1916年11月3日 資生堂化粧品部開店
大正時代になり、創業者の三男であった福原信三が事業に参加すると、事業の主体を薬品から化粧品へと移し、化粧品部を新設した。
福原は留学先で化粧品販売に勤め、香水メーカーを視察し、日本で化粧品が売れることを確信していた。
資生堂が画期的であったのは、化粧品部開店に合わせて、広告や化粧品パッケージのデザインを担当する意匠部も設立したことであった。
当時の企業は、新聞や看板に大広告を打つのが主流であった。
福原はこれに対し、広告は単に売るためのものではないとし、以下のように語る。
このような哲学の下、福原は商品の意匠を重視した。「商品それ自体に語らしめよ」
福原自身も著名なカメラマンでもあり、多くの芸術家との繋がりがあったことから、意匠部には有能なデザイナーが集められた。
そして世に出たのが、八角形のケースに花椿のマークを入れた七色粉白粉や、洋画家からも絶賛されたアールヌーボーを基調とした包装紙である。
芸術品と見紛うような容器や衣装に包まれた化粧品は、おしゃれを求める女性の間でたちまち大人気となった。
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