1921年10月22日 新聞紙上にて柳原白蓮が夫への絶縁状を公開

注釈

大正時代を代表する伯爵令嬢、柳原白蓮の人生は波乱万丈であった。

柳原前光伯爵と芸者の間に生まれた白蓮は、北小路子爵家との政略結婚をさせられた。

だが、間も無く夫婦仲は冷え切り、白蓮は家を飛び出た。

すると今度は、白蓮の知らない内に25歳上の九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門との政略結婚となった。

伊藤は伯爵令嬢を家に迎えるにあたり失礼があってはならぬと、福岡に赤銅御殿を建てた。

また、歌人であった白蓮の詩集出版費用も負担する等、財を惜しまなかった。

しかし、伊藤は妾を多く抱えており、二人の結婚生活は上手くいかなかった。

そこに現れたのが大陸浪人・宮崎滔天の長男にして新人会創立メンバーの宮崎竜介である。

白蓮と竜介はたちまち恋に落ち、ついには竜介の子を宿すに至った。

当時、日本には姦通罪があり既婚女性が配偶者以外の男性と性交渉を持つのは違法であった。

その時代にありながら、白蓮は自らの生き方を自らで選ぶ事にした。

この日、白蓮は大阪朝日新聞夕刊紙上に以下の絶縁状を公開した。

絶縁状は「私は今あなたの妻として最後のお手紙を差し上げます」の出だしから始まる。

白蓮は伊藤との結婚が、当初から愛と理解が欠けていたと赤裸々に告白しつつ、今幸いにして一人の愛する人が与えられたと記した上で、絶縁状をこのように締めくくった。

「私は金力を以て女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久に袂別を告げます。

伯爵令嬢が姦通罪を犯した上に、安定した生活を捨てて愛の道に走った事件は、日本に大きな衝撃を与えた。

白蓮の行動はその境遇への同情から支持を集めたが、華族の醜聞はあまりにもメガティブであった。

右翼が白蓮事件を騒ぎ立てる中、柳原家は二人の仲を割いて白蓮を幽閉した。

白蓮と竜介が結ばれるのは2年後の事になる。

一方、絶縁された方の伊藤は、白蓮を姦通罪で告訴することもなく、潔く円満離婚を受け入れた。

これは白蓮が大正天皇の従妹にあたり、それを姦通罪で訴えるなど、あまりにも恐れ多いからであった。


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