関東大震災と朝鮮人虐殺事件
1923年9月1日11時58分
その日は残暑が残るお昼時であった。
汽車のような地響きが聞こえたかと思うや、凄まじいうねるような縦揺れが東京・神奈川を襲った。
深度は12キロと浅く、推定震度6強、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震である。
あまりの揺れの激しさに、中央気象台観測室にあった地震計の針が飛び散ったという。
電信、鉄道、道路などあらゆる通信機関は破壊され、東京と各方面の連絡は全て途絶えた。
神奈川の警察部長が決死の思いで制服のまま海に飛び込み、沖に停泊中の船に乗り込んで、船内無線で関西や北関東の知事、横須賀鎮守府、停泊中の軍艦、大阪の朝日・毎日新聞社に救援を求めた。
これが地震の第一報であった。「本日正午大地震起り、引き続き大火災となり、全市殆ど火の海と化し、死傷何万なるを知らず、交通通信機関不通、水糧食なし、至急救済を請う」
地震発生から間も無く、各地で建物の崩壊や焼失が発生した。
平塚では海軍火薬廠の火薬庫が爆発し、横浜では地方裁判所が崩壊。
横浜の南京町(中華街)でも多くの死傷者を出した。
東京では警視庁を始めとする18の警察署や、逓信省、農商務省、内務省、文部省、大蔵省の庁舎が焼失した。
銀行や郵便局、株式取引所も失われ、首都機能は完全に失われた。
東京市の繁栄の象徴であった三越や白木屋、松屋、松坂屋ら百貨店、国技館や歌舞伎座、帝劇も倒壊した。
中央気象台は倒壊しなかったが、その時計台は11時58分を指したまま止まっていた。
東京最大の盛り場であった浅草の象徴であった東京初の高層建築、凌雲閣も崩壊した。
1890年に建てられ、12階建であったことから十二階の愛称で知られていたが、地震の揺れに耐えられず、8階部分で折れて傾いた。
東海道線の沿線各地では地崩れが発生し、多くの客車が遭難した。
根府川駅に至っては、ホームごと相模湾まで流された。
被害は関東1府6県に及び、住宅被害は全半壊・焼失含めて37万戸、そのうち東京市は16万戸、横浜市は3万戸。
死者行方不明者は10万人、そのうち東京市の死者6万8千人、横浜市の死者2万6千人である。
被害総額は55億円に上った。
火災旋風
地震発生時はお昼時であったことから、急ぎ避難した際の火の消し忘れやガス管の閉め忘れが多かった。
全半壊した建物や学校・研究所・工場の薬品が火元となり、炎は瞬く間に東京市を呑み込んでいった。
水道管の破裂が各地で発生したことから消防は機能を失い、初期段階で火を消し止めることは出来なかった。
関東大震災における火災の被害は壮絶であった。
人口が密集する日本橋・京橋・神田と、地盤の弱い本所・深川が深刻な被害を受け、これらの区域は8割以上が焼失した。
10万弱の死者数のうち、8割にあたる9万人(東京市6万5千人、横浜市2万4千人)が焼死である。
江戸を襲った過去の大地震に比べ、震源地は陸から遠い海底で、揺れも最大級とは言えない。
にも関わらず、火災がここまで深刻となった原因は複数挙げられる。
まず東京市の人口密集度である。
東京市は一歩通りを外れれば入り組んだ細い道路に沿うように住宅が密集していた。
当時東京市の人口は220万人であったが、それが下町の僅かな地域に密集していた。
下町に住んでいた人々は大地震の混乱の中、避難する為に東京の街路に殺到した。
家財道具を乗せて大八車を引いた人々が右往左往して道が塞がれ、東京の道路はたちまち大混雑となった。
その大混雑が消火活動の妨げとなった。
折しも台風が能登半島付近まで進んでいた。
東京上空の低気圧により南寄りの風速15メートルの強風が吹き荒れ、火の粉を舞い上げて、あたり一面を火の海とした。
そしてこの強風が周辺の炎を巻き込んで100メートルもの火災旋風となり、身動きの取れなくなった避難民たちを呑み込んでいった。
最も悲惨な火災現場は墨田区本所の陸軍被服廠跡であった。
陸軍被服廠は本所から移転しており、2万坪近い敷地は東京市に払い下げられ、当時空き地となっていた。
人々はこの空き地を絶好の避難場所とし、4万人もの避難民が殺到した。
間も無く、避難民が持ち込んだ家財道具や衣服に延焼し、突風が炎をまとった竜巻となって被服廠跡を襲った。
江戸の昔から大火の際には延焼を防ぐために家財道具を持ち出すなという教訓があったが、その教訓は生かされることはなかった。
被服廠跡でおよそ3万人以上が焼死し、かろうじて生き残った人たちは、焼け死んだ者の下にいたという。
遊郭で有名な吉原も猛火に襲われた。
逃げ場を失った遊女や客たちは吉原の弁天池に飛び込んだ。
だが、猫の額程度の大きさしかない池に千人近くが殺到した為に将棋倒しとなり、この池で400人近くの遊女が亡くなった。
震災から数日後に吉原遊廓の弁天池を見に行った芥川龍之介は、その光景を「見た者だけが信ずる恐ろしい地獄絵であった」と記した。
一方、浅草寺を中心とする浅草公園では、消防隊が避難民の家財道具持ち込みを厳しく制止して延焼を食い止め、江戸の火消しさながらバケツリレーで火を消し止めている。
これによって浅草公園は下町の中にあって焼失を免れている。
もう一つの要因は耐震性である。
全壊した木造家屋は火の手になりやすく、延焼を早めるものであった。
全壊家屋の多い地域は火の手があっという間に広まり、揺れによる被害が少なかった地域をも飲み込んだ。
火元の多くは神田神保町や浅草千束であったが、これらの地域は埋立地で地盤が弱く、大半の家屋が倒壊した。
また、都市の発展による土地欠乏の結果として、条件の悪い下町は粗悪な家屋が密集するスラムと化していた。
下町は耐火性も耐震性もない危険地帯であった。
一方、山手台の本郷・小石川・四谷・赤坂・麻布の地域は地盤が強く、倒壊も少なく、延焼を免れている。
大正当時、都市部の建物には市街地建築法という法律が適用されていたが、耐震基準までは含まれていなかった。
家屋に対する建築法の取り締まりを厳重にすべきという教訓から、震災後に市街地建築法に耐震基準が盛り込まれた。
しかし、全建物に耐震設計が義務付けられるのは、戦後の建築基準法を待たねばならなかった。
複数の要因が重なり、東京は9月3日まで燃え続けた。
東京の火は遠く千葉県船橋からも見えたという。
大都市における火災では17世紀のロンドン大火、19世紀のシカゴ大火、20世紀のサンフランシスコ大震災のいずれの数倍以上の被害を出した。
古今類を見ない悲惨なものであった。
災害ユートピア
関東大震災の混乱の中で、被災者の間で、互いを思いやり、互いを助け合うコミュニティが出現した。
ジャーナリストの馬場恒吾は、避難先の芝公園で提灯の火が消えた時、見ず知らずの人からロウソクを分け与えられた出来事を紹介し、以下の感想を記した。
哲学者の三宅雪嶺も、それまでの東京の市民は電車で誰々が足を踏んだとか些細なことで喧嘩していたが、震災直後には人々が道を譲り、老人や女子供を助けていたと指摘した。「自然は物資を破壊し得た。
しかし人情を破壊し得なかった。
否人情はますますその美しさを増した。
生死の境をさまよっている人々が互に助け合った幾多の話がこれを証拠立てる。
しかして平常は喧嘩早い東京の人が、この危難に際して極めて温和に、極めて親切で、極めて秩序正しかった事を見て、僕は日本人は野蛮人ではない、確かに教養の深い人々であると思った」
被災者たちの体験談からも、避難民を受け入れる地方の人々が水や食べ物で丁寧に接待した事が伺える。
この善意が飢えと苦しみの中にあった避難民に強烈な印象を与え、皆その好意に対する感謝を口にしている。
震災は日本人の利己主義を排し、相互扶助を呼び覚ました。
その経験が社会の新たな可能性を示す。
アメリカの著作家であるレベッカ・ソルニットはそれを「パラダイスに近い市民社会の体験」とし、災害ユートピアと表現した。
ソルニットは以下のように説く。
こうして、関東大震災において災害ユートピアが出現した。「地震、爆撃、大嵐などの直後には緊迫した状況の中で誰もが利他的になり、自身や身内のみならず隣人や見も知らぬ人々に対してさえ、まず思いやりを示す。
大惨事に直面すると、人間は利己的になり、パニックに陥り、退行現象が起きて野蛮になるという一般的なイメージがあるが、それは真実と程遠い」
災害ユートピアが生み出した人情美や相互扶助といったエピソードは人々の興味を惹き、新聞や雑誌、政府までもが収集に乗り出し、争奪戦の様相を見せていた。
文部省は震災に関する教育資料として忠君、責任、犠牲、公共、愛情などのカテゴリからなる美談を収集した。
御真影をを守った教員や殉職した官吏、炊き出しに参加する名望家、火事から主人を救い出した小僧など、道徳的な話が集められた。
東京府も官吏の責任感溢れるエピソードを美績と称して収集している。
これら震災ユートピア的な話は、大正時代の成金的な特権思想、私利私欲、刹那的快楽主義を矯正し、平等や勤勉や相互扶助といった精神を芽生えさせるものであった。
震災は社会改革のチャンスでもあったのだ。
大正時代を代表する画家の竹久夢二も、災害ユートピアの出現に明るい未来への期待を寄せている。
一方で夢二は震災の混乱を観察し「自然との戦いに労れ、神経の尖った、心の荒んでしまった人間」も現れたと述べている。「私たちに原始的な素朴な勇気な気性と、同時に、最も進歩した未来の生活を暗示した、善き教訓を与えた。
私たちは多くの家族と、種々の家庭が、急造のテントの下で、相助け相励まして、一つ釜で一つの火で食事をした。
一つの火を中心に幾家族かが、生活することは、やがて来る時代を暗示していると思う」
しかし、文部省の資料やメディアの出版物は、そのような心の荒んだ人間のエピソードを意図的に取り上げなかった。
災害ユートピアと矛盾する人間の本能は、例外的で異常であると除外された。
言い換えれば、災害ユートピアを証明する為に、都合のいい人間像だけが切り取られたのだ。
避難生活の中の相互扶助の精神も、混乱の中の暴力も、等しく人間の本能である。
震災の教訓を後世に伝えたいのであれば、卑劣で心が荒んだ人間の醜さが現れた様も記録に残さねばならない。
その最たるものが朝鮮人虐殺事件であった。
流言飛語と善良なる市民
9月1日、震災の大混乱の中で根も葉もない噂が広まった。
根拠のない風説が水の流れるように伝え広まる様から、流言飛語と呼ぶ。
流言飛語の中心地は東京市と横浜市であった。
横浜市は全市内で交通網の破壊が発生し、巡査中の警官に多数の行方不明者を出したことで警察力が壊滅した。
また、水道が断水したために罹災者に飲料水が行き渡らず、食糧配給も市民の自律に任せるところが大きく、いつ秩序が崩壊してもおかしくない状況であった。
そこに追い打ちをかけるように大きな余震が続き、揮発物の爆発音があちこちで響き、人々は恐慌状態に陥った。
そのような中、大津波や土砂崩れが襲来するのではないか、更なる大地震が起きるのではないか、解放された囚人や社会主義者が暴動を起こすのではないか、などという根拠のない流言が避難民の中で広まった。
その中で最も拡散されたのが、震災の混乱に乗じて朝鮮人が暴れているという流言である。
流言は尾びれ背びれがついて、より過激な内容となる。
朝鮮人が略奪強姦を働いた、放火したという流説から、上野の井戸水が変色したのは朝鮮人が毒を投じたからだ、多摩川を渡った朝鮮人と警官隊が戦闘中である、目黒の火薬庫を襲撃したなどと飛躍してゆく。
なお井戸水の変色は地震の際の自然現象である。
だが一般の民衆にそこまでの知識はなく、実際の現象と結びついた為に流言は説得力を持ってしまった。
流言の拡大は凄まじく、30人の朝鮮人がやってきたから警戒しろという言葉が、3000人の朝鮮人が刀を持ってやってきたと有様であった。
果ては大地震の原因は朝鮮人が伊豆大島に爆弾を仕込んだからという荒唐無稽な流言まである。
吉野作造は朝鮮人に関する流言を収集した結果、一つ一つを繋げてみると以下のシナリオがあると指摘する。
このような流言飛語に人心は大いに乱れた。「朝鮮人が東京を中心に暴動を計画していたが、そこに大地震が起こったので、その秩序の混乱に乗じて計画を実行に写した。
略奪や虐殺、強盗、放火、毒物投入など行った。東京の火災が拡大したのも朝鮮人の仕業であるし、その凶行には社会主義者やロシアの過激派とも関係がある」
流言による東京市及び横浜市の混乱は極めて深刻で、流言を真に受けて恐慌状態に陥った市民は自警団を結成し、朝鮮人を虐殺し始めた。
その様について、吉野は
と述べている。「震災地の市民は、震災のために極度の不安に襲われつつある矢先に、戦慄すべき流言飛語に脅かされた。
これがために市民は全く度を失い、各自武装的自警団を組織して、諸処に呪うべき不祥事を続出するに至った。
この流言飛語が何ら根底を有していないことは勿論であるが、それが当時、如何にもまことしやかに、しかも迅速に伝えられ、一時的にもそれが全市民の確信となったことは、実に驚くべき奇怪事と言わねばならぬ」
流言が何処で発生したのかは明らかになってはいない。
朝鮮独立運動に接した内務官僚が朝鮮人の暴動を恐れて戒厳令を敷く為に朝鮮人襲来の流言を広めたという説は、根拠が希薄である。
内田内閣が山本内閣に枷をはめる為に広めたとという噂は、それこそ根も葉もないことである。
流言飛語の出元を特定するのは非常に困難である。
ただし誰が広めたかということはわかっている。
それは、特定の政治信条を持った個人ではなく一般の民衆であった。
関東大震災における流言飛語の広まりには特徴がある。
1日、流言飛語が報告されたのは王子・小松川・外神田・芝愛宕・巣鴨である。
これらの地域は芝公園や上野公園といった避難場所に繋がる避難経路にあり、また避難先の埼玉県への街道沿いに位置する。
2日には避難経路に沿って更に流言が広まり、青梅街道、甲州街道、中山道、川越街道を伝わって瞬く間に東京・神奈川県外まで流言が広まった。
つまり一般の避難民が行く先々で流言を広めたのである。
ここで指摘しておきたいのは、流言は悪意を以って広められたのではないということである。
芥川龍之介は朝鮮人に関する流言を口にして、菊池寛に一喝された経験を披露し、以下のように述べた。
そのような状況下では、公的な意見であるはずの輿論が、善良なる市民によって世論化する。「善良なる市民というものはボルシェヴィキと不逞鮮人との陰謀の存在を信じるものである。
もし万一信じられぬ場合は、少なとも信じているらしい顔つきを装わねばならぬものである」
地震研究者の寺田寅彦は流言飛語について以下のように論じている。「輿論は常に私刑であり、私刑また常に娯楽である。
たとひピストルを用ふる代わりに新聞の記事を用ひたとしても。
また、輿論の存在に値する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与へることばかりである」
その媒質こそが善良なる市民なのである。「流言の源がなければ、流言飛語は成立しない事は勿論であるが、もしもそれが次から次と取り次ぐべき媒質が存在しなければ伝播は起こらない。
随って所謂流言が流言とし得ないで、その場限りに立ち消えになってしまうことも明白である」
重要なのは何故このような流言が善良なる市民に受け入れられたのかである。
その原因は日本人が朝鮮人を恐れていたからであった。
朝鮮人は日本人に不満を抱いており、いつ仕返しを受けてもおかしくない。
そのような無意識な恐怖や不安が朝鮮人暴動の流言に説得力を持たせた。
朝鮮人への恐怖という色眼鏡を通じてみれば、火事の発生は朝鮮人の放火であり、火事場泥棒は朝鮮人の仕業であったのだ。
では何故日本人はそこまで朝鮮人を恐れたのか。
それを解き明かす為には日本と朝鮮の関係を紐解かねばならない。
日本と朝鮮
日露戦争後締結されたポーツマス条約において、日本は韓国の外交権を掌握し、保護国とした。
1910年には韓国側の意思という形式で日韓併合条約を締結し、日本は韓国の統治権を手に入れた。
昨今では日本の植民地統治を評価する見方もあるが、武力で威圧し、朝鮮民族を尊厳を踏みにじったことには変わりない。
民藝研究家で朝鮮の文化にも精通していた柳宗悦は以下のように語っている。
韓国併合後、日本の朝鮮統治を担う朝鮮総督府は軍部主導の武断主義的な統治方針を採用した。「日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。
それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である」
これが朝鮮人の激しい抵抗運動を生む。
1919年3月1日には京城(ソウル)にて朝鮮独立運動、通称三・一運動が発生し、独立運動は朝鮮全土に拡大した。
これに対し原敬首相は三・一運動の原因を武断統治にあるとし、朝鮮の良民を保護するために文官本位の朝鮮統治改革を推進した。
その先鞭として原は朝鮮総督府の政務総監に内務官僚の水野錬太郎を抜擢した。
内務大臣を歴任した学士出身の水野は、旧来の軍部主導の朝鮮統治を改革するために、朝鮮の治安当局に新進官僚を迎えて、人事を刷新した。
そして、朝鮮統治の根本方針を、朝鮮人を一方的に圧迫するのではなく、温情を以って善導する方針を打ち出した。
実際に朝鮮語新聞の発行許可や、教育の拡充という政策も採った。
ただし朝鮮人を日本人と同等に扱うには慎重であった。
朝鮮人に帝国臣民としての自覚を求め、それまでは独立という民族的要望を漸次摩滅してゆくのであった。
不逞鮮人報道
三・一運動後、不逞鮮人という言葉が朝鮮人に用いられるようになった。鮮人とは朝鮮人を意味するが、これは蔑称が一般化したものである。
一方で不逞とは反植民地主義、植民地統治への抵抗運動を意味した。
不逞鮮人というのは、日本の朝鮮統治に対する独立運動を行う朝鮮人という意味で用いられた。
それでは、一般民衆は朝鮮独立運動をどのように見ていたのか。
柳宗悦は、独立運動に普遍的な価値を見出している。
吉野作造も独立運動を以下のように観測している。「吾々は貴方がた自国を思う義憤の行いを咎める事に矛盾を覚えないわけにはゆかぬ。
真理は普遍の真理であってもいいはずだが、時として一つの行いに二つの名が与えられ、ある時は忠節とも、ある時は不逞とも呼ばれるのである」
しかしそれはあまりにも楽観的で希望的な観測であった。「多くの心ある者は、支那朝鮮の問題を以て、明白に過去の政策の失敗なりと認め、かつまたこれが容易な事では収まるものではない。
従来の政策を根本的に改むる事の外に、始末の仕様はないという風に考える者も多くなったのである」
朝鮮人虐殺事件後に吉野は
と語り、日本人が朝鮮独立運動によって潜在的に朝鮮人を恐れていたと、考えを改めている。「日本人の潜在意識の中に、朝鮮統治の失敗と、それに対する朝鮮人の不満への確信があった」
一般の民衆は朝鮮独立運動を帝国日本を脅かす不逞行為であると断じた。
そして独立運動家を不逞鮮人、もっと言えば国賊と見ていた。
朝鮮人虐殺事件について石橋湛山は、日本人の中に朝鮮人は国家を揺るがす敵であり、朝鮮人殺害は国家の為である。
そのような愛国の憂情、国家主義が広まっていたと指摘し、このように述べた。
何故日本人は朝鮮を蔑視し、敵視し、恐怖を抱いたのか。「彼らの或者はその殺人を以て一はし国家の為に大功を立てたかに思っていたのである。
そもそも彼等をして、かく思い込ましめし者は誰か。
それこそ実に真の犯罪人である」
真の犯罪人とは何か。
その原因の一つがメディアである。
新聞は三・一運動後、朝鮮に関する報道の大半を不逞鮮人の独立運動に割いていた。
その報道も非常にバランスを欠いていた。
日本人に被害が出た場合は一大惨事などと悲惨さを強調し、朝鮮人の被害者を報じる際には日本側の正当防衛を主張した。
新聞紙面には不逞鮮人の陰謀や暴力が掲載され、放火、爆弾、短銃、襲撃、殺傷というような恐ろしい文字が踊った。
朝鮮で爆弾投下未遂事件や親日派暗殺事件、反日武力抗争、殺傷事件が多発すると、朝鮮独立運動家は残忍で凶暴なテロリスト、天皇に背く逆賊と印象付けられた。
メディアが醸成した不逞鮮人観は朝鮮独立運動家だけでなく一般の朝鮮人にも適用されるようになる。
朝鮮人は不平を抱き、反逆を企み、何をするかわからない。
このような偏見と蔑視が一般民衆に定着し、朝鮮人は町を歩いているだけで警戒された。
この裏返しとして、朝鮮人に対する不安や恐怖、日本人への恨み、復讐のイメージが形成される。
内務官僚で警視総監を歴任した赤池濃は、当時の日本人が朝鮮人を無性に恐怖していたと回想する。
ただしメディアの偏った報道は一要因であり、それだけが日本人の朝鮮人に対する偏見を生み出したわけではない。「鮮人と云へば直に不逞鮮人を連想し更に拳銃爆弾を行ふことを想像した」
朝鮮人労働者問題
不逞鮮人観を醸成したもう一つの要因が朝鮮人労働者の急増である。
内地における朝鮮人労働者は明治時代に九州の炭鉱労働者として現れる。
1900年代になると鉄道や道路の工事現場や紡績工場に姿を見られるようになった。
ただし日本で職を求めて渡航する朝鮮人は稀で、内地の朝鮮人のうち大半は留学生であった。
第一次世界大戦を迎え、その労働環境が激変した。
1917年、日本は空前の好景気を迎え、資本経済は急拡大して紡績・製糸・織物・石炭業を中心に労働力不足が顕著となった。
そこで韓国併合によって経済・交通の関係が密接になった朝鮮の労働者の需要が急速に高まった。
男性は鉱業坑夫として、女性は紡績女工として、多くの朝鮮人が団体で渡航して日本で働くようになった。
しかし言葉が通じない為に日本人労働者とのコミュニケーションが不全であった。
それに加え、日本人の朝鮮人蔑視が加わり、日本人労働者と朝鮮人労働者の間に衝突は絶えなかった。
その衝突による死傷者は1917年だけでも70名、1918年には100名を出している。
日本人と朝鮮人が共同労働することは不適当であるとの認識が広まっていた。
更なる問題は、第一次世界大戦後の戦後不況により労働力の需要が低下しても、内地在留の朝鮮人労働者は増え続けたことである。
これは日本の朝鮮統治政策の一つである土地調査事業によって朝鮮農村が荒廃し、離農者が急増していた事に要因がある。
土地調査事業は土地の所有権を明らかにすることで朝鮮財政の基礎を固めようとした政策である。
しかし文字を知らない農民が、土地を申告する書類を作成出来ずに、申告期限を過ぎて耕地を失う例が多発し、農民が開墾していた土地の多くが国有地として取り上げられた。
また地主が農村の共有地を自らの私有地であると申告する不正が横行した。
土地を失った朝鮮の農民の追い討ちとして、朝鮮の米が日本に輸出されるようになると、農民が米を食べれなくなり、生活はより一層不安定なものとなった。
生活が維持出来ずに離農した朝鮮人が目指したのは日本であった。
好景気の時に日本に渡った朝鮮人の成功例は広く伝わっており、朝鮮人たちは日本に行けば豊かになれると信じ込んでいた。
折しも22年には朝鮮総督府が朝鮮人旅行取締規則を廃した為、内地への朝鮮人労働者の無計画な渡航が急増する。
17年には内地在留の朝鮮人が1万人前後であったのに対し、23年には8万人に膨れ上がっていた。
不況により労働力の需要が低下する中で、朝鮮人労働者は人気であった。
それは彼らが低賃金・長時間・重労働の労働条件の下で働いたからだ。
日本人が嫌うような汚く危険な職場で、朝鮮人は日本人より2割以上少ない賃金で働いた。
不況に苦しむ企業は低廉で力が強く勤勉な朝鮮人労働者を積極的に採用した。
こうなると割りを食うのは日本人労働者である。
日本人の労働者たちは朝鮮人が自分たちの職を奪うと逆恨みし、より日本人と朝鮮人の対立は深刻化していった。
朝鮮人への無理解
このような朝鮮人への不信感から、内地に渡ってきた朝鮮人労働者が家を借りることは困難であり、木賃宿や工場近くの小屋で暮らすようになった。運良く家を借りれると、そこに多くの朝鮮人が寄宿し、数家族が同居するのが通常であった。
このように同じ社会にあって日本人と朝鮮人の居住空間は離れており、日常的に交わることも少なかった。
一般の日本人から見れば、朝鮮人は独自のコミュニティを形成し、言葉も通じず、得体の知れない集団であった。
日本人と朝鮮人労働者は交わる事もなく、不逞鮮人観は広まってゆくのであった。
この点は非常に重要である。
東京・横浜で広まった流言により朝鮮人虐殺が発生した際、近所の日本人と日常的に関係を持っていた朝鮮人が匿われて助かった例が僅かながらある。
これは当時の混乱期にあって日本人も殺害されていた事を考えれば、非常に勇気のいる行動である。
日頃から交流し、その人となりがわかっていれば、流言の荒唐無稽さに気づく。
彼らは名前を持った一人の人間であり、不逞鮮人ではないことは明らかである。
日本人が流言を信じ込んだのは朝鮮人への理解不足が根底にあるのだ。
警察の温情主義
このような日本人の朝鮮人に対する無理解、偏見、差別が横行する中で、治安維持の局にあった警察はどのような対応を取ったのだろうか。
明治初期、警察は旧薩摩藩出身の士族に独占され、威圧的で抑圧的な存在であった。
日比谷焼打事件にあっては国民大会を開催しようとした民衆と、それを阻止しようとする警察が衝突し、警察署や交番派出所の焼き討ちを招いた。
民衆側にも死傷者が出る混乱の中で戒厳が施行されるという大不祥事を招いた。
事件後、警視庁は激しい非難に晒され、弁護士やメディアを中心とする警視庁廃止運動が起こった。
これに対し第一次西園寺内閣の原内相は警視庁改革に乗り出し、士族系警察官僚を更迭して学士官僚を採用するという人事改革を行なった。
そして原は、従来の高圧的な警察のイメージを一新する為に、民衆に親切丁寧に接して安寧幸福を増進するよう警視庁員に訓示した。
こうして警察の民衆化が推し進められた。
1918年には警察官の「貴様」「お前」などの乱暴な言葉遣いを改めさせ、民衆のデモに対しても乱暴な言葉やサーベルで脅さずに穏やかな処置をとるように提唱した。
オイコラ警察として忌み嫌われていた警官のイメージ刷新である。
警察の民衆化を進めた学士官僚は朝鮮人に対しても温情主義を採用しようとした。
赤池警視総監は朝鮮人全てを不逞とみなす点を批判し、警察官と朝鮮人が双方理解し合う融和方針を打ち出している。
水野内相も待遇に不満を持った朝鮮人労働者が不逞行為に加わって騒擾に発展しないよう、啓蒙を重視している。
しかし、こうした考えは現場の警察官には浸透しなかった。
朝鮮人に対する尾行や監視は徹底され、乱暴に取り締まられた。
尾行によって出張手当が得られることから安月給の警官の格好の収入源となり、監視対象となる朝鮮人の奪い合いが警察署間で起きていたという背景もある。
更に朝鮮人の独立運動家がロシア過激派や社会主義者と連帯を開始した為、過激思想が朝鮮人労働者や、職にありつけずに無頼となった朝鮮人に伝播する恐れが高まった。
こうして不逞鮮人と善良朝鮮人の線引きは曖昧になりつつあると、朝鮮人に対する温情主義継続は困難となった。
日本人と朝鮮人の関係は、何かのきっかけがあれば深刻な治安の混乱が発生する恐れがあるほどまで悪化した。
そして警察も内務省も朝鮮総督府も、そのような治安維持上の深刻な問題に十分対応出来なかった。
極言すれば日本の朝鮮政策の失敗が、関東大震災における治安の崩壊を、朝鮮人虐殺事件を引き起こしたのである。
内田内閣の震災初動対策
8月23日、加藤友三郎首相が急死したのを受け、内田康哉外相が首相を兼任して総辞職した。
28日に山本権兵衛に組閣の大命が降下したが9月1日は折しも入閣交渉中で組閣には至っていない。
戦前の内閣の仕組みとして、後継内閣が組閣されるまでは前内閣が国政にあたる。
関東大震災発生初期に局にあったのは内田内閣であり、治安維持を担う内務大臣は水野錬太郎、警視総監は赤池濃であった。
火災や流言による混乱が広まる中、赤池は状況を視察し、以下のように考えた。
この認識の下、早急に治安維持政策を打つべきだと考えた。「刻下の急務中の急務は一に食糧の供給にあり、これを善くすれば無事なるべきも、もしこれを誤れば暴動を惹起すべし」
そこで9月2日、内田内閣は食糧の安定した供給による罹災救助を目的とする非常徴発令を緊急勅令として施行した。
なお緊急勅令は通常、枢密院に諮詢する必要がある。
だが、清浦奎吾枢密院議長を始め、多くの枢密顧問官と連絡が取れず、枢密院開催は出来なかった。
そこで、唯一連絡の取れた枢密顧問官で、内田の要請により閣議に出席した伊東巳代治は、このように助言した。
これを受け、非常徴発令が枢密院を経ずに直ちに発令された。「枢密院の方は、万一後日に至って文句が出たら自分が一切を引き受けるから、内閣の責任で直ぐ決めたらよかろう」
これは長い枢密院の歴史のなかで特例中の特例である。
初動を担った内田内閣は、震災対策を更に推し進める為に早急な新内閣の早期成立を要請した。
入閣交渉に手こずっていた山本権兵衛は摂政宮に対し、閣僚全員が揃うのを待たずして任命していただきたい旨を言上した。
摂政はこれを直ちに裁可し、閣僚が複数の国務大臣を兼任する山本内閣が急遽組閣され、2日夜には赤坂離宮の広場にある御茶屋内にて新任式が行われた。
こうして山本内閣に震災対策が引き継がれた。
戒厳と治安出兵
内田内閣が9月2日に発令した緊急勅令は非常徴発令だけではない。
日比谷焼き打ち以来となる戒厳も施行された。
この戒厳施行は後世非常にネガティブに解釈される。
それは後に説明するが、戒厳が流言飛語拡散の一因であったからだ。
戒厳を施行した理由についても、震災の混乱下で朝鮮人の暴動を恐れるあまりに戒厳で弾圧しようとしたのではないか。
戒厳というものが戦時を条件とする非常立法であったことから、施行の口実となった流言飛語を流したのは政府ではないのか。
などと、政府、もっと言えば水野内相と赤池警視総監への批判が繰り返される。
しかしそれは何故内田内閣は戒厳を施行したのかという事を説明出来ていない。
朝鮮人虐殺事件という凄惨な事実との整合性を取るための、政府の責任という結論ありきの解釈に近い。
戒厳施行の理由を考える上で、戒厳というものがどういう性格なのかを考えねばならない。
戒厳を説明する前に、非常警察を理解する必要がある。
憲法学者の美濃部達吉は非常警察を以下のように解説する。
非常警察を担う軍は憲法的には統帥大権に属しているが「非常の事変に際し、普通の警察隊の力を以っては治安を保つことが困難である場合は、特に軍隊の力を以って治安維持の任に当たる事がある。
これを非常警察と称する」
と説く。「社会公共の秩序を維持するが為にする命令強制の権力作用であり、この意義においては警察作用」
また、臣民の権利・義務については憲法第31条
に定められた非常大権の作用を受けると解釈される。「戦時または国家事変の場合において天皇大権の施行を妨ぐることなし」
つまり非常警察とは、社会の治安維持を担う警察だけでは対処できないと判断された時、軍隊が用いられ、治安維持に当たる事を指す。
戒厳は非常警察の一つである。
戒厳は憲法第14条
に基づいて実施される。「天皇は戒厳を宣告す」
戒厳の法規である戒厳令第1条は以下のように定める。
これは全国もしくは一地方における安寧や治安維持のために、当該地域の行政権・司法権を軍に委ね、市民の権利を制限し、市民を警戒する事である。「戦時もしくは事変に際し兵備を以って全国もしくは一地方を警戒する」
美濃部は戒厳の実施を「兵力専制政治の設定」であると述べている。
これは軍部独裁というネガティブな意味ではなく、治安維持・公共の利益保護の目的を持っている。
また、戒厳下であれば軍は何をやっても良いわけではない。
あくまで、治安維持の目的の為に市民の権利を一時的に制限する非常措置である。
戒厳と並ぶもう1つの非常警察が治安出兵である。
戒厳を布くほどではないが、警察では対応できない非常事態に際して、軍隊が治安維持のために警察目的で出動する。
なお、出動要請を受けた軍隊が正当な理由なくして応じなかった場合は、処罰対象となる。
治安出兵は非常大権の適用を受け、一般の法律の拘束を受けずに、治安を維持するために必要な限度内で国民の権利を制限できる。
ただし戒厳とは異なり、行政・司法事務は一切軍隊の管掌下には入らない。
治安出兵は地方長官(東京府の場合は警視総監)の請求によって行われる。
また、出兵権を持つ指揮官が事態が急を要し、行政の請求を待つ余裕もないと判断した場合にも行われる。
後者の自発的出兵は軍の専横を招かないように慎重な運用を求められ、出兵後直ちに陸相・参謀総長、他軍司令官に報告する義務があり、不必要な濫用は認められない。
行政の要請による治安出兵事例は米騒動や三・一運動など多いが、自発的出兵は極めて稀であった。
日比谷焼き討ちと行政戒厳
戒厳は一般的に二種類あると解釈される。
1つは戒厳の本来の目的である、戦時・事変に実施される真正戒厳である。
危険が差し迫った臨戦地域と、敵の攻撃を受けている(攻撃が確定している)合囲地域を戒厳し、軍事行動を円滑にする為に当該地域の治安を維持する目的で施行される。
真正戒厳は日清・日露戦争時に実施されている。
もう1つが、平時において警察力だけでは対処できないような事態が発生し、兵力によって警戒しなければ治安維持が保てないと行政が判断した場合に施行される行政戒厳である。
なお、戒厳令に行政戒厳の規定はなく、あくまで俗称である。
行政戒厳が初めて施行されたのは日比谷焼き討ちである。
ポーツマス講和条約に反対する群衆が日比谷公園で国民大会を開催しようとし、これを阻止しようとした警官隊と衝突した。
群衆は政府系の新聞社や警察署・派出所を襲撃し、路面電車が破壊され、内務大臣官邸前でも衝突が発生した。
東京市内はたちまち大規模な暴動に発展した。
これが日比谷焼き討ち事件である。
これに対し桂内閣は当初治安出兵で対処しようとした。
だが、山本権兵衛海相が暴動によって外国公使館が打ち壊された場合、国際問題に発展する恐れがあると憂慮し、戒厳によってこれを取り締まるべきだと主張した。
これに桂太郎首相や寺内正毅陸相も同意した。
ここで問題となったのは、日比谷焼き討ちは日清日露のような戦時・事変ではなく、戒厳の大前提を満たさない事である。
それまで秩父事件や加波山事件といった騒擾は治安出兵で対処出来ていたという問題もある。
それに、戒厳を東京で施行するとは、天皇が鎮座する帝都を臨戦地域と設定することである。
それは天皇に対して恐れ多いことであるし、民衆をさらに激昂させるものである。
このように戒厳を主張する政府の言い分は大分弱かった。
そこで一木喜徳郎法制局長官は、臨戦地域に関する規定を適用するとしつつ
と述べ、行政戒厳という新しい概念を持ち出した。「結果は同一なるも別に臨戦地域なる名を出さずして、実際上はこれと同一なることを行いたき」
戒厳令には平時の場合の規定がないが故のレトリックである。
そして、この行政戒厳を実現するために、緊急勅令の利用を思いついた。
緊急勅令を規定する憲法第8条は以下である。
緊急勅令は帝国議会が閉会中であることを条件に、枢密院への諮詢を経て裁可され、次回議会に提出する義務がある。「天皇は公共の安全を保持し、またはその災厄を避くる為緊急の必要により帝国議会閉会の場合において法律に代わるべき勅令を発す」
都築枢密院書記官長は、緊急勅令は戒厳宣告と同様に天皇が発せられるものであるとし、このように解釈した。
行政戒厳を緊急勅令によって実現するという政府の理屈に対し、枢密顧問官からは何ら反対意見は出ず、9月6日に枢密院は行政戒厳実施のための緊急勅令案を可決した。「戒厳令中規定するが如き事柄を戒厳宣告の形式に依らず今少し柔らかなる方法にて、別に大権を傷つけず、目的を達し得ることと思う」
直ちに上奏、裁可を経て勅令となり、東京府に戒厳令の戒厳令第9条と第14条の一部適用という形で戒厳が施行された。
戒厳令第9条は以下の通りである。
これは、戒厳司令官が当該地域の地方官・裁判官・検察官を指揮する形で地方行政・司法の一部を管掌する事を意味する。「臨戦地境内においては地方行政事務及び司法事務の軍事に関係ある事件を限り、その地の司令官に管掌の権を委するものとす」
と定義し、戒厳司令官に以下の執行権を与えた。「戒厳地域内においては司令官左に記列の諸件を執行するの権を有す但その執行により生ずる損害は要償する事を得ず」
・新聞・集会など時勢に妨害あると認めるものの停止
・軍需に供すべき民有の諸物品を調査しその輸出を禁止
・銃・刀剣・その他危険物の押収
・船舶の検査し陸海通路を停止
・やむを得ない場合の人民の不動産破壊
・人民の家屋・建造物・船舶への出入り制限
これらはつまるところ、法律に依る事なく戒厳司令官が国民の自由を制限することを意味する。
こうした措置は軍事的な目的ではなく行政上の目的で為されることから、行政戒厳と呼ばれるようになる。
なお、枢密院の審議の中で、黒田清綱枢密顧問官は戒厳を以下のように解釈し、警察力の増強によって鎮圧すべきと主張した。
他の顧問官も、治安出兵で対応できるのではないかとの意見した。「平時の時に行わるべきものにあらずして、敵軍の攻来りたる非常の時において始めて行わるべきもの」
日比谷焼き討ちの行政戒厳実施はその必要性が疑われる、非常に政治的なものであった。
緊急勅令をイレギュラーな形で用いていることから分かる通り、平時の非常事態を想定していない戒厳令の不備から生まれた解釈である。
憲法に抵触するギリギリの範囲内であった事から、度々違憲論が呈されることになる。
行政戒厳施行
9月1日、震災発生直後、石光真臣第一師団長は、東京の警備と市民救護のために自発的治安出兵に踏み切り、近衛師団と第一師団の在郷部隊を出動させた。
宮城や諸官庁、大使館、刑務所を警備区域として兵力を配備し、火災の深刻な地域に救援隊を派遣した。
また、在京部隊だけでは対処しきれないと考え、東京以外に駐屯している部隊を速やかに召集した。
時を同じくして、市内の混乱を目の当たりにした赤池警視総監も、騒擾が起きた場合に警察や消防だけでは対処できないと認識し、近衛師団に治安出兵を要請している。
赤池は治安出兵を要請する一方で、東京を火の海にした震災について「人心恟々たるものがある」と認識し、このように考えた。
もはや通常の警備では人心を鎮静化して治安を維持するのは困難であり、水野内相に行政戒厳施行を進言した。「余は帝都を挙げて一大混乱裡に陥らん事を恐れ、この際は警察のみならず国家の全力を挙て治安を維持し応急の処理を為さざるべからず」
水野も騒乱に関係ない一般人への強制権を持つ戒厳の必要性を認めている。
ここで重要なのは、水野・赤池は朝鮮人の暴動に対応する為に戒厳を施行しようとしたのではない点である。
そもそも朝鮮人の暴動対策が理由であれば、騒擾の原因に対して命令強制を行う権限を軍に与える治安出兵で事足りる。
では行政戒厳を必要とする状況とは何であろうか。
水野は寺内内閣の内務大臣を歴任し、全国的な騒擾に発展した米騒動発生時の治安維持を担っていた。
この際、寺内内閣閣僚からは戒厳を施行すべきとの声もあったが、水野はそれを退けている。
その理由は、水野が戒厳というものを
と考えていたからだ。「国内の擾乱危殆に瀕し内乱状態に陥りたるの如き非常の場合において施行すべきものなり」
つまり、米騒動は戒厳を必要とするような国家非常事態ではなく、一時的な騒擾に留まると観測していた。
米騒動の中にあって東京市内は平静を保っており、警察も通常通り機能し、万が一警察では対処出来なくても治安出兵で事足りる状況であった。
このような場合に戒厳を宣告すれば、国民を下手に刺激する恐れがあるというのが水野の考えであった。
一方、今回の震災では警視庁が焼失するなど警察機能が大打撃を受けた。
治安出兵というのは軍隊を警察の補助機関として用いる事である。
肝心の警察が機能を喪失した以上は、軍隊を前面に出して、一刻も早い秩序の回復、社会不安の解消するしかない。
水野・赤池ら内務官僚は、戒厳適用の前提として、既存の警察力では対処しきれない、大規模な火災や食糧不足に伴う混乱を想定していたと言えよう。
なお地震当初、建物が倒壊する様を見た田中義一や福田雅太郎ら陸軍官僚も、火災の発生による混乱を予期し、戒厳の必要性を視野に入れていた。
こうして水野は1日の臨時閣議に戒厳施行を諮った。
しかし行政戒厳施行に必要な枢密院が震災の混乱下で開催出来る目処が立たず、閣議の承諾を得れなかった。
同日夜、不逞鮮人が暴動を起こしたという流言飛語が発生する。
翌2日の臨時閣議において大木遠吉鉄相が多摩川あたりの民衆が、朝鮮人が攻めてくるなどと騒いでいると報告した。
水野内相は赤池警視総監と状況を確認しあい「場合が場合故種々考えてもみたが、結局戒厳令を施行する外はあるまい」と行政戒厳施行を決断した。
火災・混乱に加え、流言飛語の発生という最悪の状態を迎え、軍隊の力による戒厳を施行するより外ないと考えたのだ。
問題の枢密院であるが、臨時閣議に出席した伊東枢密顧問官は「皆が必要と認める時には、事既に遅しである」と述べて、内閣の責任で摂政宮に直接裁可を仰ぐよう後押ししている。
伊東も、流言飛語によって民心が乱れている状況下では、行政戒厳は必要であると認識している。
こうして午後3時、行政戒厳が布かれた。
枢密院の諮詢を経ずに行政戒厳を施行することは厳密に言えば憲法違反である。
これに対し、憲法学者の美濃部はそれがたとえ違法であったとしても
と、枢密院の諮詢欠如は問題ではないと解釈した。「それはただ当時の内閣の責任を生ずるというだけで、緊急勅令の効力に影響する所ではない。
枢密院に諮詢せられねばならぬことは、ただ手続きについての定めであって、緊急勅令の効力発生の要件ではない」
更に、明確に政府の決断を支持する立場を表した。
一方、違憲論を採ったのは憲法学者の上杉慎吉である。「国法は事実上の不能を要求するものに非ずという原則に依って、もし法令の要求しておるところが事実上不可能である場合には、事情の許す限り、その要求に近い条件を満たすことによって、その要求を満たしたものと見なすべきものである」
戒厳令に関する緊急勅令が枢密院の諮詢を経なかった点について上杉は、美濃部とは真っ向対立する解釈を披露している。
また、戒厳というものは司法・行政権を軍事部門に移し、憲法を一時停止することである。「混雑急遽の際というを以って、これを弁解することを許さぬ。如何なる場合といえども、法制は守るべし」
本来であれば憲法第14条による天皇の戒厳宣告が必要であるのに、緊急勅令でこれを行い、憲法を蹂躙したと内閣と枢密院を批判した。
このように上杉は法の運用を重視し、内閣の法律軽視を批判している。
関東大震災における行政戒厳はこのような憲法上の疑義が挟まれつつも、施行された。
関東戒厳司令部
戒厳区域は2日に東京市及び隣接5郡、3日には東京府・神奈川県全域、4日には埼玉県・千葉県に拡張された。この間、流言や火災により東京一円の混乱は極まっていた。
陸相と参謀総長が協議した結果、管区外の仙台、宇都宮、金沢、弘前の師団が東京に招集されるという、前例のない事態となった。
政府は行政戒厳に関する勅令として、関東戒厳司令部条例の裁可を得た。
ここに戒厳地域の警備や救護(本来は戒厳軍の業務ではない)といった業務を担う関東戒厳司令部が設置された。
その条例第1条は、このように定める。
ここに軍事参議官であった福田雅太郎大将が関東戒厳司令官に就任した。「関東戒厳司令官は陸軍大将またが中将を以ってこれに親補し、天皇に直隷し東京府及びその付近における鎮戌警備に任ず」
なお、軍事参議官は戦時特命の司令官である。
故にその参議官が戒厳司令官に任用されたことにより戒厳軍の戦時気分が高揚し、軍隊による朝鮮人虐殺が発生した、と解釈される事もある。
しかし軍事参議官は閑職と見なされており、殆ど名誉職のようであった。
そのような閑職が司令官に就任したからといって、はたして兵士の戦時気分が高揚したかどうかは定かではない。
関東には6個師団相当の兵力が集まり、西は三島、北は埼玉北部、東は銚子、南は安房館山まで警備した。
戒厳軍は被災者の救護や交通通信の回復にも努め、航空隊が東京と地方の連絡飛行を行うことで通信を復活させている。
また、鉄道や道路、橋梁、電信の回復にも戒厳軍は貢献している。
警察の混乱
赤池は流言飛語について、このように認識した。水野も朝鮮人暴動の噂を、そのような馬鹿な事あるかと断じている。「一部不逞鮮人は必ず不穏計画や暴挙を行うだろうが、大部分の鮮人が団結連絡して組織ある暴動をなすが如きは断じてない」
内地にいる朝鮮人の人口から判断しても組織的な暴動は起こり得ないとの判断である。
治安当局上層部は比較的冷静であったのに対し、現場の警官は流言飛語を受けて混乱に巻き込まれた。
1日夕刻に発生した流言飛語は警視庁にも伝わり、その真偽を調査するうちに流言を信じ込んでしまった。
警視庁官房主事を務めていた正力松太郎は、朝鮮人暴動の事実が確認出来なかったが、川崎方面から朝鮮人が来襲しつつあるとの情報を受けて警視庁が警戒線を張ったのを見て、流言は事実であると思い込んだと回想している。
こうした状況下で2日午後5時、警視庁は管内各署に対して不逞者取締に関する件を発して、不逞者に対する厳重な取り締まりと警戒を命じた。
これを受けて、警官が避難民や自警団に対し、朝鮮人が放火を繰り返しているので気をつけるよう注意したり、自動車やオートバイで不逞鮮人に警戒せよとの宣伝ビラをばら撒いた。
報知新聞は官憲が以下のように触れ回っていたと報道した。
東京日日新聞も三田警察署長の発言を紹介している。「某々方面より襲来の虞あり。
男子は武装せよ。
女子は避難せよ。
鮮人と見れば倒しても差し支えない。
主義者と判らば殴っても宜い。
彼らは凶器を携えて到るところに殺人強盗陵辱放火投毒などらあらゆる悪事を働いている」
横浜においては、警察署が自警団に武器を与えていたという話もある。「鮮人と見たらば、本署に連れてこい。
抵抗したならば殺しても差し支えない」
ラジオはなく新聞も機能不全となった中、唯一信頼できる情報源は警察の宣伝であった。
その警察が朝鮮人を殺しても差し支えないと述べたので、警察が朝鮮人殺害を公認したと思い込んだ人もいたようだ。
このように警察は公然と流言を拡散し、その内容に信憑性をもたらした。
ぼんやりとしたイメージに過ぎなかった不逞鮮人の出現は官憲の認めるところとなった。
吉野作造は流言飛語拡大における警察の役割を、このように述べた。
2日午後には内務官僚も朝鮮人暴動が起こったと認めた。「責任ある官憲が、この流言を伝播しかつこれを信ぜしむるに与って力があったことは疑いないようだ」
3日、後藤文夫警保局長名義の以下の電報が発せられる。
これを船橋の海軍無線送信所から呉鎮守府経由で各地方長官に発信し、不逞鮮人の行動に対して厳密に取締るよう命じた。「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。
既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地において充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締を加えられたし」
こうして地方に流言が一気に拡散された。
自警団の結成 – 朝鮮人虐殺事件の発生
1日夕方、火事場泥棒や更なる震災への備えの為に各町内で町会・青年団・在郷軍人会を中心に自警団が結成された。
警察も当初は地域住民の自警活動を促し、警察力を補強して治安維持に当たらせようとした。
しかし、流言が広まる中でパニックになった自警団は、破壊消防用の鳶口、日本刀、猟銃、金棒、仕込み杖、匕首、果ては工事現場で使われていたダイナマイトまで持ちよって武装した。
そして、朝鮮人と見るや拘束し、暴力を振るい、残酷な方法で虐殺した。
自警団は各地に関所を設け、朝鮮人を見つける為に通りがかる人たちを査問した。
朝鮮人は濁音を発音しづらいことから、15円50銭と言わせてみたり、座布団や学校と発音させた。
少しでも上手く言えなければ朝鮮人と見なされて殺された。
このような雑な方法を用いた為に、訛りのある地方出身者や中国人、知的障害者が朝鮮人と誤認されて殺害される例もある。
後に演出家・俳優として有名になる千田是也は、千駄ヶ谷で自警団に取り囲まれて、朝鮮人に間違われて殺されかけた。
学生証を見せても信用してもらえず、アイウエオの発音や教育勅語の暗唱、歴代天皇の名前を言わされて、ようやく解放された。
この体験から、千駄ヶ谷のコリア、千田是也という芸名となったという。
民俗学者の折口信夫は自警団に取り囲まれた囲まれた体験を語り、このような感想を残している。
戒厳下で動員された陸軍第一師団も、震災時の治安維持について、以下のように回想している。「平らかな生を楽しむ国びとだと思っていたが、一旦事があると、あんなに荒みきってしまう」
彼ら市民を暴力に駆り立てたのは群集心理が働いたと解される。「今次の震災に当たりては、我国民の狭量にして、団体的訓練の欠如せるを遺憾無く暴露し、根柢なき流言飛語に迷いて、周章狼狽殆ど狂人の如く、ことに軍隊教育を受けたる在郷軍人らにして、尚且如上の行為あるものに至りては、実に遺憾」
災害によって避難所に集まった被災者たちは、家族や住居の喪失という体験を共有し、不安定な状態となって群集となり、群集心理を生み出す。
政治学者の清水幾太郎は群集心理の暴力性について、以下のように説いている。
ソルニットも群集心理の危険性を指摘する。「無気力な、暗い、しかしどこか甘いところのある気分が私たちを浸しています。
我を張った個人というものの輪郭は失われて、すべての人間が巨大な一匹の獣になってしまったようです」
関東大震災の場合、スケープゴートとは朝鮮人を指す。「群集は必ずしも無害な現象ではない。
災害の起きている瞬間には利他主義が優勢だが、それに続くのは特にスケープゴート探しだ」
埼玉県における朝鮮人虐殺 – 本庄・熊谷事件
埼玉県は東京、神奈川に比べて地震の被害は少なかったが、震災の影響は大きかった。東北・関西に避難する東京の罹災者が中山道や、被害が軽微であった国鉄高崎線・東北線を利用した為、埼玉県には大量の避難民が殺到したからだ。
その避難民が口々に朝鮮人暴動の流言を口にするので、騒然としていた。
その流言を裏付けるかのように、9月2日、埼玉県の治安に責任を持つ内務部長は各町村に対して、在郷軍人・消防団・青年団が一致団結して朝鮮人に対して警戒に当たるよう。自警団結成を促した。
その上で、以下の移牒を発する。
これは有事の際には自警団が独自の判断で対処しても良いという内容である。「一朝有事の場合には、速やかに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成たし」
埼玉県は流言を真実とし、東京で暴行を働いた不逞鮮人が埼玉県に襲来する恐れがあるなどと民衆の不安を煽った。
そして不逞朝鮮人取り締まりを目的とする自警行為を奨励したのだ。
埼玉県警は東京から避難してきた朝鮮人や県内(川口には多くの朝鮮人労働者がいた)で拘束した朝鮮人を安全確保の名目で、県北・県外に移送しようとした。
これは厄介払いの意味合いが強い。
警察は地区ごとの自警団に朝鮮人を護衛させる方針を立て、中山道の宿場町である蕨から北へ北へと徒歩で送っていった。
自警団の中には捕物やつるはし、槍などで朝鮮人を小突きまわす者も多く、また群衆が朝鮮人を渡せと押しかけ、それを自警団が制する場面もあった。
残暑厳しい中、強行軍で歩かされ、恐怖と疲労で極度の緊張状態にあった朝鮮人の中には逃亡を図る者もあったが、逃げきれずに殺害される例も多数あった。
それでも県南では比較的順調に移送は行われていた。
事件が起きたのは9月4日、県北の熊谷町に差し掛かってからである。
県北は震災の被害は殆どなかったが、流言飛語が深刻な治安悪化を招いていた。
高崎線で避難してきた人々は沿線に設けられた接待所の窓口で、まるで自分が体験したかのように大げさに朝鮮人の暴動を口にした。
そこから広まった流言飛語は、かなりの真実味を帯びていた。
高崎線沿線の熊谷においても流言は再生産されて拡大していた。
更に県北には身内が東京にあって安否の確認が取れない人が多く、不逞鮮人への復讐心に燃え、県南以上に殺気立っていた。
移送されてきた朝鮮人が熊谷の中心部に差し掛かった時、地区を担当していた自警団が暴徒化し、町に入れまいと襲いかかった。
それをキッカケに、熊谷の街では興奮した暴徒による朝鮮人狩りが発生して無法地帯と化した。
逃げようとして捕まった人だけでなく、抵抗しなかった朝鮮人も無惨に殺害された。
殺された朝鮮人は検死も身元調査もされずに野焼きされた。
彼らの名前も出身地も年齢も性別すらもわからない。
その存在を地上から消された朝鮮人は数十名に及ぶとされる。
県北にある本庄町においても民衆が暴徒化した。
本庄では警察が朝鮮人を保護していたが、これを見た自警団は、警察が不逞鮮人の暴動に加担していると激昂し、警察署を襲撃した。
暴徒たちは警官をニセ巡査呼ばわりして面罵し、武器で脅迫し、暴虐の限りを尽くした。
自警団の暴力は朝鮮人だけでなく警察権力にも向けられた。
なお、本庄において警察が襲われた理由について、本庄警察と地域住民との関係が悪化していた事が挙げられる。
本庄は宿場町として栄えていたが、本庄の警察署長は女郎屋の芸者取り締まりに熱心であった。
また、青年たちが楽しみにしている夏祭りの神輿担ぎを規制し、警官を立たせて監視して違反があれば摘発したので、町民は警察に反感を抱いていた。
騒動に乗じて署長を殺害しようとすらしていた。
一方で、県北の深谷町では、流言飛語に踊らされずに秩序を保ち、朝鮮人を手厚く保護し、騒ぎが収まるまで待って習志野収容所に護送している。
深谷の警察は地域住民と信頼関係を築いており、警察署長が町長や在郷軍人会、消防団、青年団との連絡を密にした為に、目立った混乱は起きなかった。
後に戒厳司令官は、混乱の中にあって秩序を維持したとして、深谷町長や署長を表彰している。
千葉県における朝鮮人虐殺 – 福田村事件
千葉県も埼玉県同様震災の被害は少なかったが、治安は非常に乱れていた。それは通信網が破壊された為に中央政府や戒厳司令部との連絡が困難となり、人心が一向に安定しなかった為である。
その上に東京からの避難民が殺到して流言飛語が広まった。
その結果、船橋市において北総鉄道(現東武野田線)の敷設工事に従事していた朝鮮人労働者が自警団に殺される事件が発生する。
また、朝鮮人を保護する目的で開設された習志野収容所内でも軍隊の暴力が横行した。
所内で争いが起きると見せしめに朝鮮人が殺されたり、不逞鮮人のレッテルを貼られて殺される例もあった。
兵士の一部が朝鮮人を自警団に引き渡して殺害させていたという話もある。
船橋の海軍無線所では、所長が流言飛語を真実と見なし、船橋送信所が襲撃される恐れがあるので至急救援を頼むという電信を独断で発信する不祥事を起こしている。
そんな中で9月6日、東葛飾郡に福田村において、日本人が朝鮮人と誤認されて殺される事件が発生した。
香川県からやってきた行商人の家族が、茨城県に向かう途中に福田村に立ち寄り、神社境内で休憩していた。
その様子を見た自警団は、朝鮮人の疑いありとして尋問を行った。
ところが彼らの四国弁を不可解と見た自警団は、朝鮮人と誤認した。
たちまち数百名の村民が武器を持って神社前に殺到し、行商人一向を荒縄で縛り上げて利根川に沈めた。
15名のうち9名が命を落としたが、その中には子供や妊婦もいたという。
日本人が被害にあった凄惨な事件であったが、行商人の出身地が被差別部落であったことから報道は少なかった。
加害者たちは懲役15年の収監という重刑を受けたが、昭和天皇即位時の恩赦によって全員出獄している。
戦後、千葉県における朝鮮人虐殺事件の調査が行われて福田村事件の全容が判明するまで、事件は闇に葬られることになる。
流言飛語の打ち消し
当初こそ朝鮮人の暴動を信じた警察であったが、流言の実態を調査するうちに、それが誤りであったと知ることになる。朝鮮人による放火、強盗、強姦、井戸への毒投下のいずれもが風説であった。
朝鮮人が爆弾を持っていると通報を受けて調査したら爆弾らしかったのはパイナップルの缶詰であった。
井戸に投げ込む毒を所持しているとの通報を受けて調査したら毒らしかったのは唐辛子の瓶であった。
そのような見間違いばかりであった。
2日夜には、警視庁は流言飛語のいうところの不逞鮮人の組織的暴動は事実ではないという結論に落ち着いている。
一方で流言飛語による人心の動揺、朝鮮人虐殺による治安悪化は深刻なレベルとなっていた。
赤池警視総監は各警察署長に対し、流言飛語の防止を指示する。
具体的には、流言を触れ回る者の取り締まり、朝鮮人の収容保護の推進、自警団の凶器携帯禁止、自警団の暴挙に取り締まりである。
3日午前2時には流言飛語を打ち消し、朝鮮人に乱暴しないよう注意する旨のビラが市内各地に貼られた。
このような状況を受け、閣議に水野前内相が出席し、流言飛語の報告と善後策を協議している。「鮮人の大部分は順良にして何ら凶行を演ずる者無」
まず行ったのは報道規制である。
流言飛語の片棒を担いだのは地方新聞であった。
新聞は東京・横浜から流れてくる流言飛語をよく調べもせずにそのまま報道した。
列挙してゆくと以下の通りである。
・品川が津波で全滅した
・宮城に延焼した
・連隊が朝鮮人と交戦した
・富士山が爆発した
・政友会の高橋是清総裁が地震に巻き込まれて亡くなった
・小笠原諸島が海に沈んだ
・地震は秩父連山の噴火が原因である
・軽井沢から関東平野が燃えているのが見えた
・摂政宮が飛行機で何処かに避難した
・皇宮を一時的に京都に避難させることが決定した
・皇族が軍艦で北海道に避難した
・東京駅が全焼した
・津波が上野まで到達した
また、関東大震災のニュースをロンドンで聞いた原田熊雄は、碓氷峠まで水に浸かったという誤報に接している。
このような報道が東京に逆流して、流言が過熱する有様であった。
内務省は「人心の不安を増大さるる如き風説は努めて避けられたい」との通帳を発していたが、一向に流言の拡大は収まる気配はなかった。
そこで9月3日に、各新聞社に以下文章を発した。
そして、朝鮮人に関する記事差し止めと、今後そのような記事が出たら発売を禁止することもある、と警告した。「朝鮮人の妄動に関する風説は虚伝にわたる事極めて多く、非常に災害により人心昂奮の際、かくのごとし虚説の伝播は社会不安を増大する」
これにより、報道による流言飛語の拡大に歯止めをかける事が出来た。
流言の取り締まり – 治安維持令
人心荒廃による治安悪化を憂慮していたのは内務省だけでなく司法省も同様であった。
9月2日、田健治郎法相(農商務大臣兼任)は朝鮮人虐殺問題に関する治安維持政策、治安維持令を起草させた。
そして直ちに枢密院に諮詢し、緊急勅令として発令した。
治安維持令は取り締まり対象として、以下を挙げている。
・暴行、騒擾その他生命身体もしくは財産に危害を及ぼすべき犯罪の扇動
・安寧秩序を紊乱するの目的を以て治安を害する事項の流布
・人心を惑乱するの目的を以た流言浮説
このうち、犯罪の扇動と流言浮説は朝鮮人虐殺対策である。
一方、安寧秩序の紊乱とは社会主義者対策である。
思想悪化を憂慮する司法官僚は、この際に社会主義者を取り締まってしまおうと画策した。
しかし枢密院の審議において枢密顧問官の倉富勇三郎は、勅令を拡大適用しようとする司法省の姿勢に釘を刺した。
更に安寧秩序を紊乱する目的とは人心を惑乱する目的を含んでいるのかと質問し、条文の不備を指摘して、司法官の裁量を狭めようとした。
審議の結果、枢密院は治安維持令による広範囲な取り締まりを控え、適用するのは暴行罪と騒擾罪に限定するよう指示した。
また安寧秩序を紊乱する目的を持たない学説や言論は取り締まらないこと、流言浮説についても悪意を持って流布する場合に限定するよう指示した。
このように治安維持令が一般市民に拡大適用されないよう限定的な実施を求めた。
その結果、この年に治安維持令で起訴されたのは20件に留まっている。
ただし流言飛語を取り締まる緊急勅令は、その防止の上で絶大な威力を発揮した。
治安回復
流言飛語対策を打った政府は、次に自警団対策を行う。
警察は流言飛語の打ち消しの宣伝を行なったが、一度信じ込まれた流言を沈静化することは容易ではなかった。
自警団は警官の制止を聞かずに朝鮮人を殺したり、朝鮮人保護にあたっていた警官に暴行を働いた。
朝鮮人が警察官に変装しているという流言飛語が広まるや、警察官に武器を突きつけて尋問する始末であった。
もはや事態は警察だけで対処しきれないまでに拡大していた。
そこで9月3日、被災者救護事務を担う臨時震災救護事務局警備部において、警察と陸海軍が治安維持で協力方針の下で会議を開催し、東京方面における警備事項をまとめた。
まず朝鮮人保護政策である。
それまで朝鮮人の保護は、各警察署が署長の裁量で行なっていた。
しかし亀戸警察署が自警団に襲撃されるに至り、警察署の保護では不十分であると判断し、安全を確保できる箇所にまとめて避難させる方針を立てた。
その場所であるが、石光第一師団長が提案した千葉県習志野演習場収容が採用され、習志野収容所には3000人の朝鮮人中国人が護送された。
他にも目黒競馬場や朝鮮総督府が朝鮮人収容所となり、5000人あまりが収容された。
次に自警団取り締まりである。
警視庁は3日、各警察署長に対し、自警団が行なっている警備活動は、今後は警察官と軍隊が行う。
よって、自警団にある在郷軍人会や青年団は救護活動に専念させ、警察官・軍隊以外が銃や刀剣を携帯することを禁止する旨を通告した。
また、自警団の活動は警視庁の許可を得る必要があるとした。
戒厳司令部もこのようなビラをばら撒いて、注意を喚起している。
「有りもしない事を言い触すと処罰されます」
自警団の統制は戒厳軍の協力を得ながらも困難な作業であった。「朝鮮人に対しその性質の善悪に拘らず無法の待遇を為すことは絶対に慎め等しく我同胞なることを忘れるな」
自警団の有力者を招いて方針の趣旨徹底を行なったが、各地の自警団員は警察の注意を聞かず、武器を没収しようとする警察に反抗した。
そこで9月7日、警視庁は戒厳軍と協力して警戒部隊を編成し、強制力を以って自警団を取り締まるようにした。
これに流言飛語を取り締まる治安維持令も公布された事も重なり、自警団統制に大きな威力を発揮した。
警察は朝鮮人保護や自警団統制に成功し、朝鮮人虐殺が発生していた神奈川・埼玉・千葉においても、11日頃には混乱が収まることとなる。
収容された朝鮮人への慰問が行われる程度には人心も回復した。
戒厳軍も軍への悪感情再燃による民心の動揺がないように慎重に戒厳の規模を縮小させていった。
9月11日には交通、補給、医療、通信などの救済事務を臨時救済救護事務局に移した。
10月には千葉・埼玉県が戒厳区域から外され、11月15日には行政戒厳が廃止された。
戒厳への評価
警察機能が壊滅した中で、行政戒厳が治安回復に寄与した面は大きい。
しかしだからと言って行政戒厳を手放しで評価は出来ない。
関東大震災における行政戒厳を評価する上では、以下の留意が必要である。
まず、軍の犯罪行為である。
流言飛語は部隊の兵営にも広がり、軍隊に混乱が見られた。
流言は東京に家族のある兵隊や、避難してきた近隣住民、被災地より帰還した部隊により持ち込まれる。
曰く、伊豆大島が水没した、江ノ島が真っ二つに裂けた、湘南海岸は津波によって消滅した。
そのような半信半疑の情報の真偽を確認しようがない将兵は、こぞって流言に群がった。
そして不逞鮮人暴動の流言が伝わるや、兵営は不逞鮮人が入り込まないように門を閉じ、避難民を外に追い出し、警備を強化した。
また、朝鮮人来襲の情報を得て軍隊が出動する事もあった。
そこに戒厳の施行が伝わり、いよいよ朝鮮人暴動の流言は真実味を帯びた。
現場に展開した軍隊は、保護の名目で朝鮮人を拘束し、殺害に及ぶ場合もあった。
その事実は、震災警備の為に兵器を使用した事件の報告書の中に見られる。
陸軍の兵器使用は衛戌勤務令の中に規定され、暴行を受けた際の正当防衛、暴徒の鎮圧手段と使用条件を限定している。
よって報告書の中にある朝鮮人に対する武器使用は抵抗を受けた場合に限定されてはいる。
不測の事態に備え、強硬な姿勢で治安維持に臨むのは治安維持当局としては当然の態度ではある。
しかし、被災地にあった事実は、家を焼き出されて罹災者となった朝鮮人と、それを追い回して虐殺する自警団であった。
救護活動に携わった部隊の中には、流言に惑わされずに朝鮮人を保護した例もある。
それを踏まえれば、流言に沿った朝鮮人虐殺を正当な職務執行という名目で糊塗している面が強いとも言えよう。
軍の暴力は朝鮮人だけなく社会主義者にも向けられた。
むしろ軍は朝鮮人以上に社会主義者を危険視していた。
9月4日、近衛騎兵の兵士たちによって、南葛労働組合の河合義虎と平沢計七らが亀戸警察署で殺された。
所謂亀戸事件である。
更に9月16日には憲兵の甘粕正彦大尉が無政府主義者の大物として有名な大杉栄を殺害した。
甘粕は大杉だけでなく、その場に居合わせた 無政府主義者の伊藤野枝や、大杉の甥っ子である橘宗一を残忍に殺害した。
この内、橘宗一は僅か7歳であった事から、事件はセンセーショナルに取り上げられる。
東京日日新聞は、大杉殺害は情状酌量の余地があるかもしれない。
だが、子供を殺害したことは残忍冷酷、鬼畜の所業であるとし、激烈な文言で徹底的に非難した。
大杉殺害は山本首相まで報告が行き、引責によって福田戒厳司令官と憲兵司令官が更迭されている。「軍人の敵、人道の賊」
甘粕は軍法会議にかけられ、懲役10年の判決を受けている。
なお、真犯人は歩兵第三連隊の将校で、この連隊には秩父宮があった事から、甘粕が罪を被ったのではないかと噂もされたが、真相は闇の中である
次に戒厳が朝鮮人虐殺を正当化させたという一面もある。
説明してきた通り、行政戒厳は平時の混乱下に治安維持の目的で施行される。
しかしその前例は日比谷焼き討ちまで遡り、軍将校に対する行政戒厳の教育は不十分であった。
当然事前準備などもなく、戒厳軍と警察他行政機関との連携も円滑とは言えない状況であった。
当時(そして現在)も戒厳のイメージというのは戦時である。
戒厳軍の中には、平時である震災警備を戦時が如き高揚した気分で臨み、朝鮮人への暴動対策を前提として動いた部隊もある。
当時の内地の軍隊が武装して出動する事は極めて稀な事であり、まさに戦場に赴くが如き面持ちであったという。
政府・軍首脳部は行政戒厳を治安維持を目的としたものだと認識していたのは間違いない。
しかし、通信連絡が震災によって壊滅し、司令部と舞台の意思疎通が困難になった中、事情を把握出来ない末端の官憲は、戒厳の性格を理解する術もなかった。
戒厳に携わる軍が行政戒厳を理解せず、戦時のように興奮するのであるから、メディア・一般人は尚更であった。
東京日日新聞の3日の見出しがそれを物語っている。
朝鮮人の検挙も戒厳を根拠に行なっていると誤解して報道している。「不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く」
行政戒厳というものがどういうものか理解せず、新聞は不用意に朝鮮人暴動と結びつけた。
一般民衆も、戒厳によって朝鮮人殺害は正当であると勘違いした。
戒厳下で朝鮮人を殺せば金鵄勲章を貰えるとの思い込みすら生まれた。
金鵄勲章とは軍功優れた兵士に与えられる勲章である。
つまり戒厳下とは民衆にとって戦時なのである。
行政戒厳は治安回復の為に行われたが、その趣旨は徹底されず、朝鮮人暴動の鎮圧を目標としたと広く受け入れられ、混乱を拡大させた。
関東戒厳司令部は9月8日に戒厳令について、以下の記事を発表した。
ここまで噛み砕かねば、当時の人々は行政戒厳というものがどういうものなのか理解できなかった。「戒厳令というのは災害に基づく安寧秩序を保つ為、地方の行政司法事務中安寧秩序維持に関係ある事件を限り戒厳司令官に指揮権を委任せられ、一定の土地兵力を以って警戒せしむると共に、市民の惨害を軍隊の実力を以って救護救恤せしめらるる緊急勅令である」
以上まとめれば、行政戒厳は人心を安定させる効果があった。
だがそれは、朝鮮人虐殺を誘発させる諸刃の剣でもあったと言えよう。
これは、一般人は戒厳に戦時という漠然としたイメージしかなったからだ。
平時の戒厳という、一見すると矛盾する行政戒厳への理解が不足していた。
この戒厳に対する好対照の評価を挙げよう。
亀戸事件を究明した山崎今朝弥は
と述べた上、以下のように批判した。「戒厳令と聞けば人は皆ホントの戒厳と思う。
ホントの戒厳令は当然戦時を想像する。
無秩序を連想する。
切り捨て御免を観念する。
当時一人でも、戒厳令中人命の保障があるなどと信じた者があったろうか。
何人といえども戒厳中は、何事もやむを得ないと諦めたではないか」
戒厳が混乱を招いたという点においては的を得た評価である。「実に当時の戒厳令は、真に火に油を注いだものであった。
何時までも戦々恐々たる民心を不安にし、市民をことごとく敵前勤務の心理状態に置いたのは確かに軍隊唯一の功績であった」
一方、美濃部達吉は
と述べ、軍による社会主義者殺害や朝鮮人虐殺事件を”除いた”上で、以下のように評した。「一般人心の鎮静に最も偉大な効果を収め、歴史上未曾有な大変災に際して、人心恟々、所に依ってはほとんど無警察無秩序の状態にも陥ろうとする恐れのあった場合に、何よりも大きな安心を与うることの出来たのは、言うまでもなく戒厳令の施行であった」
行政戒厳が治安回復に貢献したという点においては的を得た評価である。「戒厳の施行により能く治安維持、民心鎮静の目的を達し得たことは何人も認むる所で、今回の如きは戒厳令の最も有効に適用せられた実例となすべきであろう」
それにしても、朝鮮人虐殺を踏まえた上で戒厳を高く評価している点は、いささか驚かされる。
責任の所在
震災の混乱が収まると、警察は朝鮮人虐殺を働いた自警団の摘発が始めた。新聞も自警団を殺人、暴行、悪と書き立て、朝鮮人虐殺だけでなく誤認殺人や愉快犯的な放火、強盗なども報道された。
この動きに対し、東京市内の自警団を傘下にした関東自警同盟は名誉回復のために立ち上がった。
同盟は流言を広めて民衆を扇動したのも、自警団の暴力を容認したのも、むしろ先頭に立って朝鮮人への暴力に加担したのも、いずれも警察当局である。
その罪の全てを自警団に押し付けようとしており、真っ先に警察当局の責任を追及すべきだと主張した。
警察に騙された者の罪は免除されるべきであり、むしろ郷土の治安維持に功績のあった自警団は表彰されるべきだと、運動を展開した。
自警団の裁判となれば同郷の人々が裁判所に押しかけ、差し入れや弁護など、あらゆる援助が行われた。
確かに官憲の責任は重大である。
朝鮮人の流言を事実と認識し、朝鮮人の暴動を厳重に取り締まる方針を打ち出したのは警察である。
ポスターなどの宣伝で不逞鮮人暴動の流言を流布し、民衆に対し不逞鮮人の検挙に協力すべく自警行為を推奨していた。
こうした姿勢が朝鮮人を殺しても差し支えないと民衆に信じさせた一面はある。
流言飛語を完全に否定出来ないなら警戒を呼びかけるのは、治安当局者としては当然であるかもしれない。
しかし、その自警行為の推奨が治安を更に悪化させた以上、災害発生時の治安維持政策としては不適格であったと断じられてもよい。
流言を打ち消す際にも”大抵”の朝鮮人は順良などと、一部不逞鮮人の策動を認めるかのような不徹底な表現をした。
その為に、自警団が朝鮮人を警戒し続ける要因ともなった。
政治学者は蠟山政道は、通信交通が遮断されて人々の判断能力が失われた中で、権威ある官憲の言動が与える影響は一層大きくなると指摘する。
そして、不逞鮮人を警戒せよなどという言葉の心理的作用については、警察当局はもっと慎重にすべきであったと断じた。
だからと言って、自衛団は朝鮮人を虐殺した加害者であるのは間違いない。
朝鮮人虐殺の罪がそれで相殺されるはずもない。
このような自己弁護が出来るのは、朝鮮人虐殺に対する責任を何ら感じていないからだ。
むしろ朝鮮人の犯罪をでっち上げて自己正当化に務めようとすらした。
これに対し警察は、朝鮮人虐殺事件は自警の必要が生じたための事件であるので情状酌量の余地があるとした。
そして参加者全員を検挙せずに顕著な件、つまりは流言飛語が収まってからの警察署襲撃や朝鮮人虐殺に関してのみ検挙する方針とした。
仮に全員検挙の厳罰主義で臨んだ場合、同盟の主張するような警察批判を受けるのは免れない。
それが再び騒擾を招きかねない。
そのような治安維持上の懸念もあった。
9月下旬から自警団事件の検挙が始まり、検挙件数は100件を超え、検挙人数は700名に上る。
この大半が執行猶予となり、実刑判決を受けた者たちも、昭和天皇即位の恩赦により出獄している。
国家責任の隠蔽
朝鮮人虐殺事件に対する自警団や官憲の責任は免れない面がある。それでは国家の責任はどうであるのか。
吉野作造は民衆が流言を信じた理由について
と論じ、政府の責任を追及している。「一般国民は今まで総督府や政府が朝鮮統治の成功を吹聴しておるに拘らずそれを信じていない事である。
今度の事件によって現れた国民の心に潜在する朝鮮統治失敗の観念、従って鮮人の不平を肯定し、不平あるが故に混乱に乗じ何事をかなすべしとの事を信じた国民の心理的道程については統治の局にある者は深く自ら省みる所がなければならぬ」
では、当の政府はどのように認識していたのか。
9月5日、自警団を抑えるために山本首相は以下、内閣告諭を発した。
同日、臨時震災救護事務局警備部に各方面の官憲が集まり、朝鮮人問題に関して以下方針を決定した。「今次の震災に乗じ一部不逞鮮人の妄動ありとして鮮人に対しすこぶる不快の感を抱く者ありと聞く。
鮮人の所為もし不穏にわたるに於ては速に取締の軍隊又は警察官に通告して其処置に待つべきものなるに、民衆自ら濫りに鮮人に迫害を加ふるが如きことは固より日鮮同化の根本主義に背戻するのみならず又外国に報ぜられて決して好ましきことにあらず」
まず朝鮮人虐殺事件の報道について、朝鮮人の暴行の事例は多少あるが一般の朝鮮人は順良である。
混乱の中で朝鮮人に危害を受けた者も多数いたが、日本人も同様の被害を受けた者が多数ある。
これらは震災の混乱の中で発生したものであり、朝鮮人に対しことさらに迫害を加えた事実はない。
このような筋書きをメディアに宣伝することにした。
次に、流言飛語については、その根拠を徹底的に調べ挙げ、朝鮮人の暴行という事実を極力捜査し、その肯定に努めることとした。
そして海外に対しては、朝鮮人の背後に過激な社会主義者がおり暴行を扇動した、と宣伝することにした。
内閣告諭と警備部の方針に政府の方針が現れている。
つまり朝鮮の同化政策や海外の批判を招く恐れがあるので朝鮮人の迫害を直ちに辞めさせる。
同時に、対外宣伝対策として一部不逞鮮人の犯罪の事実を徹底的に調査し、朝鮮人虐殺事件を少しでも正当化しようとしたのだ。
政府関係者は朝鮮人虐殺事件が海外に伝わることを非常に憂慮していた。
外務省は事件が広く伝われば、ロシアや満州の朝鮮人が日本に大きな反感を抱き、報復行動に出かねないとの懸念を伝えた。
その上で、戒厳司令部に朝鮮人保護に努めるように要請している。
朝鮮総督府も朝鮮人虐殺の事実が宣伝されることで三・一独立運動のような事件再発を恐れ、朝鮮や諸外国に対する宣伝を重視した。
そこで総督府は対朝鮮・海外の世論対策として、朝鮮人に十分な保護を与えている点を強調した。
そして、実際に朝鮮人救護活動を行なって、救護所を設けて水や食糧、日用品を配給した。
保護した朝鮮人に対しは、一部不逞な者がいた為に流言飛語が生じて、民衆の怒りを招いたと説明した。
また、総督府は震災被害者遺族(災害によるものか虐殺事件の被害者か問わず)に対し、1人あたり200円の弔慰金を支払っている。
政府は対外問題や朝鮮人の報復を未然に防ぐために、一部の不逞鮮人、大部分の順良な朝鮮人という図式を必要とした。
このような政府の姿勢を厳しく追及したのが憲政会の永井柳太郎であった。
12月15日、衆議院本会議において永井は不逞鮮人の暴動発生を各地に伝えた地方長官宛電報や埼玉県の移牒の存在を暴露した。
これを以って、政府自らが流言を広めて自警団による殺害を引き起こしたとし、朝鮮人虐殺問題の全責任を政府に求めた。
その上で、以下のように政府に要請している。
永井の演説に対し後藤内相は、官憲がデマを流布した責任を認めている。「政府はそれに対して衷心から遺憾の意を表すと同時に、その不幸なる犠牲者に対しては遺族を慰安する最善の方法を講ずる」
だが、その処罰や賠償に話が及ぶや、山本首相は以下のようにはぐらかした。
結局、政府は朝鮮人虐殺事件の再調査や陳謝、遺族への賠償、関係者の処罰について何ら具体的に答弁せず、国家責任を隠蔽した。「政府は起こりました事柄について目下取り調べ進行中でござります。
最後に至りましてその事柄を当議場に訴える時もござりましょう。
本日はまだその時にあらざるものとご承知願います」
朝鮮人犯罪報道解禁
10月20日、差し止められていた朝鮮人虐殺事件の報道が解禁された。
同日、司法省は朝鮮人が不法行為を働いた旨を調査した結果として、以下のように流言飛語を事実として発表した。
これを受け、21日に東京日日新聞はこのように報じた。「一般鮮人は概して純良であると認められるが、一部不逞鮮人の輩があって幾多の犯罪を敢行し、その事実喧伝せらるるに至った結果、変災に因る人心不安の折から恐怖と興奮の極、往々にして無辜の鮮人、または内地人を不逞鮮人と誤って自衛の意を以って危害を加えた事犯を生じたので、当局はこれについても厳密な調査を行い、既に起訴したるもの十数件に及んでいる」
しかし司法省が発表した犯罪は、いずれも窃盗などの軽犯罪で、政治的な性格を持つ暴動の事実はなかった。「今回の震災に際し鮮人で不法行為をしたもののあったことは盛んに喧伝されたが、その筋の調査したところによれば、一般鮮人は概して順良と認められるけれども、一部に不逞の徒あって数多の犯罪を行った」
また、暴行・放火といった重大犯罪の大半が被害者と被告の名前がわからないなど、流言飛語そのものであった。
朝鮮人暴動というデマを流した国家責任を否認するような発表に、言論・メディアは厳しい目を向けた。
石橋湛山は官憲の発表は殆ど風説であり「その犯罪者が、果たして鮮人であったか、内地人であったかも、わからぬわけである」と批判した。
石橋が筆を取る時事新報も社説にて
があるとし、その一切を公表するように主張した。「例の流言飛語の盛んなりし最中、或いは軍隊、警察官、もしくは地方官憲の軽挙によって一層その凶暴を極端ならしめ、また直接にこれを助成したるの疑い」
朝鮮人の犯罪を報じた東京日日新聞も
などと痛烈な皮肉を掲載した。「流言の出所は、調べた上で、分かったら検挙すると、わからぬように調べるとは、言わない」
読売新聞に至っては、司法省が朝鮮人の事件を公表したことを、以下のように報じている。
メディアの目から見れば、今回の司法省の発表は朝鮮人虐殺を正当防衛と主張する為のものである。「それは決して、邦人の鮮人殺戮があまりに多数であった為に、鮮人の罪悪を、どうにしても相互的に発表せねばならぬという体面上の問題からであってはならぬ」
政府の体面を見つくろう為のでっち上げである事は明らかであった。
しかし、新聞は政府の責任を大々的に書き立てる事は出来なかった。
司法省はメディアに対し、このような談話を発表している。
法とは治安維持令の事を示唆しており、政府発表以外の事を勝手に書けば発売禁止などの処分があると牽制したのである。「司法省の談以外の事は不確実な事で、もしこれこの外の事を公表すれば法によって厳重に処罰される事である」
証拠隠滅
朝鮮人虐殺事件の犠牲者数について、その実、ハッキリとした数字は出ていない。
それは官憲が証拠隠滅を図ったからである。
震災の混乱が収まった後、朝鮮人の有志たちは慰問班の名目で虐殺被害の実態調査を行おうとした。
しかし官憲は虐殺の証拠となる朝鮮人の遺体を隠蔽し、慰問班の調査は思うように進まなかった。
治安当局は慰問班の調査に刑事を尾行させて、外部との連絡を取れないよう徹底的に妨害すらした。
朝鮮人の犠牲者について「目下取り調べ進行中」と山本首相が答弁して以来、ついに政府は公式に発表することはなかった。
朝鮮人虐殺で起訴された事件を見る限りは、殺された朝鮮人は233名である。
起訴されなかった事件が多かったので実態とはかけ離れた数字である。
内務省は独自の調査結果、朝鮮人の被害者を248名としている。
朝鮮総督府はこれを過少として、813名という数字を出している。
吉野作造は独自に調査した結果、殺害された朝鮮人は2613名であるとした。
朝鮮の独立新聞は神奈川だけで4000名の朝鮮人が亡くなっており、6644名近くが殺害されたと発表した。
このように朝鮮人の被害者は大きくバラついており、正確な数字は出ていない。
後世、数字が曖昧で根拠がない、遺体が出てこないから虐殺ではなく行方不明として計測すべき、といった朝鮮人虐殺否定論が台頭する。
改めて言えば、被害者の数字が正確ではないのは、官憲が虐殺の事実を隠蔽したからである。
なお2017年、以下、朝鮮人虐殺事件に関する質問が衆議院に提出された。
この質問に対し、時の安倍晋三内閣はこのように回答した。「日本国政府は流言飛語によって朝鮮人虐殺が発生し、朝鮮人と誤認されて日本人・中国人も犠牲になったと認識しているか。
政府はその犠牲者数について何人であると考えているか」
虐殺事件を矮小化したい官憲は、慰霊にまで圧力をかけた。「調査した限りでは、政府内にそれらの事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」
慰問班は被害者の遺骨引き取りを申し出た。
だが、当局は遺骨が朝鮮に渡り、大規模な合同葬儀によって一大騒擾となることを恐れて、拒絶した。
慰問班は遺体が出てこなかった朝鮮人の数を3240人としている。
それだけの遺骨を生まれ故郷に連れて帰れなかったとは、想像を絶する無念である。
中外日報は行方不明となった人々について、このように報じた。
朝鮮人虐殺事件の被害者の供養塔の碑文にも、慰霊の圧力が伺える。「多くの遺族の中には石を裂いてでも捜して、せめてもの思いやりをしたいと焦慮しているものもあるが、その大部分は塁の身の上に及ばんことを恐れて諦めようにも諦めきれず、地団駄踏んで悲憤の涙を流して居るという状態である」
熊谷事件の供養塔には、こう刻まれている。
これだけ見ると供養すべき死者が朝鮮人であることも、それが虐殺の被害者であることもわからない。「犠牲の霊不慮遭難慰むるに由なしと言えども、この尊き犠牲が同胞国民の自覚反省を促し緊張堅実なる風気作興に寄興せる済世の供徳はけだし大なるものありと謂うべく豈誰が供死なりとせんや聊当時の概況を録として誌とす」
朝鮮人虐殺事件の事実を曖昧にしなければ供養塔すら建てられなかったのだ。
関東大震災が残したもの
流言飛語は内地在留の朝鮮人に深刻な影響を与えた。
震災の混乱が収まった後も地域住民の朝鮮人への不信感が解消されず、彼らの生活は困窮した。
飴売りに従事していた朝鮮人は、飴に毒を入れてあるだろうと嘲笑され、全く売れなくなったという。
警察によって、行商している地域から追い出された朝鮮人もいた。
朝鮮人は迫害され、いつ殺されてもおかしくない状況にあった。
やむを得ず、日本での生活を諦め、朝鮮に変える事を選択する朝鮮人が続出する。
23年中に4万人の朝鮮人が朝鮮に帰還している。
これは当時の在留朝鮮人の3割にあたる。
朝鮮人は危険という偏見は社会に残り続けた。
震災一年後を目前とした24年8月31日には、朝鮮人が迫害された復讐を図っているという流言が発生した事が、それを物語っている。
大正時代、朝鮮人の留学生や労働者が海を渡り、日本人と朝鮮人の交流が本格化した。
朝鮮は身近な隣人となった。
日本人は、その隣人に暴力を振るい、迫害し、関係を完全に破壊した。
もはや日本にあっては朝鮮人虐殺事件の被害者の為に祈ることも、被害者遺族に謝罪することも出来ない。
それは日本は朝鮮を植民地統治する帝国だからである。
社会主義者の秋田雨雀は事件を非常に憂いて、朝鮮人虐殺に対する批判を繰り返した一人である。
秋田は虐殺事件について以下のような批判を加えている。
そこには日本人の大きな欠陥が現れている。「私達日本人は自然から受けた大きな損害に数倍するほどの残虐性を同じ人類であるところの朝鮮人その他及び同民族に与えている」
この欠陥は普遍的な倫理を持つことで克服出来よう。「親切、無邪気、相互扶助的な精神さえも、それは全く自己の民族にのみ限られたものであって、一歩利害を異にした民族に対しては、あらゆる残虐、無残な行為を産んで来る」
そして最後に以下のように警告を発した。「民族の美徳を発揮することは、民族を人類の生活から隔離することではなくて、同じ民族の中に行われている迷信や圧迫からその民族を解放して、広い人類の生活の上に働きかけてゆくことでなければならない」
秋田の懸念通り、日本人の国民道徳、国家主義は日本を誤った方向に導いた。「今日の各国民の持っている民族精神の蔭には、今度の日本の震災において日本人の暴露したような醜い残虐性が含まれていることを知らなければならない。
国民道徳と私たちが呼んでいるものから民族が解放されて、そこから本当の広い自由な新しい道徳が生まれて来るのでなければ、我々は自然というものに対して安心して対峙して行くことが出来ないばかりでなく、人類は人類の敵となって絶えず苦しめ合うものであることを覚悟しなければならない」
そして日本は、人類が人類の敵となる凄惨な戦争に突入することになる。
震災一周年を振り返り、朝日新聞は責任を取ろうとしない政府に対し激烈な批判を加えた。
報知新聞も国家の無責任を痛撃している。「何という馬鹿馬鹿しい、思慮の足りない、野蛮極まることをしたものだ。
震災当日を記念せんとならば、先ずこの鮮人騒ぎの顛末を何らの方法によって公表し、過ちを天下に謝するが第一である。
9月1日に大地震があった事くらいはわざわざスイトンを食ったりしなくても、誰も忘れはしない。
鮮人事件に至っては、忘れられんとする段か、ともすれば闇に葬ってしまおうと努める。いよいよ以て恥の上塗りである」
このように政府の責任を追及する声は1年経った中でも健在であった。「流言の火元は官憲だと証拠だてる事はいくらでもあるが、お役人で責を負ったものは一人もいない。
結局永遠の闇に葬られじまいである」
しかし、時代が経るにつれ朝鮮人虐殺事件は人々の記憶から忘れ去られてゆく。
それは、偏見や差別の愚かさ、罪もない人々に向けられた暴力、遺骨すら返ってこなかった遺族の哀しみの記憶である。
1923年に日本人に刻まれた、その全てが薄れていった。
令和の世にあっては、震災時の流言を再発掘し、朝鮮人虐殺は正当防衛だっただのと関東自警同盟の主張をそのまま繰り返す者すらいる…
改めて言うまでもなく、関東大震災における朝鮮人虐殺事件は日本の災害史上、類を見ない事象である。
今後、災害が発生した際に同様の事件が発生しないとも限らない。
無責任な流言は、日本と朝鮮のような歴史的背景がなくとも、言葉や文化の違いから生まれる異質的集団を標的にして広まることを防災上の教訓とすべきである。
吉野作造は各地の朝鮮人虐殺事件の調査を進める中で、以下の感想を漏らしている。
「これを悔いざる国民は禍である」
参考書籍
関東大震災 中島陽一郎
関東大震災と朝鮮人虐殺 山岸秀
関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後 山田昭次
福田村事件 辻野弥生
関東大震災「虐殺否定」の真相 渡辺延志
関東大震災時の「レイピスト神話」と朝鮮人虐殺 金富子
関東大震災下における朝鮮人の帰還 西村直登
関東大震災における朝鮮人虐殺事件について。
帝都復興の時代 筒井清忠
大正大震災 尾原宏之
関東大震災とリスボン大地震 半澤健市
震災と人心 織田健志
震災下の人心、災害ユートピアについて。
戒厳 その歴史とシステム 北博昭
軍隊の対内的機能と関東大震災 吉田律人
震災と治安秩序構想 宮地忠彦
戒厳令の基礎的な知識と、関東大震災における行政戒厳適用に関して。