1922年10月1日 新国劇が浅草公園劇場と契約
だが、東京公演に失敗し、流浪を繰り返すうちに団員は8人まで減っていた。
この新国劇に目をつけたのが大阪松竹の興行師、白井松次郎である。
白井は大阪・弁天座を提供して、新国劇に活躍の場を与えた。
この時、白井は劇団の売りになる女優を入れようと提案したが、沢田は自分が売り物になると豪語してみせた。
そして世に出たのが「月形半平太」と「国定忠治」である。
月形半平太は「月さま雨が」「春雨じゃ濡れてゆこう」の名台詞で広く知れ渡るようになった。
一方で国定忠治は、派手で激しい立ち回りが話題となった。
国定忠治の演技を指導したのは、元歌舞伎役者の市川段平である。
市川は軽業師のようなトンボを得意としており、彼の指導するスピーディーでリアリティ溢れる斬新な壮絶な剣戟の舞台は、いつしか「殺陣」と呼ばれるようになった。
新国劇の殺陣は大きな評判を呼び、映画や文芸に影響を与えるチャンバラブームが巻き起こった。
そして1922年、再び上京を果たすと、浅草公園劇場と契約して独自の公演活動に乗り出した。
以降「右に芸術、左に大衆」を掲げて、新国劇は浅草を舞台にする剣劇のヒーローとなった。
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