国家総力戦論

コラム

臨時軍事調査委員会

第一次世界大戦はそれまでの戦争の形態、様式、方法、領域などの点において比較できない総力戦であった。

ドイツの参謀総長であるハンス・フォン・ゼークトはドイツの敗因を、このように回想する。

「大戦の長き消耗的闘争の結果、遂にドイツ側が連合国側の豊富過多な人員並びに物資に圧倒せられたことによって決定せられたのである」

国家総力戦は人と物、軍事、政治、思想など国家が保有するありとあらゆるものをいかに効率よく動員出来るかがモノを言う。

ところで、日本において第一次世界大戦への一般の人々の関心は低調であった。

それはいずれの作戦の規模は限定的であり、大戦の主戦場は日本から離れた地域であったからである。

それ故にメディアも戦争形態の変化を十分認識していなかった。

一方で日本の政治家・陸軍官僚は国家総力戦の出現に強い関心を示した。

山県有朋は今後の戦争について「国民を挙げ、国力を尽くし、所謂上下一統、挙国一致の力に依らざるべからず」と述べて、省庁あげて総力戦への準備を行うべきだと主張した。

国民党の犬養毅も「全国の男子は皆兵なり。全国の工業は皆軍器軍需の工場なり」と、国民皆兵と工業動員の必要性を説き、後に総力戦に適応するための軍縮論に行き着く。

総力戦を熱心に研究したのが陸軍である。

各国に派遣された駐在武官は戦争に関する情報の収集や研究を積極的に行い、本国に報告した。

そこから第一次世界大戦の実態が浮かび上がってくる。

参戦各国の動員兵力、機関銃や大砲などの軍需品の量、弾薬消費量、飛行機、戦車などの新兵器。

これらすべてが日本の軍事力が問題にならないほど高度化し、日本の工業生産力を遥かに越えたものであることが明らかになった。

そこから議論百出の様相を呈した。

上村良助陸軍少佐は軍需補給品の重要性を論じている。

「欧州大戦の状況に依るに一国の兵器弾薬補給が戦争の勝敗を決するに重要問題一となることは最早世間周知の事柄となり、然るにこの問題の中心点はまた原料の多寡及びその補給の為にあるかの感あり」

日露戦争最大の戦いである奉天会戦にて消費された日本軍の弾薬数は27万発である。

一方で欧州の戦場では数百万発の弾薬が消費される戦いが続発した。

軍需品の補給体制を如何に整えるかが日本の課題である。

「いかに戦線に精鋭なる軍隊が配列せらるるにせよ、工業動員が完全に行われて、武器弾薬その他兵器が遺憾なく補給せられなかったら、充分の活動は覚束ないのである」

このようにして、工業動員の必要性を訴えた。

津野一輔陸軍少将は飛行機や潜水艦、戦車などの近代兵器の登場に注視した。

「今日進歩せる各種兵器の威力は絶対にこれを承認せざるべからざるに至れり。

もしこの時時世の進運に鑑みず、貴重なる現戦役の教訓を顧みず、いたずらに精神力に信頼し火器の威力を軽視し、あるいはその装備をおろそかにするものあらんか必ずや最後の死命を制す」

そして、日本陸軍の精神主義を諫め、軍の近代化、装備編成の改善を主張している。

政治家も軍人も総力戦としての第一次世界大戦に衝撃を受けた。

誰もが将来の戦争は徹底した総力戦となるだろうと考えた。

それに備え、国内の政治体制を見直し、総力戦段階に適合する新たな経済構造を構築する必要があると認識した。

ここに日本における総力戦体制研究が始まる。

1915年9月11日、陸軍は第一次世界大戦参戦諸国の戦時体制、国家総力戦体制を調査・研究すべく、臨時軍事調査委員会を設置した。

その調査範囲は、編成・動員・補充・補給・外交・戦略・戦術・兵站・運輸・兵器まで、ありとあらゆる広範囲なものであった。

この委員会の研究成果が、後の陸軍の総力戦体制の計画、国家総動員の基本的枠組みを定めるものであった。

そして、調査委員として総力戦研究に従事した将校たちが、総動員の推進者となるのである。

全国動員計画必要の儀

当時参謀次長の座にあった田中義一は、編成・動員を担う参謀本部総務部第一課の森五六大尉に、参戦各国の動員計画と日本の国情に適合する総力戦体制計画の立案を命じた。

これを受け1917年、森は全国動員計画必要の儀という報告書を提出した。

報告書は日本の軍需生産能力からして、敵を一気に殲滅する短期決戦の作戦方針を採用するが望ましいとした。

しかし、将来の戦争は長期消耗戦が常態化する事が予想される。

よって戦争を準備する上では長期持久戦に耐える覚悟も持つべきである。

平時から日本の戦闘力を充実させ、豊富な軍需品の備蓄、その需要に対応するだけの国力を養成する必要があるとした。

森は動員を

「軍事上は勿論国家全般の組織を平時の態勢より戦時の態勢に移すに要する事業の全部を総称するもの」

と定義する。

その上で将来の戦争の勝敗は

「平時備蓄せられたる国力総量の多寡と、その組織が戦時の運用に適するや否やにあり」

と認識し、全国で動員計画を速やかに実現し、平時から戦時へ円滑な転換を目指す必要があるとした。

そして、全国動員計画の基礎は

「開戦劈頭国家の能力を最大に発揚し、次で自給自足の能力を維持し、かつこの間社会組織に非常の欠陥急激の変化を生ぜしめざる用意を為すこと」

であるとした。

第一次世界大戦初頭、英仏はこの全国動員を怠ったが為に、動員を速やかに行ったドイツに敗北を期したと指摘する。

この観点から日本の現状を見れば、全国動員の何ら計画準備もない。

日本の工業界は平時においてすら国防を充実させるだけの軍需供給を行う能力もない。

民間の工場は利益優先で動いており、戦時における工業動員は到底不可能である。

しかも軍需品の一部は外国の市場に依存しており、それでは戦争が出来るはずがない。

総力戦を見据えた国防計画と動員計画を完成させなければならない。

だが、それは軍部の努力だけでは不十分である。

政府と軍が協力してこれを指導し「軍の整備と生産力の増進とを互いに平衡」させなければならない。

そこで全国動員計画を実行する統一機関が構想された。

そこには総理大臣や元帥、国務大臣、参謀総長、軍令部長が参画し、政府と軍が協力し、国家事業としての総動員計画の実現を目指すのだ。

戦時自給経済構想

総力戦により武力戦はその性格を変化させた。

武力戦は敵の殲滅を目的とする殲滅戦略と、軍事力の消耗を強いて敵の戦力を削ぐ消耗戦略がある。

殲滅戦略は速戦即決であり、兵力の集中大量動員を行って開戦初期から積極的な作戦行動を取る。

これを達成するには平時から戦略物資を備蓄し、軍事予算を増強して常備師団を維持する必要がある。

日本は伝統的に殲滅戦略を採用してきた。

一方で消耗戦力は敵の軍事・経済消耗を第一とする長期戦を前提とする。

決戦まで兵力を温存する為、開戦初期の動員は最小限度に留め、戦略物資も必要以上に備蓄せず、軍事予算も低めに抑える。

第一次世界大戦を振り返れば、戦車や飛行機などの大量破壊兵器の出現により殲滅戦略をより取りやすくなった。

だが、同時に塹壕などの防御戦術の発達により殲滅の可能性は限りなく低くなり、消耗戦略を採用するのが必然となった。

長期消耗戦となった第一次世界大戦は大規模な軍事・経済的消耗を強いた。

また、短期殲滅を採用したとしても、近代兵器を大量に運用する以上、戦略資材の大量消耗は避けられない。

その状況をドイツの参謀総長ゼークトは

「戦争を決定するという意味において殲滅戦略を決定するには資材が全く欠乏し、この欠乏は時とともにますますその度を加えた」

と語っている。

総力戦を想定する上で膨大な軍需・民需の需要を支えるだけの生産力充実は至上命題となった。

そして、その前提となる資源問題は陸軍内部で強烈に意識されるようになる。

資源問題を解決するにはどうすれば良いか。

後に軍需工業動員法制定に尽力した吉田豊彦少将は

「勇敢なる将卒の後方には大なる工業力及豊富なる資源あるに非ざれば終局の勝利を庶幾すべからざるのみならず、戦争を継続することすら不可能」

とした上で

「国防の見地よりせば、軍需物資はことごとく自給自足を理想とする」

と述べ、戦時における自給自足を可能とする自給経済を志向した。

ところが、日本の陸軍は将来の戦争が長期戦になることは予想出来ても、それに伴う資源・食料・軍需生産・労働力について具体的な計画が無かった。

平時・戦時を通じて国防資源を獲得する機関も、それを国内外に輸送する準備もない。

陸軍には動員や交通などを担当する課があっても、それらの業務内容が作戦計画に必要な純軍事に限られた。

明らかな兵站軽視である。

1917年、参謀本部第二部第五課にあった小磯国昭少佐は、第一次世界大戦におけるドイツにおける戦時自給を研究した。

その結果、戦時における軍需品自給自足体制の強化の必要性を痛感した。

そこで蒙古地方の資源調査を基礎に「帝国国防資源」を作成して田中参謀次長に提出した。

小磯は戦争形態の変化から、今後の戦争の勝敗を以下のように認識した。

「経済戦の結果によりて決せられんとする観あらしむ」

国家の経済力は巨大な生産力を生み出す。

言わば経済の戦力化である。

よって、戦時における自給自足体制の確立を説いた。

「長期戦争最終の勝敗は鉄火の決戦を敢行し能わざる限り戦時自給経済を経営し得る者の掌理にきするかこと瞭なり」

平時から戦時自給経済を準備することは、国家存立上絶対条件なのである。

ところが、日本の国土は狭小で経済力も脆弱である。

しかもその国土には、経済工業の基盤となる資源が少ない。

小磯は全国の15歳から50歳までの男子のうち、三分の一にあたる900万人を必要兵力と換算した。

その兵力を維持するための食糧・生活必需品・軍需用品を算出し、国内生産量との差分を不足分として如何に確保するかを重要課題とした。

そして日本の経済力、資源保有量では、とてもではないが戦時に必要な需要を満たすことが出来ないと考えた。

総力戦において国防資源の自給自足体制は重要である。

同じ総力戦論者である永田鉄山は、ドイツが4年間も継戦出来たのは開戦初頭に連合国側の油田・炭田・鉄鉱山などを占領して資源を確保したからである。

そのドイツが敗れたのは資源の自給自足体制が未整備であったからだと観測した。

そして日本の資源状況をこのように表現した。

「重要国防資源の自給を許さぬ悲しむべき境涯」

以上の結論から小磯は、不足資源供給地として「支那の供給力に負うところ将来益々多からんとす」と中国の資源開発に求めた。

中国は日本が必要とする工業原料の多くを抱える重要な国である。

具体的に陸軍は、重要資源のうち鉄鉱石、鉄、鋼、鉛、スズ、亜鉛、アンチモン、水銀、アルミニウム、マグネシウム、石炭、石油、塩、羊毛、牛皮、綿花、馬匹が満蒙、華北、華中からの供給によって確保可能だと調査している。

なお永田はこの重要資源の一覧表に対し、満蒙の軍事・戦略的意義を強調するかのようなコメントを残している。

「帝国資源の現状に鑑みて官民の一致して向かうべき途、我国として満蒙に対する態度などが不言不語の間に吾人に何らかの暗示を与うるの感じるであろう」

満蒙は日本の重要な資源供給地であり、華北・華中の橋頭堡にもなりうる。

ただし中国の資源を国防上不可欠と位置付けても、その利用は容易ではない。

中国は米英列国の利害関係が錯綜しており、米英に経済を依存している日本は行動を拘束されているからである。

永田はこの点を考慮すべき点とし、以下のように説いている。

「富の増進に欠くべからざる国際分業の流通経済策と国防充実の見地に立脚する自給自足経済策とを如何にして、また如何なる程度に按配調整するやにある」

つまり欧米との自由貿易を継続しつつ中国に資源を求めるか、日中経済をブロック化して自給自足圏を構築するか。

二つの方向性がここに浮上したのである。

この問題は政治・外交政策とも連動する為、極めて微妙な問題であった。

この内、自給自足圏構築論は日本が採用しやすい環境にあった。

有事の際に海上封鎖を受ければ日本の物資欠乏は誰の目に見ても明らかである。

自給自足圏を構築すべきというのは説得力があった。

またアジア主義の下、日本はアジアの盟主であるという思想が従来から存在していたので、国家存立のために大陸に進出するという考えは必然であると受け入れられやすかった。

この問題に対し、小磯は経済政策を平時と戦時に分けて考えた。

小磯も長期戦争の最終的勝利者は「戦時自給自足経済を経営し得る者の掌裡に帰する」と考え、その為に戦時経済の独立を平時から準備すべきとした。

ただし自給自足はあくまで戦時の経済政策である。

平時における経済政策の最適解は国際分業・自由貿易である。

その理由は以下の通りである。

「平時流通経済を人為的に抑圧することは到底不可能にして、ことに帝国が敢えてこの自然に逆行せんとするは、戦時独立経済経営の資源たる支那の原料を既に平時に亡失する所以に外ならない」

小磯は自由流通経済は世界の大勢であり自然な状態であると考えた。

また、完全な自給自足は非常に難しい。

そもそも世界大戦の原因は、ドイツが過度に自給自足を夢想したからだとも観測している。

小磯は結論として、以下提示した。

「平時における国富増加の最良策案は国際分業経済の要即に基づき、盛大なる国際輸出の利益に依りて不足原料の輸入を図る」

平時は自由貿易によって原料輸入を拡大し、戦時必需品の供給を確保する。

こうして確保した中国・満蒙・朝鮮の資源を円滑に輸送する為、大陸の鉄道延伸や海上封鎖を受けた場合の迂回輸送路として、唐津ー釜山を結ぶ海底トンネルの建設をも提言している。

大陸から原料を輸入する一方、それ以外の輸入は保護関税によって抑制すべきだとも主張する。

その代わりに、日本の主戦力である生糸や絹の生産・輸出貿易を促進し、国内の農工業の生産を拡大させ、国内資源の貯蔵に努める。

以上のように平時にあっては日中の経済関係が重要になる為、日本の対中外交は、中国における経済的支配強化が基本となる。

経済支配を強化しておけば、戦時には日中を一体の経済基盤として自給自足経済に転換する事も出来よう。

更に小磯は、戦時における軍需品の生産能力を維持する為、軍需工業については平時より工業転換の円滑化を図る準備をすべきとも主張した。

「戦時自給自足の為、戦時に至り俄然転換或いは拡張を要すべき平時工業に対しては予めこれに対する準備を整備し、戦時何ら周章狼狽の要無くして直ちに戦時工業に着手し得るの計画なかるべからず」

これを実行するために民間工場の保護、民間工場の能力に応じて戦時拡張の契約締結、戦時工場拡張に要する機械や職工の配属、官営の職工教育、戦時需要の能力の程度調査、工業動員計画の立案をなどを挙げた。

小磯は長期戦に耐えうる軍需生産能力の為の工業動員体制の確立、それを支える資源の安定確保を主張した。

これこそまさしく国家総力戦的発想である。

小磯がこの報告書を作った動機は、総力戦の出現に対応するために作戦と兵站の関係を見直すことにあった。

「元来作戦は作戦が主であり兵站は従である。

従って兵站は如何なる困難を排除してでも作戦に追随すべきであり、作戦が兵站によって掣肘されるようなことがあったら、それは統帥の破壊である」

比較的軽視されがちであった兵站の重要性を指摘し、その観点から資源問題の確保を最大の課題と説いた。

その唯一の解決方法が国家総力戦体制の確立であったのだ。

国家総動員に関する意見

1918年11月、4年にわたった第一次世界大戦が終結した。

原敬内閣の陸相であった田中は

「今度の戦争というものは、これまでと異なって、単に軍隊と軍隊、軍艦と軍艦との戦いというようなものでなく、国民全体の戦争である」

と振り返り、改めて第一次世界大戦は総力戦であったとの認識を強めた。

そのような中、総力戦研究において重要な報告書が1920年に作成された。

それが国家総動員に関する意見である。

これは臨時軍事調査委員会の研究成果の集大成であり、以降進められる総力戦体制構築の土台となった報告書である。

これ作成したのが、かつて軍隊教育改革に従事した永田鉄山である。

第一次世界大戦当時、永田は欧州にて大戦を観察している。

そこで永田は国家の全てを動員する総力戦という新たな戦争形態の出現を目撃した。

永田はこれを日露戦争をも含む過去の戦争のいずれとも比較できない次元の違う歴史的経験であると強調する。

もはや常備兵力と戦時動員だけで構成された軍隊が中心となって行う純粋な武力戦争は不可能である。

経済力や工業生産力が戦争の帰趨を決するという理解を深めた。

帰国後、永田は欧州経験を買われて臨時軍事調査委員に任命され、第一次世界大戦の研究に没頭した。

そして1920年、総力戦研究の成果として国家総動員に関する意見をまとめ上げた。

永田はまず国家総動員をこのように定義する。

「一時もしくは永久に国家の権内に把握する一切の資源、機能を戦争遂行上最有効に利用する如く統制按配すること」

そして取り組むべき動員として国民動員、産業動員、交通動員、財政動員、精神動員を挙げた。

国民動員とは国家の全人員の力を戦争遂行の目的に向けて集中するために国民を統制することである。

具体的には兵力資源の捻出と、それによって不足する労働力の補填である。

永田は必要な場合には国家の強制力によって国民を労務に服させる必要もあるとした。

他方では女性労働力の活用を主張し、女性が働きやすいように託児所を設立すべきだと説いた。

国民動員に関する法規としては強制労役、捕虜労役、労働争議防止、戦時労働制限撤廃などの労働関連。

軍人の職業復帰保障、傷痍軍人の地位保障、失業者対策、幼児保護などの社会政策まで多岐にわたっている。

産業動員は軍需品と生活必需品の確保に重点が置かれる。

具体的には軍需・民需の生産配分を行う為に生産統制及び物資資源の計画的配置である。

それに関連して動員時に統一使用できるように工業製品の規格を統一し、生産流通組織を大量生産に適応するように大規模化する事を提言した。

これは国家総動員だけでなく、平時における工業生産力の向上、経済競争力の強化にも繋がる。

なお、永田は急速な工業化が農業を圧迫しないよう、農・工両立の必要性を説いている。

これは総力戦は軍需工業部門だけでなく、戦争を支える国民生活に関わる食料・農業部門の重要性をも高めたからである。

産業動員に関する法規としては生産強制、物価規制、輸出入制限、産業カルテルの組織、企業合同促進、土木修繕制限、物資保有の申告義務などを挙げている。

これらの法規は生産力拡充のために自由経済と統制経済の調整を為すものである。

他、交通動員は戦争や国民生活上の要求を充たすために交通機関を所要に応じて統制すること。

財政動員は財政上の政策によって金融恐慌を起こさずに巨額戦費を確実に調達することを指す。

これら人員統制、産業統制、交通統制、財政統制などの国家総動員を実施するためには、開戦初期に議会の権限を著しく制限し、政府の強制権を発動して戦時体制を確立する必要があると説く。

その為に、憲法8条・憲法31条(緊急勅令)と憲法31条(非常大権)の活用を主張している。

以上、4つの動員は突き詰めれば如何に日本経済を資本主義化するかという所にある。

総力戦は高度な資本主義が成立して初めて行える戦争形態である。

多くの重要資源を国外に依存し、軍需産業を担う重化学工業も立ち遅れた経済後進国日本にとって、総力戦の出現は極めて深刻な問題であった。

そこで各種動員準備によって国家全体を効率化し、生産力・技術力を向上させる必要があったのだ。

精神動員

永田が掲げた動員の内、精神動員は総力戦を戦い抜く上で必要不可欠な国民の愛国心・犠牲的精神を獲得し、国家の勝利に向けて民心を統一することである。

永田は精神動員を他の動員に比べて極めて重視している。

「国家総動員の根元にして各種有形的動員の全局にわたり形影相伴うを要しこれらと比肩併立すべきものにあらず、むしろ全局を支配すべきもの」

これは総力戦において重要になるのは銃後の国民状態だからである。

総力戦は前線と銃後の区別を無くし、国民に長期間にわたって物資・精神面において苛烈な負担を強いる。

それ故に国民状態が悪化すれば国民の結束は弱まる。

そうなれば国民の思想が悪化し、軍隊の士気に影響を与え、国は内部から崩壊してしまう。

ドイツの敗因は国民生活の困窮、特に食料事情の悪化にあったと言えよう。

日本も米騒動の革命騒ぎを体験していただけに、国民生活の確保はより現実的な問題である。

ただしそれだけが銃後の国民に影響を与えるのではない。

国家総力戦の最重要要素は国民の精神力にある。

国民を精神動員し、精神的に団結させることが長期消耗戦に必要不可欠であると言えよう。

精神力の重視は永田の国家総力戦論の特徴である。

「国家総動員は人的、物的両方面の資源を統制、按配して国防の目的を達成することであるが、これが基調となるべきものはすなわち国民精神であって、この国民精神の緊張が欠けておったなれば総動員を行うことは夢にも思われない。

名づけて精神動員とでも言おうか、国民精神を極度に緊張させ、砥礪するということはきわめて必要であって、世界大戦間においても各国は外、対手国に対する極度の悪宣伝に苦心し内、国民の思想を常に健全、剛健に保持するということのうえに苦心を払ったのである」

他の総力戦準備がいかに優れていても、国民の精神力がなければそれらを円滑に実施することは不可能であるのだ。

これはドイツの参謀次長として総力戦を指導し、後に自身の総力戦論をまとめたエーリヒ・ルーデンドルフも同様の見解である。

ルーデンドルフは、以下のように国民の精神的団結が総力戦の基盤であると位置付けている。

「総力戦における軍の強弱は国民の肉体的、経済的及び精神的強弱に左右される。

なかんずく精神力は非常な長期にわたる戦争に際し、国民維持の為の生存闘争において必要とする団結力を軍及び国民に与えるものであり、この団結はまた国民存亡の為に行うこの種戦争に最後の決を与えるものである」

翻って永田が日本人の精神力を見れば「堅忍持久」「自治自律」の念が乏しいと感じていた。

これは国家総動員に必要不可欠な精神的資質であり、欧米人には自然と備わっているものである。

日本は精神面においても列国と大きく立ち遅れている。

それだけでなく国民は国防に対して無関心に近く、戦争協力の自発性も皆無に見えた。

総動員を行う上で日本人の精神力は由々しき事態を迎えていた。

そこで永田は後に宇垣軍制下において国民の精神力強化のために教育改革に着手するのである。

戦争不可避論

永田は第一次世界大戦以降の戦争は長期持久戦になることを覚悟すべきだと説いている。

その中で重要になるのは経済力である。

「武力のみによる戦争の決勝は昔日の夢と化して、今や戦争の勝敗は経済的角逐に待つところが甚だ大となってきている」

よって、現在、軍事的弱小国と考えられるロシアや中国は、豊富な資源を背景に他国からの経済的援助を得ることに成功すれば、大きな交戦能力を持ち得る。

更なる問題として、勢力圏の錯綜、国際的政治経済関係の複雑化により世界戦争を誘発しやすくなった。

しかも交通機関の発達により近隣諸国やそれを基にした仮想敵国という観念は過去のものとなった。

「世界の何れの強国をも敵とする場合がある」ので、国際関係の展開次第によっては米英をも敵側となる恐れがあると指摘した。

では戦争は回避出来るのか。

永田は戦争を欲していたわけではない。

「将来の戦争は世界戦を引き起こしやすく、その惨禍は想像に余りある」

「勝利者の勝利はとうてい払った犠牲に及ぶべくもない」

と、その悲惨さを十分認識している。

またカントの「永遠平和のために」を引用し、平和を望んでいた。

「永久平和というものは遂に恐らく来ないであろうが、しかしながら人類がそれがあたかも来るものであるかの如く行動せねばならぬ」

しかし、その上で戦争は不可避であると考えていた。

まずドイツは全面的に敗北したのではなく、将来の再起を期すために講和を結んだ。

ドイツは「国家の生存発達に必要なる弾力」を保持しており、連合国に対する恨みを残したまま戦争は終わった。

次に戦争の原因となったドイツの軍国主義と英米の自由主義の抗争は未だ続いている。

欧州での次なる戦争は時間の問題である。

そして再び世界戦争が起きた場合、列国の権益が錯綜する中国に重大な利害を持つ日本も巻き込まれるのは避けられない。

では第一次世界大戦後の教訓から、戦争防止・平和維持を目的として創設された国際連盟は戦争を止めれるのか。

否である。

連盟は欧州大戦の惨禍の教訓から、戦争防止、平和維持のために創設された。

力の支配から法の支配へ国際社会の原則を転換し、国際関係に規範を導入しようという理念が根底にある。

永田もその意義を認めているが、連盟の定める実行手段には大きな欠点があると見ていた。

連盟は法を擁護する為に力の行使を認めているし、制裁手段としての協同の力も認めている。

これは従来の国際公法や条約にはない新しい考えである。

だが、連盟加盟各国に連盟の決定を強制しうる力は無かった。

紛争国にその主張を改めさせる権威もない。

連盟の行使しうる戦争防止手段は実効性・効果ともに大変疑わしく、世界の平和維持の完全なる保証には至らないと見た。

戦争が避けられない以上、平時から国家総動員の準備計画を整えるべきである。

よって永田は以下のように、平時における軍人の責務を説いている。

「軍人の責務は独り戦時においてのみあるものにあらず、平和の日においてもまた軍人の責務すこぶる絶大なるものあって存す。

即ち極力平和を維持するは軍人の最大責務なり」

これは田中も同じ考えであった。

田中は第一次世界大戦をこのように総括している。

「今次の大戦は、一面科学の戦争であったと言い得るであろう。

今や戦争は終速して国際連盟の規約新に成り、一般に平和を切望する有様となったのであるが、これが為に列国は、世界の国際競争が無くなったのではない。

従って国防を等閑にふして顧みないというまでには至らないので、兵器の研究は大戦の経験に鑑み、今後一層盛んになるであろうと信ずる」

新たな国際紛争の可能性を示唆し、連盟ではそれを止めれないと考えていた。

そこから田中は、後の軍縮論の高まりの中で、ある種の覚悟を表明している。

「大戦争の次に平和論が昂調するは、歴史上の定論である。

凄絶惨絶を極めた欧州大戦の後に、戦争を呪詛し、軍備を嫌悪するは、予期の反動であって、今日の反軍備熱は、ここに胚胎するのであるから、敢えて深く驚くには足らぬけれども、要はそれして極端にならしめぬように指導する事で、それが為政者の任務である」

ルーデンドルフ独裁

総力戦は単なる武力戦ではなく一国の政治・経済・思想・教育・文化などの総合力によって勝敗が左右された。

戦争の本質が変わった以上、総力戦における戦争指導のあり方、ひいては政軍関係のあり方も見直さざるを得ない。

ドイツのルーデンドルフは総力戦について、このように述べている。

「戦争の本質が変化したる如く、法制的に政治の任務が拡大され、政治それ自体も変えなければならぬであろう。

即ち政治は総力戦と同様に、総力的な性格を持つべきである」

つまり総力戦は国家総動員を前提とする戦争形態である。

総動員を実施するためには平時から戦争を想定し、国家の全能力を総合力として集中できる強権的な指導体制を確立する必要がある。

その認識からルーデンドルフは、政治を含めた国家のあらゆる要素は戦争指導の一要素に過ぎないと考えた。

「政治は戦争指導に奉仕すべきである」

このように説いたルーデンドルフにとって、理想的な政治体制は軍部独裁である。

ルーデンドルフは実際に第一次世界大戦中に、ドイツの総力戦体制を構築する上で政治に容喙し、ルーデンドルフ独裁と称される強力な指導体制を確立させている。

ルーデンドルフの総力戦論は後に日本に翻訳された。

また、永田も総力戦体制を構築する上で強権的な政府を求めていた。

そして、実際に満州事変や華北分離工作など自給自足圏構築のために軍部が政治外交に容喙した。

これらの事から、日本の総力戦体制はルーデンドルフ独裁を志向したと解釈されがちである。

だが、日本陸軍の間では、戦争に政治を従属させるルーデンドルフ独裁というのはむしろ反面教師として認識された面もある。

この点について田中は

「国防は単に戦争を意味するものではない。

経済産業においても国民教育においても国防がなければならぬ。

従って軍人のみが国防を議論すべきものでない。

国民全体が国防に任じ国防を議論すべきものである。

兵器弾薬のみで国防の出来るものではない。

鋤鍬取ってもこれが国防の道具である。

櫓櫂を握ってもこれが国防の用具であると考え、それで始めて国家総動員の意義が徹底するのである」

と総力戦を論じている。

国防は軍人の専売特許ではない。

様々な職業、身分、立場の人の行動が多様の形態で国防に貢献できる。

「国民全体の生活と言うことが既に国防の一部」

これこそが国家総動員なのである。

田中は、総力戦は国家の保有する全ての力の総和であり、経済や教育、思想といった非軍事の領域にまで関わる問題であると繰り返し説いた。

「国家総動員の要素は独り軍事のみではない。

農業、工業、教育、技術、運輸、交通、地方行政その他あらゆる方面に関係している。

我々は如何にしてこの目的を達すべきや。

宜しく国防及び国家総動員の見地より各々その職とする所に奮励努力し、以って国家の発展興隆に向い邁進すべきである」

よって、その総力戦体制にとって望ましい政治体制は、軍事が政治を優越するルーデンドルフ独裁ではない。

軍事と政治の境界線が希薄で、平時から相互が乗り入れる状態こそが理想系である。

「どうしても国防と言うことは軍人の国防という観念を廃めにやいかぬ。

国防と言うことは軍隊軍艦という範囲で終始するものじゃない」

このように論じた田中は、実際に総力戦体制構築のために軍を離れ、自ら政界に打って出て、それを実現しようとした。

確かに、永田は総力戦のために挙国一致を重視し、政府の強制権が必須であると論じている。

政府の強制権を規定するのは帝国憲法第8条・第70条の緊急勅令と第31条の非常大権がある。

この内、非常大権は国民の権利義務に関する憲法の条規を戦時において制限するという強力なものであった。

「本章(臣民の権利義務)に掲げたる条規は、戦時又は国家事変の場合において、天皇大権の施行を妨ぐることなし」

よって非常大権行使が総動員の実施においては一番の近道である。

永田はこれについて

「事情これを許す限りは立法の手続きに依り政府の機能を律するを要す」

と、議会の機能を重視する姿勢を見せた。

これこそが

「立憲の常道にして真の挙国一致を来たす所以」

だからである。

総力戦の主体が国民である以上、国民輿論を背景とする議会を通じ、国防や総動員への国民の理解を調達するのが非常に有効的である。

多くの国民が政治に参加するに越したことはなく、その観点から考えれば普通選挙は非常に望ましい。

更に、政府の強制権について永田は

「国防の目的を達し難き最後喫緊の場合に限定せらるべき」

と述べ、必要最小限度に留めるべきだとした。

その理由をこのように述べている。

「政府の強制権適用による国民の有形無形上における不利を努めて撲滅する」

つまりは国民福祉の観点である。

永田の総力戦論には常に国民の姿があった。

1927年、永田は国家総動員に関する一般向け講演の中で、以下のように語っている。

「国家総動員を実行するにあたりましては、国民は物質精神両方面において実に名状すべからざる数多の困難と悪戦苦闘しなければならないのであります。

これに耐え、これに忍に非ずんば総動員は貫徹できないのであります。

ここにおいてか、私は国民がよくこれを凌ぐに足るところの立派なる精神と立派なる体力とを具えておくことを特に重大視するのでありまして、これが出来ておらなければ他の準備がいかに優れていても、国家総動員の円滑、十分なる実施は到底庶幾することが出来ぬと思います」

「各自その地位に応じ忠実にその職務に向かって精進するということが、取りも直さず国家総動員の準備に寄与する所以ではなかろうかと私は考えます」

このように国民の自発性に訴えかけた。

国家総動員のためには国民が国防を理解し、自発的に精神や体力を鍛えなければならない。

これは軍人が強制することは出来ない。

議会の活用や国民福祉の向上が総動員に必須なのである。

よって強制権によって総力戦を推進するルーデンドルフ独裁は望ましくない。

むしろ軍部独裁は総力戦においては非効率であったと言えよう。

日本の総力戦体制は文官と武官、政治と軍事、国務と統帥の一致を模索し続けた。

その努力を後に見いだす事は出来るだろう。

軍需工業動員法

第一次世界大戦は想像を絶する消耗戦となった。

軍需に応じる為に参戦各国の工業動員は徹底された。

ドイツやフランスは工業を統一的に運用し、ロシアは政府が完全に工場を収用した。

自由主義国の英国にあっても、工場が政府の管理下に置かれ、軍に工場に対する命令権を与える工業動員が行われた。

日本が将来総力戦に臨むならば、既存の挑発令や戒厳令だけでは軍需品の確保は不可能である。

軍民一致して工業動員を実施する必要が生じた。

1917年、シベリア出兵による軍需の高まりと臨時軍事調査委員会の報告を受け、参謀本部は民間の工業力を軍需生産に利用すべきと陸軍省に要求する。

上原勇作参謀総長も軍需品に関する法整備の必要性を認め、大島健一陸相に対して軍需品管理法案を提示した。

これが各省の協議を経て、寺内正毅内閣下の1918年3月4日に軍需工業動員法案が衆議院に提出された。

軍需工業動員法立案の立役者である吉田豊彦は法案の主旨を

「平戦両時において本法を巧みに活用し交戦状態に順応し国情に適応せる全能力を発揮し戦争目的の達成に貢献せんとする」

と語っているが、この時、陸軍内部では国家総動員の概念は十分に定着していなかった。

法案は2カ月足らずで作られ、内容の検討については不十分であった。

議会閉会間際に提出されたことから貴衆両院の激しい批判に晒された。

政友会の原敬総裁は「一夜作りのものにて不備杜撰」と酷評したほどであった。

ただし陸軍は議会対策を入念に行なっており、大島は法案の質疑において丁寧に答弁している。

大島は法案の概要を「平時より戦時工業動員の準備を規定する」永久立法が必要であるとした。

その上で「平時より戦時の準備をする目的」で工業動員を行う準備をすると説明した。

具体的には、まず戦時における必要資源を明らかにする。

その不足資源に関連する工場事業者に対して毎年定期的に報告を要求し、工場・労働者・輸送機関・各種軍需品の実態調査を行う。

それを基に補給計画を立てる。

次に政府は各工場に対して保護奨励を与える。

兵器、艦船、航空機、弾薬、軍用器具、機械、燃料、被服、糧秣などの軍需品の生産を促して、必要資源の充実を図る。

そして戦時において政府がそれら工場の土地や家屋、倉庫を管理・収用し、工場従業者を徴用し、戦時に即応する体制を確立する。

こうして戦時の国家資源を統一的に運用し、軍需の補給を円滑にする。

既存の挑発令が現有資源の供出を目的にしたのに対し、軍需工業動員法は戦時必要資源の創出を重視した法案だと言えよう。

このような法案の性質上、強制や罰則を規定している。

この点について大島は、このように答弁した。

「なるべく工業者の利益を尊重しまして、必要の程度以上に強制の及ばぬように、工業事業者をして安心して、その経営を為さしむるということは無論のことであります」

法案は実業家の利益尊重を強調した。

戦時収用・徴用に対する政府の損害保障の義務、工場事業者の権利の保護を規定するなど、民間工業に最大限の配慮をしている。

会期末に提出されたにも関わらず、軍需工業動員法成立に議会は前向きであった。

文官も国家総力戦体制に向けた法整備を望んでいたのである。

逓信次官で、貴族院議員や台湾総督を歴任した内田嘉吉もまた、総力戦としての第一次世界大戦に関心を持った一人である。

内田は大戦中に米国を視察しているが、米国の総力戦準備について

「当局のみに一任せず、国家国民上下一致して目的の遂行に汲々たるは、その意気や壮なり」

と、主体が国民にあることを賞賛している。

内田が観察した米国の国家総動員(産業動員)は軍ではなく文民が主体となり、動員計画も公に議論されて、国内外に公表されていた。

実業家も総動員に積極的に参加し、米国政府は国内全ての重要工場と契約を結び、数万人規模の職工を動員する用意を整えていた。

内田は将来の戦争は国民の戦争、国家総力戦であると認識した。

よって国民自らが必要となる軍需品の製造に責任があると考えた。

むしろ「軍需品製造は国民の権利である」のだ。

そして国民が軍需品製造に参画することで「国防を統一的、組織的、国民的にする」事が出来る。

これこそが理想的な軍民一致の総力戦体制である。

こうして軍需工業動員法は成立した。

ただしこの法律は実施が戦時に限定され、また民間の理解協力を得る為に内容が不徹底であった。

議員の中には動員の規模が小さいとか、労働力統制を条文に含むべきではないかとの指摘が上がった。

果ては工業動員は法律ではなく非常大権を適用した緊急勅令で実施し、工場に自発的に協力させるべきだとの声も上がった。

同法が全面発動されるのは1937年の日中戦争勃発からである。

国家総動員機関の模索

軍需工業動員法の設立に伴い、内閣に直属する軍需局が設置された。

軍需局は、平時から工場、輸送機関、軍需品、労働者の実態調査を行い、それに基づく戦時補給計画立案をになった。

更に1920年、原内閣は軍需局を拡充し、首相が軍需工業動員法施工に関する命令を発し、関係各省庁に対して指揮命令を行える国勢院を設置した。

こうして総力戦準備を目的とした機関は順調に拡大したかのように見えた。

だが、1922年、加藤友三郎内閣はワシントン体制下の軍縮世論を背景にした行政整理を行い、国勢院を廃止してしまった。

これに対し陸軍は、総動員計画の中央機関たる国勢院の廃止に目立った反対を行なっていない。

当面の戦争の危機が去って早急な工業動員を必要としなくなった事もある。

それ以上に、当時の陸軍内部において総力戦への理解が未だ低く、国家総力戦体制の構築が軍の総意となっていなかった。

こうして国家総動員政策は一旦棚上げとなった。だが戦後恐慌、関東大震災による財政難の中で、政治家が国家総動員政策の実施を望むようになっていた。

1926年1月1日、加藤高明内閣の浜口雄幸蔵相は

「財政好転の為に、国民的総動員において経済戦争の共同戦線に立たなければならんと信ずる」

と表明し、国家総動員施策に財政健全化の可能性を見出した。

他方、陸軍省にあって動員計画を主務とする整備局長の松木直亮少将も国家総動員機関の必要性を説いていた。

松木は国家総動員について、このように述べている。

「国民的戦争の際に当て、国家の全知全能を挙げて、一事一物の細をもこれを苟もせずして有効に統制することを言うのである。

即ち国家の総ての機能及び資源を統制按配して、一面には国民生活の安定に資し、一面においては戦争に必要なる資源を豊富にすること」

つまり、国家総力戦体制とは、戦争に即応可能な体制を平時から構築する為に国家の基礎を強固にする国家制度なのである。

そして国家総動員を実施するための準備として国防資源調査、不足国防資源の保護培養、平時施設の実行、総動員計画策定、戦時総動員の法令立案が不可欠であるとした。

これら総動員準備を進める国家総動員機関を求めた。

こうして政・軍双方から国家総動員機関設置の気運が高まった。

そして1927年5月26日、総動員における資源の統制運用を準備する諮問機関としての資源局が設置された。

ヒトの資源化

資源局は首相管轄の下、国内の資源調査、戦時需給調査、資源の培養・補填・統制運用計画を行い、それに必要な法令を立案する国家総動員機関である。

資源局の特色は事務官の半数が文官官僚、半数が現役武官と、国家総力戦体制構築に文民が主体的に関わった点である。

資源局設置に大きな役割を果たした松井春生も、帝大法科大学から内務官僚を経た文民である。

松井は法制局参事官として普通選挙法制定に関わっている。

デモクラシーの要素を、以下のように定義している。

・言論・報道の自由が確保される事で真の輿論の存在が明らかである事

・政党が発達することで聡明な輿論が育まれている事

・輿論が政治機関を監視し、自由公正な選挙によってその輿論が議会に反映される事

このように、国民の意思が政治に反映される議会政治を高く評価している。

一方で国家の存在も重視している。

「正義の樹立は自由の確保と相伴う観念であって国権と民権とは合致せらるべきもの」

「思う通りに行動することが国の公益と一致する範囲において自由」

デモクラシーが機能する為には個人の利益だけでなく公益も重視されるべきである。

公益実現のために警察権、国防権といった国家権力も必要であるとした。

その観点から、松井は国家総動員を必要とした。

第一次若槻礼次郎内閣の下で江木翼法相や塚本清治内閣書記官長に働きかけ、永田鉄山動員課長の賛同も受け、資源局設置に尽力した。

資源局は単なる国家総動員機関ではない。

その設立趣旨は資源の保持育成である。

松井は「国家総動員準備の第一に重要なるは、畢竟、資源保有の施設である」と考えた。

「農産、水産、畜産の生活資源はもとより、鉄、綿色、羊毛などの原材料資源、石炭、石油、水力電気などの動力資源の類を如何にして保持し、如何にして豊富ならしめ、如何にして利用すべきか」

これが重要なのである。

その理由を以下のように説いた。

「現代戦が国力戦であり、国力の要素たる一切の人的及物的資源は、総てこれ同時に国防力の源泉」

故に資源を国家総動員の前提条件に位置付ける。

「資源の保育を基調として、産業政策、社会政策、国防、外交、教育各般の国策は組織的系統的に樹立されるべき」

あらゆる資源を調査・把握し、それを有効活用できるように計画することが資源局の役割である。

そして重要な点として、資源の有効活用は国防目的に限定されない事である。

松井は国家総動員を、このように説明している。

「有事に際し、国力の要素たり厳選たるもの、即ち国家社会一切の資源を最も有効適切に統制運用すること」

であるのだが、その目的は

「軍備の外にその軍需の充足を確保すると共に、ややもすれば危殆に瀕する国民生活を保障し、爾後における国力の回復を迅速有効ならしめる」

国家総動員には国力の発展や国民の福利厚生増進をも目的とする一面があるのだ。

松井は永田に対し資源保育政策を、以下のように語っている。

「肺病患者に甲冑を着せることは困るので、国利と民福との調和を図らなければならん」

松井と永田の総動員論は、国民福利向上や議会尊重、軍需と民需のバランス考慮、国民の体力精神力重視などある点まで酷似していると言ってよいだろう。

資源局に参画した軍人たちも文官官僚たちと敵対することはなかった。

むしろ背広で出勤するなど協調姿勢を見せ、国家総動員準備は軍民一致によって推し進められようとしていた。

資源局の取り扱う資源とは物的な国防資源や軍需品だけではない。

人的資源も含まれる。

人も物も資源という概念で一括りにした事から、国家総動員の負のイメージが想起される。

だが、松井は人を単純に物と同一視したわけではない。

松井は資源について、人的・物的の二面から観測している。

「およそ社会存立の要素は、人と天然である。

天然はこれを略して物といってもよい。

随って、一国の資源即ち国の存栄に役立つ源泉も、差し当たり、これを人的資源と物的資源とに分けて観察するを以って、最も便宜とする」

英国の経済学者GDH・コールは人的資源を

「物的資源同様、国防の根幹である」

と定義し、その人的資源が国防の上で最大限に発揮されるための四条件を以下のように挙げる。

・人口の集中

・国体概念の一致

・技術の保有

・組織力

松井はコールを引用しつつ、この四条件を平時においても妥当と考えた。

そして人的資源を「一国の存栄上支配的なるもの」と位置づけた。

それを保育、つまりは国民の体力や技術を向上させ、精神力や公共心を育む事で、初めてデモクラシーは機能すると考えた。

このように資源局に関わった文民官僚にとって、国家総動員とデモクラシーは不可分な関係にあったのだ。

デモクラシーと軍隊

大正デモクラシーは政党と国民の影響力を増大させた。

軍の計画は国民・議会の監視下に置かれ、国民の支持がなければ何事も履行できない時代に突入した。

更に国際連盟の設立やワシントン海軍軍縮条約の成立を背景に軍閥批判や軍縮世論が高まり、軍部に多大な圧力をかけた。

国民の軍人に対する偏見・理解不足から軍に対する信頼は失われた。

好景気から軍を志願するエリートは減少し、軍を無用の長物とする反軍思想が高揚した。

軍人の社会的地位も堕ち、上官に対する暴行や暴言などの下克上が横行して軍紀は弛緩した。

大正時代は軍人にとって冬の時代となった。

それが為に大正期における軍人の不満が、515事件であり226事件の遠因であると解釈されがちである。

元老西園寺公望も、このように述懐している。

「やや軍人を抑圧し過ぎたるきらいなきにあらず。

小児には小児の心理あり」

これは当時の人々の一般的な感覚であろう。

だが総力戦の本質が国民戦である以上、軍事に国民の容喙を許さない時代は過去のものとなった。

国民の理解が得られなければ総動員を実施出来ない以上、軍民乖離は総力戦において死活問題である。

軍は国民に基礎を置く国民の軍隊でなければならない。

軍部はデモクラシーの世の中に適応し、国民・社会の理解を積極的に得て軍民一致を図るべく、現実的で柔軟な対応を取る必要に迫られた。

永田も同僚とデモクラシー問題を談じた際、そんな思想はいらないと述べた同僚に対し、研究もしないでそんな事を言うなと言い返した逸話もある。

デモクラシーと総力戦はコインの裏表であると言えよう。

軍民が乖離した理由は陸軍教育にある。

陸軍幼年学校では生徒の日常生活は厳格に管理され、一挙手一投足まで教官に監視された。

それだけでなく軍人勅諭の政治不関与を徹底するために新聞は切り抜かれた一部しか読むことが許されず、徹底的に社会から隔離された。

これは将校を外来思想から切り離し、軍人を政治に関与させないための措置であった。

だが、このような教育を受けた将校の社会性は欠如し、時勢を全く理解せず、一般社会に適応出来ない。

中には閉鎖的な空間で英雄豪傑を崇拝し、肩で風を切る不遜な態度を取る非常識な軍人もいた。

それが一人作戦室で戦術戦略を研究する参謀であればいいだろう。

だが、デモクラシーの世にあっては軍人もまた国民であり社会人である。

軍人は国民や社会と没交渉であることは許されないのだ。

新しい時代に相応しい将校のあり方を説いたのは田中であった。

1919年、師団長会議において田中は、以下のように論じて、陸軍改革を主張した。

「時勢の進運に伴い将校に常識の必要なるは敢えて言うをまたず。

ことに壮丁中政治または社会問題等に関し多少の知識を有するもの尠からざる現況において将校もし相当の知見を欠かば独り教育指導の適切を期し難きもののみならず。

その威信を失墜しややもすれば世上の物議を誘致すること決してその例なきにあらず」

田中は、まず軍人自身の常識の涵養を説いた。

これからの軍は世論と積極的に関係を持ち、世界情勢や思想問題、政党政派の関係をも理解し、時代の人で無ければならない。

その為に常識を身につけ、政治や社会問題に関する知識を身につけるべきである。

国民から尊敬される人格を修養し、高慢で高圧的な態度を是正しなければならない。

永田も国家総力戦における将校のあり方について、総動員計画を統一的に実施・調整する為に

「内外政の殆ど全般にわたり関渉を有し、経済事情、社会事象と密接不可離の干繋を有する」

と述べ、法政・経済・産業・社会事情に相当の理解を求めた。

これは軍人の政治不関与に対する新たな認識であり、総力戦時代の新しい将校像であった。

次に軍隊生活の改善である。

従来の日本陸軍は忠義や武士道といった封建的な精神論に偏重し、伝統的な慣例や先例を墨守させ、兵卒を強圧的に服従させていた。

一見軍紀が厳正のように見えるが、上下の間に温情がない冷酷な軍隊であり、兵卒の間に過激思想が蔓延る不健全な状況にある。

そのような軍隊は、一旦後退をし始めたら一挙に崩壊するのである。

その悪しき例が第一次世界大戦期のドイツ軍やロシア軍である。

一方で軟弱と思われた英米仏軍は兵士の人格を尊重する温情的な軍隊であった。

これが為に兵士は自発的に命令規則を遵守し、進んで軍紀に服する強い軍隊であった。

この観測から、兵卒に対する強制は重大な欠陥があると認識された。

これは国民教育の発達により、新兵に相当の知識があり、デモクラシーや社会主義に触れ、それ相応の判断力を有しているからである。

賢い兵卒に因襲的で偏屈な教育を押し付けても結果が出ないのは明白である。

軍隊が国民を基礎とする以上、現代の思潮を研究理解する必要がある。

その新思潮に接してくる兵卒に即した、時勢に順応した合理的な教育手段を講ずる必要がある。

逆に言えばデモクラシーに代表される現代思潮を危険視し、新たな思潮に触れた兵卒を高圧的に抑える事は大変危険であると言えよう。

このような観点から陸幼・陸士において軍隊規則が相当緩和されることになる。

私物下着の着用許可、物品販売所の設置、構内における生徒間の敬礼省略、訓練終了後の外出・休憩許可、和服の着用許可、早朝の軍人勅諭奉読の省略、新聞の全面掲載などである。

ここに温情的な教育を受け、政治や社会問題を含む常識を持つ将校と、人格が尊重され自発的に軍隊に服従する兵卒が誕生するのである。

この劇的な変化は、後に陸軍内部でデモクラシーに迎合したと非難されるほど、デモクラシーに順応した改正であった。

山梨軍縮

軍事技術の革新により登場した戦車、航空機、火砲などの新兵器の火力は強大な破壊力を有し、それに対応する為に軍備の機械化・近代化が喫緊となった。

ところが陸軍は火力の重要性を認識しておらず、飛行機・戦車の保有量・整備技術・練度、質量ともに列国と比べて非常に遅れをとっていた。

小林順一郎陸軍大佐は日本陸軍の時代錯誤さを喝破している。

「依然として肉体たる歩兵に対し、この震駭すべき火力下において決戦と火戦の両主体たるべき不可能事を要求し、国民の犬死を用意しているのだ」

この原因は軍需品の需要に応える工業生産能力や兵器を開発する科学技術の立ち遅れもあるが、陸軍の経費も問題であった。

大正当時、1個師団の年間維持費は約500万円で、全21個師団維持の為に1億円以上の経費を要した。

この為に近代兵器の開発整備に経費が投入出来ない。

かと言って当面の戦争の危機が去った中で、陸軍の経常維持費は余程の事がない限りは増額されないだろう。

そこで陸軍内部において、在営年限の短縮や組織改廃、師団削減などの軍縮によって、総力戦に対応する軍備近代化の財源を自弁するという発想が生まれる。

折しもワシントン会議以降の軍縮世論の高まりや議会の軍縮決議もあり、陸軍軍縮の機運は内外で高まっていた。

そんな中、1922年、山梨半造陸相の発表した陸軍軍備整理要綱はあまりにも不徹底であった。

その内容は兵役年限の40日短縮、満州独立守備隊の廃止、軍編成改変などにより将校1800名、准士官以下5万6000名、馬1000頭、年間経費3000万を節減するというものであった。

山梨は翌年にも第二次軍縮を実施し、軍楽隊や仙台の幼年学校を廃止している。

これは人員整理と引き換えに機関銃、野戦重砲、航空機などの近代兵器装備を目指したものである。

だが、肝心の常設師団はまったく削減されなかった。

山梨軍縮は肥大化した常備師団の削減に着手しなかった。

その上で3億5千万近い削減のうち軍備近代化の予算は1億円程度しか認められず、残りは国庫に還元させられた。

5個師団相当の人員大幅削減の代価も軽機関銃隊を13年かけて整備するという、余りにも不十分な内容であった。

なお、師団を削減しなかった理由を山梨は議会において、以下のように答弁している。

「戦時の始まる当初において、短少の時間に短少の月日に戦時の状態を整えてしかも編成されたる所の部隊を強固なる団結を有せしめる、この事については平時より準備しておかぬと中々出来ぬのであります。

それでありますから平時の師団数を減じまする結果は、戦時に新たに編成すべき部隊を益々加える、従って動員の実施はいよいよ困難となるのであります」

これは軍縮によって軍備近代化を進めるという発想からはかなりかけ離れている。

陸軍内部でも軍縮に一枚岩ではなかった事がわかる。

宇垣一成の総力戦論

軍備近代化のために師団撤廃を伴う徹底した軍縮断行論は、陸軍官僚たちの主流となりつつあった。

そのような中で登場したのが宇垣一成である。

宇垣は岡山県の農家出身という出自から、陸士一期生として陸軍に入り、陸軍の要職を歴任した大正時代きっての陸軍官僚である。

ただし宇垣は日清・日露戦争で活躍したわけではない。

性格も剛毅・傲慢で、我の強い扱いにくい人物として出世から取り残された。

また強烈な自信家であり、このような自意識過剰に近い使命感を抱いている。

「光輝ある三千年の歴史を有する帝国の運命盛衰はかかりて吾一人にある。

親愛する七千万同胞の栄辱興亡は預かりて吾一身にある。

余はこの森厳なる責任感と崇高なる真面目とを以て勇住する」

一成の名も「精神一到何事か成らざらん」の意から取って改名しており、その野心の高さも伺える。

そんな宇垣を見出したのは田中である。

宇垣は岡山出身で長州閥ではないが、田中は宇垣の実務能力を高く評価し、軍務局長時代に宇垣を軍事課長に抜擢した。

後に田中は自身の後継者として宇垣を陸相に推している。

田中の後継者に相応しく、宇垣もまた田中同様に日露戦争に総力戦を見出した。

「現今の国民皆兵の時代となりては戦争そのものは既に国民の戦争なり」

このように、総動員の重要性にいち早く着目している。

第一次世界大戦が発生すると、その画期性をこのように指摘した。

「世界大戦の経験は国防の重点が老若婦女を論ぜず挙国国民と国家の全資材の上に推移した」

更に戦争が長期化すると、未来の戦争は

「国家を組成する全エネルギーの大衝突、全エネルギーの展開運用により勝敗が決せられる」

総力戦になると考えるようになった。

総力戦に最終的に勝利するためには、軍隊・国民・経済の三分野の抜本的改革が必要であると説く。

まず軍隊内部を整理し、軍事制度を健全化し、装備の近代化を図る。

その上で挙国一致体制を築き、軍隊に対する国民の支持を引き出すために、軍事思想や国家主義、愛国心を注入して国民を軍隊化する。

「軍を国民化することも国民を軍隊化することも現時の状勢においては共に緊要」

と、総力戦における要点を挙げている。

経済面においては工業生産能力を高めて軍需品大量生産の仕組みを整備し、経済的独立を図る必要がある。

ただし日本の版図では産業奨励を行っても資源不足で独立は難しい。

資源の自給自足体制を完成させる必要がある。

そこから、国防の標準とは自給自足の経済範囲であるとした。

つまり国防とは、この経済範囲の支配と防衛である。

そして宇垣が目をつけた経済範囲はやはり中国・満蒙であった。

「必ずや自給自足の経済範囲大陸なかんずく支那に及ぼすの必要あり。

日支を打って経済上の一単位と為すこと肝要なり」

と語り、輸出貿易先であり、資源供給源であり、日本が守るべき経済範囲としての中国の軍事的・経済的価値を認めている。

宇垣の外交方針

中国を含む自給自足体制構築という観点から宇垣が重視したのが米国である。

当時の日米関係は日系移民排斥や満州問題、海軍軍拡競争のために冷え切っていた。

これに対し宇垣は人種問題については決定的要因にならないと冷ややかに見ており、移民の境遇にも何ら同情を抱いていなかった。

また、陸軍にとって米国は仮想敵国ではなく、米国の国力も過小評価していたので、関心は低かった。

だがウッドロウ・ウィルソン米大統領が理想主義を掲げて第一次世界大戦に参戦すると、認識を一変させた。

米国は資源も人口も国力も豊富で、強大国であることは疑いようのない事実であった。

その米国が参戦を足がかりに東アジアに介入するのではないかと憂慮した。

宇垣は米国の正義人道の理念を全く信じていない。

「米国の所謂人道と権利擁護の為云々とは自己が思うように儲けんとする欲望を粉飾する一種の口実に過ぎぬ」

と、冷めた目で観測している。

「米国の所謂人道主義の精神は今や銃砲弾薬となりて欧州の天地に血雨を降らしておる。

これにてもその所謂人道なるものは国家国民の利益を包飾する所の外被物であるか、さもなくば人道は利益の前には屈服して鳴りを静めておらねばならぬものであることが分かる」

と述べて、米国は正義人道を振りかざしながら戦争で儲ける偽善国家だと断じている。

講和会議の中で誕生した国際連盟についても非常に懐疑的に見ている。

「連盟そのものの目的は平和の維持にある、換言すれば現状の維持にある。

なお一歩進めていえば進取競争の抑制にある」

とその意義を認めつつも

「精神力と武力とを抑制して資本力は国際間に無制限に活動を許しておる。

いかに寛大に見ても世界中に満腹するだけの領土を有し、他邦に優越充溢する資力を有する英米が自己の立場の安固を期し閑眠を貪らんとする策と推断せらるるは果たして邪推か。

彼らの閑眠を敢えてこれを妨ぐるの要なきもこれが為め後進国の気力を鈍し衰退を誘起せしむるは忍べからず」

と論じ、日本のような新興国の膨張を阻み、英米に都合の良い現状維持を確固たるものにする仕組みだと批判している。

そのような連盟に永久平和、国際正義の実現など期待出来るはずがない。

そもそも、生物たる人間に利己心と競争心がある限りは、戦争の永久的中止はあり得ないのだ。

現に次の戦争の芽は複数ある。

平和の到来により国際間の経済競争が活発化する。

そのイニシアチブを取るのは英米の資本主義だろうが、資本主義の侵食は軍国主義による征服と何ら違わないではないか。

「鉄砲玉よりも算盤玉を先に弾き鋼鉄よりも金銀を武器にして他邦を征服せんとするは、米英らの侵略方策なり」

と断言し、戦争の可能性が高まると考えた。

また、全世界的に英米本位の平和という現状を打破する気運が高まりつつある。

日本を始めとする有色人種は言うまでもなく、欧州においても変革は渦巻いてる。

民族自決の下に中央ヨーロッパに誕生した多数の中小国家は、将来の欧州戦争の火種である。

これらの国は独立国家としての要素を欠いている。

しかも民族自決を掲げながら、その地域に住むゲルマン民族は他の民族の統治下に置かれるという矛盾が見られた。

バルカン問題やドイツの戦後賠償問題は、これらの中小国を巻き込んで禍根を増殖するだろう。

このような戦争が無くならないという考えは永田と非常に酷似していると言えよう。

ただし、その外交方針は永田とは異なっている。

宇垣は連盟に何ら期待出来ないとしつつ

「連盟脱退の如きは四囲の形勢に無頓着に実行したなら国運をして、益々悲境に導くものでるかとも思われる」

と述べて、連盟には加盟すべきであり、その為には人種問題や山東問題も敢えて我慢すべきだとした。

それは英米との対立を回避する為である。

日本の経済力では英米と渡り合うだけの海軍力を保有することは難しく、必勝は期し難い。

あくまで英米との衝突を避けつつ、対外発展をすべきなのだ。

よって英米が強い利害関係を有する中国本土を含まずに、日本・朝鮮・満蒙・東シベリアにわたる自給自足圏を構築すべきだとした。

だが華北・華中の資源抜きでは自給自足は成り立たない事は既に指摘される所にある。

そこで宇垣は不足資源については英米からの輸入に頼る方向に行く。

こうして宇垣の外交方針は、ワシントン体制を前提とする英米協調外交となった。

一方で永田は軍需資源が英米に制約される状況では、日本の選択肢は自ずと限られると考えた。

国防の自主独立性、国防方針のフリーハンドを確保する為に華北・華中の資源を含む自給自足を指向した。

万が一には英米との対立の可能性をも考慮するという点において、宇垣の外交方針とは決定的に相容れなかったと言えよう。

軍事力至上主義への回帰

田中や永田、宇垣の総力戦論は陸軍省主流を形成したが、陸軍は一枚岩となって総力戦体制構築に邁進したわけではなかった。

陸軍内部においては軍縮や総力戦体制に抗う強力な抵抗勢力が存在した。

それが上原勇作参謀総長を中心とする参謀本部主流の上原系である。

上原系は九州出身者や参謀将校によって形成されており、長崎の福田雅太郎、佐賀の武藤信義や真崎甚三郎、参謀畑の荒木貞夫らが連なる。

ただし上原は総力戦というものを理解していないわけではなく、むしろ軍備近代化に熱意はあった。

田中・宇垣たちと上原系の決定的な違いは、総力戦にどのようにして臨むかである。

第一次世界大戦研究の結果、将来の戦争は多数国家が複雑に絡み合う長期持久戦になることが予想された。

翻って日本の現状を見れば、工業生産力は著しく低調で、国防資源の自給自足もままならず、国民の精神力も到底長期戦争に耐えられない。

よって先ずは日本の国情に応じて師団を圧縮し、その余剰金で軍備を近代化する必要がある。

軍縮による軍制改革だけでなく教育、政治制度など国家を抜本的に改革し、総力戦に備えようというのが田中・宇垣らの考えである。

一方、上原たちは日本の国力が総力戦に対応出来ないならば、日本の採るべき戦略は長期持久戦ではなく短期決戦である。

開戦劈頭に敵主力に大打撃を与える事に成功すれば、第三国の参戦を抑止し、損害を局限する事が出来る。

よって戦時総動員を準備するのではなく、精強な常備軍と初期動員の即応が重要になってくる。

師団削減などは論外である。

軍備の劣勢は編成や訓練による精兵主義によって克服すれば良いのだ。

なお永田や宇垣は必ずしも長期持久戦を指向したわけではない。

むしろ資源の乏しい日本にあっては短期決戦・速戦即決が最良であり、長期持久戦となる国家総力戦は最悪の事態であった。

永田に至っては日本人の熱しやすく冷めやすい性質から、短期決戦を優先すべきだとも指摘している。

だが総力戦が最悪の事態だとしても、それに備える対応策は必要である。

この点について、永田は以下のように語っている。

「常に必ずしも速戦即決ということは望みがたく、戦争が持久戦に陥るという場合を覚悟せねばならぬ」

加えて言えば、総力戦体制とは速戦即決を可能にするものでもある。

橋本勝太郎中将は国防の意義を

「平時より国民挙って、軍事国防、即ち広き意義における国力の涵養発展に努力し、国難に際しては、国家の諸機関が相互動員的にその全行程を発揮発展し得る施設と決心を以て、和衷協同虚心坦懐に活動す」

と語っている。

これは総力戦的発想であるが、重要なのは第一次世界大戦は参戦諸国の国民の総力戦への認識が薄く、国家も国民を総動員する準備が不足していたと指摘している点である。

橋本は先に述べた国家総動員準備が完備されれば、戦争は長期戦に発展せずに速戦即決が行えるだろうと説いた。

これは永田も同様の認識を持っている。

「欧州交戦諸国の実際に行える所は既にその出発点において欠陥ありしが為、整然たる総動員の実施は何にも殆どこれをみる能わず」

第一次世界大戦における総力戦は準備無くして行われた不完全なものであり、ついに完全な国家総動員は実現せずに戦争は終結した。

よって、仮に国家総力戦体制が完成されれば

「戦争の初めから多くの戦争能力を発揮することが出来、自然戦争の期間を短縮し、所謂速戦即決ということが求め易くなるので、戦費を著しく減ずるという効果をもたらすのである」

宇垣軍縮

軍縮による軍備近代化を期待していた宇垣は、その中途半端さ加減に愕然とした。

山梨軍縮を「欲張りババアがチビリチビリと財布の金を出すような醜態を演じた」「外部より突き廻されて譲歩に譲歩を重ね改変に改変を加えて、奇形児の誕生を見る」と強い言葉で酷評している。

そこで1923年8月、宇垣は自ら陸軍改革私案を作成した。

その中で、軍縮方針として短期戦・長期戦にも耐えうる準備をする事、国民皆兵の挙国一致の施設を為す事、武力決戦を主としつつ経済戦にも応える用意をすることを挙げた。

また、陸軍改革は「無形有形にわたり国家総動員たらしむべき」と主張し、軍縮によって軍備近代化と国家総力戦体制確立を目指す事した。

同年、陸軍次官に就任した宇垣は、12月に陸軍制度調査委員会を招集する。

同年9月に発生した関東大震災により国家財政が大打撃を受け、山梨軍縮による近代化予算獲得が絶望的となっていた。

この事から委員会は、師団削減により捻出した経費で軍制改革を行うことを提案した。

これを受け、宇垣は軍縮断行に乗り出すことになる。

1924年、加藤高明護憲三派内閣が誕生し、宇垣は陸相として入閣した。

加藤内閣は憲政会・政友会・革新倶楽部の三政党の連立内閣であり、6個師団削減の軍縮案を掲げて軍部に圧力をかけていた。

特に犬養毅は産業立国論を掲げ、総力戦に立脚した軍縮論を唱えており、軍部に相当なインパクトを与えていた。

軍縮による節減経費を軍事費以外に転用しようとしている政党にイニシアチブを握られてはならない、との危機感が陸軍内部で高まった。

なお、宇垣は犬養の軍縮論をこのように批判している。

「犬養一派の軍備縮小は国費の按配にその根基を有するが如し。論拠薄弱なり」

24年7月31日、陸軍は以下の軍縮案を立てた。

高田・豊橋・岡山・久留米の4個師団、連隊司令部16個、幼年学校2校、台湾守備隊司令部1個、衛戍病院5個を廃止する。

これにより将校以上が1200、准士官以下が3万3000、1千万円近くの経常費が節減する。

これら軍備縮小と並行して、総額1億4千万円、8カ年にわたる軍備拡充計画を立てた。

具体的には航空部隊・戦車隊・高射砲部隊の新設、化学研究所・通信学校・工兵学校の新設、火砲の整備や自動車などの設備充実である。

これはつまり師団削減による節減費を国庫に返納せず、丸々軍備近代化に転用することを意味する。

この軍縮の意図は以下、宇垣の議会答弁に表されている。

「精鋭にしてかつ多兵ということが吾々の理想と致している所であります。

しかし国家の財政にも限りがありますから、両様の事が満たせぬ場合においては、無論精鋭をとって行かなければならぬ」

陸軍軍縮案は元帥・軍事参議官会議に諮られた。

ここで上原系は強硬に軍縮に抵抗した。

軍事力至上主義である上原系が何よりも重んじるのは主戦力である師団である。

それを削減して補助兵器に過ぎない航空機を整備するというのが理解出来ない。

上原系の福田は会議席上にて

「戦争の根本は人である。

如何に機械が精鋭だからとて、人を機械に替えて、人を減ずることは誤っている」

と批判しているが、この発言は国防は軍人の専業であるという上原系の考えを端的に表している。

国防の主体は国民であると論じた田中や宇垣とは全く相容れないものであった。

他にも民衆に迎合して師団を削減すれば要求がエスカレートするのではないか。

軍縮が国民の国防意識を低下させるのではないか。

師団削減が国防の一大欠陥になるのではないかと反対意見が噴出した。

これに対し宇垣は、陸相が責任を以って改革を決行すると言明し、原案通りで押し切った。

陸軍軍縮案が確定すると、宇垣は政党との交渉を避け、政党出身の閣僚の説得に乗り出した。

陸軍の4個師団削減案は政党の軍縮案とは2個師団ほど離れている。

だが、そもそも陸軍自身が師団削減に応じるとは、それだけで画期的である。

また、護憲三派内閣の最大の懸案は普通選挙法成立であり、相対的に軍縮に対する関心は低かった。

それが紛糾して陸軍との関係を悪化させる覚悟もなく、閣僚たちは宇垣案を容認した。

その上で陸軍は、軍制改革は帷幄上奏を根源とし、政府が推し進める行財政整理とは全く別個である事。

軍縮により節減した経費の使い道には指図を受けないとの釘を刺し、陸軍主導によって軍縮を断行した。

宇垣軍縮が遺したもの

日本の歴史において宇垣軍縮は師団削減に及んだ点において画期的であった。

世論は宇垣の決断力、見識を称えた。

議会や政党も宇垣軍縮には概ね好意的であり、政党政治に親和的な軍人政治家としての宇垣の権威は限りなく高まった。

陸軍内部においては軍縮に反対した福田や上原系におもねった山梨が予備役に編入された。

宇垣は参謀総長に同期の鈴木壮六、参謀次長に金谷範三、陸軍次官に畑英太郎、軍部局長に阿部信行を抜擢した。

ここに宇垣系と称される一大派閥が形成され、宇垣の天下が訪れた。

宇垣自身も、このように自画自賛している。

「大なる仕事、思切りたる芸当は矢張り政党政派を超越したる偉人によりて初めて求め得べきである」

ただし宇垣軍縮は純然たる軍縮ではない。

デモクラシーの高揚、財政整理の圧力、高まる軍縮世論の中で

「表面この国論を容るるの形を採り、内実は軍事の充実を計るの手段として、四師団を廃止し、それにより浮かび上がりし経費の全部を挙げて新施設に注入した」

ものであり、軍縮の名を借りた軍備近代化である。

軍縮案が提出された第50回議会において、宇垣は第一次世界大戦を

「第一に戦争の化学の応用、なかんずく機械の利用というものが従来に比してその程度を高めたということであります。

第二には戦争が一般に大規模となり、また持久性を帯びて来たという所謂国家総動員、即ち一国の全知全能を傾注して戦争に従事しなければならぬということになりました。

この点が国防上の基礎の上に多大の変化を与えた所であります」

と総括し、これに対応するための軍縮であると強調している。

4個師団削減で軍縮世論を沈静化させつつ、その節減経費で軍備を近代化し、国家総力戦体制を一歩進めるなどとは並の人間では成し得ない事である。

当然の事ながら、総力戦を指向する陸軍官僚たちは宇垣軍縮を評価した。

当時、陸軍省整備局にあり軍制改革に熱心だった佐藤賢了も

「軍備の間口を減じて、補給の奥行を増加しなければ国防はまったきを期し得ないし、また兵力を減じてでも、装備の近代化に特別の努力をはらうことが絶対に必要になった」

と師団削減を当然のものと捉えていた。

だが軍縮は陸軍に大きな禍根を残した。

軍隊という組織は、将校兵卒の強固な組織的忠誠心によって成り立つ。

そして師団とは軍隊にとって忠誠の対象である。

それが喪失されることは、軍隊という組織そのものの威信を揺るがしかねないものである。

上原系の荒木貞夫は宇垣軍縮を、国家総動員の見地からすれば当然の事ではあるが、陸軍の見地からすれば軍の精神的基盤を危うくした行為であると評し

「何故に蛸の足のように己を食うのか」

と批判した。

荒木のように、宇垣軍縮をデモクラシーに屈して軍の精神を傷つけたと批判する声が軍内部に少なからずあった。

そしてそれは宇垣の陸軍統制に綻びが生まれた際に噴出するのである。

軍縮は宇垣の名声を高めたとともに、宇垣の軍人生命を脅かす諸刃の剣でもあった。

良民良兵主義

田中義一が国民統合の組織として青年団と在郷軍人会を設立した。

そして、軍隊教育を受けて錬成された良兵が在郷軍人として郷里に戻り、国家観念を備えた良民として地方の秩序維持を担う良兵良民主義を採用した。

しかし、デモクラシーや軍部批判の高まりによって青年団、在郷軍人会ともに大きく動揺していた。

米騒動では自重せよとの訓戒を受けながら、青年団員や在郷軍人の多数が騒動に参加している。

関東大震災では地域の治安維持にあたるべき彼らが、震災時のデマを真に受けて朝鮮人虐殺を主導し、深刻な治安問題を引き起こした。

田中はその原因を国民精神の弛緩に求めた。

戦争に巻き込まれなかった日本は大戦景気を享受し、全国に奢侈の弊害が蔓延し、利己的になり、国家観念は薄れていった。

一方で第一次世界大戦を経験した欧州は「四年有半の鍛練を経たる剛毅の精神を以て、鋭意熱心国力の回復に努めている」

ますます日本人と欧州人の精神力に差が開きつつある。

田中は原内閣の陸相を辞した後、在郷軍人会の活動に再び力を入れ、全国を巡回して人心を引き締めようとした。

だが、訓示や講話に終始する在郷軍人会の活動は極めて低調で、国民教化の上では成果を上げれなかった。

こうして青年団ー兵役ー在郷軍人という良兵良民主義は根底から揺らいだ。

このように振り返ると、良兵良民主義の弱点は在郷軍人に依拠した所にあるだろう。

そこで注目が集まったのは青年教育以前の学校教育である。

第一次世界大戦を通じ永田は、ドイツ国民が平時から戦時へ直ちに気持ちを切り替える様に感銘を受けている。

それが開戦当初のドイツの手際の良さに繋がっている。

それに成功したのは、平素からの国民教育が行き届いており「国民全部尽く其身体を戦勝と云ふ事に打込んでいる」からである。

ドイツは熱心な青少年教育によって良民を養成し、彼らが兵営に入って良兵となり、精強な軍隊を作り上げたのである。

良兵から良民を作り出すという発想とは真逆の、良民良兵主義である。

学校教育の活用は早くも寺内正毅内閣の頃から始まっている。

寺内も田中同様に青年教育について、以下のように強い関心を抱いている。

「忠君愛国の観念を与え尚武の気風を涵養し規律節制の型中に置くが為には独り精神教育のみに止まらずある程度までは軍事教育を施すこともまた不得已の次第」

そこで1917年10月、臨時教育会議を設置した。

この会議は明治以来の懸案である学制改革問題の解決のために設置されたが、委員達の関心は青少年教育の軍事化に集まった。

元文部次官の木場貞長委員は

「陸軍海軍の将校が小学教育に干与して大いに便宜を与え、感化を与えるというようなことにすれば小学教育も完全になり、また小学教育として難しいこと、得べからざることは長く年の発達するに従って、あるいはその機会のある毎に、例えば青年会というが如きもの、補修教育というが如きもの、それらのものを各々これを利用して行く、ついに軍隊教育に至ってこれを完成する」

と語り、義務教育から社会教育、軍隊教育と国民教育の連続性を国民皆兵の観点から再編すべきと主張した。

帝大総長にあった山川健次郎委員も、義務教育の軍事化が国防に貢献する手段になるだろうと説いている。

山川は日本の国防を全うするには大兵団を備える必要があるが、経済がそれを許さない。

金をかけずに国防を全うする都合の良い方法を考えるより外ないとし、以下のように力説した。

「その大兵はどこにあるかというと、即ち学校で以て出来るだけの教育を施すのであります。

そうしたならば先ず有事の日に当っては教育のない者を以て訓練するよりは幾分か学校で習った軍事教育の素養があるからして兵に仕立てるのに都合が好い、即ち兵隊になるような者を沢山こしらえて置くということが甚だ必要でありはしないか。

致しますから先ず小学校で受ける所の軍事教育というものを出来るだけ十分に致したい」

学校教育の現場を軍事教育の代替とし、学生たちを潜在的な兵力源とする。

それが実現出来れば常備兵力の削減も可能である。軍事的・経済的に一挙両得である。

山川に代表される委員会の趣旨を関直彦委員は端的に

「限りある財政を以って限りなき軍隊を養成する」

と指摘している。

これを受け、委員会はまず兵式体操振興に関する建議を決議した。

兵式体操とは柔軟体操・操銃法など軍隊式の集団訓練に通じるもので、宇垣は

「教義的遊戯は心身の爽快とその鍛練及び機敏と協同の美徳の養成に頗る大である」

と、協同・服従の心性を修養するものだと高く評価している。

次に委員会は、将来官公立小学校の教員となる師範学校卒業生の兵役を1年とする一年現役制度を建議した。

従来、師範学校卒業生の兵役は6週間の現役後に予備役に編入され、戦時においても召集されないという徴兵義務免除に近い特権が与えられていた。

これを一年現役とすることで、教員に対する軍事教育を徹底し、教員を通じて軍隊精神を児童に及ぼそうとしたのだ。

このようにして早くも寺内内閣期に学校教育の軍事化に先鞭がつけられたのである。

青少年教育の改革

良民良兵主義を一層推し進めたのが宇垣である。

国家総力戦に備える上で、国民に軍事的な思想や知識を普及し、国民が国防の主体とするのは予てからの課題である。

宇垣も軍事思想の宣伝普及について、このように語っている。

「国防は挙国一致でなければならぬ、という一点の印象は今次の大戦争によりて全国民に沁み渡りかけた。

この機を逸せず益々これを助長することが肝要である」

しかし、現実的に戦争の危険性が低下し、平和思想が広まる中で、軍事思想の普及は困難となった。

それが在郷軍人の活動の低調の一因でもあった。

そこで宇垣は、良兵良民主義の重要性を認識しつつ、以下のように発想を転換した。

「戦争が大規模となり挙国皆兵国家総動員を以て今後の国防は律すべきであると申す見地よりせば、そこに若干の基礎的概念の上に考慮を加えなければならぬ。

即ち将来は先ず良民を作れ、それが良兵を得る所以であるという、所謂良民良兵主義の方にもお互いに相当に力を用いなければならぬと考える」

そして、良民を作り出す青年教育に関心を抱くようになった。

宇垣は軍縮の中で在営年限短縮の要求を容れた。

その引き換えに青年の学校教練の充実を要求した。

1925年4月13日、宇垣は岡田良平文相と協議し、現役将校を中等学校以上に配属させる陸軍現役将校学校配属令が公布された。

これにより文部省管内の中等以上の学校では射撃や測図、戦史などの軍事教練が必修科目となった。

配属された陸軍の現役将校が男子生徒に直接教練を施すことになった。

この教練に合格した学生は、在営年限を10ヵ月短縮するという特典が用意された。

軍事教練の目的は学生の心身を鍛え、団体精神を涵養し、国民としての資質を備えた良民を作り出す事にある。

これが国防力を増進させる事に繋がる。

陸軍官僚たちも学校教練が総動員準備に寄与する事を期待した。

津野一輔陸軍次官は学校教練に携わる配属将校に対し、以下のように説いた。

「国民の中堅たるべき学生生徒に国防、尚武及び軍事を正解せしめ、その研究心を喚起し、軍隊との接近を喜ばしむる如く指導し、軍民一致の実を挙ぐることに十分の努力を望む」

配属令はもう一つの効果を生んだ。

全国殆どの中等学校以上に現役将校を配属した為、軍縮によって整理対象となった将校を予備役に追いやる必要がなくなった。

学校が軍縮によって失業した将校の受け皿となったのだ。

彼らは現役のまま温存され、戦時になればすぐにでも軍役に復帰出来る。

謂わば軍縮の救済策の一つであった。

更に宇垣は、義務教育終了後に中等学校以上に進学しない16歳から20歳までの青年を対象とする青年訓練所を設立した。

進学しない青年に対する補習教育の必要性は社会問題となっていたが、いずれも財政問題を理由に実現しなかった。

この問題を解決したのが青年訓練所である。

訓練所では4年間の間に計800時間の授業が行われる。

内、100時間が修身公民、200時間が普通学科、100時間が職業教育、そして400時間が軍事教練である。

このような教育で、青年たちに軍隊で必要とされる規律・忍耐・服従の精神を養い、身体を鍛錬し、軍事知識を習得させるのである。

そして修了した青年には在営年限を半年短縮する特典が付与された。

宇垣は青年訓練所について相当の自信を持っている。

「一般青少年軍事訓練の諸問題はその施設宜しきを得れば国軍の為にも国家の為にも一大幸福をもたらすべきに想致しありしが、ここにこれが解決を得たるを以て実に快心に堪えぬ」

このように良民良兵主義とは、国民教育に陸軍が直接乗り出す事で青少年を良民として養成しようという試みであった。

永田鉄山の国民教育論

学校教練の実施と青年訓練所の設置を国家総動員準備の一つであると高く評価したのが永田である。

国家総力戦における国民の精神動員を最重要に位置付ける永田は、国民教育を重んじていた。

それは日本人が総力戦を体験しなかったからである。

永田は第一次世界大戦において日本が本格的な戦闘を経なかったことは大きな損失であるとした。

欧州の人々が国家総動員の辛苦の中にある中、日本人は「滔々として成金気分に浸り何の屈託もなく栄華の夢を貪っていた」

総動員の経験の差を非常に憂慮している。

これを是正するには軍隊教育だけでは不十分である。

「そもそも国軍の教育訓練というも、これは主として軍事専門の教育であって、短時日の在営間にあらゆる無形的の教養を行うなどは到底不可能であり、軍人の無形的資質は国民教育の反映にほかならぬのである。

ここにおいてか、将来の国民教育においては大に我国民独特の美性を助長するとともに、省みて短を補うことに全力を注がねばならぬと思う」

このように、国民教育に関心を示した。

永田は国家総動員を準備する上で、以下の結論に至った。

「教育を振興しその内容を充実し智・徳・体育等しくこれを進め,数上における人口の優越を加うるに,質の方面においてもまた世界に卓出する国民を教養することのはなはだ急務なるを感ぜずにいられないのである」

こうした状況下で、宇垣軍縮の一環で青年教育が行われるようになった。

永田はこれを「我国教育史上の一大新事業」と評し、自らその運営に深く関わるのであった。

ところで当時において青年訓練は軍事予備教育と同一視されていた。

しかし、それでは青年訓練の目的も精神も履き違えられる弊害があると永田は感じていた。

青年訓練の目的は国家総動員準備と深い関係にあるとし、以下のように論じている。

「どの方面にも活動のできる有為な国民、健全な人民を作り出すというのが真の目的である。

したがって有事の日に何人でも直に剣を執って立ち得るという準備を軍事技術的の方面から付与しようというのではなくて、平戦両時を問わず国家に十分貢献のできるような精神と体力とを有する人材を養成しようというのがその趣旨であるのである。

かような意味においてこの施設は国家総動員準備の一つであると観ることができるのであって、国民を戦時誰も彼もが戦線に立ち得るような形而下の準備をするという趣旨において、すなわち国民総武装に資するという意味合いにおいて国家総動員と深い関係を持つというのではないのである」

つまり平時・戦時問わずに、国防から産業まで幅広く国家に貢献できる身体と精神を兼ね備えた良民の創生。

これこそが、青年教育の目的なのである。

国民教育の実態

宇垣は青年訓練所を「軍制並びに教育史上における曠古の一大事業である」と自画自賛した。

しかし青年訓練所は宇垣の意図に反して低調であった。

訓練所に入所する青年は入所資格者の7割程度に留まり、いざ入所しても出席率は悪く、大半が途中で退所してしまった。

特に大都市では不調を極め、大阪は4割、東京に至っては1割であった。

結局、最後まで訓練を受けた青年は全対象者の2割程度であった。

この数字は、青年訓練所に期待した軍部にとって衝撃的である。

青年訓練所の低調の理由はいくつか指摘される。

一つは職業上の理由である。

仕事があまりに多忙であったり、出稼ぎ業に従事していたり、雇用主が青年訓練所に無理解であったりする。

これを突き詰めれば経済的理由である。

自然に、青年訓練所の修了で兵役が短縮出来るのは比較的豊かな家庭で育つ青年に限られてくるので、かえって不公平感が増すことになった。

次に青年訓練所に対する根強い反対運動がある。

これは無産政党だけでなく、働き手を奪われる農村の存在もあった。

更なる問題として、職業技術を身に付けたい青年たちが、軍事教練に偏重する青年訓練所を嫌い、実業補習学校に流れた。

永田も青年訓練所の軍事教練偏重を「あたかも軍隊に於ける第一期教育」であると問題視し、その原因を訓練所の指導員の素質に求めた。

訓練所の教練を担当したのは在郷軍人であったが、彼らの大部分は教育指導者の経験を殆ど持ち合わせていなかった。

そして在郷軍人自身の思想・素質も年々悪化の一途を辿っていた。

そんな指導教員たちが青年訓練所の目的精神を理解するはずもなく、永田曰くの「鋳型式の教育」の弊害に陥ったのである。

その結果、青年訓練所はいたずらに経費ばかりがかさみ、地方財政の負担となり、採算の取れない訓練所は次々と閉鎖されるに至った。

ただ宇垣や永田の期待にはそわなかったとは言え、国民教育は着実に成果を生み出しつつあった。

青年たちの軍隊生活に対する負の先入観は解消され、過度な恐怖心を抱いて兵営に入営する青年は減っていた。

また青年訓練所も社会に定着し、地域における防空演習や招魂祭に参加し、在郷軍人会とともに野外演習を行うなど、総動員の中心的役割を担うようになっていた。

軍事偏重教育も是正され、35年には実業補習学校と青年訓練所が結合した青年学校が開設されるに至る。

このようにして国民教育は漸進的に総力戦体制に取り込まれていったのであった。

第二次宇垣軍縮

宇垣軍縮によって軍備近代化を図られた。

しかしその軍備は欧米はおろか、急速に増強する極東ソ連軍にすら遅れを取りつつあった。

軍備の合理化・近代化は未解決であると強く認識されるようになる。

1929年、浜口雄幸内閣の陸相として入閣した宇垣も、第一次宇垣軍縮による軍備改編が1930年に完成することから、更なる軍制改革の必要性を認めた。

一方で浜口内閣は金解禁政策や緊縮財政から十大政綱に軍備縮小を掲げ、宇垣に更なる陸軍軍縮を期待した。

こうして宇垣は再び軍制改革と軍縮の両立という難局に挑むのであった。

だが、宇垣を取り巻く環境は一変していた。

まず陸軍内部の反宇垣の空気が限りなく高まっていた。

それは宇垣の政治的野心が露わになっていたからである。

当時の宇垣は民政党系列色をはっきりさせ、元老西園寺公望の知遇も得て、総理大臣候補の筆頭的立場にあった。

このように政権獲得の色気を隠さない様から、軍制改革を政治の舞台に登る踏み台にしているのではないかと糾弾されていた。

次に軍縮に対する感情も相当悪化していた。

山梨軍縮以降、財政難を理由に陸軍の予算計画は繰り延べられた。

いくら節減の努力を続けても軍備近代化はされないどころか更なる節減を要求される悪循環となっていた。

また宇垣は4個師団を削減したが、整備された飛行機・戦車隊・機関銃はその犠牲に見合わないほど僅小であった。

それは4個師団削減の節減費がわずか1600万円であったのが原因である。

宇垣軍縮は宇垣が自負したほど画期的な効果は上がっていなかったのが現実であった。

なお、陸軍省整備局は日本の国力から鑑みて、欧米並みの軍備近代化を成し遂げるには、更に4個師団を削減して平時13個師団にすべきとの見解を示している。

第一次宇垣軍縮の師団削減は不徹底であったと言えよう。

更に宇垣は軍縮の節減費を軍備近代化につぎ込んだが、その一方で大正期に問題になっていた退役軍人や遺族の困窮は放置された。

馘首された軍人たちはたちまち生活苦に陥り、部下をリストラした将校たちもバツの悪い思いを強いられた。

馘首を逃れた将校もいつ首を切られやしないかビクビクする有様である。

辛うじて馘首されずに学校配属となった将校も肩身の狭い思いをしていた。

それは学校の教員や生徒が、配属将校に侮蔑の目を向けていたからである。

数百名を指揮する立場にある佐官級将校にとって、配属将校は限りなく不名誉な役職であった。

宇垣は軍制改革で軍人の待遇改善に着手しようとしたが、軍縮に対する悪感情は根強いものがあった。

このような不平不満に直面し、宇垣はこれ以上の平時師団削減は不可能だと判断した。

議会において4個師団は「忍びうる最大限度」であるのでこれ以上の師団削減は出来ないと答弁。

軍事参議官会議においても閑院宮載仁や上原ら元帥たちを前に平時師団維持を言明している。

こうして部内の賛同を得ようとしたのだが、これは軍制改革の財源を自弁せずに国庫に求める事を意味する。

だが浜口内閣は緊縮財政の下、陸軍予算を整理する姿勢を見せ、とてもではないが国庫負担は望めない。

更なる問題として参謀本部が純軍事的に反対姿勢を見せた。

宇垣は平時師団を維持する代わりに戦時師団を25個まで削減し、部隊もコンパクト化して経費を捻出しようとした。

これに対し参謀本部は戦時兵力を重視する姿勢から反対した。

ただし、徹底した軍備近代化の必要性も認めていたので、代替案として平時師団削減を提案した。

宇垣にとっては渡りに船の提案ではあるが、議会や軍事参議官会議における政治発言に縛られた為に平時師団削減も実行できない。

国庫に財源はない。

平時師団削減は出来ない。

戦時編成の圧縮も出来ない。

このようにして第二次宇垣軍縮は八方塞がりとなった。

結局、宇垣は軍備近代化、予備的教育強化、在営年限短縮、部隊編成更改などからなる軍制改革案を発表。

その実現の為に2千万の財源を必要とし、それを師団削減で自弁する事は不可能とした。

東京朝日新聞は陸軍の意図を

「戦時人員は減ぜられぬ従って平時兵力も現状を維持しなければならず、準備だけは列国なみにしようというのでは、勢い軍備拡張になるのは当然である」

と、軍縮に名を借りた軍拡であると喝破している。

そんな中、30年6月に宇垣は重度の中耳炎に倒れた。

陸軍と政府の板挟みから逃れる為に辞意を漏らしたが、浜口だけでなく西園寺までもが慰留した。

この慰留を蹴ってまで辞職を強行すれば政治生命に傷がつくので辞意を翻した。

だが、政府と陸軍双方が納得するような軍制改革など行えるはずもなく、宇垣は苦境に立った。

その後、宇垣は浜口の遭難による内閣総辞職で閣外に脱出し、陸軍・民政党双方に影響力を辛うじて維持する事には成功した。

しかし、自らの政治的発言に縛られて戦時師団を削減するなどという軍制改革の稚拙さが参謀本部の反発を招き、宇垣の権威にかげりが見え始めた。

そして三月事件の発生に至り、宇垣は悪しき派閥政治の長と認識されるに至るのである。

宇垣軍縮の末路

何故第二次宇垣軍縮は行き詰ったのか。

それは第一次宇垣軍縮が総力戦体制構築の上では非合理であったからであろう。

総力戦における軍事力は国の工業生産能力に依拠する。

であるなら優先すべきは経済力の強化であり、民需を含めた総合的見地から工業生産能力を強化する事である。

だが第一次宇垣軍縮は節減経費の殆どを国庫返納せず軍制改革に投じた。

そこには、犬養の軍縮論のように節減経費を民力涵養、産業振興に投資するなどという産業立国的論的見地を見い出すことは出来ない。

ただし宇垣が軍人である以上、その視座が陸軍にある。

組織利益防衛を第一に考えるのは仕方がない一面もある。

犬養は軍縮は素人ではないと出来ないと語ったが、それは組織利益を度外視するという意味で、まさにその通りであろう。

もう一点考慮すべきは、宇垣という軍人は極めて保守的であるという所である。

それは宇垣の総動員準備構想にも現れる。

国家総動員とは武力・思想・経済など国家の有する全能力が連携し「国家の能率を完全適正に発揮」することである。

この観点から田中は軍民一致を説き、永田は軍・政の垣根を取り除こうとした。

これに対し、宇垣は以下のように陸軍が主導となって、思想・経済の世界に立ち入って指導すべきだと考えた。

「平時戦時を通じて真正なる挙国一致の如き七千万同胞を挙げて至尊の下に馳せ参ぜしむべき采配を振るべき仕事は、如何に考える我々陸軍が進んでこれに任ぜねばならぬ」

宇垣にとって議会政党は国民世論の一部を代表するに過ぎない。

そのような党派的な存在が、政治的に中立であるべき統帥に介入する事は許されない。

ましてや政党が軍縮を主導するなどは論外である。

政党による軍部統制を

「民主主義は軍隊組織の最も力強き溶解剤」

と表現して嫌悪すらしている。

31年1月、宇垣は全軍に対し、以下の通牒を発した。

「軍人は世論に惑わず、政治に関与すべからずであるが、一面軍人は国防を担当している。

国防全からずんば国危うしである。

然らば国防問題につき議論することを以て、直ちに政治関与ということは出来ない。

国防は政治に先行するものと解釈してよい」

内向きの発言であるとは言え、この通牒は宇垣の考えを端的に表していると言えよう。

革新勢力としての陸軍

宇垣の後任となった南次郎陸相は軍制改革を引き継いだ。

一方、与党民政党の軍縮要求は熾烈なものとなっていた。

陸軍に対しては3個師団を削減し、作戦資材の貯蓄も減少させ、軍事参議院や教育総監部、幼年学校の縮小廃止を迫った。

こうして浮いた節減経費は全額国庫返納という強力な要求である。

陸軍は当然、節減経費の軍備近代化転用を訴えたが、南は終始守勢であった。

結局、師団削減に触れれない形で2個師団相当の兵力を削減し、軍制改革の経費を自弁する事で妥協が成った。

これでは不徹底に終わった山梨軍縮の二の舞である。

このように総力戦に対応すべく検討された軍制改革は内外の要因によって完全に行き詰った。

この状況を非常に憂慮したのは永田である。

永田は技術・装備・機械力にわたる軍備の欠陥を、以下のように論じる。

「精神力のみを以て補ふことは不可能である。

精神力には自ら限度がある。

過度に精神力に依頼することは頗る危険である。

この点は現代の国防を討究するものの特に考へねばならぬ所である」

永田が長年提唱してきた精神論重視を改めさせるほど、軍備近代化の遅れは深刻であった。

そして永田もまた、このように語るのである。

「純正公明にして力を有する軍部が適正なる方法により,為政者を督励するは現下不可欠の要事たるべし」

陸軍が中心となって政治力を発揮し、国家総動員という一種のタガで国家をまとめ上げ、軍備近代化を推し進めるべきと考えである。

この上で、自らの軍制改革の後始末を取れない宇垣はもはや信用できない。

そこで宇垣と対立してきた上原系の流れを汲む荒木に嘱望が集まるようになり、皇道派が形成されるのである。

軍制改革が行き詰り、陸軍にて革新思想が台頭する中、満州事変が勃発した。

中国の革命外交による満蒙の危機、極東ソ連軍の脅威、世界恐慌などの国際環境の激変に加え、実際に戦争が勃発して対外危機は高まった。

自然と陸軍の発言力が高まり、もはや政党や財政に配慮した軍制改革など不要となった。

こうして陸軍は政治勢力として台頭し、自ら中心となって総力戦体制構築に有利な情勢を作り出すに至ったのだ。

孫子兵法

単なる武力戦に留まらない総力戦の登場は、国防のあり方を一変させた。

これを強く意識したのが、後に総力戦研究所の設立に関与した陸軍官僚の高嶋辰彦である。

高嶋は永田の薫陶を受け、国家総力戦研究に精通し、以下の戦争・国防観を抱くようになった。

平和は人類の理想であるが、人間はそれを中々認識出来ず、神と同じにならない限りは人類永遠平和の理想は実現できないだろう。

そのように認識しつつも、理想に向かってあらゆる努力はすべきであるし、国防もその理想に向かって行われるべきであると考える。

国防は即ち軍備と理解されがちだが、国防の理想は国際的な紛争を平和的に解決する事であるのだ。

「武力戦争は長きより短きが、短きより用いざるが良い」

と戦争を最後手段に位置づけた上で、政治・経済・思想・精神などの政略を平時から発揮して敵国を屈服させるのが最善であると導き出す。

武力戦以外の思想経済の政略戦が平時から展開され、平時戦時の境が不明瞭になる、これこそが総力戦である。

平時からの総動員準備は、何も戦争を目的としたものではない。

武力戦を回避しつつ政略によって日本の目的を達成する為にも行われる。

つまり政略もまた国防の一部なのである。

そもそも日本の財政力と軍事力、そして予想される敵国(ソ連)との地理的関係を鑑みれば、長期持久戦は不利である。

高嶋は、このように断言する。

「好まない武力戦に入るのはその戦争の以前における総力戦に敗れた証拠である」

長期持久戦は

「戦後長年月にわたり国家全体の至大なる負担になる」

のは第一次世界大戦後の欧州の荒廃からも明らかである。

自ら世界大戦に従軍したリデル・ハートは戦後の英国の没落を目の当たりにし、戦争は個々の軍事的勝利のみならず、戦後まで見通さなければならないと説く。

武力戦に勝利しても国力そのものが衰退しては本末転倒である。

極言すれば、英国は武力戦には勝ったが総力戦には敗れたのである。

これを突き詰めれば、戦わずして勝つ事が望ましい。

孫子兵法には

「智名もなく勇功もない勝ち易きに勝つ方法を発見すべきである」

とあるが、これは20世紀にも通用する。

いや戦争が凄惨かつ長期消耗戦となった20世紀だからこそ際立つ兵法であった。

ただし高嶋は軍事を軽視したわけでない。

総力戦において政略が最大効果を発揮するには、平時における軍事の暗黙の威力が必要である。

最新の軍事技術、精強な兵隊、洗練された編成部隊、これら軍事の裏付けがなければ、政略は引き出されない。

高嶋は軍事を「骨幹」と位置付ける。

ここで想起されるのはカール・フォン・クラウゼウィッツの戦争論である。

クラウゼウィッツは武力戦を一手段に位置付け、戦争は政治の継続であると説いた。

これこそ総力戦上、最重要な指摘である。

戦争に政治を従属させるルーデンドルフ独裁は、平時からの政略を十分に発揮出来ない分、やはり不徹底な総力戦論なのである。

このようにして高嶋の総力戦論は永田の総力戦論を延長させた。

戦争を一手段と相対化し、軍事以外の政略を平時から発揮して戦争を未然に防ぐ総力戦論に発展したのであった。

思想戦

高嶋は武力戦以前の政略によって戦わずして目的を実現する総力戦論を唱えた。

その政略の中で重視されたのが思想戦である。

総力戦とは、国民が精神的に団結し、戦争を強力に支持する事で初めて成り立つ。

逆に言えば、精神状況が悪化して厭戦・反戦気運が高まれば、いかに前線の軍隊が無傷であっても、継戦は不可能になる。

ドイツやロシアが革命で崩壊したのは長期持久戦の中で国民生活が悪化し、国民精神がバラバラになったから引き起こされたのである。

この観点から田中や永田、宇垣、いずれも国民の精神動員の重要性を認識している。

ここに、宣伝工作によって敵国の国民の精神団結を弱体化させ、またはそのような宣伝工作に備えて教育やメディアを動員して国防思想の宣伝普及に努めようという思想戦の概念が登場する。

ルーデンドルフは思想戦について

「新聞、ラジオ、映画、その他各種発表物、及びあらゆる手段を尽くして、国民の団結を維持する事に努力すべきである。

政治がこれに関する処置の適切を期する為には、人間精神の法則を知り、それに周到なる考慮を払わねばならない」

と論じ、思想戦による勝利こそが総力戦の勝敗を決定づけるとした。

当時、世界の強国において最も強力な思想戦を展開した国がある。ソ連である。

ソ連は共産主義を世界に輸出し、敵国内に味方を作り、内部崩壊させるという思想戦を展開していた。

陸軍官僚の武藤章もソ連の赤化政策を政略戦の観点から観測している。

武藤はソ連が

「思想戦或いは経済戦が主体で武力戦は補助手段であり、或いは思想戦経済戦が単独に戦争手段として用いられている」

とし、赤化政策を

「他国の国体を破壊し或いは経済組織、社会機構を変革せしめ、以て自己の意志を貫徹する」

という武力に依らない戦争であると指摘した。

そしてソ連の戦略を以下のように最大限警戒し、平時から行われる政略戦を見出した。

「武力戦争を以て旧時代の遺物となし、今後の戦争は思想に依りて敵国民を崩壊せしめ抗争意志を打破すべきであると主張している」

国防の本義とその強化の提唱

1934年10月、陸軍省新聞班は「国防の本義とその強化の提唱」と題したパンフレットを学校や官公庁に配布した。

俗に言う陸軍パンフレットである。

このパンフレットは、以下の印象的なフレーズから始まる。

「たたかひは創造の父、文化の母である」

国防国策強化の提唱として、農山漁村を匡救し、貧富の差や貧困失業を解消する為、現在の経済機構を改変して国民生活の安定させるなどと説いた。

このパンフレットが新聞にて報道されるや、メディアはさも陸軍が軍事とは関係ない政治・経済体制の改革案を発表したとセンセーショナルに報道した。

これに激しく反応したのが政党である。

満州事変や515事件に現れた軍部の革新思想を危険視する政党は、陸軍の政治介入に繋がりかねない陸軍パンフレットに不信感を持ち、非難の大論陣を張った。

特に批判の的となったのは経済機構の改変を提唱した事である。

軍が政治的発言を行っただけでなく、国家社会主義思想が如き主張を行ったことは驚きをもって迎えられた。

政友会の安藤正純は議会において、陸軍パンフレットの内容に「経済教育総て国防に隷属ものなるやの感」を覚えたとし、以下のように批判した。

「一元的の経済動員を必要とするといふことは立憲治下ではとらざるところである」

これを独裁政治に導くものであると断じた。

民政党の斎藤隆夫も陸軍パンフレット批判の先頭に立つ。

斎藤は陸軍パンフレットを軍国主義の宣伝であると厳しく論難する。

その経済的主張についても、長年の経験に基づいて成長した日本の経済機構を妄りに革新するなどは

「進化の理法を弁へざる盲者の夢」

であると断じる。

更に統制経済を採用すれば経済の諸問題が簡単に解決するなどの考えに至っては、単純にして幼稚と批判した。

一方で無産政党の社会大衆党は、陸軍パンフレットは社会主義の実現を目指すものであると歓迎した。

社大党は後に社会政策を国防に含む広義国防論を唱え、親軍性を深めるキッカケになる。

また東京朝日新聞や東洋経済新報のように、パンフレットの説く統制経済はあまりに抽象的で具体性を欠いてあるとし、そこまで重大性を感じられないと冷静に報じるメディアもあった。

このように陸軍パンフレットは統制経済や社会主義に関する議論を巻き起こしたが、そもそもどうしてこのようなパンフレットが作成されたのか。

これを作成したのは陸軍官僚の池田純久である。

池田は当時、陸軍の派閥抗争(皇道派と統制派のそれ)の風評が世間に広まった事を憂慮していた。

軍に対する感情が悪化し、暴力革命を計画しているとか、赤化したなどの悪評が立っていたと指摘する。

そこでこの社会不安を取り除く必要性から、国民向けの宣伝を目的に作成した。

よってその内容は合憲合法かつ合理的で漸進的な改革案となった。

パンフレットはまず「たたかひ」を武力戦ではなく、生命の生成発展、文化創造の動機である刺激であるとした。

それを「創造の父、文化の母」と表現した。

国防とはこの国家を生成発展させる基本的活力の作用である。

その目的は国家の全活力を最大限に発揚する国家と社会を組織し、運営することである。

国防の観念は今まで三段階に変化してきた。

まず武力戦のみが対象の軍事的国防観である。

この国防観念の下では

「戦争は軍隊の専任する所であり、国民は之に対し所謂銃後の後援を与えるという意味に於て、国防に参与するに過ぎなかった」

これは第一次世界大戦以前の国防観と言えよう。

次に武力戦と並行して外交・経済・思想が展開される国家総動員的国防観に発展する。

これは第一次世界大戦以降の国防観である。

ここで重要なのは、外交・経済・思想は武力戦の為に動員されるのである。

よって長期持久戦を前提とする武力戦を基調とし、その要求に軍事以外の部門が如何に応じられるかという発想に留まり

「国民と軍隊とは一隊となって武力戦争に参与することとなった」

つまり、国家総動員的国防観とはルーデンドルフの総動員論と限りなく等しい。

だが、もはや国家総動員的国防観は過去のものである。

大戦後の世界恐慌、国際関係の緊迫化により国家間の政治・経済ブロック的対立が生じた。

その結果、経済や思想はそれ自体が交戦力を有し、平時より政略戦が展開されるようになった。

「国家の全活力を統合統制するにあらずんば、武力戦は愚か、遂に国際競争そのものの落伍者たるの外なき事態となりつつある」

よってここに近代的国防観が誕生するのである。

「国防観念にも大なる変革を来し、従来の武力戦争本位の観念から脱却して新なる思想に発足せねばならなくなった」

そういう意味合いでは社大党の広義国防という単語も的を得ているかもしれない。

近代的国防観において国防力の発動は静的・動的に区分される。

静的発動とは消極的に国防目的を達成しようという試みであり、平時からの政略であったり、軍隊の抑止力でもある。

動的発動とは実力行使、即ち武力戦である。

このように国防は武力戦のみを意味するのではない。

第一次世界大戦においてドイツは武力戦に負けたのではなく、経済封鎖によって国民が士気を失い降伏した事からも、それは理解出来る。

そして国防の静的発動は上策である。

静的発動とはまさしく孫子兵法である。

「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」

パンフレットは孫子を引用し、以下のように説いてみせた。

「法の極致は法なき状態を導くに在る如く、兵の極致は兵を用いざるに在る」

陸軍パンフレットを発刊した理由を林銑十郎陸相は、現代の国防が社会現象全般と密接に関わっている事を国民に周知する為だと述べている。

この発言通り、陸軍パンフレットは国防に関する啓蒙という意味合いが強い。

政党側の批判はやや的外れな部分もあったと言えよう。

国務と統帥

陸軍パンフレット作成に関わった清水盛明少佐は孫子兵法に言及する。

「敵に勝る強力なる軍備とこれを培養するに足る経済力と資源と、しかして強固なる思想と卓越せる政略とを併せ保有すれば、必ずや戦わずして皇国の運命は開拓せられ、非常時は突破しえる」

武力戦を極力避け、平時における政略を重視する近代的国防観は陸軍の中で広く認識されていた。

ここで一つの疑問が浮かび上がる。

何故陸軍は政治的に台頭して政治や外交を容喙し、日本を破滅させてしまったのか。

近代的国防観の上に立つと、国防は政略と軍略、国務と統帥が一致協力して初めて効果的に威力を発揮する事がわかる。

仮に国務と統帥が不一致のままであると、平時からの政略戦も戦時の総動員も非常な困難になる事は想像に易い。

「武備と文化的経論とは互いに相並行して、初めて国家の円満なる発達が行われる」

と高嶋も語り、国策もこれを考慮して樹立する必要があると説いた。

ところが日本において国務と統帥の一致は非常な困難を強いられた。

それは帝国憲法第13条が統帥の独立を定義しているからである。

ところで統帥権の独立は軍部専制を想起させる。

だが、帝国憲法は原則としてどの機関の優越も認めない分立主義を採用している。

天皇を頂点とし、国務と統帥は対等な関係にある。

よって統帥権の独立とは、統帥への国務の容喙を許さないと同時に、国務への統帥の容喙もまた認めていないのである。

これは非常に重要な解釈である。

国務・統帥の調整は統帥権の独立によりメドが立たない。

そんな中で偶発的に日中戦争が勃発した。

戦争指導において政戦両略は度々不一致を起こした。

その度にその場の力関係でどちらかの意見が優越した為に、戦争に対する見通しもなくズルズルと戦線は拡大していった。

この状況を打開すべく、近衛文麿内閣は挙国一致的な戦争指導を採るべく首相を構成員とする大本営を設置し、政府が主導して戦争を指導しようとした。

ところが、陸海軍ともに首相を大本営の構成員とすることに反対の姿勢を見せた。

ただし軍部としても戦争指導の円滑化のために政府との連絡機関を必要としており、大本営政府連絡会議が設置された。

この会議には参謀総長、軍令部総長、首相を始め、外務、陸軍、海軍が参加した。

重要問題を討議する場合は、首相と統帥部から御前会議を奏上し、それによって審議するとした。

しかし、大本営政府連絡会議は政府と統帥部の申し合わせによって設置された為に官制も法的根拠もない。

しかも海軍は政府の統帥への介入を恐れ、連絡会議における実務協議を嫌い、大本営政府連絡会議は早々に形骸化した。

このような状況下で国務と統帥が不一致を起こした場合、起きうる事は二つである。

一つは統帥が国務に優越する形で政戦両略を一致させる事である。

なお統帥は国務に容喙する権利を法的に持ち合わせていない以上、強引な手段を取らざるを得ない。

もう一つは国務と統帥を形式的に一致すべく両論を併記する事である。

全員の意見を等しく採用すればその場しのぎにはなるだろうが、そのせいで国策は統一性を欠き、不整合な代物となった。

誰もが不合理であると考えた日米開戦は、まさにこの両論併記によって引き起こされたのである。

石原莞爾は政戦両略を一致させるべく、国務と統帥双方の上位に立って裁断を行う超法規的存在を求めた。

帝国憲法上、そのような存在は天皇しかいない。

石原は36年に早くも聖断の必要性に気づいた。

しかし、聖断を仰ぐ事は天皇に政治責任が及ぶ事であり、政治的には非常に困難である。

それは1945年8月を見れば理解出来る。

結局、石原論は不敬であると発禁処分を受けた。

聖断がない以上、戦争の長期化の中で統帥は国務を従属させ、軍事が政治を掌握する形で政戦両略が強引に一致させられた。

このように国務と統帥の協調を欠いた日本の総動員政策は不完全で非効率なものとなり、戦争の長期化の中で不満が噴出するのである。

統帥権の独立

軍部は統帥権の独立を拠り所に、軍部大臣文官制を廃案にし、軍縮に激しく反発し、膨大な軍事費を要求し、意にそぐわない内閣を倒した。

この事から統帥権は軍部の万能道具であると解されがちである。

だが、先にも論じたように、総力戦に必要不可欠な政戦両略一致を妨げるという深刻な問題を抱えていた。

そもそも軍部は統帥権の独立をどのように考えていたのか。

1926年、陸軍軍務局軍事課課員であった東條英機中佐は、陸大の講義録として軍制学講義録を作成している。

「戦争の性質規模大にして国家の全機能を挙げて従事せらるるものありては統帥は必然に国力に立脚し国家諸機関の運行能力を基礎として計画運用せられざるべからず」

と記され、統帥の任務にあたる者は戦略だけでなく政略にも通じるべきと説いた。

ただしこれを満たすのは軍人しかいない。

「軍人以外の者を以て統帥の事に参画せしめまたは政略上の見地のみを以て統帥に干渉を試みるが如きは断じて許されるべきものにあらざるなり」

と統帥権の独立を強調している。

その一方で「戦時は一国政の継続」であると認識しており、その事から

「みだりに軍の必要なりと称し不可能を国家に強要するが如きは畢竟自ら戦争の指導を破壊する所以にして深く戒めざるべからず」

と記し、軍事偏重を批判している。

このように統帥権の独立を維持しつつ、国務を顧みない統帥の独善性が戦争指導の失敗を招くと説いている。

当時の陸軍軍務局軍事課は第一次世界大戦におけるドイツの敗因を統帥権の肥大化、戦争指導を手中に収めようとした統帥部の増長慢にあると見ていた。

ドイツは中立国を侵害しては英国を起たせ、無差別潜水艦戦を行っては米国を敵に回した。

鉄血宰相ビスマルクが存命であればありえない事である。

高嶋はドイツのこの愚行を、このように指摘する。

「統帥権の独立を偏見的に極端墨守せんとしてかえって統帥権の孤立に陥った」

ドイツに統帥権の暴走を政治的に抑えるすべがなく、政略が軽視され、軍事偏重に陥ったのである。

この事から高嶋はドイツを反面教師とした。

「軍が武のみを知ってこれのみを主張せば、武戦一時外に勝つとも、戦争内に敗るることは、欧州大戦における独国が詳に我に教えている」

このような教訓から、軍事課は統帥事項を国務遂行上支障のない事項に限定すべきだとした。

東條の講義録は軍事課の研究の影響が表れているように見える。

しかし、結局、陸軍は統帥権の独立を克服出来なかった。

その代償は大きい。

統帥権の独立により統帥部は独善化し、経済外交との協調を無視した華北分離工作を引き起こした。

華北に日本の傀儡政権を建て、満州の後背地を作るとともに既成事実を作り上げて華北をも支配しようという試みである。

当然の如く中国は反発し、大陸における戦争の危険性は限りなく高まった。

国務はそれを追認するしか術がなかった。

公債漸減を掲げた高橋財政は過大な軍事費の要求と戦わざるを得なくなったし、対中融和を志した広田外交は矛盾極まる奇態を呈した。

まさに第一次世界大戦におけるドイツの状況と酷似する様が、1935、6年にあった。

総力戦は国民が主体となって行われる国民の戦争である。

それなのに陸軍は統帥事項を自らの聖域とし、文民の介入を許さなかった。そ

れは資源局の運営にも如実に現れる。

1929年に成立した資源調査法により、資源局に経済・産業・その他事業の発展改良を目的とした資源調査権が付与された。

これに基づき、資源局は総動員の基本方針を立案し、資源調査という名で総動員計画を各省に分担させ、それを総括する事となった。

ところが統帥権の独立は、資源局に対する軍機軍令に関する事項の開示を阻んだ。

資源の統制運用を計画する国家総動員機関が統帥事項に関連する作戦計画や軍需動員計画に関与出来ないなどは非合理極まりない。

これは日本の国家総動員計画の重大な欠陥であったと言えよう。

資源局はこの後に行政整理の下に縮小を余儀なくされた。

軍部の発言力の高まりの中で文民主導の資源局は影響力を喪失し、企画院に統合されて消滅する憂き目となった。

更に統帥権の独立は軍部の政治・経済への介入を許さなかった。

それ故に軍人が総力戦の為に統制経済や議会制度改革の必要を唱えれば、政治介入であると議会政党やメディアから猛烈な突き上げを喰らった。

文民の総力戦に対する理解が得られない限りは、軍閥批判・軍縮世論のような軍民離間の危険性は常につきまとう。

そうなれば国民の精神動員など論外である。

日中戦争が勃発すると新聞メディア、政党、国民がこぞって戦争を支持することになった。

だがこれは、永田が懸念した日本人の熱しやすく冷めやすい性質の通り、一過性のものに過ぎなかった。

しかも不十分な経済調整により軍需が民需を圧迫して国民生活が悪化の一途を辿り、軍部は国民の厭戦気分に怯えなくてはならなくなった。

そして最後の問題として、国務・統帥の不一致により自由主義者や保守派の総力戦体制に対する理解を最後まで得られなかった。

彼らは総力戦体制を私有財産否定・家族制度侵害であると批判し、それを推し進める軍人や文官官僚にファッショやアカのレッテルを貼った。

日中・日米戦争の中で一時的影響力を喪失したが、政界や宮中、重臣グループの中で命脈を保ち続け、戦況が悪化するや存在感を示し、終戦に向けて動き出したのである。

統帥権は憲法下における諸勢力の分立主義を克服出来るようなものではなく、国務と統帥の調整を阻害した。

総力戦体制は完成されず、不完全なまま日本は太平洋戦争という長期持久戦に突入した。

そして1945年8月15日、バラバラであった国務と統帥は天皇の聖断という形で強制的に一致させられた。

ここに日本の国家総力戦は終わったのである。

社会改革としての総力戦

総力戦体制は人的物的資源を最も効率的に配置し運用する事を目指す。

その事から、政治、経済、科学、産業、思想を始め、ありとあらゆる社会改革を要求し、社会全体が合理的に再編成されるという現象をもたらした。

その中で推し進められたのが社会政策である。

1941年に成立した食糧管理制度は、地主に対し現物として納められた小作米を政府に供出させ、小作料を政府が現金で支払う制度である。

ここで重要なのは政府が小作料を据え置いた点である。

モノ不足から来るインフレが進行しても小作料が変動しなかった為、小作農家の実質負担が軽減された。

政府は更に生産者に対する増産奨励金を与え、小作農家の生活水準を向上させている。

それまで政府や政党は農村の困窮を放置し続けた。

昭和農業恐慌にあってもその元凶である小作制度には触れず、恐慌を等閑視してきた。

軽視されてきた小作農家に対する本格的な救済政策は総力戦体制の下で行われたのだ。

1938年には国民健康保険法が成立している。

医療保険制度は1922年の健康保険法により確立されていた。

だが、加入者は工業法が適用される大工場の常用従業員本人に限定され、その家族や臨時雇用従業員、地方の農山漁村全体が取り残された。

一方で国民健康保険法は農家の医療費負担を軽減を目的とし、任意加入制度とした。

これが後の国民皆保険に繋がったことは言うまでもない。

何故このような社会政策が総力戦体制下で実現したのか。

まず戦争が長期化する中で、陸軍は健康な良兵を今まで以上に必要とした。

その為に良兵の供給源である農村を改善し、国民の健康管理にも配慮する必要が生じたのである。

そしてもう一つ、総力戦が国民に国家への奉仕を強いる以上、国民が不平等・不公平を感じれば総動員は非効率に陥る。

よって地主も小作人も資本家も労働者も皆等しく天皇の赤子でなくてはならないのだ。

女性も貴重な労働力となる以上、閉鎖的な家族制度から解放されなければならない。

言わば総力戦は封建的な支配関係や階級差別を解消し、ありとあらゆる国民の平等化を促進するのである。

このように国家総力戦は、人的資源保全の名目で、平時においては実現までに様々な抵抗を受ける社会政策を次々と成立させた。

経済学者の大河内一男は

「労働力に対する保全は、ただ労働力の量的調達にとって条件となるだけではなく、また産業社会そのものの生産機構の安定化、その順当な再生産のための不可避な手続きなのである。

この意味で、社会立法は単なる倫理の問題ではない」

と、総動員政策の中で社会政策が実現したと指摘し、それを「我が国の労働史上極めて革新的な出来事」と高く評価した。

総力戦体制を突き詰めれば突き詰めるほど福祉国家になる。

それは人的資源を合理的に配置した結果である。

だが、その総力戦体制が待ち受けていた運命を忘れてはならない。

生産増強の名の下に軍需工場や鉱山では長時間労働・徹夜労働が当たり前となり、労働環境は悪化し、疾病や事故などの労働災害が多発した。

戦争が長期化して国内の労働者の召集が始まると、朝鮮人や中国人の動員が行われ、劣悪な労働環境下に放り込まれた。

物資不足から物価の上昇に歯止めがかからず、民需を抑えるために節制や粗悪な代用品が奨励された。

米や肉、お洒落な服や煌びやかなネオンが街から姿を消し、国民生活は困窮の一途を辿った。

言論の自由を始めとする国民のあらゆる自由は制限された。

ヒトもモノも、経済や産業も、寺の鐘や銅像も、犬や猫のペットまでも全てが動員され、総力戦社会に組み込まれた。

そして総力戦は多くの国民を死に追いやった。

アジア太平洋地域に住まう人々に多大な不幸をもたらし、終いには日本を焼き尽くすのであった。

参考書籍

総力戦体制研究-日本陸軍の国家総動員構想 纐纈厚

man

総力戦体制に関する基礎的研究書。

大戦間期の日本陸軍 黒沢文貴

man

総力戦体制とデモクラシーに関して。

田中義一 総力戦国家の先導者 纐纈厚
大戦間期の宮中と政治家 黒沢文貴

man

総力戦論者としての田中義一について。

永田鉄山-平和維持は軍人の最大責務なり 森靖夫
永田鉄山と日本陸軍 岩井秀一郎

man

総力戦論の中心人物、永田鉄山について。

宇垣一成と戦間期の日本政治 高杉洋平
宇垣一成とその時代-大正・昭和前期の軍部・政党・官僚 堀真清 編

man

宇垣軍縮の内容と、その意義について。

日本政治史のなかの陸海軍 小林道彦、黒沢文貴 編

man

大正期の日本陸軍について。

昭和期政軍関係の模索と総力戦構想 玉木寛輝

man

戦わずして勝つ総力戦論の受容について。
昭和陸軍の見方を変えてくれる重要な本。

帝国陸軍の<改革と抵抗> 黒野耐

man

宇垣軍縮を巡る、大正期の陸軍の抵抗勢力について。

「国家総動員」の時代――比較の視座から 森靖夫
総力戦体制下における「人の資源化」の考察 宮浦崇

man

国家総動員機関・資源局について。

陸軍将校の教育社会史 広田照幸

man

軍縮の中で困窮する軍人生活に詳しい。

近代日本の陸軍と国民統制 伊勢弘志
軍部と民衆統合 由井正臣

man

総力戦体制の中の国民統合の試みについて。

近代日本一五〇年-科学技術総力戦体制の破綻 山本義隆
占領と改革 雨宮昭一

man

総力戦がもたらした社会革新について。

1910・1920年代の永田鉄山-教育系将校の国家総動員構想 岩本岳

man

永田が総力戦体制の遅れの中で、教育論から軸足を外す様が描かれる。

大正期の教育改革-とくに臨時教育会議を中心として 久保義三

man

臨時教育会議において、総力戦観点から教育改革が語られたことがわかる。

陸軍パンフレット問題と日本のマスメディア 玉井研究所

man

陸軍パンフレットがどのようにメディア・政党に受け止められたのか。