軍縮論
尾崎行雄の軍縮論
昭和陸軍の暴走の印象から、帝国日本は軍部専横のイメージが強い。
しかし大正時代、国際連盟の成立や国際協調、軍閥批判を背景とする軍縮論が唱えられ、軍部の発言力は大きく後退していた。
ここでは大正日本を代表する4人の政治家・言論家の軍縮論を紹介する。
まずは尾崎行雄である。
尾崎は護憲運動の指導者となり憲政の神様として広く知られる。
だが憲政本党、政友会、政友倶楽部、中正会、憲政会と自らの所属政党を目まぐるしく変え、政治基盤を固める事には失敗した。
ついには普選断行を巡って加藤高明総裁と対立し、憲政会を追放され、政界の一匹狼となった。
これは、尾崎の急進的な主張が政党の枠内に留まる事が出来なかった事を示している。
その尾崎にとって軍縮というのは重大な課題であった。「自由の身となり、軍備制限その他思うままに主張することが出来た。
むしろ好都合であった。
その方が、自分一人のためのみならず、帝国の為、世界の為、かえって利益であったかも知れない」
尾崎は帝国議会にて軍縮を唱道し、日本の軍縮論をリードした政治家でもあった。
第一次世界大戦後の思想変化
尾崎は最初から軍縮論者であったわけではない。
戦争というものを国家本位であると考え、国家に利益が出るなら主戦論、不利益とみれば不戦論を振りかざした。
これは帝国主義的・国家主義的な発想である。
だが第一次世界大戦後に欧州を視察し、世界観が一変した。
特に70万人の死傷者を出したヴェルダン戦跡の光景は想像を絶した。
尾崎は以下のように第一次世界大戦を振り返る。「天の魔も地の魔も怯ぢん人の子が国のためとてなせる此業」
かくして尾崎の世界観は帝国主義から国際主義に様変わりした。「この大戦争は何のために戦ったのか?何人も知らない。
列国人民が夢中になって、ただ一図に国家のためと思い込んで死地に狂奔したに過ぎない。
肝心要の国家は、現在何も半死の状態に陥っているのを見れば、あの戦争が、どの国家のためにもならなかった事だけは分明だ。
しからば、何のための戦争であったか、戦後十年研究しても、まだわからない。
わからない筈だ、全然無意味、無目的の悪戦苦闘に過ぎなかったのだ。
幾百万の戦死者こそ、気の毒なれ。
彼らは今に及んで、初めて迷夢から覚め、切歯扼腕、悲憤慷慨、地下に瞑目することが出来なかろう。
戦争の目的は、欧米列国において、盛んに論議されるようになった。
こんな事は開戦以前に、審議決定し、それが確定した後、始めて開戦すべき筋道だが、そこが人間の浅ましさで、ひらすら猜疑心、嫉妬心、虚栄心、冒険性、争闘性らに駆られて無我夢中で、飛び出した。
警鐘の声を聞いて方角も弁えず、飛び出す下町の兄貴連と同様に…」
第一次世界大戦前の世界は、武力崇拝・軍備万能の軍国主義が支配する武力万能の時代である。
その戦後は、人道主義・平和主義の道義主義が支配する平和万能の時代に変化するだろう。
それが世界の大勢である。
ところが日本は世界の大勢に逆行して覇権主義を振りかざしている。
戦争は人間の負の感情に基因している以上、平和万能の時代は永遠には続かないだろう。
だが幸いにして、列国が国力を回復する2,30年程度は続くと思われる。
ならば日本はこの期間に世界の大勢に積極的に順応し、世界的な道義主義の急先鋒として活躍すべきと説く。
その大勢順応こそが軍縮なのである。「時勢の大潮に逆行する者が落伍者となり、これに順応する者が成功するのは、自由競争に於ける吾等人類の大事実である。
果して然らば今回の大戦乱は世界人類思想及び感情にどれだけの変化を及ぼしているだろうか。
これを予め知り、しかしてその変化即ち大勢に順応して行くように国民を指導するのが政治家の急務であると信ずる」
「かくて人類創造以来の最大事件は全く無益有害なる発作的動作であったが、これによって吾人は戦争の惨禍は何人も想像し得ないほど広大深酷であることを実験した。
将来の戦争は、世界の文明を滅させるのみならず、人類をも殆ど絶滅せしむべき事実を察知し得た。
この二事は、経世家にとっては、至貴至重な獲物である」
軍備制限に関する決議案
1920年1月に設立された国際連盟は、その規約第8条をこのように定めた。
この規約に則り、連盟加盟国に軍縮を求めた。「連盟国は平和維持の為には其の軍備を国の安全及国際義務を協同動作を以てする強制に支障なき最低限度迄縮少するの必要ある事を承認す。
連盟理事会は各国政府の審議及決定に資する為各国の地理的地位及諸般の事情を参酌して軍備縮少に関する案を作成すべし」
これを受け、1920年12月には米国上院にて日英米海軍制限案、ボラー決議案が提出された。
米英両国の一般世論は概ね好意的で、英国の海軍卿は、軍縮会議にいつでも馳せ参じる用意があると演説し、海軍軍縮会議開催の可能性が急速に高まった。
このような世界的規模での軍備縮小の趨勢に、日本国内でも軍縮の機運が高まる。
政界において、この軍縮の動きにいち早く反応したのが尾崎であった。
1921年2月10日、尾崎は軍縮に対する日本の態度を示さんと、帝国議会に軍備制限に関する決議案を提出した。
この時、尾崎は無所属議員であったため、島田三郎ら同志8名の署名しか得れず、建議案提出の規則を満たさなかった。
だが、先例として認められて審議に入るという異例の進行となった。
決議案は英米と協議して海軍軍備を制限することと、連盟規約に基づいて陸軍軍備を緊縮する事を掲げた。
尾崎は海軍の競争とは国の経済力の競争であり、その相手がアメリカである以上は、無制限の競争は大変に危うい。
よって競争相手との比率を決める必要があると説いた。
一方の陸軍については以下のように指摘する。
よって、時期を見て軍縮を断行すべきである。「現在においては、我から相手とし標準として陸軍を拡張して行かなくてはならぬ国もなく、また向こうから我を相手とし標準として陸軍を拡張しようという国もない」
尾崎は軍縮の理由について、外交面、世界的軍縮の趨勢及び列国との関係上の考慮、そして内政面、財政負担を掲げた。「陸軍を多少なりとも整理すれば、国家の費用の上において相当の倹約が出来、それを他の教育なり生産なりの事業に振り向けるとすれば、それだけ国の富と力とを増大することとなる」
特に財政問題は重要である。
既に世界大戦が終結したにも関わらず、大正9・10年度の歳出のうち、半分が陸海軍で使われていることを指摘する。
日本の財政難の理由は、軍事費に余りに金を使いすぎているからだと難じた。「何れの国でも歳出の半ばを陸海軍に使うということが継続して行っては、その国が満足に生存することが出来るはずはない」
最後に尾崎は、以下のように議員たちの軍縮への賛同を訴えた。
しかし決議案にはわずか国民党が賛成するだけで、政友会、憲政会ともに反対に回り、賛成38対反対285の圧倒的多数で否決された。「アメリカは協定をして減らしたいと言って、上院でも有力なる政治家がこれを論じ、既に両院の外交委員会を通過しているのであります。
やがて大統領が更迭して、事が少しく緒につきますれば、おそらくは四月の末、あるいは五月の初あたりには、日本に向かって協定の申し込みを致すであろうと思う。
その時においてこれに応ぜんと欲する思想は、今日諸君の脳裡に定まっているようで、申し込まれて受けぬという人は恐らく我国にはなかろうと思う」
軍備縮小同志会
尾崎は決議案の否決に失望した。
だが、これが国民の意志とは認められず、国民に直接問うために軍縮論を掲げて自ら全国遊説の旅に出た。
尾崎の講演は早稲田、明治、慶応などの大学、青年会館、交詢社、大阪や神戸といった地方都市で行われ、行く先々で圧倒的な支持を得た。
この光景を尾崎はこのように回想する。
尾崎は遊説の結果を公表して、議院の反省と国民的自発を促して、軍国主義の汚名を返上しようとした。「私はこの小さな試みを通じて、未だ衆議院には代表されていない国民の思想感情の方が、斯国運を救ひ、斯民命を生かす為めには、現在の衆議院の意思よりも一層適切であることを思はずには居られない」
1921年7月、米国から海軍軍縮会議を開きたいとの申し入れがあった。
直前の議会で尾崎の軍縮決議案を圧倒的多数で否決していたが、原内閣は参加の回答をした。
これを受け、日本国内では軍縮問題、極東問題への関心が高まり、研究や議論が重ねられた。
その中で9月27日、尾崎、島田三郎、吉野作造、河合栄治郎、水野廣徳を中心に石橋湛山ら東洋経済新報系の軍縮団体が合流して、軍備縮小同志会が結成され、論壇を賑わせた。
吉野は運動の目的を軍備縮小、太平洋・極東における争因廃除、軍国主義打破、平和政策確立に定めた。
尾崎はこの運動の趣旨を連盟本部、各国の平和協会、国内の各宗教団体、教育団体へ宣伝するよう提議した。
軍備縮小同志会はポスター制作、パンフレット制作、デモ行進、平和教育推進、平和の歌作成、宗教界による平和祈祷など、活発な活動を行った。
友愛主義と戦争の惨禍を宣伝して軍縮世論を喚起した。
また国民教育の改善、特に歴史教科書の改良を提議している。
軍縮同志会は来たるワシントン会議に向けて積極的に講演会を開催し、有志代議士たちも参加して軍縮や軍部改革案を議論した。
尾崎も「一世の識者は、成敗を問はず突進して、尠くとも大勢順応、軍備縮小を絶叫せざるを得まい」と世界大勢への順応を呼びかける。
軍備制限については軍事費を総歳出の2割以下にすることを提議した。
ワシントン会議終了後の1922年3月25日、議会の最終日に尾崎は軍縮建議案修正意見を提出した。
尾崎は陸軍の必要性を理解しつつ、明確な敵が存在しない今、削減の余地は大いにあると考えた。
そして「二十一個師団を養ふと云ふことは、寧ろ国家に害こそ有れ決して利益がない」と断じて、軍備を半減させることを主張した。
「国際連盟の規約を蹂躙して、五十箇国以上の敵を作ると云ふが如きことは、乱暴狼籍も是に至って極まれりと謂はなければならぬ」
演壇においてこのように気炎を吐き、議場は拍手に包まれた。「人に噛付く癖のある狂犬の歯を抜くと同じく、先づ軍備を縮小することが、彼等の乱暴狼藉を防ぐ実効」
尾崎の軍縮論は軍備を肯定しつつ、財政負担や国際関係を踏まえた上で展開された現実的な軍縮論であった。
その方法も軍縮同志会のような組織活動を活用し、地方遊説や議会での提案など、堅実な手段を採った。
しかし、尾崎は政治の世界においては基盤がなく、議会から政府を突き上げる事は出来なかった。
軍縮同志会の活動も軍縮世論の後退とともに低調となってしまうのであった。
水野広徳の軍縮論
戦前において日米非戦論・軍縮・平和論を唱えたのが水野広徳である。軍部批判を厭わないその姿勢から、戦時中は言論の自由を剥奪された。
そして戦後間もない45年10月に、平和主義を基本原則とする新憲法の誕生を見ずして亡くなった。
水野は平和主義者・反戦論者として知られるが、その経歴は軍部にあり、海軍中佐として日本海海戦に参戦し、1911年に日本海海戦を活写した此一戦の著者として世に知れていた。
生粋の軍人であった水野は如何にして反戦平和主義者となっていったのだろうか。
大いなる幻想
水野は軍人として、第一次世界大戦に多大な関心を持って観察した。
そこから様々な教訓を引き出し、ついには自らの思想と生き方をも変えてしまう。
そのキッカケは1910年に執筆され、世界的ベストセラーとなっていた英国の作家ノーマン・エンジェルの「大いなる幻想」であった。
水野は大いなる幻想を読後、自らの信念にすこぶる動揺が来されたと述べるほど衝撃を受けたと受けたと回想している。
エンジェルは大いなる幻想の中で、現代を国家間の金融経済的相互依存性が飛躍的に高まった時代であると観た。
このような時代における文明国間の戦争は、国際経済的依存関係を破壊し、全ての国に大恐慌を引き起こす。
そうなれば戦勝国が賠償金を強要しても勘定に合わない。
仮に英国が戦争に勝利してドイツから賠償金を取ったとすると、ドイツ経済は大恐慌に陥るだろう。
その反響は戦勝国であるはずの英国に波及し、英国経済は破壊される。
この時点でエンジェルは、第一次世界大戦後にドイツに巨額の賠償金を要求し、欧州経済全体の瀕死の重症に追いやったヴェルサイユ条約の失敗を見抜いていた。
以上の観点からエンジェルは、戦争がペイするというのは大いなる幻想だと説いた。
このように戦争の不利益を強調したエンジェルであったが、戦争は不可能になるどころか、極めて起こりやすいと警鐘を鳴らした。
それは政治家たちが戦争はペイすると信奉しているからだ。
そのような時代遅れの戦争経済信仰を大いなる幻想と悟って改めない限りは、戦争は起こり続ける。
政治家たちが大いなる幻想から覚めた時こそ軍備廃止の道が開かれるというのが、エンジェルの認識であった。
徹底的なリアリズム
水野は大いなる幻想を読んで、いきなり反戦論者となったわけではない。
戦争は発生しないとエンジェルは説いたのに、現に第一次世界大戦は勃発したではないか。
「人界の活事象は到底死学問で律することの出来ないものたる事を一層深く感じた」と論断している。
水野は人間の本質は争いを好み、利を愛する動物であると考えた。
そしてこの人間の集団から成立するのが国家であると定義する。
もしこの国家に人間の持つ獣心を抑制する強制機関(警察や司法)がなければ犯罪は至る所に発生するだろう。
しかし国家の集団からなる国際社会には権威ある強制機関はない。
そのような所に法があったとしても、それは道徳的な効力しか持たない「口上一片の約束」であると断じた。
所詮国際法は無力である。
実力で国際法を破る無法者も現実にいる。
そのような国際社会において日本は実力で侵略を防ぐしかない。
このように軍備を肯定した上で、戦争不滅を再認識している。「生命の安全も財産の保護も強固なる国家あってしかして後初めて確実となるので、実力の偉大なる事を忘れてはならぬ」
もう一つ、戦争は突発するというのが水野の認識であった。「くしくも人間に乱を好む獣心と、利を愛する欲念との存する限り、この世に戦争は絶えない」
従来、文明国間の戦争は開戦までに長時間の外交交渉が介在するというのが常識であった。
現に日露戦争は交渉から開戦まで10ヶ月かかっている。
だが、第一次世界大戦はサラエヴォ事件からドイツの対露宣戦布告まで、わずか1ヶ月しかなかった。
それはロシアの動員が完了する前に各個撃破するという、シュリーフェンプランをドイツが採用したからであった。
その事実以上に水野はアガディール事件に注視している。
アガディール事件とは11年7月1日にドイツがモロッコ・アガディールに軍艦を派遣してフランスを威圧した国際危機である。
ドイツ経済は産業資本の大部分を英仏に負う。
その英仏との戦争の危機が高まったことから、ドイツの株式は暴落し、多くの会社が倒産した。
経済危機を受け、ドイツは11月に妥結を強いられる事となった。
エンジェルは、国際経済が理由となってドイツは侵略政策を改めたと指摘し、戦争はペイしないという認識を持てば戦争は起こりにくくなるとの持論を裏付けた。
一方、水野の見方は真逆であった。
ドイツはアガディール事件で教訓を得た。
水野は戦争突発論に帰結し、平時から軍備を整備すべきだと説いた。「外交談判に時日を空費するの不利を覚り、外交資本家をしてドイツ経済界に手を下すの暇なからしめんが為、戦争突発主義を採るに至ったのである。
由是観之、国際間における経済関係がいよいよ密接するに従い、戦争は益々突発的となるを免れないであろう」
そして戦争が顕在する国際社会において、国民の生命財産を保護できるのは強力な国家のみだと考え、国家主義的信念を強めるに至った。
戦争観の一変
1916年、水野は世界大戦を直接目にしたく、欧州に旅立った。
この体験が戦争否認に至ったと以下のように回顧する。
ただし、回顧とは違い、この時点では水野はまだ平和的思想に基づく戦争否認には至っていない。「現代文明国の戦争なるものが如何に大規模であり、これに比すると日露戦争の如きは子供の軍ごっこに毛が生えた位に過ぎず、日本の如き経済要素に貧弱なる国は到底今日の戦争に堪え得るところにあらざることを覚った時、僕は愛国的見地より戦争を否認せざるを得なかった」
この訪欧の中、水野はロンドン滞在中に空襲に遭遇して九死に一生を得ている。
これが非戦論を形成したと解されるが、ロンドンの家屋は石造りであり、堅牢な避難所も用意されていた為、被害は大きくはなかった。
水野がこの空襲で感じ取ったのは日本の空襲に対する脆弱性であった。
日本は避難所となる地下室や地下鉄はない。
木造の家屋が所狭しと立ち並んでおり、仮に東京が空襲にあえば火災が頻発し、東京は灰燼に帰するかもしれないと警告している。
よって敵機を日本に接近させないために航空機を整備し、制空権を確保すべきだと提唱している。
水野が平和主義に目覚めたのは、第一次世界大戦休戦後の二度目の訪欧であった。
そこで水野が目撃したのは、北フランスの戦跡やドイツの惨状といった総力戦の惨禍であった。
水野は日露戦争の経験から「戦争は随分残酷なものである。また悲惨なものである」と述べているが、第一次世界大戦は日露戦争と比べようもない破壊と殺戮をもたらした。
その様子を水野はこう記す。
「破壊と殺戮とをほしいままにしたる戦の跡は、見るも悲惨、聞くも悲哀、誠に言語の外である」
ヴェルダン戦跡では、この戦地で亡くなった仏独両軍兵士を想い、以下のように考えた。「村落は壊滅し、田園は荒廃し、住民は離散し、家畜は死滅し、満目これ荒涼惨として生物を見ない」
水野は国家は最高の道徳であるというドイツ哲学を信奉していたが、その観念が激変した。「ただ国家の為という一念の下に、子を捨て、妻を捨て、親を捨て、はては己の命までも捨てたのである。
国家の為とは、国民の為以外の何物でもない。
現代政治意識に依れば、国家は多数国民の幸福の為には、少数国民の利益を犠牲とするの権力を持っている。
彼らが死の戦場に駆り出されたのも、多数国民の幸福を擁護せんが為であった。
彼らは国家の要求によって否応無しに命を取り上げられたのである。
然るにこれらの国家は多数国民の貧困を救うために、少数国民の富を犠牲に供する事を敢えて為さない。
これは国家として正しい行為であろうか」
後に水野は国家主義について、このように批判を加えている。
国民の権利・自由を擁護できない国は一夫であると断じている。「国家の権力に服従するは国民の義務であると等しく、国民の権利自由を保護擁護するは国家の義務である。
国家と国民との関係は、道徳的の精神結合にあらずして、徹頭徹尾権利と義務との相互対象である。
国家が国民に対する義務を尽さざれば、国民もまた国家に対する義務を守るの必要はない」
このように自らの国家主義を改めるに至った。
総力戦論者の反戦論
1920年7月、水野は欧州からの帰国後に、戦争について以下のように論じた。
総力戦の観点から日本の戦争能力を考慮し、勝ち目のなさを実感して戦争を否認した。「戦争は今や人の力に非ず、大砲の力に非ず、軍艦の力に非ず、形而上下の一切を包含したる国そのものの力である。
国民たる者、剣を抜くに先ち冷静に慎重に自国の力を計量せねばならぬ。
今や我が国の問題は如何にして戦争に勝つべきかに非ずして、如何にして戦争を避くべきかにあると思う」
ただし、単なる反戦論に終わらないのが水野である。
日本一人が戦争回避を思ったとしても、絶対的保障はなく、実際に軍備撤廃は困難である。
そこで万が一戦争が起きた場合の対応策、つまりは総力戦準備も披露してみせた。
水野は総力戦を戦う上で日本の国力を重視する。
ここに水野は国力涵養の観点から軍縮論に辿り着いた。「軍備を縮小して民力の涵養と国力の充実とを図るは、単に国民日常の生活を幸福ならしむるのみならず、その国防力を増進するの道であると信ずる」
この総力戦を前提とした軍縮論は同時期軍部の中でも盛んに唱えられていた。
水野はその認識から更に一歩進めた論理を展開する。
このように、労働者=国民の団結こそが戦争抑止に大きな効果を発すると説いた。「戦争はもはや資本と兵力とのみでなく、工業の力を要するに至った。
戦争の工業化である。
工業の要素は資本と労働とである。
故に戦争の労働化ともいうことが出来る。
これを以て今後の戦争は労働者の同意なくして遂行することは出来なくなった。
故にもし列国の労働者が連盟提携して戦争を反対すれば、軍閥資本家などが如何に焦慮するも戦争を開始することは出来ないのである」
「世界の平和を確立する為に最も確実にしてしかも最も早き路は、戦争に依って害を被るも利を受くることなき労働者の平和連盟である」と語るなど、水野は第二インターナショナルを彷彿とさせる主張を繰り広げた。
更に水野は、総力戦によって国民と戦争が不可分となった以上は、戦争の是非は軍人ではなく国民が決するべきであり、国防に対する国民の積極的な関与を主張した。
しかし現在の日本において国防軍備の決定権は議会を通じて国民の手にはない。
統帥権の独立という形で軍人が専有している。
軍政・軍令機関はともに統帥権の従属部門であり、責任内閣の下にあるべきであると、統帥権の独立を否定してみせた。「兵馬の統帥権のみを不合理に独立せしめ置くの必要を更に認めない」
水野は以上のように軍部大臣文官制すら提唱している。「参謀本部及び海軍軍令部が統帥権の独立を唱えてこれを統治権外に置かんとするは、あたかも外務省が条約締結権の独立を唱え、これを統治権外に置かんとすると全然同様の意味である」
総力戦論と平和論の狭間で
1921年、水野は東京日日新聞の紙面においてドイツの惨状を挙げて、日本軍隊の社会化、デモクラシー化を進めるべきだと説いた。
そして、兵役義務を公平平等にし、軍人に参政権を与えるべきであるとも論じた。
これが海軍刑法に抵触して謹慎処分を受け、水野は軍服を脱いで軍事評論家となった。
評論家水野とって海軍軍縮が討議されるワシントン会議は重大な問題であった。
水野は第一次世界大戦から学んだ教訓として、軍備の規模を各国の裁量に任せると軍拡競争が過熱し、悲惨な大戦争に繋がると考えていた。
そんな中、日米の海軍軍拡競争は止まる所を知らない勢いであり、このままでは日米戦争の危機が高まる。
これに歯止めをかけるのが軍備協定比率、つまりは軍縮であると説いた。
ただし水野は対米主力艦八割、八八艦隊といった軍備は認めていた。
ワシントン会議を前にしても、石橋湛山らが説いた軍備撤廃論については「各国の軍備撤廃は恐らく痴人の夢を説くに等しく、殆ど永久に実現せぬであろう」と断じている。
これは水野が戦争を人類の本能=生存欲の充足を達成する唯一の手段であると考えていたからだ。
釈迦やキリストを始めとする哲人や賢者たちが反戦平和を唱えてきたのに、人類三千年の歴史は戦争の歴史ではないか。
その事実から「これを根本的に解決するには哲学及び生物学の見地より人類の本性本能にまで論及する必要があろう」と考えた。
そして、賢人の中から孔子の言葉を引用する。
この軍備必要の考えを「孔子の言は永久に声明を有するものと思われる」と評した。「食を足し、兵を足し、民之を信ず」
戦争を本能とする主権国家が並立する国際社会は無秩序にある。
そのような状態にあって軍備撤廃の大前提は、国際秩序を維持する制度的な保障、つまりは国際連盟の普遍性と国際警察軍の如き強制力が必要である。
しかし戦争防止のために創られた連盟は、ドイツを始めとする旧敵国だけでなく、ソ連や米国などの有力国を欠く不完全な状態で始まっていた。
これでは国際警察の如き強制力を持つ兵力が成立する見込みもない。
このように水野は軍備必要論者であった。
では現代において軍備はどの様な意味を持つのか。
戦争の危機が潜在する中、自衛のために軍備を持ち続けることは言うまでもない。
だが、国家が軍備を持つのはそれだけが理由ではない。
個人に優越欲があるなら国家にも優越欲がある。
精神的な優越欲である国威を発揚する為に、強大な国防軍備を必要としているのだ。
この認識の下、水野は以下のように軍備撤廃は困難であると説いた。
「世界の強国がその国防軍備を撤廃することは、国家優越権の一部を放棄する訳で優越権の盛んなる国家に取り入っては大なる苦痛であり、かつ大に好まぬ処である。
なかんずく我が国の如き軍部の力のみに限りて優越権を維持せる国にとっては最も苦痛とする処であろう」
ワシントン会議の衝撃
水野が徹底した軍縮・軍備撤廃論を唱えなかったのは、それまでの軍縮論が人道・理想主義に拠った空論に終わっていたからである。
しかしワシントン会議は平和希求の国際世論を背景に、経済問題に立脚した現実的な軍縮論が展開され、海軍軍縮が実現した。
水野はその現実に衝撃を受けた。
軍縮が可能であれば軍備撤廃もまた不可能ではないのだ。
水野はワシントン会議の成功に対して「軍備制限の国際的協定は人類有史以来最初のレコード」と最大の賛辞を送った。
そして、自らの比率主義を撤回し、以下のように論じた。
こうして、水野は軍備撤廃を最終目標とする軍縮論に移行した。「世界平和の妨げとなるべき軍備は思い切って縮小すべし。戦争の出来ぬまでに制限すべし。更に進んで全然撤廃すべし」
なお、水野の軍縮論は理想主義に傾斜するではなく、あくまで現実に立脚する軍縮論を目指した。
ワシントン会議後の水野は、積極的に軍縮を論じるようになる。「吾人は理想として軍備の撤廃、戦争の絶滅を希望するも、今日にわかに之が実現を期することは出来ない。
従って現在の国際状態においては国防の必要を無視するものではない」
かつては否定したエンジェルの思想も取り入れ、以下のように戦争はペイしないと説いた。「今や我が国は、内に産業の不振あり、国民は生活苦に泣き、国家は財政難に苦しんでおる。
外には欧州の混沌あり、侵略露国の崩壊あり、ワシントン会議の協定あり、当に大に軍備を弛めて大に国力を涵養すべき絶好の時期である」
軍縮に自信を得た水野は、戦争の原因を人種的偏見・国民的猜疑に求めるようになった。「密接重大なる経済関係を有する日米両国の間において、如何に愛国狂者が戦争を叫んだとて、経済関係者は決して財布の紐を解いて戦費の捻出を諾するものではあるまい。
故に経済関係より見たる時、日米両国が互いに想定敵国として軍備を競うことは全く無意義の散財で、国民がこれに気づかぬのは、軍人の宣伝に乗せられて居るのである」
その観点から日本人を見てみると、ヴェルサイユ会議では人種平等や差別撤廃を叫びながら、朝鮮民族に極端な差別待遇を強いている。
そのような矛盾を抱えながら、国際平等を実現する覚悟があるのだろうか。
その原因は、日本人が国際的正義観念に立脚する愛国心と、国家的利己主義に立脚する国家我を混同しているからだ。「朝鮮民族を虐げつつある日本国民には、かくの如き雄大なる覚悟も決心もあるはずがない。同時に国際平等を唱ふる資格もない」
国家我の発揮が愛国心であると考えるのは誤りである。
その上で水野の軍縮論は教育改革にまで及んだ。「国家の名誉を傷つけ、国家の危険なる孤立の地位に陥るるものは、これらの誤れる愛国主義者である」
総力戦の観点から、それに適応する体制作りは必要である。「国際暴力の否認せられたる現代において、経済力薄弱なる国家が世界に処する根本国策は、勝利の見込み乏しき戦争を目的として軍備を張るよりも、戦争の危機なき平和を理想として軍備の縮小撤廃に向かって努力すべきである。
しかしてこれが為には国民教育を根本精神から改めなければならぬ」
ただし国力的に総力戦を行うのは困難な日本にとって戦争は最悪の事態である。
総力戦を行なったとしても戦争はペイしないので、後に残るのは焼け野原である。
よって軍備を撤廃し、戦争を撲滅するしかない。「戦争は社会的経済的に不合理であり、合理的選択肢たりえない」
だが、現実的に即時撤廃は出来ないので、軍縮を通じて漸進的に軍備を撤廃してゆくべきである。
総力戦論と平和論の観点からこのように導き出し、水野の思想は大きく前進した。
興亡の此一戦
32年、水野は日米未来戦争を予言し、興亡の此一戦を出版した。
日米戦争は現実にあり得るのだろうか。
米国の排日移民問題は日米対立を煽る扇風機ではあるが、戦争に火をつけるマッチではないだろう。
マッチは日本が満州を占領した場合に擦られる。
これは米国は満州に野心があるからではない。
満州が日本の戦力源とならないことを望んでいるからだ。
米国の構想は、日本の物資は貧弱で長期戦に耐えられない事を前提に成り立っている。
ところが日本が満州を占領して資源を得た場合、この構想は即座に破綻する。
そうなれば米国は日本との戦争を決意するだろうと説く。
日米戦争の舞台は太平洋になるが、特に重要なのはハワイである。
ハワイがあるから米国が日本を攻めることが出来る。
よって日本はまずハワイを襲撃するだろう。
戦争となれば日本は北京・南京ら主要都市や中国沿岸部を占領するだろう。
だが、中国政府は内地に退いて徹底抗戦を続け、泥沼の持久戦に突入する恐れがある。
また、日中米の貿易関係が崩壊する事で、日本に事実上の経済封鎖が現出する。
そうなれば石油は政府の統制下に置かれ、軍用以外の自動車は街から消える。
各種物資は窮乏し、国民は飢えに苦しみ、第一次世界大戦におけるドイツの様になると予言した。
かくして戦争は膠着し、ある日本国民が東京が大空襲を受ける悪夢を見た。
「東京では、数百の飛行機が流星の如く暗空に去来して、敵味方の識別も出来ない」
「逃げ惑ふ百万の残留市民。父子夫婦乱離混交、悲鳴の声」
この悪夢が日米戦争がどのような結末に至るが暗示している。「跡はただ灰の町、焦土の町、死骸の町である」
以上のように真珠湾攻撃、日中戦争、東京大空襲、そして敗戦を予期し、日米戦争を否定した。
この驚くべき予言は、水野の思想が如何に現実に立脚していたかを物語っている。
戦前の平和主義・反戦・軍縮論・日米非戦論者の先頭に水野は立ち続けた。
だが、満州事変以降にワシントン体制は打破され、大国間協調が崩壊し、水野の論理は破綻した。
多くの識者が満州事変以降の状況変化に対応する中、水野は自らの主張を貫徹し、徹底的に戦争回避を訴え続けた。
1930年に記した戦争小説海と空では、東京空襲の夢から醒めた水野が、絶叫の如き言葉で締めくくっている。
しかし、水野は言論の自由を剥奪され、その叫びは届かず、東京は焼け野原となった。「美しき復興の都我等の東京を護れ!」
水野は戦時中、反戦平和を求める文章を書き続け、それを公表することもなく亡くなった。
その文章の最後には以下のように記してあった。
「反逆児、知己を百年の後に待つ」
石橋湛山の軍縮論
戦前における自由主義者の代表格が石橋湛山である。
自由主義の色彩が強い東洋経済新報社のジャーナリストとして、軍縮・平和・反戦の言論を振るい続けた異色の存在であった。
石橋の軍縮論は徹底して合理的である。
現代の視点から見れば、それが日本の取るべき唯一の道であったとすら思う。
それ故に大正時代においては夢想論、非現実的、痴人の夢との批判を受けた。
石橋が示したにも関わらず、日本が歩まなかったもう一つの道を振り返ろう。
一切を棄つるの覚悟
21年7月23日、石橋は東洋経済新報紙面に、ワシントン会議に臨む日本代表への要望として「一切を棄つるの覚悟」と題した社説を掲載した。
石橋は日本人は小欲に固執していると指摘し「大欲を満たすが為に、小欲を棄てよ」と主張する。
小欲とはアジアの植民地である。「我国民には、その大欲がない。
朝鮮や台湾、支那、満州、またはシベリア、樺太などの、少しばかりの土地や、財産に目をくれて、その保護やら取り込みに汲々としておる。
従って積極的に、世界大に策動するの余裕がない」
もし日本が小欲を棄てればどうなるか。
よって「身を棄ててこその面白みがある」と論じた。「英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。
何となれば彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保つを得ぬに至るからである」
石橋は植民地を放棄した上で、中国と提携してワシントン会議に臨むべしと主張した。
「弱小国に対してこの取る態度を一変して、棄つる覚悟に改めよ。
即ち満州を放棄し、朝鮮台湾に独立を許し、その他支那に樹立している数多の経済的特権、武装的足がかりを捨ててしまえ。
そしてこれら弱小国とともに生きよ」
以上の観点から、日中両国は提携すべきなのである。「支那と日本とは、融和し、交歓し、提携するのが、地理上、歴史上、国際関係上順であり自然である」
日本が中国を理解し、信頼を得るような態度をとれば、中国は喜んで日本と提携するだろう。
日中が提携すればその利益は絶大である。
日本は国際的孤立から脱するだけではない。
世界の二大大国として、インドやオーストラリアを領有し、メキシコを圧迫し、フィリピンやグアムを武装して、有色人種を虐げている英米が逆に追い込まれるだろう。
朝鮮や満州という一切の植民地を棄て、日中親善という大きな利益を得る。「支那は広い。
満蒙はその広い支那の一局地、しかも経済的に最も不毛な一局地、これを棄つることに依って、もし支那の全土に、自由に活躍し得るならば、差し引き日本は莫大な利益を得る」
石橋の主張は大胆にして非常に合理的であった。
徹底した植民地放棄論の論拠には小英国主義にある。
小英国主義とは英国の海上覇権・貿易優勢を背景とし、財政負担軽減を目的として植民地政策を抑制するという英国自由党の政略論である。
主にウィリアム・グラッドストン内閣やロイド・ジョージ内閣で主張された。
これを日本に置き換えるならば、朝鮮や満州放棄を主張する小日本主義となる。
小日本主義を最初に体系付けたのは東洋経済新報の主幹にして民本主義の先導者である三浦鉄太郎である。
1913年、三浦は満州は政治的には中国のものであり、日本の政治的掌握は一時的に終わる。
満州の経済的発展を促進しても、日本の経済・財政負担が増すだけである。
以上のように指摘し、満州掌握は日英同盟との精神とも合致しないので、満州は放棄するしかないと説いた。
石橋はこの小日本主義を更に発展させてゆくのであった。
小日本主義 – 政治・外交的側面
何故満州は放棄されるべきなのか。
そもそも満州は列記とした中国の領土の一部である。
多数の中国人が農工業・商業に従事し、財産を所有している。
諸外国はそこに資本を投下し、貿易を行っている状態である。
にも関わらず、日本は中国人や諸外国の利益を無視し、満州を併合しようとしている。
大陸への進出は帝国主義であり「独立国たる支那としては許し難き要求である」
これが中国の反日感情を悪化させていると断じた。
更に、この日本の行動が諸外国の猜疑心まで招いていると指摘する。
このような状態を招いてまで日本が侵略的態度に出る理由は、日清・日露戦争に勝利した結果の増長慢である。「他国民の領土を割取すること程、国際関係を不安に陥れ、衝突の原因を紛起せしむるものはない」
当時の中国は軍閥が割拠する内乱状態にあり、中国人に中国を統一する能力はないとの一般認識が日本にはあった。「実際公平に見て、日本ほど公明正大の気の欠けたる国はない、自由平等の精神の乏しき国はない。
換言すれば官僚的、軍閥的、非民主的の国はない」
これに対し石橋は、日本の明治維新ですら20年かけてようやった安定した。
日本の人口の10倍を擁する中国の混乱はおいそれとは収まらないだろうと認識した。
また排日運動については「ある民族の独立統一運動は、まず排外の形を取って現れる」と述べた。
これを尊王攘夷運動になぞらえ、その根っこは強大であると論じる。
このように中国のナショナリズムを肯定し、やがては未曾有の強国になると予測した。
そのような中国に対する態度を以下のように論じる。
日本人は中国を下に見るのではなく、世界の各地で新しい教育を受け、新しい知識を得た中国人が帰来した新しい中国に注目すべきだ。「常に大なる同情と大なる嘱望の態度を以ってこれに対せん」
日本の対中政策は、中国人の政治的希望を尊重し、他国の中国への内政干渉を排除すべきである。「国と国との関係においても親善かつ礼節を尽くす態度を取らねばならない」
そして石橋は大胆な主張を繰り広げる。「支那人をして道理ある政争に安んじて従わしむべきである」
ただし、その寛容は人道の押し売りではない。「我輩はむしろこの際青島も還したい、満州も還したい、旅順も還したい、其の他一切の利権を挙げて還したい。
しかして同時に世界の列国に向かっても、我が国と同様の態度に出でしめたい。
しかして支那をして自分のことは自分で一切処理するようにせしめたい。
日本の為、支那の為、世界の為、これに越した良策は無い」
自分の為、功利一点で行くべきであると説くことに石橋の独自性がある。
「我の利益を根本とすれば、自然対手の利益も図らねばならぬことになる。
対手の感情も尊重せねばならぬことになる。
商人は自分が利益する為に決して取引先商人の感情を損じない。
またその貧乏になることを願わない」
商人のような功利主義によって自分の利益を求めることが相手の利益に繋がり、真の親善が生まれる。「我ら曖昧の道徳家であってはならぬ。
徹底した功利主義者でなければならぬ。
然る時にここに初めて真の親善が外国とも生じ、我の利益はその中に図らるると」
ここに石橋の合理性が現れている。
このような観点から日本は満州を放棄すべきなのだ。
小日本主義 – 経済的側面
当時の日本人は、日本は資源がなく領土も狭いので、資源豊かな他国の領土を併合する以外に国家の発展はないと思っていた。
これを石橋は、日本に資源がないのは少しも憂うべきではないと否定する。
真に憂うべきは人的資源・労働力の少ないことである。
ゆえに、まずは財政改善、軍事費や植民地維持費の見直す。「この人資の利用に誤りなく、その資源の改新涵養に遺憾無く成功し得れば、我が産業は勃然として振興し、我が国運は駸々として発展し、遠からずして彼れ欧米先進に追いつき得るは勿論、遂には彼らを凌駕することも決して不能事ではない」
その上で関税撤廃と市場開放、教育・研究の振興などによって労働力と資本の利用を全面的に改善すべきだと提言した。
そもそも他国の領土を併合して得た植民地は、現実的にどのような利益をもたらしているのだろうか。
石橋は植民地は無価値であると繰り返し説いた。
具体的に1920年の日本の輸出入総額を朝鮮・台湾・関東州植民地、米国、インド、英国に分けて比較した。
植民地は貿易総額9億円、米国は14億円、インド5億円、英国3億円である。
経済的には植民地よりも米英印が遥かに重要である事がわかる。
また、日本の植民地は鉄、石炭、石油、綿花といった重要資源の十分な供給地ではない。
それ故に石橋は外地ではなく北海道の開拓が急務であると主張し、日本人の植民地に対する評価を幻想であると断じた。
では日本は中国に対してどのような態度に出るべきか。
中国の資源を開発して経済上の発展を図り、対中貿易を増進させるべきである。「支那の全土を挙げて、機会均等主義の下に、列強に開放し、欧米先進国民の無限の資本と優秀なる企業力を最大限に支那に流注せしめ、活動せしむるにあり」
中国貿易が活発になれば、日本の国内産業もそれに刺激されて目覚ましい発展を遂げるだろうと説いた。
小日本主義 – 人口・移民問題
日本は領土が狭く、人口も過剰である。
よって海外への移民は人口問題解決上不可欠であり、満州がそれを解決すると広く認識されていた。
これに対し石橋は、我に移民の要無しと論じた。
海外の排日移民問題は感情論であり、人種の相違がある限りは、いくら条約や法律を盾にしても排日運動は噴出し続けるだろう。
そして人種問題は日米・日中間のみにあるのではない。
人種問題はより一般的な問題であり、解決には相互理解しかない。「欧州に排日の起こらざるは、ただここに移住せる我が国民の殆ど無きが為のみ。
また翻って我が国に排米排欧の運動起こらざるも、米人欧人の我に移住せる甚だ乏しきが為のみ。
もし我が国に米人の大挙して渡来し、排米運動の必ずしも起こらずとは保すべからず」
条約や侵略は人種問題を根本的に解決するものではない。
政治家も評論家も人口過剰を憂いて大陸進出を訴える。
石橋はこの点にも、果たして日本の人口は過剰であるのかと疑義を呈した。
確かに交通機関が未熟な近代は、食糧不足が深刻になれば過剰な人口を外に出さざるをえなかっただろう。
しかし今日の場合は工業も盛んで、貿易も拡大した以上は中国や米国の大市場のどこからでも食料を求められる。
このように、移民必要論を経済的見地から退けた。「吾輩は我が国民がかくの如き根拠無き謬想に駆られて、いたずらに帝国主義を奉行し、白人の偏見に油を注ぎ、果ては米人の嫌がるを無理に移民せんとするなど、無益の葛藤に気を疲らすの、誠に愚かなるを思わずんばあらざるなり」
海外の植民地が大きな経済的利益を上げるようにするには、英国のインド経営のように圧倒的な資本と技術と企業力で労働力を搾取するしかない。
しかし日本は植民地経営を単なる棄民政策程度にしか見ていない。
海外の農業従事者に経済的価値を見出していない。
英国のインド経営のような国内資本も日本は有していない。
植民地は日本にとって単なる荷物である。
石橋は植民地財政を調査した結果、朝鮮・台湾・樺太・関東州の植民地に多大な投資をしたにも関わらず、過剰人口のはけ口にはなっていないと証明してみせた。
このように石橋は過剰人口・過剰商品の解決に植民地が必要であるという当時の一般常識を合理的に否定した。
小日本主義 – 軍事的側面
石橋は戦争は無益にして愚かであるという戦争観を持っていた。
また、ノーマン・エンジェルの大いなる幻想を高く評価した。「戦争は総ての場合において利益を生む者にあらず。
然るにこれを費やす処は巨額の軍費と生霊とあるのみならず、更に世界の信用制度を破壊し、自国民の生活をも、他国民の生活とも困難に陥るること、現に欧州の戦乱が我が国に及ぼせる影響に依っても知るを得べし」
大いなる幻想から引用し、経済合理主義の立場から戦争を否定している。「現代の社会は分業の進歩と交通の発展とに基づいて起こった信用制度及び商業的契約の上に築かれたものである。
されば戦争に依って、この信用制度及び商業的契約を破壊することは、ただに戦敗国に苦痛を与うるに止らず、戦勝国もまた戦敗国と同様の損害をこうむり、何らの利益を得る余地もない。
然るに今以って戦争の止み難いのは、この理を覚らず、戦争はやはり勝者に利益をもたらすものと幻想せるが故である」
しかし実際の日本は膨張政策を採り、日中関係だけでなく日米関係をも悪化させた。
それが軍拡競争を呼び、戦争の危険性をもたらしている。
石橋は国防軍備が必要なパターンは、他国への侵略か、他国に侵略される恐れがあるかの二つの場合しかないと説く。
もし他国に侵略する意図はなく、また他国から侵略される恐れもないならば、警察以上の兵力は不必要である。
日本自身に他国を侵略する意図がないことは当然である。
仮に欧米が日本を侵略するとすれば何処を奪いに来るのだろうか。
仮に侵略の虞れがあるとしたら勢力圏、つまりは中国とシベリアである。「日本の本土の如きは、ただやるといっても誰も貰い手は無いだろう」
本土以外の植民地があるから国防の必要が生じるのであって国防の必要性から植民地を必要としたわけではない。「もし我国にして支那またはシベリアを我縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州、台湾、朝鮮、樺太なども入り用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起こらない。
従って我が国が他国から侵さるるということも決してない」
原因と結果を取り違えていると断じた。
ここで導き出されるのは植民地放棄による軍備撤廃論である。
「戦争の起こる源をたたずして、単に軍備の末を制限すべしと主張するは、あたかも病菌を滅せずして疾病を治すべしと説くに等しい」
そして石橋はワシントン会議を前にして、会議参加国に対し、帝国主義を放棄し、軍備も全て撤廃する方針を採る様に勧告した。「戦争の起こる源を絶たんか、最早軍備は制限の要なく、ただ撤廃あるのみである」
石橋は軍備撤廃は一見非現実的に思えるが実行可能であると強調する。
戦争の根本を断てば軍備の制限の必要はなく、撤廃あるのみである。
戦争の根本を断たないで軍備を制限するという主張こそ、かえって非現実的である。
戦争の根本とは何か。
それは帝国主義的な欲望、つまりは海外領土と勢力範囲である。
それがなければ国際紛争の起こる理由はない。
このような前提で軍備撤廃論をぶち上げた。
小日本主義 – 日米戦争論
日本が大陸に進出した結果、国際的に孤立している。
パリ講和会議においては日本は米中の攻勢に直面し、その様を「袋叩きの日本」と表現した。「日本は深く支那人に恐れられ、排斥をこうむり、更に米国には危険視され、盟邦の英人にすら大に猜疑せらる」
石橋はこの状況から日米戦争の危険性を憂いていた。
日米関係だけ見れば戦争は起きないだろう。
だが、そこに中国が入った場合どうなるか。
この大戦期間中、日本は「帝国主義的の経営を、支那に対してすこぶる露骨に行うた」為、日中関係は険悪となっている。「戦争をし足らぬ両国民が、互に驕れる気分を以って、資本主義全盛の波に乗って、外に向かって、帝国主義的の発展を盛んに試みつつある。
しかして両国のこの活動が、支那という一つ舞台に落ち合って、衝突し、火花を散らしつつある」
この孤立から抜け出し、日米戦争を回避するには、日米対立の根幹である満州・山東権益を放棄するしかないのだ。「もし一朝、日支の間に、いよいよ火蓋が切られる時は、米国は日本を第二のドイツとなし、人類の平和を撹乱する極東の軍国主義を打倒さねばならぬと、公然宣言して、日本討伐軍を起こし来りはせぬか」
石橋湛山の限界
以上、小日本主義をまとめれば不拡張主義、平和主義、経済合理主義に立脚する植民地不要論であった。まず、日本が中国や満州に特殊権益を有する限り、中国の反日感情は消えない。
それが日中の政治・外交・経済の阻害要因となっている。
その満州も天然資源や過剰人口のはけ口として想定されるほどの価値はない。
また、植民地を経営するだけの国内資本も日本は有していない。
更に満州を維持する為の財政負担が国内を圧迫し、国民生活を悪化させている。
それだけでなく、植民地を有している為に欧米列国との対立を生じ、日本は国際的に孤立している。
そして最後に、植民地の独立は近い将来避けられないと説く。
満州領有はコストがかかる割には国益にならない。「いかなる国といえども、新たに異民族または異国民を併合し支配するが如き事は、到底出来ない相談なるは勿論、過去において併合したものも、漸次これを解放し、独立または自治を与うる他ないことになるであろう」
であるならば、日本が率先して植民地を放棄し、中国や列国との関係を改善し、日中貿易を促進して、日本の富強に繋げるべきである。
満州への固執が極東情勢を不安定化させた事を考えれば、小日本主義こそ日本が採るべき道であったと思える。
しかし実際のワシントン会議において日本の満州放棄は事実上否定された。
それに続く幣原外交は満州権益を確保しつつ日中・日米関係を改善するものであった。
何故石橋の小日本主義は受け入れられなかったのか。
まず日本に小日本主義を標榜する政党はなく、満蒙権益擁護を主張する保守政党ばかりであった。
満州は二十億の国幣と十万の英霊が眠る聖域であると絶対視されていた。
満州放棄論は現実的ではない。
軍縮論者であった尾崎でさえも満州権益を放棄するなど口が裂けても言えなかった。
石橋も小日本主義は平和主義者の空論として受け付けられなかったと回想する。
次に小日本主義の基礎となった小英国主義は、英国の凋落の中で生み出された政治理念であった。
英国は世界に先駆けて工業国家となり、自由貿易体制に移行して我が世の春を謳歌していた。
だが、後に米国やカナダなどの植民地問題に苦しんだ。
その中で誕生した政治的・経済的・社会的理念が小英国主義であった。
しかし日本は工業国家として未熟で、自由競争の原則も浸透しておらず、植民地経営の苦しみも味わっていない。
その上で、日清・日露戦争の経験から、満州に対し特殊な国民感情を有していた。
このように石橋の合理的な議論を受容するには程遠い環境にあった。
最後に石橋はジャーナリストであり、現実の政治には影響力を発揮できなかった。
満州国の成立や大恐慌による自由貿易システムの崩壊により、小日本主義は空論と化してしまった。
石橋の提言は国内では殆ど顧みられず、社会的影響は皆無であった。
石橋はこの教訓から戦後、自らの評論を現実化する為に政界に進出する。
犬養毅の軍縮論
これまで振り返ってきて、水野と石橋は言論界にあり、その軍縮論は社会的影響を与えられなかった。
政治家であった尾崎も政治基盤がなく現実政治に影響を与えられなかった。
その点を踏まえると、国民党・革新倶楽部・政友会党首として常に政界の第一線で活躍し、そして宰相として内閣を組織した犬養毅の軍縮論は最も迫力があり、最も現実政治に影響力を与えたと言えよう。
軍縮論に入る前に、犬養と中国との関係を紹介しておく。
犬養は近代の政治家の中では中国との関係が最も深い。
明治時代の日本は中国の政治的亡命者の根拠地であった。
犬養は彼らを厚く庇護し、助力を与えることを惜しまなかった。
革命家の孫文や黄興の仲を取持ち、中国革命同盟の成立に力を貸している。
その一方で清朝王党派である保皇派を庇護している。
犬養は日本と中国との間に提携関係が結ばれることを望んでいた。
1909年3月9日には議会において、以下のような演説をおこなっている。
軍備を拡張して大陸政策を推し進めようとする政府を批判した。「およそ隣国で宗教上の関係、学問上の関係、人種状の関係、地理上の関係、数千年来最も親密なる隣国、しかも吾々が開導して、吾々が率いて、そうしてこの開明にまで持ってきたものを、これを敵にする程の下手な外交をやらなければならぬ外務大臣ならいらない」
その上で、対中関係は平和的な競争関係にあるべきだと力説している。
「唯一切外交ということは棚に上げて、一切政略ということは棚に上げて、大砲の重みと鉄砲の重みを以って競争するならば、諸君の仰しやるようになる。
私は唯一言致します。ただ外交というものを棚に上げて、無能にして無為にしてただ大砲の重みだけで競争するという政略であるならば、私どもはこの政略に供するだけの今日金を持っておらぬ」
経済的軍備縮小論
犬養は日露戦争を観察する中で、このまま日露が限りなく軍拡競争を続ければ、必ずや財政破綻に見舞われると考えた。
政府の施策を見れば、軍事、外交、経済は不調和をきたし、戦後経営は失敗している。
犬養は政府を「退嬰するというところの積極方針」であると断じ、その原因を国力不相応の国防計画・軍事計画に求めた。
これを回避するには国家の根本方針を定め、平和的外交を行い「平時の武備をかなり抑制し以って経済上の発展に資する」べきである。
こうして犬養は経済を主、軍備を従として均衡させる経済的軍備論を展開した。
犬養の軍縮論は第一次世界大戦を通じて発展する。
第一次世界大戦を研究した陸軍の報告書によれば、ドイツの敗因は単なる兵力差だけでなく資源問題にあった。
この資源不足を犬養は帝国の危機であると表現して演説を行った。
自給自足出来ない日本にとって、隣国との関係が密接でなければ存立することは不可能である。「日本の狭い土地を如何に巧みに耕作し、如何に巧みに食料を増した所が、その量には限度がある。
我々の民族、盛んに繁殖しつつある民族を何処に置いて安全に食物を得せしむべきかを考えたならば、現在の金勘定以外にまだ重大なものがあるということを考えなければならぬ。
といって私は他の領土を侵略しようというのではない。
ただ、接近地方の関係が平和に安全に秩序が保たれ、日本の農業工業が相まって発達するが為に、我々は子孫の為に相当の努力を致さなければならぬ義務がある」
つまり対中政策こそ最も重要であると説いた。
産業立国論
犬養は日本の国力では陸軍が戦争に勝利するだけの装備を与えるのは困難として「武装の不可能なる裸体に均しき軍隊は無用ではないか」と論じた。
よって次の戦争に向かって、軍備を経済的に効率よく維持した方が現実的であると考えた。
この経済的な国防計画の具体策として1920年、犬養は国民党大会において産業立国論を展開した。
犬養は第一次世界大戦におけるドイツの敗因は経済力であると指摘した上で
と、説いた。「平素の全力を産業の発達に用い、万一の場合には、国力全部を以って対抗し得べき実力を養成しておくことが急務である」
このように世界の形勢は変化しているにも関わらず、日本は旧態依然のままである。
そこで日本の国是を産業立国とすべきとし、以下のように論じた。
「平和の時代があるとすれば、この期間こそ各国家が文化事業に向かって全力を集中して、確固不抜の実力を養成すべき時期である」
日本の産業が打撃を受けているのは、天然資源が無いからである。「実力とはいうまでもなく富の力である。
富を造る所の有形無形の力である。
この力を養成するが、即ち産業立国の主張である。
然るに現今四囲の事情を観察すれば、我国産業の前途はすこぶる困難である。
元来我国の産業は甚だ幼稚で、彼の高価なる高等工芸の産物を以って、欧米と拮抗するまでには前途遼遠で、僅かに東洋向の低価製品を以って順調の進歩を成し来ったのであるが、何ぞ料らん。
東洋向の製品は現在に打撃をこうむり、未来益々打撃をこうむらんとしつつある」
ならばどうすればいいか。「元来資源の貧弱なる我国において、如何せば工業の安全成立を得べきやは根本問題である。
即ち国民多数の生存問題である」
まずは対外的には平和外交を行い、資源の輸入を円滑にすべきである。
1918年、犬養は日本青年協会にて世界永久の平和と日本と題して講演を行なっている。
そこで犬養は、アメリカはウィルソン大統領の新外交を推し進め、フィリピンやハワイを独立させるべきと説いた上で平和外交を論じる。
その上で犬養は以下のように説いた。「世界文明の中心に誇る米国にしてその平和主義を確立せんとせば、この際起ってその絶大の権力を発揮し、直ちに東洋諸小国及びインドその他の諸邦を独立せしめることに尽力すべきではないか。
米国にしてこの事に尽力せんとならば、日本は世界永久の平和の為にこれを助けてこの大理想を実現するに躊躇せぬ。
元来人間の幸福という上から言えば、他国の領土を獲得することは何程の利益をもたらすものではない。
それよりも農商工自由に交通し、取引することが出来ればお互いに幸福ではないか。
即ち諸国共同門戸開放、機会均等何の制限も無き文明世界を現出せしむることは、真に人間の幸福を増進する所以であって、そのために弱小なる国を征服して、その自由を束縛するの必要は毫もないのである。
米国がこの人種共同の幸福のために世界永久の平和を図らんとならば、微力ながら相当の海陸軍を有する日本は、進んでこの大理想の実現に参加努力することと信ずる。
世界の輿論をこの方向に進めんことを切望する次第である」
その改革の為に行財政整理・産業合理化を行い、徹底的にコストを削減する。「知識の発達、技術の進歩、または交通機関の整頓による運賃の節約及び租税負担の軽減、衣食住費の低減など、すべて生産費節約を以ってこれを補足する方法を研究するの外には、血路を開くべきところはない。これが吾党の諸種改革の必要を唱える原由である」
その上で必要な財源を軍縮から捻出することを主張した。
産業立国のもう一つの骨子として、犬養は政党の革正を掲げた。
こうして犬養は産業立国論を自らの骨子とし、後の革新倶楽部や政友会の重要政策に位置付けている。「政権を濫用して私利を営むを以ってあたかも戦勝者が戦機の権利として捕拿するが如く、利権の獲得の至らざる所なきは近来の通弊である。
その弊は一党一派に止まらず、延いて一般の人心を腐敗せしめ、利害得失の外に復た何物をも認めざるが如き風潮である。
その流毒の泉源は党弊である。
吾輩は天下同感の士を喚起して、これを革正したいものである」
軍備縮小に関する決議案
犬養はワシントン会議における海軍軍縮を高く評価し、帝国主義のドイツが敗れた今こそ陸軍軍縮の英断を下すべきだと論じた。
そして1922年2月7日、犬養は衆議院に「陸軍を減縮して政費の按排を計るは我が国目下の急務なり」との軍備縮小に関する決議案を提出した。
この日壇上に上がった犬養は原稿を持たず、水も飲まず、陸軍軍縮に対して所見を述べて行った。
この演説が始まるや議場は水を打ったように静まり返り、犬養の演説に聞き入った。
犬養は軍備は必要であるとして軍備撤廃までは口にしなかったが、徹底した軍縮論を展開する。
犬養は軍縮の決議案を提出した理由を、経済的に軍備を維持することを挙げている。
兵器が日々進歩する中で、日本の兵備は立ち遅れている。
これは陸軍の首脳が自動車や大砲などの兵器に関心を示さず、ただ兵員を増加させてきたことにある。
兵員が多いだけでは強い軍隊とは言えない。
時代遅れの兵装で戦場に立った兵士が、後から近代兵器が必要だと言うので、軍事費がかさんでしまう。
これは「陸軍専横の自業自得」であると断じた。
この解決には軍縮しかない。
師団半減、在営年限短縮、陸軍幼年学校廃止などの軍縮により生まれる余剰金を兵器の近代化、将校の俸給改善に充てるべきである。
こうして経済的に精鋭な軍隊が出来上がるのだ。
犬養は「軍制の大改革は素人でなければ出来ない」と述べ、陸軍に軍縮を迫った。
犬養の軍縮論は総力戦に立脚しており、現実的であった。
また、自身の軍縮論には軍部内にも賛同者がいると豪語してみせ、迫力があった。
議会の突き上げを受け陸軍は軍縮を迫られることになる。
このように大正時代を代表する言論家・政治家、4人の軍縮論を振り返ってきた。
大正時代において帝国議会で、新聞紙面で、公然の場で軍備縮小が唱えられたという事実は、私たちに帝国日本が歩むはずであったもう一つの道を示してくれる。
軍縮論の高まりを受け、陸海軍はどのような対応を迫られたのであろうか。
そして世論はどのように反応したのであろうか。また改めて説明しようと思う。
参考書籍
人物叢書-尾崎行雄 伊佐秀雄
尾崎行雄と軍備縮小同志会 姜克實
日本における近代ナショナリズムの思想的特質とその限界–尾崎行雄を中心として 栄沢幸二
尾崎行雄と軍縮問題について。
近代日本政治思想史発掘 宮本盛太郎 他
戦間期日本における「合理主義的平和論」の射程と限界:水野広徳の論説を中心に 鳥羽厚郎
水野広徳の思想について。
水野が初めから平和主義者ではなく、様々な葛藤を経た事が知れる。
石橋湛山研究-「小日本主義者」の国際認識 増田弘
自由主義は戦争を止められるのか 上田美和
石橋湛山の小日本主義について。
犬養毅-党派に殉せず、国家に殉ず 小林惟司
犬養毅における「平和」外交と軍縮について 時任英人
犬養毅について。
犬養の底知れぬ人物像が浮かび上がる。