1912年11月18日 賀川豊彦が一膳飯屋天国屋を開店

注釈

近代化が急速に進む中で、農村から都市部に人々が急速に流れ込み、都市は急拡大した。

そこで深刻になったのがスラム問題である。

貧しい人たちがひしめき合って暮らす、スラム(貧民窟、細民街)問題は東京・大阪を中心に広がっていた。

東京では江戸時代から続くスラムとして、下谷の万年町、芝の新網町、四谷の谷町があった。

その多くは豪雨となると浸水する低地帯であり、水はけが悪く、ジメジメしており、路地には堆積した塵や埃が腐って悪臭を放っていた。

実の親から捨てられた子がスラムに流れ着き、栄養失調で死ぬ例は後を絶たなかった。

スラムで暮らす人々の職業層は、人力車夫、日雇い人夫、職工、大工、屑拾い、下駄の歯入、占い師、托鉢僧、乞食など多種多様である。

スラムを調査した結果、一世帯平均3人、月収15円弱、家賃2円であった。

白米一升あたりの値段は24銭の時代にあって、スラムに住む人たちは毎日の米も買えず、毎食タクワンで飢えを凌ぎ、塩を舐めるだけの日すらあったという。

家々を回って残飯を集め、それを売る残飯屋なる仕事すらあった。

この状況に立ち向かったのが賀川豊彦である。

神戸神学校出身の賀川は、学生時代に神戸のスラム街に住んだことがきっかけで、救貧に目覚めた。

貧しい病人を保護し、無料で葬式を出し、無料宿泊所を設置し、子供たちに教育を施すなど、多岐にわたる支援を行ない、貧民街の聖者として知られた。

天国屋はその救貧事業の一環で開かれた、スラムの生活を潤す格安の食事処である。

開店当日には早朝4時から人が押し寄せる大盛況であったという。

だが、無銭飲食が後を絶たず、暫くして閉店した。

賀川の慈善事業は前途多難にあった。


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