1917年4月6日 坂東俘虜収容所建設

注釈

日本軍による青島占領で俘虜になったドイツ将兵4600名は、日本各地の寺院や公会堂に収容されていた。

その内、四国各地の収容所にいた1000名の俘虜たちを、徳島市郊外の坂東に新設された収容所に移すことになった。

板東収容所の所長には松江豊寿大佐が任命された。

松江大佐は会津藩士を父にもち、会津の降伏人として苦労してきた経験から、俘虜たちを前に以下のように述べた。

「諸氏を遇するに博愛の精神を縦糸に、武士の情けを横糸にしたい」

この考えの下、俘虜たちを犯罪者ではなく愛国者として厚遇した。

収容所は鉄条網こそあったが、外出は比較的自由であった。

ドイツ皇帝誕生日やクリスマスを祝うことも許可され、手紙の回数制限も殆どなかった。

収容所内には酒保や劇団、図書館や新聞を刷る印刷所までもが整備された。

俘虜達は独自に家畜を飼い、パンやソーセージを焼いて食事状況を改善すらしていた。 更には、収容所近くの農地を借り上げて、テニス場やクリケット場を造成してスポーツを楽しむ事も許された。

当初は警戒していた地元民も、俘虜達を親しみを込めてドイツさんと呼び、交流を深めた。

住民たちの好意は、坂東が四国札所の村で、お接待の文化が根付いていたことと、収容所のおかげで貧しい農村に過ぎなかった板東が活気付いたからだという側面もある。

俘虜たちは厚遇への感謝の気持ちから、住民たちにドイツ文化を伝えることに務め、家畜の去勢や牧場運営の酪農技術、キャベツや玉ねぎの西洋野菜の栽培方法、パンやケーキの作り方、西洋音楽を伝授した。

坂東俘虜収容所はさながら日本に現れたドイツ村であった。


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