1920年10月某日 藤田嗣治がサロン・ドートンヌで「裸婦」を発表
そんな藤田に大きな影響を与えたのがパブロ・ピカソである。
ある日、ピカソのアトリエを訪れた藤田は、楽器をノコギリでバラバラにし、それを奇妙な形に繋ぎ合わせて描いている様に衝撃を受けた。
更に、ピカソが気に入っているというアンリ・ルソーの作品も衝撃的であった。
当時、興隆しつつあったキュビズムやシュルレアリスムの自由奔放さは、藤田の美術観を一変させるほどの力があった。
ただしこの作風を今から取り入れても、それは単なる模倣に過ぎない。
藤田はオカッパに丸眼鏡の独特なスタイルを打ち出し、思うがまま自由に絵を描いた。
1917年には女流画家のフェルナンド・バレと結婚し、妻の献身もあって絵が売れ始めた。
そしてこの年、ある裸婦画がパリのサロン・ドートンヌにて「素晴らしく深い白地」と大絶賛を受ける。
モデルとなったのはモンパルナスの恋人と謳われ、パリの美術家たちに贔屓にされたモデルのキキである。
藤田は滑らかな乳白色を下地にすることで透き通るような肌を表現し、細い筆先でキキの裸体を描き出した。
どことなく妖艶な光を放つ裸婦画について、藤田は以下のように語っている。
こうしてレオナールフジタの名前は、エコール・ド・パリと呼ばれるパリ美術の黄金期に刻まれたのである。「カンバスそのものが既に皮膚の味を与えるような質のカンバスを考案することに着手した」
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