1917年8月15日 大倉喜八郎収集の東洋美術品を展示する大倉集古館開館。初の私立美術館
大倉は渋沢栄一と並ぶ日本財界の大立者で、大倉土木(大成建設)や東京電燈(東電)帝国ホテルなどの事業を手がけた。
一方で、大学や財団設立などの福祉事業や美術品の保護にも力を注いだ人物である。
明治初期、大名や旗本が没落する中で、彼らの家宝である古美術品が相当数流出し、金屏風や金蒔絵から純金を取り出されて焼かれるという事件があった。
更に明治政府が神仏判然令を発布した事で、全国で廃仏毀釈運動が起こり、寺院や仏像、神像、仏画が破棄された。
西洋人はこれら二束三文となった美術品を大量に買い付け、大量の古美術品が日本から流出していった。
この状況を惜しんだ大倉は、少しでも日本美術の海外流出を防ごうと、美術品収集を始めた。
更に、中国の義和団事件で中国美術品の大破壊を目にした大倉は、東洋美術の保護も思い立った。
こうして、大倉は日本だけでなく中国、朝鮮、ビルマ、タイ、チベットの美術品収集に務めた。
大倉は集めた美術品を知人に公開していたが、80歳になったこの年、子孫に美術を愛する心がなければ再び散逸すると考えた。
そこで、集めた美術品を寄付して、一般の人々と共に楽しむ事を思い立った。
こうして大倉は所蔵していた美術品を公共のために公開した。
そして、美術館の維持費として50万円を寄付し、庶民に東洋美術に触れ合う機会を提供した。
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