清浦内閣流産
海軍予算不成立
1906年、英国がドレッドノート級戦艦を竣工し、従来の戦艦が一気に旧式となった。
更にドレッドノート級をも凌ぐ超弩級戦艦も登場し、超弩級戦艦の保有が海軍力の世界基準となっていた。
日本海軍はこれらの技術革新に早急に対応しなければならなかった。
ところが、シーメンス事件という前代未聞の海軍収賄事件を巡る政局により、1914年の第30回議会にて海軍予算は不成立となった。
これを非常に憂慮したのが秋山真之である。
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」で名高い海軍将校で、日本海海戦においては東郷平八郎の作戦参謀を務めた。
秋山は、海軍継続費が打ち切られた場合、海軍工廠は維持できなくなると考えた。
特に横須賀工廠は、職工の半数以上を解雇せねばならない。
一度手放した職工を再び召集して製造力を回復させるには、6、7年かかると見積もった。
それは単に製造力の低下だけでなく造船技術の喪失をも招きかねない。
そこで海軍は、山本内閣の後継首班となった清浦奎吾に対し、海軍予算の復活を訴えた。
これこそが清浦内閣が成立するか否かの最大の焦点であった。
加藤友三郎と薩派
海軍は西郷従道から始まり、樺山資紀、仁礼景範、伊東祐亨、山本権兵衛、東郷平八郎など、海軍高官は薩摩出身者に独占されてきた。
その中で海軍の制度や組織、艦隊建設を担ってきたのが山本権兵衛である。
山本は海軍大臣が軍政・軍令を統括する組織を作り上げる一方で、海軍軍令部を独立させた。
その上で省部事務互渉規定を制定し、予算や人事のみならず、作戦用兵までも海相が実質的決定権を持つ体制を維持した。
まさに海軍の父と呼ばれるような存在である。
明治期の薩摩閥支配下の海軍において、鹿児島県以外の出身者が要職につくには条件がある。
薩摩閥有力者の娘と結婚するか、西郷や山本にその力量を認められるしかない。
前者の代表例は斎藤実である。
斎藤は山本の媒酌で仁礼の娘を娶っており、岩手県出身ながら薩摩閥の一員として、海軍次官や大臣を務めた。
一方、後者の代表例は加藤友三郎である。
元々海軍兵学校を2番目の成績を収めていた秀才であるが、当時は薩摩閥優位の人事が横行し、広島県出身の加藤は軽視されていた。
そんな砲術家、実務家としての加藤の腕を認めたのが山本である。
加藤は山本の下で軍務課長、軍務局長と軍政畑を歩み、日露戦争では東郷の参謀長として日本海海戦に臨み、ついには海軍次官に上り詰めた。
薩摩出身ではなく、薩摩閥と婚姻関係もない加藤が海軍次官となったのは、極めて異例な人事であった。
加藤も自分を抜擢してくれた山本に感謝していた。
この様から加藤は「山本大将崇拝者」「帰化薩摩人」と呼ばれる。
なお、加藤は日露戦争の頃から大腸炎を患い、肉や酒を摂れず、残燭と呼ばれるほど痩せ細っていた。
酒で巨漢となった斎藤とは正反対の、軍人らしからぬ風態であった。
海軍の薩摩閥は山本を中心に斎藤や加藤などの優秀な人材を得て、確固たる地盤を築いていた。
しかし政治方面を見ると、薩摩閥は弱体であった。
これは大久保利通死後、国家本位の大局観を以て薩摩派を一つにまとめ上げる指導者を得れなかった為である。
薩摩閥は政界や官界、軍部に散在する鹿児島県出身者の地縁的集団に没落していた。
これは長州が山県有朋や桂太郎ら確固たる政治理念を持つ政治家を輩出し、彼らの下で結集した政治集団を構築し、官界に一代勢力を誇ったのとは好対照である。
よって薩摩閥は薩派と称され、長州閥とは一段と低く見られがちであった。
郷党意識で緩やかに結ばれた薩派にとって、山本権兵衛は唯一擁立出来る政治家であった。
山本は内閣を組閣すると、薩派と政友会の情意投合によって強力なリーダーシップを発揮し、軍部大臣現役武官制や文官任用令を次々改正していった。
しかしその事は薩派、ひいては海軍を危険な政治の世界に投じることになる。
1914年、シーメンス事件が発生すると、海軍予算成立が政府と貴族院の政治的駆け引きに使われ、不成立となった。
こうして海軍に重大な危機をもたらされた。
清浦奎吾、二つの選択
清浦奎吾は山県有朋の司法系顧問である。
司法大臣や内務大臣を歴任し、貴族院においては最大会派研究会を率いて貴族院を山県系の牙城となした。
枢密院においては顧問官として官界の守護者となる等、山県系官僚の重鎮であった。
山本内閣の総辞職を受け3月31日に組閣大命が降下した清浦は、山本内閣倒閣に一役買った貴族院を中心に組閣に着手した。
これに対し原は清浦内閣を不成立に追い込み、山本に留任の沙汰が下る事を画策する。
清浦内閣を政党を背景としない旧態依然たる超然内閣と位置づけ、国民党や同志会と組んで超然内閣反対の決議を行おうとした。
そして、薩派の元老松方正義や大山巌に対し清浦不支持を宣言し「自分はむしろ山本に優諚を賜り、内閣改造人事を行い留任せしめるが国家の利益と信ず」と伝えた。
しかし松方・大山は共に静観の態度を取った為に原の目論見は破れ、清浦の組閣は順調に進んでいった。
ただ一つ、海軍大臣のポストを除いては…
海軍大臣ポストを巡って、当時第一艦隊司令長官であった加藤が交渉相手となった。
加藤は入閣の条件として、前議会で不成立となった海軍補充費の一部を、政府の責任支出か臨時議会招集によって実現することを要求した。
この提案は、海軍補充費の支出方法である。
そして、この支出方法を巡り、順調に進んでいた清浦の組閣は一気に暗礁に乗り上げた。
次にその財源の法的根拠は憲法第69条である。「予算の款項に超過し又は予算の外に生じたる支出あるときは、後日帝国議会の承認を求むるを要す」
何故議会の事後承認が必要なのかは、以下のように憲法義解に記されている。「避くべからざる予算の不足を補う為に又は予算の外に生じたる必要の費用に充つる為に予備費を設くべし」
しかし予算超過、予算外支出が予備費を超えた場合、どのような事態になるのか。「行政の必要と立法の監督とをして両々並行相互調和せしむる」
それが国庫剰余金を財源とする責任支出である。
明治期の事例としては1891年の濃尾地震がある。
被災した愛知・岐阜県救済として、第一次松方内閣は剰余金の臨時支出を行なった。
この支出に関して、政府は以下の見解を示した。
まず憲法第64条第二項により、予算超過・予算外支出は合法であると認められている。
その上で、第64条と第69条は予算外支出を予算費額に限定しない。
この剰余金支出に関する政府見解は、時代を経るに従って憲法に依拠しないというものに変化してゆく。
第二次松方内閣は支出の根拠を憲法の条文ではなく、政府が責任を負って剰余金より支出したという意味合いの答弁を行なった。
第三次伊藤内閣も、剰余金支出の根拠を憲法の条文に求めない姿勢を踏襲した。
当時の大蔵次官である田尻稲次郎は責任支出について「全くの所、政府の見切りの仕事である。所謂責任仕事」と論じた。
こうして責任支出は自然災害の対応から軍事関係、伝染病対策など多岐に渡るようになる。
では、責任支出によって海軍補充費を出してよいのかと言うと、そう簡単は話ではなかった。
まず、責任支出とした場合、議会の事後承認が必要である。
だが、衆議院第一党である政友会が敵対姿勢を見せている以上、承認を望めるかは怪しかった。
更に重要な点は、責任支出は憲法の条文上の根拠についての論点を棚上げされている事である。
政府と議会の暗黙の了解で成り立っている部分が多く、常に疑義がつきまとっていた。
そのようなグレーゾーンに属する責任支出で、一旦否決した予算を復活させるなどは、まさに憲法を破壊する行為であった。
臨時議会
責任支出によって予算を復活させるのは、憲政の観点から言って禁じ手である。
一方、憲法第43条にはこのように記されている。
海軍の存立に関わる予算復活とは、まさに臨時緊急の必要の為である。「臨時緊急の必要ある場合に於て常会の外臨時会を召集すべし、臨時会の会期を定むるは勅命に依る」
よって、臨時議会を開催するのは、憲法の観点から言えば正道であった。
だが、清浦は臨時議会開催を躊躇した。
その理由は清浦内閣が何ら政党を基礎とした内閣ではないからである。
臨時議会を招集しても、衆議院の支持が得られないのであれば追加予算の通過は困難である。
ならば政府の取る手段は解散総選挙であるが、そもそも政党の支持がないのに総選挙を戦う自信もない。
加えて1914年秋には大正天皇の即位礼があり、そのタイミングでの解散総選挙はどうしても避けたかった。
このような背景から、清浦は臨時議会の開催にも躊躇した。
なお、天皇の即位礼は4月9日に皇太后崩御により一年の延期となった。
鰻香内閣
海軍から責任支出か臨時議会招集かを求められ、清浦の組閣は伸びに伸びた。
清浦は記者に組閣はまだかと毎日攻め立てられ、冗談でこのように語った。
大和田とは鰻屋であり、後に記者は鰻の香りだけがして肝心のお膳が来ない鰻香内閣と書きたてた。「そうだね、まあ大和田の前を通っているようなもので、匂いだけはするが、お膳立ては中々来ないわい」
4月5日、清浦は蔵相候補であった荒井賢太郎と海相候補であった加藤とともに、本年度予算に関して協議した。
この時、清浦は予算について、以下のように説明した。
まず、既に憲法の規定により大正二年度予算を踏襲する事に決まっている事。
次に、海軍費については新艦建造費など海軍当局に困難な事情があるかもしれないと理解している事。
その上で、軍政事項は内閣成立後に閣員の協議で決すべきで、臨時議会を招集するとか責任支出とするというのはあり得ない。
そしてその結果、海軍大臣を得られない場合は大命を拝辞することを示唆した。
この交渉により、加藤は海相就任を謝絶し、後任推薦依頼も受けれず、清浦は4月7日に組閣拝辞した。
清浦は内閣流産(不成立)の理由について
と振り返っている。「海軍側がかく強硬に出たことについては、一つは海軍の大御所山本伯に対する気兼ねもあり、海軍の大立者は、ことごとく山本伯の眷顧をこうむって居る人ばかりであったから、やむを得ないことでもあったろう」
しかし流産の最大の理由は、清浦が臨時議会招集を諦めたからである。
これはもはや政党の支持のない超然内閣は成り立たないことを示している。
加藤は清浦との交渉の中で「大体臨時議会も開き得ざる内閣には見込みなしとの事に確定し居る」と述べている。
確かに臨時議会も開けないような内閣では、たとえ成立させても通常議会を乗り切れるはずもなく、その後の展開は見えていた。
それほどまでに政党の支持のない清浦内閣は弱体であった。
明治の藩閥内閣が民党と敵対してきた時代は遠く過ぎ去り、衆議院を背景とする政党を無視して政治は出来ない時代となった。
清浦内閣流産を受け、大隈重信に大命が降下し、第二次大隈内閣が発足した。
大隈内閣は同志会を与党とし、海軍予算の復活は臨時議会によって承認された。
シーメンス事件によって大きく後退した海軍の復活は、大隈内閣の内閣改造によって入閣した加藤に担われる事になる。
参考書籍
大正政変と清浦奎吾流産内閣 本田憲之助
清浦内閣流産について。
大正初期の「剰余金支出」問題 国分航士
剰余金に関する論文であるが、清浦内閣流産の理解が非常に進む論文。
第一次世界大戦と加藤友三郎の海軍改革(1)~(3) 平松良太
加藤友三郎を知る上では非常に示唆に富む論文。
薩派に関する数少ない書籍。