帝都復興
杜撰な都市計画
関東大震災の被害が拡大した理由は、耐震・防火などの東京の防災が未熟であったからである。
それを突き詰めれば、城下町特有の狭い街路、近代的上下水道の欠如、不衛生な木造長屋の密集、公園や街路樹の不足、鉄道や港湾施設の未整備などの、東京の都市計画の杜撰さが浮かび上がる。
何故東京の都市計画はおざなりであったのか。
まず、東京の都市計画を担ったのは内務省ではなく東京府であり、財源不足から遅々として進まないのが現状であった。
また、大規模なインフラ整備・市区改正を行わずとも、江戸時代の旧大名屋敷や社寺境内など転用可能な用地を抱えていたので、その必要性もなかった。
例えば官庁街である霞が関や日比谷、丸の内、大手町というのは、旧大名屋敷である。
後楽園も旧水戸徳川家の屋敷跡であるし、市ヶ谷の陸軍用地は旧尾張徳川家藩邸跡である。
帝大は前田家屋敷跡、新宿御苑は内藤家屋敷跡であるし、上野や芝も社寺境内地である。
都市計画を放置しても都市は拡大してゆく。
第一次世界大戦により工業生産が急速に拡大し、大井・品川・蒲田一帯に京浜工業地帯が形成された。
路面電車の交差する銀座や神田、上野の町には三越、白木屋、松屋などの呉服店が軒を揃え、郊外から市街の中心に買い物に出かける人が増えた。
京駅の開業によって丸の内がオフィス街に変貌した。
東京の人口は12年には200万、20年には240万と急増し、路面電車の混雑や未舗装の道路が問題となり、大都市としての抜本的都市改造が改めて必要となった。
こうした状況を受け、本格的な都市計画に着手したのが、寺内内閣の内務大臣に就任した後藤新平である。
後藤は台湾民生長官、満鉄総裁として植民地経営に手腕を発揮し、鉄道員総裁や逓相としても辣腕を振るった官僚である。
18年、建築業界から都市計画法の制定運動が発生した。
後藤はこれに賛同して、自ら大蔵省と折衝し、都市計画法審議機関設置の為の追加予算を成立させた。
これにより内務省に都市計画課が新設され、都市計画法と市街地建築物法を成立させた。
ここに都市計画は大きく前進した。
まず建築制限の制度が確立し、地域制が導入された。
商業・工業地域や高度地区、風至地区を指定する事で、それまで自由放任であった建築を制限し、建築物の用途、構造、高さなどの規制も行えるようになった。
次に道路や広場、河川、港湾、公園などの区域内での私権制限も可能とした。
またパリ都市改造で採用された超過収用も認めた。
これは道路や公園などの予定地の外側を余分に土地収用し、そこに宅地を造成して、売却して財源に充当するというやり方である。
ただし実施例は新宿西口広場程度しかなかった。
最後に受益者負担金を創設し、道路新設や下水道整備、運河、河川改修などに幅広く活用された。
こうして都市計画という観念は従来の既成市街地改良から脱却し、都市を総合的に整備するものだと生まれ変わった。
だが、国庫から財源を確保出来なかった事から都市計画は中々実行に移されることはなかった。
戦後恐慌の中で、都市計画は直接国民の生活に関係がないと断じられ、後回しにされていった。
21年、東京市は後藤を市長に迎えて、共同溝、街路、公園、下水道、港湾、学校、田園都市などの都市インフラ整備を推し進めようとした。
後藤はこの計画に8億円必要であると謳ったが、国家予算に匹敵する予算を立てたことから後藤の大風呂敷と一笑に付され、実行に移されることはなかった。
そのような状況下で、関東大震災を迎えた。
帝都復興の詔書
9月2日、第二次山本内閣が発足し、後藤新平が内務大臣に就任した。
その夜に後藤は帝都復興根本策を記している。
その内容は以下の通りである。
・遷都すべからず
・復興費に30億円を要すべし
・欧米最新の都市計画を採用して、我国に相応しき新都を造営せざるべからず
・新都市計画実施のためには、地主に断固たる態度をとらざるべからず
なお、30億円という数字は当時の国家予算の倍に当たる膨大な数字であるが、それに根拠はなく、後藤の直感であった。
9月6日、後藤は閣議に帝都復興の議を提出した。
震災を理想的な帝都建設のために絶好な好機である。「東京は帝国の首都にして、国家政治の中心、国民文化の淵源たり
従って、この復興はいたずらに一都市の形態回復の問題に非ずして、実に帝国の発展、国民生活改善の根基を形成するにあり」
総理大臣を総裁とする特設官庁を設置すること。
また、帝都復興の財源は国費をあて、罹災地の土地を公債を発行して買収し、整理した上で売却・貸付する超過収用を提案した。
しかし、焼失地全部買上案と呼ばれた超過収用は莫大な費用を要する為に、閣議の了承を得られなかった。
後藤は国が復興事業を担当する帝都復興省も提案したが、これも定まらなかった。
一方、9月3日に山本権兵衛首相は伊東巳代治枢密顧問官に対し、民心安定の為に詔書を出すように依頼した。
伊東はロウソクを使用しながら昼夜徹して詔勅案をまとめ上げ、9月12日に以下、帝都復興の詔書として発せられた。
「天変地異は人力を持って予防し難く、ただ速やかに人事を尽くして民心を安定するの一途のみ」
このように明示した上で「東京は帝国の首都にして政治経済の枢軸となり国民文化の源泉となりて民衆一般の瞻仰する所」
と続け、その為には速やかに特殊機関を設置して帝都復興を審議調査させ、それを枢密院や立法府に諮るべきとした。「一朝不慮の災害に罹りて今やその旧形を留めずといえども、依然として我国都たるの地位を失わず。
その善後策は独り旧態を回復するに止まらず、進んで将来の発展を図り、以て巷衢の面目を新たにせざるべからず」
これを受け9月16日には帝都復興を国家重要の事業に位置付ける内閣告論が出された。
こうして帝都復興は政府の大方針として確定した。
遷都論・復旧論・縮小論
震災初期、復興論とは別に帝都を地方に移すべきとの遷都論が盛んに唱えられた。
軍部は大陸進出を見据えて、朝鮮半島の竜山、兵庫県の加古川、東京府の八王子などを候補に挙げていた。
また、そもそも帝都を作り変えるのではなく、現状復旧をすべきという復旧論も台頭していた。
後藤はこの遷都論・復旧論を退け、帝都復興を推し進めた。
現在において、後藤は東京を近代都市に作り上げられた人物として、その先見性を讃えられる。
一方で、復興計画に反対した政治家や地主は後進的で旧態依然であると批判される。
善悪二元対立で語られがちな帝都復興であるが、果たして遷都論・復旧論は正当性もなく、一切顧みられないような悪しき内容であったのか。
当時、日本の生産地の中心は関西にあり、東京はそれを消費するだけの都市だと思われていた。
そのような消費地の復興に国家予算級の巨額資金を投じ、生産地である地方を放置するのはおかしいではないか。
そもそも東京が政治経済文化の中心である必要があるのか。
そのような地方分権思想が遷都論・復旧論の背景にある。
片や後藤の帝都復興論は裏返せば中央集権・東京一極集中思想である。
後藤は自身の中央集権思想について以下のように述べている。
復旧論を主張したのは内務大臣を歴任した水野錬太郎である。「東京は政治経済文化の中心として我国民生存の母体である」
水野は今行うべきは理想的な帝都建設(復興)ではないと批判する。
被災者の衣食住の不安を解消して生活を復旧すること第一であると主張した。
また、財政困難の中で復興を強行すれば、地方が衰退すると危惧し、このように論じている。
数学者の藤沢利喜太郎は復興ではなく地方分散による帝都縮小を説いている。「国家は独り帝都を以ってなるものではない。
国家の基礎は地方にあって存するのである。
地方は萎靡振るわず疲弊するときは都会もその影響は受けねばならない。
都会にのみ資力智力労力が集中して地方が空虚になれば国家は脳充血に陥り手足は麻痺して健康たることを得ない」
地震国である日本にあっては「国として生存上分散主義を以って立国の根本義」とすべきである。「都市集中の猛烈なる傾向は所謂近代文明の執拗なる要求である」
都市一極集中は最小限度に止めなければならないと説いた。
その上で、震災は東京を縮小する好機である。
陸海軍の工廠や工場、学校を地方に移転し、壊滅的被害を受けた本所・深川区は放棄すべきと主張した。
北一輝の弟にして思想家の北昤吉も東京一極集中に疑問を呈し、地方分散を説いている。
東京には全国の大学の3分の2がある。
そのような文化・教育機関が一極に集中する都市は世界に類を見ない。
東京には帝大経済学部があるのに商科大学があり、帝大工学部があるのに工業大学がある。
不要な私立大学も大量にある。
教育機関の一極集中は全くの無駄である。
そして、これら無駄な教育機関を維持するための費用を負担しているのは、その恩恵を得ることもない地方の農村である。
無用な大学の学生を生産するために農民は租税を支払い、都市の知識階級に搾取されている。
他方で農村の文化水準は著しく低い位置に置かれている。
その状態を放置しながら農村に負担を強いて大東京を建築することが正しいことであるか。
と断じ、更には「専制政治家が事功を挙ぐるに急にして、中央集権的に、専制的に、農村を犠牲として帝都の完成を希求すれば、失敗は決して予言するに難くはない」
と説いた。「中央集権の従来の誤れる途を棄てて地方自治発達の為に力を注ぎ、まず教育機関の如きは可及的地方に移転せしめ帝都再建についての地方の負担を軽減し、更に地方文化の発達を助長しなければならない」
農村が疲弊し、地方が衰退してゆく中、全てを東京に集中させようという帝都復興論は危険極まりない。
中央と地方のより良いバランスの為に、東京への集権ではなく地方への分権は議論されるべき内容である。
復旧・縮小論には見るべき点も多い。
だが、後藤には地方分権的視野はなく、それこそ旧態依然たる中央集権に固執していた。
そればかりか、復興論への反対は政権を揺さぶる為の政争であると喧伝し、反対者を「群盲の刹那主義的自慰」と激烈に批判した。
特に復旧論に立つ高橋是清を敵視し、復興に無知だとか新平民であるとか「お歴々は復興より復旧だ」などと批判している。
確かに東京の都市計画は多大に問題はあるが、地方の問題はより深刻であった。
東京日日新聞も帝都復興については以下のように批判を加えている。
また、とある政友会代議士は、地方から見れば山本首相は東京市長で、後藤内相は東京助役であると皮肉っている。「地方に在住して帝都の状況及び政府のやり口を傍観していると、全く政府は国務を放棄して帝都復興だけに全力を挙げているように思われてならぬ」
ペンペン草の生える道路
後藤の復興論は独善的であるという問題もある。
後藤は帝都復興の自治精神をこのように挙げている。
つまり、自治精神とは私利私欲を捨てて公益のために尽くす公共心である。「日本帝国の自治制というものは義務が根元であるということは明らかなことである」
ここで問題なのは、この公益というのが後藤率いる官僚たちの思い描く理想であった点である。
それは道路や運河、市街地や公園を作り出す理想の都市計画である。
だが、この計画は、都市に私有財産を有する市民や、市民を代表する代議士との利害調整によって組まれたものではない。
むしろ、その計画に反対する政治家や地主は、公共的ではないというレッテルを貼られた。
このように復興計画は官僚の独善で行われがちであるという問題があった。
その典型例が放射線道路計画である。
放射線道路とは東京駅を中心に広がる幹線道路を指す。
評論家の白柳秀湖はこの計画を馬鹿らしい計画と断じ「放射線道路にペンペン草が生える」と批判した。
更に放射線道路の中心にある東京駅を官僚的計画の限界であると批判した。「之が為に多くの市民が住みなれた土地を追われ、幾代もかかって築き上げた生存の基礎を覆されてゆくべき所に迷うこととなり、それが為に、東京の復興が何ほどかその自然の気勢を殺がれる必然である」
東京駅には皇居や官公庁街やオフィスビルは近くにあっても、市民の実際生活とはまるで没交渉の場所にある。
このような東京駅を立派にする一方で、市民の多くがよく利用する大井町の駅はみすぼらしいままで、その混雑は危険な状態に陥っている。
白柳は、官僚の復興計画は都市の歴史を無視し、無人の荒野に理想的帝都を造れると思っているのではないかと危惧した。「所謂理想的都市なるものが、東京駅と大井町駅との対象によって窺われる如く、市民の実際生活と全然没交渉なところに最も広い立派な大道路を築造し市民の実際生活と最も緊切の関係ある所に最も狭いみすぼらしい小道路を置く」
そのような官僚の独善的なユートピアは市民にとってはディストピアであるのだ。
帝都復興院
9月19日、復興計画を審議する帝都復興審議会の官制が公布される。
審議会は山本首相が総裁、後藤内相が副総裁を務め、山本内閣閣僚10名と高橋是清政友会総裁、加藤高明憲政会総裁、伊東巳代治枢密顧問官、財界を代表して市木乙彦日銀総裁、渋沢栄一、和田豊治富士紡社長、貴族院研究会から青木信光、貴族院茶話会から江木千之、国民党系の大石正巳が任命された。
21日に第一回帝都復興審議会が開催された。
だが、この時点で政府の復興計画は固まりきれておらず、顔見せ程度で散開している。
そしてこれ以降2ヶ月近く、開催されることはなかった。
27日、帝都復興院の官制が公布された。
帝都復興院は内閣に直属し、内相を総裁とする復興組織で、その業務は東京・横浜の都市計画・改造関連の事務に限定された。
民心安定や東京横浜以外の復旧、罹災者救護については別機関で行われることとなった。
復興院には後藤が台湾総督府や鉄道員、内務省で起用した官僚たち、所謂後藤系官僚が集結し、連日復興計画が練られることになる。
10月に入ると幹線道路・補助線の幅員拡大、各河川の拡張、大公園の開設、市場の分散などの復興計画が立った。
財源に鑑みて、山谷堀水路の神田川接続を復興計画から除外するなど、実現可能性が持たされている。
ところが、焼失区域を整備しなおすための土地収用に関する方法を巡っては、復興院幹部内で意見が一致しなかった。
土地収用・区画整理について東京市政調査会専務理事の松木幹一郎副総裁が積極姿勢を取る。
一方で北海道庁長官を務めた宮尾舜治副総裁は財源面から非現実的であると断じ、本予算を圧迫する恐れから復興予算を半額にするよう主張している。
ここに区画整理賛成派・反対派で復興院は割れた。
後藤系官僚は鉄道院系・内務省系など一枚岩ではなく、後藤にこれを調停するだけの力はなかった。
後藤は自分で大まかな方針を立て、細かい事は部下に一任するというやり方を好んでいた。
何をするのか聞いてきた部下に対し「何をするかということはそっちで考えろ。俺にわかるか」と述べたという逸話があるほどだ。
それ故に土地区画整理で自派官僚が対立した際、後藤がその収拾を図る事は困難であった。
この様子を新聞は「組織いたずらに複雑ら責任の帰着点いよいよ不明」「行政各機関が互いに割拠して事毎に矛盾衝突」と、復興院の弊害を指摘している。
このような衝突を含みつつ、10月27日には5カ年13億円規模の復興院の復興計画案が閣議に提出され、了承を得た。
この復興計画は幹線道路整備を根幹とし、現在の白山通り、靖国通り、六本木通り、目黒通りや、都心を南北に貫く昭和通りが計画された。
またシャンゼリゼ通りのようなブールヴァールとして、東京駅と宮城外苑、国会議事堂、八重洲通りが計画された。
後藤はこの計画に満足したようで、以下のように述べている。
ところが、復興案は大蔵省の予算枠策定を経て大幅に縮小されることとなる。「世の中には私が大層、膨大な計画をするなどと言っておりますが、これを既往に徴して見ますと、私のやった事が膨大で後で困ったというものは無く、むしろ今までは狭小なるを感じている位であります」
井上準之助蔵相は財政の点から、13億円規模の大計画には反対の立場をとった。
11月21日、後藤との折衝の結果、大正13年度予算を再編成し、その枠内で復興計画に支出できる予算は7億2千万とし、閣議の了承を得た。
更に復興計画の費用の一部を東京・横浜に起債させ、それを国庫が元利支払い保証を行うよう提案した。
復興院はこれを呑まざるをえず、焼失区域以外の広幅員道路や大公園計画の縮小を余儀なくされた。
こうして、官僚の理想案、後藤の大風呂敷でしかなかった帝都復興案は、井上蔵相ら大蔵省によって予算枠内に縮小され、より現実的な復興案に落ち着いた。
帝都復興審議会における伊東巳代治の大論陣
11月24日、閣議の了承を得た帝都復興計画と関連法案、予算案が帝都復興審議会に諮られた。
実に2ヶ月ぶりの開催である。
山本首相や後藤内相は審議会を、単に政府案を審議する場であると考えていたようだ。
これに対し、委員たちは復興審議会を震災復興の最高意思決定機関と捉えていた。
それ故に、審議会を無視して復興計画を進めたことに相当な不満が溜まっていた。
政府は審議会委員たちに復興計画を照会することもなく、閣外委員は新聞で復興計画を知るしか方法はなかった。
復興審議会開会直後から反対意見が噴出した。
まず口火を切ったのは江木委員である。
江木は、復興計画内にある京浜運河や築港は長年の懸案であり、それを火急時に行うのは遺憾である。
道路の幅員は緊縮財政と照らし合わせても不均衡であり、建築制限も過大であるので、まずは復旧を優先してから考えればいいと主張した。
続いて登場したのが伊東巳代治である。伊東は自ら作成した分厚い原稿を広げ、憲法論や詔勅を引用して3時間にわたって反対の大論陣を繰り広げた。
まず伊東は、復興院の仕事は東京・横浜の都市計画立案という復興全体の一部に限定されている。
一方で復興審議会は政治・経済・文化の枢軸である帝都と被災地の全体の復興の重要案件を扱う官制である。
よって、これを広く全般を考究する必要があるとの前提を挙げた。
そして復興院の計画の問題点を痛撃した。
1つに、復興院の計画の根本方針が帝都復興の詔勅の意に背いていると指摘した。
勅意は第一に民心の安定を説いており、その観点から一刻も早く商工業や教育機関を復興すべきである。
ところが、復興院の計画は勅意を帝都新造と曲解し、自らの理想に偏ったものである。
国の全力を挙げて東京の道幅を広げて何になるのか。
これならば遷都の方が理論に叶っていると断じた。
2つに、伊東は憲法第27条を引用した。
つまり、臣民の土地所有権は絶対である。「日本臣民は其の所有権を侵さるることなし」
復興院の一存で銀座・日本橋の土地の譲渡を地権者に強制するというのはどういう事なのか。
徳川幕府よりも乱暴である。
なおこの際、伊東は自らも銀座に土地を持っているが「自分の利益の関係で反対しているように誤解されるようなことがあってはならぬ」と補足している。
このように復興院計画の問題点を挙げたところで、伊東は道路拡張費用の減額を主張した。
道路を広くするのは復興後でもよく、まずは住宅・水道・下水道の充実が優先であるという意見である。
そして最後に「自分の意見は姑息である」と卑下しつつ「この際それをもって大義であると考える」と結論づけた。
伊東の演説が審議会の大勢を決定づけた。
議論は翌日以降の特別委員会に持ち越されたが、26日には伊東が各委員の意見をまとめ上げて以下修正案を披露した。
・二大幹線道路は認めるが幅員は縮小すること
・経費の問題から旧道を再利用すること
・区画整理は自治体一任
・築港・京浜運河問題の削除
・復興期限を5年に短縮
・公園・市場・防火地区・市内運河は原案踏襲
27日に伊東は前日案に商工業への融資、火災保険強化という委員の意見を追加した修正案を提出し、あとは政府一任にすると発言。
これを山本首相が了承し、閉会した。
銀座地主説
伊東の反対論により復興計画はまたしても縮小を余儀なくされた。
この事から伊東は政友会と結んで地主の利権擁護に努めたとか、復興計画に無理解な老害であるとか、バッシングを受けることになる。
その中で最も広く受け入れられているのは、銀座地主説である。
これは、伊東は銀座の大地主という立場から、個人の利益を惜しんで後藤の帝都復興案に反対したという説だ。
伊東の所有する銀座の土地とは、かつて社主を務めていた東京日日新聞の400坪の土地で、新聞社移転後には貸店舗に立て替えていた。
政府の復興案に反対した他の銀座の地主と違い、先祖代々引き継いできた土地ではない。
伊東も銀座の地主の代表者として振る舞ったことはない。
しかも伊東の土地は復興計画から外れてすらいた。
伊東の反対と銀座の地主を紐づけて、欲に深く始末に負えない地主と批判する新聞もあった。
だが、いずれも当てこすりレベルの憶測記事で、当時広く受け入れられてるわけではない。
この銀座地主説を後世広めたのは、鶴見祐輔が記した後藤新平の伝記であった。
後藤自身は銀座地主説を口にしていないし、伊東への批判も行なっていない。
むしろ伊東は後藤の数少ない盟友である。
だが、伝記は伊東の反対論を地主の議論であると多分に脚色し、後藤新平神話とともに銀座地主説が拡大していった。
それにしてもいくら伝記に記されたとはいえ、銀座地主説が広く受け入れられたのは、伊東という人物のイメージがそのような欲まみれの政治家で定着していたからであろう。
伊東は若い頃は美男子として知られ、伊藤博文系官僚として憲法起草にも参加していた。
だが、後年になって吝嗇という悪評が付きまとうようになる。
伊東は東京郊外の土地への投資や株式投資、不動産投資を積極的に行い、一財産を築いている。
それ自体は正当な経済活動であるが、それ故に金銭に汚いというイメージが定着した。
伊東は東京日日新聞社の社主を務めていたが、批判記事をチラつかせて宮内省や実業家を強請ったという噂が立っていた。
また、最低の給与で人をこき使い、総理大臣秘書官室を新聞社の出張所の如く使った。
更に役人たちに新聞を強制的に購読させ、井上馨を激怒させたとも言われている。
原敬は伊東が新聞社を私物化していると批判し、山県有朋も伊東の吝嗇を理由に宮内大臣の候補に挙げることを拒否している。
また、伊東は金をばら撒くことで人脈を広げようとはしなかった。
これは原が殆ど蓄財せずに、金や利権を分け与えて政友会を掌握したのとは好対照である。
伊東は人脈を広げないだけでなく、他人に攻撃的で、あらゆる人物に対して非難を加え、政界から孤立した。
原は「要するに伊東は都合の悪しき時は人を非難する」とその攻撃性を嫌っていた。
それではその蓄財は何に使うかと言えば、山県が第一次山本内閣の後継首班の候補に自分の名を挙げた書簡を300百円もの大金で手に入れている。
山県は、伊東が首相の器でもないのに他人に手紙をひけらかして自慢していると激怒している。
このような蓄財の事実と吝嗇の悪評が、伊東の銀座地主説に説得力を持たせたといえよう。
帝都復興審議会再考
改めて言えば、伊東が帝都復興案に反対したのは銀座の地主だからではない。
伊東は震災当初から政府の震災対策に関与しており、人心荒廃を非常に憂慮していた。
そのような政治家が、自分の土地が脅かされるからと言って政府の施策に反対するような小者では断じてない。
伊東は帝都は復興されるべきだと考えている。
それは「単に旧に復することでは無い」「進んで将来の発展を図り、以って巷衛の面目を新たにしなければならない」との言葉に表れている。
その帝都復興とは詔勅の具体化=民心安定であると考えた。
それ故に住宅再建・商工業振興は最優先であるはずだ。
当然計画も国家の経営に関わる、軍事・教育・通信交通・官界全般に渡るべきである。
しかし政府はそれらに一切言及せず、東京・横浜の都市計画だけを復興計画として提出した。
しかもそれが財政との均衡が取れていないのだから、大問題である。
更には政府は復興院が恣意的に土地収用が行えるという復興法案を立て、土地所有権という国民の権利を侵害しようという憲法違反まで犯そうとしている。
憲法起草者の一人として、憲法の番人を自任する伊東からすれば到底許容できない。
伊東自身、以下のように回想している。
伊東は民心安定を復興として考え、後藤は近代都市計画を復興として考えた。「土地区画整理自体は趣旨としては大賛成であるが、地主組合がすべきことであり、土地所有権を保証している憲法の下で、無償で取り上げることは無法であるし、非常立法としても考えものである」
帝都における両者の対立は、この齟齬によるものだ。
そもそも復興審議会を設置したのだから、復興計画に関する連絡を密にしておけば、そのような齟齬など生まれなかったのではないか。
それを2ヶ月も放置して、いざ開催してみたら両者の隔たりが決定的になっていただのとは、一体政府が復興審議会をどう考えていたのか全くわからない。
帝国議会における復興案縮小
復興院は審議会の提案を受け容れ、計画変更に着手した。
街路縮小、築港・運河削除の他に土地区画整理の1割無償減歩が明記され、予算は6億円まで削減された。
こうして復興案は第47回臨時議会に提出された。
議会で承認を得れば、晴れて復興案執行であるのだが、当時の衆議院第一党である政友会は復興計画に反対の立場を取った。
政友会は土地区画整理や街路の費用の減額、区画整理は地主一任、新設街路2割減によって復興予算を圧縮すること。
更には帝都復興院を廃止してその事務費全てを削除し、内務省の一局にすべきとすら主張した。
これは山本内閣への揺さぶりの一面もあるだろう。
それ以上に、特定の大都市復興の為に地方が犠牲になることへの反対や、復興計画の財源の裏付けがないことを批判したものであった。
また、復興費のために海軍省の建艦費が、内務省の治水・港湾・土木事業費が大幅に削減されていた。
その結果、政友会の地方支部からは反対が噴出していた。
政友会は最終的に政府原案から1億円近くを削減した修正案を可決し、貴族院に回付した。
議会の反撃を受け、閣内からは衆議院を解散すべしとの意見も出た。
これに対し帝都復興の主務である後藤は議会にて、以下のように演説した。
このように政友会案丸呑みを表明し、解散総選挙は回避された。「今や帝都の復興は災余の民生に直面して寸時もこれを擱き難きときにあたり、時局の紛糾を見るが如き事あらば、各般の事務、為に頓挫し、市民をして益々、窮地に陥らしむるの結果なるは必然にして、ここは到底、政府の忍びあたわざるところなりとす。
議会を解散して民意に問うの途なしとせざるも、帝都の復興は事百年の大計に属し、もとより遺漏なき事を期するといえども、窮迫せる市民の現状に鑑み、忍び難きを忍びて、しばらく議会の修正に同意を表し、他日を期して完気を期せむとす」
この解散回避について、東京市長で後藤系官僚である永田秀次郎が一枚噛んでいた。
永田は、解散となれば東京の復興は3ヶ月近く遅れることになるので、計画が縮小されたとしても復興計画だけは通すよう、後藤に嘆願したという。
確かに政争による復興の遅れが後藤を思い留まらせた一面もあるだろう。
ただ、政友会・憲政会の支持を得ない山本内閣が、解散総選挙に打って出ても勝てる見込みがなかったというのが実状であった。
こうして帝都復興は35億円から始まり、大蔵省によって7億円に削減され、帝都復興審議会により5億7千万円まで削減され、政友会によって4億7千万円まで削られた。
それだけでなく、後藤肝いりの帝都復興院も廃止された。
その推移から、加藤高明は復興案を「大杉(栄)の骨が何処に行ったものやら骨無しで葬式したというが、今度の復興案もその通りで骨無し復興案となってしまった」と皮肉っている。
消えた帝都復興案
削減された帝都復興案は非常に魅力的である。
復興案は当初、非消失区域を含む東京全体を都市改造の対象とした。
交通ターミナルの池袋、新宿、渋谷、目黒と都心部を結ぶ幹線道路を建設し、その下に地下鉄を通そうとしていた。
だが、事業計画が焼失区域に限定されたことで非消失区域の山手内側は対象外となり、区画整理が行われなかった。
この地域のインフラ整備は後に苦労することになる。
またアヴェニュー、大広場、ウォーターフロント、リバーサイドパークなどの市民生活を豊かにする都市インフラは真っ先に削減対象となった。
わずかに隅田公園が規模を縮小しつつ誕生した程度である。
区画整理されなかった地区の都市計画は無秩序となり、市街地もまた無秩序となって際限なく広がっていった。
木造密集地帯が広がり、道路も狭く、不自然に屈折し、防火帯となる広場もなく、火災に弱い市街地が現れた。
1983年には昭和天皇はこの幻の帝都復興案を以下のように回想している。
この事から、後藤の理想的復興案は伊東や政友会の不合理な反対で無惨にも潰されたという通説が定着した。「もし、それが実行されていたならば、おそらくこの戦災がもう少し軽く、東京あたりは戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今更後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思っています」
確かに後藤の復興原案が全て実現していれば、東京はパリの都のような近代的計画都市となっていたろう。
その点から言えば、復興計画の削減は先見性がない。
これを別の視点から見れば、復興計画の削減は未曾有の大震災を前にして、復興院官僚、大蔵官僚、帝都復興委員、帝国議会の代議士たちが、それぞれの見識の中で精一杯の論争を戦わせた結果であるとも言える。
その結果、絵空事に過ぎなかった帝都復興案は、様々な階層の利害調整や合意形成を経て、日本において実現性の極めて高い近代的都市計画に生まれ変わった。
そのように考えれば、4億7千万円の帝都復興案は日本の政治の健全性を物語っている。
35億円の帝都復興案はナチスドイツやソヴィエトロシアのような独裁国家でしかなし得ないのだ。
帝都復興
ようやく復興に着手した東京であったが、焼失地域の区画整理は地主の猛反発を呼んで非常に難航した。
そこで、復興事業を推し進めた永田東京市長は、以下のように論じた。
東京のインフラの未熟さが震災の被害を拡大させたのだ。「父母兄弟妻子を喪い、家屋財産を焼き尽くし、川を渡らんとすれば橋は焼け落ち、道を歩まんとすれば道幅は狭くて身動きもならぬ混雑で、実にあらゆる困難に出会ったのである」
道路橋梁の拡大や、防火地帯の設置、街路区画の整理はこの観点から必要不可欠なのである。
また、永田は帝都復興の意義を以下のように説いている。
「我々は何としてもこの際、禍を転じて福となし、再びこの災厄を受けない工夫をせなければならぬ。
これが今回生き残った我々市民の当然の責任であります。
後世子孫に対する我々の当然の義務であります」
東京市や内務省の草の根の啓蒙活動により、漸進的であるが区画整理は実施されてゆく。「全く我々市民の自覚により我々市民の諒解によってこれを実行したい。
我々東京市民は、今や全世界の檜舞台に立って復興の劇を演じておるのである。
我々の一挙一動は実に我が日本国民の名誉を代表するものである」
区画整理により、道路に面していない下町の宅地や、狭くて不衛生な路地、畦道が市街地と化したスラムは一掃された。
幹線道路から生活道路が伸び、それに沿って公園や上下水道が整備され、健全な市街地が形成されてゆく。
靖国通り、本郷通り、外堀通り、銀座通り、浅草通り、国際通りといった幹線道路は延長・拡張された。
その際、歩道と車道を分離し、街路樹を植栽する近代道路設計の思想が取り入れられた。
また、鳴海通り、新大橋通りが新設され、東京の交通環境は格段に向上した。
公園・緑地広場も随所に配置された。
日比谷公園周辺、行幸道路、八重洲通りには並木道が作られ、内幸町通りには中央部に遊歩道が設けられた。
昭和通りには中央にグリーンベルトが設けられ、都市景観が整えられた。
震災において浅草寺を中心とする浅草公園や、清澄庭園などの公共空間に多数の市民が避難し、難を逃れている例が見られた。
この事から、公園や緑地は都市景観や市民のレクリエーションの為だけでなく、人を救うための防火帯や避難地として大いに役立つことが分かり、都市の重要インフラであることが認識された。
そこで隅田公園、錦糸公園、浜町公園の大公園と、小学校に隣接した小さい公園が新設された。
また、御料地や財閥の寄付により、猿江恩賜公園、旧芝離宮公園、清澄庭園、旧安田庭園などが大規模な公園として公開された。
橋梁もまた帝都復興の象徴であった。
火災により都市部の河川や運河にかけられていた木造の橋が焼け落ち、逃げ場を失った市民が命を落としたいう苦い経験があった。
その為、復興事業において橋梁は重視され、耐震・耐火構造と優れたデザインとなるように設計された。
その中で、隅田川にかかる相生橋、永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋は都市の美観の為に、特に意匠に力が注がれた。
聖橋や両国橋、吾妻橋などの意匠も美しく、復興橋梁として市民の評判を呼んだ。
帝都復興の中で目覚しい成果を挙げたのが同潤会である。
同潤会は帝都復興のために国内外から寄せられた義援金をもとに、復興事業の住宅政策の担い手として設置された財団法人であり、日本初の公共住宅供給機関である。
復興事業において当初は公的な住宅建築は検討外であり、わずかに生活困窮者向けの公営住宅に留まっていた。
そこで復興義援金によって誕生した同潤会は、本格的な住宅政策に取り組んだ。
同潤会は日暮里や猿江にあったスラムを改良し、そこに都市労働者向け・中産階級向け・職業婦人向けの衛生的な集合住宅を建築した。
その中で表参道や代官山、青山、江戸川に建てられた中産階級向けのモダンな鉄筋コンクリートアパートは同潤会アパートとして知られるようになる。
このような復興計画が進み、30年3月26日には帝都復興完成記念式典が開かれた。
天皇が隅田公園や清洲橋を巡航し、昭和を彩る偉業としての帝都復興事業が完了した。
参考書籍
関東大震災 中島陽一郎
関東大震災の基礎的研究。
後藤新平-大震災と帝都復興 越沢明
東京の都市問題と帝都復興について。
帝都復興の時代 筒井清忠
帝都復興における後藤新平に批判を加える一冊。
大正大震災 尾原宏之
関東大震災を政治・思想から見直す一冊。
非常に様々な知見を得られる。
災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災【第3編】 内閣府編
第2回帝都復興審議会における伊東巳代治の反対論 吉川仁
復興審議に関する基礎的な内容。
後者は銀座地主説に初めて真っ向から反論を試みた名論文。