226事件後の議会言論

コラム

不穏文章臨時取締法を巡る議論

1936年2月26日、青年将校が蹶起し、岡田啓介首相ら重臣を襲撃した。

斎藤実内府、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。

軍のクーデターという最悪の事態発生は帝国日本に黒い影を落とした。

当時のどの政治家も命の危機を感じたし、軍の蹶起に怯えなければならなかった。

議会政治もまた後退を余儀なくされた。

226事件後に大命を拝し、組閣作業に当たっていた広田弘毅もまた困難に直面していた。

陸相候補となった寺内寿一は外相候補となった吉田茂らの入閣に異議を唱え、陸相辞退による内閣流産をチラつかせて圧力をかけたのだ。

陸軍が軍部大臣以外のポストに注文をつけるとは異例の事態である。

言論弾圧の危機も高まりつつあった。

1936年、広田内閣は第69回議会に不穏文章等取締法案を提出した。

この法は「軍秩を紊乱し、財界を撹乱しその他人心を惑乱する目的を以って治安を妨害すべき事項を掲載したる文章図画」に対する規制するものである。

政府原案には出版以外の不穏な流言浮説をも規制する条項が含まれており、広範な言論統制を図ろうとしていた。

言論の自由という国民の権利に関わる問題に、政党側は激しく反発した。

植原悦二郎は「現内閣は言論の自由という事を念頭に置いておらぬ」と批判。

風見明もこの法律を拡大解釈すれば「反対する者は皆、国賊になってしまう」と危機感を示している。

政友会の木村正義は以下の様に演説した。

「本法の運用如何によりまして、憲法によって保障せられた言論の自由は勿論、身体の自由も、信書の秘密も、あらゆる憲法上の臣民の権利が侵害を受けることとなる、そういう結果色々な心配が起こっておると思います。

不穏文章取締法というよりも、私はこの条文を見まして、余程皆が驚いたことだろうと思う。

とにかくこれを見まして分からない、どうされるか分からぬ、全く官憲の考一つでどうでもなり、こうでもなる、こういう風に見えるのであります」

芦田均も今我々が読む新聞に真実を書いたものは少ないと断じている。

「我国の言論界がどんなに不自由な歪められた形で残されておるか」

「今は印刷物に口無し、怪文書をして言わしむる」

小山松寿は226事件に対して流言飛語が行われているとし、この原因を以下の様に指摘する。

「近来言論機関の機能が十分に発揮されない為に、かえって流言飛語をさかんならしめ、所謂怪文書の横行跋扈をほしいままにし、人心を不安に導いておる」

浜田国松も政府が国民の口を塞ぎ、筆を奪っているとし、この様に論じた。

「漫然と時局の重大に口をかって、言論の自由を妨ぐるがごとき政治が行わるるものであったならば、これは実に立憲政治の破壊行為であります」

社大党の田万清臣も、政府の対応を論難する。

「殆ど言論の自由を有って居らぬこの上へ持って来まして、不穏文章等取締法というようなものを制定されるということは、余りに酷に過ぎやせぬだろうかと思う。

現行法規の下ですら行政手加減によりまして、言論ということは殆ど行われておらぬ。自由というものは全く奪われている」

こうした政党の批判に対し広田首相は、この様にやり返している。

「政府が自らこれはどうしても必要だと認識している点に御認識がなければ、それは認識の相違よりも、私は認識の不足ではないかと、そういう事を怖れておるのであります」

政府はあくまで強気であり、不穏文章等取締法案が審議未了となった場合、緊急勅令で押し通すという噂すら立った。

そこで議会は法案を不穏文章臨時取締法へ名前を変えさせ、条文に「言論自由、人権尊重」という付帯決議をつけさせる事で妥協した。

このように高まる言論弾圧の危機、軍部の議会政党への圧力に対し、政党は帝国議会において言論を以って存在意義を示すのであった。

斎藤隆夫 – 粛軍演説

我が国の議会政治の歴史において名演説といえば、日中戦争の欺瞞を貫いた斎藤隆夫の反軍演説である。

斎藤は1912年の総選挙で当選した古参議員であり、憲政会にあって普通選挙の闘士として知られていた。

その斎藤は226事件の後にも粛軍演説という名演説を放っている。

1936年5月7日、斎藤は演壇に上がり、政府に対して「粛軍に関する質問演説」を行なった。

まず斎藤は広田弘毅首相に対し「身を挺して国政一新の衝に当らるることは、吾々の最も歓迎する所である」と述べて、226後の難局に組閣したことを激励した。

だが、話が広田内閣の掲げる革新政治に話が及ぶや、論調は一変した。

「何を革新せんとするのであるか、どういう革新を行わんとするのであるかと言えば、殆ど茫漠として捕捉することは出来ない。

言論をもって革新を叫ぶ者あり、文章によって革新を鼓吹する者あり、甚しきに至っては暴力によって革新を断行せんとする者もありまするが、彼らの中において、真に世界の大勢を達観し、国家内外の実情を認識して、たとえ一つたりとも理論あり、根底あり、実効性あるところの革新案を提供した者あるかというと、私は今日に至るまでこれを見出すことは出来ないのである。

国家改造を唱えるが如何に国家を改造せんとするのであるか、昭和維新などということを唱えるが、いかにして維新の大業を果たさんとするのであるか。

しかもこの種類の無責任にして矯激なる言論が、ややもすれば思慮浅薄なる一部の人々を刺激して、ここにもかしこにも不穏の計画を醸成し、不逞の凶漢を出すに至っては、実に文明国民の恥辱であり、かつ醜態であるのであります」

無責任で過激な国家改造や昭和維新といった革新論が226事件の青年将校を生み出したのである。

革新熱に浮かされず、内外の実情を認識せよと説く。

「難に臨んで卑怯千万の振舞いをしてはならない軍人精神の発露としては当然のことであります。

しかし惜しむべきことは、如何にもその思想が単純でありまして、複雑せる国家社会を認識するところの眼界が如何にも狭隘であることである」

「昭和維新を唱えて昭和維新の何たるを解しない。

畢竟するに生存競争の落伍者、政界の失意者ないし一知半解の学者らの唱えるところの改造論に耳を傾ける何ものもないのであります」

この様に青年将校たちの政治思想の単純さ、幼稚さを断じた。

斎藤は矛先を青年将校から陸軍に向けた。

満州事変後に軍部に革新論が台頭し、青年将校たちが国家改造を論じたり、革命運動に加わったと指摘する。

「現役軍人でありながら、政治を論じ、政治運動に加わる者が出て来たことは争うことの出来ない事実である」

軍人の政治活動は軍人勅諭や憲法の趣旨に反すると法律論を展開する。

「もし軍人が政治運動に加わることを許すということになりますると言うと、政争の末、遂には武力に訴えて自己の主張を貫徹するに至るは自然の勢いでありまして、事ここに至れば、立憲政治の破滅は言うに及ばず、国家動乱、武人専制の端を開くものでありまするからして、軍事の政治運動は断じて厳禁せねばならぬのであります。

ことに青年将校の思想は極めて純真ではございまするが又単純である、それ故にこれらの人々が政治に干渉するということは、極めて危険性を持って居るものであります」

軍人が政治運動に加われば、テロやクーデターが起き、立憲政治を破滅させる怖れがある。

それは国家動乱、武人専制の端を開く。軍人の政治干与は一切許されないのだ。

斎藤は更に踏み込んで、226事件を引き起こした軍部の責任を追及した。

「およそ禍はこれを初に断ち切ることは極めて容易であります。

容易であると同時に、将来の禍を防ぐ唯一の途であるに拘らず、これを曖昧のうちに葬り去って、将来の禍根を一掃することが出来ると思う者があるならば、それは非常なる誤であるのであります」

この様に論じて、三月事件を徹底的に処分してクーデターの芽を初期のうちに潰しておけば、226事件は起きなかったに違いないと断じた。

軍部の姿勢の問題は515時事件の軍事裁判に端的に現れている。

斎藤は実際に515事件の公判を傍聴している。

検察は515事件の被告たちに叛乱罪を適用し死刑を求刑した。

にも関わらず、軍内部で反対運動が巻き起こり、首脳部はそれを制止できずに、その処置を甘くしたのではないかと糾弾した。

この指摘に思わず寺内陸相はうなだれ、議員席にいた犬養毅の息子、犬養健は落涙したという。

また、軍人の被告たちは有期刑に減刑された一方で民間人の被告たちは発電所爆破未遂の罪で無期懲役となっている。

明らかに公平性を欠く判決である。

「天皇の御名に依って行われる裁判は徹頭徹尾独立であり、神聖であり、至公至平でなければならないのであります。

然るに人と場合に依って裁判宣告にかくの如き差等を生ずる、これでは国家の裁判権が遺憾なく発揮せられたりと言うことが出来るのか。

これで刑罰の目的であります所の犯罪予防の効果を完全に収めることが出来るのか。

軍務当局者は真剣に考えねばならぬ所の重大問題であるのであります」

軍事裁判所を管轄する軍部当局が保身に走ったと追及した。

そして、その軍人被告たちを以下の様に断ずる。

「彼らはいずれも22.3歳から30歳に足らないところこ青年でございまして、軍事に関しては一応の修養を積んでおるには相違ありませぬが、政治、外交、財政、経済等につきましては、無論基礎的学問をなしたることはなく、いわんや何らの経験も持っていないのである」

軍人たちの政治運動を憲法、法律、陸海軍刑法何れもが禁止していると改めて指摘した。

斎藤の軍部批判は加速し、軍部首脳に226事件の黒幕がいるのではないかと思い切って問い質した。

「平素これらの青年将校に向かって、ある一種の思想を吹き込むとか、彼らがかかる事件を起こすに当たって精神上の動機を与えるとか、あるいはかかる事件の起こることを暗に予知して居る。

あるいは俗に言う所の裏面において糸を引いて居る、こういう者は一人もいなかったのであるか。私の観る所に依りまするというと、世間は確かにこれを疑って居るのであります」

世間では226事件の黒幕として真崎眞三郎説が流布していた。

軍部はその疑いを指摘する者を反軍思想だの、非国民の軍民離間的態度だの批判していたが、斎藤はそのような姿勢では国民の疑いは晴れないと断じた。

斎藤は軍人が極端な政治思想にかぶれることを防ぐべきだと説く。

日本国民は外国思想の影響を受けやすい。

デモクラシーが流行ったかと思ったらコミュニズムが台頭し、現在はファッショ思想に走る者もいる。

「思想上において国民的自主独立の見識のないことはお互いに戒めねばならぬことであります。

今日極端なる所の左傾思想が有害であると同じく、極端なる所の右傾思想もまた有害であるのであります。

左傾といい右傾と称しまするが、進みゆく道は違いまするけれども、帰する所は今日の国家組織、政治組織を破壊せんとするものである。

ただ一つは愛国の名によってこれを行い、他の一つは無産大衆の名によってこれを行わんとして居るのでありまして、その危険なることは同じことであるのであります。

我が日本の国家組織は、建国以来三千年牢固として動くものではない、終始一貫して何ら変わりはない。

また政治組織は、明治大帝の偉業によって建設せられたる所の立憲君主制、これより外に吾々国民として進むべき道は絶対にないのであります。

故に、軍首脳部が宜しくこの精神を体して、極めて穏健に部下を導いたならば、青年軍人の間において怪しむべき不穏の思想が起こる訳は、断じてないのである」

斎藤の視線は自らが立脚するところの政党内部にいる親軍政治家にも向かった。

「もしそれ軍部以外の政治家にして、あるいは軍の一部と結託通謀して政治上の野心を行わんとするが如き者がもしあるならば、これは実に看過すべからざるものであります。

いやしくも立憲政治家たる者は、国民を背景として正々堂々と民衆の前に立って、国家の為に公明正大なる所の政治上の事を為すべきである。

裏面に策動して不穏の陰謀を企てる如きは、立憲政治家とし許しべからざることである。

いわんや政治圏外にある所の軍部の一角と通謀して自己の野心を遂げんとするに至っては、これは政治家の恥辱であり、堕落であり、また実に卑怯千万の振舞いであるのである」

国民の立場に立って国民を守るべき政党政治家が、政権争奪の為に軍部と結託し、政党を否定する。

そのような行為を厳しく批判した。

最後に斎藤は軍部に対し、226事件のような反乱に対しどう立ち向かおうのか詰問した。

「なお最後に一言致して置きたいことは、この事件に対する国民の感情で有ります。

中央といわず、地方といわず、上下あらゆる階級を通じて衷心非常に憤慨をして居ります。

非常に残念に思って居るのであります。

殊に国民的尊敬の的となって居られた所の高橋蔵相、斎藤内府、渡辺総監の如き、誰が見た所が温厚篤実、身を以て国に尽くす所の陛下の重臣が、国を護るがため授けられたる軍人の銃剣に依って虐殺せらるるに至っては軍を信頼する所の国民にとっては実に耐え難き苦痛であるのであります。

それにも拘らず彼らは今日の時勢、言論の自由が拘束せられて居ります所の今日の時代において、公然これを口にすることは出来ない。

僅かに私語の間にこれを洩らし、あるいは目を以ってこれを告ぐる等、専制武断の封建時代と何の変わる所があるか。

一部の単独意志によって国民の総意が蹂躙せらるるが如き形勢が見ゆるのは、甚だ遺憾千万の至りに耐えないのであります。

それでも国民は沈黙し、政党も沈黙して居るのである」

軍部を批判する国民を非国民と呼び、軍民離間の策と一蹴する軍部こそが、自ら疑いを晴らさねばならない。

その上で、国難の打開は軍隊の力ではなく、国民の団結によって行われるのだ。

「満洲事件以来、国の内外に非常な変化が起こりまして、世は非常時であると唱えられて居るのであります。

この非常時を乗り切る物は如何なる力であるか。

場合によっては軍隊の力に依頼せねばならぬ、しかしながら軍隊のみの力ではない。

また場合によっては銃剣の力にまたねばならぬ、しかし銃剣のみの力ではない。

上下あらゆる階級を通じて一致和合したる全国民の精神的団結力、これより外にこの難局を征服する所の何物とないのであります。

もとより軍部当局はこれくらいのことは百も千も御承知のことでござりましょうが、近頃の世相を見まするというと、何となくある威力によって国民の自由が弾圧せられるが如き傾向を見るのは、国家の将来にとってまことに憂うべきことであります。

軍を論じ軍政を論ずるのは、即ち国政を論ずるのであります。

決してこれが為に軍に対して反感を抱くのではない。

軍民離間を策する者でもなければ、反軍思想を鼓吹する者でもありませぬから、反軍思想であるとかあるいは軍民離間であるとかいうような言辞については、将来一層のご注意ありたい。

私の質問は大体これくらいでございまするが、忌憚なく御答弁あらんことを希望致します」

1時間25分に渡る、粛軍に関する質問演説は終了した。

寺内陸相は、御趣旨には全く同感である、と答弁せざるをえなかった。

斎藤は演説に好感触を得たようで、この様に日記に記した。

「満場静粛。

時に万雷起る。

議員多数、握手を求め、大成功を賞揚す。

予も責任を果たしたる感あり、大安心」

翌日以降、各紙一面は粛軍演説で埋められ、激賞された。

報知新聞は粛軍演説を記録的名演説と讃えて、その様を「秋霜烈日、深山を闊歩すること猛虎の叫び」と表現した。

東京日日新聞は「斎藤氏熱火の大論陣 国民の総意を代表し、今事件の心臓を衝く」と評する。

東京朝日新聞も「近年稀に見る大論陣。議会論壇の歴史附歯車を大きくがたりと回してくれた」と絶賛した。

新聞記者だけでなく代議士たちも深い感動を覚えた様で、民政党機関紙はこの様に記した。

「あの演説には私心もない。

自分もなければ党もない。

名も求めなければ欲もない。

命さえ捨てて顧みない。

ただただ上は聖上、下は万民、日本帝国の為より外には何の考えもない。

これがあの言論を吐かしたのだ」

「日本国土を護らせたまう神がこれを言わしめたのである」

言論界も斎藤演説を絶賛した。

水野広徳は斎藤演説を「我が議会史上空前の名演説にして、我ら国民は溜飲の下がる事ただ二三斗のみにあらず、議会存在の意義を今日始めて教えられ候」と評した。

桐生悠々はジャーナリズムを以下の様に定義する。

「国民として、特に、この非常に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ」

その上で「斎藤隆夫氏の質問演説はその言わねばならないことを言った好適例である」と称賛した。

粛軍演説は政治家・メディアだけでなく、国民からも称された。

演説翌日から斎藤の下には一般民衆の感謝状が次々舞い込んだ。

国民の言えなかったことを国民に代わって議会でよくぞ言ってくれたと激励した。

一兵卒の父と名乗る人からは「よくおっしゃってくださいました。お礼を申し上げます」と感想を送った。

斎藤はこの反応にこの様に語った。

「余は死すとも、この演説が永く我国の憲政史上に残ると思えば、余は実に政治家としての一大責任を果たしたる心地がした」

斎藤隆夫の粛軍演説は、軍部の本格的な政治進出を前に、政党政治家の矜持を示した不朽の大演説であった。

宮脇長吉 – 粛軍を糺す

37年、政党を無視した林・超然内閣が誕生した。

これに対し政党は予算不成立に追い込んで攻撃する意気込みもなく、斎藤は「政党に義士なし」と嘆いていた。

その斎藤をして傾聴の値ありと評した演説を行ったのが、政友会の宮脇長吉である。

宮脇は陸軍軍人出身の政治家で、兄弟には政友会の重鎮である三土忠造があった。

後に斎藤隆夫が反軍演説で除名された際は、除名反対に投票した数少ない議員である。

1937年2月16日、宮脇は「粛軍を糺す」と題した大演説を行った。

まず宮脇は急増する国防費の将来を国民が大いに憂慮していると指摘する。

今や日本は、世界最大の陸軍国、世界最大の海軍国を相手にする立場であり、これに必要とする軍備が日本の国力で果たして堪えられるのであろうか。

勿論、国家を保護する為に絶対に必要な軍備であれば、国民はこれを負担するであろう。

「しかしながらここに考慮を要する事は、この準戦時的状態は我が国力を以ってしては長く続くものではありませぬ。

現に本年度の予算編成におきましても、一方民力を枯渇せしむるの虞あるような増税を断行し、他方において消化の限度を越える虞あるような多額の公債発行によって、漸く歳入歳出の辻褄を合わせて居るのであります」

この状態が続けば経済界に悪影響を及ぼし、国力は疲弊する。

「所謂軍備が成っても国防が危うし、否遂には軍備そのものもまた疲弊せんことを憂うるのであります。

故に国民の憂慮に堪えぬものは、今は我慢してこれに堪えまするが、将来国防は一体如何様になるのでありますか。

即ち我慢する事は嫌いませぬが、如何に我慢するも、あるいは国力が遂に堪え得ないようになりはせぬかということを心配して居る次第であります」

次に宮脇は粛軍について問いただした。

ここからが宮脇演説の真骨頂である。

寺内前陸相は226事件の善後処置として、粛軍については陸軍に任せてもらいたいと述べ、議会もこれを信頼して、あれこれ質問をしなかった。

しかし現在の状況を見ると、議会の期待に沿わない事ばかりである。

宮脇が指摘したのは、反乱行為を幇助した者に対する処罰の甘さである。

国民は反乱そのものに対する行為はもとより、反乱行為を幇助した者を、むしろそれ以上に大悪人として憤慨している。

だが、反乱幇助に対する軍部の方針は微温的である。

事件当時、反乱者の直属の上官でなかったにしても、直前まで軍の責任者であった者に対する処罰が不徹底である。

それらの者が、自ら進んで責任を取ると言い出さないのも、全く遺憾であると断じた。

ここで宮脇は、226事件の責任を問いただす。

事件直後、軍部が直ちに反乱を鎮圧しなかった理由は、皇軍相撃つを避けるためとか、反乱軍が宮城付近を占領していたからとか理由を挙げている。

だが、国民はこのような理由を首肯するものではない。

皇軍相撃つというが、反乱軍は既に皇軍ではないではないか。

宮城付近が占拠されたというが、宮城付近であるからこそ、速やかに一掃すべきである。

反乱軍を4日間も放置し、天皇を悩ませ、国民を極度の不安に陥れた罪は誰が負ったのか。

それに、事件を未然に防止できなかった責任は、一体どこにあるのか。

これらに関する責任者の処置はどうなっているのか。

「元来この226事件に関しましては、実を申せば、軍人以外の他の社会の者は、かかる事件を惹起した事は陸軍のみの罪ではない。

社会もまた悪いのである。

社会もまたその責を負わなければならないと自覚し、ことに政治家が第一にここに著意し、十分自粛自戒すべきでありました」

「しかして陸軍においては決して罪を他に転嫁する事なく、かかる事件を惹起した事は全く陸軍の罪であり、上は陛下に対し奉り、下は国民に対して、真に申し訳がない。

その責任の重大なるに鑑み努めて謹慎の態度を執り、かかる事件を再び惹起せしめないように、自力を以って徹底的に軍の粛正を図ることを、誓うべきであったのであります」

この様に論じて、陸軍の態度を質した。

「陸軍の当局者中、かかる事件を起こした事は、稚政の結果であって、庶政を一新するにあらざれば、粛軍は不可能であるかの如き言を弄した事は、森厳なる軍紀の下に立つ我が国軍を指導監督する陸軍当局としては、大いに間違った考えであろうと思います」

更に宮脇は陸軍批判に踏み込んでゆく。

「私どもは226事件の如きは、近時軍人が政治に干与したことが、その重大な一因と信じて居ります。

随って粛軍の根本方針として、軍人の政治干与を厳に戒めるを要すると信じて居ります。

然るに226事件以降、陸軍の一部の者、これは極めて少数であります。

この極めて少数の者が従来より一層政治に干与するの傾向ある事は、かえって逆を行くものであって、国家の為、真に憂慮に堪えぬ次第であります」

宮脇は武権政治の弊害は日本はもちろん、世界の歴史においても立証されていると説く。

「特に我が国史におきまして国体を汚辱した原因は、武人が政権を握った為である事は、言うまでもありませぬ。

されば軍人が政治に干与する事は、我が国体としては絶対に相容れぬ者であり、文武の職制は明確に区別せねばならぬものであります」

明治天皇もこの点に重きを置き、軍人勅語の中において「中世以降の如き失態のなからん事を望む」と言われている。

この聖慮を奉戴する為に、陸海軍の法規は、軍人の政治干与を厳かに戒めているではないか。

勿論、政治に関わることがない軍人といえども、国民である以上は稚政があれば憤慨するのは当然である。

しかし現役将校が、政治上の憤慨に堪えないという理由で、軍紀に反した行動をとる事は、軍人勅諭の根本を覆すもので、絶対に許すべきではない。

もし現状を黙視出来ないのであれば、現役を去って、軍紀に及ぼさない範囲で政治行動を行うべきである。

現役軍人は如何なることがあっても、軍紀を破ってはならない。

「近時ややもすれば明治十五年勅諭御下賜の当時と現在とは国家の情勢を異にするを以って、現在においては軍人が政治に干与するもやむを得ざるべしと、勝手な議論を致す者がありまするが、そもそも明治大帝御下賜の勅諭というものを謹読致しまする時、この聖諭は古今を通じて誤らず、未来永劫軍人として奉々服膺すべきもので、天地の公道人倫の常經なりと仰せられ、千載不磨の御聖諭である事は今更申すまでもありませぬ」

何故、明治天皇の軍人勅諭に背くような言動を為すことが出来るのであろうか。

現在の軍人の行動は、今すぐ兵権・政権を掌握する意図はないのは明らかであるとフォローしつつ、この様に批判を加える。

「しかし凡そかかる風潮を無節制に放任するにおきましては、あるいは遠き将来において兵権、政権の両者を獲得せんとする徒輩を出すの端緒を開くの虞なしと、何人が保障し得ましょうか。

のみならず比較的世事に疎き若き軍人が、主観的見地より政治を批判断定する事は、この上もない危険でありまして、226事件の如きはこの結果であると信じて居ります」

宮脇は改めて、政治干与を行う軍人は極めて少数であると説く。

大多数の現役将校は衷心より軍人勅諭を奉戴し、軍務に精勤している。

であるが故に、政治干与を行う者に対して痛く憤激し、深く憂慮していると論じる。

政治に容喙する軍人は現在はごく少数であるが、これが将来陸軍を掌握する可能性がある。

国民も政治家もそれを最も恐れている。

今こそ大英断を以ってこの禍根を剪除すべきだと主張する。

「吾々は勅諭を精神とし、一意専心軍務に奉公しある忠良なる多数の軍人に対しましては、深く感謝の意を表すると共に、誤って政治関与に志しておる所の一部少数軍人に対しましては、心機一転速やかに明治大帝の聖諭の下に還り、忠良なる軍人として至誠君国に御奉公するよう、衷心より勧告致す次第であります」

宮脇の舌鋒は軍部大臣に向かう。

「陸海軍大臣の任用に関しては、軍政という特別なる仕事の関係上、特別規定が設けられてありまする精神に鑑みて、なるべく軍事関係以外の国務に容喙せざる方が、至当であると思うて居ります」

今までの軍部大臣は、一介の武弁と称して、軍務以外の国務に対しては超然たる態度を持って、国民の信頼を得てきた。

だが、ごく少数の現役将校が政治に干与する傾向がある現状において、これを抑制する方法として、従来以上に軍部大臣が戒心すべきである。

であるにも関わらず

「広義国防の名の下に、行政、財政、税制を初め、遂には国民選挙にまで容喙し、過激なる批判を加へて憚らざるのみならず、全面的に政治に干渉し、あたかも陸軍と云ふ政治団体でもあるかの如き観を呈して居ることは、誠に遺憾千万な次第であります」

と、その姿勢を断じた。

もし広義国防を主張するならば、軍部だけでなく各省皆で論ずればいいではないか。

宮脇は例えとして、司法省が公義司法の名の下に、教育や思想が善導されれば犯罪者がないからと文部省の政務に容喙すれば、その結果はどうなるか。

生活の安定が得られれば犯罪者が減少するからと農林・商工省の政務に容喙すれば、その結果はどうなるか。

文部省が広義文教の見地から、農林省が広義農林行政の見地から、商工省が広義将校行政の見地から、各省所管に一々容喙すれば、その結果はどうなるのか。

国務の秩序統制は維持できなくなり、日本はバラバラになってしてしまうではないか。

「吾々は軍部大臣が広義国防の見地より、軍務以外の国務に対しある程度の発言の必要なる事はこれを認めまするが、しかしながらこれには自ら程度があります」

軍部は広義国防に名を借りて、公債発行、税制、農林問題、電力問題、議会制度改革にまで容喙していると糾弾されても仕方がない。

「近時世間一般に軍部に対し遠慮がちの態度を執り、率直なる批判を加えざるを以って、輿論が軍部の意見に同意せりと即断致しまするならば、これは大なる間違いであります。

賢者は思うことを言わざる、否思うことを言えざる国民の反動に関し、深く考慮を払わねばなりませぬ」

宮脇は最後に以下のように論じた。

「元来政治の衝に当たる者は兎角適役を勤めねばならぬのでありまして、輿論の攻撃、国民の反威の的となり易い者でありまするから、軍民一致を要する国防の大任に当たっている軍部が、進んでこの衝に当たる事は大に避けねばなりませぬ。

今にして軍人が政治に干与する言動を改めずんば、軍部が国民の怨府となり、国民皆兵の今日において、国防の根幹をなすものは軍民一致であります故に、もし軍部が国民の怨府となりまするならば、これ即ち軍部自らが国防力を減退に導くものと言わねばなりませぬ」

宮脇はこの状況を深く憂慮する一人であった。

故に軍部大臣は一層政治干与しない態度を執り、粛軍を徹底する必要があるのだ。

宮脇は後にこの演説について

「至誠国家の隆昌を願い、非常時下における我国国防の強化を念願する」

と述べている。

宮脇の演説も斎藤の粛軍演説同様、軍部の圧力を前に議会政治の矜持を示した、語り継がれるべき名演説であった。

津村重舎の除名

斎藤演説も宮脇演説も帝国議会における言論の自由が保障されていたからこそ行えた。

だが議会の言論の自由は着々と狭まっていた。

それは反軍演説を行なった斎藤隆夫の除名が象徴的であるが、早くも36年に貴族院にその傾向は現れていた。

36年5月14日、貴族院において津村重舎が以下のように演説した。

「日本陸海軍のごときは皆義務で何らの報酬を求めずして名誉とし国家のために喜んで死んでゆく。

三勇士というような兵隊は全部そうであると称せられておって、将校よりも兵卒が大和魂を余計持っておりはしないか。

そうして将校にたくさんの月給を与えて、あるいはそういうものは月給なしにして実費でやった方が宜しいかもしれぬ。

一将功成りて万卒枯る、乃木大将が陛下の前でお詫びをなし、たくさんの赤子を殺して申し訳ない、これが将校の精神でなければならぬ。

それに上官を殺しておいて台湾へ赴任すると自ら信じ(注:相沢三郎のこと)、またその人を予備に取り立てて恩給をやって裁判をグズグズさして、死刑の宣告を受けると上告すると。

こういうような気分が日本全国の国民にだんだん知れるというと、いかなる思想上に悪影響を及ぼすでありましょうか」

この演説を聞いた永野修身海相は、将校の忠誠の観念は薄いという言葉に噛みついた。

「海軍大臣として、我が忠勇なる軍隊におきましては、上下一致、至誠奉公の念においてちょっとも遺憾な点がありませぬ。

将校は部下を指導し、これをして立派な軍人になすところの指導的位置におります」

永野海相の反発を受け、津村が所属する貴族院研究会内部では、発言が軍部を刺激したので陳謝して発言を取り消すべきだとの声が上がった。

津村は陸海軍大臣を訪問し、陳謝して発言取り消しの旨、了承を求めた。

だが、軍部は発言取り消しで解決する問題ではなく、貴族院が津村を処分すべきとの強硬意見を発表した。

これに呼応して軍人出身議員の多い貴族院公正会も津村の懲罰動議を提出する。

軍部硬化に動揺する研究会も、津村の発言は非常識であり、自発的に脱会した上で議員を辞職するよう勧告した。

こうして5月15日、貴族院本会議にて津村の懲罰動議が全会一致で可決された。

これが貴族院創設以来、初めての懲罰動議可決である。

津村はこれに従い、貴族院議員を辞職願を提出している。

津村が貴族院を退出後、寺内陸相は津村発言に対し陸軍の見解を述べた。

「津村君は軍隊における極めて特殊なる一、二の事例を引用致されまして、あたかも全軍において将校の忠誠に対する観念は下士官に劣るが如き見解を公にせられましたことは国軍将校に対する最大の侮辱であって、深く遺憾に存ずるものであります。

我が軍隊における将校以下の忠誠の念は、実に熱鉄の如きものであります。

特に将校は軍隊の禎幹であり、軍隊団結の中核でありまして、常に率先垂範、下士官兵に対する教育薫化の根源でございます。

過去における諸戦役および事変を通じ、将校の死傷率の特に大なることに微しましても、将校の精神状態が極めて優良である事を立証するものと確信いたします。

したがって津村君の昨日述べられましたるご意見は、全軍将校の名誉を汚し、矜持を挫くるものにして、軍存立上の重大問題であります」

斎藤や宮脇は慎重な言い回しで軍部批判を行った。

そう考えれば津村発言は確かに軽率であった。

しかし弁明の余地は一切与えられず、問答無用で議員辞職に追い込まれたのは、議会が自らの言論の自由を束縛するものであった。

このように226事件後に言論の府である帝国議会においても、軍部批判が許されない空気が形成されつつあった。

参考書籍

評伝斎藤隆夫-孤高のパトリオット 松本健一

man

斎藤隆夫の本格評伝。基本の一冊。

粛軍を糺す 宮脇長吉

man

宮脇の演説を一冊にまとめたもの。宮脇の弁舌を是非とも味わってほしい。

不滅の演説 中正雄

man

帝国議会史に輝く演説集。珍演説から名演説まで。

広田弘毅 服部龍二

man

広田内閣に関する基礎的知識。