1918年11月2日 芥川龍之介がスペイン風邪に感染。スペイン風邪が猛威を振るう
スペインにおいては首相や国王までもが感染したことから、スペイン風邪と名付けられた。
このスペイン風邪は、人類が経験したどの伝染病とも違う特徴があった。
通常のインフルエンザは免疫力の弱い幼児や老人が罹患しやすい特徴がある。
これに対し、スペイン風邪は若者の間で流行するのが特徴であった。
症状は急変しやすく、致死率も高い。
更に感染力がとても強く、潜伏期間も短い。
部隊で一人患者が出ると、翌日には数百人の患者が出たとか、夜に元気だった人が翌朝には亡くなっていたとか、スペイン風邪の恐ろしさを物語るエピソードは枚挙にいとまがない。
人類はスペイン風邪に対する有効な治療法を見つけることが出来ず、あっという間に世界に伝播した。
西部戦線のドイツ軍の間でも大流行し、戦闘力を喪失した。
スペイン風邪が第一次世界大戦の終結にも影響を及ぼしたと言われ、ドイツのルーデンドルフも米軍ではなくインフルエンザにやられたとボヤくレベルであった。
日本には1918年夏に上陸し、わずか数十日で全国に蔓延し、流感の名で恐れられた。
11月には感染のピークに達し、東京の感染者は40万人を超え、火葬場はパンクし、風邪薬が高騰した。
感染拡大により学校の休校が相次ぎ、欠勤者のために鉄道や郵便、電話交換などの公共サービス、工場の操業にまで影響が及んだ。
ついには、スペイン風邪感冒を防ぐため、電車内での手放しの咳が禁止されるに至った。
それでもスペイン風邪の流行を押し止めることは出来ず、2300万人が感染したと言われる。
これは日本の人口の三分の一にあたる数字である。
死者は38万人に及び、この中には農商務大臣を歴任した土方久元や劇作家の島村抱月、東京駅を手がけた辰野金吾、徳大寺実則元内府、皇族の竹田宮恒久王の名前もある。
スペイン風邪による死者は全世界で2500万人に上った。
人類が体験したパンデミックの中では黒死病以来の悲惨さである。
この恐ろしい病は1921年まで三度の感染の波を記録したが、それを最後に突然終息し、人類はスペイン風邪を乗り切った。
なお、作家の芥川龍之介は、スペイン風邪に倒れる中で死を覚悟し、以下の辞世の句を読んだ。
「見かえるや 麓の村は 菊日和」
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