1922年2月9日 山県有朋国葬
その様子を東京日日新聞は前月行われた大隈重信の国民葬と比較し、以下のように報じた。
これは招待状が送られた一般人が山県家の関係者に限られたからであり、またドレスコードも厳格であった為である。「民抜きの国葬で幄舎の中はガランドウの寂しさ」
だが、この報道が受け入れられるまでに、山県のイメージはネガティブではあった。
一方、東洋経済新報で自由主義の論陣を張る石橋湛山は「死もまた社会奉仕」とのタイトルで論説を発表した。
その中で石橋は、山県の権勢を「国家を憂うる至誠の結果」であるとし、晩年に強い批判を呼んだ宮中某重大事件についても「公は全く皇室を思い、国を思いてしたことと確信する」と述べた。
だが、一人の人間が権勢を誇り続ける弊害は見逃せない。
石橋は山県を操り師にたとえて、以下のように述べた。
このように、山県の死は新陳代謝の為に意義ある社会奉仕でなくてはならないと、新しい時代に期待を寄せた。「老練な操り師のいなくなった人形は、時にとんでもない醜い踊りを踊るかもしれぬ。 混雑を引き起こすかも知れぬ。
けれども同時にその踊りには活気を帯びよう。
新様式の工夫が起ろう」
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