1917年1月22日 浅草六区常盤座にて「女軍出征」が上演される。浅草オペラ開幕

注釈

明治時代、東京府は西欧的な都市作りを目指し、花見の名所と知られた浅草寺を中心とする公園を計画した。

当時の浅草寺の裏手には猥雑な見世物小屋が立ち並んでおり、公園造営の為には、それを排除する必要があった。

そこで、浅草寺西の湿地を埋め立て、そこを浅草六区として見世物小屋を移転させた。

程なくして浅草六区には芝居小屋や寄席、映画館が集まり、娯楽に飢えた職人や丁稚、労働者、学生が集まる、一大歓楽街が形成された。

その娯楽の殿堂にオペラが加わった。

オペラは明治時代には既に演じられていたが、芸術性が高く、日本人の音楽の素養も低かったために、人気を得れなかった。

このオペラの将来性に目をつけたのが、興行師・根岸浜吉である。

根岸は米国でミュージカルの基礎を身につけた高木徳子と、演出家の伊庭孝を組ませ、庶民も楽しめる洋風ミュージカルの創作を依頼した。

そこで生まれたのが「女軍出征」である。

洋風の華やかな衣装、覚えやすく陽気なメロディー、日本語の歌詞を散りばめた劇は、とてもオペラと呼べたものではなく、喜歌劇というべきもであった。

だが、この和製オペラは人々の心を掴んだ。

浅草オペラの人気は、客席から贔屓の歌手の名を叫び、旗を振り、贔屓の演者を出待ちする、ペラゴロと称される熱狂的なファンがつくほどであった。

こうして、様々な劇場が常盤座に続き、日本に和洋折衷の浅草オペラブームが到来した。


1917年の年表へ