1921年2月1日 豪傑児雷也封切り。牧野省三監督、尾上松之助主演の忍術映画

注釈

「時の首相は知らなくても、目玉の松っちゃんを知らないものはない」

このように言わしめた人気スターが、尾上松之助であった。

子供の頃から舞台に上がっていた尾上は、旅芸座の一座に加わり、人気を博していた。

特に1910年「石山軍配」の舞台で、目玉をギョロッとさせて見得を切ったところから「目玉の松ちゃん」として愛されるようになった。

そんな尾上を映画界に招いたのが、映画監督の牧野省三である。

牧野は尾上の旅芝居を見て、その歌舞伎特有の軽業やケレンの上手さが映画向きであるとすぐさま判断し、スカウトした。

従来の日本映画は驚くほど静的で、動きが少なかった。

牧野はこれに対し、講談を題材とした勧善懲悪の分かりやすい話を、動き本位で演出してみせた。

画面狭しと動き回る、今までにない動的な映画の登場により尾上の人気は爆発し、数百本の映画が世に出た。

最盛期は月9本、一年間で80本近い映画が作られ、日に数本並行して撮影するのも日常茶飯事で、尾上は飲まず食わずで撮影に臨んだという。

これほど映画を大量生産するからか、尾上作品には特段これといったシナリオはなかった。

とにかく勧善懲悪で、尾上演じる主人公が正義であれば何でも良く、あとは尾上が兎に角大立ち回りすれば作品になるのだ。

その映画の作成法も荒々しく、牧野監督が講談本を持って撮影現場に現れるや、その場でキャスティングし、場当たり的に脚色したという逸話もある。

こうして、歌舞伎や講談、立川文庫、鞍馬天狗、新撰組、忠臣蔵、南総里見八犬伝、荒木又右衛門など、手当たり次第、様々なジャンルの映画が撮られた。

この中で特に子供達の人気を博したのが、猿飛佐助や児雷也などの忍術映画であった。

逆回転やコマ落としなどの簡単な特撮によって、尾上演じる忍者が忽然とスクリーンから姿を消したり、カエルや鷲に変身するなどの「忍術」を披露した。

そして最後に目をギョロッとさせて見得を切り、その動作に弁士が拍子木を打てば、劇場内は大興奮のるつぼになるのだった。

間も無く子供達の間では忍者ごっこが大流行した。

見得を切って両手で印を結ぶとか、押入れに隠れて姿を消すならまだ可愛い方で、高いところから飛び降りて怪我する子が続出するなど、社会現象まで巻き起こした。

これほどまでに尾上松之助は少年たちの憧れの的であったのだ。


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