1917年3月7日 芳川顕正子爵四女鎌子がお抱え運転手と心中未遂
芳川子爵家を存続させる為に、四女の鎌子は曾根寛治と結婚し、芳川家の養子に迎えた。
だが、遊び人として有名だった寛治は結婚後も女遊び続けた。
これに愛想を尽かした鎌子は、芳川家のお抱え運転手と恋仲になった。
鎌子は愛人に背広を買ってやったり、一緒に夜店に繰り出すなど大胆な不倫を行い、夫婦仲は完全に冷え切った。
そしてこの日、鎌子は愛人と一緒に列車に身投げし、心中を図った。
だが心中は失敗した。
列車に跳ね飛ばされた愛人は無傷であったが、鎌子の後を追おうと短刀で自分の喉を突き、自決した。
一方で鎌子は大怪我を負ったが、奇跡的に命は助かった。
しかし、これは幸運であったとは言えないだろう。
入院から1ヶ月後に退院した鎌子は芳川家に戻るが、そこに居場所はなく、渋谷の別邸の八畳の奥座敷に移り住んだ。
その邸宅の堀には「姦婦鎌子ここにあり」と落書きされる始末であった。
世間も鎌子に対しては厳しい目を向けた。
伯爵令嬢として派手好きで典型的なワガママであると噂されており、自業自得と断じられ、その冷遇に同情はなかった。
与謝野晶子は東京朝日新聞において、事件に激烈な批判を与えた。
鎌子の心中未遂は、素質の悪い女が倫理的に猥雑な家庭でワガママなまま育ち、愛情のない夫の下で暮らしている境遇なら、どんな階級の女でも自制することは出来ないだろう。
この醜聞から、芳川顕正は枢密院副議長を辞した。「鎌子さんの無恥と不倫とはその悲惨な破滅がこれを償っています。
鎌子さんをその無恥と不倫とから救わなかった親達と良人との猛省を促したいと思います」
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