戦間期東アジアの国際秩序

コラム

東アジアの国際秩序

1920年代から30年代にかけ、所謂戦間期の東アジア国際秩序は、国際連盟規約、九カ国条約、そして不戦条約によって規定されていた。

太平洋戦争に至る経緯を考える上で、この国際秩序は非常に重要な意味を持つ。

日本は国際秩序の中で、中国においては英米列国と協調し、平和的な対外関係を築いていたからだ。

それがどうして侵略にひた走り、破滅へと向かってしまったのか。

国際秩序は日本の侵略にどのように作用し、日本はその秩序をどのように破壊したのか。

これを知る事で、戦前日本の理解はより深まるのである。

国際連盟

19世紀の世界において、領土問題は大国間の国際会議で議論され、密室の中で多くの条約が締結された。

この条約の下、多国間の同盟関係が構築され、勢力の均衡が国際秩序を維持していた。

勢力均衡は20世紀になっても引き継がれたが、この秩序は人類初の総力戦となった第一次世界大戦によって崩れ去った。

人類史上最大の戦争の局外にあって、戦後の国際秩序再編に積極的にコミットしたのが米国である。

1917年1月22日、ウッドロウ・ウィルソン米大統領は議会において勝利なき平和演説を行い、自らが戦後構想に取り組む用意があると宣言した。

ウィルソンは戦争の理由を、欧州列国が排他的な勢力圏を設定し、秘密外交や同盟・協商関係による勢力均衡によって国際秩序を維持してきたからだと考えた。

その秩序の下の国際関係は、相互的ではなく極めて不平等である。

欧州の中小独立国・中立国はいずれも列国にとって戦略的要衝であり、その存立は列国が一方的に保証され、列国間の緩衝国として扱われた。

それがベルギーやルクセンブルクといった低地帯国家であるが、そのような列国の都合で成り立つ国家主権や領土保全が脆いのは、戦争が示した通りである。

1918年1月8日、ウィルソンは14ヶ条からなる講話原則を発表した。

その中で公開外交、秘密条約の禁止を掲げた上で、以下のように多国間協調を基調とする、公平・公正な戦後国際組織の設立を提唱した。

「大小全ての国の政治的経済的独立と領土保全を相互に保証するために、特別な盟約により諸国の一般的連合を創設する」

ウィルソンは、主権国家は平等な関係にあるという大前提の下、領土保全の保証を相互的に行い、普遍的な平和を築き上げようとした。

つまり、勢力均衡の如き欧州の伝統外交を否定し、それに代わる新外交を提唱したのだ。

1919年1月18日、第一次世界大戦の講和条件を討議するパリ講和会議が開催された。

ウィルソンは新外交を実現する国際組織の創設が講和会議の重要課題であると主張し、自らパリに出向いた。

そして、1月25日、国際組織の規約を起草するために国際連盟委員会が正式に設立された。

一国一票

国際連盟委員会には日・米・英・仏・伊の五大国が出席。

後にベルギー、ブラジル、中国、ポルトガル、ギリシャ、ポーランド、ルーマニア、チェコスロヴァキアが参加し、計14カ国で構成された。

まず問題になったのは、国際組織における1票である。

小国と大国の1票は等しいのか。

戦争を終結させたのは、五大国の力であることは否定しがたい事実であり、国際組織の成功は大国の支持が必須である。

だが、国際組織は戦後秩序を規定するものである。

世界に公平な組織であるべきで、その為には全ての国が等しく1票を持って参加することが望ましい。

そこで、国際組織の主要業務を担う理事会が提議された。

五大国は常任理事国として理事会を構成し、全ての決定権を掌握する形で、大国と小国の差別化を図ろうとした。

欧州伝統の会議外交を制度化したものと言えよう。

これに対し、中国を始めとする中小国は、各国が理事会に代表を送り込むことを主張した。

中国の顧維鈞代表は、中小国が理事会から除外されれば連盟は有効に機能しないし、信頼も得られないだろう。

それに、五大国が対立した場合、中小国が理事国に参画していなければ、理事会は麻痺するだろうとも指摘した。

こうした大国と中小国の議論を経て、中小国4カ国を非常任理事国とし、非常任理事国にも1票が与えられることになった。

また、全加盟国代表を以って組織される会議場である連盟総会においても、全ての加盟国に平等に1票が与えられた。

連盟規約第3条4項には以下、一国一票の権利が明記され、全ての主権国家は法的に平等となった。

「連盟国は、連盟総会の会議において各一箇の表決権を有すべく、且三名を超えざる代表者を出すことを得」

集団安全保障

次に議論となったのは、加盟各国が自国の安全を国際組織に委ねる、集団安全保障である。

国際組織の大前提として、加盟国が互いに領土保全・政治的独立のルールを定め、これを保証する事が求められる。

保証は、加盟国が侵略を受けた場合、国際組織が一体となって侵略者に対して制裁措置を取り、侵略を阻止することを義務付けられて初めて成立する。

加盟国は全体の為、全体は一国の為に行動する事が強いられる。

これが成り立って初めて中小国の権利が尊重され、民族自決は促進される。

ウィルソンは、集団安全保障の仕組みを、連盟の理念の中核に据えようとした。

委員会では、規約に違反して戦争を始めた国に制裁を科すという原則については概ね一致した。

だが、侵略国の定義や、その認定方法については最後まで意見がまとまらなかった。

それだけでなく、集団安全保障については米国内でも意見が対立し、米国上院はモンロー主義に影響を及ぼすのではないかと、ウィルソンを突き上げた。

国内の思わぬ反撃にあったウィルソンは、連盟規約にモンロー主義は特例であると言う留保条項をつけることで乗り切ろうとした。

ちなみに留保とは、条約の目的に賛同しつつ、一部条項については適用を排除する旨を一方的に宣言する事だ。

留保は他の条約締結国の受諾を以って、初めて成立する。

この留保に対し中国は、米国のモンロー主義が規約に盛り込まれた場合、東アジアにおける日本の地理的優越も認めざるをえなくなるのではないかと懸念した。

中国の懸念は尤もであるが、ウィルソンは条約成立に必死であった。

そこで、ウィルソンはモンロー主義について委員会で強弁を振るった。

曰く、モンロー主義は米大陸と欧州諸国の相互不干渉を宣言するもので、米国はこの目的を達成する為に参戦し、ドイツを打倒した。

よって、モンロー主義は連盟規約の精神とは違反しないし、むしろ連盟規約はモンロー主義の延長である。

こうして中国の主張は無理やり退けられ、第21条として以下の条項が連盟規約に挿入された。

「本規約は、仲裁裁判条約の如き国際約定又は『モンロー』主義の如き一定の地域に関する了解にして平和の確保を目的とするものの効力に何等の影響なきものとす」

国際連盟規約の成立

1919年4月28日、全26条からなる連盟規約が講和会議内で採択され、ヴェルサイユ条約の一部として署名された。

条約は1920年1月20日に発効し、ここに国際連盟が発足した。

行政を担う連盟事務局本部が中立国スイスのジュネーヴに置かれ、国際紛争の司法的解決を担う常設国際司法裁判所がオランダのハーグに置かれた。

国際連盟の特徴は、単なる国際会議場ではなく、連盟規約を元に成り立つ法的な組織であることである。

連盟規約には組織の運営方法や仕組みだけでなく、国際社会の基本的原則が記されている。

国家間で結ばれる協定や条約を越えた、国際社会の憲法と言える存在であった。

規約前文には連盟の目的を以下のように記してある。

「締約国は戦争に訴えざるの義務を受諾し

各国間に於ける公明正大なる関係を規律し

各国政府間の行為を律する現実の規準として国際法の原則を確立し

組織ある人民の相互の交渉に於て正義を保持し、且つ厳に一切の条約上の義務を尊重し

以て国際協力を促進し、且つ各国間の平和安寧を完成せむが為、ここに国際連盟規約を協定す」

26条からなる規約のうち、大部分は戦争防止や紛争解決を定めた条項である。

この目的を達成する為に、第8条1項には軍備縮小が定められた。

「連盟国は、平和維持の為には其の軍備を国の安全及国際義務を協同動作を以てする強制に支障なき最低限度まで縮少するの必要あることを承認す」

第10条から16条にかけては、連盟の集団安全保障が記される。

第10条においては、連盟規約の骨子と言える、領土保全と政治的独立の保証が定められた。

「連盟国は、連盟各国の領土保全及び現在の政治的独立を尊重し、且つ外部の侵略に対し之を擁護することを約す。

右侵略の場合又は其の脅威もしくは危険ある場合に於ては、連盟理事会は、本条の義務を履行すべき手段を具申すべし」

ここに全加盟国に対し、相互に領土保全・政治的独立を尊重し、それを侵害しないという義務が課せられた。

つまるところ、連盟規約は力による現状の変更を禁じたと言えよう。

第10条は後に国際連合憲章第2条4項に継承され、普遍的な国際的平和秩序の根幹となった。

第11条1項には、戦争の脅威が語られる。

「戦争又は戦争の脅威は、連盟国の何れかに直接の影響あると、否とを問はず、総て連盟全体の利害関係事項たることをここに声明す。

よって連盟は、国際の平和を擁護する為適当且つ有効と認むる措置を執るべきものとす。

此の種の事変発生したる時は、事務総長は、何れかの連盟国の請求に基き直に連盟理事会の会議を招集すべし」

それでは実際に紛争が起きた時、どうするべきか。

第12条1項において、紛争の平和的解決方法が記される。

「連盟国は、連盟国間に国交断絶に至るの虞ある紛争発生する時は、当該事件を仲裁裁判もしくは司法的解決又は連盟理事会の審査に付すべく、

且つ仲裁裁判官の判決もしくは司法裁判の判決後または連盟理事会の報告後三月を経過する迄、如何なる場合に於ても、戦争に訴へざることを約す」

ここで言う仲裁裁判は、当事国の合意に基づいて構成される裁判である。

一方の司法的解決とは、常設国際司法裁判所で行われる裁判である。

この条項により、国際紛争解決を連盟理事会や司法を経ることなく、戦争に訴えることが禁じられた。

具体的な仲裁や司法的解決については第13条に記された。

第13条4項は、第12条に定める判決に服さない国家が、判決を履行する国家に対して戦争を行うことを禁止した。

「連盟国は、一切の判決を誠実に履行すべく、かつ判決に服する連盟国に対しては戦争に訴えざることを約す。

判決を履行せざるものある時は、連盟理事会は、其の履行を期する為、必要なる処置を提議すべし」

しかし、それでも紛争が平和的に解決しない場合、紛争が連盟理事会に委託され、紛争解決手続が取られる旨が第15条1項に定められる。

「連盟国間に国交断絶に至るの虞ある紛争発生し、第13条に依る仲裁裁判又は司法的解決に付せられざる時は、連盟国は、当該事件を連盟理事会に付託すべき事を約す。

何れの紛争当事国も、紛争の存在を事務総長に通告し以て前記の付託を為すことを得。

事務総長は、之が充分なる取調及審理に必要なる一切の準備を為すものとす」

第15条6項には、理事国全員の同意を得た報告書の勧告に応じる国家に対する戦争を禁じている。

「連盟理事会の報告書が紛争当事国の代表者を除き、他の連盟理事会員全部の同意を得たるものなる時は、連盟国は、該報告書の勧告に応ずる紛争当事国に対し戦争に訴えざるべきことを約す」

この手続きを無視し、勧告に応じる義務に反して戦争に訴えた場合、連盟は制裁を発動させる旨が第16条1項及び2項に記される。

「第12条、第13条又は第15条に依る約束を無視して戦争に訴えたる連盟国は、当然他の総ての連盟国に対し戦争行為を為したるものと看倣す。

他の総ての連盟国は、之に対し直に一切の通商と又は金融上の関係を断絶し、自国民と違約国国民との一切の交通を禁止し、且つ連盟国たると否とを問はず、他の総ての国の国民と違約国国民との間の一切の金融上、通商上又は個人的交通を防遇すべき事を約す」

「連盟理事会は、前項の場合において連盟の約束擁護の為使用すべき兵力に対する連盟各国の陸海又は空軍の分担程度を関係各国政府に提案するの義務あるものとす」

制裁は連盟の平和的解決手段による解決を担保するもので、非常に重要な条項である。

なお、16条は経済制裁だけでなく武力制裁をも想定していたが、違約国との戦争状態に入る自由を連盟国に与える形で骨抜きになっている。

最後に、第20条1項には、連盟規約に矛盾する取り決めの存在を認めない条項がある。

「連盟国は、本規約の条項と両立せざる連盟国相互間の義務又は了解が、各自国の関する限り総て本規約に依り廃棄せらるべきものなることを承認し、且つ今後本規約の条項と両立せざる一切の約定を締結せざるべきことを誓約す」

ここに旧外交時代の軍事同盟や秘密協定は否定され、以降の様々な取り決めは、連盟との関係を意識しながら行われることとなった。

原加盟国は日本、英国、イタリア、フランス、中国、英連邦諸国、インド、欧州、南米の中小国ら42カ国となった。

欧州からアジア、太平洋、南米大陸に跨る普遍的な国際組織がここに誕生した。

だが、この原加盟国に主導者であった米国の姿はなかった。

米国の不参加

米国議会は連盟規約が米国の主権を損なうと批判し、モンロー主義を特例とした条項による懐柔も功を為さなかった。

米国が条約を批准するには米国上院の3分の2の賛成を必要とするが、この時、上院は野党共和党が過半数を制していた。

共和党はヴェルサイユ条約批准の条件として、領土保全を規定した連盟規約第10条に対し、米国はその義務を負わない旨の留保を要求した。

領土保全条項は、米国に直接利害関係のない地域紛争に参加を義務付けられる危険性があると認識されてたのだ。

そしてこの条項は、米国上院が有する宣戦布告の権利を侵害するものであると、共和党議員は主張した。

更に共和党だけでなく、与党民主党内部においても、連盟に加盟しても米国の決定の自由は確保されるべきと考える議員がいた。

ウィルソンは条約批准の為に第10条に対する何かしらの留保を迫られたが、あらゆる留保に強硬に反対した。

そして、連盟加盟を直接世論に訴えかける為に、全米各地で遊説を行った。

しかし、パリ講和会議から続いた激務により、9月に遊説先で倒れ、そのまま政務に戻ることはなかった。

1919年11月19日、米国上院において共和党・民主党・政府の条約批准案のいずれもが3分の2を得られず、米国の連盟不参加が確定した。

米国の不参加は連盟の集団安全保障に暗い影を落とした。

米国抜きにして制裁など成り立たないからだ。

だが逆に考えれば、米国の不参加により連盟の国際協調主義の精神を損なわずに済んだと言えよう。

領土保全を定めた連盟規約第10条は連盟の骨子を為す条項である。

これを米国が内政問題で修正を求めた上で、更に自国の決定の自由にまで留保を付けたならば、日本や英国もそれに倣うのは必然であり、連盟は骨抜きになるだろう。

仮に留保問題を乗り切ったとしても、米国特有の慣行や米国内の連盟懐疑派により、米国は連盟に対する非妥協的な態度を崩せないだろう。

それが連盟のあらゆる問題を行き詰まらせ、連盟の協調を破壊しかねない。

以上を考えれば、米国の不参加は、連盟は国際協調の下に国家主権を制限するという事を、連盟加盟国に示したと言えよう。

最後まで留保を拒否したウィルソンは、米国が連盟に不参加を決定した際、以下のように不参加の意義を語っている。

「勝利であっても真に正しいとは言えない勝利は望まない。

敗北であっても、究極的には正しいことを主張しての敗北ならば、その敗北を受け入れる」

日本と国際連盟

原加盟国として、常任理事国として連盟に加盟した日本ではあるが、その意識は高いとは言えなかった。

従来、日本は欧米とは法的平等を巡って争う立場にあり、国際会議のような多国間協議は馴染みがなかった。

また、世界大戦の戦禍から免れ、局外において戦争特需を享受し、大陸進出を伺う立場から、平和主義や集団安全保障のような議論も低調であった。

外交官も国際会議の成立に否定的であった。

原敬内閣当時、外務次官として日本の外交を指導していた幣原喜重郎は連盟に対し、このような感想を吐露している。

「利害関係国相互の直接交渉によらず、こんな円卓会議で我が運命を決せられるのは迷惑至極だ」

幣原といえば国際協調を重んじる外交官と知られているが、何故このような考えを持ったのか。

そもそも幣原を始めとする外交官は、日本は中国において他国とは異なる、国家の死活的な重要な利害関係を有していると考える。

それが日露戦争の際、20億円の国費と10万の英霊の犠牲において勝ち取った満蒙権益である。

ところが、連盟の紛争解決手段は、あらゆる紛争を国際社会全体の問題として処理しようとする。

その審議には、紛争当事国に利害関係を有さない中小国が参加し、普遍的な原則を適用して解決を図ろうとする。

仮に日中間で満蒙問題をキッカケとする紛争が起きた場合、中小国は日本が中国に対して死活的利益を有するという特殊事情への配慮をするだろうか。

そのような特殊事情は無視され、どだい受け入れがたい普遍的原則が押し付けられ、紛争の解決をより困難なものとするのではなかろうか。

幣原は地域の特殊事情に通じた利害関係国同士の協調を重んじたが、普遍主義については日本の外交を阻害するものであると警戒した。

しかし、連盟の成立は免れそうにはない。

そこで、国際上の信用を得るためにも大勢順応し、連盟を十分研究すべきだという立場であった。

日本外交は連盟に対しては終始消極的姿勢を見せていたが、いざ連盟が成立すると、日本は常任理事国として連盟に協調的な姿勢を示した。

連盟規約第23条には人道的、社会的、経済的国際協力と題して、連盟が主体となって労働条件改善や少数民族保護、疫病の予防、通商の自由、女性や子供の人身売買防止、アヘン・武器貿易監視などに関与するとした。

これらの事業が成功するには、世界にまたがる加盟国が連盟を尊重し、協力的な態度を示すか否かに関わってくる。

そういう意味では、非欧州唯一の常任理事国である日本の協力は、重大な意味を持った。

また、非欧州の立場から、欧州の紛争には公平な第三者として度々登場し、紛争の解決に貢献している。

なお、連盟における積極的な活動は、何も日本が突然人道主義に目覚めたというわけではない。

連盟の事務局長を歴任し、自らも少数民族問題に従事した佐藤尚武は、日本が連盟に協力する理由を端的に語っている。

「日本が連盟で出来るだけの力を尽くし、連盟のために骨を折ってやり、世界平和のため貢献していたという態度をもし日本代表部がとらなかったとしたら一体どうなるのか」

佐藤は近い将来、日中問題が連盟の議場に上ることを予測した。

その際、日本が常任理事国の立場にありながら連盟に貢献していなかったら、その反感が日中問題に悪影響を及ぼすのは必至だろう。

こうした肚のうちがあったとはいえ、日本の連盟における存在感は高まり、欧州以外の唯一の大国として、アジアの中心国としての地位を確固たるものとした。

ワシントン会議

幣原は連盟が日本の運命を決すると懸念したが、連盟にはその実力はなかった。

東アジア・太平洋方面に絶大な影響力を有する米国が連盟に加盟しなかった為である。

ウィルソン大統領は側近に中国通を抱え、中国に多大な同情を寄せ、日本の対中外交に歯止めをかけるほどの力を持っていた。

その米国が加盟しなかったことで、連盟は東アジアにおける存在感を大幅に低下させた。

しかし、だからと言って東アジア・太平洋地域の空白を放置出来るほど、米国にとって状況は芳しくはなかった。

当時、日本はヴェルサイユ条約で承認された山東半島権益を有しており、更なる大陸進出を伺う姿勢を見せていた。

これに対し、中国内政は軍閥が合従連衡を続ける無秩序の中にあり、日本を単独で押し留めれるような力もなかった。

また、日米関係は相互不信の中で悪化の一途を辿り、海軍軍拡競争が加速し、日米開戦が噂されるほどであった。

このような状況下で、アメリカのウォレン・ハーディング大統領は、連盟の枠外で東アジア・太平洋地域の秩序再編に乗り出した。

中国の平和と安定に向けて関係列国が協調し、他方で日本の野心を抑制する国際秩序を築き上げようと考えたのだ。

こうして開催されるのが、1921年のワシントン会議である。

21年7月9日、米国は日本に対し海軍軍縮会議への参加を打診した。

これが英国を巻き込み、中国を加え、たちまち東アジア・太平洋地域の秩序を議題とする太平洋会議に発展した。

幣原はワシントン会議に参加の意思を示す一方で、日本の対中政策を掣肘しかねないと警戒した。

そこで、幣原は以下のように米国を説き伏せるのである。

連盟が誕生して以降、国際問題は多国間協調の枠組みの中で解決するのが時代の流れである。

だが、日中問題を始めとする東アジア・太平洋問題は数週間程度の国際会議では解決出来ないし、これに失敗すれば国際関係は一層不安定になるだろう。

そこで、中国問題は議題から除外し、事前に利害関係国間で議題を確定させ、会議は原則を確認するに留めるのが望ましい。

このような幣原の論理に米国は反論出来なかった。

ウィルソン政権とは異なり、ハーディング政権は東アジア、ことに中国問題に通じておらず、具体案も有していなかったからだ。

これを見透かした幣原は、日本から進んで会議にコミットし、自らが有利になるように利用する方針を立てた。

こうして日本は加藤友三郎海軍大将を全権代表とし、幣原が全権として支援する形でワシントン会議に参加した。

ルート四原則

そもそも米国が中国問題で一番重視していたのは、門戸開放原則である。

1899年、当時の米国務長官であるジョン・ヘイは各国に対し、以下のように通牒した。

「一国がその植民地、保護国、または後進国の特定地域において、自国もしくは自国民のために、ある種の独占あるいは優先的権益を享有せざる」

米国はこの門戸開放原則を通じ、中国に多国間協議を持ち込もうと考えた。

列国はこの趣旨を容認したが、この通牒は協定や条約の性質を有さない、米国の希望を述べた宣言に過ぎなかった。

よって辛亥革命により中断され、日本のように門戸開放原則を侵害する国を止めることも出来なかった。

そこで米国は、ワシントン会議において、中国の門戸開放・機会均等・領土保全原則を条約の形で国際法化しようと考えた。

11月16日、東アジア問題を討議する極東委員会において議論が始まった。

参加者は中国と、日、米、英、仏、伊、ベルギー、オランダ、ポルトガルら東アジア・太平洋地域に利害関係を有する九カ国代表である。

この際、先ず議題に上がったのは、原則を適用する「支那」とはどの地域を指し示すのかと言う点である。

中国代表は、支那は中国本土と外藩を併称したもので、22省を包含するものであると主張した。

これに対しエリフ・ルート米全権は、支那とは万人が認める地域であるとし、その定義を確定させなかった。

その上で11月21日、ルート米全権は以下四原則を提議し、若干の修正の後、参加国間で確認された。

・中国の主権、独立、並びに領土的及び行政的保全を尊重する事

・中国が自ら有力かつ安固なる政府を確立維持する為に、完全にして障害なき機会を供与する事

・中国の領土を通して一切の国民の商業・工業に対する機会均等主義を維持する事

・友好国の臣民又は特別の権利又は特権を求める為、中国における情勢を利用したり、友好国の安寧に害ある行動を是認することを差控える事

この四原則は門戸開放・機会均等原則の再確認であり、既存の対中政策をひっくり返すような画期性はない。

他方で、門戸開放・機会均等原則を日英を始めとする列国が共有したという点は画期的であった。

この原則を確認した列国は、集団で原則遵守の責任を負うことになった。

つまるところ、ルート四原則は今後、中国問題を国際社会で取り扱う際の典拠となり得るのだ。

門戸開放原則と満蒙権益

ルート四原則が確認された後、ワシントン会議の取り決めは既存の条約権利を否定し得るのかが議題となった。

22年1月17日、チャールズ・ヒューズ米国務長官が、中国と関係各国の条約・権利が門戸開放原則に合致するかどうかを判断する、諮問組織の設置を提議した。

その修正決議案第4項の中に、諮問組織の適用範囲について「現存する特権」という文言があった。

もしこれが認められれば、条約により認められた日本の満蒙権益が中国側の異議申し立てにより、国際諮問機関に諮られる可能性があった。

それは、満蒙権益が門戸開放原則に違反していないか、第三国に審議される事を意味する。

これに対し幣原は、諮問機関が対象とする条約権利内に現存する特権も含まうる点について、以下疑義を示した。

そもそも門戸開放原則の概念は1898年以来、適用範囲は限定されていた。

ヒューズの修正案はその範囲を大きく拡大しようとするものだ。

これは門戸開放の定義を新たにするものであり、過去の条約権利を訴求する事は出来ない。

よって「現存する特権」という文言は削除し、今後中国が認める条約権利を審査対象とすべきである。

これにフランスが賛同し、日本のような反対意見がある以上は第4項自体を削除すべきだと主張した。

日本に加えフランスが反対意見を述べた以上、米英も諮問機関設置という実を得るために敢えて反論しなかった。

こうして第4項は異議多数として削除された。

それでは門戸開放原則と現存する条約権利はどのように解決するのか。

この問題に関し、会議は以下の声明文案を承認した。

既存の条約権利に基づく活動について、それが独占ではなく、門戸開放原則にも反せず、中国の経済的発展に不可欠であれば、九カ国条約によって何ら影響を受けるものではない。

これが意味する事は、米国が日本の満蒙権益に暗黙の了解を与えた、ということである。

幣原も以下のように満蒙権益が列国の了解を得たと認識した。

「日本が満蒙方面において重大なる特殊の利益権利を有し、また支那全体に対しても特別の利害関係を有することは、単なる主張に非ず明瞭なる事実にして、他国の承認を得て始めて存在するべきものに非ず」

九カ国条約

22年2月6日、ルート四原則とヒューズ修正案を中心とする九カ国条約が成立した。

第1条にはルート四原則が列挙される。

「支那国以外の締約国は左の通約定す。

(1)支那の主権、独立並領土的及行政的保全を尊重すること。

(2)支那が自ら有力且つ安固なる政府を確立維持する為、最完全にして且つ最障礎なき機会を之に供与すること。

(3)支那の領土を通じて一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持する為、各尽力すること。

(4)友好国の臣民又は人民の権利を減殺すべき特別の権利又は特権を求むる為、支那に於ける情勢を利用することを及び右友好国の安寧に害ある行動を是認することを差控えること」

第2条には、第1条と違反するような政策を取らない事を条約締結国に義務付けている。

「締約国は第1条に記載する原則に違背し、又は之を害すべき如何なる条約、協定、取極又は了解をも相互の間に又は各別に若くは協同して他の一国又は数国との間に締結せざるべきことを約定す」

以上の通り、九カ国条約は中国における不平等関係を何ら是正するものではない。

従来の国際関係を大国間協調で維持し、日本の満蒙権益や列国の租借地といった大国の権益も温存された。

そういう意味では、ワシントン体制は第一次世界大戦後の新秩序というよりは、大国優位の旧外交の継続と見做す事が出来る。

他方で門戸開放・機会均等原則に法的な地位を与え、それを日英ら関係諸国の合意を形成した。

それは表では中国の経済・政治的の漸進的自立を促し、裏では日本の大陸進出を抑制するものであった。

九カ国条約は、中国の内乱と日本の対中積極政策により不安定にあった東アジアに一定の秩序をもたらしたと言えよう。

九カ国条約の問題点

九カ国条約は東アジアの国際秩序を律した、東アジアの最も重要な国際条約の一つとなった。

これにより日米協調関係が成立し、日米関係は劇的に改善したが、この条約には多々問題点があった。

まず、条約の主体にあった北京政府が著しく弱体化した。

ワシントン会議は北京政府の財政再建に向け、関税徴収に関する会議を開催する予定であった。

だが、フランスがフラン下落に伴い条約の批准が遅れ、会議がまとまる頃には北京政府の財政が破綻した。

財政基盤を失った北京政府の権威は低下し、中国は軍閥が合従連衡する無秩序の時代を迎える。

次に、九カ国条約は対象国たる中国の条約違反を想定していなかった。

中国は条約によって守られる立場であったが、条約を守る責任もあった。

その責任とは、すべての関係国に対し公平な態度を採り、機会均等・門戸開放の前提を守るということだ。

ところが、中国では列国の半植民地的な不平等条約に対する不満が高まった事でナショナリズムが高揚し、不平等関係の即時解消を求める強硬的な国権回収運動が起こった。

この要求に応じない国家に対しては経済ボイコットを仕掛け、その矛先は最初は英国に、次に日本に向いた。

このように、中国は特定国家を排除する形で九カ国条約の暗黙の了解を打ち破った。

最後に、北京政府の崩壊やナショナリズムといった、条約の根底を揺るがす事態に対し、九カ国条約は列国の協調を再調整することは出来なかった。

当初、米英は九カ国条約に対し、定例的に開催される条約会議を求めていた。

これが実現していれば、不安定な中国の情勢に対し条約締結国間の協調は都度修正され、枠組みの再編成も成っていただろう。

ところが日本は、この条約会議によってワシントン体制が組織化されることを、外交の自由意志を拘束されると反発した。

内政干渉を恐れる中国とともに条約会議の定例化に反対し、この結果、九カ国条約の会議条項は以下第7条のようになった。

「締約国は其の何れかの一国が、本条約規定の適用問題を包含し、且つ右適用問題の討議を為すを望まんと認むる事態発生したる時は、何時にても関係締結国間に充分にして、且つ隔意なき交渉を為すべきことを約定す」

他方で日本は二国間協議については積極的であった。

だが、激動の中国情勢を前にして日英米の意思疎通は不十分であり、多国間協調は失われてゆく。

ついにはボイコットの対象になっていた英国が単独で中国に譲歩し、ワシントン体制は半ば形骸化してしまった。

九カ国条約は中国情勢の不安定化を想定しておらず、そのような事態に対し共同行動や協議を求める条項も無かった。

ワシントン体制と国際連盟

ワシントン体制の弱点を考える上で、国際連盟との対比は重要な示唆を与える。

連盟もワシントン体制も軍縮や国際協調を重んじる点から考えれば、第一次世界大戦後の外交理念が根底にある。

ただ、決定的に違う点は、連盟が平和維持システムの中核に集団安全保障を取り入れたのに対し、ワシントン体制には集団安全保障の観念が無い事だ。

そもそも米国は、自国を紛争に巻き込みかねない集団安全保障への関与を危険視し、連盟に参加しなかった。

よってワシントン体制の諸条約には集団安全保障の前提となる制裁条項が無い。

条約に問題が生じた場合には、利害関係国が互いに協調することが規定されただけであり、何ら拘束力を持たなかった。

もう一点の相違点は米国という存在である。

連盟の制裁システムは、世界の強大国である米国が参加して初めて有機的に機能する。

逆に言えば、米国が参加して初めて連盟の集団安全保障は成立すると言えよう。

特に、日本の影響が大きい東アジア・太平洋地域においては、米国を欠いた連盟の影響力は限られたものであった。

ワシントン体制と国際連盟は、互いが互いを必要とする存在であった。

片や制裁機能を、片や地域の大国を欠いたせいで、中国の情勢不安に直面した東アジアは、国際秩序を律することが困難になった。

国際連盟規約と戦争違法化

連盟は次なる戦争を防止することを目標に、連盟規約第12条から第16条にかけて国家の交戦権を制限する旨を規定した。

これを換言すれば、連盟規約は戦争の違法化を謳っていると言えよう。

戦争違法化は、1918年3月19日、世界大戦中の最中に米国のソルモン・レヴィンソン弁護士が論文の中で発表し、米国にその思想が根付いた。

レヴィンソンは、現行の国際法は戦争を国際紛争を解決する手段として合法化していると指摘する。

この事実を前提としながらの軍縮や戦争防止には限界がある。

戦争が国家の正義を確立するための合法的手段であれば、戦争の為に軍備を増強することに反対するのは難しいからだ。

戦争の原因を各国の軍拡競争に求めるならば、戦争は合法性の必然的な結果であると言える。

よって、戦争を規制する法を作るのではなく、戦争そのものを禁止する法を確立することが必要である。

これこそが戦争違法化である。

レヴィンソンは国家間の戦争を違法化して犯罪と見做し、戦争に代わる紛争解決方法として国際法廷における裁判を提起した。

その上で司法による判決を執行する強制力、武力行使を含む制裁が不可欠であると説いた。

連盟規約はまさにレヴィンソンの戦争違法化思想を実現した法であった。

連盟規約補完の試み

連盟規約は戦争違法化を規定したが、様々な不備により、戦争が合法化された制度として残置してしまった。

例えば連盟規約第12条は紛争について、司法的解決、または連盟理事会報告後、3ヶ月は戦争をしてはいけないと定めた。

この3ヶ月という猶予期間について国際法学者の信夫淳平は、排外熱の冷却期間であり、無用な戦争を減らすものだと高く評価している。

しかし、これを裏から見れば、3ヶ月経過した後であれば戦争に訴えることが可能である。

続く連盟規約第13条は、第12条に判決を履行した国家に対する戦争を禁止する条項だが、判決を履行していない国家に対して戦争に訴えることが可能である。

このように恣意的に条文を読むことが出来る上に、規約の中に「戦争」の用語を用いた為、法的な戦争に至らない武力行使は禁止されていないと解釈される余地を残してしまった。

不備は条文の解釈に留まらない。

連盟規約は常設国際司法裁判所を設置し、紛争の平和的解決を司法に諮るよう定めている。

ところが、連盟規約は国際司法裁判所の応諾義務を定めていない。

応諾義務とは、一方の訴えがあった場合、訴えられた方の同意がなくとも裁判が開始出来る制度である。

従来の仲裁裁判制度は、両当事国の同意があって初めて裁判が始まる仕組みであり、国際司法裁判所設立の際は、応諾を義務付けようとした。

日英らの反対もあり、応諾義務受諾を各国に委ねると言う妥協案に落ち着いたが、受諾に応じる国は増えなかった。

応諾義務が無い以上、片方の同意がなければ裁判が開始されないということになる。

更に、紛争の平和的解決手段の末に採択された連盟理事会・総会勧告を紛争当事国が履行する義務もなかった。

侵略国に対する制裁措置条項があるにしても、如何に紛争当事国を侵略国と認定するかの明記もなかった。

これが意味することは、連盟規約は論理上は戦争の可能性を明確に禁止していなかったと言う事だ。

国家の死活的利益の絡む紛争が発生した場合、紛争当事国が連盟規約の欠陥に乗じるのは必然である。

戦争は連盟規約をすり抜け、国際司法に付託されずに合法化されるだろう。

レヴィンソンは連盟規約を、戦争規制の拡大を目指したものであり、戦争それ自体を違法化していないと断じた。

連盟規約の法的な不備が補完されて、国際連盟は初めて戦争を違法化しうるのだ。

その試みとして、1923年の相互援助条約案が挙げられる。

1922年、連盟総会において、連盟が確実に加盟国の安全を保障出来ないならば軍縮は不可能であるとの主張がなされ、軍縮と集団安全保障は相互補完的である旨の決議が採択された。

これを受け、1923年の連盟総会に相互援助条約案が提出された。

この条約は軍縮と集団安全保障を一体としたものであるが、連盟規約の制裁条項を強化し、侵略の脅威を受けた国家への援助を義務化する所に特徴があった。

特筆すべき点が、条約案第1条1項に記された。

「締約国は、侵略戦争が国際犯罪であることを厳粛に宣言し、どの締約国もその罪を犯してはならない」

つまり、相互援助条約案は侵略戦争を犯罪であるとし、戦争自体を明確に禁止しようとした。

連盟規約より踏み込んで、戦争違法化を明確にする初めての試みであると言えよう。

だが、相互援助条約案は制裁条項を強く提議した事により、条約締結国に軍事的・経済的負担が課せられると反発を呼んだ。

結局、相互援助条約案は英仏ら各国の強い反対を受け、発効には至らなかった。

コルフ島事件と連盟規約第12条解釈

日本は連盟の戦争違法化をどのように解釈したのだろうか。

帝大の国際法学者であった立作太郎は、連盟規約について以下のように述べる。

「連盟規約の大体の趣意も国際関係における強力の跋扈を出来るだけ防止せんとするに在る」

連盟規約の趣旨を武力行使の防止にあると位置付けた上で、連盟規約第12条を重要視した。

第12条は「国交断絶に至るの虞ある紛争」解決のための戦争を禁止し、仲裁裁判・国際司法裁判・連盟理事会審議といった平和的解決手段に付すことを義務付ける条項である。

この「国交断絶に至るの虞ある紛争」とは何を意味するのか。

立は以下のように解釈する。

「破裂は戦争状態の成立による国際和親関係の終止をも含み、また強力的なる平時復仇行為による国際和親関係の終止をも含むるものと為したるのである」

国家間の平和関係の終焉を「国交断絶」とし、その虞がある紛争を明確な戦争だけでなく、より広い意味での武力発動、復仇(相手国の違法に対する強制措置。領域の一部占拠や海上封鎖を指す)や宣戦なしの戦争行為も含まれるとした。

第12条は、そのような広義武力発動が、平和的な紛争解決手段の最中に行われることを明確に禁じているのだ。

同じく、国際法学者の信夫淳平も第12条を以下のように解釈した。

「干戈に訴うる前には先ず否でも応でも仲裁裁判か理事会かによる平和的手段の関門を潜らざる可らざるにおいて、ここに従前に比し著大の差異あるを認むべきである」

第12条は、あらゆる国際紛争を平和的手段で解決することを要求し、その手段を経ない武力発動を禁じた。

この点が、国家の重大利益に関する問題を仲裁から除外してきた従来の国際紛争のあり方と、大きな違いがあると高く評価した。

以上のように、日本の国際法学者の間では、連盟規約は国家の戦争権を一般的に制限したものであるとの認識が共有された。

他方で日本政府は連盟規約第12条を限定的に解釈しようと試みた。

それが1923年のコルフ島事件である。

コルフ島事件は、ギリシャ・アルバニアの境界策定に携わったイタリア人将校がギリシャ領内で殺害された事件を発端とする。

イタリアはギリシャの責任を追及し、謝罪と犯人の処罰、賠償、更にはイタリア兵随行の下、事件の調査を要求した。

ギリシャは遺憾の意を表明するも、賠償や事件の調査については主権侵害であると拒否。

回答にイタリアが満足出来ない場合は、連盟理事会に付託すると宣言した。

ギリシャの対応に不満を抱いたイタリアはギリシャ領コルフ島を占拠し、国家の威信に関わる一時的措置、復仇であると説明した。

これに対抗する形で、ギリシャはイタリアを連盟規約第12条及び15条で提訴した。

中小国を中心にイタリアに対する厳しい意見が続出する中、連盟理事会は紛争の対応を、列国からなる連合国大使会議に委ねようとした。

この理由を、当時理事会議長を務めた石井菊次郎は以下のように語る。

「本使は伊国の行動を是認せざるは勿論なるも、支那を隣邦とする日本が伊国の行動に近き態度に出づるのやむなき場合に遭遇せざるにも限らざるべきを慮り、なるべく伊国攻撃の陣頭に立つのを避けたり」

復仇は相手方を屈服させ、外交による紛争解決を容易にするものである。

中国との諸懸案を抱える日本としては、将来において復仇よる解決の選択肢は残しておきたかった。

宣戦布告を伴わない戦争、復仇手段としての強制措置を第12条違反と断定されては困るのだ。

結局、コルフ島事件は理事会付議に反対するイタリアが連盟脱退を示唆したことで、列国の大使が両国を斡旋する形で穏便に処理された。

当然、第12条を適用すべき問題を回避した理事会の対応は、法的な問題を呼び起こした。

連盟加盟国が規約第12条や第15条に規定された手続きを経ずに、復仇のような強制措置を取った場合、強制措置と連盟規約は両立するのだろうか?

この問題を審議する為、理事会は法律家特別委員会を設置した。

会議に参加した安達峰一郎駐ベルギー大使は、以下、法解釈を披露している。

第12条は「国交断絶に至るの虞ある」紛争と規定されており、そこに至らない紛争は理論上、報復措置をとる余地があると解釈出来る。

しかし、そのような報復措置に依らなければ解決しない紛争というのは、事実上「国交断絶に至るの虞ある」紛争である。

「戦争行為に非ざる強制手段を執るは一見差し支えなきが如きも、既に仲裁裁判にもまた理事会の審査にも付せざること自身が規約違反なるが故に、更に強制手段を執ることは第12条及び第15条の精神に反すること勿論なりと解せらる」

このようにして、強制措置と連盟規約は両立しないと説いた。

ジュネーヴ平和議定書への道

連盟規約には戦争違法化を完遂できるだけの力はなかった。

それは連盟規約の不備だけでなく、強制力たる制裁に不可欠な米国は加盟しなかった為である。

欧州の国々にとって連盟は、国際的平和維持の中心的役割を担い、欧州の安定した戦後秩序をもたらす存在になるはずであった。

しかし、上記問題点により連盟の戦争違法化、集団安全保障システムは有機的に機能せず、第一次世界大戦後の国際情勢、ことに欧州は不安定かつ流動的となった。

欧州にはヴェルサイユ条約により一方的な懲罰を受けたドイツが、戦後国際秩序に強い不満を抱いていた。

それだけでなく、オーストリア・ハンガリー帝国崩壊後に誕生した無数の国家が、利害関係と入り乱れる民族分布から、領土紛争の火種を抱えていた。

このように戦後秩序の見通しが立たない中、連盟を強化せんと提議されたのが相互援助条約案であった。

同条約案は不成立に終わったが、1924年、戦争違法化の試みに追い風が吹いた。

まず1月、英国に労働党を与党とするラムゼイ・マクドナルド内閣が誕生した。

マクドナルド首相は就任早々、連盟の国際紛争解決機関としての権限を拡張する意向を明らかにした。

5月にはフランスの総選挙において左派連合が勝利を収め、エドゥアール・エリオ内閣が誕生した。

この背景にはフランスのルール占領による仏独関係の緊張化があった。

エリオ首相はレイモン・ポワンカレ前政権下の外交政策を改め、侵略に対する武力制裁を確実とする集団安全保障を求めるようになった。

これにマクドナルド英首相が応える形で、英仏首相が揃って第五回連盟総会に出席した。

マクドナルド首相は、安全保障と平和にとって必要なのは仲裁であるとし、連盟規約を強化して、仲裁裁判所の拡大を主張した。

エリオ首相はこれに賛同しつつ、仲裁だけでは不十分だとし、仲裁と制裁を一体とする集団安全保障を提唱した。

二人の演説は、相互援助条約案に代わる新たな安全保障を規定する機運を高めた。

そして1924年9月、国際紛争平和的処理に関する議定書、通称ジュネーヴ平和議定書が作成されるのである。

ジュネーヴ平和議定書

ジュネーヴ平和議定書は連盟規約を補完し、紛争の平和的解決と安全保障を定めたものである。

その前文には、平和と戦争に対する覚悟が語られている。

「諸国の生存、独立または領土が脅かさるるが如き場合において、一般的平和及び該国の安全の維持を確保せむとする強固なる希望に促され、国際団体に属する諸国の連帯関係を認め、侵略的戦争は右連帯関係を侵害し、かつ国際的罪悪を構成するものなることを確認す」

この条文は、侵略戦争を国際的犯罪であると宣言した相互援助条約案からの継承であろう。

また、第2条及び第8条にも明確に戦争違法化が記された。

「署名国は相互間において、または事件発生の場合は以下に定める一切の義務を受諾する国に対し、如何なる場合においても戦争に訴えざることに同意す。

ただし侵略行為に抵抗する場合、または連盟規約及び本議定書の規定に従い、国際連盟の理事会または総会の同意を得て行動する場合は、この限りにあらず」

「署名国は他国に対し侵略の脅威を構成するが如き行動を抑止することを約す」

議定書は以上のように戦争違法化を謳いつつ、紛争の平和的解決に向けて具体的な手続きを記してゆく。

まず、第3条には、連盟規約には明記されていなかった司法裁判への応諾義務が定義された。

「署名国は常設国際司法裁判所規定第36条第2項に掲ぐる事件につき、該裁判所の管轄権が当然にかつ特別の合意なくして義務的なることを承認することを約す」

第36条第2項とは条約の解釈、国際法条の問題、国際義務違反に関する全ての紛争を指す。

その上で第4条には連盟規約第15条第4、5、6、7項の強化する旨が列記される。

第4条1項は、その強化手段を以下のように記した。

「連盟理事会に付託せられたる紛争が前記第15条第3項に定むるが如く理事会により解決せられざる場合においては、理事会は当事国をして右紛争を司法的解決または仲裁裁判に付せしむることを説得するに努むべし」

ここで言う連盟規約第15条3項は、以下紛争解決手続である。

「連盟理事会は、紛争の解決に力むべく、其の努力効を奏したる時は、其の適当と認むる所に依り、当該紛争に関する事実及び説明並び其の解決条件を記載せる調書を公表すべし」

議定書第4条1項は連盟規約第15条3項の手続きで紛争が解決しない場合、理事会が紛争当事国に対し、紛争を仲裁または司法的解決に付託することを務めるとした。

この裁判は紛争当事国の一方の要請により始められるが、仮に双方が付託に合意しない場合、連盟理事会が仲裁委員会を組織し、これに調停が委譲される。

そして、仲裁委員会の報告書を、当事国を除いた理事会が全会一致で採択した場合、紛争当事国は得られた解決手段を履行することを義務付けた。

それが第4条3項及び5項である。

「連盟理事会が紛争当事国代表を除く他の全員全部により同意せられたる報告書を作成するに至りたる場合においては、署名国は右報告書の中の勧告に従うべきことに同意す」

「如何なる場合においても、既に関係当事国の一国により受諾せられたる連盟理事会全会一致の勧告ありたる解決方法は再びこれを争うことを得ず」

以上の手続きや判決、勧告は法的拘束力を有し、これに従わない国に対しては連盟規約第13条4項が適用される。

「連盟国は、一切の判決を誠実に履行すべく、旦つ判決に服する連盟国に対しては戦争に訴えざることを約す。

判決を履行せざるものある時は、連盟理事会は、其の履行を期する為必要なる処置を提議すべし」

第4条6項には、理事会の提案に従わず、戦争に訴える国に対しては連盟規約第16条の制裁措置が取られる旨が記される。

「一国が前記約束を無視して戦争に訴うるが如き場合においては連盟規約第16条の定むる制裁は、本議定書中に提示せらるるが如き解釈の下に、直ちにこれに適用せらるべし」

以上に基づき、議定書は第10条において、侵略国を以下の如く定めた。

「連盟規約または本議定書に定むる約束に違反して、戦争に訴うる一切の国は侵略国とす」

議定書は紛争を仲裁や調停によって平和的に解決する義務と、その平和的解決の拘束力を担保する制裁条項の実効性を定め、連盟規約を補完した。

これにより戦争は連盟の下で認められたものに限定され、一般的には禁止されると認識された。

ここに戦争を包括的に廃絶する、第一次世界大戦後の世界全体の理念を具体化した、有史以来の議定書が完成した。

1924年10月2日、ジュネーヴ平和議定書は48カ国が出席した連盟総会にて、全会一致で採択された。

ジュネーヴ平和議定書と日本

紛争の平和的解決を拒絶して戦争に訴える国を侵略者と断定するジュネーヴ平和議定書は、世界に衝撃を与えた。

議定書作成に携わった連盟代表の安達峰一郎は、その意義を「黄金の時代」と讃えている。

「可憐なる人類の進化においては、これまでは必要と認められていた幾つもの宿駅を焼き払って、吾々は少しの遅滞もなく、直ちに、黄金の時代を創設線と決心したのであります」

国際法学者の横田喜三郎も外交時報の中で、議定書を高く評した。

曰く、第五回連盟総会は「歴史的の大会議」となった。

これは軍縮と紛争の平和的解決、相互安全保障を包含するジュネーヴ平和議定書が成立したからだ。

横田は三者を以下のように論じる。

「軍備制限と国際紛争の平和的処理とは過去四半世紀にわたる国際社会の最も重要な懸案であり、同時に国際連盟の最も重大な綱領である。

また相互保障はそれ自身、国際連盟の重要な綱領の一つであるのみならず、同時に軍備制限の前提条件であり、国際裁判の制裁手段である」

議定書は、ただ三者を一挙に確立しただけではない。

「相互を有機的条件的に関連せしめて、一方に各自の能率を一層増進すると共に、他方に相まって平和の殿堂と正義の高塔とをより安固に支えんとするものである」

これが世界各国の合意を得て成立したということが「歴史的」なのである。

安達も横田も議定書を高く評価したが、日本政府の反応は違った。

連盟代表部にあった石井菊次郎は、議定書の内容は連盟規約第12条の強化であると考えた。

つまり第12条の不備である3ヶ月の戦争禁止期間を補完し、あらゆる紛争が仲裁や理事会に諮られ、その判定に服従することを定めた。

仮に議定書を日本が批准しなくとも、第12条の不備に則った戦争は正当性を失うだろう。

ならば無用の誤解を招かない為にも、議定書を直ちに批准すべきであると本省に進言した。

これに対し外務省は、議定書を紛争解決手段としての戦争を否定するものであると警戒した。

そして、議定書の定める常設国際司法裁判所の応諾義務について、紛争が日本にとって緊切な利益に関する場合は政治的意義を有するので応諾義務から除外する旨留保しようとした。

政府は応諾義務、ひいては平和議定書を骨抜きにするような修正案を打ち、あわよくば議定書の束縛から逃れようと考えていた。

ジュネーヴ平和議定書に対する石井の回顧は、日本政府の議定書に対する評価を端的に現している。

「議定書の速成は心ある連盟支持者に少なからざる憂慮を起さしめ、間もなく軽進者流に深甚の教訓を与うるに終わった」

このような日本政府の消極的姿勢を、横田は厳しい論調で批判する。

日本が議定書の批准を拒んだ場合、確かに法律上は侵略者の名目を免れることは出来るだろう。

だが、戦争違法化は国際社会に確立した大原則である。

「裁判を拒絶して戦争に訴ふるものを以て侵略者と見るということは、実は現在における国際社会一般の信念である。

確信である。

単なる条約上の成文のみではない。

ことにいざ戦争というような非常な場合においては、議定書に参加していないから法律上侵略者に非ずというようや細かい法律論に耳の借されるはずはない」

そして、最後に予言じみた言葉を残すのである。

「日本はしゃにむに侵略国という烙印を押されて、世界の輿論を敵として戦わなければならぬ破目に陥るであろう」

ロカルノ条約

日本政府が議定書の批准に逡巡している他方、英国では政変によりボールドウィン保守党内閣が誕生した。

ボールドウィン内閣は早速議定書の批准を審議したが、米国が参加していない中で連盟の制裁機能を強化することは、英国の負担を過剰にするものであると懸念した。

その結果、1925年3月12日、ネビル・チェンバレン英外相が、議定書の原則には賛同しつつ、議定書への署名を拒否すると宣言し、これに英連邦が続いた。

日本もこれに乗じて、ジュネーヴ平和議定書の成立を強いて主張しない旨を演説し、議定書批准問題から脱出した。

こうしてジュネーヴ平和議定書はフランス、イタリア、ベルギーなど14カ国が署名しながら、実際に批准したのはチェコスロヴァキアのみに留まり、空文化した。

連盟規約を補完する平和議定書は発行に至らず、連盟は戦争防止の枠組みを強化出来なかった。

だが、実際問題として欧州の集団安全保障は喫緊な問題であり、地域秩序確立が模索された。

機会はすぐに訪れた。

ジュネーヴ平和議定書を巡る英仏の協調を目の当たりにしたドイツが、国際的孤立を恐れて独仏和解に動いた。

フランスもジュネーヴ平和議定書が流れた以上、国際連盟の枠外で対独安全保障を強化しようと考えた。

仏独両国の思惑は一致し、スイスのロカルノにおいて英仏独伊を始めとする西・中欧諸国代表が集まり、欧州の安全保障問題を協議した。

その結実が1925年10月16日に締結されたロカルノ条約である。

ドイツ・フランス・ベルギーの相互不可侵を定めるライン協定を中核とし、これを保障する国として英国とイタリアが加わった。

ロカルノ条約は紛争の平和的解決義務において「戦争」以外にも、宣戦布告に至らない「攻撃」「侵入」を禁止し、連盟規約の欠陥を補った。

その上で「戦争」「攻撃」「侵入」が適用されない例を、正当防衛権の行使、連盟規約第16条の遂行、連盟総会・理事会決議に基づいて取られる行動を挙げた。

正当防衛権は具体的に相互不可侵の侵害、またはヴェルサイユ条約におけるドイツのラインラント非武装化条項に違反する場合に行使されるとされた。

以上のように、欧州において局地的とはいえ、明確に戦争を制限・禁止する条約が成立し、戦争違法化の道は大きく前進した。

この中で違法な戦争・攻撃・侵入を自国に対して行う国に対し、例外的に戦争を許容する権利として、自衛権が出現した。

自衛権の特例は、戦争違法化の結実である不戦条約において、留保という形で猛威を振るうのである。

不戦条約

1927年4月6日、この日は米国の第一次世界大戦参戦10周年の日である。

この記念すべき日に、フランスのブリアン外相は米国民に向けてメッセージを発信した。

曰く、平和の実践が真理であることを世界に示すために、戦争を「法の外に置く」相互条約を米国に申し入れる用意があるとの事であった。

突然のメッセージの背景には、仏独関係の緊張があった。

ロカルノ条約によって一時的に改善した仏独関係であったが、ドイツの賠償金減額要求に対しフランスが譲歩を拒否した為に、関係は再び冷却した。

フランスは更なる安全保障強化を必要とし、米国を相互条約で抱き込もうと考えたのだ。

この提案に対し、フランク・ケロッグ米国務長官は困惑した。

フランスとの二カ国条約は、米国を欧州の紛争に巻き込まれる恐れがあり、何ら実益はなかった。

それだけでなく、戦争の違法化は植民地支配に必要な武力行使をも制限し、モンロー主義の第一の障害となりかねない。

一方で米国内の平和主義者・平和団体がフランスの提案に沸き立ち、国民的関心が集まり、政府は何らかの世論対策を打つ必要に迫られた。

そこで米国は戦争違法化を多国間条約とすることを逆提案し、二国間条約を望むフランスの思惑を砕いた。

その上で条約を戦争違法化の確認に留め、制裁条項や司法機関の設置すら定義せず、実効性を極めて弱めようとした。

こうして1928年8月27日、フランス・パリにおいて不戦条約が成立した。

またの名を、条約締結に貢献したケロッグ米国務長官とブリアン仏外相の名から、ケロッグ・ブリアン条約と呼ばれることもある。

不戦条約は全3か条からなる短いもので、その中でも重要なのは第1条と第2条であった。

「締約国は国際紛争解決の為、戦争に訴うることを非とし、且つ其の相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を放棄することを其の各自の人民の名に於て厳粛に宣言する」

「締約国は相互間に起こることあるべき一切の紛争又は紛議は、其の性質又は起因の如何を問はず、平和的手段に依るの外、之が処理又は解決を求めざることを約す」

この条項が語るように、不戦条約は歴史上初めて戦争を全面的に禁止した多国間条約である。

特に第1条は、日本国憲法第9条の戦争放棄条項の基礎となった点で広く知られている。

ケロッグは不戦条約調印の際、フランスの人々から金ペンを贈呈されている。

このペンケースには以下のラテン語が記された。

「平和を望むならば平和の為の準備をしなさい」

これはローマの格言「平和を望むならば戦争の為の準備をしなさい」をもじったものである。

原加盟国は日米英仏独伊ら列国を始めとする15カ国となった。

自己保存権と自衛権

実効性がないとはいえ、不戦条約が戦争を違法化し、禁止したのは間違いなかった。

ここで不戦条約と自衛権の関係が、にわかに議論を呼んだ。

自衛権という概念は、19世紀の国際法理論の根幹を成した自己保存権の中から生み出された。

自己保存権は国家が有する基本的権利であり、全ての権利の基礎となる絶対的な権利にして、国家の義務と位置付けられる、重大な権利である。

国家は自己保存権に基づき、自国の生存、つまりは安全と独立を維持する為に、必要な措置を取りうるとした。

この必要な措置とは、将来の防備、自己の発展、自国防衛に分けられる。

将来の防備とは、徴兵により軍隊を組織し、要塞建設や武器弾薬製造によって軍備を整備し、同盟や協商等の外交関係の構築することである。

自己の発展とは、領土拡張や資源開発、貿易拡大によって国力を増加させることである。

これらの措置は国内向けの富国強兵である。

他国の権利と衝突しない範囲で行われる為に、自己保存権から離れて扱われるようになる。

一方、自己防衛は独立や安全といった自己保存に対する危機に取りうる措置であり、自国領域外でも行われると解釈された。

つまるところ、自己防衛の権利は戦争を合法化し、他国の権利侵害を正当化するものであった。

この自己防衛が際限なく適用されれば、国際社会は弱肉強食の混沌に陥りかねない。

他国の権利侵害を免責する自己防衛の発動は、極めて限定的かつ厳格に適用されるべきなのだ。

ここに自己保存権の行使は、自衛のために必要な場合のみであると考えられるようになった。

これこそが自衛権である。

日本の対外出兵

ところで、戦前の日本は侵略国家と認識されがちだが、その実、堂々と侵略を名乗って対外出兵をしたことはない。

いずれも大義名分があり、対外出兵を正当化しうる国家に認められた権利の下に行われた。

まず、居留民保護を挙げる。

居留民とは、条約によって認められた国外の居留地(租界)に住む自国民を意味する。

彼らの生命財産が条約対象国に不当に侵害され、急迫した緊急事態にある場合、国家は自己の判断に基づき、平時復仇や武力を行使しうる。

条約上の権利に基づき、居留民保護の為の強制措置が国家に認められた。

これは一見すると侵略戦争の危険性が含まれている。

居留民が迫害されていると国家が恣意的に解釈し、保護を名目に勢力拡張を行うということが可能となるからだ。

それだけに国際社会の目は厳しく、居留民保護の適用は客観的に見て妥当だと認識される必要があった。

また、手続き上、まず相手国に居留民の保護を要請するのが慣例であり、相手国にその意思が無かったり、能力が欠如していることが明らかになって、初めて権利行使が容認される。

軍事行動にも一定の制限がかけられ、居留民保護から逸脱した広範な武力行使は正当性を有さない。

つまり、居留民保護を名目とする出兵は、条件も規模も局限的であったと言えよう。

次に先の自衛権である。

国際法学者の田岡良一は自衛権を以下のように説明している。

「国家が自国にとって重大と見なす、ある利益が危機に瀕したと、正しきか誤れるかを問わず判断した時、そしてこの利益を救うために外国のある法益を害するより他に手段はないと判断した時に、外国の法益を害する手段に訴える」

自衛権は、国家の存立に関わる権益や安全に対する危害が認められた場合、自国領土外への武力発動を正当化しうる。

この際、自国の存在が脅かされているかという判断は、当時国が直接判断する。

第三国が相手国の故意や過失を認定する必要もない。

更に、座して脅威を待つ必要はなく、先制攻撃も当然認められる。

これに照らせば、日露戦争はまさに日本が自衛権に基づいて行った戦争である。

正当防衛的自衛権

20世紀初頭の自衛権は、自己の保存が脅かされたという判断で発動する主権国家の権利であった。

この判断は客観性もなく、危機感情から発生するものであり、広範な解釈から侵略戦争を可能とするものであった。

第一次世界大戦は、まさに自己保存権に基づく自衛権が暴走した結果とも言えよう。

戦後の戦争違法化の流れの中で、戦争を合法化しうる自衛権を狭義に解釈しようと試みられたのは必然であった。

ところで、連盟規約には自衛権に関する規定は何ら存在しない。

これは連盟規約が自衛権を禁止したという訳ではなく、当然のように自衛権に基づく戦争は認められるという大前提が加盟各国に認識されていたからだ。

これに対し、ジュネーヴ平和議定書は第2条の戦争禁止条項の中で、除外対象として「侵略行為に対する抵抗の場合」を挙げている。

また、ロカルノ条約も正当防衛権の名で、ロカルノ条約違反による侵略行為や、ヴェルサイユ条約内の非武装地帯条項の侵害に対し行使しうると説いた。

ここに自己保存的な広義防衛権は衰退し、侵略に対する正当防衛的自衛権が確立したと言えよう。

不戦条約と自衛権

戦争違法化を謳う不戦条約は、果たして自衛権に基づく戦争をも禁止するのか。

署名国の認識は否であった。

不戦条約案は米英仏各国が公文を交換する形で折衝された。

公文の中で米国は、自衛権を主権国家固有の権利とし、全ての国は不戦条約の条文に関わりなく、攻撃や侵入から自国領土を防衛する自由がある。

その上で、自衛権の行使が必要か否かは、その国家のみが判断出来ると説いた。

なお、米国は自衛権行使が正当であった場合は、世界はそれを是認し、非難を受ける事もないだろうと続けている。

これを逆に読めば、ある国が自衛権を行使した場合、それが正当か否かを国際社会に対して立証する義務があるということを示唆する。

英国も同様の見解を示した上で、英国の安全に特殊かつ重大な利害関係をもつ地域に対する攻撃があった場合にも自衛権を行使しうると解すると表明。

特殊地域(明示されなかったが、英印を結ぶエジプト及びペルシャ湾を指すと思われる)における行動の自由を留保した。

これは、自衛権は自国領土に対する攻撃があった場合にのみならず、自国領域外でも行使しうるという重大な解釈である。

英国の表明を米国は黙認した上で、ケロッグ米国務長官はパナマ運河を例に挙げて、モンロー主義も自衛権であるとの解釈を披露した。

こうして、不戦条約第1条の戦争放棄条項は自衛権行使を禁止しないとの解釈が、交換公文の形で、米英仏日を始めとする署名国の了解を得た。

自衛権と満蒙権益

日本にとって自衛権解釈が密接に関わるのは満蒙地域である。

今まで日本が連盟規約やジュネーヴ平和議定書に一貫して消極的姿勢を示してきたのは、中国の不法により満蒙権益が危機に陥った場合の、紛争解決手段としての戦争を確保したかったからだ。

この点、日本は以下のように解釈している。

先ず満蒙について、日本にとって国家の存立に関わる、特別で緊切な利害関係にある事は列国に承認されている。

よって日本が満蒙権益を擁護する為に行うあらゆる措置が自衛権に含まれることは、列国も承認するところだろう。

それだけでなく、満蒙の治安維持をも自衛権に含まれると主張するのは可能である。

外国の具体的な攻撃があった場合のみならず、権益が脅かされたと判断した時点で自衛権は行使されるのだ。

こうして、日本は自衛権を満蒙権益擁護から治安維持まで適用出来ると、極めて広く解釈した。

ところが、こうした解釈を公文として世界に公表せず、満蒙権益の留保も行うことはなかった。

条約を審査した外務省は、以下のように考えた。

そもそも、日本が満蒙において自衛権を振るうには、満蒙を保護領が如く扱うような広範な留保が必要である。

このような留保を行えば、日本の満蒙権益に対する議論が巻き起こり、日本に対する中国・列国の疑念を深める結果となるだろう。

また、満蒙政策が確立されていない中で留保を行えば、将来、満蒙権益が増進した場合に日本の行動を拘束しかねない。

自衛権が曖昧かつ広範に解釈出来る以上は下手に留保せずに、問題が起きた場合に英米と都度折衝し、日本に有利になるように導けば良い。

こうして日本は満蒙に対する留保を行わず、不戦条約に調印したのであった。

この無留保について、信夫教授は以下のような論評を加える。

信夫は自衛権発動に関わる国家存立を、領土(本土)と準領土(属領地、植民地、租借地)にあたると解釈する。

日本が仮に準領土たる満蒙に自衛権を行使すれば、中国も領土を守るために自衛権を行使する権利がある。

現実には軍事力で劣る中国は連盟に提訴するだろうが、この際、日本は国際社会に対し、自衛権行使が正当な理由を有するか立証する義務が生じる。

ただし、日本が満蒙における自衛権を留保した場合、この留保は条約締結国に承諾されるので、議論で覆される危険性がない。

逆に、無留保の状態で満蒙に自衛権を行使すれば、無用な誤解や非難を呼びかねない。

そして、論理的には日本の自衛権行使は逸脱されたと判断され、中国の自衛権が正当性を持つだろう。

不戦条約における自衛の問題はこのような矛盾を孕む以上、日本は満蒙における自衛権を留保しておくべきなのだ。

この危惧は、まさに満州事変において現実となるのであった。

不戦条約論

不戦条約と自衛権の解釈論は世界の関心であったが、日本における議論は低調であった。

むしろ政治の世界においては、不戦条約は内容は解釈論では無く、その条文字句の「人民の名において」が天皇大権を侵害するものであると、騒動を巻き起こした。

これが野党民政党や民間右翼を巻き込んで、政局に発展した。

一方、論壇では不戦条約の有効性を巡り、様々な専門家が活発な議論を交わした。

不戦条約は第1条で「国策の手段としての戦争」を禁止している。

この「戦争」に自衛戦争、連盟規約・ロカルノ条約の義務に基づく戦争が除外されたのは、交換公文によって明らかになっている。

ではそれ以外の、復仇や干渉といった戦争に至らない事実上の戦争はどう扱われるのか。

そこで紛争解決のための平和的手段を義務付ける第2条が出てくる。

この条項により戦争に至らない事実上の戦争も、違法化されたと解釈出来る。

それでは不戦条約は戦争の地位をどのように変えたのだろうか。

論壇の評価は厳しいものであった。

ジャーナリストの町田梓樓は、米国が不戦条約を唱える一方で、海軍の大軍拡を計画していると指摘。

「不戦条約そのものが一種の政治的遊戯に過ぎない」

と、米国の態度を断じている。

また、不戦条約には条約違反に対する制裁条項がなく、実質上効果が無い。

そのような条約に漫然と同意を与えるのは対米迎合外交であるとし、厳しい批判を加えた。

「米国が一方において全米条約を提唱して大いにモンロー主義の拡張確立を企て、その優越なる金力によっていよいよ露骨に世界の外交に君臨せんとする態度を見る時、不戦条約の如きはただその我儘なる気分外交の反映として、識者の一笑に附すべきものではなかろうか」

法学者の田岡良一も不戦条約に厳しい目を向ける一人である。

田岡は、個人間の争いに暴力の使用を厳禁するが如く、国家間の紛争に武力の行使を厳禁することは理想として望ましいとしつつ、以下のように述べた。

「国家間の武力の行使を一般に厳禁せんと欲せば、これに代わる国際社会固有の強制手段を樹立せねばならぬ。

然らずして不戦条約を強行せんとせば、かえって法の精神に合せざる結果を生ずるに至る」

更に、田岡はある重要な指摘を行う。

「慢性的に国際条約上の義務を怠り、組織的に外国の権益を破壊する国家の存する時、被害国外報告の領土内の要地を保障として占領し、この強制手段によって違法を改めしめん都する事は、政治上よりいって不当でなく、道義上より見て不正ではない。

かつ従来の国際法中にはこれを禁ずる何ものも無かったのである。

然るに不戦条約はその帰結せられたる当時の当事者の意志を基礎として解釈すれば、国家よりこの自由を奪うものと言わねばならぬ」

つまり、条約違反に対する強制手段を有さない国際社会において、戦争他武力手段を禁止することは、国際義務を遵守しない国家の有利となりうる。

それは法の精神に合致しない結果を招く事になる。

「不戦条約は法の理想に合せざる悪法として存在し、国家が何ら道徳上の不正を自ら感ずることなくして破るという危険に曝されなければならぬ運命を持つのである」

国際法学の大家である立教授は、不戦条約が制裁条項を欠いたことで、以下のような弊害が発生したと説く。

「戦争を禁止または制限するを目的とする国際条約は、兵力的加害行為の行われることを禁止するを得ずして、かえって国際法上の戦争状態を発生せしむること無くして、兵力的加害行為の行わるること頻繁なるを致す一原因となった」

この評論は満州事変以降のものであるが、不戦条約のせいで事実上の戦争が頻発したとは、何たる皮肉である。

以上、多くの外交評論家や国際法学者は、自衛権を曖昧な定義のまま黙認し、制裁条項も欠いた不戦条約は、戦争の地位を変えないと断じた。

不戦条約の意義

国際法学者の神川彥松も不戦条約の現実性を批判する

。 不戦条約の唱える戦争防止、絶対平和を実現する為には、国際連盟の制度を完全たらしめる必要がある。

つまり、連盟の法的・政治的機能が完備され、世界各国が連盟の平和主義の原則を理解し、一切の国がこの原則の下に帰する必要がある。

ところが不戦条約を主導する米国は、連盟に加盟せず、常設国際司法裁判所にも参加しない。

連盟に参加せずに不戦の原則が実現できると考えるならば、それは愚者でなければ狂者だろう。

軍縮も進んでおらず、戦争を排斥する手段にも言及が無いならば、現実性には疑義が抱かれる。

このように不戦条約の現在の価値は認められないとしつつ、その将来の価値を語る。

「不戦条約の高く掲ぐる主義精神は実に国際正義、人類同胞の大義に合する所であって千古不磨の大真理であると言わねばならぬ。

かくの如き絶対価値は直ちに実現されないとしても、人類の歴史において絶えず人間の理性を喚起し、情操を刺激し、人類をして歩一歩、向上の道を辿らしめ、何の日にか必ずや現実せらるべきものであらねばならぬ。

不戦条約の未来価値は実に偉大である」

不戦条約の現実性は疑義が持たれていたが、その意義を肯定する識者も多かった。

法学者の松原一雄は不戦条約の価値を、世界の輿論を背景にする事にあると説く。

確かに不戦条約には制裁条項がないが、だからと言って、その効力は無力ではない。

「世界の輿論は一種の制裁である。否、輿論を後援とする不戦条約は決して無力なりということは出来ない」

そもそも不戦条約とは何か。

「国策の手段としての戦争、即ち戦争も最も特種なるかつ最も恐るべき形式たる利己私欲の戦争を留保なく排斥するものである。

従来は一国主権の発動として、神聖なる権利と観られておった右の如き戦争が、今後はその危険なる正当性を剥奪せられるのである。

戦争は今回の条約により、法の外に置かれたというのである」

この条約により今後、戦争は無くなるのだろうか。

「戦争は法の禁ずる所となり、所謂戦争を為すの権利なるものは、これが為に無くなるのである。

少なくとも帝国主義的戦争、侵略戦争は出来なくなるのである。

否、戦争は今や時代錯誤である事を条約文に明記したものである。

制裁戦争も一応は排斥せられる。

換言すれば条件付きにて認められるのみである」

不戦条約の効力を説いた上で、その精神を以下のように説いた。

「戦争排斥の目的を達する為、議論よりも実際で行こう。

法律論よりも精神で行こう。

制裁手段よりも国際信義で行こうというのが、今回米国提唱の趣意である。

各国の共同の力よりも、むしろ各国民の良心に訴えて、戦争排斥を行うというのが今回の不戦条約の精神である」

不戦条約を積極的に評価した一人が、信夫教授である。

信夫は、不戦条約が制裁条項が無いことで批判されているのに対し、そもそも制裁なるものは万能ではないと説く。

「国際制裁たる被告を対手とする原告、及びその同志の制裁は、その被告の武力または経済力が比較的劣勢である場合に限り有効であるもので、従って前述の如く国際法規の上における制裁規定なるものは、これを明文を掲げて見たところで、畢竟は程度の論に過ぎず、言わば気休めに過ぎぬということになる」

強大な軍事力に対しては制裁は事実上不可能であるという現実がある以上、制裁規定がないからと言って、条約に不備があるとは言えない。

制裁がなくとも、締結国が不戦条約を尊重し、これを遵守する精神があれば、不戦の目的は達成出来る。

更に、現実政治の世界において各国が不戦を宣言することは、連盟規約が補完される事を意味する。

連盟規約が完全な存在となれば、戦争を制限することは成し得るのだ。

不承認主義

日本の有識者が指摘した通り、不戦条約には制裁条項が無く、実効性に欠けていた。

不戦条約が戦争を防止出来なかった事から、現代においても単なる戦争放棄の理念を宣言したに過ぎないと評価されがちである。

だが、米国は不戦条約に集団安全保障の性質を加えんと試みようとしていた。

不戦条約は最終的に世界の大部分である59カ国が締結した。

この59のうち、連盟加盟国は51であり、これは加盟国の9割超の数字である。

日英米仏独伊ら主要的な大国はこの中に含まれる。

連盟非加盟の残る8カ国には、米国とソ連が名を連ねる。

この点で考えれば、不戦条約は国際連盟規約以上の、当時の世界において最も普遍的な法となった。

仮に不戦条約に制裁条項があれば、ここまであらゆる国が条約に加わることも無かっただろうと考えられる。

このような普遍的かつ米国が背景にある法は、世界に多大な影響力があった。

そこで、ハーバート・フーヴァー大統領は、不戦条約を外交政策の中軸とし、宣言に過ぎない条約に集団安全保障の性質を加えようとした。

これは不戦条約に制裁条項を新しく追加しようというものではない。

戦争違法化は平和に対する国際社会の関心を呼び、それに違反して戦争に訴える国には、必然的に集団的措置に繋がる。

この措置は経済・武力的制裁ではなく、国際世論の圧力、道徳的な制裁である。

世界が条約違反に直面した場合、戦争によって生まれた成果を国際社会全体が承認しない。

不承認の道徳的圧力が国際平和維持に繋がる。

これが米国の不承認主義である。

中ソ紛争

不承認主義を採用する一方で、米国は不戦条約に紛争調停システムを盛り込もうと画策した。

南米パラグアイとボリビアの紛争が勃発した際には、米国は不戦条約に依拠し、パンアメリカ会議において調停に成功している。

更に重大な画期となったのが、1929年の中ソ紛争である。

29年5月27日、中国東北部の張学良政権は、ハルビンのソ連総領事館でコミンテルンの秘密会議が行われているとし、総領事館を強制捜査した。

7月10日、中国国民政府は東支鉄道の実力回収を決定し、東支鉄道内のロシア人幹部を更迭した。

これに対しソ連は原状復帰の最後通牒を発するが中国は応じず、7月17日には国交が断絶し、19日にソ連が復仇措置に打って出た。

中国は連盟加盟国である以上、連盟に対し紛争調停を依頼するのが常道ではある。

ただし、ここで問題となるのは、ソ連は連盟非加盟国であるということだ。

国際連盟は発足以来初めて、加盟国と非加盟国の紛争に直面した。

連盟規約第17条には、非加盟国が関係する紛争について、以下定められている。

「連盟国と非連盟国との間、又は非連盟国相互の間に紛争を生じたるときは、此の種紛争解決の為、連盟国の負うべき義務を該非連盟国が連盟理事会の正当と認むる条件を以て受諾することを、之に勧誘すべし。

勧誘の受諾ありたる場合に於ては、第12条乃至第16条の規定は、連盟理事会に於て必要と認むる修止を加えて、之を適用す」

このような条項があるとは言え、連盟は非連盟国の紛争を取り扱うべきではないと敬遠した。

ソ連が理事会の招請に応じる可能性は限りなく低く、審議に応じない国を相手に紛争を調停することは現実的ではないからだ。

連盟の非連盟加盟国に対する解決力の無さが、ここに露呈した。

一方、中国とソ連双方が加盟する条約が不戦条約である。

米国は中国東北部に直接の利害関係がないにも関わらず、不戦条約によって平和的解決を図ろうと、紛争に積極的に介入し始めた。

ソ連の軍事行動が本格化すると、米国は中国に利害関係のある日英だけでなく、常任理事国の仏独伊を巻き込み、中ソ両国に対し不戦条約を警告することを呼びかけた。

最終的に、不戦条約締結国である米英仏が中ソに対し、不戦条約に留意して紛争を平和的に解決することを希望する旨、声明した。

ソ連は不戦条約による調停を嫌い、張学良との直接交渉を重ね、原状復帰による解決が図られた。

不戦条約は紛争を調停こそしなかったものも、米国は同条約が紛争調停に効果的な役割を果たしたと、手応えを感じるようになった。

3つの国際秩序

1920年代後半、東アジアには国際連盟、九カ国条約、不戦条約という3つの国際秩序が存在した。

この3つは相互に関係せず並存し、拘束力も極めて弱かった。

連盟規約を強化しようとした相互援助条約やジュネーヴ平和議定書は空文化した。

九カ国条約も条約違反に対する罰則規定はなく、条約を揺るがす事態を前に、列国の協調も乱れた。

不戦条約に至っては、何ら罰則のない宣言に終わった。

だが、ここで重要なのは、並存する国際秩序が紛争の平和的解決や戦争違法化で繋がっている点である。

東アジアにおける紛争が発生した場合、そして紛争の平和的解決が困難になった場合、九カ国条約と連盟規約が、戦争違法化を定める不戦条約を通じてリンクする可能性があった。

それは東アジアの紛争に対し、連盟や米国の介入を招くという事を意味する。

つまり、連盟規約・九カ国条約・不戦条約は、実際の拘束力以上に、日本の東アジア外交に大きな影響力を有していた。

そして、この国際秩序は1931年に満州事変という重大な挑戦を受け、日本の外交に一大転機をもたらすのである。

参考書籍

国際連盟 篠原初枝
国際連盟と日本 海野芳郎

man

国際連盟の基礎的知識について。

国際連盟と日本外交 樋口真魚

man

集団安全保障の観点から、日本外交と国際連盟を検討する名著。

国際連盟 国際機構の普遍性と地域性 帶谷俊輔

man

普遍的国際組織としての連盟を再評価する一冊。

グローバル・ガヴァナンスの歴史的変容 緒方貞子/半澤朝彦編著

man

東アジアにおける国際連盟について。

帝国日本と不戦条約 柳原正治

man

不戦条約について、非常に平易で簡潔に記された名著。まずはここから入るのが良い。

国際秩序の形成と近代日本 小林啓治

man

不戦条約と日本の関係について。

近代日本と戦争違法化体制 伊香俊哉

man

近代日本を取り巻く戦争違法化の試みについて論じた名著。必読。

自衛権の系譜 西嶋美智子

man

自衛権の歴史について、非常に詳しい。

20世紀日本と東アジアの形成 伊藤之雄/川田稔編著

man

東アジア国際秩序における不戦条約を再評価した論文が、非常に示唆に富む。

国連による紛争処理システムの構造と課題 植木俊哉

man

国際連合と対比させる形で、国際連盟の紛争処理システムを論じる。

東京裁判における九か国条約 柴田徳文
ワシントン会議とイギリス 一九二一∼一九二二 九ヵ国条約を中心に 古瀬啓之

man

九カ国条約について、成立の過程と、その問題点が参考になる論文。

東京裁判における九か国条約 柴田徳文
ワシントン会議とイギリス 一九二一∼一九二二 九ヵ国条約を中心に 古瀬啓之

man

九カ国条約の成立過程と、東京裁判における問題点について。

不戦条約の成立とフランス外交 細川真由
パリ不戦条約の成立とイギリス外交、一九二八年 藤山一樹
東京裁判におけるパリ不戦条約の適用 柴田徳文

man

パリ不戦条約の成立過程と、東京裁判における問題点について。

紛争の「平和的」 解決の意義 – 一復仇と対抗措置の非連続性一 岩月直樹

man

復仇とコルフ島事件について。

レヴィンソンと戦争違法化 不戦条約の精神 小西中和

man

レヴィンソンの戦争違法化思想について。