1913年7月1日 宝塚唱歌隊結成
当初、この鉄道の集客の目玉は、ラジウム鉱泉が湧いた宝塚であった。
同社は宝塚に洋風建築のパラダイスを建設し、その中に巨大プールを作り、観光客に備えた。
しかし、男女共泳禁止の通達を受けた上に、鉱泉の温度が低かった為に集客は伸び悩み、開店休業状態であった。
この採算の取れない路線をドル箱にしたのが、同社専務である小林一三である。
小林は多彩な事業展開や経営戦略からアイディア商法の天才と称される経営者であった。
そして、小林には鉄道事業に関して、以下の考えがあった。
そこで、採算の取れない宝塚線の、鉄道交通を起点とする沿線開発に乗り出した。「乗客は電車が創造する」
小林が目を着けたのは、当時大阪三越呉服店で人気を博していた少年音楽隊であった。
これに発想を得て、少女だけの唱歌隊を作ろうと考えた。
ここに日本初の大劇団、宝塚少女歌劇団が誕生するのである。
当時、少年・少女音楽隊はイメージ宣伝によく使われていたが、小林は歌劇団を本格化させる。
まず、「パラダイス」の巨大プールに蓋をして観客席とし、脱衣所が舞台として改造して専用の劇場を設けた。
更に、団員養成用の学校を設立し、座付作家や演出家を雇い、本格的な舞台装置や美術衣装を揃え、作曲家と専属オーケストラまで抱えた。
こうして第1期生として15歳以下の少女16名が選ばれた。
彼女たちは良家の子女のように振る舞う厳しい掟が設けられ、以下の合言葉を胸に抱くのであった。
「清く、正しく、美しく」
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