1912年1月28日 白瀬南極探検隊が南極大陸に日章旗を翻す
しかし、大吹雪に見舞われて視界が完全に失われ、この日南極点到達を断念した。
白瀬は南緯80度5分・西経156度37分一帯を大和雪原と命名し、日本の領土であると宣言。
竹竿に日章旗を結んで、その下に探検隊と後援者の芳名簿を入れた銅の箱を埋めた。
探検隊は全員無事に帰還し、ここに白瀬矗率いる南極探検隊の冒険は終わった。
これだけの大偉業をやっておきながら、白瀬の生活は困窮した。
南極探検は大隈重信や寺内正毅らが後援し、朝日新聞の寄付や国民の募金で費用を賄った。
だが、政府の公金は殆ど出ず、資金面で相当苦労を強いられた。
帰国後、白瀬は借金返済のために家も軍服も売り払い、隊員の手当ても白瀬自身が負担した。
極貧の中、白瀬は1946年にひっそりとこの世を去った。
白瀬の偉業は戦後の南極探検で振り返られ、1981年に砕水船「しらせ」の名で蘇った。
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