統帥権と山県有朋

コラム

山県有朋と国民軍構想

明治時代初期、維新政府は国軍と呼べるような軍隊を持っておらず、兵士たちのアイデンティティは藩にあった。

これを憂慮したのが、長州藩の下級武士出身で、薩長連合軍の指揮官として維新に貢献した山県有朋である。

山県は、日本の国家的独立とは軍事的な独立に他ならず、近代的な国軍の創設が急務だと考えた。

一方で、山県は欧州の軍事制度を見聞する中で、大衆の政治的台頭を非常に憂慮していた。

山県は世界の大勢は合衆政であると認識し「英国も政体すら今日に至りては王威あるいは地に堕ぬまでにて」と、19世紀の欧州社会秩序の崩壊に危機感を感じている。

このような認識の下、構想したのが国民皆兵であった。

山県は長州藩の非正規軍である奇兵隊に所属していた。

奇兵隊は武士が5割に対し、農民が4割、部落出身者らが1割からなる混成部隊であり、どこにも行き場のない荒くれ者の集まりであった。

しかし、藩が決死防戦を訴えて結成した部隊である分、奇兵隊の誰もが共通の目標を持ち、団結力は強かった。

職業軍人である武士だけでなく、様々な階層の出身者からなる軍事組織により国民の一致団結を図る。

これこそが山県が思い描いた国民軍の構想であった。

しかし、国民皆兵は、それまで軍事を独占していた士族(旧武士)の反発に遭う。

兵制改革によって既得権益を奪われるという士族の危機感は、1869年の大村益次郎の暗殺に繋がる。

1870年には不平士族が西郷隆盛を担ぎ、兵を率いて上京する噂も立った。

事態収拾を模索した山県は西郷と会談し、西郷は天皇護衛の御親兵(後に近衛兵に改称)設置で譲歩した。

この御親兵の大半は西郷支持者の薩摩藩出身だった。

山県は御親兵設置を認めつつも「御親兵である以上もはや藩臣であるはずはなく、まさかの場合には薩摩藩主に弓を引く覚悟がなければならぬ」と釘を刺した。

だが、天皇の軍隊として設置された御親兵の兵隊達は旧藩士の意識が強く、統一を欠いていた。

また、各地で起こる士族反乱と御親兵が結びつき、内部分裂を起こす危険性すらあった。

それ故に、特権を士族から剥奪し、政府が主導となって国民皆兵と近代的軍政による国民軍を建設することは急務となった。

国民軍の誕生

1873年1月徴兵令が発令し、国民皆兵が実現すると同時に、山県は初代陸軍卿に就任する。

既得権益が侵されると考えた士族の不満が高まり、西郷は突き上げられた。

そこで、西郷は士族の目を海外に向けるために征韓論の立場に立ったが、これが政変となって西郷は敗れ、鹿児島に戻った。

この際、西郷とともに下野した江藤新平が不平士族を率いて佐賀の乱を起こし、一挙に情勢は緊迫化した。

平民達も徴兵令に抵抗し、戸籍法の不備をつき、徴兵忌避者が相当数に上がった。

1877年、ついに士族の不満は爆発し、西郷を指導者とする近代最大の内乱、西南戦争が勃発した。

この内乱は、士族からなる職業軍人の精鋭部隊と、徴兵によって寄せ集められたアマチュア部隊との対決であったが、蓋を開けてみれば政府軍の勝利に終わった。

この要因としては歩兵の火力が飛躍的に強化されたことが挙げられる。

19世紀はライフルの登場という軍事革命が起きていた。

命中精度、射程ともに急速に向上したライフルにより、陸上戦闘は火器を装備した歩兵が勝敗を握るようになった。

その結果、武士階級だけで軍隊は維持出来なくなり、大量の非武士身分出身兵士が戦場で大きな影響力を持つようになっていた。

身体が強く、規律を守れれば、武士だろうが町人だろうが農民だろうが関係ない。

西南戦争は、近代戦には徴兵による国民軍が必要だということを証明してみせた。

竹橋事件

西南戦争は平定されたが体制は安定せず、不平士族は藩閥政府の大物、大久保利通を暗殺した。

さらに1878年8月23日の竹橋事件は体制側にとって衝撃的事件であった。

竹橋事件とは、皇居東北の竹橋に駐屯していた近衛大隊が突如として大隊長を殺害した反乱である。

反乱軍は天皇に直訴すべく赤坂に向かったが、政府は不穏な動きを察知しており、皇居の守備を固めていた為、直訴は近衛連隊に阻止され、反乱は鎮圧された。

反乱の直接の原因は論功行賞の不満である。

西南戦争は国家財政を大きく圧迫しており、政府は経費節減を余儀なくされていた。

この為に、西南戦争の論功行賞は下士官、兵卒に行き届かなかった。

反乱を起こした竹橋の近衛大隊は西南戦争で最も戦功をあげた部隊であり、その不満は反乱を起こすほど膨れ上がっていた。

反乱自体は小規模なものであったが、問題は皇居を警備する近衛部隊の反乱ということである。

これは陸軍、ひいては体制を揺るがす一大事であり、山県はこの事件に衝撃を受けた。

これを放置すれば、君主制の危機に軍隊が関与する事態に発展する恐れがある。

既に欧州では、フランスが普仏戦争に敗れ、パリコミューンが王政打倒の革命を起こした際、政府の軍隊がこれに加担した前例がある。

民衆のイデオロギーが軍に波及し、軍が王政に牙を剥くのは最悪の事態である。

しかし国民軍を創るためには、民衆の動員は不可欠である。

そこで山県がいくつかの防衛策を作り上げた。

軍人訓戒・軍人勅諭

1878年10月12日、山県は軍人の精神的な行動規範を定める為に、軍人訓戒を起草し、全軍に頒布した。

その内容は、軍人精神の三要素、忠実・勇敢・服従をどう実践に移すのか、その心得を記したものである。

当時の陸軍は士官を中心に、政治談議を好む者が多かった。

そこで軍人訓戒は以下のように政治活動を禁止した。

「武官にして処士の横議と書生の狂態とを擬してはならない」

「朝政を是非し、憲法を私議し、官省などの布告諸規を議するなどの挙動は軍人の本分と相反する」

これにより、自由民権運動のような政治的な影響が軍に波及することを防ごうとした。

更に軍人訓戒は身分の平等も説いてみせた。

「何種の人民にこだわらず軍籍に列するを得るに至たるは三民に在りても慶幸の至りなり」

士農工商や幕藩の家臣団意識を引きずる将校や兵卒に対し、幕藩体制はなく、現在は上下も貴賤もない四民平等であると諭した。

こうして。国民軍の構成員としての軍紀・軍律を守らせようとした。

このように軍人訓戒によって、大元帥である天皇が軍隊を直接指揮するという考えを軍人達に徹底し、軍人の内面的規律を確立しようとした。

しかしこれでも不十分であった。

政府が国会開設を受け入れないことに抗議し、兵士が宮内省の前で諫死を試みる事件があった。

更に谷干城、曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼ら四人の陸軍将校が政府の官有物払下げに抗議して、明治天皇に上奏文を送る事件も発生した。

軍の政治関与は軍人訓戒だけでは止められなかった。

そこで山県は軍人訓戒に関わった哲学者、西周に依頼して、1882年に軍人勅諭を起草させた。

これは、軍は天皇に直属して忠誠を尽くすものであり、政府は天皇の政府なので軍人はその政府の命令に服従すべきある。

故に軍人の政治関与は避けるべきであるという考えを、勅諭という形で訓示したものである。

軍人勅諭は異例の文章であった。

山県は三条実美に対し、以下のように述べている。

「陸海軍に被下勅諭は、陛下親から軍隊を統べ、特に将卒に訓告を垂れ玉う者なれば、他の詔勅と均く太政官の宣奉を経て施行せらるべきに非ず」

つまり、国務大臣が副署することで責任を大臣が担う通常の勅語では無く、国務大臣の副署がない天皇の名のみ記された特殊な文章とし、軍人勅諭に神聖さを持たせたのだ。

山県は軍人勅諭によって、大元帥天皇の軍隊という建前を作り出し、軍隊を統制しようとした。

参謀本部

西南戦争において、政府軍側の作戦・用兵・連絡・指揮は度々混乱を来していた。

近代日本が初めて経験する大規模な戦争において、誰が作戦の指揮を執るのか見解が統一されておらず、現場で混乱が起きていた。

この教訓から、新たな近代的統帥システムの設計し、軍政と軍令と明確にし、陸軍省から独立した統帥機関の設置が要請された。

迅速な命令伝達を行うために軍令系統を政府から切り離すという認識は伊藤博文や井上馨ら文官も共有していた。

そこで1878年、軍事予算・人事行政を司る軍政機関である陸軍省から、作戦計画・軍隊指揮を司る軍令機関が独立し、参謀本部として設置された。

参謀本部の長は天皇帷幄の機務に参画し、作戦準備を司る者とされ、完全に内閣から独立する存在となった。

これを以って、軍隊を統率する統帥権は独立したと定義できる。

なお、山県は作戦用兵上の理由とは別に、軍政から軍令を独立させるドイツ式の二元的軍制が念頭にあった。

これは軍人を政治から遠ざけ、政治的影響から切り離し、軍の政治的中立を確立しようという試みである。

統帥権独立は後者の意味合いが強かったと言えよう。

参謀本部条例第6条には「その戦時に在っては、すべて軍令に関するものは親裁」と記された。

陸軍職制第1条においても「帝国日本の陸軍は一に天皇陛下に直隷す」とされた。

このように、天皇と軍隊は特別な関係を構築し、天皇の下における軍の統制、政治勢力と軍の結託の阻止、私兵化の阻止が図られた。

日本の参謀本部はドイツの参謀本部に倣った為、軍政機関とほぼ等しい権力を持つ巨大組織となった。

参謀本部には相応の予算を配分され、陸軍省に拮抗する存在として君臨する。

しかし参謀本部設置を進言した桂太郎の見解は違った。

桂はドイツに渡り、軍事行政を学んでいたが、陸軍について「政府人民を保護する一器械」であるとし、平時には無用であると説く。

むしろ軍隊を維持・管理するための軍事行政を誤れば、軍隊は政府の害になるとまで考えている。

軍事行政とは下士官・兵卒の福利厚生であったり、給与の円滑な支払いであったり、内部規律を維持する仕組みである。

その為、桂は軍政機関である陸軍省を優先的に整備し、軍令機関の肥大化には反対した。

また「ただ軍人政治となりて、いたずらに不経済なることを為すに至る」と述べ、軍人の政治に対する優越を完全に否定している。

ただし、山県との意見に隔たりがあると感じるや「田も往くも畔を往くも同じ道理である」と割り切って、参謀本部設立に尽力し、参謀本部の要職に就いた。

明治天皇は、軍政の陸軍省と軍令の参謀本部が対立するのではないかと危惧したが、実際には陸軍省と参謀本部の対立は起きなかった。

参謀本部設置当時の省部の権力関係は、明らかに陸軍省優位であった。

予算・人事・省外関係といった軍政は陸軍省が主務となり、演習・測量・指揮などの軍令は参謀本部の主務とし、参謀本部を軍政から完全に切り離した。

また、兵力量決定に関する編成事項は参謀本部には発議権のみ認められ、改革の際には陸軍省・参謀本部の合議が必要とされるなど、陸軍省優位が確立された。

更に、参謀本部長は政府側にいる山県が務めることになり、参謀本部の自立性自体も押さえ込まれた。

参謀本部独立によって政治に支障がきたされる事はなかった。

まさか将来、統帥権の独立により軍部の統制が難しくなるとは誰しも考えなかった。

帷幄上奏

1885年、内閣職権により各省の大臣が内閣を構成する内閣制度が施行された。

初代内閣総理大臣の伊藤博文は、内閣総理大臣を各大臣の首班として位置づけ「大政の方向を指示し行政各部を統督す」「およそ法律命令には内閣総理大臣これに副署す」と職権に明記された。

所謂大宰相主義である。

しかし伊藤内閣、続く黒田内閣ともに機能不全に陥り、首相に広範な政治的指導権を認める内閣制度の正当性が失われ、内閣制度そのものの見直しが迫られた。

そこで1889年12月に誕生した山県内閣は大宰相主義を修正し、内閣官制が公布した。

この官制により、首相権限から「大政の方向を指示」という文言が削除され、各省の行政事務に対しては各大臣が単独で副署することとなった。

こうした、各省の分任主義は軍部の政治的位置づけに大きな影響を及ぼした。

特に問題になったのが、軍部大臣や参謀総長が閣議を迂回し、直接天皇に上奏する帷幄上奏であった。

元々、帷幄上奏は、政党員の進出が予想される文官大臣が陸軍に介入出来ないよう、数多くの軍事勅令を文官=政党員の頭越しに行おうという試みであった。

伊藤と山県は、政党による軍事への介入を制限することで一致し、憲法において作戦用兵に関わる統帥権、軍隊の編成・兵力量に関わる編成権が定義した。

そして、その統帥事項を一般国務と区別し、天皇大権として内閣の管掌外に置いた。

統帥権、編成権はそれぞれ憲法第11条、第12条に記されている。

「天皇は陸海軍を統帥す」

「天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む」

だが、統帥事項を政府から独立させるのは非常にリスキーであった。

伊藤が内閣職権の中に大宰相主義を盛り込んでいた間は、軍事も首相がチェックする形でシビリアンコントロールが確立しており、何ら問題がなかった。

しかし、内閣職権の規定改正により大宰相主義が後退すると、帷幄上奏が軍部大臣の副署だけで可能となり、帷幄上奏は内閣・首相の頭越しに行われた。

これにより、軍令に関する帷幄奏上は陸海軍大臣より内閣総理大臣に事後報告するだけで構わなくなった。

こうして内閣からの軍部の自立が裏付けされた。

軍部は大規模な軍拡を念頭に、人員数や軍備といった予算に関わるものを、軍機を理由に帷幄奏上によって処理し、勅令で公布しようとした。

このまま陸軍が帷幄奏上の範囲を拡大すれば、総理大臣と陸軍大臣による二重内閣と化し、国家運営に支障をきたす恐れがある。

伊藤は陸軍に対し、行政事項と統帥事項の区分が不明瞭であり、行政事項に属するものが帷幄上奏によって允栽を経る虞があると指摘。

そのような案件については事前に閣議に通すように言い渡した。

しかし、帷幄上奏の濫用を前に、内閣と陸軍は国務と統帥の区分について合意に達しなかった。

このような事態を受け、明治天皇は帷幄上奏が行政を阻害するものではないかチェックするようになる。

そして行政事項に関わると判断した帷幄上奏については、伊藤に下問することにした。

こうして行政が混乱しないように非公式な形で統帥権独立は極めて慎重に運営されていた。

軍部大臣現役武官制

1891年、松方内閣は各省官制通則・各省庁官制を大幅改正し、主任事務に関し各省大臣の総理大臣への報告義務を解除した。

この制度改革は閣僚の連帯責任を否定し、一省レベルの失策で内閣総辞職となることを防ぎ、政権を安定させようという目論みであった。

だが、かえって各大臣の権限が強化され、軍部大臣による二重内閣リスクが高まった。

そこで松方は将官に限定されていた陸軍大臣の資格要件を撤廃し、軍部大臣に予備役将校や文官が就任するのを制度上可能とした。

これにより二重内閣のリスクを少しでも軽減しようとしたが、一方で政党員が軍部大臣に就任するというリスクが一層高まった。

仮に政党員が軍部大臣となれば軍隊は政界の影響をまともに受け、統帥大権が形骸化し、軍隊が政治化しかねない。

そのような憂慮から、明治天皇は軍部大臣武官専任制撤廃を不安に感じていた。

伊藤も立憲君主国においては、君主による兵権掌握と軍部大臣武官専任制が必要であると考えていた。

ただし天皇も一度改正した官制を直ぐに改正しなおすには消極的であった。

山県が政党の影響を受けた予備役将校や文官の軍部大臣を誕生させかねないような危険な改正を許可したのは、予備役に目ぼしい大・中将はいなかったからである。

現実的に、政党員がいきなり軍部大臣に就任するなどといった事態も考えられなかった。

しかし事態は一変する。

1898年、自由党・進歩党の連合内閣である隈板内閣が誕生した。

隈板内閣自体は4ヶ月足らずで瓦解したが、この間に自由任用ポストを巡って激しい猟官が行われ、政党の伸長と弊害というのはより一段と意識された。

山県は、隈板内閣における政党の台頭をより現実的な脅威と捉えた。

また、谷干城や三浦梧楼といった反長閥の予備役将校が現れたのも問題であった。

これにより政党が反長閥予備役将校と結び、彼らを陸相に立てて陸軍に進出する恐れがあった。

そこで1900年に自ら内閣を組織し、陸海軍大臣の資格を現役の大将・中将とする軍部大臣現役武官制を制度化した。

山県は軍部大臣の資格を現役大・中将に限定する事によって、政党が軍部に進出する危険性を未然に取り除いた。

帷幄上奏権の縮小と軍令

1907年2月、伊藤は公式令を立案し、第一次西園寺内閣はそれを閣議決定した。

公式令は憲法付属の法であり、すべての勅令・法律に内閣総理大臣の副署が必要であると規定した。

これは大宰相主義の復活であり、首相の国政全般に対する統制力を高めるものであった。

これにより首相が関わる事の出来ない帷幄上奏勅令は無効になった。

山県は大宰相主義の復活に反発したが、山県系軍事官僚の寺内正毅は公式令に賛同しており、山県と寺内は対立した。

折衝の結果、山県は勅令の外に軍令という法体系を設ける事で妥協した。

軍令とは軍隊指揮や作戦に関する事項であり、首相の副署は不要で、陸海軍大臣のみ副署すればよいと規定された。

また、軍令は帷幄上奏を経て公布された物であっても、行政の範囲内であれば勅令とすると方針が確認された。

そして、帷幄上奏事項の多くは行政事項として内閣に付議され、内閣の権限は拡大された。

このようにして帷幄上奏権は縮小させられた。

陸軍は、増師のような兵力量に関するものであっても、帷幄上奏以前に閣議に提出する手続きをとるようになった。

帷幄上奏によって軍拡を既成事実化し、内閣に強制するような乱暴な手段は取れなくなっていた。

山県にとって軍令制定は統帥権独立の現状維持であり、政党政治に対する陸軍既得権益の防衛以上の目的はなかった。

山県も国務と統帥の調和が必要であるとの認識はあり、軍令をいたずらに拡大解釈する意図はなかった。

むしろ「調法のものが出来たと思って濫用したら承知せぬぞ」と述べて、むやみに軍令を濫用することを戒めている。

統帥権の独立とは言っても、予算に関する事項は国務の作用を受けるのは当然である。

これが軍政・軍令の区別がつかない混成事項と呼ばれた。

兵力量決定に関する平時編成・戦時編制も混成事項とされた。

また、軍令制定の際、陸軍省・参謀本部の業務区分に関して陸軍省参謀本部業務担任規定を制定している。

この規定により軍政・軍令の混成事項の大半を陸軍省管轄とし、軍令の範囲は狭く限定した。

参謀本部や軍令により統帥権は独立したが、統帥権はそれを盾に軍部が暴走するような代物ではなく、国務と統帥の調和を可能としていた。

政府と軍の調和が保たれている間は、軍は軍備拡張計画を閣議に諮って政府との折衝を図ろうとする。

首相は財政状況や世論の趨勢を見定め、どれほど実行するか、どれを優先するか、陸海軍と個別に折衝して決裁を下す事も出来た。

しかし、このような調和が崩れた時、軍は政治の渦中に入り、世論の批判を一身に受けることになる。

それが大正政変であった。

第一次山本内閣における軍部大臣現役武官制改正

大正政変は山県にとって大きな誤算であった。

山県系の有力な軍官僚である桂を失い、山県は政変の黒幕とみなされてイメージをますます悪化させた。

薩摩派の山本権兵衛内閣誕生を黙認しなければならないほど政治的に後退した。

一方、後継首班となった薩摩派の山本権兵衛にとっても、大正政変は必ずしも望ましいものではなかった。

憲政擁護運動のスローガン「閥族打破」の観点からいうと、薩摩出身で海軍の実力者ある山本も、打破すべき閥族の一人であったからだ。

山本内閣の誕生には国民も厳しい目を向けていた。

そこで山本は、第二次西園寺内閣倒閣に用いられた軍部大臣現役武官制の改正に乗り出し、国民の信任を得ようとした。

第二次西園寺内閣は上原勇作陸相の単独辞職後、陸軍が現役将校から後継大臣を出さないという、軍部大臣現役武官制の悪用によって倒閣された。

これにより、軍部大臣現役武官制は内閣の生殺与奪の権を軍部に与えるものと認識された。

軍部大臣は首相の指揮下ではなく、軍部の指揮下に置かれる。

内閣の政策と軍部の政策が食い違った場合は軍部大臣が辞任し、その後任を出さずに内閣を総辞職に追い込める。

その場合、内閣は総辞職か、詔勅によって強引に留任させるしかない。

軍部大臣現役武官制はそのような軍部、もっと言えば藩閥の強力な武器であると認識され、国民はこの制度に対し激しい批判を加えた。

原敬も山本に対して「陸海軍大臣を現役に限るの規定を改むる事は国内の与論を緩和する要件にして、又政友会の立場に於ても必要なり」と改正を要求していた。

1913年3月8日、政友倶楽部の林毅陸は議会において「現行法制によれば、陸海軍大臣は、現役の大、中将に限られておるが、現内閣はこれをもって、憲政運用上支障ないと認めるかどうか」と追及した。

山本はこの回答について研究すると述べて、3日間の猶予を求めた。

3月11日、答弁に立った山本は、軍部大臣現役武官制について「憲政の運用上支障なきを保し難い」として改正を約束した。

なお、憲政擁護運動の中では軍部大臣文官制も議論されていた。

新聞においては軍部から藩閥を一掃するために軍部大臣非武官制を規定すべきだとの強硬論もあったが、軍部出身の山本もそこまでは踏み込まなかった。

問題は陸軍であった。

3月10日、閣議の冒頭、山本は軍部大臣現役武官制の変遷と利害を説明し、この官制は憲政の運用に支障を来たしかねないとの見地から改正の決心を固めたとし、両軍部大臣に協力するように要請した。

海軍は山本が睨みを利かせており、斎藤実海相も山本の意に従い、官制改正に同意した。

しかし陸軍は木越安綱陸相が同意に傾いたものの、陸軍部内の激しい抵抗にあい、ただ一人閣議で反対に回った。

木越は石川県の出身だが山県系に属しており、日清・日露戦争においても軍功を立てて、男爵に列せられていたほどの軍人である。

だが官制改正問題では内閣と陸軍の間で板挟みになり、その決心が二転三転した。

この様を原は精神に異常があると記したが、それほど木越は苦悩していた。

陸軍は予備役・後備役軍人が政党に参加できるという点を問題視していた。

長谷川参謀総長は山本に面会し、軍部大臣現役武官制改正は政党の軍事介入であり、国防を危うくすると主張した。

これに対し山本は、国防は軍人の専売物ではなく、国民全体で為すべきだと説いた。

長谷川は首相に意見するだけでは飽き足らず、帝国建軍の根本義擁護なる意見書を配布した。

この意見書には、陸軍は天皇にだけ絶対服従する。

これに対し、政党政治家は一般政治の毒に染まった退役将官を軍部大臣に登用し、天皇に対する陸軍の特別関係を腐敗させようとしている、などと糾弾した。

更に長谷川は、葉山で静養中の天皇に拝謁し、意見書の見解通り軍部大臣現役武官制が改正されると国防上悪影響を及ぼすと言上。

明治天皇の布告した法令を改めることは不忠であるなどと上奏すらしていた。

反対の声は陸軍省からも上がった。

軍務局軍事課長の宇垣一成は、軍事課長の地位を利用して国民新聞記者に依頼して匿名パンフレットを貴衆院議員ら各方面にばらまいた。

これが陸軍横暴という声になり、木越を更に苦しめていた。

宇垣は宣伝工作だけでなく、実際に官制改正に捺印しないなどと頑なに改正を拒んだ。

これにより、定期異動で第三師団の連隊長に左遷される事になる。

陸軍部内の強固な反対に、山本は悲観的になり、改正失敗も頭をよぎった。

だが、政友会側は軍部大臣現役武官制改正だけは譲らない姿勢を見せた。

そこで5月8日、山本は天皇に拝謁し、これまでの経緯を言上した上で、参謀本部が提出した上奏文を手元に留め置くよう天皇に要請した。

天皇もそれを聞き入れ、山本を支持する姿勢を見せた。

このケースは大正天皇の政治意思が明示された極めて稀なケースである。

天皇の山本への信任は、山本が勲功著しい海軍大将であることも重要であった。

軍部大臣現役武官制改正に反対しているのは陸軍だけであった。

陸軍の反対で内閣が危機に陥ることは避けたく、木越は政治的解決の為に奔走した。

山県も改正には反対であったが、大正政変の経緯から陸軍が国民の怨嗟の的となっており、内閣を倒すような事は避けたいと考え、消極的態度に徹していた。

それに、これ以上世論の反発を招けば軍部大臣文官制議論に発展しかねないことも、山県の介入を控えさせた。

こうして6月13日、陸海軍省官制改正が公布され、軍部大臣の資格が予備役、後備役の大・中将にも解放された。

なお、政党内閣が指名した武官では陸海軍を抑えられないという理由で、この改正が活用されることはなかった。

ただし、政党は軍部に対抗する足掛かりを得たことは大きい。

軍部が大臣辞職で内閣を脅しても無事では済まないという警告を与えるには十分であった。

山県系の後退

軍部大臣現役武官制改正に尽力し、その結果陸軍部内で孤立した木越陸相が辞職した。

6月24日、後任に楠瀬幸彦中将が任命された。

この後任陸相人事について、山本は山県系に全く相談せず、非山県系で中央要職の経験がない土佐出身の楠瀬を抜擢した。

山本のごぼう抜き人事に、東京朝日新聞では「非長閥軍人は孰れも山本首相の英断を嘆賞すると同時に昨年まで横暴を極めたる長閥の沈淪に対し快哉を叫びつつあり」と評したほどである。

山本は陸軍統制に関して首相の権力を及ぼし、これに対し山県は防戦一方であった。

官制改正阻止に失敗した陸軍は、予備役陸相出現に備える。

政党の影響を受けた陸相が陸軍に干渉できないように、陸相が統帥事項に及ぼす権限を縮小するという対抗策を講じた。

つまりは7月10日の担任規定の改定である。

担任規定は軍政と軍令の混成事項について規定したものである。

従来の担任規定は混成事項の多くを陸軍省の主管としていたが、戦時編制や動員計画、経費を要する作戦計画・統帥命令などの事項が参謀本部主管となった。

また、陸相が掌握していた陸軍高官人事を、陸軍大臣・参謀総長・教育総監の三長官会議に諮ることをを内規として定めた。

関係条規の解釈権は陸相に属していたが、各主管者とともに解釈を協議する体制となった。

このようにして陸軍省、ひいては陸軍大臣の権限は縮小し、相対的に参謀本部の権限は拡大した。

ただし参謀本部の主管業務は陸軍省との協議を必要としたし、編成動員を担当する総務部や編成課に軍政系軍人を送り込む形で、陸軍省は優位を確保した。

陸軍省は依然として陸軍全体を管理していたと言えよう。

このように、昭和時代に政府や天皇を悩ませる統帥権の暴走や省部関係の破綻は、未だその兆候を見せていなかった。

参考書籍

山県有朋と明治国家 井上寿一

man

軍閥の長という山県像を改めさせる名著。

政党と官僚の近代 清水唯一朗

man

近代における政党と官僚の関係性について非常に示唆に富む。

近代日本と軍部 1868-1945 小林道彦

man

明治から昭和にかけての陸軍の通史。これほどの内容を新書で読めること自体が奇跡。

日本政党史論 升味準之輔

man

大正時代を知る上では政党の歴史は不可分。