1915年8月18日 第一回全国中等学校優勝野球大会開催

注釈

京都帝大生であった高山義三(後の京都市長)は京都府周辺の中学校の対抗戦を考え、企画を大阪毎日新聞に持ち込んだ。

これがあしらわれた為に、今度は大阪朝日新聞に企画を持ち込んだところ、数日内に本社から運動部員がやって来て、全国大会にしようと話が盛り上がった。

会場に大阪の豊中グラウンドを選定し、ここに全国の中学校野球部を集めて、選手権大会を開催した。

所謂夏の甲子園はここに初まった。

記念すべき大会第一試合、当時の野球ファンの度胆を抜く出来事があった。

対戦する広島中学と鳥取中学の選手が、グラウンドで向き合うや互いに帽子を取り、お辞儀したのである。 当時の野球は喧嘩腰で挑むものであり、野球のトラブルで絶縁状態に至る学校とあった。

それだけに観客だけでなく、選手も驚いたという。

この試合前の一同整列・礼を定めた平岡寅之助副審判長は、その理由を以下のように語っている。

「徳義を重んずる勇者の試合には必ず付随すべき礼儀なり」

だが、試合がヒートアップするにつれベンチのヤジは熱を帯び、出身地を揶揄したり、早稲田実業に対しては大隈の悪口が飛び交った。

野球が徳義を重んじるようになるには、まだ時間が必要であった。

始球式でも珍事が起きた。

第一試合の始球式は、朝日新聞社社長の村山龍平が務めた。

村山社長が投じた一球を広島中の1番バッター小田大助選手が空振りしたところ、これが正式にストライクとカウントされてしまった。

審判のミスは明白であったが、判定は絶対として、そのまま訂正されずに小田選手は三振となった。 なお、第一回大会は優勝校に図書切手や辞典が送られた。

これに対し朝日新聞社会部長の長谷川如是閑が子供に賞品を与えるとは何事かと怒り、第二回大会からは大阪名物の栗おこしのみが与えられるようになったという。


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