1912年10月15日 ヒュウザン会開催

注釈

ヒュウザン会を企画したのは洋画家の斎藤与里である。

斎藤はフランスから帰国後に後期印象派を日本に紹介し、自身もゴーギャンに影響され、斬新な作品を数多く世に出した若手画家であった。

当初は自身の個展を開く予定であったが、会場予定となった読売新聞社三階があまりに広かった為、友人たちを誘って展覧会を開こうということになった。

これに応じたのが高村光太郎であった。

高村もまたフランスから帰国後、印象派絵画の理論をいち早く日本に紹介し、画家たちの間では注目される存在であった。

二人は展覧会の名前を、素描に使う木炭から引用し、ヒュウザンと命名した。

ヒュウザン会には岸田劉生、清宮彬ら当時10,20代の新進気鋭の若手画家が参加。

展覧会当日には200点近い美術品が展示された。

会場を提供した読売新聞は「パッと目の覚めるような、若々しい力、キビキビした清新な匂い」がある展示会を開くと喧伝した。

展覧会当日になると、正宗白鳥、志賀直哉、岡本一平ら著名人が訪れ、大盛況となった。

夏目漱石や寺田寅彦が展示された作品を購入した際は、どっと歓声が上がり、斎藤と高村が胴上げされたという。

なお、ヒュウザン会展の裏では文展が開催されており、新聞は反官的であると囃し立てた。

ヒュウザン会には文展に対する反抗的な意思はなかったが、これがかえって話題になった。

こうして第一回ヒュウザン会は大成功を収めたのである。


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