1924年4月8日 脚気病調査会が脚気の原因をビタミンB欠乏であると発表

注釈

脚気は初期症状として手足の知覚障害やむくみに始まり、動悸、食欲不振、歩行困難、視力低下を引き起こし、進行すると心臓麻痺から心不全に陥る。

明治時代において毎年2万人もの脚気死亡者が記録され、結核と並ぶ二大国民病となった。

これに対し医学界は脚気の原因を掴めず、何らかの中毒や伝染病ではないかと推理され、何ら有効な解決策が打たれなかった。

特に問題となったのが陸軍である。

日清戦争では3000人、日露戦争では6000人もの将兵が脚気で亡くなり、軍隊が機能不全を起しかねない異常な数値を叩き出した。

そんな中、英国で栄養学を学んだ軍医の高木兼寛は、当時の兵食の栄養が炭水化物に比べてタンパク質が少ないことに注目した。

そこで、白米食主体からパンや牛肉、野菜などの洋食屋、米・麦混合に切り替えることを海軍に進言。

改良兵食を用いた遠洋航海の実験で目覚ましい成果を挙げた事から、海軍は改良兵食を採用し、1886年には脚気患者を根絶する事に成功した。

ところが陸軍軍医総監であった石黒直悳は、ドイツ医学に影響され、脚気は細菌の伝染病であり、原因を住環境にあるとした。

当時の陸軍大臣であり、自身も脚気患者であった寺内正毅が兵食を麦飯に切り替えようとしたところ、石黒に影響を受けた軍医の森鴎外が麦飯配給を中止させた。

森は高木説を全面的に否定し、海軍の脚気根絶と兵食転換のタイミングがたまたま一致しただけであると断じた。

脚気の原因を調査する脚気病調査会は1908年に創設されたが、その会長に森が就任した為、高木は委員にすら入れなかった。

だが、1924年、脚気病調査会は脚気の原因をビタミンB1不足による神経障害であると断定した。

米食文化の日本において、ビタミンB1は米糠に含まれており、B1不足を引き起こすことは無かった。

だが精米技術の進歩により米糠が削られた白米が食されるようになった。

江戸時代において脚気は、江戸に近づけば発症し、遠ざかれば完治することから、江戸患いと呼ばれた事がある。

これは、江戸の町民の米食が玄米や半搗き米から白米に移行し、ビタミンB1不足を引き起こした為であった。

明治時代を迎えると白米は広く市場に出回り、脚気は伝染病の如く、全土に大流行したのだ。

白米でビタミンB1が取れない以上は、麦飯か副食でビタミンB1を補うより補うより外なく、ついに兵食改良が正しいことが証明された。


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