1920年2月5日 早稲田と慶應義塾が大学に昇格
一方、私立大学は官尊民卑の弊風の中で専門学校として端に追いやられていた。
そのような中で、1918年には大学令が公布され、私立・公立大学が許可された。
その背景には、資本主義の発展により各界で大学出エリートが求められ、高等教育の整備拡充の要求が高まった。
それに応えるべく私学の内容が充実し、高等専門学校で大学昇格運動が起きた事がある。
大学令の結果、東京・京都・東北・九州・北海道の五帝大しかなかった大学が、単科・公立・私立にも認められ、卒業生徒に学士の称号が与えられた。
そして、早稲田・慶応を始め、4月には明大・法大・日大・中央大・國學院・同志社が認可され、以降、大学は増加傾向となった。
ただし「国家に須要なる学術の理論及び応用を教授」などと記された大学令の下に置かれる事は、学校が政府の強い統制下に置かれる事を意味する。
また、基本財産を文部省に供託し、教員の採用も文部大臣の許可を要するなど、大学昇格は学問の自由を脅かす諸刃の剣であった。
それでいて政府の官学偏重は変わらず、帝大の補助的地位に零落する大学もあった。
このような大学令による支配について、大隈重信は早稲田の学生に対し、以下のように訓示している。
「この形式は誠にありがたいようであるが、一方には不自由なこともあるかも知れぬ」
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