軍縮世論

コラム

大正時代の軍縮期

昭和期の陸軍は統帥権の独立を背景に政治外交に容喙し、政府に非常な圧力をかけていた。

軍部がこのように影響力を発揮出来たのは、国民の支持があったという一面もある。

大正末から昭和期にかけて失政を続けた政党・議会政治は国民の支持を失い、代わって軍部が政治的に公平な存在として輿望を集めるに至った。

しかし、軍部が国民の多大な批判を受け、その影響力を大きく後退させていた時期があった。

それがワシントン海軍軍縮条約から宇垣軍縮までの大正時代の軍縮期である。

この時期は、政界においても言論界においても朝野挙げて盛んに軍縮論が議論され、国際平和の時代にあって軍部は無用な長物であるとの軍縮世論が形成されていた。

加藤友三郎と軍縮

日本海軍は超弩級戦艦登場以来の戦力低下を克服する為、1907年に帝国国防方針を策定した。

その中で米国を仮想敵国とし、主力戦艦8隻、巡洋戦艦8隻からなる八八艦隊計画を推し進め、英米に次ぐ世界第3位の大海軍を保有しようとした。

そして加藤友三郎海相下、大戦景気と原内閣との協調関係を背景に漸進的に予算を獲得し、27年に計画実現を見る予定であった。

加藤は「自分は大臣として七年、その間には八八問題でも随分腹のたったこともある。書付をポケットに入れて出たことも三回もある」と述べ、八八艦隊計画実現に尽力していた。

一方で弩級艦誕生以来、世界の海軍国家である日英米の建艦競争は激しくなり、各国は巨額の負担を強いられていた。

軍拡に歯止めをかけようと、19年のパリ講和会議で話し合いが持たれた。

だが、英国は世界一位の海軍国の地位に固執し、米国も英国と対等の海軍力を求めたため、海軍問題は事実上棚上げとなっていた。

この状況に終止符を打つべく、21年7月21日、ハーディング米国大統領は海軍軍縮問題と太平洋・極東問題を解決するための国際会議をワシントンで開催すると提起し、日本を会議に招待した。

8月24日、原敬首相は加藤海相にワシントン会議の全権就任を依頼した。

海軍の重鎮である東郷平八郎・井上良馨両元帥も加藤に全権を引き受けるべきだと激励し、加藤はワシントン会議の全権に就任した。

加藤は八八艦隊計画を推進した当事者であるが、仮に国際的軍縮が実行されるならば、八八艦隊の維持には拘らないと明言する。

「帝国政府は国際連盟に加盟し軍備制限の主義に賛成せり。

随って右の主義を実現すべき会議あるに際しては、余は喜んで他国政府と協同せんと欲す」

加藤は何故八八艦隊計画に固守しない姿勢を見せ、軍縮に前向きであったのか。

まず、加藤は第一次世界大戦後に世界の国防は一変したと説く。

「国防は軍人の占有物にあらず。

戦争もまた軍人のみでなし得べきものにあらず。

国家総動員してこれに当たるあらざれば、目的を達成し得ず。

故に一方においては軍備を整備すると同時に民間工業力を発展せしめ、貿易を奨励し、真に国力を充実すにあらずんば、いかに軍備の充実あるも活用は出来ない。

平たく言えば、金がなければ戦争はできない」

これが加藤の戦争観であった。

更にドイツとロシアが崩壊したことで、日本と戦争を行う可能性がある国は米国のみとなった。

国家総力戦となった以上は、日露戦争のような僅かな金では戦争が出来ない。

国力と国力の殴り合いである。

だが日米の国力差は埋めがたいものがある。

加藤は議会において以下のように演説している。

「彼の大強国大金持ちが、その無限の資力を以って拡張して行こうということに、競争致そうという意志を持っていない。

また仮にもった処が及ばないということは分かりきった話である」

そのような大強国アメリカと総力戦を戦うとは、どういう意味を持つのか。

「金はどこから、誰が出すかということになるが、アメリカ以外に日本の外債に応ずる国は見当たらない。

しこうして、その米国が敵であるとすれば、この途は塞がれ、日本は自力で軍資金を作り出さざるベからず。

この覚悟なき限り、戦争はできない。

英仏ありといえども、あてにはならず、かく論ずれば、結論としては日米戦争は不可なりということになる。

この観察は極端なるが故に実行上多少の融通効くべきも、まず極端に考えればこの通りである。

ここにおいて日本は米国との戦争を避けるを必要とする」

加藤は「日本海軍維持の必要は日本が自給自足の国に非ざるが為なり」と述べているが、国防の目的を考えれば米国との戦争は根本的にありえないのだ。

外交手段によって日米戦争を避け、国防は国力に相当するものとし、国力を涵養することが国防の本義である。

このまま建艦競争が激化すれば、国防の本義は果たせない。

このように考えて加藤は協定比率による軍縮を受け入れる姿勢を示した。

一方で加藤は、国家予算の3割を占めるまで肥大した海軍予算に対する関心が高まっていたことを痛感していた。

かつて横須賀で艦艇の進水式が開かれる際は、両院議員や名士が集まり、皆これで日本はまた強くなった、偉くなったと喜んでいた。

しかし今や、どの政治家もメディアも国民さえも、一隻いくらなのか、進水式の費用はいくらなのかと、海軍予算に注視していた。

大戦景気で潤った日本の経済状況は変わっていた。

戦後恐慌によって八八艦隊計画の維持は困難となっていたのだ。

ワシントン海軍軍縮会議

21年11月12日、ワシントン会議開会劈頭、チャールズ・ヒューズ米国全権が爆弾提案を行った。

ヒューズは、現行・計画中の全ての主力艦建造計画を廃棄し、若干の老朽艦を廃棄した上で、各国現有海軍勢力を考慮して主力艦トン数を海軍力測定の基準として補助艦勢力も決定すること。

つまりは、英米日の主力艦比率を5対5対3とし、日本の海軍戦力を対米六割に制限するという提案を行った。

この提案に議場だけでなく傍聴席からも賛成の拍手が送られた。

これに続き、アーサー・バルフォア英国全権が英国海軍が世界に誇る伝統的地位を放棄すると宣言し、英米均等案を受諾する姿勢を見せた。

日本がこの条件を呑むということは、八八艦隊計画の下に進めている主力戦艦・巡洋戦艦の建造の一切を中止を意味する。

この提案について加藤全権は米国メディアに対し、ヒューズ案は主義として賛成であり、日本の国防に必要な若干の修正を行う意思があることを明らかにした。

加藤が提案した若干の修正とは、ほぼ完成しつつあった戦艦陸奥の保有承認と、主力艦比率を対米七割とする修正であった。

戦艦陸奥は長門の同型艦であるが、ユトランド沖海戦のデータを取り入れた最新式の超弩級戦艦で、沈まないためのあらゆる工夫が施されている。

軍縮後の国防の為に、何としても保有しておきたい戦艦であった。

対米七割とは米国の日本侵攻を不可能とする最低限の戦力差であると海軍内部で古くから唱えられていた比率である。

なお、加藤は対米七割は海軍部内だけで通用する概念であり、政治家や外交官を納得させることは出来ないので、更に理論立てるように命じている。

加藤の修正案に対し米国は対米六割を主張して譲らず、会議は紛糾した。

11月23日、加藤は主力艦対米七割を目指しつつ、やむを得ない場合は陸奥復活で対米六割を妥協したり、最悪の場合は米原案丸呑みもあると本国に意見具申した。

これに対し海軍もやむを得ない場合は対米六割を受け入れるよう返信している。

12月1日、会議は各国全権間の交渉に移る。

加藤はバルフォアと会見し、日本が対英米六割を受諾する条件として、戦艦陸奥復活と太平洋防備の現状維持を提示した。

太平洋の防備制限は対米六割であり、日本を防衛するためには不可欠な前提であった。

加藤は軍艦保有量よりも、太平洋の軍事施設の現状維持を重視した。

当時の太平洋はハワイの真珠湾から日本までに米国の軍拠点はなく、米国が日本を直接攻撃することは不可能であった。

加藤は米国がグアム島の要塞化を放棄するならば、小笠原諸島の防備を撤廃しても良いとすら考えていた。

逆に言えば、グアムが要塞化されれば対米七割であっても対米戦は困難となるという判断である。

太平洋の防備制限は米国にとっては呑み難い条件であり、交渉は難航した。

ここに至って加藤も交渉決裂を覚悟した。

ここで登場するのが幣原喜重郎全権である。

幣原は対米交渉の試案を作成し、加藤に手渡した。

加藤がダメ元で米国に当たってみると、この試案がすんなりと通った。

驚いた加藤が米国務省に確認したいと述べたところ、幣原は以下のように語った。

「あなたが海軍大臣で首席全権だ。それが直談判して向こうが宜しいと言ったのを、それは本当かと聞きに行けますか」

こうして12月2日、加藤・ヒューズ・バルフォアの三者会談で軍縮案が成った。

ワシントン海軍軍縮条約

加藤は軍縮案を政府に請訓した。

後のロンドン海軍軍縮会議では軍縮案に対する不満が爆発した海軍部内であっが、この時は軍縮やむなしの空気が支配的であった。

ロンドン条約反対の最強硬派となった加藤寛治はこの時全権随員としてワシントンにあった。

加藤は対米六割受諾に反対しつつも、随員として節度ある態度を維持していた。

軍縮案が成った際は、反対意見を独断で本国の海軍部内に打電したが、加藤友三郎はこれをたしなめるように叱り、大勢には影響しなかった。

本国では佐世保鎮守府司令長官の財部彪が軍縮会議を一年延期して英米の譲歩を引き出すべきだとか、山本権兵衛が八八艦隊原則の破棄に不満を露わにしていた。

だが、後の条約派・艦隊派のような派閥争いを惹起するまでには至らなかった。

これは海軍部内で重きを為す長老、最高意思決定に影響力を持つ東郷平八郎元帥が加藤の軍縮案を支持していたからである。

対米六割比率の請訓を巡って開催された軍事参議官会議において、東郷は「一割内外の兵力差は深く関する所に非ず」と加藤案を支持した。

会議の席上では対米六割比率は士気に関わるとの反対論もあった。

だが、東郷は責任ある海相が六割で良いと判断するのだから士気には影響しないと反論した。

東郷は主力艦の比率に不安を感じていなかったわけではない。

しかし、現実問題的に八八艦隊を完成させたとしても、全艦艇を就役させることは困難であると海軍部内で広く認識されていた。

それよりも巡洋艦・駆逐艦・空母・潜水艦ら補助艦戦力を補充して国防を計画すべきである。

主力艦の軍縮を多少の譲歩をしてでも実現すべきだという合理的認識が共有されていたのだ。

この東郷の態度により、軍事参議官会議は加藤全権の支持で固まった。

東郷はそこまで加藤友三郎を信頼していた。

東郷は海軍は政治に関与せず、国防に専念する事を理想としていた。

軍令部が軍政に一切関与せずに軍務に専念するためには、海軍全体の利益代弁者である海軍大臣が十分な戦力を整える責任を果たす必要がある。

東郷にとって加藤はその責任を十分に果たす海軍大臣であったし、後にロンドン条約で局を担った財部は(東郷から見て)無責任な海軍大臣であった。

両軍縮会議に対する態度の差異はここに現れるのであった。

軍事参議官会議の支持を得た加藤は、12月11日、バルフォア、ヒューズとの会談に臨んだ。

加藤の定義した戦艦陸奥復活と太平洋における防備現状維持が受け入れられ、日本は主力艦対英米六割を受諾した。

こうして22年2月4日、ワシントン海軍軍縮条約と太平洋防備制限を定めた四国条約が調印された。

ここに各国の建艦競争はネイビーホリデーと称される10年の休戦を迎えるに至った

憧れの軍人

海軍軍縮と前後して、軍に対する世論や社会意識は急激に変貌を遂げようとしていた。

それが軍人の地位低下という形で現れ始める。

明治時代の大半の子供たちの憧れの職業は軍人(大将や元帥)であった。

その理由も多種多様である。

軍服がカッコ良いと感じたり、剣戟が好きなので本物のサーベルを振いたかったり、幼少期に読んだ軍記物から軍人に憧れを抱いたりしていた。

今でいうスポーツ選手に憧れる子供と同様である。

陸軍士官学校もその受験案内書の中で子供たちの関心を引く為に、敵を倒せば金のモールに身を包むことができるとか「白馬金鞍三軍の将」になれるとか、その射幸心を煽っている。

この軍人人気に拍車をかけたのが日清・日露戦争である。

戦争の勝利は青少年たちの英雄崇拝を生み出し、将校の志願者は急増した。

志願者の中には高等中学から陸士(陸軍士官学校)を受験して軍人を目指す者すらいた。

その代表格は後に陸軍大将から宰相となる林銑十郎である。

林は当時、県知事を目指して第四高等中学に入学していたが、日清戦争に少佐として出征していた叔父の手紙に感化され、陸士に転じた。

林家は武門の出であるので、家族は銑十郎の志に感動し、大将になる覚悟でやれと激励したという。

日露戦争は軍人の華々しい活躍が喧伝され、全国の多くの少年は軍服短剣姿に憧れを持ち、志願者の数はピークを迎えた。

もう一つ、軍人が青少年を引きつける要因があった。

それが立身出世である。

陸軍士官学校もパンフレットの中で、官吏になる為には高等な学問技術が必要であるが、士官候補生となれば学問など必要ないなどと、まるで軍人が出世の早道のように描いていた。

陸軍士官は普通に働くよりは出世が早い。

仮に戦死しても遺族が食いっぱぐれることはないし、生き残れば恩給もある。

経済的に恵まれた安定的な職業、それが軍人であった。

閉ざされた出世の道

しかし、第一次世界大戦末期頃を境に将校人気は急落し、陸士志願者も激減した。

第一次世界大戦中は4000人いた将校志願者は、21年頃には1000人程度まで落ち込んだ。

これは大正期に軍人を取り巻く環境は一変した為である。

まず挙げられるのが軍部人事の停滞である。

大正初期まで毎年800名近い陸軍将校が採用され続けた結果、軍部内で将校は過剰となった。

そうなれば軍部内での出世は滞り、中尉から大尉まで昇進するのに数年、そこから少佐まで昇進するのにまた数年かかるようになる。

陸士を出て普通に勤務すれば中佐や大佐に順調に昇進できる時代はとうに過ぎ去っていた。

陸軍の昇進スピードは文官や海軍に比べ明らかに遅かった。

昭和になっても日露戦争時代に採用された世代が少佐クラスで残っていたり、明治時代末期の将校が大尉クラスで留まっていたりもした。

出世の道を閉ざされ、いつまで経っても大尉や少佐クラスに留められた将校は、定年間近になっても部下の教育・演習の為に走り回り、そのまま現役を退かねばならない日を待つばかりであった。

もはや日露戦争のような大戦争もない時代に、このような人事停滞を解決するには師団増設やポスト新設しかない。

よって、師団付き少将や、連隊付き中佐などという無意味なポストが増えてゆき、閑職で暇を持て余した将校が溢れかえっていた。

一方で日露戦争の重税に苦しむ国民、それを背景とする議会・政党は軍事費に対する厳しい目を向け、そのような冗員は節減すべきだと批判を行うようになる。

そうなると軍部に残された道は、閑職で惰眠を貪る中年将校をリストラし、少尉・中尉クラスでくすぶっている若手将校に出世の道を広げるしかなかった。

将校の生活苦

安定的と思われた将校であったが、出世の道を閉ざされた将校の生活は苦しいものであった。

軍隊は階級に応じた俸給制度を採用している。

よって、昇進が停滞した為に低俸給に留め続けられ、生計が成り立たなくなる将校が続出した。

それに追い打ちをかけるかのように、明治時代には相対的に高給であった軍人の俸給も、第一次世界大戦の物価高騰を迎えても給与改善は為されなかった。

そして、同年代の会社員が将校よりも高給を得る例が現れ始めた。

1920年には新聞が陸軍兵卒の身だしなみが見すぼらしくなったと報じるまでに、陸軍の低俸給・困窮問題は深刻なものであった。

大隈重信は、物価を標準として士官の地位を保つのに必要な待遇を与えるよう俸給を改める必要があると論じる。

「国家にしてこれだけの義務を怠れば、人情として国民の軍人の地位を忌避することは已み難く、されば凡庸の徒のみ集まって士官となることもまた余儀無き自然の結果と見なければならぬ」

軍人の生活苦が軍人志願者の低下に繋がり、国軍の質・士気に影響すると懸念している。

だがデモクラシーや平和主義が大勢となるや、軍人の給与改善は議会や世論から厳しい目を向けられるようになった。

ただでさえ歳出内の官吏の給与や恩給の多さが問題となっており、ましてや軍人の給与を改善するなど認められるはずがなかった。

こうして、同じ能力を持つはずの同級生たちが会社や官界で順調に出世し、俸給も高くなっているのに対し、延々と大尉・少佐クラスでくすぶる様が見られるようになった。

この状況に若い将校が軍人生活に見切りをつけ、銀行員や会社員などに転職し始めた。

1918年には東京日日新聞が陸軍士官学校・幼年学校ともに志願者が激減したと紹介する。

その理由を以下のように推測した。

「試験の結果志願者の約1割くらいしか入学出来ぬのであるから、この至難な試験に応ずるよりも無尽蔵に人物を求めてくる実業界に入る事の方が易々たるのみならず、物質上の利害からも遥かに優っているというような思想が一般青年の頭に深く浸潤して来た為であるまいか」

雑誌太陽も、第一次世界大戦による好景気により学生の進路選択において陸軍が不人気となり、実業家を志す者が急増したと紹介し

「人々の頭に、経済観念が刻々に食い込んで行きつつある」

と指摘している。 このように、もはや軍人は他の職業よりも魅力的ではなくなったのだ

落伍する将校

昇進から取り残され、老朽・無能を理由に予備役に追いやられた40台半ばの将校のセカンドライフは厳しいものがあった。

一般的に官僚は天下り先があったり、また厳しい高等試験を通過しただけあって再就職もしやすい。

将校であっても准士官クラスにでもなれば再就職も容易い。

佐・尉クラスの予備役軍人も、在郷軍人の見栄を捨てて様々な職にありつけた。

しかし、働き盛りで一般社会に放り出された中途半端な佐・尉クラスの将官の再就職は難しかった。

彼らは軍隊という社会から隔絶された特殊な環境で生活を送ってきたので、世間知らずで社交的でもなく、全く社会に適合出来なかった。

しかも位階勲等のプライドが高く、何かと昔の身分を振りかざして威張り散らし、周りの感情を害する有様であった。

そのような厄介な在郷軍人を一般企業も敬遠した。

かといって恩給は雀の涙程度しかない。

商売を始める蓄えもない。

自分を曲げて職にありついても、食っていけるがやっとであった。

その位階勲等に似合わぬ生活苦から、在郷軍人を「貧しき高等遊民」と表現する者もいた。

在郷軍人は自らの階級意識と経済的裏付けに相当なズレがある社会的落伍者となった。

まるで明治初期の士族のようである。

退役将校の再就職は深刻な社会問題となり、再就職のために教員養成や社会教育、農芸、畜産、建設などの教習を開催していた。

そして苦肉の策として、現役将校学校配属令によって過剰将校のはけ口を教育現場にもたらした。

軍縮世論の嵐

軍縮の世にあって陸軍軍人の地位はますます低下した。

それは陸軍が軍縮の反動勢力であると論じられ、激しい軍部批判が展開されたからであった。

陸軍はワシントン会議に対し、国防の必要は唯一の基準であり、国際会議によって協定されるべき問題ではないと宣伝していた。

これに対し新聞世論が火を噴いた。

1921年9月、読売新聞は陸軍が軍備現状維持を主張し、軍縮に対し海軍と意見が衝突したと紹介し、この姿勢を

「外交財政などの根本政策との関係を顧みず、陸軍限り独立任意にその軍備方針を決定している」

と断じ、その態度を「これ我国家国民にとり容易ならざる問題である」と批判している。

福岡日日新聞は陸軍の態度により軍民の距離が広まっているとし

「国民の思想感情から離れた軍隊、単に離れたばかりでなく国民不平の中心であり、怨嗟の的であるが如き軍隊はいかに優秀精英であっても何の役にも立てぬばかりでなく、あるいは国の脅威であり、圧迫であり、一種の危険物であるかも知れぬ」

と論じ、軍人に時勢を教育して、国民の一般思想に適応させるべきだと説いた。

東京朝日新聞は「軍閥が内政に干渉し、外交に関与するは、彼らも国を思うの志からである」としつつ、国民政治と世界平和を志す現在の世にあっては不合理である。

「従来我国の世界に受ける誤解の源は、陸軍である以上、今において殊に陸軍は陸軍のみの利害観念を去って、慎重に国家に資することを考慮せねばなるまい」

と断じている。

大阪朝日新聞はワシントン会議が「軍国主義打破の国民的運動」を盛り上げるとし、以下のように説いている。

「軍備縮小の精神は非軍国主義の精神で、軍閥退治運動は縮小会議の反面である。

かつ万一吾人の期待に反して、会議が失敗したところで、我国で軍閥を畏縮するの気運が大いに起こったならば、我国民衆の福祉を増進する途が開けるのである」

ワシントンにて本格的に海軍軍縮が協議されると、新聞は総じてこれを好意的に報じ、一方で軍縮に応じようとしない陸軍を攻撃した。

読売新聞は、陸軍を「勝手の下等動物的行動」「我陸軍の非妥協的態度は、我国民として決してこれを容認することは出来ぬ」と断じている。

大阪朝日新聞も、軍縮の矛先を陸軍に向けている。

「日本の陸軍は目下の形勢では毫も拡張の必要はなく、極東の政局が安定し、我工業能力が増進するに伴い、列国と協調するにせよ、はたまた単独に行うにせよ、漸進的に陸軍平時人員の減少を断行することが出来る」

新聞メディアは陸軍に圧力をかけるため、普段は取り上げないような地方の不良軍人の不祥事を大々的に報じた。

これをさも陸軍全体の軍紀が弛緩していると拡大させ、軍縮世論を燃え上がらせてゆくのであった。

軍縮平和新年と軍部冬の時代

ワシントン海軍軍縮条約が成立した1922年は軍縮平和の新年であったと同時に、軍部にとっては冬の時代であった。

海軍軍縮が進む中、第45回議会においては国民党の犬養毅が陸軍軍縮案を提出し、軍部批判に気炎を上げた。

更には1月28日、憲政会の永井柳太郎が衆議院において高橋是清首相の内外国策私見の存在を暴露し、その真意を質した。

内外国策私見とは1920年、高橋が当時の原敬首相に提出した意見書である。

対中要求の緩和、農商務省分割、文部省廃止などの内容であったが、その中に参謀本部・軍令部廃止が含まれていた。

高橋は意見書の中で以下のように論じている。

「我が国の制度として最も軍国主義なりと印象を与えるのは陸軍の参謀本部だ。

軍事上の機関が内閣を離れ、行政官たる陸軍大臣にも属さず、軍事上のみならず外交上にも経済上にも特殊の機関たらんとする。

参謀本部を廃止して陸軍の行政を刷新すべきであり、参謀本部に対抗して設置された海軍軍令部もまた無用の機関である」

ドイツ参謀本部を模範して作られた参謀本部が諸外国に軍国主義の印象を与えて居る。

陸相に隷属せず、統帥権を掲げて外交・経済政策に容喙すらしている。

この意見書の背景にはシベリア出兵が参謀本部の反対により進まなかったことがある。

高橋は撤兵の遅れに伴う財政負担や列国の感情悪化を懸念し、このような意見書を記すに至ったのだ。

この意見書に対し原は、その内容が過激で挑発的すぎるので軽々しく口外すれば厄介なことになると考え、発表を見合すよう勧告した。

だが意見書の存在は公然のものとなった。

高橋はあくまで私見であると答弁を回避した。

だが、一国の宰相が参謀本部を廃止せよとの意見を有していることが明らかになり、議会における軍部への圧力は増していった。

2月1日、高まる軍縮の声に対して東京日日新聞は「陸軍縮小問題は、普選とともに是非とも解決せねばならぬ国家的重大問題である」と位置付けた。

もはや軍備だけで国家の主義主張がまかり通る時代ではない。

国家の安全保障は軍備以外のあるものに依らねばならない。

それが世界の大勢である。

日本の陸軍拡張の理由となったロシアもドイツもその陸軍は殆ど消滅した。

もはや東アジアの平和を撹乱する要因はない。

大陸軍を維持する必要もない。

むしろ大陸軍を維持すれば、諸外国の猜疑心を呼び、軍国主義の国と誤解される恐れがあるではないか。
「何のために二十一個師団を維持せねばならぬか。

これを対内的に用うべく、日本国内は余りに平穏であり、またこれを対外的に用うべく、国際関係は余りに平和ではないか。

国民党案の如く常設師団を減じても、また一年兵役を実施しても、日本の国防は十分保障されるのである」

このように日日新聞は軍縮を説いた。

湧き上がる軍縮世論は軍人を脅かした。

もはやいつ軍部内でリストラが起きるかわからず、軍艦がホテルや住宅になるだのの噂すらたった。

軍人生活の不安定化は青年将校の婚約を次々破綻させ、名のある女学校の卒業生は軍人の家に嫁ぐのを忌避した。

国際連盟や国際軍縮条約を背景に平和主義・自由主義・民主主義が世界の大勢となった。

もはや軍人という職業は不必要であるとの認識が強まり、軍人の威厳も地に堕ちた。

ある軍人が停車場で車を呼べば、車夫が軍人は歩いて行けと突き放した。

兵隊を恐れていた博徒も、今や博徒の方から軍人に喧嘩を仕掛け、兵営にまで押し寄せた。

兵卒が訓練から戻ると、民家は戸締りをして宿営を断る始末だった。

かつては羨望の眼差しを受けた軍服も今では侮蔑の対象となった。

軍服を着て電車に乗ると嫌味を言われるので、将校は省庁に出勤した後に着替えるようになったという。

軍部批判はこの年に亡くなった長州閥の長、山県有朋の国葬にまで及んだ。

メディアは山県の国葬を大隈の国民葬と対比して、あまりにも不人気でガラ空きであったこと報じた。

議会においては軍閥の長の国葬を行うこと自体に批判が加えられていた。

1918年、日本及日本人は将校志願者激減の現象を以下のように断じている。

「軍人の驕倣横柄と、一種の軍人的悪臭を社会に散布すると、及び軍人の生活が次第に素町人化するとは、不知不識の間、国民の尊敬心の軍人より離去する所以にして、軍人の不人気は、軍人らが招きつつある因果応報なり」

このような軍部批判・軍人侮蔑もまた因果応報であると信じられた。

軍縮議会

陸軍軍縮は今や天下の世論となった。

そして軍閥攻撃が天下の大勢となり、国民が軍閥と戦う構図が形成された。

読売新聞は現在の政軍関係を「支離滅裂の軍国組織」と断じ、その問題解決を以下のように論じる。

「その政権と軍権とを統一し、国策と国防とを調和せしむる為に、総理大臣と陸海軍大臣とをして内閣自身に対しては勿論、上大元帥たる陛下と下国民の代表たる議会とに対し、軍事上の全責任を負わしむる事である」

つまりは「軍務と国防とを、責任政治の組織系統の中に入るる事である」と、軍部大臣文官制を説いた。

このように軍縮世論は軍縮だけでなく統帥権独立の改革にまで踏み込もうとした。

議会や世論の激しい追及に対し、山梨半造陸相は現在の陸軍戦闘力の維持を主張した。

その根拠について

「一旦有事の時に各国から経済的封鎖を被る事あるべく、さういう場合には大陸の動脈を押さえる必要が起こる」

事を考慮すべきだと述べている。

これに対し東京朝日新聞は、世界の大勢は戦争回避である。

日本も国際連盟の規約に調印し、ワシントン会議で海軍軍縮・四国条約・九カ国条約を協定し、列国と協調し平和維持に努力する姿勢を見せている。

「この見地からは戦争を予想することすら罪悪である」

陸軍が有事の際に中国を押さえるなどと唱えるのは多大に矛盾があると断じた。

その上で、山梨以下陸軍の認識を以下の様に「無用有害」「時代錯誤」と痛烈に批判する。

「一国の生存上の必要とあれば、他国を侵略する不法行為も、差し支えなしとの結論が正しからざる以上は、世界を敵として戦うの覚悟がなければ実行不可能である。

特に支那と列国との関係がワシントン会議で確然決せられた今日、支那から兵力を以って、物資を得んとする如き国があれば、その時こそ日本は、これに対抗して起つべきである。

しかるに我国が誤れる途において、生存権擁護の為に、無用の陸軍を養うとすると、いたずらに隣邦人に憎悪の念を増さしめ、列国よりは猜疑の眼を以って監視を受け、せっかく我国が平和的に生存権の主張を為して、正々堂々と世界に臨まんとする上に、大障害を来すものである」

新聞世論の軍縮要求に対し、陸軍は終始守勢を強いられた。

それに追い打ちをかけるように3月には政友会・憲政会・国民党一致で陸軍軍縮建議案が可決成立した。

その内容は、陸軍に対して兵役短縮1年4ヶ月、節約費4千万円の軍縮を求めるというものである。

これに対し山梨陸相は、この問題による辞職は無いと断りつつ、軍縮が大多数国民の意思である以上は陸軍も「冷静に大局を洞察し国民と共に歩む覚悟が必要であろう」と述べるに至った。

東京日日新聞は第45回議会を以下のように総括した。

軍国主義のような日本において

「公然と軍備縮小論が曲がりなりにも具体的成案として提唱せられた」

「帝国の進歩して行く道程に、明らかに一新紀元を画した」

そして、この議会を永遠に記憶したいと高く評した。

山梨軍縮

議会や軍縮世論の突き上げを受け、陸軍は軍縮に応ぜざるをえなくなった。

6月30日、加藤友三郎内閣において山梨陸相は陸軍軍縮案を発表した。

それは人員5万6千人減、経費2千万節減、在営年限45日短縮、新兵器拡充などの内容であり、第45回議会の軍縮建議案は参考に留められた。

この軍縮内容に対し大阪朝日新聞は以下の様に痛烈に批判した。

「沸騰せる世論に対しては真に鼠一匹の感なきをえない」

「軍部が国民の要求を無視してあくまで国防の安全を楯に、その態度を改めないのは返す返すも遺憾の至りである」

「不徹底というよりむしろ不可解」

「国防の最小限度と唱うる根拠は存外薄弱」

東京朝日新聞もこの軍縮案の本質を指摘している。

「軍縮案というよりはむしろ軍備充実計画案」

世論の突き上げを受け、山梨は貴族院において発表した陸軍軍縮案は確定案ではなく固執するものではないと弁明した。

だが、結局は原案通りの山梨軍縮を実施した。

大阪朝日新聞は山梨軍縮を「姑息案」と断じる。

「国民の知識進歩せる今の世に、国民大多数の諒解し能わざる不合理の独断案を勝手に実行せんとするは、やがて陸軍が民の怨府となるの虞を生ずる」

不徹底な山梨軍縮に対する批判は陸軍部内からも起きた。

陸軍部内では軍縮によって軍備近代化のための費用を捻出することを期待していたが、議会の圧力を受けて軍備近代化は骨抜きにされた。

経費節減のために軍楽隊や、東京の午後を告げるドン(午砲)も廃止されているが、それよりも根本的に削減されなければならない師団数には一切手が入らなかった。

関東大震災における軍部復権

軍縮世論を背景に吹き荒れた国民の反軍思想に楔を打ったのは1923年に発生した関東大震災であった。

震災当初から近衛師団は食糧配給や傷病者救護に従事した。

全国の師団も乾パンや缶詰を東京に運搬し、罹災者に配った。

それだけでなく、多くの救護班を編成し、被災地の医療活動を担った。

在郷軍人会も全国で寄付を集め、救援隊を上京させた。

更に行政戒厳が発動されるや最前線に展開して治安維持を担った。

この献身が国民の軍に対する畏敬と感謝の念を復活させた。

わずか1年前には軍隊は国民の怨嗟の的になっていたが、列車に軍隊があるや沿線で万歳三唱が起こるようになっていたという。

都新聞は軍の治安・救護活動を以下の様に評する。

「帝都の治安を維持し、恟々たる人心を安定せしめたるは軍隊の力である。

糧食や水の配給も軍隊の力に頼れるものが多い。

物価の暴騰を防ぎたるも軍隊の力が多大である。

罹災地の人民は衷心より軍隊に感謝を払っている」

「近世世上の一部には軍閥と軍縮とを混同せるの嫌いあり、国民と軍隊との間に阻隔の傾向ありたるも、今回の軍隊の働きにより、両者の親密を加えたるは国民の幸いである」

被災地に派遣された軍隊の中で工兵の活躍は目覚ましく、道路を整備し、橋を架け直し、電線や鉄道を復旧させた。

自らも救援活動にあたっていた賀川豊彦は、献身的に作業する工兵に感動した。

「奉仕を誇りとする工兵が徹夜のこの努力に感激しないものが何人あったろうか。

人を助ける為めの軍隊の組織ほどありがたいものはない。

そして、人を殺すための組織としての軍隊ほど恐ろしいものはないと」

賀川は国家主義とは対極にある社会運動家である。

その賀川ですら軍隊への感謝を口にしているという事実は重大であった。

当時有力な反戦思想家であった水野広徳も、軍の献身には賛辞を送っている。

「戒厳令下における軍隊の行動は極めて厳正に極めて敏活であった。

しかも従来しばしば見たるが如き倨傲の態度と威圧的言動を見る事なく、国民と軍隊との間は極めて円滑親善出会った」

軍部はこの世論の風向きの変化に好感触を得た。

軍官僚の宇垣一成は風向きの変化をこの様に観測している。

「国民少なくとも今次の変災の直接影響を蒙りし士民は、軍隊の活動に対して感謝の意を有している。

甚しき忘恩者にあらざる限りは」

福田雅太郎戒厳司令官も感慨を込めて、以下の様に語った。

「国民と軍隊との間は実に円満無碍である。

かかる麗しさは、どこにも見ることが出来ないと断言するのを憚らないのである」

軍部批判の後退

国民の間では、軍の献身に対する賛美と感謝が巻き起こった。

詩人の佐藤春夫はサーベル礼讃と称して「今度の変事で最も感心したことは何と言っても軍人の威力である」と評している。

このような軍部礼讃を芥川龍之介は冷たい目を向けている。

「それだけでミリタリズムを讃美するのはどうですかね。

ソヴィエトロシアにだって軍隊はあるのですからね」

芥川を始め、言論界は国民の間で広まる軍部賛美に警戒を示した。

帝大の法学者である末弘厳太郎は、素朴な軍隊への感謝が軍国主義(ミリタリズム)賛美に変わりつつある事を指摘している。

末弘は軍国主義をこの様に定義する。

「平時無用に多数の軍力を養いつつ万事を全て一旦緩急の秋をのみ基準として考慮する」

末弘にとって軍は「非常の際における効用をのみ目的として存在する」護身刀のような存在である。

よって、日常においては全く無用であると認識していた。

軍が震災という非常時に活躍するのは、何ら不思議なことではない。

それを讃えるあまり、無用な軍隊を常備しようとするのが軍国主義であると断じた。

経済学者の福田徳三も

「国民の深き感謝を利用して、軍備拡張を図るが如きは、火事場泥棒の最も甚だしきもの」

と論じて、軍は自ら軍縮を断行し、復興費用を捻出すべきだと主張した。

このように言論人は軍縮・反戦論で軍部を牽制した。

しかし、果たして実際に軍に救護された被災者たちに、その声は響いたのだろうか。

関東大震災を題材として講談社が発行した大正大震災大火災は以下のように論じている。

「欧州戦乱以降、世を挙げての遊柔惰弱の風潮は遂に、軍縮!軍縮!の声となり、しかも遂に軍縮は実現せられ、甚だしきに至っては軍隊無用論など随所にその叫びを挙げ、国民もまたこの声に禍せられて軍隊を厭ひ国民皆兵の実将に地に堕ちんとしつつあるの状態」

にあったが、風潮を震災における戒厳軍の救護活動が打破し、陸海軍の実力を国民の脳裏に刻んだ。

「国民よ、この軍隊の実力を如何に見んとするか!

かかる非常時にのみ軍隊に感謝するを知って、平時においては嫌厭、無用視するのは誤れるのも甚だしきものではないか」

大正大震災大火災は大ベストセラーとして多くの国民に読まれた書物である。

国民の本音としてはこれに近いのではないだろうか。

大正期の軍縮世論の風向きは明らかに変わりつつあった。

宇垣軍縮

軍縮世論を注視していた軍人が宇垣一成である。

宇垣は世論を一種の勢力だと見ている。

「世論を念頭に置かず、多数を計算に入れないで己が抱懐を実際に施すという事は到底不可能である」

国民が何を要求するか知ることが政治において重要であると考えている。

「挑発教唆してこれを製造するの必要さえも時に存する位なれば、自然に起こりしものは無論これを利用することに着意しなければならない」

この様に語り、積極的に世論に適応しようとした。

その観点から軍縮世論を見れば、山梨軍縮では不十分であると満足していない。

「陸軍軍縮を絶叫するの意向、師団減少を遂行せずんば止まざるに傾向ありし」

と観測した。

ただし宇垣は決して民主主義者ではない。

むしろ根っからの軍人である。

軍人勅諭を奉じ

「軍人は一意尽忠報国の赤誠を経とし、献身殉難の行為を偉として、その身を律し、軍務以外の他事を顧みず超然として世論の外に卓立しあること緊要なり。

かくの如くして初めて克く軍隊は皇室の藩屏国家の干城たるべき重責を全うし得るものとす」

と述べるように、宇垣の視点は常に陸軍内部にあった。

宇垣は世論は必ずしも真理ではない。

それを指導して真理とすることが理想である。

よって軍縮世論に対しては

「これを善導し、これを利用せば正反対に便利を得ることも必然」

と説いている。

そうして軍縮世論に先んじて師団を削減して世論を封じこみ、また軍縮世論を利用して4個師団削減からなる陸軍軍制改革を断行したのが25年の宇垣軍縮であった。

宇垣は自らが主導した軍縮について、以下の様に、それが軍縮世論対策であったことを明かしている。

「今次の整理の表向の理由は今日までに各方面に述べてあるが、裏面の理由としては輿論に先手を打ったのである。

国民は山梨の整理案を不徹底姑息なりとして満足して居らぬ。

更に陸軍軍縮を絶叫する意向、師団減少を遂行せずんば止まざるの傾向ありしに鑑み、之れに先んじて英断を施し其減じたるものを改善に転用する、即ち国民の輿論を国軍の革新に利用し指導したのである」

軍縮期の終り

宇垣が観測したように、軍縮世論は陸軍を突き動かすレベルで強力であった。

ならば政党内閣が国民の支持を背景とする以上、軍縮世論を背景に軍部に改革を迫ることは出来たはずである。

しかし憲政会・民政党内閣は宇垣をパートナーとして政軍関係を構築し、軍部に関しては宇垣の意向を尊重した。

宇垣は軍人としては極めて保守的な人物であり、軍部大臣文官制や軍縮といった軍部、ひいては統帥権の暴走を抑える手立ては、宇垣との協調の下に失われていった。

宇垣は軍縮によって師団が削減されれば、地方の利害関係に多大な影響を及ぼすだろう。

それによって国民は軍縮というものがどういうものなのか自覚し、軍縮世論は沈静化するだろうと考えた。

現に削減対象であった舞鶴鎮守府がある京都では軍縮に対し微妙な空気が流れていた。

また、岡山の師団が削減されたことで軍縮を唱えていた犬養毅が地元に弁明する事態に追い込まれている。

宇垣対世論の駆け引きが功を奏したか、関東大震災の陸軍の献身が国民の信望を取り戻したか。

陸軍を苦しめた軍部批判・軍縮世論はかつての勢いを失い、後退していった。

昭和期になるとロンドン海軍軍縮会議を巡り再び世論は加熱する。

だが、それも長続きせず、満州事変を機に反軍・平和・軍縮の世論は永遠に失われた。

大正時代には政治家やメディアが軍縮論を唱え、実際の政治においても陸海軍軍縮が断行された。

国民もそれを支持し、軍部は厳しい立場にあった。

それが何故昭和期になって大転回したのか。

昭和史を考える上で一つのテーマである。

それを考える上で、軍縮世論下にあって国民が軍人を侮蔑し、関東大震災にあっては軍を救世主のように讃えたという事実は注目に値する。

改めて見れば、当時の軍縮世論というのがあまりに矯激であったと言わざるをえない。

日本における軍縮の議論は、政治家や軍人が経済財政・外交・国防という観点から議論を重ねたものではない。

また軍縮世論もじっくりと討論を重ねて形成されたものでもない。

デモクラシーと国際協調という世界の大勢に依拠して急激に推し進められたものであった。

そのような背景で形成された世論は急進的で過激になりがちである。

国民と軍事の関係を見直すような建設的な議論は展開されず、世論は目先の師団数・兵力数・予算にばかり注目した。

軍縮は絶対正義として有無を言わせず進められ、軍縮に反対する意見は軍国主義者のレッテルを貼られて尊重されなかった。

そして国民は国防を理解せずに感情的に軍人を排撃した。

その裏返しは昭和期に訪れる。

経済的不況により国家間の緊張が高まり、ワシントン体制は大きく揺らいだ。

政党政治の不信感を背景に軍部への期待が急速に高まり、軍縮など顧みられることもなく、日本は未曾有の軍拡競争に突入する。

もはや世論は日本の戦争の道を止めることは出来なかった。

それが世界の大勢であったからだ。

これは何も軍縮世論だけの問題ではない。

帝国日本の世論はあまりにもドラスティックであった。

国民世論を理由に軍部は自らの行いを正当化したが、その当事者である軍人すら世論が何処にあるのか把握できなかった。

世論のドラスティック化を抑えるには、原敬のように着実に実績を積み重ね、健全な世論形成を促すしかない。

それによって議論を成熟させ、漸進的に制度改革に着手して行くのが最も穏当であったと思える。

帝国日本は戦争に突き進んだと誤解されがちである。

だが、ある時期の日本は自ら軍縮を提唱し、国際社会と歩調を合わせて積極的に平和の道を歩もうとしていた。

軍縮世論はドラスティックな一面は多大な問題もあった。

だが軍縮論・平和論の意義を考えると、帝国にそのような時代があったことは忘れてはならない事実である。

参考書籍

陸軍将校の教育社会史 広田照幸

man

陸軍将校の知られざる姿を明らかにした一冊。全てが目新しく、驚きに満ち溢れている。

第一次世界大戦と加藤友三郎の海軍改革 (1)~(3) 平松良太

man

軍縮会議と加藤友三郎について。

大正大震災 尾原宏之

man

関東大震災における軍部の信頼回復について。

近代日本文化論10 筒井清忠

man

軍縮世論が如何にドラスティックであったか、当時の新聞記事から明かされる。

宇垣一成と戦間期の日本政治 高杉洋平

man

宇垣の対軍縮世論対策について。