犬養外交と第一次上海事変

コラム

犬養毅

第二次若槻内閣が総辞職し、元老西園寺公望は政友会単独内閣か民政党内閣の継続、政・民連立内閣の3つの選択肢を迫られた。

迷いぬいた結果、西園寺は政友会単独を選択し、組閣大命は政友会総裁の犬養毅に降下。

31年12月13日、犬養政友会内閣が成立した。

外務大臣は犬養が兼任し、後に駐華公使を歴任した、中国通にして犬養の女婿である芳沢謙吉駐仏大使を起用した。

犬養は第一回議会以来の民選政治家であり、大隈重信の立憲改進党に参加して以来、その生涯の殆どを政党政治家として過ごした。

当世策士の標本と評されるほどの策謀家であり、常に政局の中にあって、党を指導していた。

憲政の外にある長閥・元老とは常に敵対し、山県有朋をして、朝野の政治家の中で自分の許を訪れないのは犬養と頭山満くらいだと言わしめた。

しかし、辛辣な皮肉や毒舌で敵を作りやすく、妥協を許さない苛烈な性格から、党勢は一向に振るわなかった。

自ら率いた国民党、革新倶楽部共々少数党に零落し、政界を引退したのは1926年のことであった。

それが、田中義一総裁を失った政友会により担ぎ上げられ、75歳にして大政党の総裁として政界に復帰。

満州事変の時局の中で、ついに政権の座が巡ってくるとは、数奇な人生である。

日本の近代史において、犬養はアジアとの関係の深さに最大の特徴がある政治家である。

クーデターにより亡命してきた韓国の金王均の保護、フィリピンやベトナムの独立運動の支援、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースの庇護などを引き受けている。

特に、孫文を始めとする中国革命勢力を支援し、個人的な関係を深めていたことはよく知られている。

当時の国民党にも犬養と縁故がある孫文以来の政治家が多数あり、犬養の組閣は満州事変の円満解決の希望を彼らに抱かせるものであった。

犬養の対中観念

犬養は日本に亡命してくる中国人や東アジアの要人を保護し、彼らに後援を与えていた。

また、犬養自身、漢籍や刀剣を愛好し、儒学を始めとする東洋学に造詣が深く、自らの教養を東洋の伝統に多く負っていた。

この事から、犬養には東アジアに対する憧憬があり、孫文らの支援も同情から来ているのではないかと想像出来るかもしれない。

ところが、犬養は現実の東洋、中国と朝鮮に対しては厳しい評価を下している。

「柔軟で臆病な世界で一番弱い国、一番微力な国と言えば朝鮮であり、世界中で一番卑しいのは中国であり朝鮮である」

日本を東アジアでいち早く近代化に成功した国と位置付ける事で、近代化に抵抗する中国・朝鮮を蔑視する、アジア主義的発想である。

犬養にとって中国は友人でも、単なる利害関係でもなく、政治に関わる重大問題であった。

中国の興亡は日本の生死に関わると重大視し、中国の保全を日本の責任であり権利であると認識していた。

よって、中国の領土保全という両国の利益の為ならば、事実問題として中国の主権の制限も已むを得ないとした。

また、中国において日本は列国よりも優越的な地盤を築くのは当然であるとし、それが東洋の平和に繋がると考えた。

犬養にとって外交とは、日本の公正さや誠意を諸外国にアピールし、そうした優越的な立場を中国に理解させる努力であったのだ。

なお、この考えは犬養特有というより、当時の一般的な対中観念であったと言えよう。

犬養と孫文

犬養は将来的に日本が東アジアの優越的立場に就く為に、常に東洋情勢に通じ、協力者を得る必要があると考えた。

そこで目をつけたのが大陸浪人である。

明治時代、一旗あげる事を夢見た数千人の壮士たちは、我先に中国に渡り、中国の英傑を支援する「支那取り」を行った。

彼らを何時しか大陸浪人と呼ぶようになった。

大陸浪人が作詞したとされる馬賊の歌は、彼らの性格を表していると言えよう。

「俺も行くから君も行け、狭い日本にゃ住みあいた、波隔る彼方にゃ支那がある、支那にゃ四億の民が待つ」

1897年、犬養は対中政策を確立するために、政府の機密費を用いて、大陸情勢に通じる大陸浪人を使うことを立案した。

当時の大隈外相はこれを容れ、大陸浪人の宮崎滔天を外務省嘱託として中国に派遣した。

これが縁となり、犬養は大陸浪人のパトロンとなった。

金の無心を断らない懐の深さから、宮崎は「木爺は余が心的再生の母なる哉」と心服すらしている。

そして宮崎を通じ、革命家・孫文と関係を持った。

犬養は清朝は衰退の一方にあると見て、将来中国の中心となりうる人物との繋がりを求めた。

孫文をそれに足る人物と見て、中国革命運動を支援し、東洋の平和に貢献可能な親日的安定勢力を構築しようと考えた。

なお、犬養は特別孫文を目にかけたという訳ではなく、王党派や清朝高官とも繋がり、幅広い関係を有した。

よって、革命勢力が弱体であることが判明すると、革命運動を通じた新日政権樹立を早々に諦め、孫文を見限っている。

犬養にとって孫文は、将来の利用価値がある政治資産の一つに過ぎなかった。

ただし、孫文は犬養に受けた恩を忘れず、孫文恩顧の政治家たちも犬養との親交を続けた。

孫文の死後、国民政府は孫文の改葬の式典に犬養と頭山満を国賓の礼で迎えているのが、その証左であった。

犬養と森恪

中国と深い関係にあった犬養は、満蒙権益を日本の条約上の権利であると肯定している。

「人口過剰な日本は、周りの地域に平和的に進出しなければならぬが、政府は条約上の権利すら侵害されるままにしている」

ここで言う政府とは若槻内閣を指し、満州事変についても以下のように日本の正当性を主張している。

「満州事変の原因は中国軍の鉄道破壊という如き一個の突発事件に非ず、永年間にわたる彼の条約無視、我が権益無視の意図の累積したる結果が、偶々今般の一事件と化して世界の耳目を聳動せしめたのである。

即ちこの事変に関して、外国が最も重要視すべきは、個々の派生事にあらず、満蒙20年間の歴史である」

この観点から、満州事変解決に必要なのは

「我が国が弁明の外交より脱して自主的新生面を開拓するの一事である。

確固たる一定方針を以て、伝統の国是を断行するの一事である。

即ち文武一途、衆人一致を以て、満州の秩序回復の手段を採るべきである」

ただし、犬養は満蒙にさしたる価値を見出しておらず、条約上の権利が守られていれば何ら問題はないとし

「条約を真実に向方が履行してくれれば、それ以上は取れと言って熨斗をつけてくれても取りやせん」

と、新聞記者に豪語している。

犬養は満蒙に固執するのではなく、その向こうの中国大陸そのものを重視している。

そもそも日本は資源が貧弱なのに対し、中国の富の泉源は非常に大きい。

「大陸でなければ何の仕事も出来ぬ。

有形のもの然りだが無形のものまた然り。

日本にしてアジアはアジア人のアジアなりという考えなら、島国に引っ込んでは力のあるものでない。

もし日本の人口で世界的戦争が起こったらどうする事も出来ぬ。

大きな戦争をするには是非4億の人口を抱き込まなければ出来ない。

私は必ずしも戦争をするというのではないが、世界の平和を維持するには武力においても富力においても黒色人種を全て包含し必勝を期するの覚悟をせなければならぬと考える」

総力戦の観点から、日本に必要なのは、満州から中国、更にはインドにかけての経済提携である。

「前に横たわっている大陸に経済的の結合をする必要がある」

この考えは、犬養擁立を担った、政友会の森恪と共通するところが多い。

森も条約に基づく満蒙権益は蹂躙されており、懸案解決の努力は当然であると、満州事変を正当化した。

ただし、その為に満蒙を領有しようという関東軍の発想は飛躍しすぎである。

満蒙に必要なのは機会均等・門戸開放であり、それを通じた中国本土との経済提携である。

4億の中国人の生産力・購買力こそが、日本の産業発展・貿易振興に必要であるのだ。

よって、何よりも必要なのは中国本土に安定した政権が誕生し、日本の条約上の権益を尊重する事である。

「支那人が速やかに内争を止めて支那全体が平和であり、開放的であり、合理的な、内外人共平和に事業に安心して従事できるような状態になって貰いたいという希望以外に実は何もない」

犬養も中国の安定を重んじ、事変をきっかけに国民政府が共産党やソ連と連携し、中国が赤化するのではないかと憂慮した。

一般的に水と油と理解される犬養と森であるが、日中経済提携を根本に、中国の静謐を重視するという点では一致していた。

孫科政権

31年12月15日、国際連盟を通じた満州事変の解決に失敗した蒋介石は、広東派の圧力に屈して下野した。

国民党元老たちの斡旋もあり、年末には広東派主導の南京・広州統一政府が誕生した。

孫文の長男である孫科が行政院長に就任した事から、孫科政権と呼ぶ。

広東派が政権中枢に返り咲いたことは、日本にとって追い風であった。

広東派は広州政府時代に、蒋介石に対抗する為に日本の承認と援助を得るべく、対日関係修繕を図っていた。

満州事変も少数日本軍人の問題であるとし、事件の規模を済南事件程度と見て、外交交渉で妥結するものだと考えていた。

事態がここまで紛糾した責任を日本に求めるではなく、蒋の外交政策の無力さに求めていた。

広東派復権と同時期に、かつて革命運動を支持し、孫文とも深い関係にあった国民党の同志、犬養が政権の座についた。

広東派はこれを満州事変解決の好機と見て、対日交渉を進める姿勢を見せた。

12月18日、広東派の重鎮、胡漢民は重光葵駐華公使に対し

「畏敬し来りたる犬養大臣の出馬を見、ここに始めて孫文の遺志により日華関係の基調を調整し得る日本政府を得たるは、本問題解決に一の光明を与うるもの」

と述べ、日中国交に心機一転の機会が訪れたとし、以下の所見を披露した。

まず、日中双方が大局的見地に基づき、日本側に中国の国民感情を逆撫でする対華二十一ヶ条問題を棚上げさせ、その上で日本が自発的に撤兵する。

中国側は、日本の満蒙権益に理解を示さない張学良を排除し、満州に軍閥が跋扈するような余地を与えないよう取り計らう。

この打開策に犬養の返事が届き次第、中国側が密使を送り、親書を持たせる。

広東派の外交政策は対日宥和的で、交渉妥結にも前向きであった。

満州事変という日中関係最大の危機を前にして、広東派は犬養との連携に期待を寄せた。

満蒙分離独立構想

西園寺が犬養を首相に奏薦した際、天皇はこのような注文を寄せた。

「今日のような軍部の不統制、並びに横暴、要するに軍部が国政、外交に立ち入って、かくの如きまでに押しを通すということは、国家のために頗る憂慮すべき事態である。

自分は頗る深慮に堪えない。

この自分の心配を心して、お前から充分犬養に含ましておいてくれ」

西園寺は直ちに犬養を招き、天皇の懸念を伝えた。

満州事変を抑えるにあたり、外交に軍部が容喙している状況は非常に厄介であった。

軍部は満蒙に中国から分離独立した新国家を樹立し、それと懸案の交渉することを求めていたからである。

事変直後の31年10月2日、関東軍は満蒙問題解決策を立てている。

これは、日本の保護下に満蒙に独立国を樹立し、その国が日本に国防、鉄道、通信を委任することで、満蒙を実効支配するというものである。

関東軍は軍事行動と並行して独立工作を進め、水面下で新国家の受け皿となる満蒙側勢力の培養に努めていた。

その中心は、元々関東軍と繋がりのあった反張学良派や清朝復興を目指す復辟派であった。

11月9日、関東軍は復辟派を抱き込む為に天津で謀略を行い、清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀を租界から脱出させた。

溥儀は間も無く満州に姿を現して、関東軍の保護下に入り、来るべき満蒙新国家の元首に内定した。

他方、満蒙には日本への不信や、張作霖やソ連の動向を気にして、去就を明らかにしない軍閥や政治家がいた。

関東軍は彼らを買収して懐柔し、それでもなお抵抗する者あらば軟禁して屈服させた。

更に民衆による自治体設立を軍が援助し、管理下に置くことで、自治運動を独立運動へ誘導していった。

独立運動はあたかも中国人自らが進められたかのように見せ、その内面は軍事的威嚇による後援を与えた。

こうして東北部の省政府は関東軍によって乗っ取られ、これらの地方政権が自発的に連合して中国本土から分離独立する形で、満州に新国家を建てようとしたのだ。

犬養は満蒙独立国について、非常に難色を示していた。

何故ならば満蒙の独立というのは、中国の主権、独立、領土保全、門戸開放を保証する九ヵ国条約に真正面から衝突する為である。

それは、列国との衝突を招くだけでなく、日中経済提携に必要不可欠な友好関係すら犠牲にするものである。

では、日本の満蒙権益擁護と満蒙独立阻止を並立させるには、どうすれば良いか。

犬養は、形式上は満蒙の政権分立に留め「事実の上で我目的を達する」という、実を取る方策を考えた。

つまり、満州に張政権に代わる自治政府を樹立するが、宗主権はあくまで中国のものとし、排日行為取り締まりに責任を負わせる。

満蒙の経済開発は日中が平等な立場で提携して行い、ソ連に備えるため北満州国境の防衛が日本が担うというのだ。

これは後のリットン報告書の解決案の大枠と合致している。

萱野密使外交

犬養は、軍部どころか外務省をも飛び越え、私設外交官を通じて直接南京政府と交渉し、満州事変を解決してしまおうと考えた。

これは、日中間の問題がここまで複雑化した理由を、中国が名分を重視しているのに対し、日本は法律論を振りかざして「役人式」にやっていたからだと考えたからだ。

31年12月15日、犬養は組閣早々、親交にある萱野長知を呼び、このように要請した。

「中国今日の内情を究め、当面極悪時局打開の方途を見出してくれ」

萱野は宮崎とともに古くから中国問題に関与し、革命派と行動を共にし、孫文の日本亡命を斡旋した大陸浪人である。

犬養は「役人式」の外務省を回避し、腹心を密使として中国に送り込み、国民党幹部との個人的な関係を利用して解決の糸口を探る、和平工作を画策した。

12月21日、上海に到着した萱野は、国民党の重鎮、居正の出迎えを受ける。

居正は国民党右派、西山会議派の大立者であり、かつ萱野に娘を養女に出していたことから、特に親しい関係にあった。

早速、萱野と居正は和平案の作成に取り掛かり、次の方針を決定した。

・張学良を「厳罰」に処し、それに代わる新政権を満州に樹立する

・新政権を確立するために、居正を主任とする委員会を組織し、満州の一切の懸案は地方交渉として、居正にその権限を与える

・委員会の設立後、日中双方の軍事行動は即時停止する

満州は中国の一部であるという大原則の下、新たな行政組織を通じて日中の経済提携を図るという、犬養の方針と合致するものである。

12月24日、萱野は南京に赴き、広東派の孫科と直接交渉し、先の方針を打ち合わせた。

萱野は満州には日本の国民感情があること、孫文同志の犬養が総理となった今こそ解決することが懸命であること、所謂政友会伝統の外交方針を取らない旨を力説した。

満州事変の無条件和平を意味する方針に、孫科も当初は難色を示していたが、ついに居正に一任することを言明した。

12月25日、萱野は合意の内容を電報で日本に送った。

中国政府は満州問題を解決するために、居正を全権とする委員会を組織する。

委員会の任務は東三省の行政整理、秩序維持、張学良処分、日中懸案解決である。

この懸案解決とは、満州全域に邦人が雑居の自由、土地商租権を得て、中国人と平等の立場に立つことである。

そして、委員会組織と同時に停戦し、直ちに日中直接交渉に入って、撤兵を即時断行する。

まさに満州事変を即時解決するような都合の良い合意であるが、肝心の日本からの返電は中々来なかった。

漏洩

萱野外交は極秘裏に進められるはずであったはずだが、当初から外務省に筒抜けであった。

というのも、萱野は上海に向かう船の中で、軍縮会議に向かう松井石根陸軍中将と出会い、使命を明らかにしてしまったからであった。

萱野外交は松井から重光公使に伝わり、重光は外交官の頭越しに行われる密使外交に相当機嫌を損ねた。

また、中国側が萱野との交渉を重光に問い合わせた事で、密使の存在どころか、その交渉内容も外務省に知られることとなった。

これを伝え聞いた森は、犬養が留守であったことから、萱野からの電報を犬養宅に届けないように逓信省に働きかけ、握りつぶした。

そのような事情など知る由もない萱野は、返電が来ない事に煩悶した。

萱野は返電があり次第、居正が満州に出発する準備は整っており、参謀本部中国課の重藤千秋が関東軍との調停にあたる算段はついた。

このまま返電が遅れれば、孫科や居正たちの面子も立たない等と電報を送り、犬養をせっついた。

折しも、孫科政権が誕生し、張学良政権も内部崩壊に向かっており、和平工作を進めるには絶好の機会が訪れていた。

犬養から返信があったのは、翌32年1月1日であった。

犬養は張学良が錦州から撤退した後、1月10日頃に居正を満州に出発させるよう指示した。

この際、日本から然るべき重要人物として、満鉄総裁を歴任した山本条太郎を送りだし、満蒙問題を解決するつもりであった。

犬養は萱野外交の進展を牧野伸顕内府に報告し、牧野に相当根拠があると感想を抱かせるほどの自信を覗かせていた。

だが、この頃には萱野密使外交は外務省で大騒動になっていた。

31年12月31日、重光は本省に対し、萱野が総理の命を受けたと自称し、南京を訪れ、満州問題について立ち入った交渉を行なっているが、果たして事実なのかと質問している。

秘密交渉の存在が知れてしまった萱野は重光を訪問し、訪中の目的を以下のように説明した。

「自分は犬養総理より一応南京側の脈を見来るべしとの話により、渡来せる次第にて目下南京には自分年来の友人多きにより、旧同志として隔意なき意見の交換をなし居るに過ぎず、立ち入りたる交渉は素より自分らの為すべき筋合いに非ず」

これに対し重光は、具体問題に深入りすることは危険であり、その辺は用心し、常に事情を内報するように注文した。

32年1月2日には外務省も、萱野は本人の希望により中国に渡っており、何ら交渉を行う趣旨にはない。

南京政府の大体の空気の見当がつき次第改めて外務省公式機関を経て正式な外交ルートに乗せると返電した。

ここに萱野を通じて南京側と合意を形成し、既成事実で満州事変を抑えるという密使外交は事実上破綻した。

不可侵協定

胡漢民や居正は萱野密使により犬養の意向が判明し、満州問題の解決は困難ではないと認識した。

一方、陳友仁外交部長は、犬養の態度に不信感を持ち、立場的には軍部に近いと見做していた。

当時、陳は独自のルートを通じ、日本の軍人の姿勢を探っていた。

そんな中、軍縮会議の全権として中国に立ち寄った松井石根陸軍中将の話は衝撃的であった。

松井は中国高官との会談の中で、陸軍全体の意見として、満州の政府は満州人によって選ばれるべきで、中央から指名される為政者は排除される旨を口にした。

中央と満州を繋ぎ止める委員会案も否定した上で、中国は大きすぎるから中央政府など出来もしないと述べ、もうすぐ満蒙に新国家が誕生すると放言すらした。

満州における中国の主権を否定する日本陸軍の思惑は明らかになった。

いくら萱野が密使として居正や孫科と合意を形成しても、日本政府が陸軍を抑えられないならば単なる幻想に過ぎない。

そこで陳は32年1月5日、正式な外交ルートを通じ、日本に不可侵協定を申し入れた。

不可侵協定が結ばれれば自然と双方の撤兵に繋がるので、日本の面目も立つし、中国の輿論にも良好な影響を与える。

陳はこれを「極めて面白き案」と自画自賛した。

満蒙権益に関しては、日中共存共栄の下で充分尊重し、条約上の権利問題は日中共同の委員会を組織して解決策を見出すことを提案した。

陳にとって不可侵協定とは、日本政府が軍部をコントロールし、中国の主権を尊重するという保証であった。

この保証が得られて初めて、萱野密使外交の実現性が表れるのである。

萱野密使外交の失敗

1月5日、犬養は突如として萱野に帰京を命じ、居正の満州入りも取りやめとなった。

外務省は、萱野を至急帰朝させる理由について、萱野の行動は日本にとって相当不利であること。

満州事変処理の大綱は既に外務・陸海軍事務当局で意見が一致しており、これに関して近いうちに犬養に考慮を仰ぐ予定であることを挙げた。

この外・陸海軍一致の意見とは

「満蒙問題の解決については同地方の支那本部に対する政治関係を出来得る限り薄弱なるものたらしむるに努むる一方、我方権益の回復拡充は満蒙における現存の地方官民または新に発生すべき同地方統一政権を相手として行い、着々既成事実を作り行うこと肝要なり。

従って支那本部政権に対しては満蒙を自然に断念せしむる様に仕向け行き、前記既成事実出来上がりたる上にて、これを承認せしむるか、または右既成事実をそのまま押し通し行くかの外なきなり」

であり、満州問題について南京政府の容喙を一切許さない構えであった。

仮に南京政府が交渉を申し出た場合、体面上、一応応じるとしつつ

「大正四年の条約その他一切の条約取り決めの再確認及び排日排貨の根絶という国民党として到底承諾し得ざる条件を持ち出し、事実上直接交渉を不可能ならしむるべく、要するに我方としては本件に関する支那本部政権との直接交渉を出来得る限り遷延すること肝要なり」

ここに萱野密使外交は頓挫した。

犬養はなおも大陸浪人を使って和平工作を試みるが、外・陸海軍の態度が明確になり、成功の機運は完全に失われてしまった。

外交官の対中不信

先の外・陸海軍一致の意見は、軍部の強硬意見に外務省が引きづられているかのように見える。

帰国した萱野も、記者を前にして外交官を「小心卑劣」と痛罵してみせた。

しかし、当時の外交官は中国に対し極度の不信感を抱いており、中国との関係調整を半ば投げていた。

駐華公使として対中外交にあたった重光は、中国は不都合な主張を振りかざし、夷を以て夷を制すを常套手段としていると指摘する。

よって対中外交を進める上では、その希望を寛大的に容れ、全体的に態度を改善するよう指導する努力が日本に必要だと説く。

つまり、中国との全面的な合意形成は難しく、利害調整によって漸進的に中国の態度を緩和させるしかないと考えていた。

有田八郎亜細亜局長は対立を回避する為の過渡的弁法と表現したが、重光の方針は多くの外交官に共有された。

この裏には、中国は排日観念に凝り固まっており、通常の国際法や慣例で律することが出来ない異常な国であるとの認識がある。

満州事変が発生し、過渡的弁法が放棄されると、外交官の対中不信は加速した。

外務省は、中国は一度合意に至った約束を、内政上の事情で平気に反故にする国であると嫌悪した。

仮に条約に対する誠意があったとしても、中央政府は無力であり、国内は無秩序で、条約を履行するだけの力もない。

中国と交渉しても遷延されるだけであり、しかも交渉内容は日貨排斥の扇動に用いられる。

このような考えに至った外務省が出した答えは、国民政府対手にせず、である。

中国との合意形成を絶望視し、新しい交渉相手として満蒙新国家を求めるのが外務省の方針となった。

こうした背景から、外務省は関東軍が作る既成事実を受け入れ、積極的に擁護することになる。

萱野密使外交の歴史的評価

萱野が孫科と合意に至った満洲委員会案は、満蒙分離政策の障害であった。

関東軍が満蒙に新政権を樹立し、中央政府からの独立を画策している一方で、中央政府の人間を満州に入れるなどは、明らかに満蒙独立に反するものであった。

ただ、仮に萱野が秘密裏に交渉を進め、それに犬養が許可を与えたとして、果たしてこの密使外交は上手くいったのだろうか。

日中双方の外交機関が何ら関与しておらず、軍部との意見調整もない中、輿論を抑え、密使外交を押し通すだけの政治力が犬養にあったのだろうか。

犬養・萱野がいくら孫文を後援し、国民党と関係が深いと言っても、それは個人の友誼である。

萱野が持ちかけた満州問題収拾案も、あくまで犬養の私案に過ぎない。

胡漢民や居正は、この私案の可能性を全く疑わなかったが、満州事変は私案で片付くほど単純かつ小規模な問題ではなくなっていた。

また、仮に満州委員会が設立し、満蒙に自治政府が誕生したとして、それは日本に対しどこまで独立を保ちえるのだろうか。

事変前の東三省・張学良政権より、日本の軍事的・政治的脅威に直面するのは間違いない。

更に、委員会が現地交渉するとした日中懸案解決が中国世論を刺激するのは想像に易く、政治的に脆弱な孫科政権が崩壊しかねない。

このように考えれば、満州の既成事実を前提とする萱野案は中国にとってはハイリスクであるはずなのだ。

外交の成果を得たい孫科政権は、萱野密使外交に楽観的な思い込みを抱いていたと言える。

ただし、満州事変という日本の侵略の過程において、なりふり構わない和平への努力が為されたという事実は、評価に値するだろう。

対日絶交

日本の真意を測りかねていた孫科政権であったが、萱野から日本の軍部が満蒙独立を強硬に主張している旨が伝わった。

また、陳が提案した不可侵協定について、1月18日に日本の外務省は

「近時における我国論と相当の懸隔あるのみならず、南京政府の地位甚だ不安定なる現状にも鑑み、我方において差し当たり殆ど問題とし居らざる」

とし、全く取り合わなかった。

ここに犬養内閣の対中交渉は南京政府を対手とせず、満蒙の傀儡政権と行われる事が明らかになった。

萱野密使に全幅の信頼を置いた胡漢民、居正らは完全に立場を失い、対日穏健派は急速に影響力を後退させた。

対日外交が行き詰まった陳は、宥和から強硬へと一挙に舵を切る。

国際的な注目を引き、国際輿論の同情を喚起する為に、対日絶交を唱えるに至った。

この矯激な外交方針の大転換は、列国だけでなく、国民党内の支持も得られなかった。

あまりにも場当たり的な外交にはメディアも苦言を呈し、宣戦の覚悟もないのに絶交を論ずるのは、あまりに疎漏であると断じた。

1月19日、蒋介石は日本との全面衝突を招きかねない対日絶交を危険視し、政権復帰のために南京入りを表明した。

蒋は下野の際、腹心を地方各地に配して軍事・政治両面を裏から支配していた為、一挙に孫科政権の地盤は揺らぎ、呆気なく崩壊した。

1月25日、孫科は辞任に追い込まれ、陳も外交部から去った。

1月28日、孫科政権に代わり、蒋介石と汪兆銘による合作政権が成立した。

蒋たちは孫科の失敗を踏まえ、新たな外交方針を採用し、対日外交を建て直す事になる。

錦州陥落

31年12月10日、連盟理事会において日本は錦州方面の匪賊討伐権の留保を得た。

陸軍中央はこの匪賊討伐権を錦州方面の張学良軍の掃討権と拡大解釈し、匪賊討伐の過程で錦州占領に発展しても差し支えないと関東軍に伝えた。

陸軍中央の指示を得た関東軍は、12月12日に錦州作戦を決定。

日本政府も錦州方面の匪賊が増加し、南満州の治安に重大な脅威を与えているとの名目で、錦州に軍を進める事を容認した。

32年1月1日、日本軍との正面衝突を恐れた張は、錦州撤退を決定。

日本軍は1月3日に錦州を無血開城させ、1月7日には錦州方面の全軍事拠点が陥落した。

中国政府は張に死守を命じたが、それに見合うだけの支援はなく、武器弾薬も欠乏した。

しかも日本軍は天津方面を増強しており、これに呼応して華北の反張軍閥も活発化し、張は後方を脅かされた。

このまま錦州で徹底抗戦するよりは、華北の地盤を確保した方がよいという政略的観点から、張は満州を放棄した。

錦州陥落により東三省に中国行政は及ばなくなり、満蒙独立運動は加速した。

1月8日、天皇は一連の関東軍の軍事行動に対し、以下の勅語を賜った。

「満州において事変の勃発するや自衛の必要上関東軍の将兵は果断神速寡克く衆を制し之を芟討せり」

「勇戦力闘を以てその禍根を抜きて皇軍の威武を中外に宣揚せり。

朕深くその忠烈を嘉す。

汝将兵ますます堅忍自重、以って東洋平和の基礎を確立し、朕が信倚にこたえんことを期せよ」

この勅語は、これ以上の事態拡大を防ぐ目的があったが、同時に満州事変を自衛措置とし、錦州攻略によって皇軍の威武は示されたと確認した。

ジキルとハイド

ヘンリー・スティムソン米国務長官は、満州の情勢を注視していた一人である。

スティムソンは満州事変当初、幣原に対する信頼から、静観的態度を保つことで消極的な支持を与え続けていた。

ところが、錦州爆撃や幣原外交そのものの終焉を受け、全ての期待を裏切りられた。

スティムソンは、幣原や若槻内閣をジキル博士になぞらえ、日本ではハイドがジキル博士を圧倒したと表現した。

そして、ハイドと化した日本への外交姿勢を改め、今までにない強圧的な態度で臨むことになる。

31年12月5日、スタンリー・ホーンベック極東部長は、米国が取るべき対日措置を3つ挙げた。

第一案は、米英列国が一致して、日本を条約違反者であると弾劾する。

日本に外交的に痛手を受けるだろうが、その政策を抜本的に転換させるまでは至らないだろう。

第二案は、米英列国が一致して、日本が軍事占領下で中国に強制した如何なる条約を承認しないことを通告する。

これは将来有効的な価値を持つだろうと評した。

第三案は、米英列国が解決案を作成し、これに日本が応じない場合、対日経済ボイコットによる制裁を加える。

当時の日米貿易を見ると、米国の対日輸出額は全輸出額の4%、輸入額は9%である。

ただし日本の主力である生糸を抜かせば、輸入額は2%以下となる事から、ボイコットによる米国の損害は長期的に見れば無いに等しい。

一方、米国が対日経済を断行すれば、日本は直接的かつ重大な打撃を受けるだろう。

たちまち生糸は暴落し、また綿花は暴騰し、日本経済は恐慌状態に陥り、経済は致命傷を負うだろう。

ボイコットからわずか3ヶ月後には全産業が打撃を受け、金融は逼迫し、農村は壊滅し、半年を待たずして屈服することが予想される。

無論、日本の政治家や資本家は経済制裁がもたらす影響を十分承知している。

にも関わらず満州事変を収拾しないのは、ボイコットがないと見くびって、世界の輿論を無視しているからである。

ホーンベックの進言は国務省内で議論され、米国の対日政策は大きな転換を迎えることになる。

不承認主義

日本軍の錦州進出の報告に接したスティムソンは、12月23日、出淵勝次駐米大使にこのような警告を発した。

曰く、錦州の米国武官の報告では、錦州の中国軍は日本軍に対して何ら攻撃意図を有していない。

「日本軍が馬賊掃討の勢に駆られ、これらの正規軍に対しても攻撃の鉾を向けらるることあらば、世界は必ず日本軍が馬賊討伐の標語の下に更に長城方面に向かって侵略的行動に出でんとするものなりと看做すに至るべく、米国としては従来しばしば申し上げ置きたる通り幾多の困難を忍びつつ米国の輿論を抑え来りたる関係上、益々困難なる立場に置かるべし」

厳しい追求に出淵は受け身に徹するより外なく、その様をスティムソンは「かわいそうな老人」であると表現した。

翌32年1月3日、錦州陥落を受け、スティムソンは満州事変は「ファイナルクライマックス」に達したと表現。

錦州陥落により、一連の日本軍の行動が全満州の占領という目的の下、遂行されているとの認識は深まった。

スティムソンの対日姿勢は明らかに強硬に傾き、何らかの手段によって対日圧力をかける決意を固めた。

ただ、先にホーンベックが提唱した経済制裁は、効果は間違いなく発揮されるものの、それだけに日本との戦争に発展する恐れがある。

米国陸軍は力による制裁以外、日本を止められないとの見解を示したが、そもそも米国が連盟に加盟しなかったのは軍事力による制裁を拒否した為である。

大使召喚や天皇へのメッセージ等も協議された中、ホーンベックの第二案が最も有効的であると考えられた。

スティムソンは自ら通告文を起草し、国務省内で修正した後、1月4日にハーバート・フーヴァー大統領の承認を得た。

1月6日、スティムソンは日中双方に向けて通牒を発し、以下のように表明した。

米国の条約上の権利や、中国における米国市民の権利、中国の主権、政治的独立、領土保全、門戸開放を損なう、一切の条約、協定を米国は承認しない。

また、不戦条約の精神と義務に反する一切の状態、条約、協定を米国は承認しない。

これは、軍事的圧力による事態変更の合法性を承認しないという道徳的不承認主義である。

米国は1915年、当時のウィリアム・ブライアン米国務長官が対華二十一ヶ条要求に対して不承認主義を宣言し、日本の山東問題に大きな影響を与えたことがある。

不承認主義は戦争に至らない範囲で、日本に極めて有効であると信じられた。

だが、不承認主義は満州事変を止められなかった。

1月16日、不承認主義に対し芳沢外相は、日本は九カ国条約、不戦条約を完全に履行し、満州の門戸開放維持にも努力していると強調。

「支那に関する諸条約の適用については常に同国国情の変化に対して相当の考慮を加うるを要す」

と述べ、既存の条約に準拠した現在の紛争処理の妥当性に疑問を呈した。

更に満州における独立運動を民族自決であると擁護し、スティムソンをあしらってみせた。

日本が1月6日の不承認主義宣言にそこまで圧力を感じなかったのは、他の列国、特に英国の共同が無かった為である。

スティムソンは不承認主義を英仏にも通告し、共同歩調を取るように求めた。

これに対し英国は、実際に条約上の権利が侵害される前に行動を起こすことは不要な摩擦を生むだけだと反対し、対日通告の必要性を認めなかった。

英国がここまで日本に配慮したのは、足元の経済危機だけでなく、植民地インドの動乱も重なり、極東に気を配れなかったのもある。

加えて中国も、実際に日本が中国の主権を侵害した後に、このような声明を出されても遅いとし、紙屑であると厳しい意見を寄せた。

32年1月段階の不承認主義宣言は圧力を発揮出来なかったが、後に連盟とリンクすることで、日本を窮地に追い込むことになる。

国際都市上海

満州事変が進展する中、中国人は日本に抵抗するために排日行動を激化させていた。

31年9月26日の香港の反日暴動、10月8日の軍艦二見への投石、10月11日の宣昌の海軍集会所の放火、32年には戦艦北上の艦長が暴行される事件すら発生した。

そんな中、最も苛烈な排日が吹き荒れたのが上海である。

上海はアヘン戦争後に英国が清国に開港させ、居住権・貿易権を得た、中国最大の貿易港である。

日清戦争や義和団事件を経て、日本を含む列国が上海権益を獲得し、半植民地の一大拠点、世界有数の国際都市に発展した。

上海には列国の共同租界と仏国租界があったが、内戦の影響を受けない中立地帯として中国で最も安全な場所となり、次々と中国人が流入した。

その結果、1930年には上海共同租界の中国人97万人、日本人居留民1万人、他外国人居留民1万人、租界外に300万人以上を抱える超巨大都市となった。

上海は元々中国全土を見ても、排日ボイコットが突出して激しかった都市である。

これは日本の経済的進出への抵抗という一面があったからだが、満州事変後は侵略への抵抗、抗日へと変質した。

その様を芳沢外相は、このように語る。

「排日は遂に侮日に変し、あるいは言語に絶する非人道的行為により、暴戻なる挙措に出て、あるいは対日経済絶交を敢行して、いわゆる武力を用いざる挑戦行為を続行しつつあるは、世人のあまねく知れる所」

事変後の上海の排日ボイコットは、単なる不買運動に暴力性を帯びて展開される。

白昼堂々、日本商品が抑留、没収される強盗が繰り返されたり、日本との取引に応じる中国人商人が私刑に処された。

明らかな不法行為であるが、中国官憲は個人の商品選択の権利であると取り締まりの責任を放棄し、逆に日貨排斥の責任を日本に帰した。

日本製品は徹底的に上海市場から締め出され、日本人が経営する工場のほぼ全てが閉鎖に追い込まれた。

それだけでなく、日本の郵便が破壊され、通信が妨害され、居留民の一般生活そのものを脅かした。

町中には「対日開戦」「対日絶交」など過激なポスターに覆われ、反日的な街頭演説や映画など、あらゆる場所で反日・排日が表れた。

このような激烈な排日に対し、上海の居留民たちは一斉に反発した。

上海居留民の特色として、無産階級や大陸浪人、在郷軍人が多くあり、彼らが過激派として対中強硬を主張する一方、商人や会社経営者などの資本家が穏健派としてバランスを取っていた。

その穏健派も自己の生活が脅かされるに至って過激化し、暴戻支那を断固膺懲すべしと強い宣言を行った。

排日の激化、居留民の強硬化によって、日中対立の要因は着実に醸成されていったのだ。

不敬記事事件

32年1月8日、観兵式行幸の帰路にあった天皇が東京・桜田門付近に差し掛かった際、朝鮮独立運動家が車列に爆弾を投げつけた。

戦前最後の大逆事件、桜田門事件である。

幸いにして、狙われた馬車に天皇が乗車しておらず、爆弾の威力も小さかった事から無事を得た。

大不祥事に内閣は恐懼して全閣僚が辞表を提出したが、天皇は内閣更迭により満州事変が収拾不可能に陥ることを憂慮し、留任の沙汰を出した。

事件自体はこれで収まったが、1月9日、中国国民党の機関紙、民国日報の桜田門事件の報道が波紋を呼んだ。

民国日報は「韓人日皇不幸不中」と報じ、天皇に爆弾が当たらなかったことを「不幸」であると表現したのだ。

この報道はたちまち中国主要都市に広がり、中国人は桜田門事件の犯人は義士であり、事件は壮挙であると称えた。

一方、報道に接した日本の居留民たちは愛国心を逆撫でされ、記事は「不敬」であると激昂した。

1月12日、青島で行われた居留民のデモが暴動に発展し、民国日報社や市庁が襲撃され、市庁が全焼する事件が発生した。

事件は上海にも飛び火し、上海の居留民たちは村井倉松上海総領事に掛け合い、上海市に抗議するように突き上げた。

これに対し民国日報は、日本側の要求に応じる筋合いはないとの挑発的な記事を掲載し、怒りの火に油を注いだ。

1月16日、騒擾を恐れた上海市は、民国日報に記事の取り消しをさせ、日本総領事館に遺憾の意を表した。

1月19日には民国日報社長の戒告処分、再発防止策の発表、記者の処罰によって事件を収拾した。

だが不敬記事事件に見られたように上海の緊張は日増しに強まり、いつ何事か起きてもおかしくない状況が作られつつあった。

謀略

1月18日、日蓮宗の日本人僧侶一行が太鼓を鳴らしつつ共同租界外に出た。

抗日団体の組織がある工場付近に差し掛かったあたりで中国人の群衆に襲撃され、1人の僧侶が亡くなった。

この日本人襲撃事件、実は日本の将校によって仕組まれた謀略であった。

31年10月頃、奉天公使館付き武官補佐の田中隆吉少佐の下に関東軍の花谷正参謀から連絡があり、田中は奉天に赴いた。

そこには板垣征四郎高級参謀がおり、ある謀略を持ちかけられた。

曰く、満蒙は分離独立まで持ってゆきたいが、連盟や政府がやかましい。

そこで、田中に上海で事を起こしてもらい、列国の注意が上海に集中している間に、満蒙独立まで漕ぎ着けたい。

田中はこれを快諾し、日本の陸海軍が動かざるを得ない状況を作り出すために、第一遣外艦隊司令官を中国人暴徒に暗殺させようとした。

これが上手くいかなかった田中は、中国人の無頼を買収して日本人僧侶を襲撃させた。

田中は戦後、上海事変の火付け役は自分であると証言しており、今では謀略の存在は疑いようもない。

それにしても、満州から目を逸させる為に国際都市上海で謀略をやるとは、板垣や田中の視野の狭さには甚だ驚かされる。

日本が上海謀略の処理を誤った場合、国際的に孤立するのではないかという配慮がまるでないからだ。

満蒙の独立国が誕生したとしても、その後ろ盾となる日本が国際的に孤立していたら、満州国の運営など成り立たない。

そのような発想に至らない軍人が謀略によって既成事実を作り、外交に辻褄を合わさせるのが、満州事変以降の政治であった。

第一遣外艦隊と上海総領事館

当然ながら当時の誰もが田中謀略の存在など知る由もない。

中国が治安維持の責任を持つ租界外で、無抵抗の日本人が中国人の暴徒に殺害された事実が上海を駆け回った。

上海の居留民たちは、自分たちの生命財産は危機に陥ったとし、上海総領事館と海軍に実力による現地保護を訴えた。

何故海軍かというと、海軍は中国の居留民たちの保護を任務としていたからである。

列国は中国の弱体化した官憲では居留民の生命財産は保護できないとし、上海に海軍を派遣して、軍隊を駐屯させていた。

中国は上海の駐兵権を条約上認めてはおらず、主権侵害であると抗議しているが、列国は慣行として聞き入れなかった。

このような背景から、長江流域を警備する第一遣外艦隊と海軍陸戦隊が上海の居留民の保護を担っていた。

1月19日、総領事館の抗議を受け、上海市は遺憾の意を示したが、犯人逮捕に関しては時間がかかると回答した。

同日夜、事件に憤る過激な居留民は、犯行現場付近の中国工場に犯人がいると見て、これを襲撃し、放火によって半焼させた。

更に駆けつけた中国人官憲と衝突し、双方に死傷者が出る事態となった。

1月20日、このような情勢の中で上海居留民大会が開催され、殺気立った空気の中、以下のように決議した。

「今や抗日暴状その極みに達す。

帝国政府は最後の決意を為し、直ちに海軍を派遣、自衛権を発動して抗日運動の絶無を期すべき」

大会終了後、数百名の居留民が大挙して総領事館に押しかけ、中国側に強硬に出るように求めた。

更に上海陸戦隊本部へ向かう道中、中国人から瓶を投げつけられたことで暴徒化し、家屋や商店を破壊する事件が起きた。

外務省は上海で偶発的な衝突が起こることを憂慮し、村井総領事に居留民の過激な行動は戒めるべきと訓令した。

一方、居留民たちの陳情を受けた総領事館と第一遣外艦隊司令部は、この機会に排日運動を根絶しようと、中国側に厳重抗議を行うことを決めていた。

1月21日、村井総領事は上海市長に抗議文を手交し、陳謝、加害者の逮捕、被害者に対する慰謝料とともに、抗日団体の即時解散を要求した。

村井総領事を後押しする為、第一遣外艦隊の塩沢幸一司令官は、このように声明した。

「本職は上海市長に、帝国総領事の提出せる抗日会員日本僧侶暴行事件の要求を容れ、速に満足なる回答並びにその履行を要望す。

万一これに反する場合においては、帝国の権益擁護の為、適当と信ずる手段に出ずる決心なり」

そして、この抗議に居留民団体も加わった。

「吾人は尊き生命の傷害を受け財産の掠奪も蒙り絶大なる通商の迫害に困窮し、なおかつこれら権益の侵害に眠る帝国政府の無気力に対しては、まことに憤慨にたえざるのみならず、実力発動のキッカケと数フィートの鉄道線路破壊よりこの不敬事件、この生命の傷害が遥かに重大にして、事既にその必要を見るにも関わらず、もし帝国政府においてこの際敢然として起つに非ざれば、吾人は民衆の自力を以て敢然起ち暴戻飽くなき抗日会及びこれを擁護する市政府並びに不埒なる民国日報に対し断固たる行動に出るを辞せず」

海軍が総領事館と居留民の後ろ盾となり、軍事・外交・世論が一体となって上海の排日運動に圧力をかけた。

対峙

村井総領事は、事件の背景に抗日団体の非合法な扇動があるとし、期限内に抗日団体が解散されない場合は自衛措置に出るべきだと外務省に進言した。

これに対し芳沢外相は期限付き要求には慎重を期するべきだとし、暴発が起きないよう居留民を厳重に取り締まるよう要求している。

日本側が抗日団体の解散を要求したことは大きな反響を呼んだ。

上海の中国人たちは市政府に対して日本側の要求を拒絶するように強く求め、国民政府にも対日絶交を要請した。

これを受け上海市は、抗日運動は日本の不法に対する国民一致の消極的対抗策であり、法に触れない限りは何人たりとも干渉を許さないと強く宣言した。

そして逆に、一連の日本居留民の暴力事件について、上海総領事館に遺憾の意を求めた。

塩沢司令官は要求貫徹の為、上海市が要求を拒否した場合の対応策を海軍省に進言している。

それは上海近海の中国商船に対する封鎖、抗日団体の弾圧、飛行機による示威偵察を行うこと。

それでも排日運動が収まらない場合は居留民の現地保護に移り、上海の砲台を占拠する。

この為に特別陸戦隊1千名の増派を要求した。

海軍中央は海上封鎖には難色を示し、砲台占拠も進んで行うべきではないとしつつ、上海の情勢から抗日団体弾圧を最も合理的であると評価。

塩沢の要請を受け、空母「能登呂」と巡洋艦・駆逐艦からなる艦隊を上海に派遣し、特別陸戦隊を増援した。

一方、上海の緊迫化に触発された中国第十九路軍は、上海近郊に陣地を構築し始めた。

第十九路軍は広東出身者からなる師団で、愛国心に強く戦意に満ちており、共産匪賊との実戦から練兵された精鋭軍であった。

「鉄軍」と称される軍隊の登場に、居留民たちは震撼した。

海では日本の艦隊が、陸では中国の軍隊が上海を挟んで睨み合い、上海市は騒然たる雰囲気に包まれてゆく。

最後通牒

艦隊を背景とする日本側の要求は、単なる脅しではないと中国に衝撃を与えた。

もしこれを拒絶すれば、日本は上海を含む長江沿岸を海上封鎖し、中国の貿易は大打撃を受けかねない。

1月25日、上海市は村井総領事に対し回答を30日まで延期してほしいと申し入れた。

その間、上海民国日報社や抗日団体本部を閉鎖するアピールを行なったが、実際には民国日報社は仏国租界に移っただけで、抗日記事を書き続けた。

村井総領事は満足な回答が得られない場合に、やむを得ず自衛手段に出る旨を上海市政府に示唆し、芳沢外相に対し期限付き最後通牒を発するよう請訓した。

1月27日、芳沢外相は最後通牒要求に対し回訓する。

曰く、中国軍が対日戦の備えをしていることを認識しつつ、日本側の要求を容れる為に中国外交部の誠意も認められる。

日本側は既に自由な立場を留保しているので、期限を付さず、口頭による督促で良い。

むしろ、期限付き最後通牒は中国側の対外宣伝に逆用される可能性が高い。

しかし、現地の情勢上、何らかの期限を付す必要が認められた場合には、海軍と協議の上で取り計らうのもやむを得ない。

具体的な指示はなく、非常に曖昧な答えであり、現場に判断を投げた形である。

そこで村井総領事は自身の判断で、28日午後6時までに明確な回答が無い場合、必要と認める手段を取る旨、上海市政府に最後通牒を発した。

こうして、28日午後6時を超えた場合に軍事発動に至るという重大局面に突入した。

戒厳

日本の陸戦隊は各国の駐屯軍に対し、上海市から満足な回答が得られない場合、29日朝に行動を開始する旨を通告した。

市街戦の不安に駆られた上海の中国人は、次々と共同租界に避難し、上海はパニックに陥った。

1月28日、租界行政府である工部局は、午後4時に租界に戒厳令を布告することを決定した。

一方で上海市側は最後通牒に衝撃を受け、各団体が一致して、日本の要求を丸呑みするよう市政府に勧告した。

午後3時、上海市政府は日本の要求を無条件で受諾することを決定。

謝罪や賠償だけでなく、民国日報社の廃刊、上海の抗日団体の解散、押収された日貨の返還、排日ボイコットの取り締まりに応じた。

村井総領事も回答を受領し、ここに戦闘の危機は回避されたかのように思われた。

ところが、当局の屈服に不満を抱く中国人の学生や労働者たちの動向から、上海は不穏な情勢となった。

そこで、工部局は予定通り午後4時に戒厳を敷いた。

戒厳となった場合、列国が策定した共同防備計画に基づき、各国は割り当てられた分担区域の警備配備につくことになっていた。

この分担区域に問題があった。

当時、上海の日本人居留民の居住地域は共同租界の外にまで広がっており、日本は租界外も警備区域に含めていた。

ところが中国側はこの分担区域を把握しておらず、日本軍が租界外に出て警備につくことも知らされていなかった。

午後5時に各国の駐屯軍が配備につく中、日本は警備隊となる海軍陸戦隊の上陸を待つために遅れをとっていた。

視認のために翌日明け方展開も考えられたが、居留民の安全が極度に不安に陥った為、29日午前0時に配備となった。

上海事変

1月29日午前0時、中国軍がバリケードで厳重警備する租界外地域に陸戦隊が無警告で侵入し、瞬時に戦闘が開始された。

上海事変の勃発である。

当時、上海の日本の陸上戦力は、海軍陸戦隊と佐世保・呉鎮守府の増派を合わせて3000であったのに対し、第十九路軍は3万であった。

いくら装備で日本軍は勝るとはいえ、戦線が拡大すれば数的に圧倒的に不利であることは自明である。

しかし、塩沢司令官は即時停戦を厳命するではなく、積極的に応戦した。

この理由を畑俊六陸軍中将は、海軍が陸軍の満州の功績を妬んで、上海で栄誉を得る好機だと考えたのではないかと観測している。

また塩沢自身、中国人に対する蔑視や、満州事変の中で張学良軍が潰走した事実から、第十九路軍を過小評価した嫌いがある。

第十九路軍はそれまで日本が相手にしてきた馬賊や軍閥とは異なり、民族意識を持つ近代的な軍隊であり、戦闘能力も士気も高かった。

間もなく日本軍は熾烈な市街戦に巻き込まれ、苦戦を強いられることになる。

戦闘はすぐに拡大し、1月29日には空母から出撃した戦闘機が、中国軍が立て篭もった商務印書館を爆撃した。

商務印書館は中国最大の出版社の一つであり、宋時代の資料や文化財が空爆によって大量に焼失した。

同日、日本政府は上海事変に関する声明を発表する。

曰く、中国各地の排日運動は国民党の指揮下にあり、国策遂行の手段として行われている。

日本政府は排日を武力に依らない敵対行為であると、繰り返し中国政府に訴えてきた。

だが、中国政府は誠意を見せないばかりか、日本人に対する不法行為を愛国心の発露とし、奨励するような態度に出た。

これにより排日運動は深刻かつ執拗となり、こと上海においては事態が相当悪化した。

上海総領事館は中国当局に対し排日運動の取り締まりを要求したが、当局は回答を遷延しただけでなく、軍隊を集結させて威嚇する態度を示した。

事ここに至り、日本海軍は全て居留民の生命財産の保護、日本の条約上の権益擁護を目的に実力行動を取った。

これは1927年、英国を始めとする列国が陸軍を派遣した南京事件と等しい。

よって、日本は上海に対する何ら政治的野心はなく、同地の列国の権益を侵害する意図もない。

以上のような論理で日本は上海事変を正当化した。

一面抵抗・一面交渉

上海事変当時、中国の政権は蒋介石と汪兆銘の合作政権となっていた。

外交政策を担った汪は、過去の外交政策の見直しを図った。

満州事変勃発時、中国は連盟に依拠した外交により満州事変を解決しようとした。

しかし列国はそれぞれ都合を抱え、対日開戦を覚悟するような強硬姿勢に出ず、何ら有効な制裁は打たれなかった。

連盟の実行能力は極めて怪しいが、普遍的な国際組織として確固たる地位を築いており、全く役に立たないわけではない。

中国は連盟に信頼を置くと発信し続け、時局が困難になっている原因を連盟の責任に転嫁すればよい。

この連盟外交を通じた対国民対策は依然として有効である。

また、日本の軍事行動が連盟規約・九カ国条約・不戦条約に抵触していることは明白であり、連盟や米国が日本に制裁を加える十分な理由がある。

外交の可能性を捨てるような排外的で過激な強硬姿勢を改め、連盟・列国を積極的に味方につけるべきなのだ。

次に対日外交も見直された。

まず、孫科政権が掲げた対日絶交は論外である。

中国の国力は未だ充実しておらず、国交断絶や宣戦布告など、全面戦争に繋がる行為は絶対に控えるべきである。

また、日本との直接交渉を徹底して回避するのも望ましくない。

国家主権を傷つける既成事実については承認はしないが、対日交渉のあらゆる可能性を探り、妥結を図るべきである。

仮に日本が無茶な要求を改めるならば、すぐさま交渉に応じ、満州事変を収拾すべきなのだ。

更に不抵抗主義も改めた。

中国は事態不拡大のために日本に対して一切抵抗せず、満州は日本の手に落ちた。

これ以上、国土と主権の喪失を防ぐためには積極的に抵抗すべきだし、日本が一線を超えた場合には決戦を惜しまない覚悟を固めるべきなのだ。

確かに日本軍は精鋭であり、局地的には負けるだろう。

だが、中国全土が抗戦の意思を固め、長期的に抵抗すれば、日本は中国の広大な土地に何百万もの軍隊を増派せざるを得なくなる。

そうなれば日本は最終的に力尽き、中国が勝利を収める。

中国は決して弱小国家ではないのだ。

汪はこの外交方針を一面抵抗・一面交渉と称し、蒋は全面的に支持を与えた。

連盟を通じた国際的解決を主軸としつつ、当面は抵抗しつつ、他方では対日交渉を進める。

中国政府は、この三線並行によって満州事変を解決しようと試みた。

連盟提訴

連盟理事会はポール・ボンクール仏外相を議長とし、1月25日から開催されていた。

そんな中、上海事変が勃発した。

1月29日、中国はエリック・ドラモンド連盟事務総長に対し、連盟規約第10条及び第15条で提訴した。

連盟規約第10条は領土保全と政治的独立を定める連盟規約の根幹であるが、その後段は以下である。

「侵略の場合又は其の脅威若は危険ある場合に於ては、連盟理事会は、本条の義務を履行すべき手段を具申すべし」

第15条1項は紛争解決の為の手順である。

「連盟国間に国交断絶に至るの虞ある紛争発生し、第13条に依る仲裁裁判又は司法的解決に付せられざる時は、連盟国は、当該事件を連盟理事会に付託すべきことを約す。

何れの紛争当事国も、紛争の存在を事務総長に通告し以て前記の付託を為すことを得。

事務総長は、之が充分なる取調及審理に必要なる一切の準備を為すものとす」

ここで重要なのは、中国が上海事変だけでなく満州事変を含め、一括して処理するよう求めたことである。

満州事変に関しては前年12月10日の理事会決議で成立したリットン調査団の報告を待って解決する方針に固まっており、問題は遷延されていた。

だが、ここに上海事変が重なることで、満州事変の延長線にある紛争であると位置づけられ、一括処理が現実味を帯びた。

第15条提訴への疑義

1月29日、中国代表は第15条提訴に至った理由を、満州の侵略の状況に何ら変化がないこと。

上海も戦争状態に陥り、第11条以外の救済を求めるより外なくなったと説明した上で

「領土及び行政の保存は日本の侵略に依り侵害せられたるが、かかる侵略行為は規約第十条に違反すること疑いなく、即ち日本軍の行動は第十条の精神のみならず、本条の規定を破りたるものなり」

と述べ、事件の全責任を日本に求めた。

この時、連盟代表を務めたのは、国際会議屋と称された佐藤尚武駐ベルギー大使である。

佐藤は、上海の事件は中国軍が日本軍に先制攻撃を行なったのが原因であると反論。

また、満州問題は既に第11条によって処理されており、調査報告もない時点で第15条を併せて適用すると、問題は複雑化すると疑義を呈した。

第11条は紛争を如何に調停するかにあり、第15条は紛争による国交断絶を如何に調停するかという性質がある。

佐藤は、現在の紛争は15条適用の要件である「国交断絶に至るの虞ある」争いであるのだろうかと反問した。

日本の軍事行動は自衛措置であり、中国側の挑戦がない限りは、極力事態不拡大に努力している。

つまり、国交断絶に至るような破局的な紛争ではない。

仮に第15条の規定する紛争であったとしても、第15条提訴は連盟国間の紛争解決の最後の手続きとして行われるべきである。

だが、中国側は紛争当事国間の直接交渉という手順を踏まずに、いきなり第15条提訴に至った。

事件解決に関する誠意を示さず、直ちに国交を断絶する行為こそ、第15条の精神に違反する行為ではなかろうか。

それにも関わらず、連盟理事会は第15条提訴を機械的に受領した。

理事会は一方の非を断じる裁判官ではなく、紛争の円満解決を図るべき調停者であることは、連盟規約からも明らかである。

よって、理事会は紛争の推移を見極め、その後適当なる措置を取るべきである。

中国側の要求を直ちに取り上げるのは不適当ではないだろうか、と第15条適用の不当性を訴えた。

確かに理屈上から言えば、日本の主張は正しいかもしれない。

しかし、問題は実際に現在起きている紛争であり、日本はその紛争当事国である。

その観点が日本外交には欠けていた。

増派

現地上海では1月29日以降、英米調停の下、何度か停戦会議が持たれたが、いずれも妥結に至らず、激しい市街戦が続いた。

戦力不足に悩まされた陸戦隊は、居留民の自警団に便衣兵(ゲリラ)の摘発を行わさせた。

だが、自警団は通行中の中国人を尋問し、便衣兵の疑いをかけては監禁、暴行、虐待を加え、列国の批判を浴びた。

重光はこの様子を、関東大震災時に朝鮮人を虐殺した自警団と同様であると記している。

海軍陸戦隊の兵力だけでは上海の事態に対応し切れない事は明らかであり、陸軍の急派を望む声が高まった。

芳沢外相は、陸軍の派兵が事態拡大に繋がる事を懸念した。

2月2日、閣議において高橋是清蔵相も、上海の陸軍派兵が列国の感情を悪化させ、海外信用が減退し、財政状況から軍費が3ヶ月も持たないと指摘。

派兵ではなく上海の居留民を引き揚げさせるべきだと主張した。

犬養首相も事態不拡大の方針から出兵には慎重であるべきとしたが、居留民の引き揚げについては日本の敗退を印象付け、満州に影響が及びかねないと主張。

結局、荒木貞夫陸相が任務外の行動を取らないことを確約し、閣議の大勢は決した。

陸軍出兵の目的は居留民保護に限定され、目的達成後は速やかに撤兵する方針を確認し、犬養は出兵に合意した。

なお同日、事変拡大に伴い、上海の第一遣外艦隊は出雲を旗艦とする第三艦隊として再編成され、司令長官に野村吉三郎海軍中将が就任した。

第15条限定適用論

1月30日、ドラモンド事務総長は上海事変の事実調査を優先とすることを提案。

上海に駐在している理事国の総領事を委員とする上海事件調査委員会を組織することを提議し、支持を得た。

他方で満州問題に関しては第11条による解決で十分であるとし、日本との対立を徹底的に回避しようとした。

これに対し英国代表は、第15条1項は紛争当事国の一方の要求のみで十分であるとし、条項併用を阻止する理由もないと反論した。

英国は満州事変発生時から一貫して日本に宥和的であったが、連盟の設立目的を蹂躙するかの如き日本の主張には反発を示した。

2月1日、連盟理事会の空気を受け、佐藤は芳沢外相に対し、以下対処策を具申した。

満州問題は従来より自衛権の発動であると説明しており、領土獲得の野心がないことは理事会も認めるところである。

また、上海事変は連盟規約第10条に違反しておらず、第15条により処理すべきではないことは既に説明済みである。

ただし、中国の挑戦には応ずるより外なく、この際日本は進んで第15条を容れ、善後策を講じるべきである。

第15条の手続きは、日本が戦争に訴えない限りは実際上は第11条の手続きと大差はない。

よって、満州事変に関しては引き続き第11条による解決を主張し、第15条適用は上海事変のみに限るよう主張した。

2月3日、芳沢外相はなおも15条適用に関しては承伏出来ず、連盟が強硬に反対した場合は、日本政府として重大な決意を為さざるを得ないとしつつ

「連盟側が上海事件に限り第15条の適用を為さんとするにおいては、我方は法律上の問題を留保したる上、連盟側の措置振をなるべく好意を持って静観する」

との方針を示し、この趣旨を事務総長や各国代表に説明するよう要求した。

日本の苦境

連盟における日本の立場は日々悪化していた。

それまで日本の立場を擁護し、理事会を対日宥和に導いてきた英国が、上海問題に関しては強硬な姿勢を見せたからである。

英国政府にとって上海は中国最大の権益であり、上海共同租界も英国が一から作り上げてきた。

それが後からやってきた日本が好き勝手暴れ回り、英国の経済活動を重大な危機に陥れている。

英国は日本軍が共同租界を占領し、作戦の根拠地にし、上海の英国人の生命財産を危機に晒していると強く抗議し、圧力をかけた。

日本は英国に対し上海事変の真相、つまり排日の実態を理解してもらうために調査を依頼したが、英国は事実関係の把握に関心を示さなかった。

確かに上海の排日は酷いものであり、事変当時の現地の英米人も当初こそ日本に同情的であった。

それは、彼らも中国の排外政策に悩まされていたからであり、日本軍が中国軍を徹底的に掃討する事を望む者すらいた。

ところが日本軍の空爆や砲撃により非戦闘民の被害が拡大すると、対日意識は変容し、その同情すら失われた。

関心は日本の上海事変の正当性ではなく、軍事行動による上海の被害に移った。

芳沢外相の下には連日のように英米仏の駐日大使が抗議に来て、芳沢が激しく応酬する様が繰り広げられた。

日本のイメージが悪化するのとは相対的に、中国のイメージは改善していった。

理事会において中国代表は、日本は満州から上海に侵略を拡大し、連盟規約、不戦条約、九カ国条約に違反したと主張。

全ての条約締結国は日本の上海侵攻に対し直ちに有効的な手段を取り、条約の神聖なる義務を果たすべきだと宣言した。

中国は条約を一方的に破棄する無法者であると見られてきたが、ここにおいて条約を遵守する姿勢を見せることで、日本に対し道義的に優位に立った。

連盟代表部の佐藤は、連盟の対日空気が確実に悪化していることを実感した。

ある日の公開理事会において、佐藤は日本が上海事件に関し列国協調に賛意を示すとして、芳沢外相と英米仏の駐日大使との会見内容を朗読した。

その中で「支那側の挑戦」と字句を述べたところで、傍聴席や記者から嘲笑の声が上がったという。

これは、ジュネーヴにおいて、日本の自衛権が単なる侵略の口実であるという空気が支配的になっていた事を示すエピソードである。

満州・上海不可分

2月2日、英米仏の駐日大使が芳沢外相を訪問し、上海事変解決の為の通牒を受諾するよう求めた。

この通牒は米国のスティムソン国務長官とフーヴァー大統領が試案を練り上げ、英仏と協議の上に承諾を得たものである。

その内容は、これ以上の敵対行為にあたる動員・準備をせず、日中双方の軍隊を上海地域の一切の接触地点から撤退させる。

撤退完了後に、両軍を隔離する中立地帯を設置して共同租界を保護し、この地域は中立国が警備する。

以上の条件が受諾される場合は、不戦条約及び12月10日の連盟決議の精神に準拠し

「予め要求または留保をなすことなく、かつ中立の監視者または参加者の援助の下に、両国間に現存する全ての紛争を解決するための交渉を促進すること」

この最後の「全ての紛争」とは満州事変も含まれる。

列国は上海事変は満州事変の結果として引き起こされたと考えていた。

これが解決されない限りは列国と中国の平和は永続化しないし、紛争がますます拡大すると予想し、一挙解決を提唱した。

この通牒に対し芳沢は、大体は受諾の余地があるが、満州問題を含む項目は容認できないと反発した。

満州問題はすでに前年12月10理事会決議により処理方針が示されている。

上海事件とは全く別個の問題であり、これを含めるのは理解できない。

芳沢の態度に英国は、満州事変以来、中国の暴行やボイコットは盛んになっていると指摘。

満州問題を解決しなければ事態の静謐は見ることは出来ないと答え、満州事変・上海事変不可分を明確にした。

結果として芳沢は英米仏斡旋の停戦案に対し、以下のように回答した。

中国軍の停止が確認され次第、日本軍の戦闘行為は中止する。

ただし、中国側が挑発の行動ある場合は、日本軍のとるべき行動について、その自由を留保する。

動員や戦闘準備に関しては、中国側の行動には不信があるので、止めることは不可能である。

また、上海事変と満州事変は全く別個な問題であり、英米仏の解釈には同意できない。

同じ通牒を中国側は無条件に受諾したが、日本側の反対により単なる通告に終わった。

総会付託

日本は満州問題の第15条適用について留保し続けたが、連盟の日本に対する好意は変質していった。

ドラモンド事務総長は、15条適用が紛争当事国の一方の要求である以上、連盟にこれを却下する機能はないと、日本に理解を求めた。

ボンクール理事会議長も、理事会には第15条提訴の適否を決する権限はないとし、条文に従って対応する義務があると主張した。

連盟代表部は15条適用を阻止するために、日本は第三国の干渉を容認出来ないとか、国内世論に悪影響を与えるとか、内部的な事情を力説する。

これに対しドラモンドは、15条適用が即制裁に繋がる訳ではなく、国交断絶の恐れある紛争の処理上の手続きに過ぎないこと。

また、中国は上海事変より前から、満州問題に第15条適用を要求している為、第15条を上海事変に局限出来ないと説いた。

連盟代表部は第15条を回避するために、上海事変の原因である排日の実態と解釈を説き、列国の理解を得ようとした。

しかし事態は好転せず、上海事件の実地調査を行った調査委員会の報告も日本の有利とはならなかった。

そして、2月12日を迎えた。

第15条9項には、以下のように規定されている。

「連盟理事会は、本条に依る一切の場合に於て紛争を連盟総会に移すことを得。

紛争当事国一方の請求ありたるときは、亦之を連盟総会に移すべし。

但し右請求は、紛争を連盟理事会に付託したる後14日以内に之を為すことを要す」

つまり、この日は中国の第15条提訴から2週間であり、総会付託のタイムリミットであった。

中国は15条に基づき、中国の責任において紛争を連盟総会に移すことを提案した。

総会は理事会とは異なり、中小国が多勢を占め、大国の理論が通用しない場である。

佐藤は満州事変の総会付託だけは阻止せんと、第15条9項の解釈論を振るった。

曰く、第15条9項は事件発生後14日以内に、事件が理事会で処理出来ない場合に総会に移すことを予想したものである。

既に4ヶ月以上理事会で審議されてきた満州問題を今更総会に移すことは、総会に理事会の行為を判断させることになる。

これは理事会の権限を大きく制限し、その無力を示すものである。

法的には筋の通った話かもしれないが、もはや中国の要求を押し止めれるほどの形勢ではなかった。

佐藤は総会付託によって日本の不利は確実になると危機感を抱き

「道義上我方としてすこぶる憂慮すべき立場に置かれ、世界の前に孤立となることを如実に示さるるに至らずとも限らない」

と述べて、芳沢に対して重大な決意で休戦すべきと進言した。

だが芳沢は連盟の空気を甘く見て、総会において日本の公正なる立場を堂々と主張し、正当性を明らかにすべきだと説いた。

臨時総会の3月3日招集が決定し、加盟国55カ国の招請状が発せられ、事態は新局面を迎える事になる。

対日警告

列国は日本の主義主張を信用せず、日本が上海を占領し、長江流域や華南に権益を拡大するのではないかと懸念した。

そこで上海事変が総会に移される前に、理事会の決意を示す事で一致。

2月16日、日中以外の12理事国共同による異例の対日警告文が作成された。

まず、中国の取った一連の措置は、連盟規約第10条が意図する、連盟加盟国の領土保全・政治的独立の尊重、維持を規定するものである。

次に、理事国は日本に対して原加盟国の当然有すべき一切の信頼を与えてきたが、日本は連盟規約の平和的解決法に従うことが出来ないと考えている。

あらゆる紛争の解決は、不戦条約の謳う平和的手段によるべきである。

連盟加盟国は連盟規約第10条を無視して行われた連盟国領土の保全侵害、政治的独立の毀損を、有効かつ実効的であるとは認めない。

日本に対し連盟規約や不戦条約の義務を喚起しつつ、1月7日のスティムソンの不承認主義を支持する旨を明らかにした。

これは理事会の正式決議ではないが、日本を除く全理事国が日本を連盟規約第10条違反であると告発したようなものである。

連盟の歴史の中で特定の一国に対して警告文が作成されるなど異例中の異例であり、日本は大きな衝撃を受けた。

2月23日、日本政府は声明を発し、理事国が日本側に対してのみ警告を発したことを強く批判した。

日本の措置は防衛的であり、第10条には全く抵触しない。

理事会は、日本が我慢すれば上海の事態が直ちに収束するとの考えているが、その認識は全く了解できない。

紛争の原因を中国に求めないのは偏見であり、不公平である云々。

この反論は、霞ヶ関が発した外交文章中、最も強硬であったと評された。

最後通牒を巡る戦い

2月18日、日本軍は第十九路軍と上海市に対し、上海共同租界から20km以上撤退することを求め、回答期限を20日午後5時までとする最後通牒を発した。

総会付託前の理事会において、この期限付き最後通牒は大激論を呼ぶ事になる。

2月19日、中国代表は最後通牒を中国の領土から中国軍を駆逐するために企図されたものであると非難。

大戦争の分岐点に立っているとして、最後通牒の撤回を強く求めた。

ボンクール議長は、日本は中国に対して領土的野心を有さないと宣伝してきたと指摘する。

ならば、上海の軍事行動が如何なる理由で展開されなければならないのか、理解したがい。

主張と事実の間にずれがないように期待すると表明し、連盟を救う唯一の道として、最後通牒の期限延長を要請した。

これを受け、佐藤は芳沢外相に対し、最後通牒の期限延期要請を承諾するように具申した。

佐藤は連盟の空気について

「日本は傍聴席新聞記者満員の理事会において完全に世界世論の前に孤立無援となれり」

と語っており、この最後通牒によって日本が侵略者と断定され、第16条制裁が適用される事を懸念した。

第16条制裁になれば、政府、国民ともに最悪な場合を覚悟しなければならない。

佐藤は経済制裁から戦争に発展する危機を覚え、以下のような痛切な報告を寄せている。

「単純なる面目論を以て押し進むが如きは正に国家百年の計を誤れるものなるべし」

ところが2月20日、芳沢は今回の最後通牒はあくまで地方的な緊急措置である事。

国交断絶に至る恐れのある国家間の最後通牒とは全然意味が違うとして、延長は不可だと拒否した。

芳沢は理事会の要請を無視して総攻撃に至ったとしても、侵略と断定することは困難であると楽観視していた。

よって、第16条が視野に入った連盟代表部の危機感とは全く乖離していた。

2月20日、最後通牒の期限を迎え、総攻撃が開始された。

スティムソン・ボラー書簡

上海事変の解決の糸口が見つからない米国は焦っていた。

スティムソンは上海事変を、非武装の民衆を狙う侵略であると断定し、第一次世界大戦のドイツのベルギー侵犯になぞらえて非難している。

しかし2月2日の英米仏共同の停戦案は成立せず、対日制裁を巡っては英国との足並みは揃わなかった。

そんな中、スティムソンの不承認宣言を承認した、2月16日の12理事国の対日警告は画期的であった。

スティムソンは米国としても何らかのアクションを起こすべきだと考えた。

そこで2月24日、スティムソンがウィリアム・ボラー上院外交委員長に宛てた書簡を全世界に公表した。

書簡はまず、現在の中国に九カ国条約に適合せず、効力を失い、修正の必要があるかという、ボラーの疑問から始まる。

これに対しスティムソンは、まず九カ国条約とは、中国における機会均等、門戸開放原則が集約された条約である。

この原則は1899年にジョン・ヘイ国務長官が表明した、門戸開放政策以降、一貫したものである。

同時に、条約はワシントン会議に集まった、太平洋に関係のある列国が定めた合意の一つである。

ワシントンにおいて列国は相互に、中国の近代化意向を妨げる攻撃的政策を自制する事を求めた。

よって、条約署名国の全員の諒解がない限り、この条約の文言を勝手に変更したり、廃棄したり、議論することは出来ない。

また不戦条約により、強大国の弱小国に対する侵略は自己否定され、全ての紛争は正義と平和的手段で解決されることとなった。

この条約は、ほぼ全ての国家が実行する事で、普遍性を有した。

満州で始まった敵対行為は上海に波及した。

これは九カ国条約および不戦条約の改定の必要性を示すものではなく、条約の合意を誠実に遵守する必要性を示すものである。

もし九カ国条約と不戦条約が忠実に遵守されていたならば、このような状況には至らなかったからである。

よって、現在の紛争は、九カ国条約と不戦条約の合意と義務に立ち戻らなければ、如何なる和解も実現出来ない。

これが米国政府の見解であるとした。

1月6日の不承認主義宣言に比べ、今回の書簡は九カ国条約を全面に押し出し、不承認主義を再表明した点に特徴がある。

日本にとって九カ国条約違反を指摘されることは何を意味するか。

スティムソンは書簡の中で、九カ国条約に連結するワシントン海軍軍縮条約に言及した。

曰く、軍縮条約により米国は建艦の主導権を放棄し、グアム、フィリピンの防備制限にも積極的な応じたと指摘する。

つまり、日本が九カ国条約を否認した場合、ワシントン海軍軍縮条約の制限は再検討されるべきだと示唆した。

これは日本にとって太平洋方面の国防を根本から見直すことを意味するのだ。

スティムソン・ドクトリン

スティムソン・ボラー書簡は連盟議事録に書き込まれ、新聞にも大きく取り上げられ、世界に反響を巻き起こした。

この書簡はあくまで私的を装いつつ、実態は明らかに対日警告である。

1月6日の不承認主義宣言と、今回の書簡に現れたスティムソンの対日姿勢を、スティムソン・ドクトリンと呼ぶ。

連盟も米国も日本に対し消極的対応を選択し、軍事制裁も経済制裁も踏み込めない状況下、取り得る手段は何か。

それは九カ国条約・不戦条約を尊重し、その条約の精神に反する一切の合法性を承認しないという、倫理的制裁であった。

スティムソンは倫理的制裁を通じて中国を勇気づけ、国内外の世論を喚起し、連盟、特に英国の対日圧力を促そうと意図した。

この制裁は、外交原則を表明するに留め、原則を実現するための政策を一切伴わない。

ただ、もし連盟が米国と同一立場をとる場合は、将来にわたって軍事的威圧や条約違反によって獲得された状況の適法性は否定されるだろう。

違法手段によって国家主権を侵害した場合、連盟規約第16条の制裁条項が発動する条件となる。

スティムソン・ボラー書簡は非公式であった為に、日本は公式には何ら反応を示していない。

だが、米国務長官の九カ国条約違反という指摘は、日本に深い衝撃を与え、外交の転機となった。

条約適用の伸縮性

2月18日、連盟理事会において佐藤は、このような発言を行なっている。

「もし支那が秩序ある国家たらば日本は勿論平和的手段及び規約の文字通りの手続きに依り紛争の解決を計りたるならん」

つまり、中国が無政府状態にあり、連盟規約が規律する「組織ある人民」に到底匹敵しておらず、連盟規約を適用出来ない状態にある。

これに対し中国代表は、軍隊が政府の支配から逸脱した国家が組織ある国家なのか。

もし中国に混乱があるならば、それは中国の統一強化を望まない日本の陰謀によるところが多いと切り返した。

連盟規約の解釈戦術に限界を感じた日本は、中国に連盟規約や諸条約を適用出来ないという、伸縮性を持ち出すことになる。

2月29日、吉田茂駐伊大使は芳沢外相に対し、九カ国条約について以下の見解を示している。

日本は中国において、様々な事件や困難に遭遇しながら、統一政府樹立に協力を求めてきた。

これは日本が九カ国条約を遵守している証左である。

むしろ、無秩序・無政府状態によって極東の不安定を招いている、中国こそ九カ国条約を違反しているのではないかと指摘。

日本の威信を無視するかの態度が続く場合、連盟脱退を示唆して連盟列国に慎重な態度に出るように暗示すべきと芳沢に進言した。

政友会の森も、日本は九カ国条約に違反していないと説いている。

森は九カ国条約の前提条件を、中国が組織ある国家である事と認識していた。

だが、現在の中国は近代国家としての要件を満たしておらず、組織ある国家として認めることは出来ない。

2月23日の政府声明においても

「支那に何ら統制ある政府なく、また全支に対して完全なる支配を主張し得る権力なきことが根本的事実なり」

と断じており、日本は中国を組織ある国家と見なしていない旨を強調した。

つまり、九カ国条約はその前提を覆され、死文化してしまった。

しかし、列国は現実に反して中国を統一国家と扱い、九カ国条約の遵守を日本に迫ってくる。

列国が中国に対する認識不足のまま日本に条約解釈を強要するならば、もはや条約は「手枷足枷」である。

「帝国外交の重点は、いかにしてこの手枷足枷を除くべきか、いかにして帝国本来の独自性を取り戻すべきかにあったのであります」

と述べ、中国に対する認識を改めずに、条約上の建前を並べ、普遍的な理念に固執する連盟や米国を批判した。

先の佐藤や吉田、森のように、日本は中国への条約の適用について、現実の事態に即して行う必要があると説いた。

そのような条約適用の伸縮性を主張することで、連盟規約や九カ国条約の有効性を事実上否定した。

なお、この強硬意見を見た海軍の石川信吾軍令部参謀は、政府は九カ国条約に挑戦する気なのかと訊ねた。

森はこれに「九カ国条約に爆弾を叩きつけたのだ」と豪語してみせた。

石川は、ならば米軍との戦争に発展するが、その為には海軍に3000万の追加予算が必要であると要求した。

森はこれを即座に引き受け、高橋蔵相を説得したという逸話もある。

ワシントン体制の否認

中国を前近代国家であるとし、その特殊性を強調する論調は満州事変以前より見られた。

ただし、ワシントン会議において、列国は中国を対等の国家として相互に承認した。

九カ国条約はその前提で締結された条約であり、ワシントン体制はある意味中国本位の国際制度である。

この制度は日本にとってもメリットがあったはずだ。

中国における列国の勢力圏外交は解体され、不平等状態が漸次解消されることで、日本の対中経済は増進するからだ。

また対中関係だけでなく対米関係も改善し、日本外交は大転換を迎えた。

そこに今更中国の特殊性を持ち出し、九カ国条約の適用について伸縮を持たせるべきと主張した。

スティムソン・ドクトリンを了承しつつ、それが問題となるような事態は中国に発生していない。

このような詭弁がワシントン体制の否認を意味するのは言うまでもない。

ここに日本外交は再び大転換を迎え、国際協調から孤立へと突き進むことになる。

英国の斡旋

現地上海の日本軍の戦況は芳しくなくなかった。

上海は要塞化されており、第十九路軍の抵抗も激しく、2月20日の総攻撃でも屈服出来なかった。

そこで、2月23日、第11師団と第14師団の増派が決定された。

2月24日には二個師団を中心とする上海派遣軍が編成され、司令官に白川義則大将が就任し、総攻撃が近づきつつあった。

さて、米国が日本に対し倫理的制裁をかける中、英国は米国との協調に応じなかった。

日本は領土的野心を有しておらず、門戸開放も維持する意思は明確である。

英国としては九カ国条約を引用して措置を講ずる理由はないと、日本を弁護してみせた。

英国は、あくまで現実に根ざした解決を目指していた。

ジョン・サイモン英外相は、日本の増派に理解を示しつつ、連盟加盟国、特に中小国の対日強硬な意見が危険な状態にあると指摘する。

このまま臨時総会に突入すれば、中小国が第16条による経済制裁を提議し、受諾されるような事態に発展しかねない。

制裁となれば、日本は国家の威信に関わる重大な結果を来するだろう。

そこで、総攻撃の態勢が整ったならば、武力行使に至らず、連盟の斡旋に任せてほしいと要請した。

そうなれば、サイモンは総会において中小国を抑えれる自信を覗かせた。

2月25日、サイモンの提案に対し芳沢外相は、上海事変を利用して政治的野心を遂げる意図はないと回答。

また、日本の基本方針は上海の秩序回復であり、中国軍の撤退要求もこの趣旨であり、全ては中国側の態度次第であること。

列国の認識不足を正すために、上海の列国代表者を加えた円卓会議開催の必要性を説いてみせた。

この回答にサイモンはひとまず安心したが、肝心の列国への斡旋依頼に関して、芳沢は何ら言及しなかった。

黙過

2月26日、ジュネーヴから芳沢に電報が届いた。

それはジュネーヴ軍縮会議代表及び杉村陽太郎ら連盟外交官達が、総会前に日本がとるべき態度を協議した内容であった。

総会付議の核心は敵対行為の停止であり、日本がこれを拒否すれば「世界の公敵として取り返しつかざる難局に陥るの憂い」がある。

日本は列国が妥当と認める範囲で事態の解決を図り、上海租界の平和回復の方針を立てるべきである。

よって、直ちに敵対行為を中止した上で、派遣部隊の引き揚げに異存がない旨を総会で言明すれば、日本の立場は好転出来るだろう。

更に、紛争当事国と利害関係国からなる円卓会議の開催を日本から提案し、総会前に了解を得れれば、最も好都合であるとした。

これは先のサイモン案に合致する意見であり、当時の日本がとりうる最も公正な態度であろう。

この意見具申に対し芳沢は、総攻撃の中止や撤退等、統帥権に関する事項に関しては、何ら回答しなかった。

それまでの経験から陸軍との交渉は困難になると認知しており、最初から軍部との折衝を回避していたのだ。

円卓会議についても、開催には賛成としつつ、その会議の目的が停戦なのか、上海の秩序維持なのか、極力触れない事とした。

また、来るべき臨時総会における審議について、芳沢は連盟代表部に「黙過」を指示した。

15条が適用された以上、15条1項により紛争当事国は事務総長に対し、紛争の存在を通告する義務がある。

ただし、日本は15条適用に対する異議を留保している。

つまり臨時総会の開催自体が法的に疑義があると解釈出来る。

連盟規約第15条2項は、紛争当事国に対する陳情書提出の義務が規定される。

「此の目的の為、紛争当事国は、成るべく速に当該事件に関する陳述書を一切の関係事実及書類と共に事務総長に提出すべく、連盟理事会は、直に其の公表を命ずることを得」

日本政府は開催の根拠が薄弱な総会に対し、15条2項に基づく陳情書を提出する筋合いはない。

もし総会で満州事変が取り上げられたとしても、前年12月10日の理事会決議でひと段落ついてるとの見解で押し通すよう指示した。

芳沢の「黙過」方針は、連盟の対日空気の悪化を無視した、独善的な解釈から為るものであった。

しかし、実際に臨時総会開催が決定した以上、日本が開催に異議を唱える資格は無かった。

ケント会談

臨時総会開会が迫る中、上海現地では停戦交渉の努力が続けられていた。

2月27日、停戦の調停に奔走していたケリー英提督の誘いにより、野村司令長官が英戦艦ケントを訪問した。

そこでケリーは、中国側から撤退条件について打診があった旨を伝えた。

中国側の抵抗も限界に達しており、和平の機運は高まっていた。

野村は即答を避けたが、ケリーは翌日、中国の私的代表と昼食を共にするので、日本側も外交官に来て欲しいと申し入れた。

そこで、犬養・芳沢の依頼で現地に特派されていた松岡洋右が参加することになった。

2月28日、野村は松岡とともにケントを再訪し、ケリー列席の下、中国代表と会見した。

この中で中国側は撤退は相互同時に行い、中国軍は上海から20km地点付近に撤退すること。

撤退の順序や実行、撤退地域の治安維持に関しては中立的な第三国からなる委員会を立てることを提案。

両国政府の賛同が得られれば、この会談結果を基礎として公式に停戦会議を開くことを申し合わせた。

ケント会談はあくまで非公式で私的であったが、私的にしては随分踏み込んだ内容まで話し合われ、停戦交渉の原点となった。

2月29日、英国は前日のケント会談を基に理事会の開催を要求した。

近日の上海派遣軍の上陸、総攻撃が予想される中、ケント会談により撤退に関する基本的な大枠が決まったことは、連盟にとって福音であった。

ボンクール議長は、上海の関係各国が一致して援助を与え、停戦に関する協定を直ちに結ぶこと。

その後、日中双方及び列国代表によって円卓会議を組織し、租界居留民の安全保障を取り決め、他の事件については解決を協議することを提案した。

日本代表部はこの議長提案を受諾可能と判断し、時間的余裕がないことから、本国に請訓することなく即日受諾した。

臨時総会

3月1日、白川司令官率いる上海派遣軍が上海に上陸し、総攻撃が開始された。

前日2月29日の理事会決議は反故にされ、理事会をペテンにかけた形となった連盟代表部の形勢は極端に悪化した。

佐藤は芳沢に対し、ケント会談の線で速やかに協議をまとめ、一刻も早く停戦協定と円卓会議開催に達するように申し入れた。

そうしなければ2月29日の理事会決議は全く無意味になり、日本は立場を失いかねない。

その情勢で臨時総会を迎えれば、無条件停戦の勧告だけでなく、満州事変にまで言及される恐れがあると意見した。

しかし芳沢は連盟に対し強硬な姿勢を崩さず、連盟の空気は省みられなかった。

3月3日、非常に険悪な雰囲気の中、連盟史上2度目、ドイツの連盟加盟審査以来7年ぶりの臨時総会が始まった。

総会議長はベルギーのポール・イーマンス外相が務めた。

劈頭、イーマンスは臨時総会開催の必要性について、第11条に基づく理事会の調停に限界があると感じられた。

第11条の趣旨は、戦争発生前の予防と発生後の調停にあり、紛争両当事国と理事国全員の支持がなければ、連盟は何ら行動が取れない。

だが、第15条によれば連盟の裁量権が広がり、主体的に行動出来るようになる。

つまり、日中紛争に対する連盟の役割は、調停ではなく勧告に推移したとのである。

一方、現地上海では戦況は劇的に好転していた。

日本軍の上陸を見た第十九路軍は一斉に退却を開始し、中国軍は総崩れとなったのだ。

3月3日、白川司令官は作戦目標を達成したと確認した上で、戦闘中止命令を声明した。

白川の停戦命令はジュネーヴにも届き、にわかに空気が緩和されたかのように思われた。

3月4日、総会は日中双方に対し、停戦を確実にするために、他国の援助の下に交渉を開始することを勧告した。

日中双方はこの勧告を受諾し、上海において米英仏代表が斡旋する停戦交渉が開かれた。

しかし、戦闘中止後も日本軍の増援が続々と上海に上陸していることが判明し、小国を中心に対日強硬意見が目立つようになる。

戦闘中止の段階で当然撤兵が議論されるべきであるのに、なお上陸を続けるとは、他国から見れば無神経でしかなかった。

小国は直接日本を非難するまでは至らずとも、日本に対し宥和的な態度をとってきた英仏の立場を揺るがした。

一国一票の原則を持つ連盟総会においては、大国の論理は通用しなくなり、多数を占める小国の意見が俄然力を発揮した。

サイモンの助け舟

3月7日、サイモン英外相は小国の意見を抑える為に、以下のように提案した。

「総会としては未だ紛争の本質に関し、正邪の判断を与うべき時機に達し居らず、右については12月理事会決議に基づく調査委員の報告を審議するの要ある」

と、前置きしつつ、総会の役割について、まず第一に15条3項に依り当事国間の調停を図るにあると述べる。

「連盟理事会は、紛争の解決に力むべく、其の努力効を奏したる時は、其の適当と認むる所に依り、当該紛争に関する事実及説明並其の解決条件を記載せる調書を公表すべし」

そこで連盟総会の取るべき態度について

「各国は如何なる場合にも規約第12条の規定せる平和的手段のみに依り紛争の解決を図るべき次第を、規約或いは不戦条約を引用して声明すべきなり。

また、場合に依りては右声明中、規約第10条に言及するも可なり」

と述べ、連盟総会として当然受諾すべき一般原則を、第10条、第12条、第15条3項、及び不戦条約である事を連盟各国が再確認した。

そして、以降の総会はこの原則の下で進むことを希望した。

この提案は、満州問題を調査委員の報告を待って審議するという妥協と引き換えに、総会にスティムソン・ドクトリンを採用するというものである。

ボンクール議長、独仏伊ら列国もサイモンの提案に賛意を示した。

スティムソン・ドクトリンの採用

3月9日、停戦協定案に関する起草委員会が組織された。

英国は中国に配慮しつつ、小国の過激な意見を抑え、日本が受諾可能な協定案を見出すべく、調整に奔走した。

協定案はまず、連盟規約、特に第10条の尊重を大原則とした。

つまり、兵力の威圧による紛争解決を連盟規約の精神に反するものとし、武力によって得られた既成事実を否認した。

ただし、日本の駐兵目的は居留民保護であるとし、それが兵力による紛争解決を図るものではないと擁護した。

また、日本の反発を招きかねない撤兵期限については、何ら盛り込まれなかった。

英国は自らが批判の矢面に立つ危険を犯しながら、老練な調整力を以て、折衷案を作り上げた。

起草委員会は英国案を採用し、3月11日に総会で決議に入った。

総会は連盟規約の原則を挙げ、連盟加盟国が領土保全、政治的独立を尊重し、外部の侵略に対してはこれを擁護すること。

連盟加盟国間で発生した一切の紛争を平和的に解決する義務を確認した。

次に総会は、日中紛争の解決が紛争当事国の一方的な武力圧迫の脅威の下に求められるのは、連盟規約の精神に反すると非難。

連盟加盟国は連盟規約及び不戦条約に反する手段で獲得された一切の事態、条約、協定を承認しない義務があると宣言した。

最後に連盟のとるべき措置として、総会議長、12国の理事国及び総会から選出された6国からなる十九人委員会の組織を挙げた。

この組織の任務を、停戦と撤兵状況の報告、前年9月30日及び12月10日理事会決議の実行の監視。

そして、連盟規約15条3項の和協手続きと第15条4項の勧告手続きに関する作業を行うこと付与した。

連盟代表部は芳沢に対し、この決議は英国を始めとする列国の斡旋によりまとまったものなので、反対せずに受諾するよう強く要請した。

ところが芳沢は、なおも第15条適用に関する留保を述べて承認せず、棄権するように指示した。

芳沢は決議案を、あたかも日本が非妥協的であるかのような印象を与えていると批判している。

棄権という選択は、日本の非を認める決議案を受諾する為に軍部や世論を調整する努力を、芳沢が放棄したことを意味する。

日本はこの訓令に基づき、15条適用に関しては留保前提で総会に参加していると説明して、棄権した。

こうして賛成45、棄権2(日中両国)で、規則により棄権は欠席扱いとなり、全会一致採択となった。

総会は満州問題に関しては調査団の報告書を待つ事とし、満州関連の決議は何ら成立しなかった。

ただ、問題解決の余地と時間を確保したというよりは、破局までのタイムリミットが引き伸ばされたと言うべきか。

何故なら、総会決議により、連盟がスティムソン・ドクトリンを国際的な原則として全面的に受容したからである。

それは、日本が満州事変以降積み重ねた既成事実の大半が、その正当性を失った事を意味する。

連盟は不承認の姿勢を以って日本と対峙する覚悟を固めた。

スティムソンは連盟総会の採択を喜び、以下のように書き記している。

「不承認ドクトリンが国際法への大きなステップを踏んだ」

満州国建国

32年1月4日、本庄繁関東軍司令官は満蒙新国家の具体案を持って上京した。

新国家の首都を長春とし、その領域は奉天省、吉林省、黒竜江省に内蒙古、更に熱河省を加えた。

また、連盟の調査団到着前に既成事実を作る為に、建国時期を2月下旬とした。

2月5日には北満州の要衝、黒竜江省都ハルビンが陥落し、北満州で関東軍に抵抗していた馬占山が恭順の姿勢を見せた。

関東軍は全満州を掌握し、満州各地の独立運動は急拡大する。

この時には世界の目は既に上海に向いており、ソ連も厳正中立を維持していた為、大きな問題にならなかった。

関東軍は東三省省長や馬占山を奉天に集め、新政権に関する協議を行い、張恵景を委員長とする東北行政委員会が組織された。

2月18日、東北行政委員会は国民政府から離脱し、満州を完全に独立させると宣言した。

この間にも、満蒙新国家の政体や五色旗の国旗が制定され、溥儀と委員会の関係も調整された。

そして、3月1日、ついに満州国の建国宣言が行われた。

3月9日には溥儀が執政に就任し、政府要職を任命し、法制・官制が交付され、新国家の形態を整えた。

満州国は新国家建設の理由を民族自立に求めた。

曰く、張学良が自己の利益のみを求めた為、官界は腐敗し、国民は困窮した。

中国政府も軍閥が割拠し、統一政府がなく、排外政策により国交も破壊され、国民が平和な日を見たことがない。

以上惨状を踏まえ、旧軍閥が一掃された機に、満州人民は国家を建設するに至った。

つまり、満州人民の自主的な発意に基づくものであり、日本は満州国建国に関与していない事を指す。

関東軍はこれにより、連盟規約や九カ国条約との抵触を避けようとした。

だが、この大義名分を信じる国は無かった。

3月10日、溥儀は本庄司令官に秘密書簡を宛て、日本と満州国の関係を律する根本方針が列挙された。

・満洲国は今後の国防治安維持は日本に委託し、所要経費は満洲国が負担する

・満州国は日本軍が国防上必要とする限り、鉄道や港湾、水路、航空路などの管理新設について、日本または日本の指定する機関に委託する

・満洲国は日本軍が必要と認める各種施設に関し、極力これを援助する

・日本人の名望ある人物を参議に任命し、中央地方官署に日本人を任命する

・参議の選任は日本の推薦により、解職は日本の同意を要件とする

これが満州国の実態であり、満州事変の帰結であった。

3月12日、満州国は諸外国に通告を発し、条約上の義務の継承や門戸開放主義の遵守を確認した。

しかし、殆どの国はこれを無視し、満州国を承認する国は現れなかった。

満州国が日本の傀儡国家であり、九カ国条約に違反して作られた事は誰の目から見ても明白であったからだ。

英国議会では、米国と協調して圧力をかけなかったのは遺憾であるとの声が上がった。

対日宥和が、日本に英国は門戸開放以外は関心がないと誤った認識を植え付け、その結果、軍事的行動を助長させたと批判された。

仏国ではマンチュリア(満州)をもじって、満州国をマヌカンチュリア(マネキンの王国)と揶揄したそうだが、これが世界の一般的な認識であった。

満州国非承認

満州国は誕生したが、肝心の日本は直ちに承認を与えなかった。

犬養首相は満州国を九カ国条約違反と認識しており、芳沢も国際関係上、独立は延期されるべきと考えた。

ただし、正面から満州国の独立を阻止するわけにはいかず、不明瞭なまま外陸海の間で政策が調整された。

3月12日、犬養内閣は満蒙問題処理方針要綱と満蒙新国家成立に伴う対外関係処理要綱を決定した。

先ず根本方針として

「満蒙については帝国の支援の下に該地を政治、経済、国防、交通、通信等諸般の関係において帝国存立の重要要素たるの性質を顕現するものたらしむことを期す」

とし、当面の満蒙の治安維持については日本が担い、将来的には日本の指導の下、満州国の警察軍隊にあたらしめるとした。

また、政府は満蒙を日本の対ソ国防上と第一線に位置づけ、この目的の為に満蒙に日本軍を駐留させるとした。

そして、満蒙の諸懸案解決に関しては

「満蒙における我権益の回復拡充は新国家を相手としてこれを行う」

と述べ、交渉相手をあくまで満州国とした。

ただし、政府は新国家に対して国際法上の承認を与えなかった。

「満蒙は支那本部政権より分離独立せる一政権の統治支配地域となれる現状に鑑み、逐次一国家たるの実質を愚有する様これを誘導す」

つまり、満州国には適法な手段によって可能な限り援助を与え、独立国家の実質的要件を備えさせる。

満州国の承認は、国際的に承認を得る機運が高まった後に行うとした。

その間、日本は満州国と非公式に関係を結び、日本の満蒙権益を拡充し、既成事実の形成に努め、満州国の実権を事実上掌握する。

これらの施策を実行するにあたり

「努めて国際法乃至国際条約抵触を避け、就中満蒙政権問題に関する施措は九カ国条約等の関係上出来得る限り新国家側の自主的発意に基づくが如き形式に依るを可とす」

などと、国際関係に配慮する姿勢を見せた。

政府は国際的非難を緩和するために、満州国の即時承認を何とか押しとどめた。

閣議の席上、森は満州問題について強硬論を吐いたが、犬養は「支那の事なら俺が知っている」と一喝して抑えたという。

満州国非承認の決定は、政府が如何に国内の調整に苦心していたかを物語る。

元老西園寺公望は犬養内閣を「長くは持たない」と洩らしたが、満州事変の中で政党内閣は政治的に相当弱体化していた。

なお、満州国の日本人の採用に関しては、満州国が日本の傀儡国家であるとの外観を呈さないよう、少数にとどめるとした。

しかし、4月11日の閣議決定で、政治、財政経済の指導的地位に日本人を入れる方針が決定し、傀儡国家の外観は隠せなくなった。

十九人委員会

十九人委員会はイーマンス総会議長、日中を除く12理事国代表と、総会選出の6国代表からなる。

なお12理事国は、常任理事国の英仏独伊と、非常任理事国のスペイン、グアテマラ、アイルランド、ノルウェー、パナマ、ペルー、ポーランド、ユーゴスラヴィアである。

総会は委員としてスウェーデン、チェコ、コロンビア、ポルトガル、ハンガリー、スイスを選出した。

この面々こそ、日本にとって最も恐るべき事態が訪れた事を意味する。

日本は上海事変の停戦交渉の中で、長期的な上海の安寧秩序確保を求めた。

それは排日の根絶によって成し遂げられるとし、これが容易でないことから、秩序確保の見通しがつくまで撤退は出来ないと考えた。

一方で、中国がこの要求を容れれば、上海における中国人の不法行為を放置したことを認めたことになる。

中国は満州事変を侵略であると主張し、上海における排日ボイコットを自衛措置であると主張している。

これが、上海事変を満州事変の延長線に位置付け、上海事変と満州事変をリンクさせる論拠となっていた。

中国に権益を有する列国、特に英国は中国の排日を身を以て経験してきただけあって、日本に同情を寄せていた。

しかし連盟加盟国の大半を占める中小国は、いずれも中国に同情的であった。

中小国が連盟に期待したのは、戦争防止の機能であり、連盟規約を極めて重視した。

今回の紛争は中小国にとって、大国である日本が中小国である中国に一方的に武力を行使した事件に過ぎない。

また、殆どの中小国は中国情勢に通じておらず、日本の主張する排日の実態や、国民政府の統治能力が鑑みられる事は無かった。

それよりも重要なのは、日本の侵略を断じ、中国を軍事的抑圧から解放することで、連盟の安全保障を成功に導く事であった。

3月17日、十九人委員会が開催され、満州問題について調査団の報告を速やかに入手することを求めた。

この決定により、日本は第15条留保を撤回せざるを得なくなった。

十九人委員会は、前年9月30日及び12月10日理事会決議の実行の監視を任務とする。

この両決議は日本が受諾したものであり、第15条留保で反故にすることは誓約違反にあたる。

十九人委員会が報告書を基に満州問題を審議する可能性は高く、ここに満州事変と上海事変はリンクされた。

原則論を振りかざす中小国が決定権を有する十九人委員会の設立は、日本をかつてないほど追い詰めた。

委員会当日の様子を佐藤は、日本は中国とともに末席に据えられ、まるで被告人のようであったと伝える。

小国が加わる委員会の査問を受けるに至っては、もはや常任理事国としての権威は失われと嘆いた。

総会引き揚げ論

3月28日、芳沢は連盟代表部に対し、以下のような対連盟方針を示す。

まず総会については極東に利害を有さず、中国の事情にも詳しくない「多数代表者の純理一点張りの主張甚だ優勢」と認識した。

彼らが極東情勢の認識を欠いたまま、総会において満州問題に関して立ち入った審議が行われれば、事態は不必要に紛糾しかねない。

「第三者が現実を離れたる措置を以て我国を強要せむとするが如き場合には、如何なる犠牲を払うとも断固としてこれを排除せむとすること実に我国民的信念にして、右信念は如何なる政府といえどもこれを左右し得ざる所なり」

そこで、もし総会において前年9月20日及び12月10日理事会決議以上に、日本の行動を束縛するような決議が為された場合には

「最早投票不参加の如き妥協的態度に止まることを得ず、我代表を総会より引き揚げしめ、事後我方の連盟の態度を静観しつつ、自ら正しと信ずる所に向かって進むの余儀なきに至るべし」

と述べて、連盟の圧力に対決姿勢を露わにした。

ただし、日本政府は連盟を威嚇する考えはなく、最悪の事態を避けるための誠意があると弁明し、連盟に深甚なる配慮を求めた。

このような日本の意識は、連盟や英米仏ら列国の認識とは大きくかけ離れている。

総会引き揚げを示唆した訓令は、列国や日本に友好的な中小国に発信されたが、間もなく各国に周知されることになる。

連盟脱退論

芳沢の対連盟方針は在外公館の外交官たちを刺激した。

4月8日、長岡春一駐仏大使は総会における日本の立場は極めて困難になると予想した。

そこで、単なる代表引き揚げでは中途半端な態度であるので、形勢如何によりては連盟脱退の宣言すべきだと進言した。

日本は連盟において常任理事国という立場を得ているのに、何故連盟を進んで脱退すべきなのか。

上海事変が落ち着いてたとしても、中国は今後機会あるごとに満州問題を連盟に持ち出し、中小国はこれに同調するだろう。

それが繰り返されれば、日本は抜き差しならぬ状況に追い込まれる。

この困難から脱する手段こそ、連盟脱退である。

仮に日本が連盟を脱退した場合、満州問題は直接利害関係を持たない多数中小国を含む連盟を離れ

「穏健なる意向を有する右大国側は右過激分子の掣肘を免れ、同問題につき自由の立場に置かるべき様存ぜらる」

ここに満州問題は主要国のみを相手に議論することが出来るのだ。

こうして、連盟の対応を不満とする外交部から引揚論、脱退論が出てきた。

なお、何かと強行論者に列せられる吉田駐伊大使は、連盟脱退論については以下のように戒める立場であった。

「国際相依の世界大勢の下に即ち貿易立国の我国として、連盟脱退の如き軽々しく断行すべきに非ず。

たとい連盟脱退の断行の場合ありとするも、総ての手段尽きての後のことたるべき」

杉村陽太郎の見解

上海事変を巡って、何故日本はここまで窮地に立たされたのか。

連盟外交官の杉村陽太郎は、以下の見解を披露する。

「各国は満州問題に関する限りでは、古くから錯綜した日支関係、大正四年の日支条約、ワシントン会議などの複雑な行きがかりから見て、日本の行動に対して相当な理解を持っていた」

しかし上海に事変が及ぶや、連盟規約、不戦条約、九ヵ国条約、いずれから論じても違法であると指弾された。

「欧米人の理解するところから言えば、満州に対しては日本は特殊地位を有する。

しかしながら、上海においては、日本の満州におけるが如き地位を有するのは英国である。

日本は英国のみならず仏国に比較しても必ずしも大に優越的な地歩を占めておらぬというのである」

このように考えれば、北満州から目を逸らすだけの目的で、上海で謀略を行なった板垣、田中の不見識が際立つ。

彼らも、まさかここまで日本が外交的に苦境に陥るとは想像もつかなかったろう。

犬養内閣の終焉

5月5日、上海事変は停戦協定が結ばれ、上海事変は終結した。

この妥結には、兵力の北満州転用を急ぐ陸軍の意向が強く働いたように、陸軍の影響力は増していた。

萱野密使外交によって国民政府との交渉に望みを見出した犬養外交は、上海事変によって大打撃を受けた。

上海で日本が武力を行使し、これに中国が徹底抗戦の構えを見せ、中国は正当防衛の名分を得た。

中国は、領土保全・政治的独立が脅かされたとの正当性から、第11条に併せ、日本を第10条、第15条で提訴することに成功した。

上海事変が満州から侵略の火の手が広がったとの解釈が容れられ、上海事変と満州事変がリンクする事態となった。

日本は中国の提訴に対し、排日運動の実態や、条約不履行の不誠実さを挙げたが、連盟はそれを検証することなく、日本は徹底的に糾弾された。

ついに連盟はスティムソン・ドクトリンを受容して、日本の武力行使を連盟規約、不戦条約、九カ国条約違反であると結論づけた。

これに対し日本は自省することなく、規約解釈や条約適用伸縮性などの法的な屁理屈を振りかざした。

上海事変の対応を改めるとは、統帥事項に踏み込んで停戦や撤兵を進めることである。

日本の外交には、その後ろ盾となる犬養内閣には、軍部と調整するだけの政治力は残されていなかった。

犬養は天皇や上原勇作元帥を動かして軍部を直接統制するつもりであったが、政界の外に頼らざるを得ないほど政党内閣は後退していた。

上海事変を巡る連盟外交において、日本は常任理事国としての責務を何ら果たせず、大国としての威信は失墜した。

満州権益に固執した為に、国際社会が受け容れられるような代案は何ら用意出来ず、外交と呼べない代物が展開された。

ただ、この内閣の外交功績としては唯一であるが、満州国の即時承認だけは阻止し、国際関係の破局は免れた。

犬養や連盟代表部は必死の努力を試みたが、外交は後退し続け、間もなく抜き差しならない事態が訪れる。

だが結果は残せなかったとはいえ、危険を顧みず、全力で時局にあたる政治家が如何に稀有であったかを、日本は知ることになる。

そして32年5月15日を迎え、内閣の命運は突如として絶たれた。

参考書籍

第一次上海事変の研究 影山好一郎

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第一次上海事変を軍事、政治、外交の多方面から解き明かした決定版的著書。

犬養毅:リベラリズムとナショナリズムの相剋 時任英人
犬養毅 その魅力と実像 時任英人
近代日本政治の諸相―時代による展開と考察 中村勝範 編 養毅内閣期の満洲事変和平工作と日中関係 : 萱野長知関係史料を中心に 北野剛

man

犬養毅の対中観念と萱野密使外交について。

近代日本のアジア観 岡本幸治編

man

外務省の対中不信について。

中国国民政府の対日政策―1931‐1933 鹿錫俊
満洲事変前後における国民党広東派の対日政策:陳友仁を中心に 尤一唯

man

孫科政権と蒋・汪政権の対日政策について。

ヘンリー・スティムソンと「アメリカの世紀」 中沢志保
スティムソンの満州事変観の検討 柴田徳文

man

スティムソン・ドクトリンを始めとする対日姿勢に詳しい。

満州事変 戦争と外交と 臼井勝美
満洲国と国際連盟 臼井勝美
満州事変――政策の形成過程 緒方貞子
満州事変から日中戦争へ 加藤陽子

man

満州事変について基礎的な一冊。

評伝 森恪 日中対立の焦点 小山俊樹
<論説>森恪の中国政策構想 : 満州事変前後を中心に 小林昭平

man

森恪の本格評伝。