海軍の再建と加藤友三郎
山本権兵衛の予備役入り
第一次山本内閣の総辞職を受け、元老会議はまず山県系官僚の重鎮、清浦奎吾を首相に奏薦した。
しかし清浦は、予算不成立のために流れた海軍補充費(950万)実現を保証できず、海軍の支持を得れずに組閣に失敗した。
首相候補を失った元老たちは、かつて自分たちと敵対した大隈重信を擁立する奇策に打って出た。
清浦の件から鑑みるに、海軍補充費の復活は大隈内閣が成立する絶対条件であったとも言えよう。
この状況下で大隈内閣の海軍大臣を担ったのは八代六郎である。
八代はこの時、舞鶴鎮守府長官であったが、愛知県出身であったことから薩派や山本とはまるで接点がない。
海軍にあっては非主流派に属し、薩派の前に出世を妨げられ、二度ほど海軍を辞めようとしたという。
この大抜擢は、組閣参謀を担った加藤高明が八代と同郷同学年で、家族ぐるみの付き合いがあった為である。
ここに海軍大臣人事の慣例であった薩派・山本系が覆され、異色の八代海相が誕生した。
八代は海軍次官にこれまた薩派とは関係が薄い鈴木貫太郎を、軍務局長に秋山真之を配した。
そして財部彪ら薩派の海軍高官を更迭して山本の影響力を排除した。
それだけに終わらず、5月11日には山本権兵衛・斎藤実両海軍大将が予備役編入となった。
山本・斎藤の予備役入りは、軍令部長や、東郷平八郎・井上良馨ら海軍の重鎮たちに何ら相談することなく、八代の独断で強行された。
八代は山本予備役入りの理由を、以下のように挙げている。
まず、海軍予算案不成立により国防上重大な問題を発生させたこと。
次に、シーメンス・ヴィッカース事件で起訴された松本和中将の起用した責任。
最後に、貴族院における村田保の罵詈雑言(憤死演説)に何らやり返さず、軍人としての威信を傷つけたことである。
八代は自ら山本邸を訪れて予備役編入を告げた。
その際、山本の子息の将来を保証して面倒を見ると申し出たところ、山本はこれを一喝し、以下のように語った。
なお、予備役編入について特に抗弁しなかった山本ではあったが、村田の下りには口が出た。「山本は公事と私事を混同するものではない。この山本を予備役に編入することは解った。
その他の事は聞くに及ばぬ」
山本は日露戦争の功績で金鵄勲章を受け、伯爵も授与されており、元帥になるのを待っていた身であった。「自分がとかく抗弁や弁疏すると、かえって人は一層疑いをかけるものだ。
こんな時はじっと我慢して百年河清を待つ境地で知己を信じている」
それを予備役として罷免するという重大人事を天皇は非常に憂慮した。
山本予備役入りの上奏に対し天皇は、これでよいのかと八代に下問した。
天皇の思いがけない下問にびっくりした八代は思わず一歩退いた。
すると天皇は再び、これでよいのかと訪ねた。
もし三度目の問いかけがあれば辞任して腹を切るつもりだったが、八代が繰り返し奏請したためにようやく上奏を裁可した。
天皇はこの人事に相当な疑問を抱いていたようだ。
海軍将校であった皇族の伏見宮博恭に対し、海軍軍人としてどう思うかと御下問すらしたという。
山本の予備役入りを見て、世間は山本も軍艦建造の手数料を受け取ったのではないかと疑った。
しかし山本は政敵も清廉潔白な人物であると認めるほどであった。
海軍改革の際に多くの将校を馘首したので反動で自分が切られる時もあると考え、いくばくか貯金を蓄えていた。
だが、そこに汚れた金はなかった。
司法大臣として海軍汚職の徹底的な捜査を指導した尾崎行雄もついに山本・斎藤から収賄の事実は見つけられず、その潔白を認めざるをえなかった。
海軍予算の復活
大隈内閣にとって目下最大の急務は海軍補充費の復活であった。大隈内閣は臨時議会を招集し、海軍工廠にて建造中の戦艦一隻の工事継続費用として650万の予算を提出した。
答弁に立った八代海相は、この費用がなければ今後3年間の海軍軍事力に非常な支障をきたすこと。
工事が一年中止となった場合、戦艦建造に関わる事業が大打撃を受け、工廠の職工を多数解雇せざるを得ないこと。
その結果「再びかくの如き仲の好い気合の知れた職工を集めるということは不可能である」ので、海軍技術にとって致命的であると説明した。
しかしこの追加予算は、31回議会(前・通常議会)で不成立となった予算案に含まれている事項を、臨時議会で議決するものである。
憲法上の疑義が生じるのは当然であった。
6月25日、政友会の小川平吉は予算委員会にて、否決された議案を再び臨時議会を招集して提出する法的根拠を問うた。
それまで、臨時議会招集前例は日清・日露の開戦時や天皇・皇太后の死去に伴う大喪の追加予算しかない。
また、臨時議会を定める憲法第43条は「臨時緊急の必要ある場合」と定めている。
この臨時議会が、本当に臨時緊急の必要があって招集されたのか、という質問である。
これに対し政府は「国防の目的からすこぶる緊急」であると説明したが、それでは臨時というのはどういう条件なのかと質問が飛んだ。
政府側の答弁に立った一木喜徳郎文相は、臨時緊急の必要について、以下のように解釈してみせた。
「帝国議会を召集するに臨時緊急のあるということを意味する」
一木の憲法解釈が適用され、臨時議会は以降度々開催される事になる。「事件が必ずしも臨時に起こったということを意味するのではない」
ところで与党同志会・中正会は、前31回議会では野党として海軍補充予算に反対し、その削除を要求していた。
それがこの臨時議会では予算復活に賛成するのだから、その一貫性が問題になることは当然であった。
議会において特に標的となった閣僚は、同志会の武富、中正会の尾崎行雄である。
6月24日、国民党の鈴木梅四郎は衆議院本会議にて、海軍補充費に対する尾崎・武富の変節を鋭く質問した。
31回議会では武富は予算修正意見を披瀝したが、それは海軍補充費を削減して廃減税財源に充てるというものであった。
尾崎に至っては、列国からの形勢から言っても日本の財政状態から言っても海軍補充費は不必要であり、民力休養の観点から害悪であるとまで演説していた。
そして、二人とも海軍補充費削減問題で国民党を攻撃していた。
この事実を挙げ、鈴木は以下のように演説した。
「この両大臣の2月12日の議場において、かくまでも詳細的確に不必要と唱えられたところの其問題で、ここに前例の無いところの臨時議会を開くに至ったというのは、如何にこの政治家の節の変化の甚だしいということを証明する」
尾崎・武富は変節を認め、その理由を誠心誠意説明しなければならない。「この政治界において、不渡り手形に類する言論を濫発するということは、御同様に慎まなければならぬ」
また、誤った言論で国民党に迷惑をかけたことは甚だ遺憾であると痛烈に攻撃した。
これに激情した尾崎は、鈴木の質問は国務大臣に対する質問ではなく、私を議員として為したる質問であるとし、答弁は議員席から行うとして、議場に混乱を引き起こした。
その上で、前議会では確かに海軍補充費の全額削除を主張したが、予算が貴族院との交渉問題になった時点で、院議に服従していること。
「この院議の決定の範囲内において、今回の議案を提出したるが何の変節改説であるか」と強弁を振るった。
当然屁理屈にしか過ぎない。
この答弁の直後に、国務について意見の合わない内閣に何故入ったのか、院議に賛成した時点で海軍に対する意見は全く変更されたのか、などと追撃されることになる。
尾崎は自分が31回議会で行なった海軍補充費全額削除の主張が明快であった分、その変節の弁明は無理があった。
尾崎は三大政見として陸軍非増師、海軍不拡張、軍部大臣文官制を掲げ、それを掲げて憲政の神様と評されてきた。
しかしその一角である海軍不拡張は崩れた。
それでは陸軍師団増設が議会に提出された場合はどうするのか。
大隈内閣への入閣は尾崎の政見を全て裏切ることになり、その政治的立場は大きく揺らいでいった。
一方、武富は老獪であった。
「我々が海軍補充費を削除せんことを主張したその理由は、当時の海軍当局者の不信任にある」とし、当局が代わった以上は海軍補充費に反対する理由はないと簡潔に述べて、追及をいなした。
このように野党の追及は激しかったが、海軍補充費については政友会・国民党ともに31回議会で賛成したものであった。
原敬も「今回提出の費用は不得已ものにつき、これを協賛すべし。ただ政府の無責任はこれを咎むべし」との方針を示していた。
6月26日、海軍予算復活は全会一致で可決された。
貴族院においても手厳しい質問が飛び交ったが、28日に全会一致となる。
八代軍政の失敗
第一次世界大戦参戦に伴い、34回臨時議会が開催された。
この議会に八代海相は臨時軍事予算として海軍予算3800万を提出した。
しかし、この予算の中に駆逐艦10隻の新造費1000万が含まれているというから驚きであった。
この駆逐艦は31回議会で不成立となった海軍計画の一部であり、海軍の補充費は総予算・追加予算を以って要求するのが普通である。
それを臨時軍事費の一部として提出したとは、32回臨時議会の海軍予算復活以上の大問題であった。
この当然の追及に対し八代海相は、臨時軍事費によって駆逐艦新造を要求する正当性を説明出来ず、議会は騒然となった。
ようやく若槻蔵相が、臨時軍事予算は参戦による事態から不可欠になった駆逐艦・潜水艦分であると説明して、何とか収まった。
こうして辛うじて成立した海軍軍拡であったが、議会を空転させながら成立させたのが駆逐艦の補充のみでは割に合わない。
山本・斎藤予備役入り、薩派排斥人事、粗末な海軍軍拡を経て、八代の求心力は急速に低下していった。
そもそも、八代は海軍次官や軍務局長といった軍政畑の経験がなく、その性急な手法は海軍軍政を混乱させただけであった。
海軍の再建・加藤友三郎軍政
総選挙における大浦兼武内相の政友会代議士買収事件(大浦事件)が発生した。
この責任を取る形で加藤は辞職の意思を固め、加藤の縁故であった八代海相もまた閣外に去った。
閣僚の不祥事が発生し、連帯責任を唱える副総理級閣僚も閣外に去った。
誰が見ても大隈内閣は死に体であり、いつ崩壊するも知れない内閣に入ることは、経歴に傷をつける恐れがある。
海相後任人事の難航が予想される中、山県は人事に直接介入し、加藤友三郎第一艦隊司令長官を推した。
これは加藤が内閣の形式が何であろうと、それが短命内閣であろうと、海相を引き受けることを公言していたからであった。
山本は、このような短命内閣に入ることもないと惜しんだが、加藤は海軍の大局を見据えていた。
加藤が海相を引き受けたのは、海軍が直面した課題に立ち向かう覚悟を固めていたからである。
自らの手でシーメンス事件以来の海軍部内の混乱を収拾する。
その上で、国家の独立維持に必要な艦隊を整備し、日本海軍を世界水準に復帰させる決意を抱いていた。
加藤は海軍改革を進めるにおいて二人の協力者を得た。
一人は東郷平八郎である。
東郷は日本海海戦を指揮して神格化されつつあり、海軍薩派の最有力者となっていた。
その東郷を後ろ盾とすることで、加藤は自らの発言に権威付けを行い、海軍統制を図ろうとした。
加藤は若手将校が東郷を隠居扱いすることを戒め、東郷に対して重要事項の報告を怠らず、常に東郷を盛り立てた。
東郷も加藤の方針を積極的に支持した。
東郷と加藤は日露戦争時に片や東郷連合艦隊司令長官、片や加藤参謀長として日本海海戦を戦った仲である。
共に最前線で指揮をとり続けた戦友であった為、信頼関係にあったのも幸いした。
ここに海軍は加藤海相の下にまとまった。
もう一人は島村速雄軍令部長である。
島村は海兵7期を首席の成績を収めた秀才であるが、山本に嫌われて要職から遠ざかっていた。
それが、八代海相時代に軍令部長に抜擢されていた。
海兵同期の加藤と島村は親しい間柄である。
加藤は島村によく相談し、人事に関しては島村との協議を重視し、軍政と軍令の協調関係が成立した。
加藤は島村と海軍政策の大枠を決定し、東郷の諒解を得る形で漸進的に海軍改革を推し進めていった。
加藤はまず艦政本部の解体に着手する。
艦政本部は絶大な権限を持ち、その為に海軍汚職の温床となっていた。
加藤は艦政本部を艦政部と技術本部に分割し、権限を縮小した。
1920年には八八艦隊実現のために艦政本部は復活するが、軍艦の契約は海軍省経理局で実施され、汚職事件が再発しないように配慮された。
加藤は薩派に捉われない人事も推し進め、鈴木貫太郎海軍次官を筆頭に、非薩摩の海軍将校が積極的に大将に進級された。
明治時代には非薩摩で海軍大将になったのは僅か3名であったが、加藤海相時代には非薩摩の海軍大将は7名進級している。
一方で薩派に対する配慮も忘れず、伊集院五郎大将が元帥府に列せられ、海軍長老としての地位が保障された。
海軍の非政治化
加藤は海軍と政治との関係についても見直した。
これが加藤軍政最大の特徴であった。
そもそもシーメンス事件とは、山本権兵衛が過度に政治に関与したため、海軍が政争の渦中に巻き込まれる形で発生したものであった。
確かに衆議院に基礎を置く政党と良好な関係を構築すれば、海軍予算は通過しやすくなる。
しかし、一度政局となればシーメンス事件のように海軍予算が大きく左右される恐れがある。
加藤は海軍が自分の立場を弁え、海軍問題に専念すべきだと考え、海軍軍拡問題が政局に繋がらないように丁寧に配慮した。
加藤は就任当初から以下のように公言している。
海軍軍拡計画に柔軟な姿勢を示し、漸進的な軍拡を実現していった。「国防計画なるものは単純に自説のみ固執するを許さず能く財政状態をも鑑みるの要ある」
大隈内閣に対しては八四艦隊計画の一部実施、最新鋭戦艦長門と巡洋艦天龍・龍田を認めさせることで妥協した。
寺内内閣が誕生すると、海軍部内では議会に足場のない内閣を突き上げて、一挙に八八艦隊成立を求めるべきだとの主張が挙がった。
加藤自身も対中外交は中立的で、積極的に中国に関与しようとする寺内外交とは相容れなかった。
だが、対中外交もシベリア出兵に対しても何ら意見を述べなかった。
その一方で加藤は財政に配慮して八六艦隊計画を提出するに留めた。
そして、軽巡や駆逐艦ら補助艦艇を充実させ、超弩級戦艦を軸に外洋の作戦が可能な艦隊として運用することを可能にした。
このようにして加藤は時の内閣に協力姿勢を示し、政局への関与を強く戒めた。
そして、どのような内閣が誕生しても確実に海軍予算を通過させることに成功した。
このように海軍の非政治化が進む一方、山本権兵衛は孤立していった。
山本はシーメンス事件後も、政友会や国民党と提携して、政権に復帰することを目指していた。
しかし山本を押し立てて政界に乗り出しても、いたずらに海軍が政争の渦中に放り込まれ、海軍軍拡を停滞させるだけである。
もはや藩閥が政権を担当することは時代錯誤であった。
加藤は山本と距離を置く一方で、山県との意思疎通を図った。
そして、海軍には政治的野心がないことを示し、海軍軍拡への理解を求めた。
ある時、山本の予備役編入に抗議し、その現役復帰を求める怪文書が山県の下に送られた。
直ちに山県を訪問した加藤は、山本の予備役編入は大権発動によるものなので止むを得ないものであるとの認識を示し、海軍の関与を否定した。
このような加藤の態度に、山県も加藤以下海軍に政治的野心はないと判断し、寺内・原内閣における加藤海相の留任を明確に支持してゆく。
東郷も政治と海軍を切り離す加藤の路線を支持した。
東郷は、政治的野心から海軍軍拡を停滞させた山本に不満を持ち、海軍の問題に専念し、かつ自分を立ててくれる加藤を支持した。
シーメンス事件により海軍薩派内で山本の影響力は低下し、相対的に東郷の意向が重視されるようになっていった。
こうして海軍は政治の表舞台から退場し、新聞や政局にも殆ど登場しなくなる。
軍部と政治
軍人は政治に関与せざる。
海軍軍人は自らの非政治化を美徳とした。
昭和陸軍の失敗は、軍人が過度に政治に関与したことだと考えれば、海軍の姿勢は至極真っ当である。
加藤に率いられた海軍は、原・高橋政友会内閣とも協調し、有史始まって以来の国際的海軍軍縮条約締結を成功させるに至る。
昭和に入っても海軍は組閣に何ら注文せず、他官庁に干渉せず、政局にも関与しなかった。
それらは政治的であり、海軍が何ら口を出すべき領域でないからである。
一見すると海軍は穏当な組織である。
しかし海軍は自らの職務の範囲内である海軍予算や兵力量に話が及ぶや強硬な姿勢を示し、内閣に対して海軍の主張を尊重するように求めた。
そして、内閣と海軍の唯一の窓口である海軍大臣の政治力が低下すると、その主張はエスカレートし、内閣を揺さぶるまでに深刻化した。
海相に政治力があれば、国家財政や外交に鑑みる事が出来たろう。
海軍予算や兵力量について妥協点を見つけ、政府に対してある程度の譲歩を行えるし、その譲歩を部内の軍人に納得させることも可能である。
まさに加藤友三郎がそのような人物であった。
しかし政治力のない海相は部内の強硬意見を抑えきれない。
そして更に問題なのは、そのような海軍大臣が出てきても軍部大臣現役武官制がある限り内閣のシビリアンコントロールは効かない事である。
内閣は海軍の極端なセクショナリズムに振り回されることになる。
昭和期に入ると海軍のセクショナリズムが陸軍や外交、議会を巻き込んで政局となることが度々発生するようになった。
それがロンドン軍縮条約問題や軍縮条約破棄問題、岡田内閣期における過剰な軍事予算要求、日中戦争における強行姿勢であった。
加藤軍政は、海軍は内閣とは距離を置いてセクションの殻の中ありつつ、その唯一の窓口となる大臣に政治力があり、穏当で、内閣との協調を重んじる軍人でなければ機能しないという問題を孕んでいた。
では山本軍政はどうであったのか。
山本軍政は、海軍が積極的に政治に関与して予算を獲得しに行くにあたり、海軍が内閣に従属するから成り立っていたのだ。
これが海軍が内閣の上に立たんとするや、昭和陸軍のような深刻な事態を招くことになったであろう。
帝国憲法下における円滑な政軍関係とは、軍部が内閣に従属するか、政治力がある大臣が部内をまとめ上げ、内閣と協調する事でしか成立しなかった。
前者は山本軍政であり、後者は加藤軍政であった。
シーメンス事件による山本の失脚により、海軍の政治力は崩壊した。
政治に関与する陸軍も困りものであるが、政治に無関心でセクションに閉じこもる海軍も混乱の元であった。
高木惣吉海軍少将はシーメンス事件の影響を以下のように述べている。
「シーメンス事件で苦杯をなめた海軍は、経理を厳しくし、専ら瀆職の防止に万全の策を講じた。
それはまことに当然の処置ではあったが、あつものに懲りてなますを吹いた為に、個性の保存はもとよりのこと、海軍としての政治的役割は殆ど考えられなくなってしまったのである」
参考書籍
日本海軍と政治 手嶋泰信
日本海軍を政治面から見直した一冊。海軍がセクショナリズムに陥る様をありありと描く。
第一次世界大戦と加藤友三郎の海軍改革 (1)~(3) 平松 良太
加藤友三郎を知る上では非常に役立つ論文集。
日本議会史録 古屋哲夫 編
海軍予算の復活が議会でどのように論じられたのかを知ることが出来る。