1917年4月27日 読売新聞主催で京都ー東京間の東海道駅伝開催。日本最初の駅伝

注釈

当時毎日新聞や朝日新聞は競技会に力を入れていた。

これに対し読売新聞の土岐善麿社会部長は、毎日・朝日に負けない大規模な事業を打てないものかと模索していた。

そこで土岐が目をつけたのがマラソンである。

1912年ストックホルム五輪において日本人として初出場した金栗四三のおかげで、日本人のマラソン熱は高まりつつあった。

だが、土岐の構想は単なるフルマラソンに留まらなかった。

京都から東京までの127里を23区に分けて走り抜く、前代未聞の大リレーマラソン大会を企画した。

土岐はこの途方も無いレースを東海道五十三次駅伝徒歩競走と命名し、帝都50周年を記念する形で開催した。

当初、このレースは関東・関西・中京の選抜チームで競う予定であった。

だが、関西チームは選手が揃わず、愛知第一中学関係者が関西チームを組織して参加することになった。

一方、関東チームは金栗や秋葉といった一流の大学生走者を揃えた。

4月27日、両チームは京都三条大橋をスタートした。

実力差は明らかであったが、関西チームは勝ち目がないが見せ場は作りたいと、エース級走者を名古屋まで並べた。

これにより関東チームに先んじて名古屋市内を通過することに成功した。

この思わぬ健闘に、沿道に駆けつけた人々も関西チームを応援した。

だが健闘も箱根までであった。

関東チームは箱根で関西チームを逆転すると、そこから先はゴールの上野まで先頭のまま突っ走った。

そして、4月29日午前11時34分、関東組のアンカーを務める金栗が上野不忍池にゴールした。

遅れること1時間24分後、関西チームのアンカーを務める貴族院議員の日比野寛がゴールした。

丸二日間、41時間の大競争に両チームともに死力を尽くした。

土岐はこの光景に感動し「尊い追憶の一つ」と記した。

しかし、土岐を待っていたのは、桁違いの赤字であった。

これは、両チームの応援団が行く先々で宿泊先に泊まって飯を食い、その費用を全て読売新聞が負担した為である。

こうして駅伝の生みの親であった土岐は、赤字の責任を取る形で読売を去るのであった。


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