1912年9月13日 乃木将軍夫妻が殉死
乃木将軍の句は
乃木静子夫人の句は「うつし世を神さりましし大君の みあとしたひて我はゆくなり」
であった。「いでましてかへります日のなしときく、けふの御幸に逢うぞかなしき」
殉死の数日前、乃木は皇太子裕仁に蔵書を寄贈したり、軍事参議官たちに別れの言葉を残すなど、覚悟の上の殉死であった。
森鴎外は「興津屋五右衛門の遺書」や「阿部一族」の中で乃木の武士道を称賛した。
夏目漱石も「こゝろ」の中で、以下のように記した。
新聞各紙も、天皇への素朴な忠誠心から来る乃木の自決には概ね好意的であった。「自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだ」
しかし、若いインテリ世代は違っていた。
志賀直哉は率直に「馬鹿な奴だ」という感想を抱いた。
武者小路実篤は以下のように記した。
更に芥川龍之介は、1922年に発表した「将軍」の中で、N将軍(乃木のこと)を以下のように評した。「不健全なる時が自然を悪用して作り上げたる思想に育まれた人の不健全な理性のみが、賛美することを許せる行動である」
乃木の純粋な至誠は、全てを天皇に捧げる明治の精神に昇華した。「無論俗人じゃなかったでしょう。
至誠の人だった事も想像出来ます。
ただその至誠が僕等には、どうもはっきりのみこめないのです。
僕らより後の人間には、なおさら通じるとは思われません」
そして芥川が語ったように、その至誠は全く時代錯誤のものとなりつつあった。
だが、大正から昭和にかけ、軍国主義を高唱する為に、乃木の至誠はあらゆる場面で政治的に利用されるのであった。
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