮮人が居住権・土地所有権といった特殊な権利を有する以上は、特殊の義務を負うものだと反論した。

こうして間島協約の有効性、ひいては間島の朝鮮人の法的地位をめぐり、日中は激しく対立した。

二重国籍問題

日中が対立する中、間島の朝鮮人の数は急増する。

これは日本が朝鮮の農民から土地調査事業と称して土地を収奪し、土地を失った朝鮮人農民が押し寄せた為である。

間島の人口50万人中、朝鮮人は38万にまで膨れ上がり、中国人を数的に圧倒した。

ところで間島の朝鮮人のうち、中国籍を取得し、帰化する者がかなり出てきた。

これは中国の土地を獲得する為であり、生活の便宜上という理由が強かった。

だが、彼らが中国国籍を獲得しても、日本は間島統治を維持するために脱籍を認めず、二重国籍となる朝鮮人が続出した。

一方で、生命財産の保障を得るために日本国籍に留まり、日本政府に対して法的地位を明確にするよう求める朝鮮人もいた。

日本政府はこの要求に対し、曖昧な対応に終始した。

もし、間島の朝鮮人を日本の臣民として扱った場合、中国が彼らを国外追放することを恐れたのである。

間島朝鮮人の法的地位は常に矛盾の中にあった。

そんな矛盾の人々が、中国国籍を取得し、雑居地以外に土地を有し、なおかつ日本の治外法権下にあるのだ。

いつしか中国人は間島朝鮮人を日本の侵略の尖兵であると警戒し、日々緊張が高まりつつあった。

万宝山事件

30年、共産主義に感化された朝鮮人が急増し、間島の治安は悪化した。

吉林省当局が徹底した取り締まりを行った結果、一般の朝鮮人が間島を離れざるを得なくなり、吉林省・長春に避難した。

31年4月には長春近郊の万宝山の地主と借地契約を交わし、本格的な入植が始まった。

5月25日、万宝山の朝鮮人は水田開発に必要な水路の工事を開始した。

これに対し付近の中国人農民が、耕作地が水路によって分断され、田畑を放棄せざるを得なくなったと中国当局に訴えた。

また、借地契約自体に不備が多く、県政府の許可を得ていないものもあった為、当局は朝鮮人農民に工事の中止を勧告した。

これに対し朝鮮人農民は契約の有効性を無視し、農期が迫っていることを理由に耕作を強行した。

中国当局は契約無効の土地の耕作を阻止しようとしたが、朝鮮人農民は日本総領事館を頼り、万宝山で朝鮮人を護衛する日本の武装警官と中国人農民が対峙する事態となった。

中国人農民が団結する中、現地では日夜、夜襲が警戒され、犬の遠吠えや銃声が聞こえると、威嚇射撃をするまでに緊迫化。

ついには7月2日、中国人農民が水路破壊を強行し、日中双方が発砲する事件が起きた。

この時、幸に死者は出なかったものの、日中両国は万宝山事件が第二の済南事件となることを恐れ、円満解決を望んだ。

結果として7月11日に水路は復旧され、通水に至った。

朝鮮事件

7月2日、朝鮮日報は万宝山事件について「多数同胞危急」の見出しの号外を発した。

その中で、中国人と朝鮮人同胞が衝突し、朝鮮人農民が多数殺傷された。

これを受けて長春の日本官憲は出動し、軍隊も戦闘準備中にあると報じた。

これが事実と異なる報道であることは先に見た通りである。

3日にも日中官憲が衝突し、武力衝突に発展する恐れがあるとの号外が出た。

なお、この間に万宝山事件の背景(借地契約や工作の強行)に関する報道は一切なく、センセーショナルな誤報が朝鮮全土に広がった。

朝鮮人の怒りは頂点に達し、朝鮮各地で華僑が襲撃される事件が多発した。

3日には仁川で衝突事件が、4日には京城で殺傷事件が発生。

5日の平壌では暴徒化した朝鮮人が中国人街を襲撃し、死傷者数十名の大惨事となった。

事態がある程度沈静化した7月14日、朝鮮日報特派員の金利三は誤報に対する謝罪声明を新聞に掲載した。

その中で、万宝山事件の背景を事細かに説明した上で、事件の真相を暴露した。

まず、朝鮮人農民の死傷云々は日本側が凶事を誘発させるために流した虚偽の宣伝である。

また、現地の朝鮮人農民は闘争の手段に利用された。

つまり日本人の官憲に万宝山の開墾を強要されて、今現在も自由に土地を離れられないのだ。

そして、日本総領事館の使嗾を受けて誤報を流し、朝中両民族の衝突を招いたことを謝罪した。

これが果たして何処まで正しいかは不明であるが、日本当局を真正面から批判する危険を犯した金は、翌15日に射殺される悲劇にあった。

安内攘外

中国側は万宝山事件、特に華僑に直接の被害が出た朝鮮事件を深刻に捉えた。

中国は万宝山事件について、朝鮮人には責任はなく、日本側が朝鮮人を強要し援助していたのが実態であると見た。

朝鮮事件については、日本は大量の虚偽の宣伝を行なって朝鮮人を扇動し、官憲は朝鮮人の暴動を放任したと認識した。

これが意味する所は、中国人が怒りに任せて朝鮮人に報復に出た場合、日本は朝鮮人保護を名目に事変を起こす構えということだ。

つまりこの2つの事件は、日本が中国当局の能力不足を口実に、軍隊を派遣して満蒙を侵略しようとする陰謀工作なのである。

中国人民は驚き、怒り、間島の朝鮮人農民が日本の後援を受け、大々的に満州に侵略してくるのではないかと懸念した。

それでは中国側が取るべき道は何なのか。

蒋介石は朝鮮事件について、排日運動は日本に口実を与えることになるので、張学良に厳重に取り締まるよう命じている。

その上で、8月13日、日中関係緩和のために小幡のアグレマン拒否を取り消し、知日派として知られる蒋作賓を駐日公使に任命した。

日本も蒋のアグレマンを承認し、重光を正式に駐華公使とすることで、これに応じた。

だが、これは表向きの宥和姿勢である。

本来、中国は日本に対しあらゆる外交懸案に強硬姿勢を示し、不平等関係の解消を強く迫るべきなのだ。

蒋は、日本の不法行為を世界に知らしめ、広く国際支持を集め、徹底した排日に転ずる事を考えた。

これを外敵を排除するという意味で、攘外と呼ぶ。

だが、それよりも先ず、中国国内を固める必要がある。

反蒋介石派は広州に国民政府を樹立しており、軍閥や共産匪賊の活動も活発である。

これら内乱を平定し、国内を統一し、国力を回復することを、安内とよぶ。

7月23日、蒋介石は攘外の為には、まず安内が必要であるとの安内攘外方針を打ち出し、国民政府内に徹底した。

安内までは日本に対しては臥薪嘗胆、軽挙妄動を慎み、一切の侵略の口実を与えないことが肝心である。

外交面においては極力平静を装って、日本の侵略政策を牽制し、徹底的に衝突を避けるべきなのだ。

王も自らの外交を「退廃」「軟弱」「妥協」と自認しつつ、安内攘外の方針の下、日本との緊張緩和を図ろうと努力した。

中村大尉事件

31年6月27日、参謀本部の中村震太郎が従者とともに東部内蒙古を旅行中、現地当局に捉えられ、殺害された。

現役将校が中国兵に殺害されるなどは、前代未聞の大事件である。

事件の背景は以下である。

31年頃、陸軍は秘密裏に満州奥地に軍人を派遣し、身分を偽り、地質調査や鉄道視察と称して兵要地の偵察を行なっていた。

中国側はこれを察知し、謀略を嫌って、東部内蒙古一帯に匪賊が横行しているとの理由で、旅行区域制限とした。

中村大尉もその一人であり、日本の官吏の身分証明書と偽りの身分証明書の2つを持参して、吉林省洮南西部の禁止区域に入った。

6月25日、禁止区域を旅行中の中村大尉一行が中国軍に逮捕された。

取調べの結果、所持品から中村大尉をスパイであると断定し、また禁止薬物であるヘロインも見つかった。

27日、中村大尉が逃亡を図ったとして、中国兵は大尉を殺害。

この際、現場判断で事件の証拠が隠滅されたために、証拠を確認するのに時間がかかる事となった。

日中関係を悪化しかねない重大事件につき、当初は報道も差し止められ、事実確認や賠償交渉が進められた。

一方、政情変化を満蒙領有の契機と見ていた関東軍は、中村大尉事件をその適用と考えていた。

8月2日、関東軍は交渉を担っていた林奉天総領事に対し、以降の交渉は陸軍が担うので、歩兵一個小隊で現地調査を行う旨を申し入れた。

これに幣原は、交渉の主導権は総領事館に置き、調査のための兵力使用を行わないよう訓令した。

陸軍中央も幣原と歩調を合わせ、中国側の謝罪と賠償、責任者の処罰の線で解決する旨で一致し、関東軍の意見を採用しなかった。

ただ、事件の記事が解禁されると報道が加熱することは避けられなかった。

「暴虐の非を正せ」「支那側に一点の容赦すべきところはない」と言った論調が踊り、世論を扇動した。

9月8日には東京朝日新聞が、以下のような軍事発動を期待する旨の主張すら展開している。

「今日現実に待望さるることは、原則や外交の大道ではなく、現実にどう行ったらいいかである」

事件自体は9月になって中国政府が事実を認め、陳謝することで解決したが、日中関係に大きな悪影響を与えた。

森恪の渡満

もはや何が起きてもおかしくないような危機的な雰囲気の中、31年7月16日に森恪は政友会代議士を連れ、満州の視察に出た。

視察は朝鮮から奉天・ハルビン・大連・間島まで、1ヶ月近くにわたる長旅であった。

その中身も在満邦人や関東軍高官との交流に始まり、中国の経営する満鉄平行線や万宝山事件の現場の視察など、濃密であった。

帰国した森は満蒙権益の危機について、度々講演を行なっている。

その中で森は、現在の日中関係について、このように論ずる。

「今日は日本が如何に協調し譲歩するも既に日支関係を合理的に展開することは不可能の状態に陥っている」

満蒙の現状も、このまま推移すれば日本は手放すことになるだろう。

中国の排日により、在満邦人の経済活動は脅かされ、日本人が手がけてきた鉄道、鉱山、電気事業は中国に接収されつつある。

外交上の抗議も一切効果がない。

「暴力団を相手に協調外交、妥協外交、フロックコートを着て馬賊に対するような国際正義外交を、日本が一方的にやってみたところで何の効果もない。

所謂外交では今や全く絶望状態なのである」

それでは事実上、交戦直前の状態にある満蒙の現状を打開する為にはどうすれば良いか。

「我存立権は日々土崩瓦壊してゆくのみである。

この状態を挽回し日支関係を合理的位置に取り戻すためには国力の発動に待たねばならぬと確信す」

森は日本が決意すれば、満州は静謐を取り戻し「世界平和の発祥地」となりうると説いてみせた。

なお、この「国力の発動」について具体的には言及しなかったが、その後の推移から森は軍部との提携を噂されることになる。

最後の努力

確かに、万宝山事件や中村大尉事件は重大であり、森の説いたように外交の行き詰まりから武力衝突は必然かもしれない。

だが、日中間で交渉の局にあたっていた人々は、この段階に至っても懸命な外交努力を行なっていた。

日中最大の懸案である満蒙問題について、国民政府は日本との直接交渉によって妥結を図ろうとする。

9月11日、宋子文は重光に対し、満蒙問題について空気を緩和し、協調の機運を醸成するために、大連行きを提案した。

この話が進み、重光、内田満鉄総裁、宋の三者会談案が練られつつあった。

張学良も安内攘外方針の下、不測の衝突が起きないよう日本との緊張緩和に最大限の努力を払っていた。

後に関東軍やメディアが騒ぎ立てたかのような軍事衝突を必然とする緊張は、少なくとも9月になっても訪れていなかったと言える。

そして1931年9月18日を迎え、2年近く続いた第二次幣原外交の努力は突如として全て水の泡と化すのであった。

参考書籍

幣原喜重郎とその時代 岡崎久彦
幣原喜重郎と二十世紀の日本 服部龍二
人物叢書-幣原喜重郎 種稲秀司
幣原喜重郎-国際協調の外政家から占領期の首相へ 熊本史雄

man

幣原喜重郎の基本的な評伝。

近代日本外交と死活的利益 種稲秀司

man

満蒙権益を死活的利益と位置付ける幣原外交について。

ワシントン体制の変容と幣原外交―1929~1931年― 西田敏宏

man

第二次幣原外交について。

浜口雄幸と永田鉄山 川田稔
昭和初期浜口雄幸の政治構想 川田稔

man

浜口雄幸の対中外交観について。

評伝 森恪 日中対立の焦点 小山俊樹
森恪の中国政策構想–満州事変前後を中心に 小林 昭平

man

森恪の対中外交観について。

満州事変から日中戦争へ 加藤陽子

man

日本が満州事変に至るまでの経緯に詳しい。

満州事変の衝撃 中村勝範 編著

man

民政党の対中外交観について。

満州事変と対中国政策 小池聖一
一九二〇年代における幣原外交と日中関係 于紅

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第二次幣原外交期の対中交渉について。

王正廷外交について 高文勝
王正廷の対日構想 高文勝
治外法権撤廃と王正廷 高文勝
王正廷外交と租界・租借地の回収 高文勝

man

中国から見た王正廷外交について。

満鉄併行線禁止規定の存否と法的効力について 兒嶋俊郎
満州事変直前の東三省問題 野村浩一
東北張氏政権の鉄道政策と日満関係 高韻茹
満州事変前における在満日本人の動向

man

満鉄問題と在満邦人について。

「万宝山事件」と国際関係 : 米国外交官などが見た「事件」の一側面 長田彰文
<論文>「間島協約」と朝鮮人の「国籍」問題 白榮勛
万宝山・朝鮮事件の実態と構造 菊池一隆
万宝山・朝鮮事件における日本側報道とその特色 菊池一隆

man

万宝山事件と間島問題について。